崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「亀山能」鑑賞

2013年10月27日 03時41分17秒 | エッセイ

昨日は亀山八幡宮の会館で「亀山能」を鑑賞した。開演の1時間前から150人ほど満席、それも関係者席として3割ほど指定されており、畳式席にて座布団上に座って3時間半大変な苦痛を我慢しながら全過程を見た。以前にも神楽などで数回見たことがあったが今度はもっと本質に迫り、朝鮮半島のシャーマン儀礼や仮面劇と比較し考えながら終始焦点をずらすことはなかった。演目は能「翁」、狂言「盆山」、能楽「清経」であった。中島氏の解説によると元来邪気を払い五穀豊穣を祈る神事であり、芸能ではないことがポイントであると思った。この下関の物は「翁」から能と狂言が合流して能楽か猿楽のように発展しているという。仮面戯は宮中儺礼戯として中国から広がったとも思われている。
 まず今度の「能」は神事として厳粛さに注目した。韓国の仮面劇も元々宮中の神事儀式としてあったものが民間に定着している。お面には祟りがあると言われても演目は芸能化してハンセン氏病患者、妾と本妻の三角関係、両班をからかうなど民間娯楽化している。私の生まれ故郷の楊州山台ノリは両班(官吏)をからかうものである。「能」は舞台で行われても娯楽や芸能性を最小限にしている。韓国の仮面劇は神社や常設の舞台を待たず野外で公演される。今は伝授会館で公演されることも多い。能はお面を被っても、韓国の仮面劇とは異なり、シャーマンの儀礼に似ている。扇と鈴を持って舞うことは朝鮮半島とそっくり。これに関しては20世紀初めころから鳥居龍蔵などが注目して比較し書いた素晴らしい論文がある。昨日の能舞台では背景絵と神木として「青松」が飾れ、置かれていた。韓国のシャーマン儀礼では松の枝は神の寄り代の降神木となり、鳥居が朝鮮の巫儀(写真下)を見て感動をしたのとは逆に私は日本の能(写真上)を見て感動した。能と巫儀には歌舞のテンポや発声などが異なる。しかしそれは変異化されたものと思われる。私は母が信じた巫俗信仰を信仰として見て育ったものとして日韓は、否、世界的にも通じあうと感じた。今日は「しものせき映画祭」の最後の日、映像で、トークショウでの劇性を見て感じる一日となるだろう


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