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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(22)


■旧暦10月9日、木曜日、小雪、亥の子

(写真)returning

亥の子:関西以西で行われる収穫祭の一つ。陰暦十月の初亥の日に行われる。江戸時代には、この日から火燵を開いた。

数日前、宇宙飛行士の星出さんが、地球に帰還した。その直前にtwitterで宇宙から連続tweetsがあったという。宇宙からもtwitterができるのに、ちょっと驚いた。そのtweetsの中に「この美しい惑星に生まれてよかった」というメッセージがある。このメッセージを見て、二つの感想を持った。一つは、地球は「遠くから見ると」、美しく見えること。二つは、地球は、自然的存在であるということ。はじめの「遠くから見ると」、というのは、ちょうど、日本人が、戦後、アメリカに憧れたように、あるいは、戦前、フランスに憧れたように、遠くから見ると、美しく見える、ということで、近くになればなるほど、その美しいという感情は分裂し両義的なものになってゆく。日本人で日本が美しいと単純に言い切れる人は、右翼か、単に現実について何も思考していないか、のどちらかだろう。が、逆に、「遠くから見る」と近くでは見えないものがよく見えることもある。近すぎては見えないものもあるからだ。「この美しい惑星に生まれてよかった」という宇宙からの感慨は、シンプルなメッセージだが、確かに、宇宙空間の中でのこの惑星の美しさを、語っているのだろう。

もう一つは、地球は自然的存在だという感想で、人間の作りだした領土(これと同じだが、個人的所有―山持ちとか、広大な土地所有とか―)は、原理的な根拠を持たない、ということである。取り憑かれたように尖閣諸島や竹島およびその海洋資源を云々しているが、その所有に、だれも、原理的な根拠はない。宇宙からの地球が、その無根拠を雄弁に語っている。まさに「この美しい惑星に生まれてよかった」のである。個人的所有あるいは国家的所有は、もとをただせば、地球からの窃盗と同じである。窃盗をしてきた人間が「貴族」を名乗り、「名家」を名乗っているにすぎない。

「美しく見える」。この両義性に敏感にならないと、数年前に、安倍が立ち上げた「美しい国づくり企画会議」のような、トンチンカンでいかがわしいものが出てくるのだと思う。



ほとゝぎす皆鳴仕舞たり   芭蕉

痩骨のまだ起直る力なき   史邦

■この見定めの転換も見事だと思う。暑い時期を持ち堪えた病人の詠嘆と前句を理解している。




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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(21)


■旧暦9月29日、月曜日、ときどき

(写真)荻原井泉水が好み、命名した宿「天成園」の池。近くには、井泉水の句碑「瀧は玉だれ天女しらぶる琴を聞く」が建つ。

先週木曜日の朝、洗面中に、右肩の筋を「ぐぎっ」と痛めた。そのときは、さして、痛みもなかったので、普段どおり生活し、体操や筋トレまでしていたのだが、徐々に、痛み出し、土曜日に至って、ほとんど、右半身を動かせないほどの痛みになった。その日は仕事だったので、顔面蒼白で、なんとかこなし、帰宅して、痛み止めを飲んで、眠った。日曜は、デモに行く予定だったが、断念して、終日、ベッドで寝ていた。運動や体操は比較的やっていたはずだが、これである。今日、痛みが尋常でないので、整形外科に行った。首の椎間板ヘルニアと診断される。第6番がもっとも怪しいとレントゲン写真をみながらの医師の話である。いやはやである。首の椎間板ヘルニアはよくある話らしい。60までにたいがいの人が経験しますよ。医師の話である。ちょっと早くないかw

プーシキン美術館所蔵の浮世絵コレクション(18世紀~19世紀)がデジタル公開された。ここから>>> 当時の日本の風景も、垣間見えて、なかなか、興味深い。



火ともしに暮れば登る峯の寺   去来

ほとゝぎす皆鳴仕舞たり   芭蕉

■去来の句の面影を、承久の乱で、隠岐に流された、後鳥羽院に見た安東次男の解釈は、説得力があるように感じた。芭蕉の見立ては、その世界を押さえて、上皇が隠岐に流された「逝く夏」に呼応しているという。句を掘り下げた理解だと思う。ただ、去来の句に、「上皇の面影」を見定められたのは、なぜか、という疑問は残る。安東次男は、話題に出たから、と言うが、その場で、自分の句の種明かしをするとは思えない。去来は、後に、手紙で、その面影について触れているが、あくまで、興行の後である。芭蕉の付けを観てのことだったかもしれない。この去来の世界の見定めにこそ、芭蕉の独創があると思う。
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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(20)


■旧暦9月21日、日曜日、秋晴

(写真)untitled

10時半に寝て3時半に目が覚めた。午前中は、作業。午後、外出、夜は、仕事。

この頃、タブッキの『インド夜想曲』と漱石の『夢十夜』を交互に読んでいる。とても面白い。漱石という作家は、ぼくは、苦手で、長編ものは、ずっと敬遠している。有名なところで、食わず嫌い、という作家は、ほかに、谷崎潤一郎がいる。この人も、長編ものは敬遠している。作家が苦手というよりも、長編小説という形式が苦手なのかもしれないが。



雪けにさむき嶋の北風   史邦

火ともしに暮れば登る峯の寺   去来

■歌仙の進行が、世界の見定めと新展開という形式を取るところまでは、わかったが、展開の仕方に、「雪けにさむき-火ともしに」のように、語句の呼応関係があるところが、面白い。連詩にも応用できそうだと思った。安東次男は、これに加えて、「暮れば-登る」の個所を取り上げて、「雪けにさむき-火ともしに」と不可分だと、述べている。ここに、二重の関係性を見ているのだろう。なかなか喰えんオヤジである。



Sound and Vision



※ FacebookでずっとAlban Bergを聴いて来て、とうとう、Alban Berg協会に入ってしまった。新ヴィーン楽派は、3人とも、それぞれの個性があってとても面白い。(辛気くさいという意見もあるがw)
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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(19)


■9月13日、土曜日、、十三夜

(写真)箱根登山鉄道

なぜか、ここ数日、耳鳴りが激しく、困ったものである。睡眠薬も効かない。ま、仕方ないか。

今夜は十三夜を楽しみにしていたが、雲が厚くて見えない。無月である。また、深夜、見てみよう。十五夜のときより、荒涼としていて、マイナーな感じが好きである。

ブログも、7年半やっているが、7年前の10月の記述を読み返すと、かなり面白い。晩年、こうしたブログやfacebook、twitterのような電子媒体を読み返すと、紙の日記とはまた違った感慨が湧くのだろうか。今日は、掃除やメールなど書いて終わった。夕方、昼寝。昨年5月に亡くなった詩人の清水昶さんの夢を見た。普通、死んだ人は、夢の中では、一方的にしゃべるものだが、清水さんは、こちらの言うことに答える形でしゃべった。「アクチュアリティなどその他だよ」とはっきり言ったのであるw。死んでしまえばそうなのかもなぁ。

romieとの連詩がやっと動いた。と言って、ぼくの番だったのだが。興味のある方は、ここからご覧ください。



いちどきに二日の物も喰うて置   凡兆

雪けにさむき嶋の北風   史邦

■嶋へ想像力が飛んだところに惹かれる。それでいて、見定めは、説得力を持っている。食い貯めをしなくてはならないリアリティがあるのは、北国の嶋であるせいだろう。この展開は景が大きく動いて、笑いからシリアスな生活へと動いている。



Sound and Vision

※ この頃、よくFacebookで聴いているAlban Bergの弦楽四重奏曲から第二楽章。



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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(18)


■旧暦8月23日、月曜日、寒露、遊行忌(旧暦)

(写真)無題

やっと秋らしくなってきた。土曜日は、久しぶりに国会図書館に資料コピーに行って来た。便利なのだが、検索画面の見方が、わかりにくいので、時間がかかってしまった。特に、雑誌の収蔵巻号の省略表示は改善の余地があると思う。日曜日は仕事に専念。月曜日は、掃除して、ぼーっとしていた。



ロミーとの連詩が、少し展開した。ご興味のある方は、ご覧ください。

collaboration "Fukushima" 14
collaboration "Fukushima" 15



ひとり直りし今朝の腹だち   去来

いちどきに二日の物も喰て置   凡兆

■凡兆の句、面白い。笑ってしまった。前句の世界の見定めが、漫画的。去来の人物の見定めが老人だったのに対して、大食漢の独身者へと、世界を転換している。

安東次男の解釈は、相変わらず、関係妄想一歩手前wみたいだが、面白い。前句がありそうなことで、後句がありそうもないことで、対になっているという。共通するコンセプトは、「手間が省ける」だと云う。この解釈自体も、どこか、おかしみがある。



Sound and Vision





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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(17)


■旧暦8月17日、火曜日、

(写真)無題

ブログとtwitterの連携が、もう一ヶ月以上途切れたままで、回復の見込みがない。最近は、ブログ更新の告知の役割しか果たしていなかった。ま、いいか。

このところ、『ヨブ記』にはまっている。はあ? と思うかもしれないが、旧約聖書のヨブ記である。なかなか、面白い。ところどころ、日本語がよくわからないので、英語版聖書を参照しながら、読んでいる。ヨブ記は、善人のヨブが、神と悪魔の談合で、いわれのない災難をさんざん受けて、財産はもちろん、子どもたちまで失った上に、自分も皮膚病で苦しむ。信仰の篤いヨブも、とうとう、神を呪い抗議するのだが、三人のヨブの友人たちがやってきて、ヨブと問答を行う。友人たちは因果応報を説き、神は常に正しいから、ヨブ、お前が、知らないうちに悪をなしたのだ、悔い改めよ、と言う。だが、ヨブは、心当たりがなく、自分の潔白を主張する。ヨブ記の面白いところは、ヨブが抗議すると、本当に神が登場して、ヨブと言葉を交わすところで、神は自分の全能ぶりを語る。すると、ヨブは、素直に、悔い改めてしまうのである。神は、ヨブの全財産を2倍にし、子どもたちも帰って、病も癒えてハッピーエンドで終わる。

ヨブ記を語るとき、たいてい、最後の、ころっとヨブが悔い改めるところや、ハッピーエンドで終わるところに違和感を表明する人が多い。ぼくも、これを文学作品として見れば、非常に惜しい、と思う。傑作になりそこねた、という意味で。長くなるから、止めるけれど、この最後の終わり方が、ぼくには重要に思える。11月に、レクチャーを行うので、そのときの材料の一つに、ヨブ記を取り上げている。後で、レクチャー原稿をアップするので、そのときご覧いただければ幸いです。今日は、サンマルクカフェで、吉本隆明の「ヨブの主張」(『ほんとうの考え・うその考え』所収)を読んだ。吉本さんも、最後の終わり方に違和感を表明している。ぼくは、吉本さんの、超越神とアニミズムを、同じ段階の宗教形態と見る見方には、賛成できない。超越神が創造されたのは、歴史的に見て、決定的な分岐点になったと思っている。



苔ながら花に竝ぶる手水鉢   芭蕉

ひとり直りし今朝の腹だち   去来

■安東次男の解釈は、腹立ちが直れば、心も顔も「綻ぶ」。これが花の縁語になって響いているという。小学館の新編日本古典文学全集では、前句の景を、老人の庭いじりの趣味と見立てて、去来は付けたという。安東次男の解釈は美しいけれど、ぼくなら、やはり、前句から、何らかの景を膨らませて想像して、付けるだろうと思う。その意味では、後者の方に親しみを感じる。そこには、笑いも感じられる。もしかしたら、去来は、この二つを意識していたかもしれない。




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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(16)


■旧暦8月15日、日曜日、台風17号、中秋の名月

(写真)無題

数年ぶりで、本格的な夏バテになった。今週一週間は、ガタガタだった。話を聞いても、音としてしか、耳に入らない。英文を読んでも、アルファベットしか、映らない。昨日、今日と、ひたすら眠った。詩人の高見順が、死の床で、本が読めなくなったので、音楽なら大丈夫だろうと、音楽を聴いてみたら、音としてしか認知できなかった、という話をなんとなく思い出していた。詩人の清水昶さんと、最晩年、電話で話したとき、この頃、本が読めない、としきりに言っていたのも思い出される。活字や音楽が「物」に化したということだろう。言語も音楽も、「客観的に」存在するのではなく、主体の側で解釈してはじめて存在していることがよくわかるエピソードだと思う。

疲労の極あるいは死の直前の老化というのは、世界の無意味化ということに近いのだろう。これは、人間(おもに、支配・統制する側の)が、もっとも恐れて来た事態だろう。その証拠に、古くから宗教が、最近は、科学が、世界の有意味化を担っている。世界が偶然で覆われてしまうことを防いでいるのである。無意味は悪なのだ。

無意味から生まれて無意味に還る。問題は、その間の有意味化の仕方なのだが...。



さし木つきたる月の朧夜   凡兆

苔ながら花に竝ぶる手水鉢   芭蕉

■古今集と、古今六帖を踏まえた安東次男の解釈には、唸った。確かに、芭蕉は、この伝統を踏まえて句を付けていると思える。古典や教養の使い方は、美学的なのだが、人間関係(場面)という社会的文脈に強く規定されている点がとても面白い。これは、ある言葉が意味を持つときの機制と同じで、言語ゲームならぬ「俳諧ゲーム」といったものがあるのは確かだろう。古典を踏まえる分、二重に、深みのあるゲームになるのだろうけれど。



Sound and Vision



※ このところ、よくKhatia Buniatishviliの演奏を聴いている。2011年4月、まだ、3.11後一ヶ月しか経っていないとき、ギドン・クレメールのトリオで来日する予定だった。まだ、若い女性なので、来日を見合わせ、代わりに、急遽、コンサートを終えたばかりのヴァレリー・アファナシエフが、来てくれたのだった。しかし、チェルノブイリで亡くなった友人を持つこの三人、よく来日してくれたと今も思う。この夜のコンサートは、大変感動した。ブログは、ここから>>>





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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(15)


■旧暦8月3日、火曜日、

(写真)新蕎麦

このところ、いろいろ、忙しく、ブログ更新が一ヶ月以上も空いてしまった。その間、俳句をずっと書いていた。写真と俳句を合わせると、昔の俳画のように、面白い効果があることに気がついた。これは、むしろ、結果として出てくる客観的な効果よりも、俳句を写真が誘発する主体的な効果が大きい。この試みは、今後も、継続してみたいと思っている。

村松論が一段落して、今後の展開の余地がはっきりしてきた。話を聴いてくれた人の手ごたえもあったので、書籍化を前提に、今後深めていきたいと考えている。今、ぼくと同じように、村松に関心を持つ、韓国の近代日本文学研究者の朴裕河さんに、原稿を送って、読んでもらっている。彼女の著書『和解のために』(平凡社)は、村松論の発表後に入手したので、まだ、じっくり読んでいないのだが、パラパラ見た限り、領土問題を近代の国民国家成立と関連づける視点や従軍慰安に関するジェンダー的な視点など、はっとする部分や共感できるところが多い。



この春も盧同が男居なりにて   史邦

さし木つきたる月の朧夜   凡兆

■下僕の「居なり」を「さし木つきたる」で受けている。これは、前の句の人間世界を、自然世界に「翻訳」したものだろう。こういう展開もあり得るのか。展開は、軽く流している風に読めるが、安東次男によると、「月の朧夜」は「朧月夜」とは違って、まだ、挿し木が花木になるとは決まっていない微妙な言い回し、ということになるが、むしろ、「月の朧夜」は、「朧夜」に「月の」が連体修飾することで、月が強調・独立され、月のイメージが、「朧月夜」よりも際立つように、感じられるが、どうだろうか。





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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(14)


■旧暦6月24日、土曜日、

(写真)無題

今日も蒸し暑かった。朝早くから、病院へ。帰りに柏でチェリビダッケの廉価版、ブルックナー、ミサ曲第三番を購う。夕方から、ビールを飲みに。夜、女子バレー3位決定戦の最後の方を観る。負けた後の韓国のエース、キム・ヨンギョンの表情に惹かれた。クールな面立ちのまま、表情を変えず、普段と変わらないように、ドリンクを飲む。大事な試合に負けたエースのプライドだったのかもしれない。凄まじいまでの美貌である。

「エネルギー・環境に関する選択肢」のパブリックコメントが、明日までなので、夜、書きあげて送信。当然のことながら、ゼロシナリオを主張した。一見、もっともらしい、疑似現実主義的な15シナリオ、20~25シナリオはありえない。今後、パブリック・コメントのあり方や公開の仕方、政策立案過程への組み込み方なども、テーマ化すべきだと思う。シビアアクシデントの発生確率やリスク論に関心があるので、いい整理になった。

女性の方々は、普段、社会での発言の機会が封じられてしまうので、どんどん、自分の意見を述べた方がいいように思う。別に論文を書く必要もないと思う。子どもに近く、生活に近く、感情に素直な意見は、理性や合理性といったものが、実は、男性社会が作ってきたものであることを、垣間見せる。女性の意見は、いろいろな意味で貴重だと思う。経団連や同友会、日本商工会議所のメンメンを観てみればいい。先のない爺さんばかりじゃないか。

「エネルギー・環境に関する選択肢」のパブリックコメント、明日12日の午後6時まで。ここから>>>   直接、書き込む場合、 ここから>>>



三里あまりの道かゝえける   去来

この春も盧同が男居なりにて   史邦

■「三里あまりの道かゝえける」を、主人の使いにやってきた下男と読み替えている、ところがまず面白いと感じた。同一人物の解釈で進まない。三句が同一人物になることを避けるというのが、やはり、俳諧は新しい展開を好むのだなと思う。第二に、中唐の隠士、盧同をもちだしているところが面白いと思った。現代で、この人を知っている人は、まずいないと思うが、当時は、知識階級では、よく知られていたらしい(韓愈の長詩に名前が出てくる。出典は、同『古文真宝』)。よく知られた具体的な名前を出してもいいのだという自由なところが面白い。安東次男の解釈を読むと、その含みは、相当複雑で、一言では言えないと思った。「居なり」とは、奉公人が、年季が明けても、そのまま、住みこむこと。





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猿蓑:「鳶の羽も」の巻(13)



■旧暦6月12日、月曜日、

(写真)7.29デモから

今日も暑かった。朝から、雑用に追われて気がつけば、夕方。耳鳴りで夜眠れないことが多いので、睡眠薬を常用しているのだが、睡眠薬は、反睡眠作用とでもいうべきものがあり、強制的に眠らせる分だけ、覚醒の力も呼び起こす。そのため、睡眠剤なしで眠るよりも、早く目覚めてしまう。そこで、睡眠導入剤のデパスのみ服用してみたら、これが上手く行って、長く眠れた。だが、睡眠薬で押さえていた耳鳴りが出て来て、今度は終始これに悩まされる。なかなか、上手くいかんものである。

夕方、詩を一篇書く。昨日のデモをモチーフにしたものだが、しばらく書いていないと、どう書いていいのか、いつも途方に暮れる。途方に暮れた地点からいつも書き始める。一つ言えるのは、朗読のために書くという一点である。最近は、これしか基準がない。だから、逆に、どう朗読していいのか、途方に暮れる図形詩にとても関心を持っている。

F/Bで加藤楸邨をじっくり読んでいるのだが、非常にいいので驚いている。人間探求派というレッテルに囚われると、楸邨のスケールが見えなくなるなと感じている。これまで、読んだ感想では、楸邨は「現代の一茶」とでも言える俳人で、昆虫や動物の秀句が多いだけでなく、一茶のようにディープである。しかも、歴史的現実に対する感覚が鋭い。なにより惹かれるのは、俳句が諧謔性に富んでいることだ。笑いを本義とする俳諧の本流が楸邨に流れ込んでいるという印象を受ける。学ぶ点の多い俳人だと今さらながら思う。

F/Bでクラシックに造詣の深い方がいて、刺激を受けて、ブルックナーの9番を、このところ、よく聴いている。この曲は第4楽章がない未完の交響曲だが、ブルックナーが残した草稿から最終楽章を復元した版がいくつか出ている。そのうち、もっとも古く、1992年に出て話題になった、クルト・アイヒホルン指揮、リンル・ブルックナー管弦楽団のCDを聴き直している。アイヒホルンの第4楽章は、今聴き直すと、蛇足という感じがしてならない。マタチッチやヴァント、ヨッフムの三楽章で完結した録音の方が、はるかに完成しているという印象を受けてしまう。ブルックナー自身は、完成できなかった場合、第4楽章の代わりに、テ・デウムを演奏するよう示唆していたらしい。2012年に出たラトルの第4楽章の録音がどうなのか、気になるが、サマーセールで購入したまま、まだ聴いていない。



吸物は先出来されしすいぜんじ  芭蕉

三里あまりの道かゝえける   去来

■去来の含みを解釈した安東次男の解説を読むと、ちょっと、驚いてしまう。妄想と紙一重の人間関係の粋をくみ取っている。よく知っている親しい相手だからこそ、できる呼吸だろうと思う。しかし、もっと、あっさり解釈してもいいような気がする。吸物が出て宴はこれからだが、自分には、家路を急ぐ訳がありまして、ごめん。








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