先日日本と他の国とのスポーツゲームを観戦した。私は別にどの国を応援するという見方はしない。ゲームの流れによって応援の心が変わっている。日本と南アフリカのサッカー試合を見ていて、私の応援心は揺れるようになった。否、応援ではなくゲームの面白さに注目していた。作戦、パス、ゴールイン、チャンスメークなど選手たちの巧みな動き自体が面白く、それはチームとは関係なく、注視し応援したくなった。味方をして応援しなくても観戦の面白さがあることを知った。
留学生が多いクラスでその話をしてみた。韓国や中国、あるいは日本という自国を応援することは片方の面白さ、相手のチームは想定敵としてその選手の動きには面白さを感じないのではないか。両方を面白く見ることは可能であろうか。たとえばレフリーのように両側を客観的に見るとしたら面白くないかもしれない。どうすれば両側の面白さを平等な立場で観戦ができるか。学生たちは自分の国を応援するという。ある韓国の学生は日韓のスポーツゲームは「代理戦争だ」と言った。多くの人はオリンピックにもそう思うのであろうか。
留学生が多いクラスでその話をしてみた。韓国や中国、あるいは日本という自国を応援することは片方の面白さ、相手のチームは想定敵としてその選手の動きには面白さを感じないのではないか。両方を面白く見ることは可能であろうか。たとえばレフリーのように両側を客観的に見るとしたら面白くないかもしれない。どうすれば両側の面白さを平等な立場で観戦ができるか。学生たちは自分の国を応援するという。ある韓国の学生は日韓のスポーツゲームは「代理戦争だ」と言った。多くの人はオリンピックにもそう思うのであろうか。
伝統的なスポーツの大半には軍事的側面があるでしょう。
それはともかく、旭日旗問題の発端などに見られるように
日韓のスポーツ戦は後味の悪い例が多い気がします。
そこには戦争に関する文化差みたいなものがあるのではないかと。
内乱が多く武官が政治を行っていた場所では、勝者と敗者の間の
遺恨を薄めるべく私情を抑えるような価値観があると思いますし、
敗者側の武勇を讃えるという価値観もあったでしょう。
言葉の通じない外敵との戦いが多く文官が政治を行ってた場所では、
私情を抑える意味も薄く身分の低い兵卒を讃えることもなさそうです。
そういう土地だと遺恨を強く刻もうとする価値観がありそうです。
そういう差がスポーツへの感情移入にも影響ありそうな気がします。