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Cioranを読む(44)


■旧暦4月11日、金曜日、

(写真)藤

敬愛する詩人の崔龍源さんより、家族誌「サラン橋」をいただく。詩と小説とエッセイからなる家族の雑誌である。なにげなく、これまで、読んできたが、詩誌「Moderato 34」に掲載された崔さんのエッセイ「家族誌『サラン橋』を出す理由」を読んで、ある意味、衝撃を受けた。崔さんの抱える辛苦の全体の一端が見えた気がした。



Plus on déteste les hommes, plus on est mûr pour Dieu, pour un dialogue avec personne. Cioran Aveux et Anathèmes p. 44

人間嫌いになるほど、神を求める気持ちが熟してくる、だれでもないだれかと対話したい気分が。

■Dieu(神)という言葉を使っているが、キリスト教の唯一神とはニュアンスが違う。それは、personne=no oneという言葉で言いかえていることでわかる。神が人間の本質の自己疎外であり、その人間なるものの前提には社会関係の総体があることを踏まえれば、神が社会関係の物神化の一つであることは、確かであろう。人間嫌いになることは、もともと、神の背後で不可視となった社会関係を、ますます、見ないようにすることを意味する。自覚していないかもしれないが、シオランのpersonneという言葉は、ここに触れているように思える。personneはjeであり、nousであり、tuであり、vousであり、il(s)、elle(s)、onであるのだろう。だれでもない者とはだれでもあるだれかなのだ。



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一日一句(113)






唇は少女のままに薔薇の雨





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