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往還日誌(251)







■12月20日、金曜日、晴れ。

若宮へ戻って、1週間が矢のようにすぎた。

年末、家族に怪我があり、一気に、主観的な時間が加速した。

14日の土曜日は、千本へ移ると、気軽には、これなくなるので、出町の柳月堂へ。

数年ぶりに、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲15番を、バリリ弦楽四重奏団の演奏で聴く。

15番は、マルセル・プルーストやトーマス・マンも愛好したらしい。

たしかに、この曲の崇高な美しさには、心を浄化する強い力がある。

この流れで、YouTubeで、後期ベートーヴェンのカルテットを聴いている。

40歳くらいまでは、毎日、浴びるように音楽を聴いていたものだが。

柳月堂のブラウニーとダージリンは美味だった。珈琲はあまり...。





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往還日誌(250)







■12月16日、月曜日。晴れ。

若宮一日目で、たいへん、多忙。

昨日は、いつもより、早い時間の新幹線で横浜へ。

久しぶりに、句会参加、特選1句、入選1句。

句会のあと、忘年会。

久しぶりに、みなさんと会って、たいへん楽しかった。

忘年会は、2次会で、今年、もっとも驚いたことを3つあげるという趣向で、各自話したが、その中に出てきた話で、鴉が金魚を食べる話や、鷗の眼に慈悲がない話を初めて聞いて驚いた。

私は、中山美穂さんが急逝した件と斉藤知事の件を、驚いた3つのうちの2つにあげた。

ほかは、諸々、差しさわりがあるので、省略。




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往還日誌(249)






■12月14日、土曜日、早朝、激しい雨があり、少しして止み、今は晴れ間が出て、鳥が囀っている。

5時前起床。11時過ぎには眠れたので、たいへん、気分がいい。

予備的なエクササイズを行い、深蒸茶を一杯飲み、句を何句か作って、引っ越しの箱詰め作業に入る。

年明けには、新しい街、千本へ移るので、寺町近辺で、いろいろ、行っておきたいところもあるのだが、その時間はなさそうである。



午前中、引っ越し作業に一段落つけて、京都大学基礎物理学研究所の「極限宇宙市民講演会」のウェビナーに参加。

飯塚 則裕国立精華大学教授「思考実験とブラックホールと量子論」
奥西 巧一新潟大学教授「物質中に広がる小宇宙―スピンで見る物質と量子情報の世界―」

今回が3回目になるが、毎回、面白い。

飯塚教授の思考実験で、ブラックホールを考えるという趣向は、自ら考えた「動く歩道」というモデルで、非常に、明確にブラックホールの構造を説明していた。

そもそも、思考実験の始まりは、ガリレオ・ガリレイからで、思考実験の起源にあたる「落体の思考実験」の説明もあって、たいへん興味深いものだった。

論理的な展開だけで、真理に到達するその手法は、完全に、常識的思考を超えていて、驚く。重いものと軽いものが、同じ速さで落ちるというのは、現実の常識や経験からは、重いものが速いと考えるのが普通だろう。

ダウンの羽毛はいつまで下に落ちないのに、重みのあるファイバー・カステルのシャープはすぐに落ちる。

しかし、月面での実験映像も見せてくれたが、重さに関わりなく、空気抵抗がないと、重いものも軽いものも、同時に地面に落ちる。

この「経験していない、あるいは、経験できない真理」を、論理的な展開と矛盾だけで、見抜くその手法は驚くべきものだと思う。

アマゾンで、ガリレオのこの思考実験が描かれている『天文対話』を購入してしまった。

奥西教授の話では、多体問題が興味深かった。

教授は、物性物理というミクロの世界とマクロの世界を結ぶ領域の研究者だが、原子や電子、素粒子といった、要素還元主義の極限にある量子論の世界で記述される、基礎物質の性格だけでは、物性物理という人間世界で起きる物理現象は説明できない。要素間の相互作用が重要になる。

それが多体問題の領域になる。

これは、ルカーチがたびたび言及する「複雑系の問題」と非常に似ている。そこで、次の質問をしてみた。

質問「多体問題は、よく言われる複雑系の問題(多くの要素が相互に影響し合い、全体としての振る舞いが単純な法則や予測可能なモデルでは説明しきれないような問題)と同じようなものなのでしょうか?」

奥西教授「複雑系の問題における、たとえば、『カオス問題』は、古典物理学で議論されます。

多体問題の場合、量子論が入ってきます。

たとえば、南部陽一郎博士が発見した『相転移問題』などがでてきます。

ただ、問題意識としては同じものと見ていいと思います」

来年まで、この市民講座はあるらしいので、楽しみである。



引越しの梱包はほぼ終了して、後は、引っ越し当日まで使用する日用品のみとなった。

午後、J:COMがネットのルーターの取り外しに来る。

夕食は、ライオンキッチンへ。

明日は、新横浜経由で若宮へ。

横浜で、句会に参加予定。

今回の年末年始の若宮滞在は、20日間になり、長丁場。




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往還日誌(248)






■12月12日、木曜日、晴れ。

京都は、この2、3日、急に冬が深まってとても寒い。

連日、引っ越しの準備。書籍や衣類は大方、梱包が終わり、あとは、食器類や水回りの品が残っている。

食品は、今週中に消費してしまわないといけないので、朝晩と、マメに食事を作っている。

歳を取って一層強く感じるのは、記録の重要性である。

もともと、会社を辞めた35歳の頃から、30年間、日誌をつけているので、現在、100頁のノートで140号を数える。1万4000頁。

記録は、起こった出来事を記録するだけでなく、近い将来の計画も含むので、ファイロファックスと併用して、行動の方向付けを行っている。

たとえば、引越しのような複数の業者と打ち合わせ、各業者に来てもらう日時を調整するなどといった、複雑な調整は、こうしたノートやシステム手帳がないと難しい。

社会は、20年前、30年前と比較して、確実に複雑になっており、この傾向は、今後も続くと思われる。

スマホやPCなどのデジタル機器やAIも使用するが、紙ベースを完全に放棄することは、今後もないと確信している。



今年、一番驚き、また、自らの不明を恥じるのは、ハンガリーのブダペシュトの、ドナウ川に面したルカーチ自邸跡にある「ルカーチ・アルヒーフ」が、なんと、6年半以上前に閉鎖されていたという事実である。

経済的な事情ではなく、右翼の現政権の圧力で閉鎖されたようである。

ハンガリーでの極右ナショナリズムの高揚を背景に、2010年頃から、その支持を得た政権によるルカーチ批判と「ルカーチ・アルヒーフ」に対する攻撃が激しくなったという。

ルカーチ批判のピークが、2017年1月25日のブダペストの聖イシュトバーン広場からのルカーチ像の撤去だった。

なんと、その代わりに建てられたのは、初代ハンガリー王(在世1000-1038)の像だった。設置は2019年8月20日のことである。

2018年5月24日には、「ルカーチ・アルヒーフ」のすべての出入口の鍵がハンガリー科学アカデミー図書館に移される決定がなされた。それによって「アルヒーフ」の職員が建物に入れなくなったという。

私は、ウェブメディアの報道という激務と、日本語にするのが非常に困難な、知識社会学のテクストの日本語版作成の間を縫うようにして、ライフワークの一つとして、このルカーチ晩年のドイツ語原文1500頁の大著『社会的存在の存在論に向けて』の日本語版を、2019年6月7日から、哲学者N氏の主催する雑誌『イデー』に翻訳連載してきた。

私は、大学に籍のある専門の研究者ではないから、研究の時間は、ごく限られる。

その難しい条件の中で、全身全霊を傾けてきた。

なので、「ルカーチ・アルヒーフ」は、一度は行かなくては、と思っていた。

ハンガリーの現政権は、2010年から首相を務めるオルバーン・ヴィクトル氏が率いる保守系右派政党「フィデス=ハンガリー市民同盟(フィデス)」と「キリスト教民主国民党(KDNP)」の連立政権である。

オルバーン政権は、強いナショナリズムや移民排斥、伝統的価値観の重視など、右派ポピュリズム的な政策を推進していることで知られている。

ここだけ、見れば、とんでもない政権に見える。

現に、「ルカーチ・アルヒーフ」を閉鎖に追い込み、欧州中のリベラル知識人たちから非難を浴びている。

しかし、ウクライナ紛争のエスカレーションにNATOの中で唯一反対し、ロシア制裁がブーメランになることを常に主張し、欧州の中で唯一正気で、まっとうな「反エスカレーション」と「反戦平和」を主張してきた政権でもある。

「極右」ということで、トランプ氏とも近く、同時に、ウクライナ紛争を即時停戦させるといった方向性も同じである。

これは、欧州の極右、フランスの国民連合やドイツのAfD、英国のリフォームUKなどとも共有する傾向である。

そして重要な点は、これを欧州の民衆が大きく支持しているということである。

「極右」とレッテル貼っているのは、民衆の利益とは乖離した、リベラル・エリートのEUやNATOの既得権益を、代理する「オールドメディア」である場合が多い。

もちろん、彼らには、国家主義的傾向や、移民排斥、人種差別問題、人権問題などの問題点は多い。

だが、極右=とんでもない=危険として排除している勢力の社会経済的基盤に目を向けることも重要である。

これと同じ現象が、日本でも起きている。

それが、顕著になったのは、小池さんが圧勝した2024年7月7日の都知事選における石丸伸二現象からだろうと思う。

これ以降、ネットvsオールドメディアという現象がだれの目にも明らかになってきた。

一番近くでは、2024年11月17日の斎藤元彦兵庫県知事の再選である。

現在、斎藤知事再選後、N党の立花孝志党首や丸山穂高元議員が、YouTubeで活発に情報発信している。

批判されているオールドメディア(私の概念で言えば「国家利権村メディア」)の『文春』や『神戸新聞』、『朝日新聞』、『読売新聞』や、それらを代理するジャーナリストらの言説と、立花党首や丸山元議員の言説をフラットに比較すると、オールドメディア側には、合理性や首尾一貫性、説得性が欠ける。

「ルカーチ・アルヒーフ」から、話が飛んだけれども、要は、立花党首や丸山元議員、フランスの国民連合やドイツのAfD、英国のリフォームUK、ハンガリーのオルバーン首相らに、「極右」と一面的な予断と偏見を以て接すると、大きく、事態の本質を取りそこなう可能性があるということなのである。

彼らの社会経済的な基盤は民衆であることが多く、オールドメディアのそれは、国家利権村(場合によっては、日米安保条約という社会システムやEU、NATOのような、国際国家利権村)である場合が多いからである。

難しい時代に入ったと思う。



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往還日誌(247)







■12月8日、日曜日、7時半起床、晴れのち時雨。

午前中、ヘーゲル読書会。

今回のところは2つ感じた。

1つは、ヘーゲルの『精神現象学』は、運動論が大きな美点である点。

しかも、運動は、意識が高次の次元へaufhebenして移行するという非常に魅力的な構造をしている。

カントやデカルトにはない美点であり、それらを源流とする自然科学・社会科学が、スタティックな存在分析に終始することと対照的に、ヘーゲル哲学は、存在の運動論的なダイナミックな分析を具体的に行う地平を拓いている。

マルクスやルカーチは、ヘーゲルに学び、aufhebenを伴う運動論で、社会的存在の存在論的分析を行っている。

ここは、素晴らしい点だろう。

他方で、ヘーゲル哲学に内在する「自然と精神」の問題も、高次の次元へaufhebenされるという価値の定立によって生じる。

自然には、高次な次元に止揚されるという意味での発展がない。

ヘーゲルは、今日のところでは、Reflxion(反省)という契機を強調していたが、自然は反省しない。

また、ヘーゲルに依拠するルカーチは、概念的把握が、自然的存在にはできないと述べている。

これらは、そのとおりだろう。

問題はここから先で――これが第2点目だが――だから、自然は人間精神より劣っており、支配・搾取の対象にしていい、というロジックにつながる。

さらには、反省や概念的把握ができるのは、キリスト教徒の欧州人に限られ、アフリカ人やアジア人にはできないという人種差別的なところへも一気につながる。

ヘーゲルやその系譜の理論家には、人間主義、あるいは欧州人主義の、この傾向がある。

カントにも、そうした欧州人理性優位主義が見られる。

これは、現在でも、見られる傾向であり、私が、自分の時間空間論であるTB-LB Theory 2.0を構想したときに、第一命題に持ってきたのは、「歴史的被害存在の痛みに定位する」という命題だった。

これは、この人種差別の問題を私なりに回避するために取ったものである。

(自然に関しては、まだ、思索している。

今は、人間と自然の質的な差異性、人間の固有性、秀逸性を認めつつ、だからと言って、人間は、自然より上位でない、という矛盾した気持ちを持っている。

たぶん、これは私が俳句を詠む人間だから、余計そうなのだろうと思う)

今は、もうひとつ必要だと思っている。

それは、社会理論(自然理論も)は、その知識社会学的反省とセットで提示すべきだという考え方である。

提示した社会理論(一般に知識)が、現実の社会の中で、どのように機能しているのか/しまうのか、それに対する知識社会学的な反省とセットで常に、考えられるべきだというものである。

きょうの読書会では、スピノザとホッブスに、自然主義的な要素があるらしいことがわかったので、私の問題意識に一致するかどうか、ぼちぼち、調べてみたい。

これとはちょっと、角度は違うが、ヴィパッサナー瞑想を4月から始めて、それなりに、心身調整のうえで、効果を認めている。その瞑想を、サマタ瞑想とともに、両輪として、実践体系の中に位置づけている初期仏教に関心があり、初期仏教の考え方を少しづつ調べている。

今のところ、ワールポラ・ラーフラの名著『ブッダが説いたこと』などを検討している。

ブッダの考え方は、分析的で、要素還元主義的で、非常に、現在の自然科学と親和性が高い。しかも、神仏といった超越神を、基本的には認めていない。大衆説法の上で、便宜上、そういうことはあっても。

この初期仏教の考え方が、自然科学や数学のように、スタティックなものかどうか、見極めたいという気持ちがあって、ヘーゲルと比較して検討している。

日本で受け止められているような大乗仏教の教えと、ブッダその人の考え方は、ずいぶん、異なるというのが、私の印象で、だからと言って、大乗仏教を頭から否定するものではないが、起源に還るというのは、重要なことだと思っている。

実家は、真言宗であり、妻や叔母の菩提寺は曹洞宗であり、日蓮宗の不受不施派に、関心があり、一時期調査したこともある。

死ぬときは、良かれ悪しかれ、戒名をもらって、「仏弟子」として死ぬることになる。

ブッダとはどういう人だったのか、ということは理解しておきたい。

このヘーゲル読書会の後、すぐに引っ越し準備に入る気にならず、朝食後、御所の周りの散歩に出た。

時雨が連続してあった。

時雨があがると、東山に冬の虹がかかった。

帰宅後、本の箱詰。

夕食は、レンコンを万願寺唐辛子と蒸してみた。

オリーブオイルと塩で食した。

油は胡麻油の方が日本の野菜には合う。

オリーブオイルは、毎日小さじ1.5杯程度の摂取で、その食事メニュー関わらず、認知症による死亡リスクが 28% 低下したという、28年間にわたり医療従事者を対象に実施した米国の大規模調査が発表されている(ただし性差では,女性でこのリスク低下の効果が顕著であったのに対し、男性では有意差はなかった)。

オリーブオイルは、バゲットや生野菜が合う。






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往還日誌(246)






■12月7日、土曜日、晴れたり曇ったり。

10時半に起きる、途中覚醒が3時半と7時半に2回あった。

それでも、マウスピースは、いい仕事をしていて、睡眠は深い。

そうじ、予備的エクササイズ、歩く瞑想、気功を行う。

深蒸茶を入れて、俳句を作る。

その後、軽く朝食。断食は16時間。

午後から、冬紅葉の御所へ。外気は冷たい。

きょうは、大勢の人が紅葉を観に来ていた。

今出川御門を入ったところの大銀杏は、黄金に色づいて金の葉がしきりに斜めに散ってゐる。

小さい子どもさんを、その背丈にあわせてしゃがんで、大銀杏をバックに写真を撮る若いママさん。

若い女の子の二人連れが、複数、大銀杏を取り囲んで、言葉もなく見とれてゐる。

女の子たちが、思い思いのポーズで写真を撮り合ったりしている。

幸あれ、平和であれ、という気分になる。

いつものベンチのところで、万歳鶴太郎40回、バックランジ左右10回。ワイドスクワッド10回などを行う。

帰りに、出町柳商店街で、夕食の買い物をして帰宅。

帰宅後、18番の無水チキンカレーを作る。

その後、ニコの仕事。

引っ越しのための本の梱包作業開始の予定だったが、明日に順延。





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往還日誌(245)





■12月3日、火曜日、晴れ。

朝起きて、軽くストレッチして、深蒸茶を一杯飲んで、U診療所へ鴨川を歩いて北上。

きょうは、担当医のAドクターに、引っ越しで近くの別の医院へ転院したいので、紹介状をお願いする予定だったが、話しているうちに、気が変わった。

千本から出町まで201系統ですぐだし、歩いても、せいぜい、30、40分。

定期的に移動する機会は、ある意味、制度的に作った方が、精神状態にも良く、また、クリエイティブな仕事をする上でも、効果があることが、経験上わかっている。

楽な方あるいは効率的な方を、あえて、選択しない方がいいこともある。

何より、このコースだと、鴨川の水を観察することができる。

昨日、平野神社の近くの不動産屋さんで、新居の契約を済ませた。

ここも、寺町から徒歩で行ったのだが、途中、西大路通に、24時間営業のカフェを見つけた。

入ってみて、その空間配置と古さ加減、かかっている音楽が一目一耳で気に入り、ここを、第2の仕事場にすることに決定した。

飲み物も美味だった。

私は、半ば、隠棲状態だが、それでも、忘年会が2件、新年会が1件ある。

忘年会と新年会は、その間の時間は数週間でしかないが、これほど、会の色彩に変化があることに今さらながら驚く。

新年会には、正月の淑気があるが、忘年会には、とても複雑な気が流れている。

この一年の達成感と後悔、一年の仕事や努力・苦労から解放されるような感覚、過ぎ去った時間や経験への名残惜しさや感慨深さ、一緒に過ごした仲間や、支えてくれた人々への感謝、次の年への希望・期待と同時に、未来への漠然とした不安など、たいへん複雑で、一言では言えない。

それは、人間が経験する現実の複雑さそのものであろう。

新年会には、この「経験」という要素は薄い。

もちろん、その華やいだ雰囲気は、経験しないうちからも、活力となり、とてもいいものである。





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往還日誌(244)







■12月1日、日曜日、晴れ。

若宮では、「マウスピース」の再発見があった。

以前に、かみ合わせの矯正のために作ったもの。

右奥歯の歯周病のため、かみ合わせがズレてきたので、ふたたび装着。

マウスピースによって、深い眠りが得られ、鼻のとおりも良くなる。

朝起きて、心身調整を行う際、身体の骨格と筋肉が、マウスピース装着によって、張りが取れて、整っているのを感じる。

それほど、こんな小さい器具が心身調整に効果を発揮している。これは習慣化すべきだと悟った。

口腔ケアは最重要だが、歯や舌のケアに加えて、かみ合わせの調整という観点が、心身全体にとって、非常に重要。

朝から、夕方までルカーチの翻訳原稿に専念。

夕方から京都へ向かう、のぞみ車中でも、原典のドイツ語と、英語版、フランス語版を比較検討。

22時過ぎ、一定庵到着後、ただちに、スーツケースをほどき、パソコンをセットして、翻訳原稿の作成を開始。

0時過ぎに原稿送付。

いろいろ、用事があり、思うように時間が取れず、原稿の進みはよくないが、ベストは尽くした。

先週の若宮滞在では、詩誌『東国』169号に、詩2編と、野村さんよりいただきた拙詩集の書評原稿を送る。

詩も社会哲学も翻訳も、納得のいく仕事ができるのは、あと正味10年だと思っている。75歳まで。

この10年に行うべきアウトプットの工程表を作成した。

私は、48歳から54歳まで、認知症の叔母の介護を経験した。

ケアマネやヘルパーさんとの打ち合わせや、ノートを使った連絡、日常生活における叔母との対話や通院の付き添いなどで、身近に、認知症と老化を観察できた。

この経験を、40代後半から50代前半にさせてもらった叔母には感謝している。

このタイミングは、ベストだった。

心身の調整や鍛錬、充実のための日常行為に、少しでも過信や油断があれば、それは、75歳以降の心身に確実に反映される。

このことの深刻さは、言葉では表現できない。

仕事も、この心身のベースがないとできない。




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往還日誌(243)







■11月28日、木曜日、晴れ。

世代間で感性やメディアに対する考え方、特に、SNSの使い方などが異なるので、世代のボリュームが知りたくなって調べてみた。

つまり、どの世代集団に社会的なパワーがありえるのか、ざっくりと見るためである。

30代の人口割合は、11.1%

40代で14.3%

50台で13.6%

60代で12.2%

70代で13.0%

80代で7.5%

90代で1.9%

(人口統計資料集(2023)改訂版、国立社会保障・人口問題研究所)

80代になると、一気に、人口ボリュームが減るのがわかる。

40代、50代、70代が、人口ボリュームが比較的大きい。いわば、働き盛りと、リタイアして間もない70代。

この年代の人たちの声が大きくなりやすく、この人たちにとって好都合な施策が、得票のためには、有利だということも言える。

70代を5年刻みで見ると、74歳までは、7.7%の人口ボリュームだが、75歳を超えると、5.3%になる。

つまり、70代の声が大きいのは、70代前半までということになる。70代も半ばを超えると急速に亡くなっていく。

30代はもちろんのこと、40代も、新聞やテレビ、本は、もうとうに離れて、SNSの方へシフトしているという印象がある。

50代は、まだ、新聞テレビは、ある程度は見ていたり、本も読むのではないだろうか。

2年前に、京都の一定庵でテレビをレンタルしたとき、配送してきた業者にめずらしがられた。

今は、テレビをレンタルする人はいないと。

私も、実際に、京都でテレビを観たのは、なんと2回だけである。

ネットですべて済ますことができた。

健康管理も、70代半ばからが、完全に勝負になることがわかる。ここが分かれ道になる。

ということは、つまり、60代の仕込みがすべてを決めると言っても過言ではない。



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往還日誌(242)







■11月27日、水曜日、晴れ。

11月も下旬になってきた。

きのう出社した六本木は、ツリーと造花の街になっていた。

冬の雨だった。

きょうは、一転してよく晴れた。

若宮でできる引越関連の手配はすべて終了した。

これで、今週の午前中は、ニコの仕事と、ライフワークの1つであるルカーチの翻訳原稿に専念する条件が整った。

新しい街、千本では、とにかく、周辺を歩き回る。

徹底的に歩いて、街を身体に入れ込む。




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