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龍太の言葉

旧暦4月8日、木曜日。

昨日は、午前中、叔母の買い物に付き合って、午後から、新宿紀伊国屋で洋書を見てきた。翻訳する本を探すのが目的だったが、その点では、面白そうなものがなかった。しかし、そのほかでは、いろいろあって、ずいぶん、買い込んでしまった。オーデンの詩集や、漱石の『草枕』の英訳、謡曲の英訳、雨月物語の英訳というのもあって、楽しめそうだ。なかでも興味深いのは、黒人文学の草分けで、日本語の翻訳も多数でているリチャード・ライト(1908-1960)の俳句である。パラパラ読んでいたら、とても惹かれる作品に出会った。それは次のようなものだった。

I am nobody:
A red sinking autumn sun
Took my name away.


俺は何者でもない。
秋の赤い落日が
俺の名前を奪ったのだ。


心惹かれたというよりも衝撃を受けた。ライトの俳句については、タイミングを見て、ここで紹介してみたい。



「俳句研究」6月号が飯田龍太の特集を組んでいる。その中で、龍太の言葉を紹介している。作品は、読む機会があるが、龍太の言葉というのは、初めてで、興味を持った。

季語・季題を無視すると、俳句は一見自在に、そして、より個性的になるように見えるが、実質は薄手のものばかりとなり、反面また、季語・季題を酷使すると、俳人だけの独善の世界に陥る。  (「個性について」、『紺の記憶』所収)

俳句は、時に即し、時を超えたときにひかりを発するもの。それもこれも、季語・季題の恩寵にあずかった場合。ただし、甘えに恩寵はない。  (「いま大事なこと」、『山居四望』所収)

兎に角、自然に魅惑されるといふことは怖ろしいことだ。  (『百戸の谿』所収)

俳句はどこに住んでも「地方」と観ずるところから生まれる詩である。  (「地方ということ」、『紺の記憶』所収)

風土というものは眺める自然ではなく、自分が自然から眺められる意識をもったとき、その作者の風土となる。  (「批評のこと、風土のこと」、『龍太俳句教室‐実作の要諦』所収)

秀句は無意識に記憶を強いる。強いられて何等抵抗を感じないさせない表現を得たものだけが風雪に耐える。その表現は一見平明にみえて、きびしく類型を拒否する。  (「修羅寂光」、『俳句の魅力』所収)

仮に没になった作品でも、一ヵ年は句帖にとどめておいてほしい。一年経って、なお執着をおぼえる句であったら、たとい選者の意嚮に添わぬものであっても、その作品はその作者にとって、捨て去るべきものではない。まさにその人の句だ。自作への愛情は、何ものにも優先するはず。選者はその意味でこそ、存在価値があるのだと思う。  (「ひとつの提案」、『無数の目』所収)

自分の非力と俳句の機能を混同してはいけない。  (「題詠と想像力」、『龍太俳句教室‐実作の要諦』所収)

■なかなか含蓄が深くて、参考になる。なかでも「俳句はどこに住んでも『地方』と観ずるところから生まれる」と言った発言は、非常にラディカルで衝撃的だった。
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