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Cioranを読む(49)


■旧暦4月19日、土曜日、、小満

(写真)無題

夢の中に一句見つけたので、目が覚めてから推敲する。掃除。布団干す。今日はいい天気。叔母の施設入居に向けて、運び込むものの整理など。

夕方から、哲学塾。シオランについて聴く。シオランの哲学からの離脱の理由が、哲学の中には、人間の弱さや憂鬱が表現されていないこと、音楽や詩が表現している人生の全体が、理性からは零れてしまうという話は、これまでシオランを読んできて、腑に落ちる。これが、理論的な文脈の中では、マルクスやルカーチの物象化や疎外という議論と共鳴することも、よく理解できる。シオラン自身自覚していないかもしれないが、きわめて、ヘーゲル・マルクスに源泉を持つ理論家たちの感性に近い。文学は、何のために在るのか。たぶん、なんの目的もない。理論は何のために在るのか、現実を変えるため。こんなことを感じながらレクチャーを聴いていた。理論が、理論の外、たとえば、「死」や「狂気」に敏感であることが難しいように(これに敏感なポストモダンの思想家たちの文体が文学的なのは、わけがあるのだと思う)、逆に、文学は、所与性の呪縛から抜け出ることが難しい。たとえば、シオランでは、それは次のように出ている。




La mission de tout un chacun est de memer à bien le mensonge qu'il incarne, de parvenir à n'être plus quéune illusion épuisée.   Cioran Avuex et Anathèmes p. 40

万人の使命とは、己が体現する欺瞞を生き抜くことであり、妄想の限りを尽くして死ぬことである。

■ここには、文学好きが飛びつきそうな、ニヒリスティックなかっこよさがある。確かに、「現実」は、このとおりだが、ここで、mensonge「欺瞞」は所与としてあたえられ、これ以上、疑われることはない。つまり、己の欺瞞の生成や、その背後の社会関係は、不可視なまま問題化していない。なぜ、どういうメカニズムでその欺瞞は生じるのか、といった問題意識は、ここには存在しない。その意味では、保守的である。その保守性は、「倫理」あるいは「全体性」と切れていることから生じている。一方、この断章の後半の妄想の個所には、ラディカルさが宿っている。文学のラディカルさとは、妄想のラディカルさにほかならないからである。



Sound and Vision



















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一日一句(121)






ででむしはうはの空なる空の中





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