崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

ボンヘッファーと安重根

2010年07月07日 05時34分12秒 | エッセイ
 1998年韓国映画の「安重根」を観ると「ボンヘッファーと安重根」というサブタイトルが出ており、安の伊藤博文の暗殺をキリスト教で正当化しようとするようで気になる。安はその暗殺の前に敵の人を多く殺したりして、まるで暴力映画のようであり、彼がカソリックで洗礼を受ける。彼が自分自身の殺人行動を軍人としての戦争中の行為に過ぎないと語る。社会の不正義を正すためにキリスト教の信仰によって行ったことのように神に感謝する。
 安の殺人を「戦争行為」と「殉教」として正当化している。後者についてはヒットラーのナチ体制に正面から反抗してヒトラー暗殺計画に加担し、逮捕された後処刑されたボンヘッファーに喩える。ボンヘッファーは説教を通して教会の社会的責任を強く主張した。それは宗教の世俗化という批判を受けながら弾圧される人々に夢を与え、結局は宗教は人の心に影響するものであろうというところで受けいれられてきた。韓国では長い軍事政権の下で多くの神父、牧師などの民主化運動は大きく評価されている。それとは反対に聖霊主義は社会運動には無関心であった。
 安重根の暗殺をキリスト教で正当化するかのように感じられる韓国のものと北朝鮮作の「安重根伊藤博文を撃つ」とは対照的である。今週の土曜日の「下関学」で披露して意見を聞きたい。