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往還日誌(58)




■きのうは、朝5時半に起きて、ルソー読書会の準備。だんだん、フランス語が複雑になってきて、読み解くのに時間がかかる。

Kさんと科学をめぐって議論となる。私の議論一般も、そうだが、調査報道も、その目的が、はっきりとしてきた。それは、「断片性」であるがゆえに、必然的に「操作性」を帯びる「事実」あるいは「知識」を、その全体性に返すことで、操作を解体することである。

それは「真理の全体性」というヘーゲルの考え方と共鳴している。きのう議論となった科学に関する知識にもこれが言える。その場合、科学に関する知識が断片的あるいは事実性を持つがゆえに、当該の知識が持つ操作性を、科学全体の歴史の中に位置づけることで、解体できるという実感を得た。この部分は、知識が必然に持ち得る「時間操作」の解体と関連する。

これに関連して、知識が持ち得るもう一つの操作が「空間操作」である。これは、知識が部分的であるにも関わらず、「普遍性を主張する(騙る)」局面で生じる。空間操作の解体は、それが操作であることの洞察と、普遍性を主張する、あるいは、そもそも、知識というものが普遍性を志向するという性質と関わり、さらには、操作批判への批判という面を持ち(普遍性を「主張する」あるいは「騙る」ことと、普遍性あるいは全体性を「志向すること」は違うのだが)、時間操作の解体よりもやっかいになるだろうと思われる。

そして、これら、知識の時間操作・空間操作は、社会全体の再生産と関わっている。ここに、意識と無意識、利害と偶然性、オートポイエーシスと統治といったテーマ、あるいは、数理分析などとリンクする領域が広がっている。

これらは、12月までに思索をまとめる予定。

きのうの、ルソー読書会で収穫だったのは、ルソーの「社会契約論」には、読み始めから、違和感があり――とくに、「契約」という理念的概念――、このテクストをどう考えるべきか、困惑してきたが、ルソーの専門家である哲学者N氏――この会の主催者でもあるが――からルソーの「社会契約論」は、プラトンの「国家論」の近代版だと考えればいい、つまり、「あるべき国家を語っている」と理解すればいい、という指摘があり、非常に、すっきりと、このテクストの性格が納得された。

これによって、ルソーのこのテクストが、現代の現実に対する逆照射を含むものと了解され、現実分析における、ヴェーバーの言う「理念型」に近い機能を果たすことが見えてきた。

コインランドリーで洗濯、買い物。

今、バナナケーキを作ることをテーマとしておりw、エッセル・スーパーカップ、バニラを使用する簡単なものだが、これに挑戦している。だいたい、要領はわかったが、チョコレートソースをかけると、さらに、いいことがわかった。

自分の目標は、ライオンキッチンのバナナケーキの再現という遠大なもので、ここに至るまでには、まだ遠い。

コーヒーハウスmakiは大変いいことがわかった。とくに、ブレンドが大変美味であり、ホットサンドも美味い。個人的には、最初に、モーニングセット+アイスコーヒーにしてやや失敗したので、それをこれらのメニューが取り返してくれた。アイスコーヒーは、甘味をあらかじめお店の方で聞いて入れて出してくれる。それを知らずに、何も言わなかったら、甘さ普通のアイスがでてきて、これが甘すぎた、私には。モーニングセットの食パンは、いまいちかな、野菜は美味い。ただ、ホットサンドは、たいへんおいしかった。水も美味い。これカフェの大切なポイントだと思う。

コーヒーハウスmakiで、めずらしいルワンダの豆を買ってきて淹れてみたら、大正解だった。珈琲豆の調達先はここに決定。

夜は、眠くて仕事にならず、「ガリレオ」の「真夏の方程式」を観た。

きょうから、ロシア語を開始。果たして続くかどうか。




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