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往還日誌(51)

(写真)双ヶ岡のいちのおかを登りきる直前の頂上のきたのひろばの光






■朝、7時に起きて、ヘーゲル読書会の準備を行う。ヘーゲルを原典で読む会も、3年目に入った。難解なヘーゲルのドイツ語と毎回悪戦苦闘しているおかげで、ルカーチの難解なはずのドイツ語が、さほどでもない、と感じられるけがの功名がある。ヘーゲルに比べれば、というわけである。実際、文体は、影響関係があるため、似ている、というせいもある。

ヘーゲルを3年読んで思うのは、ヘーゲルは観念論者だというマルクス主義者たちの主張は、恐ろしく雑駁だということである。そんな安直なレッテルでは括りきれない。場合によっては、ヘーゲルは、ヘーゲル左派が受け継いだように、唯物論的なところもある。また、ヘーゲルの言語観は、初めにロゴスありき、であり、言語の本質に社会関係がある、という社会的な見方とは根本的に異なっている。ここが、マルクスの後の社会理論の洗礼を受けた現代人には、逆によく見えない点かもしれない。

きょうは、「力」の概念について議論になったが、ヘーゲルは、リンゴが木から落ちるときに働く力と、支配者が被支配者に命令するときの力を統一的に議論しようという志向がある。しかし、これは、前者の力は自然法則で変えることができないが、後者の力は革命で変えることができる。さらに、後者の力は、一方向的とも言えない。被支配者が支配者の力を規定している面もある。

つまり、自然的存在の力と社会的存在の力には非連続性があり、その非連続性が、自然と社会の間の物質代謝によって連続するという関係になっている。この点をどのように萌芽的にヘーゲルはとらえていたのかが、今の、私の問題意識となっている。いずれにしても、ヘーゲルは、乗り越えられた死せる哲学者と簡単にカテゴライズするには大きすぎる。

午後、出町のコインランドリーで洗濯。7番の洗濯機が空いていた。7番は、1月に最初に洗濯したとき、故障した因縁の洗濯機なのだが、その後は、トラブルなく動いている。7番という数字自体は好きなので、きょうは、少しうれしかった。

出町では、新鮮な魚が手に入りにくい、と家人に言ったところ、缶詰を使うといいと助言してくれた。そこで、上洛したその日に、好物のさんまの蒲焼の缶詰をパックで発注しておいた。それを2缶開けて、炊き立てのご飯の上に載せて、生姜を刻んでトッピングとした。さらに、きのう、千本通りの手前の丹波園で、丹波の黒豆味噌を半額で入手したので、これで、じゃがいもの味噌汁を仕立てた。実に美味だった。これに加えて、新玉葱を一個を八等分に切り、フライパンで両面焼いて、めんつゆ、ニラ、酢、砂糖、白ごま、鷹の爪、にんにくのすりおろしを入れただし汁に4時間以上漬け込んだものを食した。次回は、砂糖は抜いて、豆板醤を入れてみたい。

2021年の劇場公開版「きのう何食べた? 」をプライムvideoで観た。このシリーズは、食のレシピが楽しい上に、なかなか、考えさせられる。シーズン1の12話と2020年の正月スペシャル3話をすべて観た。西島秀俊さんの笑顔はとてもいい。相方の内野聖陽さんも、山本耕史さんも、ジルベール航役の磯村勇斗さんも、みなさん、芸達者で笑わせてくれる。とくに、磯村勇斗さんの我儘なジルベール役は実に上手い。

夜は、ニコの仕事を行う。




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