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一日一句(179)






どぶ川の鯉に餌やる葵かな





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一日一句(178)






石ころに目鼻出でたり夏の川










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芭蕉の俳句(7)


■旧暦6月22日、金曜日、

(写真)朝顔

そろりと、運動の再開。階段の上り下りから。合計300段。15分弱の運動であるが、腰痛の状態を見ながら、筋トレまで持っていく予定。ブルバキは、可換代数学、代数的整数論、非可換代数学となって、まったく理解不能になってきた。フェルマーの最終定理と関連があるらしいことは、わかるのだが、語られている言葉がまったくわからない。さて。わかろうとしないことにしたw。



尾州野水新宅
涼しさを飛騨のたくみが指図哉  杉風宛書簡(元禄七年)

■「涼しさを指図する」という措辞の新鮮さに惹かれた。「飛騨の匠」は、当時のブランド。さすがに、今では、言葉の賞味期限は切れているが、合掌造りとの関連性が想像されて楽しい。

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一日一句(177)






がうがうと野分の元気無一物











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Pascal 『Pensées』を読む(14)


■旧暦6月21日、木曜日、

(写真)立ち葵

朝、ブルバキの『数学史』を読む。数学の発展を見ると、民族や社会の知的レベルが、ある程度、見えてくる。18世紀、19世紀の、フランス、ドイツは頭抜けている。イギリスは、ニュートンくらいしか出てこない。アメリカに至っては皆無。アメリカの知的レベルは、戦争による亡命者が引きあげたのだろう。意外に、イタリアも健闘している。古代になると、ギリシャのユークリッドの「原論」が際立つが、インド、中国も、実用的な理由から、ある面、ギリシャよりも、発展していた。ユークリッドは、一人の人の名前ではなく、ブルバキのように、数学者集団だという説もある。

Facebookで、漫画家の谷口ジロー氏が話題になる。この作家は、関川夏央との共作『坊ちゃんの時代』シリーズが秀逸で、夢中で読んだ記憶があるが、基本的に、だれかと組んで仕事をする作家だと思っていた。しかし、オリジナルも描いていることを知り、俄然、興味を持った。諸星大二郎、星野之宣両先生に次いで、熱中できそうな気配のある作家である。



Notre nature est dans le mouvement, le repos entier est la mort.

われわれの本質は運動のうちにある。完全なる静止は死である。

■確かにそうなのだろうが、死も運動なのではあるまいか。死も静止していないのではあるまいか。地球とともに、宇宙とともに。









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一日一句(176)






天仰ぐホモサピエンス缶ビール





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Pascal 『Pensées』を読む(13)


■旧暦6月19日、火曜日、

(写真)ベルン

今日から、腰をかばいながらの仕事再開。夏は、夏期講習の時期になるので、結構、ハードなのである。ずいぶん、いろいろ、遅れている。村松武司論を書くと言って、諸般の事情から、まったく進んでいない。この夏から、もろもろ、巻き返しを図りたい。

先日、この局面の重要な問題は、虚偽の社会的カテゴリーの生産で、これを生産する資本のエージェントが複数協同している状況を述べた。これは、「イデオロギーの問題」と言っていい。それは、一つには、原発を推進する側のロジックに現れている。財界や政府の原発推進ロジックは、単純で、「電力が足りなくなると、企業が海外に出てゆく」という脅しとも取れるような懸念である。これについては、飯田哲也氏を始め、多くの人が電力の供給余力・潜在発電力を指摘している(たとえば、西日本の電力不足については『週刊ダイヤモンド』(7月19日号)が検証している)が、企業が海外に出てゆくと、停電の頻度や電力料金の問題で、電力コストは逆に高くなる可能性が指摘されている。

ところで、6月24日付けで、経産省・資源エネルギー庁が次のような入札公告を出している。

入札公告

この中に、pdfファイルで仕様書がダウンロードできるようになっている。これをよく見ていただきたい。

仕様書

仕様書

1.件名
平成23年度原子力安全規制情報広聴・広報事業(不正確情報対応)

2.事業目的
ツイッター、ブログなどインターネット上に掲載される原子力等に関する不正確
な情報又は不適切な情報を常時モニタリングし、それに対して速やかに正確な情報
を提供し、又は正確な情報へ導くことで、原子力発電所の事故等に対する風評被害
を防止する。

2.事業目的
ツイッター、ブログなどインターネット上に掲載される原子力等に関する不正確
な情報又は不適切な情報を常時モニタリングし、それに対して速やかに正確な情報
を提供し、又は正確な情報へ導くことで、原子力発電所の事故等に対する風評被害
を防止する。

3.事業内容
① ツイッター、ブログなどインターネット上の原子力や放射線等に関する情報を
常時モニタリングし、風評被害を招くおそれのある正確ではない情報又は不適切
な情報を調査・分析すること。モニタリングの対象とする情報媒体及びモニタリ
ングの方法については、具体的な提案をすること。
② 上記①のモニタリングの結果、風評被害を招くおそれのある正確ではない情報
又は不適切な情報及び当庁から指示する情報に対して、速やかに正確な情報を伝
えるためにQ&A集作成し、資源エネルギー庁ホームページやツイッター等に掲
載し、当庁に報告する。
③ Q&A集の作成に際して、必要に応じて、原子力関係の専門家や技術者等の専
門的知見を有する者(有識者)からアドバイス等を受けること。また、原子力関
係の専門家や有識者からアドバイス等を受ける場合には、それらの者について具
体的な提案をすること。
④ 事業開始から1ヶ月程度で30問以上、事業終了時までには100問以上のQ
&A集を作成すること。

【提案事項】
① モニタリングの対象とする情報媒体(ツイッターは必須)
② モニタリングの具体的な方法と体制
③ Q&A集を作成後、速やかに周知するための具体的な方法
④ 想定される専門家や有識者
⑤ これらを活用した新規提案

【留意事項】
・受託者は、不正確な情報又は不適切と思われる情報媒体や抽出するキーワードに
ついては、資源エネルギー庁担当者と十分に調整すること。
・Q&A集の作成にあたっては、十分な調査・分析を行い、その結果を反映するこ
と。また、Q&A集の最終的な問数については、実態に合わせて資源エネルギー
庁担当官と調整すること。
・原則として、正確な情報提供は即座に行うとともに、その結果については、翌営
業日以内に資源エネルギー庁担当者に報告すること。
・常時モニタリングするために十分な人員を確保すること。

4.事業期間

委託契約締結日から平成24年3月30日まで

5.納入物
・不正確な情報及び不適切と思われる情報並びにそれらに対する正確な情報等をと
りまとめた報告書の電子媒体(CD-R)一式

これは、一見、もっともらしい公平性を装っているが、ここで使われている「正しい情報」、「正確な情報」という言葉に注目してもらいたい。「正しさ」とは、中空に客観的に存在するものではなく、特定の集団にとっての「正しさ」である。「正確さ」とは、どの集団にとっての「正確さ」なのかによって、実質的内容を大きく変える。これまで、経産省は住民の命の安全性という視点で、「正しい情報」、「正確な情報」を提供してきたろうか。これまでの原発をめぐる政府広報(これまでの政府広報)や、3.11以降の原子力村の学者、保安院、安全員会の諸機関の機能不全と欺瞞ぶりを見ていれば、原発の推進を目的にしていることは明らかである。つまり、ウェブを監視して、原発推進へと情報誘導・情報操作・印象操作することを目的にしている。馬鹿は同じ芸を一生繰り返すのである。これは明らかなイデオロギー戦略の一環である。ある意味で、原発推進諸機関は、新種のカルト教団と言ってもいい。そのカルトの裏には、電力会社の独占を基盤にした収益構造とその恩恵を蒙る諸機関のピラミッドがある。それを独占電力会社の収益安定化が国家エネルギー戦略上有益だという盲信で糊塗している。一部で指摘されているように、核兵器開発能力の温存という政策目的も、あるいは、あるのかもしれない。政策目標がたった一つということはありえないからだ。カルトの特徴は、トップが覚めていることにあるのではない。トップも、半分、カルト信者である点にある。



Le temps guérit les douleurs et les querelles parce qu'on change. On n'est plus la même personne: ni l'offensqnt ni l'offensé ne sont plus eux-mêmes. C'est comme un peuple qu'on a irrité, et quéon reverrait après deux générations. Ce sont encore les Français, mais non les mêmes.

※reverraitはrevoir(再会する)の条件法現在だが、なぜ、revrraitではないのか。誤植か、古いフランス語か、不明。

時は、苦痛を癒し争いを終結させる。なぜなら、人は変わるからである。もはや、同じ人間ではありえない。侮辱した方も、された方も、もはや同じ人ではないのである。それは、ちょうど、かつて怒らせた国民を、二世代も経ってから、ふたたび見るのに似ている。彼らはフランス人だが、同じフランス人ではないのである。

■この断章は、個人的な問題を集団に拡大したきらいがあるように思う。個人的な侮辱や痛みは、たとえ、死別や離別のような、社会的なものであっても、集団対集団のレベルの話とは異なるように思う。苦痛や争いが、世代に引き継がれることもありえるし、それを、国家統合に利用する場合もある。また、新たな痛みや争いが起きることで、以前のそれが反復されることもある。人は、個人的には変わっても、社会集団としては、変わりにくいような気がする。それは、集団が自己保存を一つの目標として持っているからであり、そのためには、集団の統合が求められるからである。社会のリベラル度(個人の自由度)は、時間による忘却度と関連性があるのかもしれない。


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pattern poetry(図形詩)について


■旧暦6月18日、月曜日、、海の日

(写真)街角

終日、ベッドの上。だいぶ、腰痛は良くなってきたが、外出できないので、ストレスが溜まる。蝉が鳴かないなあ。金曜日に、カナカナと油蝉の鳴き声をちょっと聴いてから、しばらく沈黙して、今日は、夕方、油蝉の弱弱しい声が神社の森方向から聞こえて来た。普段の夏と比べれば、沈黙と言ってくらいの蝉の声である。汚染された木々の放射能と無関係ならいいのだが。暑いので、久しぶりにブラッドベリの『10月はたそがれの国』を読む。犬が季節の匂いや気配を運んでくる描写が好きで、とくに、「使者」を繰り返し。

堀内利美さんの図形詩『Poetry for the Eye』(コールサック社)が刷り上がった。この詩集を読んで、pattern poetry(図形詩)について考えたことを解説に書いたので、それを転載する。



眼と耳の戯れ―pattern poetryのアクチュアリティと可能性

                                

 政治哲学者のハンナ・アーレント(一九〇六‐一九七五)は、『思索日記』の中で、面白いことを述べている。「聞えたものは、すべて映像にして眼に見えるようにすることはできない。眼に見えたものは、すべて言葉にして耳に聞こえるようにすることはできない」pattern poetryを見ていると、この言葉が浮かんでくる。目のまえにあるpattern poetryを前にして、われわれは、「言葉」を失う。言葉で書かれているにも関わらず、言葉を失うのはなぜか。それはpattern poetryが、読む行為を拒絶するからである。われわれが普通、詩を読む場合、どこから読めばいいのかは、決まっている。そして、詩句の意味を追ったり、詩行のダイナミズムを追ったりしながら、作品全体のイメージを再構成する。そもそも、詩は朗読が可能である。だが、pattern poetry を朗読しようとしても、はじき返されてしまうだろう。pattern poetryと音楽には断絶がある、と一応は言うことができるだろう。

 ところで、バウハウス運動の指導者の一人、カンディンスキー(一九六六‐一九四四)は、その『抽象芸術論』の中で、「一つの言葉を繰り返していくと、しまいには、表面的な意味が消失して、言葉の純粋な響きだけが残るようになる」と述べている。この言葉は、同じ言葉を繰り返し用いるpattern poetryにあてはまるだけでなく、pattern poetry 一般の特徴も言い当てている。pattern poetryは、意味からの離脱と響きへの志向を内在的に持っているからである。これは言葉の原初性を回復するというよりは、音楽の永遠化と言えるだろう。

 先に、pattern poetryと音楽は断絶していると書いた。朗読の不可能性を書いた。では、なぜ、音楽の永遠化が起きるのだろうか。それは、pattern poetryが視覚の詩であることに起因する。朗読は、読み手のアクティブな行為である。こちらから、詩に関わっていく行為であるが、pattern poetryは視覚的な詩であることから、向うから、こちらに飛び込んでくる。ちょうど、絵を見るのと同じように。だが、絵画と異なるのは、それが文字だけで構成されていることで、言葉としての響きを伴うことである。しかも、通常の詩のように、その音楽には、始まりと終わりがない。いわば、われわれは、いきなりオーケストラが鳴っているまっただ中に投げ出され、眼をそらすまでそれは鳴りやまないのである。

 pattern poetryが興隆したのは、欧米では、アポリネール(一八八〇‐一九一八)やルイス・キャロル(一八三二‐一八九八)、ガートルド・スタイン(一八七四‐一九四六)、エズラ・パウンド(一八八五‐一九七二)、E. E. カミングス(一八九四‐一九六二)など、十九世紀から二十世紀にかけて、西欧近代社会が整ってきた時期にあたる。日本では五十年代から七十年代に北園克衛(一九〇二‐一九七八)が主宰したVOUと新国誠一(一九二五‐一九七五)が主導したASAが中心になり、ちょうど高度経済成長期にあたる。これは、pattern poetryという詩型が、社会の近代化と関連していることを示唆している。つまり、テキストとして詩が発表されるのが普通になり、pattern poetryを可能にする印刷技術が発展し、詩の読者層が現れた社会ではじめて、可能になった詩型なのである。この意味では、それまでの口誦性が中心だった詩から、テキスト中心の詩へと詩が近代化していく、その象徴的な事件だったと言っていい。

 それでは、pattern poetryは現在もアクチュアルであろうか。現代社会では、今も、近代化をめざす諸力が働く領域がある一方で、芸術や思想、ライフスタイルなどでは、近代からの脱却が加速している。こうした中で、pattern poetryはどのような位置を占めるのだろうか。pattern poetryはvisual poetryとも言われるように、視覚が中心の詩と思われがちだが、言葉の響き、音楽の永遠性といった特徴も備えている。詩が近代化したと言っても、前近代とまったく断絶することはありえない。視覚的であると同時に音楽的である点に、pattern poetryのアクチュアリティがあるように思われる。これを端的に言いかえるなら、pattern poetryの朗読可能性という側面を切り開いて行くことが可能だということである。通常、詩を朗読する場合、一人が一つの作品を朗読する。pattern poetryには、始まりも終わりもない。いきなり音楽が響いてくる。これは、複数の人間による朗読の可能性を示唆するものではないだろうか。

 pattern poetry―この詩型の可能性を考えたとき、言葉の「解体と再生」を思わないわけにはいかない。言葉の意味は、ヴィトゲンシュタイン(一八八九‐一九五一)が指摘しているように、言葉の指す対象がその意味を決めるのではなく、文脈と場面がその言葉の意味を決定する。われわれが、日常生活でなにげなく使用している「川」あるいは「river」という言葉が、pattern poetry化されたとたんに、その言葉が編み込まれていた文脈あるいは場面は解体され、響きを残したまま再編される。このとき、言葉は、新しい相貌を見せ始める。これは、言葉が日常の使用法から離脱し、詩的な領域に入ったことを意味している。pattern poetryは、視覚的要素を含めてこれを実践するので、その異化作用は強力なものとなる。それだけではない。pattern poetryが、響きや視覚の点で遊び心をふんだんに有しているように、もともと、詩的な領域は、「遊び」と近いものであることも示しているのである。

ここまで来ると、pattern poetryが、はじめに記したハンナ・アーレントのパラドックスに対する一つの詩的な応答であることがわかってくる。それは、眼に見えたものを耳に聞こえる詩にする試みであると同時に、耳に聞えたものを目に見える詩にする試みなのである。そして、その不可能性が大きいほどpattern poetryの可能性も大きくなると言えるのである。


(堀内利美著『Poetry for the Eye』解説)
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芭蕉の俳句(6)


■旧暦6月17日、日曜日、、祇園祭山鉾巡行

(写真)行列

水曜日の夜にぎっくり腰を起してから、まったく歩けなくなった。今は、整形外科に行き、痛み止めを飲んで、湿布を貼って、どうにか、杖を使えば、短い距離はいける。いやはやである。しかたないので、仕事はみな中止して、ベッドで本を読んでいる。

テレビで、詩人のWさんと小説家のNさんが、震災について話しているのをたまたま見た。Wさんは、twitterで震災直後から、「詩の礫」を連続tweetsしてfollowersは一万五千人を超えるという。Nさんはエッセイや批評で震災について触れている。文学者として自分になにができるか、考えてのことという。まるで、学校の先生のように善い人たちである。二人とも善良でまともであるが、ぼくは、かすかな違和感を感じる。それが、だんだん大きくなってくる。

それは、詩人や小説家って、こんなに善良だったのか、という素朴な疑問と関連している。こういうと語弊があるかもしれない、現に、かれらの言葉を待っている大勢の被災者の人々がいる。だが、と思う。詩人や小説家は、本来、いかがわしく、胡散臭いものではなかったのか。人々に好かれるよりも排斥されることさえ厭わない存在ではなかったのか。

詩人や小説家が善良になったのは、社会が野蛮から解放されつつある証拠なのか。ぼくには、その反対に思える。今や、だれもが、市場と無関係に生きることはできなくなった。芸術家とて商売人なのだ。市場の動向には敏感にならざるを得ない。市場に嫌われては生活はできない。被災者に何ができるか、という発想は、市場に何が売れるかという発想と形式的には同じである点に注目したい。

読者・オーディエンスは、市場を構成する。もちろん、二人に、作品を売ろうという意識はないだろう。ただ、聞いてもらいたいだけなのだろう。自分には、文学しかできることはないという意識なのだろう。だが、作品を作るときの機制に、この市場主義の影響がないとは言えないのではあるまいか。

たとえば、原発問題は、自己批判を含まなければ、語れない。そして、それは被災者を批判することにもつながる。こうした「問題作品」こそが、市場の向うに広がる歴史に届くのではなかろうか。作品が売れる(読まれる)ことが大衆の支持を得ているといった正当化は、大衆が無媒介な存在ではないことを原発問題が示したことで、崩れたと思う。電力会社、マスコミ、政界、財界、学界、経産省(保安院)、安全委員会といった、資本のエージェントの諸機関が、金をふんだんにつかい、各領域で連携活動して、原発に関する虚偽の社会的カテゴリーを生産していたのは、明らかであり、大衆は、そうしたカテゴリーに媒介されて存在してきた。こうした虚偽の社会的カテゴリーの生産は、原発に限らない。



皿鉢もほのかに闇の宵涼み  其便(こがらし)元禄七年

■宵涼みの中に皿鉢が浮かんでくる様子を「皿鉢もほのかに」だけで表現している的確さに惹かれた。夕涼みも宵涼みも、今では、エアコンの普及でほとんどなくなった。そうした無為の時間もなくなったということだろう。それは、そこにあった豊かなコミュニケーションも同時に失われたということでもある。技術は、時間を加速し、人間同士の距離を引き離す。だが、前近代を身体で知っていたとすれば、技術の違った効用にも目が行くのかもしれない。それは、人間の自由の拡大である。問題の解決が新しい問題を生み、その解決がまた新たな問題を生む。そうした連鎖の中にわれわれは生きているのだろう。



Sound and Vision












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一日一句(175)






迷ひ入る蝉の鳴かない夏野原





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