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往還日誌(60)






■雨が迫っているのだろう、朝7時の時点で室温28℃、湿度73%と熱中症の条件を満たしていた。

まっとうに生きているかぎり、人生の困難や試練というのは、限りなくやってくる。そのときの最大の援軍は、金でも人脈でも権力でもない。それは身心の充実である。これさえ、調整できていれば、たいていの問題は突破できる。60年以上生きてそういう信念を持つに至っている。

家族に頼まれて、京和菓子の名店、出町の「ふたば」で豆餅と本わらび餅を受け取る。「ふたば」は、実は、並ばなくても買える電話予約という手がある。ただし、お菓子を知っていて、かつ、個数を指定しなければならない。さらに、もう一つ問題がある。それは、消費期限(賞味ではない)が「本日中」だという点である。これは、翌日、おみやげで持ち帰ることができない、ということである。添加物は一切使用していないからこその条件である。

ただ、これも、解決の手がある。冷凍して、保冷剤と一緒にアルミバッグで持ち帰るという手である。もちろん、買ったその日に持ち帰れば問題はない。

その後、makiでホットサンドと珈琲で朝食。断食は14時間だった。

午後、龍安寺へでかけるつもりだったが、予定を見たら、それができないことがわかって、午後から夜にかけて、部屋に引きこもってヘーゲルの『精神現象学』を読解した。きょうのところは、決定的で、いろいろなことを思った。とくに、超感覚的な「構造」の特定について。

ヘーゲル自身は、eine uebersinnliche Welt(ひとつの超感覚的な世界)を「推論する」と言っているが、私の問題意識に引き付ければ、それは完全に不可視の、それであるが故の、無意識の「構造」をどう特定するか、あるいは規定するか、という問題になる。明日の議論が楽しみである。

歩きながら、頭の中で詩のスケッチを行い、帰宅して、おおよそ言語化した。

あと、1、2篇は作る。

夜は、レトルトの魯肉飯を食べた。明日は帰山するので、卵を残しておくわけにいかないので、ハッピークッカーで残りの2個を目玉焼きにした。このとき、FBで知った方法を試してみた。卵の余分な水分を笊で落としてから、目玉焼きにするという方法である。非常にきれいに仕上がる。これを魯肉飯に載せた。落とした水分の多い白身は味噌汁に入れた。

きょうは、もう、『孤独のグルメ』シーズン2を観てぼんやりする。そう言えば。ドラマというのは、若宮ではほとんどまったく観ないが、京都で観るようになって、面白いことに気が付いた。

それは、映画よりもドラマの方が、生活上の、あるいは思索上・詩作上の、ヒントをくれるということである。私だけかもしれないが、それに理由があるとすれば、「シーズン」という概念が映画にはない点だろう。連続的に観ることによって、ある意味で、印象が強くなり、影響を受けやすくなる。

まあ、こういうことをごちゃごちゃ考えるのが好きなんだが、妻に言わせれば、簡単なことを難しく考えすぎる、ということになろうか。それも性格であろう。



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