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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その30)─野口実氏の場合

2023-10-31 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
「慈光寺本妄信歴史研究者交名」シリーズも三十回になったので、そろそろ纏めて次の話題に行きたいと思います。
五つのメルクマールに即して、若手・中堅・ベテラン・長老クラスの研究者を眺めてきて、後は「大将格」の高橋秀樹氏と長村祥知氏、そして「総大将」の野口実氏を残すだけですね。
高橋氏については近著の『人物叢書 三浦義村』(吉川弘文館、2023)が未読なので、同書を確認後とします。
長村氏の見解については今までかなり検討してきましたが、このシリーズでは、残された論点のうち野口氏と共通の問題点、即ち国文学者の西島三千代氏の影響を中心に少し論じたいと思っています。
そして西島説の影響を最初に受けたのは野口氏のようですので、野口氏の見解から見て行くことにします。
まずは五つのメルクマールに即して野口説を見て行くと、野口氏には「序論 承久の乱の概要と評価」(『承久の乱の構造と展開 転換する朝廷と幕府の権力』所収、戎光祥出版、2019、初出は2009)という論文があり、これは「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」しようとするものなので、必然的に慈光寺本への依拠の度合は極めて高くなっています。
野口氏の基本姿勢については、リンク先の2020年5月31日の投稿を参照願います。

「後鳥羽院は北条義時を追討することによって、幕府を完全にみずからのコントロールのもとに置こうとした」(by 野口実氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a0794550964b14bd7d1942d4594e3bc8

まず、メルクマール(1)については、

-------
 一方、京都の形成を察した幕府執権北条義時は、実朝の死んだ翌月に、自分の妻の兄にあたる伊賀光季と幕府の宿老大江広元の子親広を京都守護に任命するとともに、政所執事の二階堂行光を使者として京都に派遣し、かねてからの黙約にしたがって、皇子の東下を要請した。しかし、院はこれを留保する一方、実朝の弔問のために鎌倉に派遣した藤原忠綱に、自分の寵愛する遊女亀菊(伊賀局)の所領である摂津国長江庄(大阪府)の地頭職改補の要求を伝えさせた。長江庄の地頭は北条義時である。
-------

とあって(p9)、長江庄の地頭が義時と断定されていますね。
なお、細かいことですが、『吾妻鏡』と流布本では長江・倉橋庄の二つが問題となっているのに対し、慈光寺本では「長江庄三百余町」だけです。
次にメルクマール(2)については、

-------
 光季は討死の前に、院の挙兵を鎌倉に伝える文書を下人に託していた。この下人が京都を発ったのは十五日戌刻(午後八時頃)であったが、これと同時刻に三浦胤義の使者も義村宛の書状を携えて鎌倉に向っている。また、院からは幕府の有力御家人である北条時房・三浦義村・武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏らに、五畿七道諸国に宛てた義時追討の官宣旨と義時の幕政奉行を停止すべしとする院宣が下された(とりわけ北条時房・三浦義村の両人に対しては、院の内意を伝える秀康の書状が添えられた可能性がある)。これらを携えた院の下部押松が、鎌倉を目指して京を出発したのは、十六日の寅刻(午前四時頃)のことであった。
-------

とのことで(p11以下)、細かいところまで全て慈光寺本に沿っていますね。
ま、「北条時房・三浦義村・武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏ら」と八名列挙した後の「ら」は変ですが。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その25)─「十善ノ君ノ宣旨ノ成様ハ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5bff55e756146f37e86ea769222736e3

それと「とりわけ北条時房・三浦義村の両人に対しては、院の内意を伝える秀康の書状が添えられた可能性がある」は史料的根拠のない推測ですが、時房の立場について、野口氏は、

-------
 なお、この義村とともにとくに北条時房が蹶起を期待されたのは、彼こそが北条氏の在京活動の担い手として、院近臣の公卿たちとも親密な関係にあったからであろう。当時は北条氏嫡流(得宗家)の権力が確立していた訳ではなく、時房が義時から離反する可能性も否定は出来なかったのである。しかし、実質的に鎌倉将軍家と北条氏双方の家長の立場にあった政子の存在がそれを抑止したのであった。
-------

と考えておられるので(p13)、「時房が義時から離反する可能性」と連動した「可能性」ということでしょうね。
なお、幕府軍の構成について、一般には『吾妻鏡』(と流布本)に従い、東海道十万騎、東山道四万騎、北陸道五万騎の合計十九万騎とするのが通例ですが、野口氏は慈光寺本に即して、

-------
 東海道軍は、先陣が北条時房(義時の弟)、二陣が泰時(義時の嫡子)、三陣が足利義氏(義時の姉妹の子)、四陣が天野政景(三浦義村の姉妹の夫で、義村の代官か)ら、五陣が木内胤朝と千葉泰胤(いずれも千葉市一族で、おそらく家督の胤綱が年少であるための名代)に率いられた都合七万騎。これがいわば大手軍で、総大将は泰時であったが、これを補佐して実質的にその役に当たったのは、泰時の舅の三浦義村であったようだ。
 東山道軍は、甲斐源氏の武田信光と小笠原長清を大将軍とする五万騎。北陸道軍は、北条朝時(義時の二男)を大将軍とする七万騎。三道の総勢十九万騎の陣容である。
-------

とされます。(p14)
ただ、北陸道ルートは東海道・東山道と比べて移動距離が長大で、実際にも北陸道軍は宇治河合戦に間に合わず、京都への到着は二十日(『百錬抄』。慈光寺本では十七日。『吾妻鏡』と流布本には記載なし)になってしまっています。
そして最初の主戦場が北陸道軍には無関係な尾張河(木曽川)流域となることも予想されていたでしょうから、総勢十九万騎という数字は大袈裟だとしても、

 東海道:東山道:北陸道=10:4:5

という『吾妻鏡』(と流布本)のバランスはそれなりに妥当な感じであり、慈光寺本の、

 東海道:東山道:北陸道=7:5:7

は不自然に思われます。
また、慈光寺本では、そもそも京方には東海道軍と東山道軍を分ける理由がないにもかかわらず、藤原秀康による第一次軍勢手分では、

 東海道 七千騎
 東山道 五千騎
 北陸道 七千騎

となっていて、それぞれ幕府軍の十分の一であり、割合は、

 東海道:東山道:北陸道=7:5:7

と、幕府軍と完全に一致します。
まるで示し合わせたかのようなこれらの数字はどうにも不自然ですね。

盛り付け上手な青山幹哉氏(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ddb79082206b07a41b9c10cae3a4954d
慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その3)─「3.藤原秀康の第一次軍勢手分 21行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/43e09e10a4bab75dd2a1b0608e586a02
「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その9)─山本みなみ氏「承久の乱 完全ドキュメント」(続)(続々)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9f25e804b9632846bf3b25419a1518c6
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/31f9298885a988a2bbbabf1631511f8b
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その29)─関幸彦氏は何故に「伊王左衛門」能茂に何の疑問も抱かれないのか。

2023-10-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
私が「慈光寺本妄信歴史研究者」の「大将格」と思い込んでいた関幸彦氏は、五つのメルクマールに即して検討してみたところ、意外にも(1)(2)については慎重な態度であり、僅かに(4)「逆輿」に該当するのみでした。
もちろん、このメルクマールの設定自体、慈光寺本にしか見られない多くの記事の中から、私が(ある意味、恣意的に)選択したものであり、他のメルクマール、例えば

(6)慈光寺本における藤原能茂の役回りを素直に信じるか。

といった設定をすれば、関氏はやはり「大将格」であった、という話にもなり得ます。
改めて私が何故に関氏を「大将格」と思い込んでいたかというと、それは関氏が慈光寺本と他の諸本、特に流布本との異同に極めて無頓着で、慈光寺本にしか存在しない記事を、あたかも『承久記』に共通に書かれている記事であるかのように引用されるからですね。
その典型が後鳥羽院出家の場面に描かれる「伊王左衛門」能茂の役割です。
後鳥羽院が「彼堂別当ガ子」と能茂の出自に言及した上で、最期の願いとして能茂に会いたいと北条時氏に懇願すると、それまで「琰魔〔エンマ〕ノ使」のようであった北条時氏が突然涙を流し、父・泰時に対して、「伊王左衛門能茂は、前世において「十善君」後鳥羽院とどのようなお約束をし申し上げていたのでしょうか。「能茂に今一度だけ会いたい」との「院宣」が下され、都において「宣旨」を下されるのは、今はこの事ばかりです。早く「伊王左衛門」を後鳥羽院の御そばに参上させなさるべきと思われます」という手紙を書きます。
そして時氏の手紙を見た泰時は、周囲の「殿原」に対し、「皆さん、時氏の書状を御覧くだされ。今年で十七歳の若さなのに(実際には十九歳)、時氏にはこれほどの思いやりの心があったのだ。立派なものだ」と絶賛して、時氏の言葉に従い、能茂を後鳥羽院に会わせるように手配します。
その際、「伊王左衛門、入道せよ」と命じたとのことで、能茂が出家してから参上すると、後鳥羽院は能茂を御覧になって、「出家したのだな。私も今となっては剃髪しよう」と決意され、仁和寺の御室(道助法親王、後鳥羽院皇子)を御戒師として御出家なされたので、御室を始めとして、見奉る人々、そのお話を聞いた人々は、身分の高い者も賤しい者も、猛々しい武者に至るまで、涙を流し、袖を絞らぬ者はいませんでした、という展開となります。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その58)─「彼堂別当ガ子伊王左衛門能茂、幼ヨリ召ツケ、不便に思食レツル者ナリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a204b22519ff861aada15f0e4942569
(その61)─「其時、武蔵太郎ハ流涙シテ、武蔵守殿ヘ申給フ事」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3412d6a819e9fd4004219b4ca162da01

関氏は、この場面について、「ここには勝者時氏の驕慢と敗者後鳥羽の失意が文学的筆致で描写されている。運命を甘受せざるを得ない敗者の定めが活写され、『承久記』でのハイライトシーンの一つでもある」(『承久の乱と後鳥羽院』、p134)などと言われていますが、私にはそんな素晴らしい場面とは思えません。
まあ、「文学的筆致」とあるので、関氏はこのエピソード全体が史実と断定されている訳ではありませんが、そうかといって、さほど疑っておられる気配も感じられません。
これほど嘘くさい場面に、関氏は何故に格別疑問を抱かれないのか。
私には、その理由は「最期の望みとして寵愛していた伊王能茂との面会を願う」(同)という表現に現れているように思われます。
藤原能茂は後鳥羽院の「寵童」であったと推定されていますが、この関係が一種のブラックボックスとなっていて、よく分からないけれども、二人の間には余人には理解困難な何か特別の世界があったのだろう、ということで、何となく済まされているのではないか。
あるいは、「寵童」がマジックワードになっていて、能茂は「寵童」だから、で多くの研究者が思考停止に陥っているのではないか。
しかし、能茂が後鳥羽院と特別に親密な関係を持つ「寵童」であったと伺わせる史料は、実際には慈光寺本の後鳥羽院出家の場面だけですね。
単に「寵童」というだけなら、おそらく「愛王左衛門」渡辺翔もそうだったのだろうと思われます。
また、『吾妻鏡』六月十八日条の「六月十四日宇治合戦討敵人々」の最後の方に、

 古郡四郎〔一人。瑠璃王左衛門尉。西面。生取〕

とあって、古郡四郎が「瑠璃王左衛門尉」を生捕りし、その人物は西面の武士だったとのことですが、

 医王左衛門尉(藤原能茂)
 愛王左衛門尉(渡辺翔)
 瑠璃王左衛門尉

と「〇王左衛門尉トリオ」になっていますから、この人物も後鳥羽院の「寵童」の可能性が高そうです。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その55)─「シレ者ニカケ合テ、無益ナリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e19d58a3e31ad3b612ce848bfe020d1a

それ以外にも、単に「寵童」というだけだったら大勢いたかもしれないので、「寵童」という関係をことさら重視し、これをブラックボックス、マジックワードとするのは適切ではないと私は考えます。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その28)─「『承久記』でのハイライトシーンの一つ」(by 関幸彦氏)

2023-10-28 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
関氏も慈光寺本の贈答歌を無視されている訳ではなく、「『吾妻鏡』には、院がこの地から母七条院と后修明門院(重子)に献じた歌が見えている」(p133)に付された注で、

-------
** なお、『承久記』では後鳥羽院とこれに従った伊王佐衛門【ママ】両人との返歌の応答が語られ、あわせて母七条院への献歌のことと、七条院からの返歌が紹介されている。
  神風や今一度は吹かへせ 御裳濯河の流れ絶へずは
  (神風よもう一度吹いてほしい。あなた<後鳥羽院>をその風で都に戻して欲しいものです。御裳濯河の
  皇統の流れが絶えることがないならば、そう願いたい)
-------

と書かれています。
関氏は「後鳥羽院とこれに従った伊王佐衛門【ママ】両人との返歌の応答」と書かれているので、後鳥羽院と「伊王左衛門」(藤原能茂)との間で歌の贈答があり、その贈答歌を七条院に「献歌」し、七条院が「返歌」したと解されているようです。
しかし、原文では、

-------
【前略】哀〔あはれ〕、都ニテハ、カゝル浪風ハ聞ザリシニ、哀ニ思食レテ、イトゞ御心細ク御袖ヲ絞テ、
  都ヨリ吹クル風モナキモノヲ沖ウツ波ゾ常ニ問ケル
 伊王左衛門、
  スゞ鴨ノ身トモ我コソ成ヌラメ波ノ上ニテ世ヲスゴス哉
 御母七条院ヘ此御歌ドモヲ参セ給ヘバ、女院ノ御返シニハ、
  神風ヤ今一度ハ吹カヘセミモスソ河ノ流タヘズハ

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e34ea7c0930b816cebfa3c4550738881

となっていて、後鳥羽院の歌と伊王左衛門の歌は特に対応はしておらず、別個独立の歌であり、「此御歌ドモ」(複数)に対して、七条院が「御返シ」の歌を詠んだ、と解する方が自然だろうと思います。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その64)─後鳥羽院・七条院の贈答歌に参加する「伊王左衛門入道」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5eeddc00064a8a15a9a77488bf52e5a4

まあ、このあたりは岩波新大系の久保田淳氏の脚注を見てもよく分からず、歴史研究者にとっては近づき難い領域であったとは思いますが、渡邉裕美子氏の「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの─」(『国語と国文学』98巻11号、2021)が出た以上、歴史研究者も渡邉説を踏まえた上で議論する必要があるように思われます。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その66)─「応答しない贈答歌」は誰が作ったのか
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed3eb83b741d2f72767c0c9bf3705741

渡邉氏は、

-------
 この場面の不審はこれだけではない。この歌は、都にいる後鳥羽の母七条院に贈られ、「御返」が詠まれたとある。院の歌と七条院の歌の間には、隠岐に同行した「伊王左衛門」(能茂)の歌が挟まり、慈光寺本では七条院の返歌は二人に向けたもののように読める。しかし、現実には高貴な女院が、能茂のような臣下に直接返歌をすることはまず考えられない。よしんば返歌をしたとしても、二人に一首ずつ贈るのが贈答歌の基本である。そうした贈答歌の基本的な枠組みから、ここは外れている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/581532859e25780fef4ee441ea4ce703

とされていますが、渡邉氏の言われる通り、実際にはこんな不自然な贈答歌はあり得ず、全体が慈光寺本作者の創作でしょうね。
なお、関氏は慈光寺本における能茂の存在に疑問を抱かれることは全くなかったようで、

-------
* 信実に描かせた有名な似絵(御影)は、現在も水無瀬宮に所蔵されている。形見として母の七条院殖子に贈ったとされる。『承久記』には、この時剃髪の形見もあわせ母殖子のもとに送られたとある。院の出家を同書では十日のこととする。泰時の嫡男時氏が鳥羽殿を訪れ、甲冑に身をつつみ荒々しい形相で、「君ハ流罪セサセオハシマス、トクトク出サセオハシマセ」と責めたてた。強圧的態度の前に院も勅答を余儀なくされるが、最期の望みとして寵愛していた伊王能茂との面会を願う。出家させられた能茂の姿を見て、院は自らも仁和寺の道助を導師として出家を果たす。こんな流れが語られている。ここには勝者時氏の驕慢と敗者後鳥羽の失意が文学的筆致で描写されている。運命を甘受せざるを得ない敗者の定めが活写され、『承久記』でのハイライトシーンの一つでもある。
-------

などと書かれていますが(p133以下)、私には当該場面の「流れ」はあまりにチグハグ、あまりに不自然で、「文学的筆致」と評価できるようなレベルではなく、「ハイライトシーン」というよりは不条理劇であり、更にはスラップスティック・コメディ のようにも思われます。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その58)─「彼堂別当ガ子伊王左衛門能茂、幼ヨリ召ツケ、不便に思食レツル者ナリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a204b22519ff861aada15f0e4942569
(その61)─「其時、武蔵太郎ハ流涙シテ、武蔵守殿ヘ申給フ事」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3412d6a819e9fd4004219b4ca162da01
(その62)─後鳥羽院出家の経緯と能茂の役割
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed0ab4d253ecb86d173f2f9136b6f2e8
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その27)─関氏も何故か慈光寺本の和歌贈答場面は不採用。

2023-10-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
メルクマール(4)の「逆輿」についての関氏の説明を見ることにします。(p132以下)

-------
 十三日、院は隠岐へと出立した。甲冑の武士たちに前後を囲まれての離京だった。『承久記』では院の身柄は、伊東祐時(工藤祐経の舅)に委ねられたとある。逆輿(罪人用の手越)に乗せられた院は、出家した伊王能茂とともに例の亀菊をふくむ数人の女房と供が付き従い、これに僧侶一人が加わった。僧は長い旅路のおり「何処ニテモ御命尽サセマシマサン料トシテ」(どこで終焉を迎えてもいい用意として)とのことだった。これに医師の和気長成がしたがった。
 摂津の水無瀬宮(大阪府三島郡島本町)を遥拝しつつ播磨の明石に入った一行は、ここで海老名季綱が護送の預かりとなり北上、伯耆国で金持兵衛がその身柄を預かったとある。
-------

いったん、ここで切ります。
私は目崎徳衛氏の『史伝 後鳥羽院』(吉川弘文館、2001)を検討した際、何故か9月12日の投稿で、

-------
私はこの「逆輿」に興味を持って慈光寺本を調べ始めたのですが、「逆輿」を史実と明言する歴史研究者にはなかなか出会えなくて、私が鋭意作成中の「慈光寺本妄信研究者交名(仮称)」において大将格に位置づけている坂井孝一氏(創価大学教授)ですら、『承久の乱』(中公新書、2018)では「逆輿」に言及されていません。
また、同じく私が大将格と見ている関幸彦氏(日本大学教授)も、『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』(吉川弘文館、2012)では「逆輿」に言及されていません。
このお二人ですら「逆輿」を積極的に史実と肯定されていない中で、目崎氏が「逆輿」を全く疑っていなさそうなことは興味深いですね。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c261120149a5dfe7eafc5b1590ff81cd

などと書いてしまったのですが、坂井氏に続き、関氏についても私の単なる勘違いでした。
坂井氏については10月23日の投稿でお詫びの上訂正しましたが、関氏についてもお詫びの上、『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』では一切の留保なしに「逆輿」に言及されていると訂正させていただきます。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その22)─坂井氏は何故に慈光寺本の和歌贈答場面を採らないのか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7e455bb083860ca90a24163b0a90dff8

さて、続きです。(p132以下)

-------
 『承久記』では出雲の大浜浦(島根県八束郡美保関町)に到着したのが十四日とあるが、これは誤りで『吾妻鏡』にあるように七月二十七日が妥当だろう。この地から便風を得て隠岐へと向う。多くの武士はここで帰京した。『吾妻鏡』には、院がこの地から母七条院と后修明門院(重子)に献じた歌が見えている。

  たらちめの消えやらでまつ露の身を 風よりさきにいかがとはまし
  しるらめや憂きめをみをの浦千鳥 島々しほる袖のけしきを

 前者の「たらちめ」は母にかかる枕詞「たらちね」であり、都の母七条院の不安な想いを汲み上げ、露命のわが身のことをすみやかに伝えたい焦燥と悲愴の感がにじんでいる。
 後者の修明門院への歌も院自身の憂き身の辛酸を浦千鳥に託し、悲涙にむせぶ想いが伝えられている。いずれも叙景と叙心が巧みに織りなされた作品だ。だが、それにしても、不羈の才に溢れ、昂然と自らを誇ったかつての王者は何処に行ったのか。敗れし者の寂寞たる想いが、後鳥羽をしてかかる心情を紡ぎ出したとしても、である。
-------

関氏は例によって『承久記』とだけ記されていますが、「出雲の大浜浦(島根県八束郡美保関町)に到着したのが十四日」とあるのは慈光寺本で、流布本には特に日付はありません。
そして、慈光寺本の原文を見ると、

-------
 去程ニ、七月十三日ニハ、院ヲバ伊藤左衛門請取〔うけとり〕マイラセテ、四方ノ逆輿〔さかごし〕ニノセマイラセ、医王左衛門入道御供ニテ、鳥羽院ヲコソ出サセ給ヘ。女房ニハ西ノ御方・大夫殿・女官ヤウノ者マイリケリ。又、何所〔いづく〕ニテモ御命尽サセマシマサン料〔れう〕トテ、聖〔ひじり〕ゾ一人召具〔めしぐ〕セラレケル。「今一度、広瀬殿ヲ見バヤ」ト仰下サレケレドモ、見セマイラセズシテ、水無瀬殿ヲバ雲ノヨソニ御覧ジテ、明石ヘコソ著セ給ヘ。其ヨリ播磨国ヘ著セ給フ。其ヨリ又、海老名兵衛請取参セテ、途中マデハ送リ参セケリ。途中ヨリ又、伯耆国金持兵衛請取マイラス。十四(日)許ニゾ出雲国ノ大浜浦ニ著セ給フ。風ヲ待テ隠岐国ヘゾ著マイラスル。道スガラノ御ナヤミサヘ有ケレバ、御心中イカゞ思食ツゞケケン。医師仲成、苔ノ袂ニ成テ御供シケリ。哀〔あはれ〕、都ニテハ、カゝル浪風ハ聞ザリシニ、哀ニ思食レテ、イトゞ御心細ク御袖ヲ絞テ、
  都ヨリ吹クル風モナキモノヲ沖ウツ波ゾ常ニ問ケル
 伊王左衛門、
  スゞ鴨ノ身トモ我コソ成ヌラメ波ノ上ニテ世ヲスゴス哉
 御母七条院ヘ此御歌ドモヲ参セ給ヘバ、女院ノ御返シニハ、
  神風ヤ今一度ハ吹カヘセミモスソ河ノ流タヘズハ

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e34ea7c0930b816cebfa3c4550738881

となっていて、確かに十四(日)許ニゾ出雲国ノ大浜浦ニ著セ給フ」とはありますが、十三日に鳥羽殿を出発して翌十四日に大浜浦に着けるはずはなく、これは出発から大浜浦までの行程が十四日間だったという意味であり、関氏は壮大な勘違いをされていますね。
十三日に十四日を足せばちょうど二十七日となり、『吾妻鏡』とぴったり一致します。
さて、非常に興味深いことに、関氏も坂井孝一氏と同じく、和歌については慈光寺本に拠らず、『吾妻鏡』七月二十七日条の、

-------
上皇着御于出雲国大浜湊。於此所遷坐御船。御共勇士等給暇。大略以帰洛。付彼便風。被献御歌於七条院并修明門院等云々。
 タラチメノ消ヤラテマツ露ノ身ヲ風ヨリサキニイカテトハマシ
 シルラメヤ憂メヲミヲノ浦千鳥嶋々シホル袖ノケシキヲ

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm

を引用されますが、その理由は不明です。
なお、関氏の文章と慈光寺本を読み比べてみると、実は一箇所だけ慈光寺本では説明できない部分があります。
即ち、関氏は「例の亀菊をふくむ数人の女房と供が付き従い」と書かれていますが、亀菊は慈光寺本のこの場面には名前がありません。
慈光寺本では、亀菊は長江庄のエピソードに僅か一回登場するだけで、下巻には全く登場しません。
しかし、流布本では、亀菊は道中で、

-------
 さて播磨国明石に著せ給て、「爰は何〔いづ〕くぞ」と御尋あり。「明石の浦」と申ければ、
  都をばくら闇にこそ出しかど月は明石の浦に来にけり
又、白拍子の亀菊殿、
  月影はさこそ明石の浦なれど雲居〔くもゐ〕の秋ぞ猶もこひしき

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/297b3e7f9e8b3601b2cb5b4207db41c8

と後鳥羽院と歌の贈答を行っています。
呼び方も「亀菊殿」と丁重な流布本と比べると、慈光寺本での亀菊の扱いは冷淡で、私はこれは亀菊と藤原能茂の関係を反映しているのではなかろうかと思っています。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その26)─関幸彦氏を「大将格」としたのは私の誤解でした。

2023-10-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
メルクマール(2)、慈光寺本の北条義時追討「院宣」を本物と考えるか否か、を見て行きます。(p89以下)

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【前略】義時追討の院宣・官宣旨はこうした状況のなかで、諸国の守護・地頭に発せられた。
 その内容はおおよそ以下のようであった。

  近年は関東の成敗と称し、天下の政務を乱している。将軍の名を仮りてはいるが、まだ幼少で義時が
  将軍の命令と称しほしいままに諸国を裁断している。加えて、自分の力を誇示し、朝廷の威をおろそ
  かにしている。まさしく謀反というべきだ。早く諸国に命じ、守護・地頭が院庁に参じるべきである。
  国司や荘園領主はこの令達に従うように。(「官宣旨案」『鎌倉遺文』二七四六号)

 五月十五日付のこの官宣旨案(右弁官下文)は若干文言や表現に難があるものの、義時追討宣旨の原形に近いとされる(文言は多少異なるが、同趣旨のものは『承久記』にも記されている)。
 ここで注目されるのは、後鳥羽側のねらいはあくまで、義時追討にあった点だ。幕府を倒すことではなく、義時の専横を是正することだった。官宣旨の表現をかりれば、「偏ニ言詞ヲ教命ニ仮リ、恣〔ほしいまま〕ニ裁断ヲ都鄙ニ致ス」行為の禁圧にあった。
 そしてもう一つ。官宣旨が「諸国庄園守護人地頭等」に令達されている点である。要は御家人たちに対しての指令なのである。院は武士たちへの敵対勢力を演じたわけではないことに留意すべきだろう。ともすれば幕府の否定と読み換え勝ちなのだが、戦略上で院の意向は、義時排除あるいは北条氏討滅にあった。
-------

ということで、関氏が院宣と官宣旨の両方が出されたという立場であり、また「義時追討説」の立場であることは間違いありません。
しかし、関氏は院宣よりも官宣旨を先に紹介されています。
また、関氏は、少し前の「計画に参加したのは『承久記』などを参照すれば」(p88)の注記で、

-------
* 承久の乱の経過については、『吾妻鏡』のほか、『承久記』『承久軍物語』『承久兵乱記』などに詳しい。ただし、『吾妻鏡』は義時追討宣旨以後の鎌倉での対応と、その後の戦闘状況を知るうえで有効である。京都内部での挙兵状況は、『承久記』以下の軍記物が脚色も多いが詳細である。これらは『承久記』を原形とした同一の系列に属するものとされる。『承久記』の成立年代は議論も多いが、遅くとも鎌倉末期とされている(龍粛「承久軍物語考」『史学雑誌』二九-一二、のち、同著『鎌倉時代の研究』所収、前掲)。現在、その信憑性もかなり認められており、多くの異本のなかでも古態を残す「慈光寺本」が注目されている。本書でも『新日本古典文学大系』(岩波書店)所収のそれに依拠している。『保元物語』『平治物語』『平家物語』と併せて、『承久記』は「四部合戦状」とよばれていた。
 なお、「慈光寺本」には、五月十五日付の後鳥羽上皇院宣も所載されている。宣旨と院宣の双方の関係については、官宣旨が不特定多数の武力動員を企図したのに対し、院宣は特定御家人の直接動員にポイントがあったとの見解も提出されている(この点、長村祥知「承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨」『日本歴史』七四四号、二〇一〇年参照)。
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と書かれていて(p91)、関氏は別に流布本の「院宣」(七人宛)より慈光寺本の「院宣」(北条時房を含む八人宛)の方が信頼できるとされている訳ではなく、慈光寺本の院宣に関する長村新説を紹介されているだけですね。
私は以前、『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』を読んだ時、関氏が慈光寺本・流布本の異同を気にせずに『承久記』として慈光寺本を引用されている(ように見えた)こと、また、『承久記』の注記で長村著の内容を肯定している(ように見えた)ことから、関氏を「慈光寺本妄信歴史研究者」と判断したのですが、同書を注意深く読んでみると、関氏は「大将格」どころか、「慈光寺本妄信歴史研究者」ですらないように思えてきました。
史料紹介として慈光寺本を引用したり、学説紹介として長村新説を引用することは「妄信」でも何でもないですからね。
そこで、念のため、メルクマールの残り、

(3)武田信光と小笠原長清の密談エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。
(4)後鳥羽院の「逆輿」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。
(5)宇治・瀬田方面への公卿・殿上人の派遣記事と山田重忠の「杭瀬河合戦」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。

を見て行くと、関氏は武田信光と小笠原長清の密談エピソードには言及されていません。
また、山田重忠については、

-------
 美濃源氏の重忠は、洲俣・杭瀬川合戦で官軍敗走後もここにとどまり奮戦している。河内判官秀澄と戦略上意見が対立したとある。敗走後、勢多に布陣したが、子の重継とともにその後は、嵯峨に退却し自害したという。
-------

とあって(p113)、「勢多に布陣した」とありますから、慈光寺本において宇治河合戦の「埋め草」として奇妙な位置に置かれた杭瀬河合戦の記事を信頼されていないのは明らかです。
なお、「河内判官秀澄と戦略上意見が対立した」は慈光寺本だけに記されているエピソードですが、これも別に山田重忠の鎌倉攻撃案を史実とされている訳ではないので、「妄信」とはいえないですね。
ただ、関氏は(4)の「逆輿」エピソードは素直に引用されています。
この点、次の投稿で少し検討します。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その25)─「地頭を免職し、これを廃止するようにとの要望」(by 関幸彦氏)

2023-10-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者は、「地頭職の停止を要求」(長村祥知氏)、「地頭職改補の要求」(野口実氏)、「地頭を解任するよう要求」(呉座勇一氏)といった表現を用いておられるので、「廃止」まで要求したとする関幸彦氏の見解は珍しい感じがします。

長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者たちへのオープンレター
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da89ffcbbe0058679847c1d1d1fa23da

流布本の亀菊エピソードは、

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 又、摂津国長江・倉橋の両庄は、院中に近く被召仕ける白拍子亀菊に給りけるを、其庄の地頭、領家を勿緒〔こつしよ〕しければ、亀菊憤り、折々に付て、是〔これ〕奏しければ、両庄の地頭可改易由、被仰下ければ、権大夫申けるは、「地頭職の事は、上古は無りしを、故右大将、平家を追討の勧賞に、日本国の惣地頭に被補。平家追討六箇年が間、国々の地頭人等、或〔あるいは〕子を打せ、或親を被打、或郎従を損す。加様の勲功に随ひて分ち給ふ物を、させる罪過もなく、義時が計ひとして可改易様無〔なし〕」とて、是も不奉用。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ec7ed809036d4fd2ce63e21e96d32b82

というもので、重ねて「改易」とあり、後鳥羽院の要求はあくまで地頭の交替であることが明らかです。
また、『吾妻鏡』承久三年五月十九日条も、

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武家背天気之起。依舞女亀菊申状。可停止摂津国長江。倉橋両庄地頭職之由。二箇度被下 宣旨之処。右京兆不諾申。是幕下将軍時募勲功賞定補之輩。無指雜怠而難改由申之。仍逆鱗甚故也云々。【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm

とあるので、長江・倉橋両荘の地頭職の「停止」を求める後鳥羽院に対し、義時は「難改」、改めることは困難と応えていますから、これも地頭職の「廃止」ではなく、交替と読むのが素直だろうと思います。
他方、慈光寺本の亀菊エピソードは、

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 其由来ヲ尋ヌレバ、佐目牛西洞院ニ住ケル亀菊ト云舞女ノ故トゾ承ル。彼人、寵愛双ナキ余、父ヲバ刑部丞ニゾナサレケル。俸禄不余思食テ、摂津国長江庄三百余町ヲバ、丸ガ一期ノ間ハ亀菊ニ充行ハルゝトゾ、院宣下サレケル。刑部丞ハ庁ノ御下文ヲ額ニ宛テ、長江庄ニ馳下、此由執行シケレ共、坂東地頭、是ヲ事共セデ申ケルハ、「此所ハ右大将家ヨリ大夫殿ノ給テマシマス所ナレバ、宣旨ナリトモ、大夫殿ノ御判ニテ、去マヒラセヨト仰ノナカラン限ハ、努力叶候マジ」トテ、刑部丞ヲ追上スル。仍、此趣ヲ院ニ愁申ケレバ、叡慮不安カラ思食テ、医王左衛門能茂ヲ召テ、「又、長江庄ニ罷下テ、地頭追出シテ取ラセヨ」ト被仰下ケレバ、能茂馳下テ追出ケレドモ、更ニ用ヒズ。能茂帰洛シテ、此由院奏シケレバ、仰下サレケルハ、「末々ノ者ダニモ如此云。増シテ義時ガ院宣ヲ軽忽スルハ、尤理也」トテ、義時ガ詞ヲモ聞召テ、重テ院宣ヲ被下ケリ。「余所ハ百所モ千所モシラバシレ、摂津国長江庄計ヲバ去進スベシ」トゾ書下サレケル。義時、院宣ヲ開テ申サレケルハ、「如何ニ、十善ノ君ハ加様ノ宣旨ヲバ被下候ヤラン。於余所者、百所モ千所モ被召上候共、長江庄ハ故右大将ヨリモ義時ガ御恩ヲ蒙始ニ給テ候所ナレバ、居乍頸ヲ被召トモ、努力叶候マジ」トテ、院宣ヲ三度マデコソ背ケレ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/631429bc62ffdd914e89bfb7e34289f8

というもので、亀菊が後鳥羽院から長江庄を「充行」れた「院宣」を得ると、亀菊の父「刑部丞」が「庁ノ御下文」を持参して「此由執行」しようとするも、「坂東地頭」は、たとえ「宣旨」が下ろうと、「大夫殿(義時)ノ御判ニテ、去マヒラセヨト仰ノナカラン限ハ」出て行かないと言って、「刑部丞」を追い払います。
この経緯からすれば、「庁ノ御下文」は「坂東地頭」に退去を命ずる権限を認めた文書となりそうです。
ついで、後鳥羽院が「医王左衛門能茂」に「又、長江庄ニ罷下テ、地頭追出シテ取ラセヨ」と命令し、能茂はこの命令を受けて「坂東地頭」を「追出」そうと試みますが、やはり拒否されます。
その後、後鳥羽院が義時に「余所ハ百所モ千所モシラバシレ、摂津国長江庄計ヲバ去進スベシ」との「院宣」を下し、「院宣ヲ開」いた義時は、「加様ノ宣旨」が下ろうとも、「於余所者、百所モ千所モ被召上候共、長江庄ハ故右大将ヨリモ義時ガ御恩ヲ蒙始ニ給テ候所ナレバ、居乍頸ヲ被召トモ、努力叶候マジ」と拒否します。
このように「院宣」と「宣旨」が混在する慈光寺本の亀菊エピソードは、そもそも亀菊がいかなる権原、いかなる「職」を得たのかもはっきりしません。
まあ、領家職と考えるのが普通でしょうが、領家職であれば、一般論としては幕府が任ずる地頭職と矛盾する訳ではないので、「刑部丞」と藤原能茂がいかなる資格・権限に基づいて「坂東地頭」に退去を命ずることができるのかが分かりません。
この点、岡田清一氏の見解を検討するに際して、少し考えてみたことがあります。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その14)─「院宣ヲ三度マデコソ背ケレ」の意味
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7036189167f93251c0bb68d653b080c6

慈光寺本の亀菊エピソードを合理的に解釈するため、仮に亀菊が後鳥羽院から地頭職を得たとすると、二つの地頭職が正面から対立することになり、新しい地頭が古い地頭を追い出す、といった話にもなるのかも知れませんが、前提があまりに無理筋です。
また、関氏の表現を借りて、亀菊が領家職を得たこととは別に、後鳥羽院が地頭職「廃止」の「院宣」を出し、それを「式部丞」と能茂が「執行」しようとしたのではないか、「摂津国長江庄」の地頭職を「去進スベシ」との「院宣」は、交替ではなく、地頭職の「廃止」要求であって、それが三度出され、義時は「院宣ヲ三度マデコソ背ケレ」という態度を取った、と解釈することも可能かもしれません。
しかし、その場合でも、最初から義時に要求しなければ無意味であり、「式部丞」と能茂の行動は無駄足であることが分かり切っていたはずですから、これも無理筋ですね。
関氏が「地頭を免職し、これを廃止するようにとの要望」と書かれた理由は分かりませんが、流布本でも『吾妻鏡』でもなく、慈光寺本の解釈として、そのように考えられた可能性は相当ありそうですね。
ただ、慈光寺本の合理的解釈はあっさり諦めて、慈光寺本の記述を真面目に検討すること自体に意味があるのかを問う方が良いのかもしれません。
慈光寺本作者は「国王ノ兵乱十二度」・「十二ノ木戸」の人ですから、慈光寺本の記述は万事に適当であり、いい加減です。
そして慈光寺本作者を藤原能茂と考える私は、亀菊エピソードに「医王左衛門能茂」が登場することを重視すべきだと思います。
即ち、亀菊エピソードは能茂が承久の乱の発端当初から後鳥羽院の信任を得て重要な役目を果たしていたことをアピールすることが目的であって、このような創作自慢話を真面目に検討する意味はないと考えます。

「国王ノ兵乱十二度」・「十二ノ木戸」の人
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/15eee017cc56d552fbcf5492a1fdfeed
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その24)─関幸彦氏の場合

2023-10-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
関幸彦氏は『承久の乱と後鳥羽院』(吉川弘文館、2012)において、単に『承久記』と記してあれば、それは慈光寺本を意味していることが多いほど慈光寺本を頻繁に引用されています。

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『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』

鎌倉と京、公武権力構図の転換点とされる承久の乱。治天の君=後鳥羽院が歌に込めた「道ある世」への希求とは何だったのか。諸史料を中心に、協調から武闘路線への道をたどり、隠岐に配流された後鳥羽院のその後にも迫る。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b103249.html

そこで私は下記投稿で、関氏が「慈光寺本妄信歴史研究者交名」の「大将軍」クラスの一人などと書いてしまったのですが、同書をじっくり読んでみると、関氏は単純な権門体制論者とはほど遠い立場であり、諸論点に関する書き方も慎重です。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その3)─勅使河原拓也氏の場合
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f00af49eae21a7a231fc153f8c08c8ca

そこで、関氏を「大将軍」クラスとするのは間違いだったかな、などと反省しているところですが、取りあえず五つのメルクマールに即して関氏の見解を確認してみることとします。
まずはメルクマール(1)ですが、関氏は、

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【前略】この地頭問題とは、院の寵妾伊賀局(もと白拍子で亀菊と称した)の所領だった長江・倉橋両荘(現大阪府豊中市)の地頭を免職し、これを廃止するようにとの要望だった。慈光寺本『承久記』には、長江荘の地頭職は義時の領有とあり、院側にとって、鎌倉側あるいは義時に対してのあからさまな挑発ということになる。
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と書かれており(p53)、一応、メルクマール(1)をクリアーしているように見えます。
ただ、この後の記述でも、

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 他方、鎌倉もまた院の要求に屈することはできなかった。地頭廃止と将軍後継を取り引きせず、地頭職の保障という先例を貫いた。すでにふれたが、武家にも後鳥羽とは異なる"道ある世"の在り方があった。道理にもとづく御家人・武士たちへの経済保障である。
 そもそも地頭とは何か。内乱・戦争を通じ誕生した鎌倉政権の場合、政権樹立に参じた武士をどのように養ってゆくかが内乱後の政治的課題だった。敵人没収所領という形で実効支配を実現していた鎌倉側にとって、これを公的・社会的レベルでの保障にまで引き上げることが要請された。
 「文治勅許」とよばれる王朝(後白河院)からの果実は、義経問題をかわきりに、鎌倉殿頼朝に付与された権限だった。東国武士たちが鎌倉殿を担ぐことで手に入れた御家人集団の経済保障システムでもあった。幕府成立以前、ともすれば開発領主の荘園や公領の諸職は、国司・領家の恣意で改廃されることが少なくなかった。長江・倉橋両荘の地頭職廃止は、かかる状態への逆もどりに他ならなかった。武家=幕府の存立にかかわっていた。
-------

といった具合に(p55以下)、関氏はあくまで幕府の原理原則、御家人一般の利益保障の問題として論じておられ、義時の個人的利害の問題に矮小化されてはいません。
これは、例えば長村祥知氏が『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』(吉川弘文館、2022)において、

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 いま一つの問題は、後鳥羽院領摂津国長江庄・倉橋(椋橋)庄の地頭職である。『吾妻鏡』承久元年三月九日条・承久三年五月十九日条には、後鳥羽が、寵女亀菊の申状を受けて、使者藤原忠綱を関東に遣わし、両庄の地頭職の停止を要求したが、北条義時が拒絶したとある。流布本『承久記』上にも、両庄の地頭が領家亀菊をないがしろにしたので、泣きつかれた後鳥羽が鎌倉に地頭改易を仰せ下したとある。ただし慈光寺本『承久記』上によれば、亀菊が所職を有した長江庄は院領で、長江庄の地頭は北条義時であったらしい。『吾妻鏡』や流布本『承久記』は、義時が執権として鎌倉御家人の権益を保護したように描くが、むしろ義時自身が地頭職を有する所領にかんして、後鳥羽からの要求を拒絶したのが真相のようである。


などとされているのとは対照的な立場ですね。
「慈光寺本『承久記』には、長江荘の地頭職は義時の領有とあり」は単なる史料紹介であって、これだけで関氏が慈光寺本を「妄信」しているとは言えないですね。
なお、「長江・倉橋両荘(現大阪府豊中市)の地頭を免職し、これを廃止するようにとの要望」とありますが、関氏が地頭を交替させるのではなく「廃止」要求だと解釈されるのは意外に珍しい立場のように思われます。
『吾妻鏡』承久三年五月十九日条の書き方は交替要求のように解釈するのが自然ではないかと思いますが、慈光寺本の解釈としては、関氏の見解はそれなりに合理的なようにも思えます。
この点、次の投稿で少し検討してみたいと思います。
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慈光寺本において、その出自の説明がある人々(その2)

2023-10-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
武士の出自に関しては、尾張河合戦において、「小笠原一ノ郎等市川新五郎」が、

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「マサキニ詞〔ことば〕シ給フ殿原哉。誰カ昔ノ王孫ナラヌ。武田・小笠原殿モ、清和天皇ノ末孫〔ばつそん〕ナリ。権太夫も桓武〔くわんむ〕天皇ノ後胤ナリ。誰カ昔ノ王孫ナラヌ。其儀ナラバ、渡シテ見セ申サン」トテ、一千余騎コソ打出タレ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bff94f63d818bc7dbe91b11a89be431f

と言っていますが、これは本当に一般論ですね。
そして、親子・兄弟などが共に登場する場合には、当然にその間の関係について説明が必要ですから、これも出自の説明から除外すると、結局、慈光寺本において丁寧な出自の説明があるのは蜂屋三郎・三浦胤義・渡辺翔・山田重忠・藤原能茂の五人だけです。
この五人は、いくつかの点でその特徴が重なります。

(1)蜂屋三郎と山田重忠は共に「六孫王ノ末孫」、即ち経基王(清和天皇の第六皇子貞純親王の子)の子孫。

(2)三浦胤義と山田重忠は、共に独自の鎌倉攻撃案を構想し、三浦胤義はそれを藤原秀康に、山田重忠は藤原秀澄(秀康弟)に語っている。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その13)─三浦胤義の義時追討計画
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1787ddf4512e00a2bb9842534060ed8
慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その5)─「6.山田重忠の鎌倉攻撃案 13行(☆)」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/11bd548f267504af6f410448505046cb

(3)渡辺翔(「愛王左衛門」)と藤原能茂(「医王左衛門」)は共に後鳥羽院の寵童で、「西面衆」。

(4)渡辺翔・山田重忠・三浦胤義の三人は「六月十四日ノ夜半計ニ」後鳥羽院に敗戦報告を行う。(なお、蜂屋三郎は戦死しているので、報告者になることは不可能)

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その53)─「カゝリケル君ニカタラハレマイラセテ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f263e58f5c29509706d6166498b7e1f6
慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その15)─「36.東寺における渡辺翔と新田四郎の戦い 5行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/60715acf8de49638f53a1b3982fb0b31

以上の四点の中で、(1)と(3)は単なる事実ですが、(2)の鎌倉攻撃案はともに慈光寺本作者の創作と思われます。
また、(4)の敗戦の報告者は諸史料で異なり、

 慈光寺本: 渡辺翔・山田重忠(重貞)・三浦胤義
 流布本: 藤原秀康・三浦胤義・山田重忠
 『吾妻鏡』: 藤原秀康・三浦胤義

となっていますが、これは単なる事実の報告ではなく、院御所に立て籠もって戦う許可の要請を兼ねていますから、「総大将」の藤原秀康が存在せず、渡辺翔程度の武士が筆頭の慈光寺本は不自然であり、慈光寺本作者の創作的要素が強いですね。
結局、慈光寺本において出自の説明がある五人は、慈光寺本作者によって相当に依怙贔屓され、脚色された人物のように思われます。
そして、五人の中でも藤原能茂の場合、合戦で「我コソハ」と自ら名乗るのではなく、後鳥羽院という高貴な存在から出自を紹介してもらうという点で、本当に特殊な存在ですね。
私は慈光寺本作者を藤原能茂と考えるので、能茂の出自がこのような形で丁重に紹介されているのを見ても不思議とは思いませんが、作者を他に求める立場の人は説明に苦慮しそうですね。
なお、私の立場からは、作者が後鳥羽院の言葉を借りて自己の出自を説明するに際して、あくまで「彼堂別当ガ子伊王左衛門能茂」として、実の親の名前のみを出し、藤原秀康の弟・秀能の猶子である点には全く触れない点は興味深いですね。
私はその理由を、後鳥羽院から多大な恩顧を蒙りながら京方に参加しなかった秀能への敵愾心であろうと考えます。
秀能のような卑怯者、裏切り者とは縁を切った、という強烈な意思の表明ですね。

田渕句美子氏「第三章 藤原秀能」(その5)~(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/faea43e5df2f914947b0b31be431cbd9
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2e60ddc92e04715e2f8664185ea7f2a9
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9c086d3cf9b2a46acf9517acfc7a731f
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慈光寺本において、その出自の説明がある人々(その1)

2023-10-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
藤原能茂が後鳥羽院の発言の中で、「彼堂別当ガ子伊王左衛門能茂、幼ヨリ召ツケ、不便に思食レツル者ナリ」(岩波新大系、p353)と紹介されている点が改めて気になって、慈光寺本の中で、こうした出自の説明がある人を探してみたところ、歴代天皇や「鎌倉殿」(源氏三代と藤原頼経)を除くと、意外に少ないですね。
上巻では、亀菊の父「刑部丞」の名前が記されますが(p305)、「刑部丞」もそれなりの役割を果たす登場人物なので、亀菊との関係が出て来るのは当然です。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その11)─亀菊と長江荘
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/631429bc62ffdd914e89bfb7e34289f8

また、藤原秀康と三浦胤義の密談の中で、胤義の発言として「胤義ハ先祖ノ三浦・鎌倉振捨テ」云々とありますが(p308)、別に先祖が誰々と出て来る訳ではなく、兄・義村との関係が描かれるだけです。
北条義時も、この胤義の発言の中で「遠江守時政」の子であることが触れられていますが、それだけです。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その13)─三浦胤義の義時追討計画
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1787ddf4512e00a2bb9842534060ed8

伊賀光季の子の「寿王」もそれなりに活躍するので、父子関係が明示されるのは当然であり、こうしたケースを除くと、出自の説明がある最初の場面は下巻の尾張川合戦まで下ります。
即ち、「蜂屋三郎」が、

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「武田六郎ト見奉ルハ僻事〔ひがごと〕カ。我ヲバ誰トカ御覧ズル。六孫王〔ろくそんわう〕ノ末葉〔ばつえふ〕蜂屋入道ガ子息、蜂屋三郎トハ我事也。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6c177738dbf090231fb23c268f79a2a

と言う場面で(p343)、合戦での名乗りです。
続いて三浦胤義について、

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 大豆戸ノ渡リ固メタル能登守秀康・平判官胤義カケ出テ戦フタリ。平判官申ケルハ、「我ヲバ誰トカ御覧ズル。駿河守ガ舎弟胤義、平判官トハ我ゾカシ」トテ、向フ敵廿三騎ゾ、射流シケル。待請々々、多ノ敵討取テ、終ニハシラミテ落ニケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7021955297ccf088bb416d9d28489e2

とありますが(p345)、ここも「駿河守」(三浦義村)の「舎弟」と言っているだけです。
そして、渡辺翔の場合は、

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 上瀬〔かみのせ〕ニオハスル重原・翔〔かける〕左衛門、戦ケリ。翔左衛門申サレケルハ、「坂東方ノ殿原、我ヲバ誰トカ御覧ズル。我コソハ、王城〔わうじやう〕ヨリハ西、摂津国十四郡其中〔そのなか〕ニ、渡辺党、身ハ千騎ト聞〔きこえ〕アル其中ニ、愛王左衛門〔あいわうざゑもん〕翔トハ我事ナリ」トゾ名ノリケル。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a05d022a8a0fcad9bd7aa4921b2de8b0

とあり(p347)、蜂屋三郎・三浦胤義よりかなり長い説明です。
ついで山田重忠(慈光寺本では「重貞(定)」)の場合、杭瀬河合戦において、

-------
山田殿申サレケルハ、「殿原、聞給ヘ。我ヲバ誰トカ御覧ズル。美濃ト尾張トノ堺ニ、六孫王ノ末葉〔ばつえふ〕、山田次郎重定トハ我事ナリ」トテ、散々ニ切テ出、火出ル程ニ戦レケレバ、小玉党ガ勢百余騎ハ、ヤニハニ討レニケリ。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f89c9389b294c391d513d8879d32434a

とあります。(p348)
「蜂屋三郎」と同じく、「六孫王ノ末葉」が強調されていますね。
さて、渡辺翔の名乗りはもう一度出てきます。
即ち、山田重忠・三浦胤義とともに後鳥羽院への敗戦報告後、

-------
翔左衛門打向〔うちむかひ〕、「殿原、聞給ヘ。我ヲバ誰トカ御覧ズル。王城ヨリハ西、摂津国十四郡ガ中ニ、渡辺党ハ身ノキハ千騎ガ其中〔そのなか〕ニ、西面衆〔さいめんのしゆう〕愛王左衛門翔トハ、我事ナリ」ト名対面〔なだいめん〕シテ戦ケルガ、十余騎ハ討トラレテ、我勢モ皆落ニケレバ、翔ノ左衛門ニ大江山ヘゾ落ニケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bd430ee4bfd4308d15a9a66252b9c682

とあって(p350)、こちらもかなり詳細な上に、「西面衆」という新たな情報が付加されています。
そして、山田重忠にも二度目の名乗りがあり、


-------
 紀内〔きない〕殿、打テ出タリ。山田殿カケ出申サレケルハ、「我ヲバ誰トカ御覧ズル。尾張国住人山田小二郎重貞ゾ」トナノリテ、手ノ際〔きは〕戦ケル。敵十五騎討取、我身ノ勢モ多〔おほく〕討レニケレバ、嵯峨般若寺ヘゾ落ニケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e19d58a3e31ad3b612ce848bfe020d1a

とあって(同)、こちらは「美濃ト尾張トノ堺ニ、六孫王ノ末葉」が「尾張国住人」に、「山田次郎重定」が「山田小二郎重貞」となっています。
ま、そうした細かな違いはありますが、合戦での名乗りが二回も出て来るのは渡辺翔と山田重忠の二人だけですね。
名乗りは一回だけの三浦胤義の場合、兄・義村への呼びかけとして、

-------
「アレハ、駿河殿ノオハスルカ。ソニテマシマサバ、我ヲバ誰カト御覧ズル。平九郎判官胤義ナリ。サテモ鎌倉ニテ世ニモ有ベカリシニ、和殿ノウラメシク当リ給シ口惜〔くちをし〕サニ、都ニ登リ、院ニメサレテ謀反オコシテ候ナリ。和殿ヲ頼ンデ、此度〔このたび〕申合文〔まうしあはせぶみ〕一紙ヲモ下シケル。胤義、オモヘバ口惜ヤ。現在、和殿ハ権太夫ガ方人〔かたうど〕ニテ、和田左衛門ガ媒〔なかだち〕シテ、伯父ヲ失〔うしなふ〕程ノ人ヲ、今唯、人ガマシク、アレニテ自害セント思〔おもひ〕ツレドモ、和殿ニ現参〔げんざん〕セントテ参テ候ナリ」


とあり(p351)、「駿河守ガ舎弟胤義、平判官」よりは相当詳しいものの、やはり兄弟の情報だけですね。
以上、蜂屋三郎・渡辺翔・山田重忠・三浦胤義の例と比較しても、藤原能茂の出自情報は極めて特殊ですね。
四人の場合、合戦での名乗りですから、実際に戦場で行われていた慣習をそのまま記録しただけともいえます。
しかし、藤原能茂の場合、合戦での名乗りでもないのに出自が語られ、しかもそれが後鳥羽院の発言の中に出て来るのは何故なのか。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その23)─「長江・倉橋荘の地頭は北条義時その人であった」(by 坂井孝一氏)

2023-10-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
坂井孝一氏の『鎌倉殿と執権北条氏』(NHK出版新書、2021)を見たところ、

-------
【前略】三月九日、弔問のため鎌倉に下向した勅使藤原忠綱が政子亭で弔意を述べた後、義時亭に移り、摂津国長江荘・倉橋荘に置かれた地頭を改補せよという後鳥羽の院宣を伝えたのである。長江・倉橋荘は神崎川・猪名川が合流する地にあった荘園で、交通の要衝に置かれた地頭職を放棄するように要求したのである。
 幕府とは、鎌倉殿と御家人が「御恩」と「奉公」によって緊密な主従関係を結んだ組織である。地頭職は御家人たちが鎌倉殿から与えられる「御恩」の根幹であり、よほどの罪・咎を犯さない限り没収されることはない。しかも、長江・倉橋荘の地頭は北条義時その人であった。ひょっとすると、後鳥羽は将軍の暗殺を防げなかった執権の責任を追及しよとしたのかもしれない。ただ、暗殺者は公暁である。義時は地頭職改補に値する罪を犯したわけではない。後鳥羽は責任追及を装いながら、義時や幕府首脳部が自分の要求・命令に従うかどうか試そうとしたのだと考える。
-------

とありました。(p225)
『承久の乱』(中公新書、2018)には「長江・倉橋荘の地頭は北条義時その人であった」との記述はなかったので、メルクマール(1)について、坂井氏は慎重に判断を留保されているものと考えたのですが、単に書き忘れただけのようですね。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その15)─坂井孝一氏の場合
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bfb270109f0db492610372486aa0b9ae

ということで、坂井氏は私が設定した「慈光寺本妄信歴史研究者交名」の採否のメルクマール、

(1)長江庄の地頭が北条義時だと考えるか否か。
(2)慈光寺本の北条義時追討「院宣」を本物と考えるか否か。
(3)武田信光と小笠原長清の密談エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。
(4)後鳥羽院の「逆輿」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。
(5)宇治・瀬田方面への公卿・殿上人の派遣記事と山田重忠の「杭瀬河合戦」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。

の全てをクリアーされており、パーフェクトな「慈光寺本妄信歴史研究者」ですね。
更に坂井氏は山田重忠の鎌倉攻撃案を史実と考えておられる点で、「妄信」の度合いも別格です。

(その18)─藤原秀澄による山田重忠案の拒絶を史実とされる坂井孝一氏
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b486fa555337df2f32af0a6ee392d603

ま、それはともかく、『鎌倉殿と執権北条氏』には『増鏡』に関する若干の言及があったので引用しておきます。(p250以下)

-------
 また、南北朝期成立の歴史物語『増鏡』に興味深いエピソードがある。泰時が、もし「君」が御輿で臨幸した場合はどうすればいいかと尋ねると、義時は「正に君の御輿に向ひて弓を引く事は、いかがあらん。さばかりの時は、兜をぬぎ弓の弦を切りて、ひとへに畏まり申して、身を任せ奉るべし」、つまり「君」の御輿に弓を引いてはいけない、兜を脱いで弓の弦を切り、ひとすら恭順の意を示せと指示したというのである。物語作者の創作ではあろうが、先の『吾妻鏡』の記事と合わせれば、当時のリアルな感覚をうかがうことができる。
 要するに、藤原秀澄のような無能な指揮官に任せるのではなく、どこかの段階で後鳥羽地震が戦場近くに出向いていたら、たとえその姿をみせなくとも、院の臨幸という情報という情報だけで鎌倉方をひるませ、京方を勢いづけたことは確実なのである。しかし、武技を好んだとはいえ、後鳥羽は帝王である。自ら戦場に立つ勇気はなかった。
-------

先の『吾妻鏡』の記事とは、承久三年六月八日条の、

-------
同日戌刻。鎌倉雷落于右京兆舘之釜殿。疋夫一人為之被侵畢。亭主頗怖畏。招大官令禅門示合云。武州等上洛者。為爲奉傾朝庭也。而今有此怪。若是運命之可縮端歟者。禅門云。君臣運命。皆天地之所掌也。倩案今度次第。其是非宜仰天道之决断。全非怖畏之限。就中此事。於関東為佳例歟。文治五年。故幕下将軍征藤泰衡之時。於奥州軍陣雷落訖。先規雖明故可有卜筮者。親職。泰貞。宣賢等。最吉之由同心占之云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

というものですが、落雷に怯える義時は、幕府の最高指導者としては些か情けない感じです。
ただ、文治五年(1189)当時、「家子専一」、即ち頼朝の親衛隊長のような存在だった二十七歳の義時はもちろん奥州合戦に参加していますが、四十二歳の広元はずっと鎌倉にいました。
奥州合戦の陣中の出来事については義時は直接に経験した立場ですから、その義時に広元があれこれ教えるというのもずいぶん妙な話で、結局、このエピソードがある程度史実を反映しているとしたら、それは精神的に不安定だった義時を、広元が「まあまあ、落ち着いて下さいな。奥州合戦のときも陣中に落雷があったと聞いていますが、結果的には大勝だったではありませんか」と宥めた程度の話ではないか、と思われます。
また、この記事は五月十九日・二十一日条とともに大江広元の偉大さを顕彰するような趣もあり、『吾妻鏡』を執筆した広元子孫の潤色の可能性もあって、私には「当時のリアルな感覚」を反映したものとは思えません。

上杉和彦著『人物叢書 大江広元』(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c5f1aa30870eb0fb2e92841c6967436a
後鳥羽院の配流を誰が決定したのか。(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/937832affdcc2232ad806f192bc2e150

また、『増鏡』屈指の名場面とされる「かしこくも問へる男かな」エピソードは、

-------
 かくてうち出でぬる又の日、思ひかけぬ程に、泰時ただ一人鞭をあげて馳せ来たり。父、胸うち騒ぎて、「いかに」と問ふに、「戦のあるべきやう、大かたのおきてなどをば仰せの如くその心をえ侍りぬ。もし道のほとりにも、はからざるに、かたじけなく鳳輦を先立てて御旗をあげられ、臨幸の厳重なることも侍らんに参りあへらば、その時の進退はいかが侍るべからん。この一事を尋ね申さんとて一人馳せ侍りき」といふ。義時とばかりうち案じて、「かしこくも問へるをのこかな。その事なり。まさに君の御輿に向ひて弓を引くことはいかがあらん。さばかりの時は、兜をぬぎ、弓の弦を切りて、ひとへにかしこまりを申して、身をまかせ奉るべし。さはあらで、君は都におはしましながら、軍兵を賜はせば、命を捨てて千人が一人になるまでも戦ふべし」と、いひも果てぬに急ぎ立ちにけり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d4146484cdebdcd9701adc3d2ee5105

というものですが、私にはこれも「当時のリアルな感覚」を反映したものではなく、『増鏡』作者が後鳥羽院の戦争指導者としての精神の虚弱さ、勝利に向けた気迫の欠如を非難しているように思われます。
ただ、貴族社会のお約束として、治天の君をあまりに露骨に非難することはできないので、治天の君は「御心乱れ、思しまどふ」程度にとどめ、それ以外の「かねては猛く見えし人々」を非難しているように、『増鏡』作者は後鳥羽院の不甲斐なさを直接非難するのではなく、「かしこくも問へるをのこかな」のエピソードを創作して間接的に非難しているのではないか、というのが私の解釈です。

「巻二 新島守」(その8)─後鳥羽院
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7aa410720e4d53adc19456000f53ea07

なお、『五代帝王物語』にも別バージョンの「かしこくも問へるをのこかな」エピソードがあります。

『五代帝王物語』の「かしこくも問へるをのこかな」エピソード
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d39efd14686f93a1c2b57e7bb858d4c9

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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その22)─坂井氏は何故に慈光寺本の和歌贈答場面を採らないのか。

2023-10-23 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
続きです。(p210以下)

-------
 七月十三日、後鳥羽は鳥羽殿から隠岐島に移送される旅路についた。「慈光寺本」によれば、伊東祐時が身柄を受け取り、「四方ノ逆輿」に乗せたという。輿を進行方向と逆向きにする、罪人移送の際の作法である。供奉したのは「伊王左衛門入道」藤原能茂と、坊門信清の娘で頼仁親王の母「西ノ御方」(坊門局)ら女房二、三人、旅先での急死に備えて用意された聖一人であった。『吾妻鏡』は「内蔵頭(高倉)清範入道」も従ったが、途中で召し返されたため、「施薬院使(和気)長成入道」と「(藤原)能茂入道」が追って参上したとする。いずれにせよ護送の武士以外は、ほんの少数の供奉人だけであった。
 道中では遥かに水無瀬殿に思いを馳せつつ、播磨国・美作国・伯耆国を経て、「慈光寺本」によれば十四日ほどで「出雲国ノ大浜浦」に着いたという。また、『吾妻鏡』七月二十七日条には、出雲国大浜湊に着いた後鳥羽は、ここでいったん船に乗り換えたとある。武士たちの多くはここで帰京した。その機会を捉え、後鳥羽は母の七条院殖子と寵姫の修明門院重子に和歌を送った。
-------

「四方ノ逆輿」は慈光寺本にしか登場しませんが、慈光寺本では当該場面は、

-------
 去程ニ、七月十三日ニハ、院ヲバ伊藤左衛門請取〔うけとり〕マイラセテ、四方ノ逆輿〔さかごし〕ニノセマイラセ、医王左衛門入道御供ニテ、鳥羽院ヲコソ出サセ給ヘ。女房ニハ西ノ御方・大夫殿・女官ヤウノ者マイリケリ。又、何所〔いづく〕ニテモ御命尽サセマシマサン料〔れう〕トテ、聖〔ひじり〕ゾ一人召具〔めしぐ〕セラレケル。「今一度、広瀬殿ヲ見バヤ」ト仰下サレケレドモ、見セマイラセズシテ、水無瀬殿ヲバ雲ノヨソニ御覧ジテ、明石ヘコソ著セ給ヘ。其ヨリ播磨国ヘ著セ給フ。其ヨリ又、海老名兵衛請取参セテ、途中マデハ送リ参セケリ。途中ヨリ又、伯耆国金持兵衛請取マイラス。十四(日)許ニゾ出雲国ノ大浜浦ニ著セ給フ。風ヲ待テ隠岐国ヘゾ著マイラスル。道スガラノ御ナヤミサヘ有ケレバ、御心中イカゞ思食ツゞケケン。医師仲成、苔ノ袂ニ成テ御供シケリ。哀〔あはれ〕、都ニテハ、カゝル浪風ハ聞ザリシニ、哀ニ思食レテ、イトゞ御心細ク御袖ヲ絞テ、
  都ヨリ吹クル風モナキモノヲ沖ウツ波ゾ常ニ問ケル
 伊王左衛門、
  スゞ鴨ノ身トモ我コソ成ヌラメ波ノ上ニテ世ヲスゴス哉
 御母七条院ヘ此御歌ドモヲ参セ給ヘバ、女院ノ御返シニハ、
  神風ヤ今一度ハ吹カヘセミモスソ河ノ流タヘズハ

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e34ea7c0930b816cebfa3c4550738881

となっています。
私は目崎徳衛氏の『史伝 後鳥羽院』(吉川弘文館、2001)を検討した際、何故か9月12日の投稿で、

-------
私はこの「逆輿」に興味を持って慈光寺本を調べ始めたのですが、「逆輿」を史実と明言する歴史研究者にはなかなか出会えなくて、私が鋭意作成中の「慈光寺本妄信研究者交名(仮称)」において大将格に位置づけている坂井孝一氏(創価大学教授)ですら、『承久の乱』(中公新書、2018)では「逆輿」に言及されていません。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c261120149a5dfe7eafc5b1590ff81cd

などと書いてしまったのですが、単なる勘違いでした。
お詫びした上で、坂井氏は『承久の乱』(中公新書、2018)では、一切の留保なしに「逆輿」に言及されていると訂正させていただきます。
さて、坂井氏が引用されている『吾妻鏡』七月二十七日条は、原文では、

-------
上皇着御于出雲国大浜湊。於此所遷坐御船。御共勇士等給暇。大略以帰洛。付彼便風。被献御歌於七条院并修明門院等云々。
 タラチメノ消ヤラテマツ露ノ身ヲ風ヨリサキニイカテトハマシ
 シルラメヤ憂メヲミヲノ浦千鳥嶋々シホル袖ノケシキヲ

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm

となっています。
『吾妻鏡』では後鳥羽院は七条院と修明門院に歌を贈ったとなっていますが、ここは慈光寺本と全く違いますね。
慈光寺本では後鳥羽院と「伊王左衛門」が「御母七条院」へ歌を贈り、七条院が一首を返したとあります。
坂井氏は、この場面については何故に慈光寺本を採らないのか、その理由は不明です。
なお、渡邉裕美子氏の「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの─」(『国語と国文学』98巻11号、2021)によれば、「現実には高貴な女院が、能茂のような臣下に直接返歌をすることはまず考えられない」とのことです。

慈光寺本『承久記』の作者は藤原能茂ではないか。(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/581532859e25780fef4ee441ea4ce703
渡邉裕美子論文の達成と限界(その1)(その2)

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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その22)─坂井孝一氏の「匠の技」

2023-10-23 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
時間的には五番目ですが、メルクマールの四番目、

(4)後鳥羽院の「逆輿」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。

を見て行くこととします。
結論から言うと「慎重な留保」は全くありませんが、少し前の場面から様子を見ることにします。(p209以下)

-------
後鳥羽の運命
 後鳥羽に対する幕府の処断は、都から遠く離れた隠岐島への配流であった。承久三年(一二二一)七月六日、後鳥羽は身柄を洛中の四辻殿から洛南の鳥羽殿に移された。後鳥羽を載せた牛車の後ろには、西園寺実氏、藤原信成、藤原(伊王)能茂の三人が騎馬で付き随った。鳥羽殿は水無瀬殿と同じく、後鳥羽がしばしば遊興のために訪れた離宮である。ただ、今回は囚われの身としての御幸であり、君臣ともに断腸の思いであった。
 七月八日、後鳥羽は似絵の名手藤原信実に御影を描かせた。大阪府三島郡島本町の水無瀬神宮に所蔵される肖像画である(「はじめに」の後鳥羽院画像を参照)。その後、子の仁和寺御室道助法親王を戒師に出家した。警固の武士に懇願して対面を許された母の七条院殖子は、悲涙を抑えて帰っていった。
 「慈光寺本」は、七月十日、北条泰時の子「武蔵太郎時氏」が鳥羽殿に参上し、弓の片端で御簾をかき揚げて「君ハ流罪セサセオハシマス。トクトク出サセオハシマセ(君は流罪におなりになりました。早くお出でくださいませ)」と責め立てたと叙述する。後鳥羽は返事すらできなかった。しかし、再び責められると、昔から寵愛していた「伊王左衛門能茂」に今一度会いたいと答えた。時氏が泰時にその旨を書状で訴えると、泰時は能茂を出家させた上で鳥羽殿に行かせた。後鳥羽は能茂の姿をみて、「出家シテケルナ。我モ今ハサマカヘン(出家したのだなあ。自分も今は姿を変えよう)」と仁和寺御室を戒師に出家し、斬った髻(髪を頭上に束ねたもの)を七条院に送った。これをみた母は声も惜しまず涙を流し、悲しんだという。そこには正統な王たろうと志し、諸勢力の上に君臨した稀代の帝王、多芸多才の極致に達した文化の巨人の姿はみられない。勝者に屈し、憐れみにすがるしかない敗者の姿があった。
-------

慈光寺本には七月六日の鳥羽殿御幸に、「昔ナガラノ御供ノ人」として「左衛門尉能茂」が西園寺実氏・藤原信業と共に供奉したとありますが、この話は『六代勝事記』や『吾妻鏡』にも出てきます。
『吾妻鏡』には、

-------
上皇自四辻仙洞。遷幸鳥羽殿被。大宮中納言〔実氏〕。左宰相中将〔信成〕。左衛門少尉〔能茂〕以上三人。各騎馬供奉御車之後。洛中蓬戸。失主閇扉。離宮芝砌。以兵為墻。君臣共後悔断腸者歟。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm

とあって、「君臣ともに断腸の思い」云々と書かれていることから、坂井氏が直接には『吾妻鏡』を参照されていることが分かります。
「七月八日、後鳥羽は似絵の名手藤原信実に御影を描かせた」も『吾妻鏡』同日条の「今日。上皇御落飾。御戒師御室〔道助〕。先之。召信実朝臣。被摸御影」を受けていますが、これが「大阪府三島郡島本町の水無瀬神宮に所蔵される肖像画である」かどうかは、実はけっこう問題です。
というのは、『吾妻鏡』に先行する慈光寺本では信実が描いたのは法体の後鳥羽院像であり、流布本でも同様だからです。
この点、最近の美術史学界での評価を知りたくて、土屋貴裕氏の「似絵における「写実」の再検討─水無瀬神宮の「後鳥羽天皇像」を手がかりに」(『美術フォーラム21』44号、2021)という論文を読んでみたところ、「『吾妻鏡』のみに頼って「後鳥羽天皇像」を「隠岐配流直前、藤原信実によって描かれた落飾前の御影」と決着する」傾向は極めて強固ですね。
私自身は、俗体像か法体像かという問題に限っては、慈光寺本を疑う必要はなく、そして(私見では)慈光寺本に先行する流布本も法体像であることを明確にしている以上、後鳥羽院出家時に信実が描いたのは法体像だろうと考えます。
従って、水無瀬神宮所蔵の「国宝 紙本著色後鳥羽天皇像」は、少なくとも承久三年七月八日に描かれたものではなく、信実が描き、七条院に贈られた法体像はいつしか失われてしまったのだと思います。
ただ、「国宝 紙本著色後鳥羽天皇像」が信実作を騙った偽物かというと、出家以前、全く別の機会に後鳥羽院が信実に描かせていた可能性もあるので、そこは何とも言えないですね。

土屋貴裕氏「似絵における「写実」の再検討─水無瀬神宮の「後鳥羽天皇像」を手がかりに」(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/79a15796f435584388f3a9608b6d1748
土屋貴裕氏「似絵における「写実」の再検討─水無瀬神宮の「後鳥羽天皇像」を手がかりに」(補遺)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fb0051f3c00150675d251224a001d86f

さて、上記引用部分の前半では『吾妻鏡』に依拠されていた坂井氏は、後半では慈光寺本に全面的な信頼を寄せておられるようです。
こちらの場面の原文と拙訳は下記投稿を参照して下さい。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その58)─「彼堂別当ガ子伊王左衛門能茂、幼ヨリ召ツケ、不便に思食レツル者ナリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a204b22519ff861aada15f0e4942569
(その61)─「其時、武蔵太郎ハ流涙シテ、武蔵守殿ヘ申給フ事」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3412d6a819e9fd4004219b4ca162da01
(その62)─後鳥羽院出家の経緯と能茂の役割
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed0ab4d253ecb86d173f2f9136b6f2e8

「消しゴムマジック」の名人である坂井氏は、後鳥羽院が「彼堂別当ガ子伊王左衛門能茂」と藤原能茂の出自を丁寧に紹介した上で、「伊王左衛門能茂」に今一度会いたいと答えると、それまで閻魔王の使いのように後鳥羽院を責め立てていた北条時氏が突然涙を流し、父・泰時に手紙を書いて能茂を後鳥羽院に会わせるように提案し、その手紙を見た泰時は、時氏は十七歳の若さなのに、これほど立派な手紙を書きました、と「殿原」に見せびらかす、という場面を消去されています。
原文では極めて不自然なストーリーが坂井氏の「消しゴムマジック」のおかげでそれほど不自然になっておらず、まさに「匠の技」ですね。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その21)─坂井孝一氏は「消しゴムマジック」の名人

2023-10-22 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
続きです。(p181)

-------
 ただ、山田重忠は諦めていなかった。「慈光寺本」によれば、重忠は三百余騎を率いて東海・東山両道の合流地点である杭瀬河に向かったという。そこに武蔵七党(武蔵国を本拠として形成された七つの同族的武士団)の児玉党三千騎が攻め寄せた。重忠は「我ヲバ誰トカ御覧ズル。美濃ト尾張トノ堺ニ、六孫王ノ末葉、山田次郎重定(重忠)トハ我事ナリ」と名乗りをあげ、「散々ニ切テ出、火出ル程」激しく戦った。あっという間に児玉党百余騎が討ち取られ、重忠勢も四十八騎が討たれた。その後も重忠は、敵が引いたらこちらも引き、敵が馬を馳せてきたらこちらも攻めるように指示を出し、「命ヲ惜マズシテ、励メ、殿原」と号令をかけて命の限り戦った。しかし、兵力の差はいかんともし難く、最後は都を指して落ちていった。かくして美濃の合戦は、わずか二日ほどで京方の大敗に終わった。
-------

杭瀬河合戦の場面の原文と拙訳は下記投稿を参照して下さい。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その51)─「杭瀬河コソ山道・海道ノタバネナレバ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f89c9389b294c391d513d8879d32434a
(その52)─「小玉党三千騎ニテ寄タリケリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/707b870911ddacde83650b8458368cb6

坂井氏は「かくして美濃の合戦は、わずか二日ほどで京方の大敗に終わった」と書かれているので、山田重忠の杭瀬河合戦が六月六日の出来事だと考えておられることは明らかです。
『吾妻鏡』同日条にも、

-------
【前略】山田次郎重忠独残留。与伊佐三郎行政相戦。是又逐電。【中略】官軍逃亡。凡株河。洲俣。市脇等要害悉以敗畢。

https://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあって、「株河」が杭瀬河のことです。
そして、翌七日には「相州。武州以下東山東海道軍士陣于野上垂井両宿」とあって、北条時房・泰時以下の東山・東海道の軍勢は杭瀬河より西にある野上・垂井に移動していますから、杭瀬河合戦が六月六日の出来事であることは間違いありません。
しかし、坂井氏が引用する慈光寺本では、山田重忠の杭瀬河合戦は「承久三年六月八日ノ暁、員矢四郎左衛門久季・筑後太郎左衛門有仲、各身ニ疵蒙ナガラ、院ニ参テ」尾張河合戦の敗北を後鳥羽院に報告し、その報告を聞いた後鳥羽院が叡山に加勢を願うために御幸し、空しく帰って来た後の出来事となっています。
そして、宇治川合戦が存在しない慈光寺本では、山田重忠の杭瀬河合戦がその空白に置かれた「埋め草」になっています。
この間の事情を坂井氏は百も承知なのに、慈光寺本の引用に際しては何の留保もされません。
「海道大将軍」の場合、慈光寺本の引用そのものは正確ですが、こちらでは杭瀬河合戦について読者の誤解を誘う積極的な改変を行っていますね。
うーむ。
まあ、こちらも研究者としてはずいぶん危ない橋を渡っているような感じは否めないですね。
さすがに「詐欺師」とまでは言いませんが、坂井氏は「消しゴムマジック」の名人ではありますね。

慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その14)─「33.杭瀬河における山田重忠と児玉党の戦い 22行(☆)」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4bf473f371becdfe9eee25a517c54300

なお、坂井氏は『曽我物語』の研究で有名で、関東の武士団についても熟知されている方ですから、「児玉党三千騎」が大袈裟な数字であることは百も承知だと思います。
おそらく誇大な数字は軍記物の通例とのことで、読者に対する注意喚起もされなかったのでしょうが、「児玉党三千騎」は一般論として相当変なだけでなく、慈光寺本自体に即しても明らかに変な記述ですね。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その2)─メルクマールの追加
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ee79a59cf52d87a26a1e13cecaa38e76

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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その20)─坂井氏による「海道大将軍秀澄」の用い方の問題点

2023-10-21 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
残りの二つのメルクマール、

(4)後鳥羽院の「逆輿」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。
(5)宇治・瀬田方面への公卿・殿上人の派遣記事と山田重忠の「杭瀬河合戦」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。

は、(5)を後から追加したので時間的な順序は逆になってしまいました。
そこで、まず(5)から見て行きます。(179以下)

-------
山田重忠の奮戦
 翌六月六日の早朝、北条時氏・同有時という十九歳・二十二歳の若武者二人が、大江佐房、阿曽沼親綱、小鹿嶋公成、波多野経朝、三善康知、安保実光らとともに摩免戸を打ち渡った。矢を放つこともなく敗走する京方の中で、山田重綱と鏡久綱(佐々木広綱の甥)は留まって戦ったが、最後には重忠が退却、久綱は自害した。
 この山田重忠が、藤原秀澄に進言したことは先に述べた。尾張と美濃の境に本拠を置く重忠であるが、出自は美濃源氏の重宗流であった。鎌倉幕府の成立以降、美濃国では国房流が勢力を拡大し、重宗流は圧迫を受けていた。系図集『尊卑分脈』は、重忠・重継父子同様、開田重国・重知父子、木田重季、高田重朝・重村・重慶兄弟、小島重茂、その甥の重継・重通兄弟、足助重成らに「承久京方美濃国大豆戸において討たれ了」「承久京方討たれ了」などの注釈を加えている。彼らは「重」の字を通字とする美濃源氏重宗流の武士である。在地の現状を打開するため京方に付いたが、その思いもむなしく各所で敗走したのである。夜には海道大将軍秀澄も墨俣を棄てて退却した。
-------

いったん、ここで切ります。
「翌六月六日の早朝」以降は、『吾妻鏡』同日条に、

-------
今暁。武蔵太郎時氏。陸奥六郎有時。相具少輔判官代佐房。阿曽沼次郎朝綱。小鹿島橘左衛門尉公成。波多野中務次郎経朝。善左衛門尉太郎康知。安保刑部丞実打光等渡摩免戸。官軍不及発矢敗走。山田次郎重忠独残留。与伊佐三郎行政相戦。是又逐電。鏡右衛門尉久綱留于此所。註姓名於旗面。立置高岸。与少輔判官代合戦。久綱云。依相副臆病秀康。如所存不遂合戦。後悔千万云々。遂自殺。見旗銘拭悲涙云々。【後略】

https://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあるのを受けています。
さて、坂井氏は先に、

-------
 ところが、「海道大将軍」の藤原秀澄は、このうちの「山道・海道一万二千騎」を「十二ノ木戸ヘ散ス」、つまり十二ヵ所の防衛用の柵に分散させる戦術を取ったという。当然、各木戸の兵力はさらに少なくなり、明らかに失策であった。こうした戦術の選択について、「慈光寺本」も「哀レナレ」と批判的に叙述している。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b486fa555337df2f32af0a6ee392d603

と書かれていましたが(p173)、ここでも秀澄が「海道大将軍」だとされます。
もちろん、これは慈光寺本に存在する表現であり、間違いではありませんが、一般の読者は藤原秀澄が京方の東海道軍の「大将軍」、最高責任者だと誤解するのではないですかね。
しかし、『吾妻鏡』では、秀澄は六月三日条に「洲俣。河内判官秀澄。山田次郎重忠」と、山田重忠とともに洲俣(墨俣)に配されたことが記されているだけで、「大将軍」といった特別な資格・権限を思わせる肩書は伴っていません。
また、流布本では、秀澄は上下巻通して僅か一箇所、尾張河合戦前の軍勢配置の場面に、

------
 先〔まづ〕討手を可被向とて、「宇治・勢多の橋をや可被引」「尾張河へや向るべき」「尾張河破れたらん時こそ、宇治・勢多にても防れめ」「尾張河には九瀬有なれば」とて、各分ち被遣。【中略】墨俣〔すのまた〕へは河内判官秀澄・山田次郎重忠、一千余騎にて向。市河前へは賀藤伊勢前司光定、五百余騎にて向ける。以上一万七千五百余騎、六月二日の暁、各都を出て、尾張(河)の瀬々へとてぞ急ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dad3e44432e0103895943663b061f5ce

と山田重忠と並んで名前が出て来るだけで、ここにも「大将軍」といった肩書はありません。
結局、秀澄を「海道大将軍」とするのは慈光寺本だけですが、その慈光寺本においても、藤原秀康による第一次軍政手分に、

-------
「海道ノ大将軍ハ、能登守秀康・河内判官秀澄・平判官胤義・山城守広綱・六郎左衛門・刑部左衛門・帯刀左衛門・平内左衛門・平三左衛門・伊王左衛門・斎藤左衛門・薩摩左衛門・安達源左衛門・熊替左衛門・阿波守長家・下総守・上野守・重原左衛門・翔左衛門ヲ始トシテ、七千騎ニテ下ベシ。山道大将軍ニハ、蜂屋入道父子三騎・垂見左衛門・高桑殿・開田・懸桟・上田殿・打見・御料・寺本殿・駿河大夫判官・関左衛門・佐野御曹司・筑後入道父子六騎・上野入道父子三騎ヲ始トシテ、五千騎ニテ下ルベシ。北陸道大将軍ニハ、伊勢前司・石見前司・蜂田殿・若狭前司・隠岐守・隼井判官・江判官・主馬左衛門・宮崎左衛門・筌会〔うへあひ〕左衛門・白奇蔵人・西屋蔵人・保田左衛門・安原殿・成田太郎・石黒殿・大谷三郎・森二郎・徳田十郎・能木源太・羽差八郎・中村太郎・内蔵頭ヲ始トシテ、七千騎ニテ下ルベシ。山道・海道・北陸道山路ヨリ、一万九千三百廿六騎トゾ註タル。残ノ人々ハ、宇治・勢多ヲ固メ玉ヘ」。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4bee622726e9347aeba18024daf52e03

とあるように、「海道ノ大将軍」は別に秀澄一人ではなく、「能登守秀康・河内判官秀澄・平判官胤義・山城守広綱・六郎左衛門・刑部左衛門・帯刀左衛門・平内左衛門・平三左衛門・伊王左衛門・斎藤左衛門・薩摩左衛門・安達源左衛門・熊替左衛門・阿波守長家・下総守・上野守・重原左衛門・翔左衛門」と、秀澄を含めて十九人もいます。
その中には私が慈光寺本作者と考えている「伊王左衛門」藤原能茂もいますし、能茂の寵童仲間と思われる「翔左衛門」(愛王左衛門、渡辺翔)もいますね。
そして、「海道ノ大将軍」以外に「山道大将軍」が、「蜂屋入道父子三騎」「筑後入道父子六騎」「上野入道父子三騎」をそれぞれ一人と数えても十四人、単純に合計すれば二十三人います。
更に「北陸道大将軍」が二十三人なので、単純に合計すれば海道・山道・北陸道の三道で「大将軍」は六十五人となります。
その中には「殿」の敬称すらつかないレベルの武士も大勢いて、慈光寺本における「大将軍」はずいぶん安っぽい存在ですね。
慈光寺本においてすら、「海道大将軍」藤原秀澄は六十五人いる「大将軍」の一人に過ぎません。
こうなると、坂井孝一氏が「海道大将軍」を強調されるのは、自分は正確に史料を引用しているのであって、それを読者が誤解するのは読者の勝手、という態度のようにも思われます。
まあ、「詐欺」とまでは言いませんが、研究者としてはずいぶん危ない橋を渡っているような感じがしないでもありません。

盛り付け上手な青山幹哉氏(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ddb79082206b07a41b9c10cae3a4954d
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その19)─慈光寺本における大江広元の不在

2023-10-21 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
細かなことですが、『吾妻鏡』六月三日条には、

-------
関東大将軍著于遠江国府之由。飛脚昨日入洛之間。有公卿僉儀。為防戦。被遣官軍於方々。仍今暁各進発。【後略】

https://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあって、「昨日」、つまり六月二日に「関東大将軍」が「遠江国府」に着いたとの「飛脚」が「入洛」し、同日に「公卿僉議」があって、翌三日の「暁」に「官軍」が出発したことになっています。
しかし、流布本では、

------
 先〔まづ〕討手を可被向とて、「宇治・勢多の橋をや可被引」「尾張河へや向るべき」「尾張河破れたらん時こそ、宇治・勢多にても防れめ」「尾張河には九瀬有なれば」とて、各分ち被遣。大炊〔おほひ〕の渡へば、駿河大夫判官・糟屋四郎左衛門尉・筑後太郎左衛門尉・同六郎左衛門、是等を始として、西面者共二千余騎を被差添。鵜沼の渡へは美濃目代帯刀〔たてはき〕左衛門尉・川瀬蔵人入道親子三人、是等を始て一千余騎ぞ被向ける。板橋へは朝日判官代・海泉太郎、其勢一千余騎ぞ向はれける。気瀬〔いきがせ〕へは富来次郎判官代・関左衛門尉、一千余騎にてぞ向ける。大豆渡〔まめど〕へは能登守秀安・平九郎胤義・下総前司盛綱・安芸宗内左衛門尉・藤左衛門尉、是等を始として一万余騎にてぞ向ひける。食〔じき〕の渡へは阿波太郎入道・山田左衛門尉、五百余騎にて向ふ。稗島〔ひえじま〕へは矢野次郎左衛門・原左衛門・長瀬判官代、五百余騎にて向けり。墨俣〔すのまた〕へは河内判官秀澄・山田次郎重忠、一千余騎にて向。市河前へは賀藤伊勢前司光定、五百余騎にて向ける。以上一万七千五百余騎、六月二日の暁、各都を出て、尾張(河)の瀬々へとてぞ急ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dad3e44432e0103895943663b061f5ce

となっていて、出発が「六月二日の暁」ですから、『吾妻鏡』より丸一日早いですね。
僅か一日の違いですが、尾張河の「九瀬」に配置された人々は合戦までに持ち場に到着すれば良いという訳ではなく、逆茂木を設けるなどの準備も必要だったでしょうから、六月二日の方が良さそうに思えます。
さて、私は坂井孝一氏の見解には殆ど賛成できませんが、坂井氏が、

-------
「天性臆病武者」の秀澄は、北陸道軍の朝時や東山道軍の武田・小笠原に挟撃される危険があるとして重忠の策を用いず、墨俣で鎌倉方を迎え撃つ消極策を選択する決断をした。鎌倉方が大江広元・三善康信の策を採用し、迎撃から出撃に戦術を変えたのとは対照的である。
-------

という具合に(p174以下)、山田重忠を大江広元・三善康信と対比されている点は興味深いですね。
私も、慈光寺本に描かれた山田重忠は何だか『吾妻鏡』の大江広元みたいな存在だなあ、と感じています。
そして、そういえば慈光寺本では広元はどのように描かれていたのだろう、と思って探してみたら、何と慈光寺本では広元の登場場面は皆無です。
『吾妻鏡』で圧倒的な存在感を示していた広元は、慈光寺本には名前すら出てきません。
これは何故なのか。
単純に慈光寺本作者が鎌倉事情に疎く、広元という存在の幕府における重要性に気づいていなかっただけなのか。
ここで気になるのは、慈光寺本では広元の嫡子・親広の存在感も極めて希薄で、京都守護扱いをされていない点です。
親広が伊賀季光と並ぶ京都守護であったことを慈光寺本作者が知らないはずはありませんが、しかし、慈光寺本には親広が後鳥羽院に召喚されて味方になることを説得(強要)される場面は存在しません。
それどころか、親広は「諸国ニ被召輩」の中で近江国の土豪扱いされてしまっています。
こちらは単なる無知とはとても思えず、故意(悪意?)の創作を感じさせますが、とすると広元の不在も何らかの作為を疑いたくなりますね。

慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その16)─「父子兄弟引分上せ留らるゝ謀こそ怖しけれ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4df629b09b85f3308da2599a6bcdafca

ちなみに流布本でも広元の登場場面は僅か二箇所で、最初は実朝暗殺の直前、

-------
 大膳大夫広元、「加様〔かやう〕の時は、御装束の下に為被召〔めされたら〕んに苦しくも候まじ」とて、唐綾威〔からあやおどし〕の御著背〔きせ〕(なが)一領進〔まゐ〕らせたりけるを、文章博士、「何条〔なんでふ〕さる事可有」とて留〔とどめ〕奉る。広元、頻〔しきり〕に「昼さて有ばや」と申けるを、仲章、「必〔かならず〕秉燭〔へいしよく〕にて仕〔つかまつる〕事なり」とて、戌の時とぞ被定〔さだめられ〕ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3f9f3f48e9827ac826520bebbb2c14da

と実朝に鎧を着用するように助言するも源仲章に拒否されるという情けない役です。
次は「鎌倉に留まる人々」の筆頭に、

-------
 鎌倉に留まる人々には、大膳大夫入道・宇都宮入道・葛西壱岐入道・隼人入道・信濃民部大輔入道・隠岐次郎左衛門尉、是等也。親上れば子は留まり、子上れば親留まる。父子兄弟引分上せ留らるゝ謀〔はかりごと〕こそ怖しけれ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/84e69bedac1469967b6e592fe90d5076

と「大膳大夫入道」の名前だけ出てきます。
流布本でも広元の扱いは決して大きくはありませんが、それにしても名前すら出さない慈光寺本は余りに極端ですね。
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