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崔龍源の詩

月曜日、。いい天気だった。昼まで眠。午後、散歩。ネットカフェで、久しぶりに「アネックスΩ」を読む。どういうわけか、有線ブロードバンドに切り替えたら、ここが読めなくなってしまった。書き込みの中に、フセインの絞首刑の映像がリンクしてあり、表情は明確ではなかったが、衝撃的だった。

ネットサーフィンしていて、気がついたら、1時間半経っていた。ここに来たのは、本を読むためだったのだが、まったく読めなかった。雑誌『ロッキングオン』の2006年ベスト20アルバムだけチェックした。第一位は、レッドホットチリペッパーズの「スタディアム・アルケイディアム」。ディランの「モダンタイムズ」とパールジャムの「パールジャム」もエントリされていた。



昨日、年末に送られてきた『COAL SACK56』を読んでいて、崔さんの詩に驚いた。ある意味で衝撃を受けた。

「生きるための遁走曲」から、「3 見ること―あるいはい実在」を全行引用してみる。

秋が近いのに
春が生まれようとするのを見た
草の穂先の一粒の露の中で
神が生まれようとするのを見た

孤独 それは未生のものが
こころに宿るのを見ることだ
深い沈黙ののち
時間がだれのものでもなくなるのを

むらさきつゆくさの花の中で
死者の眼が
誰かを見ている
ほんとうに実在するものはいないのに

■ここに感じるのは、深く同一性を拒否する精神である。A=Bという括りから限りなくはみ出していくXn。この詩の裏側にあるのは、AをXnで絶えず再定義していくよう求める心である。実は、非同一性という問題は、俳句に対する根源的な批判でもある。季語こそ、同一性に依拠する俳句文法だからだ。崔さんの詩をもう一つ紹介したい。

2 ひとみのなかに―あるいは移動

あじさいの花のひとみのなかに
僕の愛した友やハルモニや父が
雨に打たれて 泣き濡れている
泣き濡れている 身を寄せ合う
群鳥のように もうやせ細った
方を寄せ合って ひとしきり

ひとしきり あじさいの葉蔭に
蝶はつばさをひっそりと閉じて
来世を夢みるように 休らっている
休らっている その羞しげな
触角でさぐり打っている 死者たちの
鼓動を 永遠が存在するとでもいうように

永遠が存在するとでも言うように
色変えるあじさいのうすくれないは
なぜ死者たちの この世に残した
無念の血の色ではないと言うのか
ひとしきり 雨に打たれて 僕は
こころが雨のように透きとおるのを待っている

待っている あじさいの花のいくせんの
ひとみのなかで 僕は家族や友や
ハルモニや父のほほえみを
死はしるすことを忘れているのだ
どんな死もたましいにしるされた
思い出に如かないことを 忘れているのだ

忘れているのだ 存在が移動するのを
あじさいのうすくれないの花が
濃いむらさきに色変えるように
たましいが時間と空間を占めるのを
うつくしいものたちが未だ存在するということを
たとえばあじさいの花のひとみの中に

■この詩も、非同一性を志向する作品と言える。ただ、こうも感じる。「同一性の時空間が一瞬存在しえる」と。「忘れているのだ/存在が移動するのを/あじさいのうすくれないの花が/濃いむらさきに色変えるように/たましいが時間と空間を占めるのを/うつくしいものたちが未だ存在するということを/たとえばあじさいの花のひとみの中に」この瞬間的な同一性には、人と人、人と自然が和解した来るべき社会からの光が宿されている。そんなことも感じるのである。

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