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俳諧:猿蓑「鳶の羽も」の巻(3)


■旧暦閏3月22日、土曜日、

(写真)無題

朝から、病院へ。今日は寒かった。風も強く、嚏が止まらず。藤沢周平のDVDを2枚借りてくる。「たそがれ清兵衛」と「隠し剣 鬼の爪」。これで、だいたい、映画化された藤沢作品は観ていることになる。キムタクの「武士の一分」を除けば。しばらく、TSUTAYAに行ってなかったが、旧作がいつでも100円になっていたのは、嬉しい。

谷川健一の『柳田國男の民俗学』で、柳田國男の『山の人生』を知って、図書館で借りて来て、寝る前に読んでいるのだが、実に、深い文章で、感銘する。題材は、今で言う、「蒸発」や「遁世」。日常生活を放擲して山へ逃げた人々の記録である。つげ義春の世界にも、どこか通じるようで、だれか、練達の作家がコミック化するといいのでは、とふと思った。

原発のシビアアクシデントのことを「事故」ではなく「事象」と、官僚も学界も呼んでいたのに興味を覚えて、「事象」は確率論の概念であるから、高校の確率論の基本書を、ひまなときに読んでいる。確率論は、パスカルまで遡り、パスカル(1623-1662)、古典確率論のラプラス(1749-1827)、現代確率論のコルモゴロフ(1903-1987)と、展開を遂げている。こうした数学の確率論と量子論の確率論は、どこかどう違うのか、あるいは重なるのか、その辺が気になって、物理学史が専門の研究者や物理学専攻の人と、少し話してみた。確率論も量子論も検討を始めたばかりで、深くはわからないのだが、今の段階では、数学の確率論では、すでに存在しているものは、問題にならない。これから存在するものが問題になる。時間は、直線的に過去から未来へ流れ、因果律が成立する。量子論の確率論は、現にある存在の存在性が、問題になる。存在は、確率論的な存在になる。動くものは位置がわからず、位置がわかると動きがわからなくなる。こういう世界では、存在は空間的にも時間的にもゆらいでいる。時間は、過去・現在・未来と、直線的に秩序立っていない。したがって、因果律は成立しなくなる。今の段階では、そんな理解をしている。

poetic collaboration "Fukushima"に新しい展開が。ここから>>> 共同で詩を書くというのは、意外な発見がいつもある。芭蕉の俳諧の検討は、展開の仕方にかなり参考になる。



股引の朝からぬるゝ川こえて   凡兆

たぬきをゝどす篠張の弓   史邦

■凡兆の句の川を超える人を旅人と見定めて、その旅人の視点から見えた風景を詠んでいる、と考えるのがわかりやすい。安東次男の読みは、非常に深いけれど、通すぎて、現代で作句の参考にしようとしても、なかなか難しいように思う。大伴家持の和歌を踏まえての四句目と考えている。ただ、こうした本歌取自体は、応用できそうではあるが。篠張の弓とは篠竹で作った罠、







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一日一句(361)






葉桜の風立つてのち風はるか





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