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芭蕉の俳句(214)

■旧暦12月18日、火曜日、

(写真)千葉のモノレール

日曜は、句会だったのだが、仕事で行けず。先生が出席されたはずなので、残念だった。

昨日、新聞を見たら、朝日の調査で、内閣支持率19%、読売で不支持率72%。麻生は制度の上で開き直っているけれど、実質的には、「自称総理」。自民・公明・創価学会による「偽装内閣」。笑った後に、非常な怒りを感じるね。

新しい形でのインターナショナルやコミットメントに関心があり、関連の文献を調べているのだが、その中に、フランスの社会学者ピエール・ブルデュー(1930-2002)の「新しいインターナショナリズムのために」(1997年)(『市場独裁主義批判』藤原書店 2000年所収)がある。ブルデューが述べている「新しいインターナショナリズム」の対象地域は、ヨーロッパのことなのだが、いくつか、インターナショナリズムとして、実践的で具体的な提言が述べられている。たとえば、

・最低賃金の決定(地域間格差を考慮して差異化した最低賃金)
・直接的な競争関係にある分野の社会的ダンピングを阻止するための対策
・共通の社会的権利を規定した法律の制定
(ある国ですでに存在する権利は取り入れ、まだ存在しない国ではその実現をめざすことで、各国の社会政策を統合していく法律。たとえば、報酬のある仕事を持たずに他に収入源のない人たちのための最低所得の設定。就職権や住居権の設定)
・全体の利益にかなった共通投資政策の策定と実施

今までも言われてきたことも含むが、昨年秋の金融危機以来、国家の拡大、ケインズ主義の復権、ブロック化といった流れの中で、考慮に値するものを含んでいるように思われる。



秋夜
秋の夜を打ち崩したる話かな
 (意専・土芳宛書簡)

■元禄7年作。この句は、嵐山光三郎の『悪党芭蕉』の中で初めて知った。初め見た時は、斬新で、前衛的な感じを受けた。それは、「打ち崩したる」という措辞が大きいと思う。「秋の夜」というものが、芭蕉の時代ほど、「さびしい」という否定的で共同体を前提にしたとらえ方ではなくなり、むしろ、ひっそりと落ち着いて、読書でもしたくなるような、あるいは、己の人生を振り返るような、そんな個人的で内省的な、肯定的とも言える契機をもつようになったことが背景にはあるだろう。それだけ、周りに「ひそやかさ」がなくなった。だが、芭蕉の意図を知って、読み返してみると、この句は、秋の夜のひそやかさを逆に際立たせ、大きな夜に抱かれている安心感を感じさせて、その意味で、惹かれる。古典の持つ季語の本意は、現代では、隠れて見えなくなってしまった感覚を思い出させ、現代という時代の問題性を浮かび上がらせる。



Sound and Vision

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