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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(12)


■旧暦5月24日、金曜日、

(写真)無題

今日は湿気を含んだ風が強い。午後から、メーカーに来てもらって、エアコンの黴取り。3年に一度はメーカーによる黴取りが必要になるらしい。

Cioranの北斎論(3)



芙蓉のはなのはらはらとちる   史邦

吸物は先出来されしすいぜんじ   芭蕉

■芭蕉の見定めに感心する。史邦の句を供養の席と見定めての付け。「すいぜんじ」とは、水前寺海苔のこと。前句の芙蓉(蓮の花の漢名)の清らかさに澄まし汁がよく感応している。

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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(11)


■旧暦5月18日、土曜日、、小暑、七夕

(写真)無題

今日は、典型的な梅雨の雨だった。午前中、雑用、午後、スーツを買いに行く。驚いたことに、今のスーツは、洗濯機で洗える仕様なのである。しかも、2着で2万である。10年くらい前と比べてみると、色は、ダーク系が多くなった。紺でもグレイでも黒に近い。ブラウンやダークグリーンなど、一昔前にはあったスーツがまったくない。ズボンは、ノータグ(スラックス)が非常に多い。坐ったり立ったりの運動がやりにくいだろうに、ノータグが好まれるようだ。ダーク系スーツは、ネクタイを上手く選ばないと、うち沈んだ中年男が出来上がってしまって、なかなか難しい。スーツに夏仕様と冬仕様があるように、ネクタイにも、季感があると思う。

Cioranの北斎論(1)
Cioranの北斎論(2)



ほつれたる去年のねござのしたゝるく  凡兆

芙蓉のはなのはらはらとちる  史邦

■これは、どういう見定めなのか、一読してわからなかった。安東次男の解釈を見ると、素材や言葉の工夫が、前句を浄化する趣向で作られているらしい。前句が、厭離浄土とすると史邦の付けは、欣求浄土として対応するという。二句一意になる。こういう作り方もあるのか、と驚いた。
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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(10)


■旧暦5月13日、月曜日、

(写真)夏の花

今日も早朝から体操+筋トレ。なぜか、最近痩せてきて、3年前に買ったスーツのズボンがだぶだぶに。深蒸茶とオールブランが効いているのか。

Charles Simic(2)を更新しました。ここから>>>

夕方、新宿のニコンプラザで、従軍慰安婦を撮った安世鴻さんの写真展へ。いったんは、中止になったが、裁判所の仮処分命令で展示が可能になったもの。「表現の自由」に関わるメーカーとして、意識が低すぎないだろうか、ニコンさん。中国に渡った朝鮮半島の元慰安婦の写真には、笑いがほとんどない。展示数は、少なかったが、見ているうちに、なんとも言えず、厳粛な気分になってきた。日本が「植民地」を持ったという現実を、いろいろなレベルで、もっと掘り下げてゆく必要があるように思う。たとえば、朝鮮半島の植民地経営は、北海道の植民地経営がモデルになった、という柄谷行人の指摘。

帰りに、ビールを一杯。みやげに、焼鳥を適当に包んでもらう。



里見え初て午の貝ふく  芭蕉

ほつれたる去年のねござのしたゝるく  凡兆

■「したたるし」は、言葉遣いや態度の甘えやべたつきを形容する言葉。ここでは、寝茣蓙の垢じみてべとつくさまを言う。ここの解釈を安東次男は、行者が携えて下山する寝茣蓙と解するのは、芸がない、と言っている。つまり、その見定めでは、前の芭蕉の世界と同じ世界に留まるからだろうと思う。安東の解釈は、岩屋で満願成就し即身成仏した上人と理解している。そうなると、下山する修験者の世界から、新しい世界への展開が見出されてくる。







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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(9)


■旧暦5月5日、日曜日、

(写真)杖

日曜日の夕方、季節もいいので、鳥孝で唐揚にビールが定番になって来た。テーブルのお向かいを何気なく見ると、50代後半の男性が泣いている。「オレはもう駄目だ」と泣いているのである。目立たぬように、眼鏡を取って、涙を拭っているのである。しばらく、泣くと、アジフライと蒲焼をみやげに店を出て行った。生きていくのは、いづれにしても、辛い。幸福なのは、せいぜい、小学生くらいまでか。「オレはもう駄目だ」 そう思ったことは、オレも何回もあるなぁ。それでも生き延びた。なんとかなるさ。そして、人は、いづれは、死ぬ。せいぜい、できるのは、後悔のない生き方のみかもしれない。



romieとのコラボレーションが、二つほど、進展した。議論し合いながら、手さぐりで進めているが、そのプロセスがまた楽しい。俳諧や、連詩、英語連詩などについて、ぼちぼち、勉強していきたいと思っている。

collaboration Fukushima (9)

collaboration Fukushima (10)



フェイスブックで、チャールズ・シミックというセルビア系アメリカ詩人を知って、なかなか、面白いので、少しづつ読んでいる。ここから>>> 更新したら、ここで、告知します。

また、シオランのヘーゲル論は、読み終わり、今度は、北斎論へ入る予定。ここから>>>  ご興味のある方はどうぞ。



何事も無言の内はしづかなり   去来

里見え初て午の貝ふく   芭蕉

■俳諧で凄いなと思うのは、展開の内的飛躍だ。前の句から連想するだが、連想するときの「見定め方」が見事で、新しい世界が開かれてゆく。連詩をやっていると、前の句の「世界」を見定めるのではなく、前の句の中の言葉から、別の言葉を連想して、世界を作ってしまうことが多い。そのため、似かよった世界が立ちあがってしまう。芭蕉の去来の世界の見定めは、「山伏の行」である。そういう認識枠組みで、新しい世界を構築している。しかし、山伏の世界から、この動きのある世界の構築までは、だれでもできるものじゃないと思う。ちなみに、「午の貝ふく」とは「正午」を知らせる法螺貝を山伏が吹くこと。








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俳諧:猿蓑「鳶の羽も」の巻(8)


■旧暦4月24日、水曜日、、桜桃忌

(写真)十薬

このところ、とんでもないニュースばかりで、いささか、うんざりしている。大真面目な顔で茶番を演じる大根役者が多すぎる。その茶番は、笑って済ませられない。真剣に問題を考えることもなく、金で命を売っているからだ。

ザルツブルクで70年代から反原発運動に携わっている人から、ロベルト・ユンクの『原子力帝国』を教えてもらった。原子力産業を構造的に分析した本書は、30年以上経つが、今もアクチュアルだと思う。79年に日本語版も出ているが、現在、絶版。古本は非常に高価なので、図書館などで読まれたい。ドイツ語の原書は、安いが、ドイツ・アマゾンでは古本扱いで、海外からは入手できなかった。

romieとのコラボレーションが、新しい展開に。ここから>>>



はきごゝろよきめりやすの足袋   凡兆

何事も無言のうちはしづかなり   去来

■面白い展開。前二句の人の独白とも取れるし、去来の前展開への批評とも取れる。小学館の松尾芭蕉集②では、「足袋」から能舞台への連想を見ていて、面白い。能の足運びは、剣の足運びと共通するものがあり、去来の付けに、その影を見るとしたら、なかなか、迫力が出てくる。




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俳諧:猿蓑「鳶の羽も」の巻(7)


■旧暦4月13日、土曜日、

(写真)無題

蒸し暑い一日だった。昼間からビールを飲んで、赤い顔して街をうろつく。新藤監督の『午後の遺言状』をTSUTAYAで借りようとしたら、置いてない。以前は、監督別に並んでいて、探しやすかったのに、今は、全部、作品名のアイウエオ順で、なんだか、味気ない。映画は、監督で観るけどね。仕方ないので、『雨あがる』と『13人の刺客』(1963年オリジナル版)を借りてきた。

このところ、詩人の村松武司と鳴海英吉の比較年表を作りながら、その仕事を検討しているが、実に、深いところで、励まされる。この二人は、持続的に、今後も検討してい行く予感が自分の中で大きくなっている。

romieとのcollaborationが新しい展開を迎えた。ここから>>>



かきなぐる墨絵おかしく秋暮て   史邦

はきごゝろよきめりやすの足袋   凡兆

■墨絵を自在に描く人物の足元は、「めりやすの足袋」の穿き心地と受けている。手の自由を足の自由に展開させている。安東次男によれば、当時、木綿の足袋も普及初期にあたり、足袋と言えば、皮製だったという。ちょっと、驚いた。めりやすの足袋は、輸入されたもので、オランダ人の使用した靴下の意。







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俳諧:猿蓑「鳶の羽も」の巻(6)


■旧暦4月10日、水曜日、

(写真)無題

ドイツのメルケル政権が、原発推進から脱原発へ舵を切ったときのきっかけになった「より安全なエネルギー供給に関する倫理委員会」報告書の日本語版を見つけた。ここから>>> 社会学者、哲学者、環境学者、宗教者などの参加が見られる。リスク社会論で著名な社会学者のウルリッヒ・べックも参加して、リスクについて、議論を深めている。原子力産業界も、原子力工学者も参加していない。

スイスで、谷川俊太郎と若い詩人のユルク・ハルターが連詩を巻いた。ここから>>> この記事を読むと、連詩は、一つのテーマを中心に回転するのではなく、直線的に、新しい段階に展開していくものであることがわかる。しかし、Fukushimaのようなテーマで連詩を巻いた場合、Fukushimaから離れすぎてしまうのはどうなんだろうとも思う。



人にもくれず名物の梨   去来

かきなぐる墨絵おかしく秋暮れて   史邦

■梨に注目して、その梨を墨絵に転じている。安東次男によると、人物のはたらきを取り出して見せる個所ということになる。ひとにやらなかった梨の行方が気になるが、その気分に応えるかのように、墨絵にしてしまったという。

今まで知らなかったが、安東次男も詩誌『列島』に関連した詩人だった。鳴海英吉の詩と日蓮宗不受布施派の本格的な実証研究や、村松武司の詩と植民地論、ハンセン病問題へのコミットメント、出版活動など、列島系の詩人たちの活動の広さ・多彩さと深さは、特筆すべきものがあると思う。

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俳諧:猿蓑「鳶の羽も」の巻(5)


■旧暦4月1日、月曜日、、新月

(写真)金環日食

朝から、金環日食を観る。7時半の段階で、金環になっても、かなり明るい。改めて太陽のエネルギーの大きさを感じた。日本の金環日食は1987年の沖縄以来25年ぶりで、今回のように広範囲で見られるのは932年ぶりらしい。1080年になる。天体の記録は、古い文書に意外に残されている。たとえば、定家は『明月記』に1054年の超新星爆発の記録を残している。定家は、官僚だったので、同じ現象の前例も調べて、『明月記』に記録している。普段、世間が騒ぐものには、あまり関心がないのだが、今朝の金環日食は、なかなか良かった。

poetic collaboration "Fukushima" に新しい展開が。ここから>>>



まいら戸に蔦這かゝる宵の月   芭蕉

人にもくれず名物の梨   去来

■芭蕉の住居に人を住まわせ、なかなか、狷介らしい人物を配している。安東次男によると、梨は別名、妻無とも言われ(万葉集の歌に由来)、このとき、去来は、独身だったところに面白みがある、という。そこまで、考えて付けているのか、と驚いてしまった。去来44歳のとき、可南女を入籍したらしい。もと、遊女だったと伝えられる。芭蕉の弟子たちの、伴侶まで、興味を広げると、なかなか、面白いかもしれない。






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俳諧:猿蓑「鳶の羽も」の巻(4)


■旧暦閏3月18日、金曜日、、黒船祭(下田)

昨日深夜に雷が鳴ったそうだが、ぜんぜん、気がつかずに眠りこんでいた。起きたら、路面が濡れている。季節的には、一ヶ月遅れといったところなのだろうか。

9月に詩人の村松武司について、すこし、話すので、その準備作業に入った。同世代の詩人で、同じ「列島」に所属した鳴海英吉との比較ができる年譜から作成している。今回は、資料を読み込むのはもちろんだが、できるだけ、基礎資料を多く作成してみようと考えている。村松武司、福田律郎、鳴海英吉などは、日本戦後詩の黎明・源流に位置する重要な詩人たちで、その軌跡も、共通性がある。ウェブ環境がなかったせいもあろうが、人との交流が活発かつ濃密で、重要な出会いは、ほとんど、そこで起きている。戦後、共産党へ入党し、やがて離れるのも共通している。こうした共産党への入党・離党・除名などの現象は、日本だけではなく、たとえば、フランスなどの欧州でも、よく見られる。

romie lieとのpoetic collaborationに新しい展開が。ここから>>> 7月下旬に刊行される『脱原発・自然エネルギー200人詩集』(コールサック社)に、急遽、このコラボレーションが収録されることが決まった。海外からも、ビート詩人で自然環境保護運動に熱心なゲーリー・スナイダーなど、数多くの詩人の参加が予定されている。総勢251人の詩人による、英語・日本語併記の国際的なアンソロジーになる予定である。



たぬきをゝどす篠張の弓   史邦

まいら戸に蔦這かゝる宵の月   芭蕉

■狸の出没する様子から、廃屋などを想像している。時間の見定めと場所の設定が秀逸だと思う。俳諧の進展は、論理というよりも、連想が重要な要素なのだろう。
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俳諧:猿蓑「鳶の羽も」の巻(3)


■旧暦閏3月22日、土曜日、

(写真)無題

朝から、病院へ。今日は寒かった。風も強く、嚏が止まらず。藤沢周平のDVDを2枚借りてくる。「たそがれ清兵衛」と「隠し剣 鬼の爪」。これで、だいたい、映画化された藤沢作品は観ていることになる。キムタクの「武士の一分」を除けば。しばらく、TSUTAYAに行ってなかったが、旧作がいつでも100円になっていたのは、嬉しい。

谷川健一の『柳田國男の民俗学』で、柳田國男の『山の人生』を知って、図書館で借りて来て、寝る前に読んでいるのだが、実に、深い文章で、感銘する。題材は、今で言う、「蒸発」や「遁世」。日常生活を放擲して山へ逃げた人々の記録である。つげ義春の世界にも、どこか通じるようで、だれか、練達の作家がコミック化するといいのでは、とふと思った。

原発のシビアアクシデントのことを「事故」ではなく「事象」と、官僚も学界も呼んでいたのに興味を覚えて、「事象」は確率論の概念であるから、高校の確率論の基本書を、ひまなときに読んでいる。確率論は、パスカルまで遡り、パスカル(1623-1662)、古典確率論のラプラス(1749-1827)、現代確率論のコルモゴロフ(1903-1987)と、展開を遂げている。こうした数学の確率論と量子論の確率論は、どこかどう違うのか、あるいは重なるのか、その辺が気になって、物理学史が専門の研究者や物理学専攻の人と、少し話してみた。確率論も量子論も検討を始めたばかりで、深くはわからないのだが、今の段階では、数学の確率論では、すでに存在しているものは、問題にならない。これから存在するものが問題になる。時間は、直線的に過去から未来へ流れ、因果律が成立する。量子論の確率論は、現にある存在の存在性が、問題になる。存在は、確率論的な存在になる。動くものは位置がわからず、位置がわかると動きがわからなくなる。こういう世界では、存在は空間的にも時間的にもゆらいでいる。時間は、過去・現在・未来と、直線的に秩序立っていない。したがって、因果律は成立しなくなる。今の段階では、そんな理解をしている。

poetic collaboration "Fukushima"に新しい展開が。ここから>>> 共同で詩を書くというのは、意外な発見がいつもある。芭蕉の俳諧の検討は、展開の仕方にかなり参考になる。



股引の朝からぬるゝ川こえて   凡兆

たぬきをゝどす篠張の弓   史邦

■凡兆の句の川を超える人を旅人と見定めて、その旅人の視点から見えた風景を詠んでいる、と考えるのがわかりやすい。安東次男の読みは、非常に深いけれど、通すぎて、現代で作句の参考にしようとしても、なかなか難しいように思う。大伴家持の和歌を踏まえての四句目と考えている。ただ、こうした本歌取自体は、応用できそうではあるが。篠張の弓とは篠竹で作った罠、







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