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Cioranを読む(23)


■旧暦2月13日、木曜日、

(写真)道・ベルンの橋

宮城の名取市に叔父がいるのだが、無事が確認された。病後なので、心配している。

今日は朝から、叔母の退院の手続きと、その後のショートステイ入居に追われた。特養に入れるまで、ここに入ってもらうのが、今の状況ではベストだろうと判断。家からも比較的近い。

金曜日の地震・原発事故以降、落ち着いて仕事ができない。一つ一つ、できることから、再開していこうと考えている。とくに、今のようなハードな状況に、俳句はどこまで拮抗できるのか、興味を持っている。



Le Christ ayant appelé Satan: 《Prince de ce monde》, saint Paul, voulant renchérir, allait frapper juste: 《dieu de ce monde》.
Quand de telles autorités désignent nommément celui qui nous gouverne, avons-nous le droit de jouer aux déshérités?
 Cioran Aveux et Anathèmes GALLIMARD 1987 

キリストは、悪魔を「この世の王」と言ったが、パウロは、これに対抗しようとして、一気に、核心を突くことになった。悪魔を「この世の神」と言ったのである。
かくも権威ある声が、主の名をずばりと言い切っている以上、どうして、われわれは、哀れな人間を気取る必要があろうか。


■この断章は、難しかった。一つには、キリストの言葉とパウロの言葉が、微妙に次元が異なるからだ。キリストは「悪魔=この世の王」と言っているが、この場合、「この世の王」は比喩だろう。つまり、悪魔を克服することの困難さを言っている。ところが、パウロの「悪魔=この世の神」は比喩ではない。神の本質を悪魔だと言っているのである。

このフランス語は、理解するのが非常に難しかった。近接未来が半過去の形(allait frapper)をしているので、そのニュアンスが掴めない。意志が過去において、継続していたと理解すると、事態の実現性は問題になっていない、ということになるからだ。よくわからない。




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