崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

フォンが人間の脳

2013年02月05日 13時51分49秒 | エッセイ

昨日本欄で書いた文に多くの方々からコメントがあり、張竜傑氏からは、電話番号などの変更の問い合わせの電話もあった。最先端のスマートフォンを手にしても使いこなすのが問題であり、指が誤って触れて他の方へ電話をかけたり失礼なことがあり、電話さえ難しい状況になリ、焦ってしまった。強く勧めてくれた人は同僚の人類学者鵜澤氏である。彼に緊急応援のSOSを送った。そして一日掛かりの本格的な使用方法の説明が行われた。それは講義そのものであった。機能システムのOS(operation system)のアンドロイドというバージョンを基礎に作られたサンスンへ、さらにトコモへという大体の流れからコンピューターとフォンとの共有作業、指の使い方まで細かく、実にとてもよい講義、一人で聞くにはとてももったいない授業のようであった。
 説明を聞いた感想を書いてみる。まずこのサムスンGalaxy note IIの購入は意外に大きいことであった。最先端の最高の商品であるということだけの意味ではない。私の機械に対する認識を変えるような契機であったからである。普段私は「人間を大切に、機械は酷使しても良い」というような態度であった。それは機械の機能を十分発揮させるという考え方である。たとえば複雑、繊細な機能が収納されている高級カメラを見せかけのように持って歩き、ただシャッターをおすだけのようなことは浪費だと思っているからである。人は良い脳を持っていながら機能をあまり発揮させずいつも朦朧と生きることに対する戒めの私なりの哲学や人生観がある。
 しかし昨日鵜澤氏が機械を丁寧に扱うことに感心した。彼は人のように丁寧に扱った。人間の脳を掌中に持っているように感じた。フォンは知識システムが導入されているという点では脳に似ている。その能力、脳力のキャパシティはフォンと脳が異なる。人はフォンをこなせないか、必要としないものがある。私の無関心と無能力に合わせてフォンから多くの機能を削除しなければならない。メールやギャラリーの写真、動画、ノートなどのアイテムを中心に画面整理や削除作業をしてくれて便利に使えるようなった。これからこの忍者のようなものをどう使いこなせるか、挑戦は楽しい。電子ゲームで育った若い世代に私のような高齢者がこのような先端機械とは縁のないような人が多いが、新しいゲームとしてスマ―フォンに挑戦してみるのはいかがであろうか。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿