最近色々な論文や著書をいただいた。それらが送られてきた心を知っている。私も寄贈することがあるからである。寄贈者名簿を作る時の一番基準は本を読む人か否か、活用されるか否か、特にこの本を読んでくれるかを考える。人の読書力さえ判断するような失礼な時間にもなりうる。近いところの人々にエッセイ集を寄贈したが反応をみて、読んでくれたかをチェックするような心になっている。お菓子等などは食べてみて、すぐにでもに美味しかったなどの反応ができるが、本はただ見たとは言えないし、内容に触れて面白かったとか感想などを述べないと読んだとは言えないので返事がそれほど簡単ではない。
私はいただいた論著などは必ず読んでコメントするのを鉄則に(?)して守っている。しかし最近粗末になってしまうことがある。二冊に触れておく。1冊は友人の嶋陸奥彦氏の『つれづれなる日々』であり、もう1冊は山本真弓編著の『文化と政治の翻訳学』である。前者には嶋氏が1980年代韓国を訪れた時の懐かしき人々や出来事の内容であり、1990年代で当時民族学博物館の佐々木館長などとの記念写真には自分でも判別しにくい若い「私」を見つけることができた。
後者には私の広島大学時代の弟子である山田寛人君の「'東海’(とんへ)は‘日本海’か」が載っている。言語学的に固有名詞の翻訳の難しさに触れているが、実は地名ナショナリストへ正しい見識を提供したものとして斬新な論である。広島大学で私が主催した国際会でこの問題を出したことに私の常識で「インド洋という海名も変えるべきか」といって熱論を冷ましたことを覚えている。一読を勧める。
私はいただいた論著などは必ず読んでコメントするのを鉄則に(?)して守っている。しかし最近粗末になってしまうことがある。二冊に触れておく。1冊は友人の嶋陸奥彦氏の『つれづれなる日々』であり、もう1冊は山本真弓編著の『文化と政治の翻訳学』である。前者には嶋氏が1980年代韓国を訪れた時の懐かしき人々や出来事の内容であり、1990年代で当時民族学博物館の佐々木館長などとの記念写真には自分でも判別しにくい若い「私」を見つけることができた。
後者には私の広島大学時代の弟子である山田寛人君の「'東海’(とんへ)は‘日本海’か」が載っている。言語学的に固有名詞の翻訳の難しさに触れているが、実は地名ナショナリストへ正しい見識を提供したものとして斬新な論である。広島大学で私が主催した国際会でこの問題を出したことに私の常識で「インド洋という海名も変えるべきか」といって熱論を冷ましたことを覚えている。一読を勧める。