verse, prose, and translation
Delfini Workshop
芭蕉の俳句(206)
2008-11-16 / 俳句
■旧暦10月19日、日曜日、
(写真)地蔵
午前中、仕事、午後、昼寝。亥の子餅を食す夢を見た。まだ食したことないので、夢にまで出てきた。
昨晩は、I先生の哲学塾。マリノフスキーとレヴィ・ストロースについて、2時間のレクチャー。その後、ルカーチのマルクス論について1時間のレクチャー。その後、飲み屋で、さまざま議論。いろいろ感じることがあった。哲学の誕生は、神の誕生と同時だと思うが、神を創造した瞬間に世界は二元論化された。二元論のエンジンが、自然科学を生み、資本主義を生み、やがてグローバリゼーションを生んだ。二元論とは光と影の二元論でもある。まだ見えない本質がある、という二元論は、認識論と存在論の分化でもあるが、同時に、真理に歴史性を与えるものでもある。
唐突だが、芸術の鑑賞について、岡潔が道元の話を紹介している。「道元禅師は『はじめ身心を挙して色を看取し、身心を挙して音を聴取せよ』といっているが、それがすんだらこんどは『身心を挙して色を聴取し、身心を挙して音を看取せよ』といっている。芸術の鑑賞はやはりこれが本当なのではなかろうか」(岡潔『春宵十話』p.171 2006年 光文社文庫) ここには、二元論の影がない。
西欧世界は人間の生き死にを握っているので、なかなか、非西欧が生んだ果実は何のか考えてみる余裕を与えない。西欧という運動体から目を離さず、非西欧が生んだ花々をじっくりと検討・体得してみることの重要性をますます思う。あまりに精妙・玄妙で「西欧化された脳」には捉えられないのかもしれないのだ。
◇
稲妻や闇の方行く五位の声 (続猿蓑)
■元禄7年作。壮絶な感興を起こさせる句で惹かれた。闇に光る稲妻と五位鷺の鋭い声。まさに色を聴き、音を看るかのごとく。
◇
Sound and Vision
Fauré plays Fauré Pavane, op 50
(写真)地蔵
午前中、仕事、午後、昼寝。亥の子餅を食す夢を見た。まだ食したことないので、夢にまで出てきた。
昨晩は、I先生の哲学塾。マリノフスキーとレヴィ・ストロースについて、2時間のレクチャー。その後、ルカーチのマルクス論について1時間のレクチャー。その後、飲み屋で、さまざま議論。いろいろ感じることがあった。哲学の誕生は、神の誕生と同時だと思うが、神を創造した瞬間に世界は二元論化された。二元論のエンジンが、自然科学を生み、資本主義を生み、やがてグローバリゼーションを生んだ。二元論とは光と影の二元論でもある。まだ見えない本質がある、という二元論は、認識論と存在論の分化でもあるが、同時に、真理に歴史性を与えるものでもある。
唐突だが、芸術の鑑賞について、岡潔が道元の話を紹介している。「道元禅師は『はじめ身心を挙して色を看取し、身心を挙して音を聴取せよ』といっているが、それがすんだらこんどは『身心を挙して色を聴取し、身心を挙して音を看取せよ』といっている。芸術の鑑賞はやはりこれが本当なのではなかろうか」(岡潔『春宵十話』p.171 2006年 光文社文庫) ここには、二元論の影がない。
西欧世界は人間の生き死にを握っているので、なかなか、非西欧が生んだ果実は何のか考えてみる余裕を与えない。西欧という運動体から目を離さず、非西欧が生んだ花々をじっくりと検討・体得してみることの重要性をますます思う。あまりに精妙・玄妙で「西欧化された脳」には捉えられないのかもしれないのだ。
◇
稲妻や闇の方行く五位の声 (続猿蓑)
■元禄7年作。壮絶な感興を起こさせる句で惹かれた。闇に光る稲妻と五位鷺の鋭い声。まさに色を聴き、音を看るかのごとく。
◇
Sound and Vision
Fauré plays Fauré Pavane, op 50
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 飴山實を読む... | 飴山實を読む... » |
コメント |
コメントはありません。 |
コメントを投稿する |
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません |