学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

性海の第四の夢に登場する二人の僧は誰なのか。(その1)

2022-08-31 | 唯善と後深草院二条
今月14日の投稿「東国の真宗門徒に関する備忘録(その15)」で、私は、

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ここで、おそらく従来の真宗研究者が誰も問わなかったであろう一つの問題を提示したいと思います。
それは、横曾根門徒・性海の『教行信証』開板事業を覚恵・覚如は知っていたのか、覚恵・覚如は性海からこの事業への協力を求められたことはなかったのか、という問題です。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e6d77addf6d40b9b33ef6001bf1a379d

と書きました。
覚恵・覚如父子は正応三年(1290)の「三月の比」(『最須敬重絵詞』)から同五年(1292)の「陽春なかばの比」(『慕帰絵詞』)まで、丸々二年間も「坂東八箇國、奧州・羽州の遠境にいたるまで、處々の露地を巡見して、聖人の勸化のひろくをよびけることをも、いよいよ隨喜し、面々の後弟に拾謁して、相承の宗致の誤なきむねなどたがひに談話」(『慕帰絵詞』)していますが、『慕帰絵詞』と『最須敬重絵詞』のいずれも性海の事業に一切触れないのはもちろん、横曽根門徒との交流も記しません。

(その16)~(その19)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/54cb8c0c7fc6f801abad7e8b5ce838d7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/262341e664a617edc2511a07fe1533a4
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bf509b00dd4f1d407f0cd9519132e89b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f5922a99c59604b8da30cffe17a628a9

しかし、諸々の事情を踏まえて、私は「東国の真宗門徒に関する備忘録(その20)」において、

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「勧進沙門性海」の『教行信証』開板は、横曽根門徒だけでなく、広く親鸞の教えに従う門徒一般にとって極めて重要な意義を持つ事業であるので、覚恵・覚如も当然に協力を求められたはずです。
あるいは、覚恵・覚如を「勧進」の広告塔として東国に招いたのは横曽根門徒・性海であって、費用も横曽根門徒が負担してくれたのかもしれません。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7750cba0b3f4824cc693315cdc0920b

との暫定的な結論を出しました。
その後、西岡芳文氏の「初期真宗へのタイム・トリップ」や永井晋氏の「下河辺庄と中世真宗」等で横曽根門徒を中心に各門徒の動向を概観し、併せて研究史を遡り、平松令三氏の「高田宝庫より発見せられた新資料の一、二について」や宮崎円遵氏の「教行信証出版の問題」を確認した結果、性海が『教行信証』出版事業を行った時点で、関東の親鸞門弟・門徒の間には当該事業の情報は周知されていたのは間違いないと考えます。
そして、多くの門徒集団の中でも親鸞自筆の『教行信証』を持つ横曽根門徒の威信は極めて高く、また木針智信の唯善に対する資金提供に見られるように、横曽根門徒が財政的にも極めて豊かであったことに鑑みれば、覚恵・覚如が東国巡見において横曽根門徒と交流したのは当然であり、むしろ『教行信証』出版事業への協力を得るため、横曽根門徒が多額の費用を負担して覚恵・覚如を招いたものと考えるのが素直ではないかと思われます。
そして、こう考えると、従来は謎とされていた性海の第四の夢に登場する二人の僧も、自ずと明らかになりそうです。
今井雅晴氏による整理を利用させてもらうと、性海が見た四回の夢の内容は、

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 第一回の夢-正応三年十二月十八日の夜の夢
 「当副将軍相州太守平朝臣(執権の北条貞時)」の乳人である「平左金吾禅門
  法名杲円(平頼綱)」が七人の僧侶を招き、『大般若経』を書写させた時、
  性海もその人数に加えてもらって、白馬一匹・金銭一裹を布施として与えら
  れた。
 第二回の夢-正応四年一月八日の夜の夢
  北条貞時の息子で十二、三歳位の童子が性海の膝の上で正坐した。
 第三回の夢-正応四年一月二十四日の夜の夢
  先師性信法師が現われて、『教行信証』を開板する時はその旨を平頼綱に申
  し出、その援助を得てから実施しなさい、とおっしゃった。
 第四回の夢-正応四年二月十二日の夜の夢
  二人の僧が五葉松一本と松笠一つを持ってきて、性海に与えた。

http://web.archive.org/web/20061006213546/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/imai-masaharu-yorituna-03.htm

というものです。
この内、第三回までの夢の意味は明らかで、政治権力の庇護を受けて事業を行ったことのアピールですね。
平松令三氏は性海が「夢の告げをこの跋文のなかでくどくどと述べている」理由について「どうやら、これは彼が頼綱に面会して助成を懇願する際に述べた内容らしい」と推測されていますが、そうした経緯があった可能性は十分考えられるものの、この跋文の直接の読者として性海が想定したのは真宗の信者であり、特に他の門徒の指導者層であったでしょうから、自分が幕府の最高指導者の庇護を受けてこの事業を行ったのだ、というアピールが目的であったと思われます。

平松令三氏「高田宝庫より発見せられた新資料の一、二について」(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c5fa9c08335ab2434bc74ff66e134343

しかし、第四回の夢は第三回までとは異質で、政治権力との関係は窺えず、宗教的色彩が濃厚です。
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「甲斐国等々力万福寺旧蔵の親鸞聖人絵伝(六幅)」(その4)

2022-08-30 | 唯善と後深草院二条
宮崎著の続きです。(p76)

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 それはいずれにしても、上記の『絵伝』と『伝絵』の中の二図は、少なくとも室町時代には一部の人々の間に『教行信証』の印行が伝承されていたことを示すものであろう。そしてこれは前記正応の識語の確実性を傍証するものというべきである。しかもこの『教行信証』刊行が事実であるならば、それは聖人の門弟や初期の門徒の学問的教養や社会的地位をも思わしめるものがあり、この点将来の研究に色々重要な示唆を与えるものといわねばならない。
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「九 教行信証出版の問題」は以上です。
さて、等々力山万福寺旧蔵の『絵伝』は荒木門徒の一流である甲斐門徒が描かせたものであることは明確ですが、「堺源光寺旧蔵の『親鸞伝絵』(四巻)」の由来はどの程度明確なのか。
具体的に〇〇門徒の制作と特定することは可能なのか。
この点、まだ全然調べていないのですが、津田徹英氏の「佛光寺本『善信聖人親鸞伝絵』の制作時期をめぐって」(『美術研究』408号、2013)という論文には参考になりそうな情報があります。(p2以下)

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一、記録にあらわれた佛光寺本
【中略】
 その後、宝永四年(一七〇七)には、妙法院門跡堯延法親王の意向で、佛光寺本の模写が石川基董の手で行われており、霊元上皇と東山天皇の叡覧を経たのち、泉州堺の源光寺に寄進がなされたことが知られる。それは慶安寺本同様に絵相と詞書を分離して、それぞれを巻子に仕立てていたようである。ただし、絵相に関しては佛光寺本を忠実に写し取ろうとしたことが窺われる。このように佛光寺本は、近世において少なくとも二度にわたり模写本が制作されたが、それは寛文七年の後水尾法皇による叡覧以来、次第に佛光寺本が世に知れわたり、詞書が後醍醐天皇の宸翰と喧伝されたことと相まって、既知の「親鸞伝絵」と絵相・詞書ともに異にする点に世の耳目が集まったことが、二度目の模写本制作に繫がったようである。

https://tobunken.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=6045&item_no=1&page_id=13&block_id=21

これを見ると、「堺源光寺旧蔵の『親鸞伝絵』(四巻)」は、近世に「既知の「親鸞伝絵」と絵相・詞書ともに異にする点に世の耳目が集まった」状況の下で、仏光寺本等とともに収集された可能性が高そうですね。
ま、それはともかく、「大体この識語はいくつかの夢想によって綴られているばかりでなく、従来こうした刊行に関する文献は何人にも片鱗も注意されていないし、またそうした刊本の断簡一紙も知られていない。従ってこれを直ちに信拠してよいか、どうか、問題がないわけではない」ものの、「しかしこの文章は鎌倉時代のものとして疑うべき点がないようであり」、「聖人の門弟や門徒の社会的地位についての考え方も、従来の全く農民や庶民ばかりとする見方は相当改められて来ているから、北条氏との交渉があったとするこの識語も否定さるべきでは」なく、更に印刷場面を描いた甲斐万福寺旧蔵の親鸞絵伝のような「傍証」もあるのだから、「前記正応の識語の確実性」は認めてよいのでしょうね。
ところで、宮崎円遵氏は「上記の『絵伝』と『伝絵』の中の二図は、少なくとも室町時代には一部の人々の間に『教行信証』の印行が伝承されていたことを示すもの」と言われますが、これはあまりに消極的な見方ではなかろうかと思われます。
そもそも横曽根門徒の「勧進沙門性海」が企画した『教行信証』出版事業は、幕府の実質的な最高権力者である「副将軍」平頼綱まで巻き込んでいるのですから、当該事業が行なわれた時点で、幕府関係者を含む相当広い範囲で知られていたはずです。
平頼綱にしてみれば、宗教の保護者としてふるまうことは自己の権力を荘厳し、正統化するものであって、その利用価値は極めて高く、積極的に喧伝したでしょうね。
他方、「勧進沙門性海」にしてみれば、多くの門徒集団の中で、親鸞自筆本(坂東本)を有する横曽根門徒こそが最も正統的な集団なのだ、というアピールをしたい気持ちも多少あったかもしれません。
ただ、そうはいっても、『教行信証』出版は親鸞を敬愛する人々全てにとって客観的に極めて意義のある事業ですから、横曽根門徒だけで資金を集めてこじんまりとやるのは「勧進」として適切ではなく、横曽根門徒以外にも積極的に協力を呼び掛けたはずです。
そして、完成した成果物としての『教行信証』刊本は広く他門徒にも配布され、高田門徒に配布された刊本の一部が後に高田宝庫で発見された二つの写本の原本となり、甲斐門徒に配布された刊本は「甲斐国等々力万福寺旧蔵の親鸞聖人絵伝(六幅)」に画面構成の素材を提供した、ということだろうと思います。
要するに、性海が『教行信証』出版事業を行った時点で、関東の親鸞門弟・門徒の間には当該事業の情報は周知されていたと考えられます。
性海の事業がいつしか忘れ去られ、「従来こうした刊行に関する文献は何人にも片鱗も注意されていないし、またそうした刊本の断簡一紙も知られていない」ことになった理由については別途考察が必要となりますが、事業の時点では親鸞の門弟・門徒に周知であったと考えると、性海の見た四つの夢の解釈、特に五葉松と松笠とともに登場した謎の僧二人が意味するものは何か、という問題にもヒントが得られそうです。
この問題は次の投稿で検討しますが、私はこの二人は覚恵・覚如父子ではないか、と考えています。
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「甲斐国等々力万福寺旧蔵の親鸞聖人絵伝(六幅)」(その3)

2022-08-29 | 唯善と後深草院二条
前回投稿で引用した部分に「元来『教行信証』は江戸時代の初め寛永年間に刊行されたものが最初であると一般に考えられているが」とありますが、少し検索してみたところ、小川貫弌氏の「教行信証の書写と印刷」(『真宗研究』18号、1974)という論文の冒頭に、

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 浄土真宗の聖教について、その伝持の歴史は、書写の時代から印刷の時代へと展開した。その転換期は、中世の末ごろから近世の初頭である。就中、『教行信証』については、寛永十三年(一六三六)の春、京都の中野市右衛門の開版が、その上梓の嚆矢であるとされてきた。
 しかるに、先年、高田専修寺の宝庫から、これまでの定説をくつがえすような新しい資料が発見された。それは鎌倉時代の正応四年(一二九一)八月に、性海が『教行信証』の出版をくわだてて、その願主となり、鎌倉幕府の長崎頼綱(法名果円)をその檀越として、関東においてその刊行があったというのである。これは著者親驚聖人の滅後三十年、寛永の開版より三百四十五年も早いときのことである。しかし、伝世の遺品もないから半信半疑の人もあり、これを傍証する諸条件の検討がまたれている。

http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/%E7%9C%9F%E5%AE%97%E7%A0%94%E7%A9%B6/%E7%9C%9F%E5%AE%97%E7%A0%94%E7%A9%B6%EF%BC%91%EF%BC%98%E5%8F%B7/%E7%9C%9F%E5%AE%97%E7%A0%94%E7%A9%B6%EF%BC%91%EF%BC%98%E5%8F%B7%E3%80%80014%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E8%B2%AB%E5%BC%8C%E3%80%8C%E6%95%99%E8%A1%8C%E4%BF%A1%E8%A8%BC%E3%81%AE%E6%9B%B8%E5%86%99%E3%81%A8%E5%8D%B0%E5%88%B7%E3%80%8D.pdf

とあります。
性海の『教行信証』出版事業は、実に「寛永の開版より三百四十五年も」遡る画期的なものだった訳ですね。
さて、続きです。(p74以下)

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 しかるに、こうした識語を考慮しておくと、実は外にその意味が明らかとなり、印行の事実を支持する資料とすべきものがあるようである。その一は、古く甲斐等々力万福寺に伝えられた親鸞絵伝の図である。この絵伝は現在本派本願寺の宝庫に収蔵されているが、内容は流布本と多少異なる室町時代の六幅の絵伝で、他に類本は存せず、一般には余り知られていないようである。それはともかく、この中の一図に、「稲田禅坊」と札銘のある挿図のようなものがある。即ち巻子本を収めた経筥を側にした聖人の前で、一人の僧が版木の上に長い紙をひろげ、馬棟を傍にして、まさにこれを刷ろうとしているが、他の三人の僧は刷り上った紙を眺めて話し合っているところである。これは印刷のことを示したものに違いないし、稲田のこととしているのは、『教行信証』の板行を意味したものであろう。ちなみに、龍谷大学図書館に等々力万福寺旧蔵の室町時代末期書写の『親鸞伝絵』の『聞書』があるが、これには右の絵伝のことや、印刷のこと等に言及するところがない。
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いったん、ここで切ります。
問題の場面は「万福寺六幅絵伝の内(模本)」として掲載されています。(p72、但し白黒写真)
恥ずかしながら私は「馬棟」が読めず、近くに馬小屋なんかないぞ、と思いながら当該場面を眺めていましたが、これは「バレン」なんですね。
「バレン」なら小学生の頃から知っていましたが、「馬棟」と書くとは。

https://nandoku.gten.info/word/%E9%A6%AC%E6%A3%9F

ま、それはともかく、当該場面は木版印刷の作業を描いていることに間違いないですね。
さて、万福寺旧蔵の親鸞絵伝についての言及は僅かにこれだけですが、宮崎氏は更にもう一つの事例を挙げられます。(p75以下)

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 その第二は、堺源光寺旧蔵の『親鸞伝絵』(四巻)の中の稲田興法の段の図である。これは、聖人の前に小さなつつみを三個のせた台と折本数帖をおき、傍の経机には巻子本を多数積み上げているが、その側に白衣の僧形を描いて聖人と対話している形を示し、また使者が何ものかを持参している。これは何を示した図か、わたくしには、かなり長い間わからなかったが、前記識語を知って、これを対照してみると、やはり『教行信証』の刊行と関係があるのであろう、と思う。そしてあるいは、白衣の客人は平左金吾禅門で、その外護をあらわしたものかも知れない。この源光寺本は現在原本の所在を知らず、明治初年本願寺で諸種の『伝絵』や『絵伝』の異本を集めて作った模本の中に存するのを知るばかりであるが、室町時代のものであろう。実は、こうした絵図を他の『伝絵』でも見たような朧気な記憶があるが、いまは思い出せない。それにしてもこの『伝絵』は四巻本の系統と思われるから、なお今後の調査で他から見出せるかも知れない。
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いったん、ここで切ります。
仮に「白衣の客人は平左金吾禅門」ならば、平頼綱を描いた唯一の絵となりそうですが、果たしてどうなのか。
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「甲斐国等々力万福寺旧蔵の親鸞聖人絵伝(六幅)」(その2)

2022-08-28 | 唯善と後深草院二条
平松著の続きです。(p80以下)

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 源誓の甲斐門徒が創立した等々力〔とどろき〕(現在の山梨県勝沼町等々力)満福寺【ママ】は、小山正文氏が「遺徳法輪集」によって指摘されたように親鸞絵伝六福をはじめ、聖徳太子絵伝二幅、法然絵伝二幅、源誓絵伝二幅、それに「十王絵や光明品など、いわゆる説話画と称せられるものが数多く整えられていた事実」(『高田学報』第六八輯掲載、同氏論文「関東門侶の真宗絵伝」)は、注目されねばならない。
 その親鸞絵伝六幅は、いま西本願寺に伝えられていて、南北朝期の製作とみられるが、その画面構成は、とくに善光寺や熊野に大きくスペースをさくなど、通規の親鸞絵伝とはまったく異なった絵相を随所に示し、今後の研究課題となっている。そのほか聖徳太子・法然・源誓の各絵伝についても、小山氏の指摘のようにまことに個性的であって、この門徒が「庶民相手の絵解きを主体とする庶民仏教であったことを物語るものに他ならない」とする小山氏の見解はうなずかれる。
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万福寺旧蔵の親鸞絵伝六幅は重要文化財に指定されていて、「文化遺産オンライン」の解説でも、

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本図は、聖徳太子や法然上人の絵伝を所持していた甲斐万福寺に伝来した親鸞聖人絵伝で、江戸時代中頃に本願寺に納められた。本図は親鸞絵伝としては類例のない六幅構成の作品。
制作は南北朝時代とみられ、あくの強い独特な表現を示し、この他の真宗系各絵伝とも作風が著しく異なることから、初期真宗における祖師絵伝の展開を考える上で極めて重要な作品である。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/235771

という具合いに、その個性の強さが強調されていますね。
さて、万福寺旧蔵の親鸞聖人絵伝についての宮崎円遵氏の見解を見て行きます。

宮崎円遵(1906-83)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E5%86%86%E9%81%B5

『続親鸞とその門弟』(永田文昌堂、1961)の「帰洛後の親鸞聖人」という章の「九 教行信証出版の問題」から少し引用します。(p70以下)

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【前略】
 去る昭和三十二年五月高田派専修寺において真宗連合学会第四回大会が開かれた時、展観されたものの中に、室町時代書写と慶長五年(一六〇〇)書写との『教行信証』が二本あったが、この両書の奥に載せている正応四年(一二九一)の識語は頗る注意すべきものであった。それは、元来『教行信証』は江戸時代の初め寛永年間に刊行されたものが最初であると一般に考えられているが、この識語には、鎌倉時代の末正応四年に性海なる人がすでに『教行信証』を出版したことを記しているからである。そしてこの展観の頃発刊された『高田学報』(四〇)に平松令三氏がこの識語について研究を発表されたので、この問題は一層学界の関心をよんだのであった。
 ところで、右二本の中、前者には筆者や書写年代を示す奥書等はないが、後者は、信巻の末尾の奥書によると、慶長五年正月高田派第十三世堯真上人の尊命によって当年七十歳の信楽院慶忍等が書写したものである。そしてこれ等両書の化身土巻末尾には次のような識語を載せている。少し長い漢文であるが、重要な文献であるから、左にこれを引用する。

  今此教行信証者、親鸞法師選述也、立章於六篇、調巻於六軸、皆引経論真文、
  各備往生潤色、誠是真宗紹隆之鴻基、実教流布之淵源、末世相応之目足、即
  往安楽之指南也、而去弘安第六暦歳癸未春二月二日、彼親鸞自筆本一部六巻、
  従先師性信法師所、令相伝畢、為報仏恩、欲企開板於当時伝弘通於遐代之刻、
  有度々夢想之告矣、于時正応第三天歳次庚寅冬臘月十八日夜寅剋夢云、当副
  将軍相州太守平朝臣乳父平左金吾禅門<法名果園>屈請七口禅侶、被書写大般
  若経、彼人数内被加於性海、而奉書写真文畢、爰白馬一疋金銭一裹令布施之
  覚而夢惺畢、同 四年正月八日夜夢云、当相州息男年齢十二三許童子、来而
  令正坐於性海之膝上、覚而夢惺畢、同廿四日夜夢云、先師性信法師化現而云、
  教行証開板之時者、奉触子細於平左金吾禅門、可刻彫也、言已乃去覚而夢惺
  畢、同二月十二日夜夢云、有二人僧、而持五葉貞松一本松子一箇、来与於性
  海、覚而夢惺畢、依上来夢想、倩案事起、偏浄教感応之先兆、冥衆証誠之嘉
  瑞也、若爾者、機縁時至、弘通成就者歟、仍奉触子細於金吾禅門、即既蒙聴
  許、而所令開板也、然此本者、以親鸞自筆御本、令校合、令成印板者也、庶
  幾、後生勿令加減於字点矣、
 本云
  于時正応四年五月始之、同八月上句終功畢、

 すなわち聖人滅後二十九年にあたる正応四年の五月から八月にかけて、聖人の高弟下総横曽根の性信の門下である性海が、相伝するところの『教行信証』の草稿本(坂東本)によって、『教行信証』を刊行したというのである。そしてそれは性海が昨年来数度にわたって感得した夢想、中でも先師性信の指示に促されて、副将軍相州太守平朝臣(執権北条貞時)の乳母の夫平左金吾禅門(平頼綱)の外護によって成就されたという。
 ところで、大体この識語はいくつかの夢想によって綴られているばかりでなく、従来こうした刊行に関する文献は何人にも片鱗も注意されていないし、またそうした刊本の断簡一紙も知られていない。従ってこれを直ちに信拠してよいか、どうか、問題がないわけではない。しかしこの文章は鎌倉時代のものとして疑うべき点がないようであり、聖人の門弟や門徒の社会的地位についての考え方も、従来の全く農民や庶民ばかりとする見方は相当改められて来ているから、北条氏との交渉があったとするこの識語も否定さるべきではない。しかも当時浄土門内では、念仏の教に関する経論釈を初め色々の典籍が刊行され、いわゆる浄土教版としてかなり流布している。そこで、この識語を疑うべきではなく、やはり正応年間の『教行信証』の印行を認むべきであろうか、と思われる。
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いったん、ここで切ります。
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「甲斐国等々力万福寺旧蔵の親鸞聖人絵伝(六幅)」(その1)

2022-08-28 | 唯善と後深草院二条
平松令三氏の発表を聞いた宮崎円遵氏が、

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実は甲斐国等々力万福寺旧蔵の親鸞聖人絵伝(六幅)のなかに、稲田禅坊で聖人が経文を読んでいる前で、一人の僧が版木の上へ紙をひろげて、印刷しようとしている場面がある。なんのことやらわからず、疑問のままにしていたのだが、この史料によって、『教行信証』の開版を絵にしたものだろうことがわかる。これで納得ができた。この奥書に記された事実は信頼してよいと思う。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c5fa9c08335ab2434bc74ff66e134343

と述べたという話が気になったので、『続親鸞とその門弟』(永田文昌堂、1961)を確認してみました。
まず、前提として等々力万福寺についてですが、同寺の公式サイトには、

-------
親鸞聖人ゆかりの寺(萬福寺)

  源誓坊覚信上人住職の時、安貞二年(一二四四)親鸞上人この国に遊化し錫(僧侶の杖) を当寺に留めたり。源誓信心帰依して弟子となり、是より真宗となれり。 
  この寺を杉坊というは親鸞聖人、遊化の日、斎飯(食事)終わりてその箸を地にさし、「我が法必定末世に流布せんには、この杉箸に枝葉生ずべきにこそ」と誓われけるに、不思議や、 その箸たちまちに芽を出せり。年ふるままに枝葉茂りて大木となり、太さ五抱えもありき。この 因縁によりて杉坊とはいうなり。寛延中、当寺炎上の時、その杉も焼け枯れたれば、焼け残りを掻き集め、一つの倉を作りてこれを収む。古えのおもかげを残すとの心を以て、存古堂と名づく。この堂、今も本堂の傍らにあり。 (甲斐名所図絵より)

http://katsunuma.net/manpukuji/3/syoukai3.html

とあります。
これだけでは何が何だか分かりませんが、創建の由来を調べると、万福寺は荒木門徒の寺ですね。
平松氏の『中世史論攷』(同朋舎出版、1988)の「第一章 関東真宗教団の成立と展開」は、

-------
一、親鸞の門弟
二、横曽根門徒─錦織寺まで─
三、鹿島門徒
四、高田門徒─専修寺とその門流─
五、荒木門徒─仏光寺・興正寺など─
六、越前諸門徒─四個本山の成立─
七、絵系図
-------

と構成されていますが、「五、荒木門徒─仏光寺・興正寺など─」から少し引用します。(p79以下)

-------
絵伝と坊守を重視の伝統
 武蔵国荒木(現在の埼玉県行田市荒木町)を拠点としたこの門徒の中心人物は源海であった。源海は諱〔いみな〕で、房号を光信といったとも、逆に光信が諱で、源海が房号だともいわれ、『門侶交名牒』の記載によって、高田門徒のリーダーであった真仏の門下とされる。
【中略】
 だいたい荒木門徒は、のちに述べるように、絵伝の製作に力を入れ、独特な唱導や絵解きを行ったところに特徴があるが、指導者源海の出自からしてそのような話がつきまとっていることは、この門徒の特徴となる因子が、門徒形成の当初から包蔵されていたことを示すものとして、興味深いものがある。
 この荒木門徒は、了海を中心とする武蔵国阿佐布門徒、源誓を中心とする甲斐門徒を分出し、荒木にあった満福寺は三河に移って如意寺となって発展した。
 まず了海の阿佐布門徒は、いま東京都港区元麻布にある善福寺がその遺跡で、同寺には鎌倉末期製作と認められる見事な了海の木像が安置されているが、了海の門弟誓海は鎌倉甘縄に道場を作って進出し、その門下から明光と了源が輩出する。明光は遠く備後山南地方に教線を伸ばし、了源は京都に入って仏光寺を草創する。
-------

いったん、ここで切ります。
阿佐布門徒については西岡芳文氏「初期真宗へのタイム・トリップ」(『日本の美術』488号、2007)に最新の研究成果が披露されていますね。
西岡氏には「阿佐布門徒の輪郭」(『年報三田中世史研究』10号、2003)という論文もあります。

西岡芳文氏「初期真宗へのタイム・トリップ」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0835287c5771986bc78fa34d38d402f3
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永井晋氏「下河辺庄と中世真宗」(その3)

2022-08-28 | 唯善と後深草院二条
「清浄寺の親鸞聖人像」の続きです。(p146以下)

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 親鸞聖人像については、鎌倉末・南北朝の内乱期に兵乱を避けるために一度深田に埋められたが、後に霊験があって掘り返されたことから、「おむく様」の別称があり、「おむく様」が掘り出された場所として「おむくが池」の伝承地がある(『資料編近世』244)。清浄寺伝来の像は、様式から十五世紀前半の制作と推定されている。「親鸞聖人御影一躯修像之了、時天正十五<丁亥>暦霜月十一日」・「木売川戸村西光院住良盛」の修理銘が像底にある。 
 関宿の常敬寺(野田市)が本願寺に帰順したのは蓮如上人が門主を務めた一五世紀後半である。この間に、相模・武蔵国守護扇谷上杉朝良は、永正の乱(一五〇六-一五)の間に、永正の大弾圧(一五〇六)とよばれる関東真宗門徒の弾圧を行った。西光院の前身寺院となる真宗寺院はこの時に廃絶し、おむく様と呼ばれる親鸞聖人像も隠されたのであろう。本像の修理が徳川氏の関東入部後であることは、戦国時代の関東で真宗を弾圧した人々がいなくなったという時代背景を感じさせる。
-------

以上で「下河辺庄と中世真宗」は終わりです。
「関宿の常敬寺(野田市)が本願寺に帰順したのは蓮如上人が門主を務めた一五世紀後半」とありますが、この経緯は複雑なので、青山学院大学教授・津田徹英氏の「親鸞の面影─中世真宗肖像彫刻研究序説─」(『美術研究』375号、2002)に即して検討したいと思います。
津田論文は「東京文化財研究所刊行物リポジトリ」で検索するとPDFで読めます。

https://tobunken.repo.nii.ac.jp/

さて、『吉川市史 通史編1』では、「第2章 南北朝・室町時代の吉川」の「第四節 赤岩郷の寺社と信仰」に関連する記述があるので、若干の重複はありますが、こちらも引用しておきます。(p189以下)
この部分も永井晋氏の執筆です。

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一 赤岩外河・内河の寺院

初期真宗と赤岩
 下河辺庄赤岩郷は、金沢氏の所領として開発され、そこに金沢氏の菩提寺称名寺とそこに連なる律僧が進出したことで一三世紀末から急激に開発が進んだ。金沢家の世代でいえば、北条顕時・金沢貞顕の時代である。
 赤岩の初見は、「赤岩樋」を記した嘉元三年(一三〇五)閏十二月の倉栖兼雄書状である。中世には大河戸郷であった松伏町大川戸の帰依仏塔や、赤岩外河に属した松伏町赤岩の源光寺の帰依仏塔は正安年間の紀年銘を持つ初期真宗の板碑である。源光寺伝来のものは、正安二年(一三〇〇)の紀年銘がある。源光寺の創建は永正六年(一五〇九)なので、第一章第四節に述べたように永正元年(一五〇四)に扇谷上杉朝良による真宗弾圧「永正の法難」で一度廃絶したものが、その後に再興された可能性が高い。後述する木売の清浄寺にも正安三年(一三〇一)の「南無仏板碑」が残る。この時期、関東の初期真宗は、唯善支持派と覚恵・覚如支持派に分裂しており、唯善支持派は下野・下総や常陸国の河和田門徒(水戸市)など関東では優勢で、覚恵・覚如支持派は鹿島門徒・高田門徒・荒木門徒など常陸国を中心に展開していた。赤岩郷に近いところでは、横曽根門徒(常総市)の活動が活発であった。坂東市辺田〔へた〕の西念寺が野田西念の法統を継承したと伝えている。
 鎌倉後期の赤岩郷の南側、木売の辺りに下河辺庄戸山の西光院(後の常敬寺)を拠点とした唯善与同位に属した初期真宗の勢力が存在したことは確認してよいだろう。この地域に初期真宗の板碑が集中し、常葉御影の伝統を継ぐ親鸞聖人座像が室町時代に造られたことからも、永正の法難まで盛んだったと見てよい。そして、彼等がこの地で活動したことで吉川市南部の木売地区は川津がつくられるような物資の集積拠点として発展していく要素を持つことになるのである。
-------

永井氏は「木針智信」には言及されませんが、これだけ材料が揃えば、「木針」=「木売」で良いのではないですかね。
埼玉県の自治体史をパラパラ見る程度の調査しかしていませんが、峰岸純夫氏が「横曾根門徒木針智信の「木針(こばり)」に比定」されるところの「小針」(現在の伊奈町小針内宿・小針新宿・西小針、桶川市小針領家)には初期浄土真宗関係の文化財は特にないですね。
ま、「木針」が地名でなければ話は全然違ってきますが。

西岡芳文氏「初期真宗へのタイム・トリップ」(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/50882079961d26d701495467a427e90d
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永井晋氏「下河辺庄と中世真宗」(その2)

2022-08-26 | 唯善と後深草院二条
「野田西念と覚念」の続きです。(p145以下)

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 野田西念は、武蔵国太田庄野田(白岡市野田)を通称とするとされてきた。これは江戸時代に語られた伝承で、信濃源氏井上氏の流れを汲み、足立郡野田(さいたま市)に住したとされている。これは、信濃国の長命寺との関係を説明するために作られた伝承で、中世に作成された真宗系図には西念に「武蔵国太田庄住」・「野田」の傍注が付けられている。西念の弟子覚念が唯善与同位なので、木売に建立された初期真宗寺院は唯善を支持した覚念が創建し、室町時代に扇谷上杉朝良の弾圧(永正の法難)を受けて衰退した後に、真言宗寺院西光院に変わったと考えてよいのだろう。西念が一〇七歳という不自然な長命であったと語られるのも、本願寺から見れば異端派である唯善与同位の覚念の事績を消すために、覚念の事績を西念に被〔かぶ〕せたためと考えられる。
-------

いったん、ここで切ります。
野田西念については、例えば真宗教団連合サイトの「親鸞聖人を訪ねて」には、

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長命寺の伝承では、開基・西念の俗姓は井上三郎貞親といい、信濃国下高井郡井上を本拠地とした井上満実子で、また八幡太郎(源)義家の曾孫にあたるとされる。
貞親は父・満実が合戦で亡くなったことで世の無常を観じ、越後国府に流罪中の親鸞聖人を訪ねて帰依し、西念と法名を賜ったと伝えられる。
西念は、親鸞聖人が越後から関東へと移る際にも随行したといわれる。
長命寺の伝承では、西念の妹が野田の神主高梨氏に嫁いでいた関係で、親鸞聖人は西念と一緒にこの地を訪れ、西念に「西念寺」を建立させたという。時に承久2(1220)年と伝えられる。
正応元(1288)年、本願寺第三代覚如が東国の親鸞聖人聖跡を巡回に訪れたとき、百七歳になっていた西念は、聖人在世の様子を逐一話したという。これに感銘を受けた覚如は、長寿の西念を讃えて「長命寺」という寺号を与えたと伝えられている。
西念はその翌年の正応2(1289)年、百八歳にて往生を遂げたという。

https://www.shin.gr.jp/shinran/24/t_014.html

などとありますが、「長命寺の伝承では」を繰り返しているように、史実としては不自然さが目立ちますね。
永井氏の見解は諸矛盾を綺麗に解消させる卓見ではなかろうかと思います。
なお、真言宗で「西光院」というのもちょっと変な感じがしますが、鎌倉時代に覚念が創建した初期真宗寺院が「西光院」で、真言宗に改宗した後も名前は変えなかった可能性もありそうですね。
さて、「清浄寺の親鸞聖人像」に入ります。(p146)

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 吉川市木売の清浄寺に伝来する親鸞聖人像は、常敬寺の親鸞聖人像(千葉県指定文化財)の流れを汲む作品である。ほかにも、西念法師塔や南無仏板碑など関東に展開した初期真宗に関連する遺品が清浄寺には伝来する。
 常葉に新たな拠点を構えた唯善が下河辺庄への教線拡大を積極的に行ったことは、孫の善宗を下河辺庄に派遣したことから明らかである。下河辺庄には金沢氏被官倉栖氏・野田氏が支持勢力としてあり、唯善与同位の中核となっていく関宿の常敬寺は、倉栖氏の本拠地下総国猿島郡倉樔郷の近くである。松伏町の上赤岩の源光寺や大川戸の光厳寺に伝来する帰依仏板碑に正安の年号が刻まれていることからも、赤岩・大川戸・高野と教線の拡大が確認される。
 赤岩には鎌倉幕府から公認された律宗西大寺流の称名寺の教線が伸びている。比叡山延暦寺と対立して朝廷から異端の宣告を受けた法然・親鸞の法流から分派した唯善与同位が、称名寺と衝突しないように赤岩郷の中心部から少し離れた木売に寺院を構えて活動したと考えるのは不自然ではないだろう。江戸時代に作られた「西光院起立」は、木売を木売川戸とも表現し、川津として発展していたと伝える。初期真宗の人々が、開発すれば交通の要衝となる地を選んで、寺院を建立した可能性は十分に考えてよい。
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「松伏町の上赤岩の源光寺や大川戸の光厳寺に伝来する帰依仏板碑に正安の年号が刻まれている」とありますが、この二つの板碑は「一山一寧」風の書体も清浄寺の南無仏板碑によく似ています。

清浄寺「南无仏」板碑
http://kawai24.sakura.ne.jp/saitama-yosikawa-syoujyouji.html
光厳寺「帰依仏」板碑
http://kawai25.sakura.ne.jp/saitama-matubusi-kougonji.html
源光寺「帰依仏」板碑
http://kawai24.sakura.ne.jp/saitama-matubusi-genkouji.html

なお、西岡芳文氏は「初期真宗へのタイム・トリップ」において、

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 さらに興味深いことに、清浄寺本堂の前には、近くの河岸から移されたという正安三年(一三〇一)銘の「南無(无)仏」板碑(図⑦)が立てられている。篆書のような特異な書体は鎌倉時代に渡来した禅僧・一山一寧の筆といわれ、禅宗型板碑とも分類されるが、津田徹英氏によると、これは聖徳太子信仰によるものかという。近隣の松伏町光厳寺(臨済宗)には「帰依仏」と刻んだ正安銘の類似品もある。こちらが太子信仰の遺品であるとすれば、中世の下河辺庄地域に展開した真宗門徒の編年基準になりうるかもしれない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/50882079961d26d701495467a427e90d

と書かれています。
細かいことを言えば、「近隣の松伏町光厳寺」は臨済宗ではなく、曹洞宗のようですね。
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永井晋氏「下河辺庄と中世真宗」(その1)

2022-08-26 | 唯善と後深草院二条
『吉川市史 通史編1』(吉川市、2015)を見たところ、「第三編 川津のまち(中世)」の第一章・第二章の大半は永井晋氏が書かれていますね。
第一章の構成は、

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第一章 鎌倉時代の吉川
 第一節 下河辺氏と下河辺庄
  一 下河辺氏と千葉氏
  二 以仁王挙兵
  三 下河辺氏と摂津源氏・河内源氏
  四 下河辺庄の領域と地形
  五 鎌倉時代前中期の下河辺庄・風早郷・矢木郷
 第二節 金沢氏と下河辺庄
  一 鎌倉の後背地としての下河辺庄
  二 北条実時・顕時と下河辺庄赤岩郷
  三 金沢貞顕時代の下河辺庄
  四 河川の河道と赤岩樋
  五 赤岩郷に足跡を残した人々
 第三節 称名寺の下河辺庄進出
  一 称名寺とその末寺
  二 下河辺庄に所領を持つ人々
  三 赤岩郷と万福寺
  四 正慶二年の鎌倉合戦
 第四節 鎌倉時代の赤岩郷と風早庄
  一 赤岩郷の集落推定地
  二 風早庄と矢木郷の西端
  三 下河辺庄と中世真宗
  四 板碑の形態と分布
  五 鎌倉時代の様々な痕跡
-------

となっていて、第四節の「三 下河辺庄と中世真宗」は、

-------
唯善与同位と下河辺庄
野田西念と覚念
清浄寺の親鸞聖人像
-------

の三部に分かれています。
そして「唯善与同位と下河辺庄」には、「唯善事件」の一般的説明の後、

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 唯善は、孫の善宗を下河辺庄に派遣し、勢力の拡大を図った。中核となった寺院が関宿の常敬寺(野田市)で、ここが唯善が大谷廟堂から鎌倉に持ってきた御影をもとにした親鸞聖人像が残されている。現在の常敬寺は、かつては遊水地であった低地に存在している。水害常襲地帯でこのような危険な場所に寺院を建立したとは考えがたいので、江戸時代の河川改修や江戸川堤防建設の折に自然堤防上の微高地から移転させられたのであろう。
 下河辺庄において唯善一派を支持したのが、金沢貞顕の右筆倉栖兼雄の一族である。倉栖氏は下総国猿島郡の倉栖(来栖院、茨城県八千代町)を名字の地とし、下河辺庄築地郷(松伏町)の給主(地頭代)を務めている。大谷廟堂を本拠地として本流を自認する覚如の一派に対し、鎌倉に新たな本拠地を構えて東国門徒の信認を獲得した唯善の支持派を「唯善与同位」と呼んでいる。
-------

とあります。(p144以下)
倉栖氏が「唯善与同位」ないしその庇護者であったことは旧来の真宗関係史料には必ずしも明確には現れておらず、福島金治・津田徹英氏が解明された事実ですね。

永井晋氏「倉栖氏の研究─地元で忘却された北条氏被官像の再構築─」(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0a127e55d7ba12584dae6f1729e85e0f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cfef6c92f27660acfc5a871d76b993d7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/39a92a06f94ed59f7d6d9b9e2da4f333

近時の小川剛生氏の研究により、倉栖兼雄室が兼好法師の姉であることがほぼ確定したので、兼好も「唯善与同位」との何らかの接点があった可能性が高いですね。

「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f10322cc7ebe53e562e3ab38c0d6a5d

さて、続きです。(p145)

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野田西念と覚念
 吉川市の清浄寺は、親鸞の門弟野田西念ゆかりの寺院と伝承している。創建は鎌倉時代で、戦国時代の扇谷朝良の一向宗弾圧で真言宗に改宗し、江戸時代には真言宗寺院西光寺になっていたと『新編武蔵風土記稿』に記されている。また、清浄寺の南無仏板碑ももとは熊野神社にあり、親鸞筆と伝えられている。生没年が合わないという指摘は『新編武蔵風土記稿』で既になされているが、まだ一山一寧筆という伝承は書かれていない。一山一寧説が主張されるようになったのは明治時代で、現在は南無仏板碑を中世真宗と呼ばれる戦国時代以前の浄土信仰を伝えるものと考えている。
-------

清浄寺の南無仏板碑は正安三年(1301年)建立なので親鸞(1173-1262)筆は無理ですが、「一山一寧説が主張されるようになったのは明治時代」にはちょっと吃驚しました。
なお、「南無仏板碑ももとは熊野神社にあり」とのことですが、西岡芳文氏は「近くの河岸から移された」と書かれていますね。
ま、木売河岸→熊野神社→清浄寺、といった経緯も考えられるので、別に矛盾している訳ではないでしょうが。

西岡芳文氏「初期真宗へのタイム・トリップ」(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/50882079961d26d701495467a427e90d
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平松令三氏「高田宝庫より発見せられた新資料の一、二について」(その5)

2022-08-25 | 唯善と後深草院二条
続きです。(p121以下)

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 赤松先生ご自身も、この平頼綱のことを『日本仏教』第二号に発表せられた論文「本願毀滅のともがらについて」(『続鎌倉仏教の研究』所収)で述べておられるが、ここでは「決定的な議論は差し控えるべきであろう」と、慎重な姿勢を見せておられる。これはこの跋文のなかに、性海が弘安六年(一二八三)二月二日、親鸞自筆本六巻を先師性信法師のところから相伝し、それを底本として印板を作った、との記事があるが、現存する親鸞聖人自筆草稿本である坂東本は、化身土巻の末尾に、「弘安陸<癸未>二月二日、釈明性譲預、沙門性信(花押)」と、まったく同日付の奥書があるからであった。両者を矛盾なく統一して理解するためには、明性と性海が同一人(たとえば、明性房性海というように)としなければならないが、それには史料の裏付けが必要、というのが先生の躊躇せられた理由であった。
-------

いったん、ここで切ります。
「坂東本」とは、かつて性信を開基とする坂東報恩寺が所蔵していたことに由来する名前ですが、関東大震災後は東本願寺が所蔵し、国宝の指定を受けています。
関東大震災の被災の様子は『浅草本願寺史』に描かれていますが、なかなかドラマチックですね。

三木彰円氏「『坂東本・教行信証』が問いかけること」
https://core.ac.uk/download/pdf/267919626.pdf

また、現物はYouTubeの真宗大谷派公式チャンネルで見ることができます。
1分44秒のところで「弘安陸<癸未>二月二日、釈明性譲預」が出てきますね。

「立教開宗の書・親鸞聖人の主著『教行信証』(坂東本)―聖人の思索の跡をたずねて―」
https://www.youtube.com/watch?v=vROxBsLmiv0

さて、坂東本の性信奥書についての議論はもう少し続きますが、細かくなりすぎるので省略し、まとめの部分を引用します。(p122以下)

-------
 以上が新発見『教行信証』の奥書をめぐる発表後の研究成果であるが、これにつづいて、『教行信証』本文の書誌学的研究が現われた。重見一行氏の「教行信証正応四年出版に関する書誌学的考証」(『国語国文』一九七四年第四三巻第四号掲載、のち同氏『教行信証の研究』所収)である。それによると、この本は聖人自筆本を整備したもので、目次をつけ、内題・撰号、尾題を完備し、自筆本の頭注は本文中に割注のかたちでとり入れ、本文は写経と同じく一行十七字を固く守って、実に整然としていて、跋文のとおり木版によって出版されたことはまちがいない、との結論になっている。具体的な証拠をかかげての緻密な論証であって、説得力に富み、正応四年開板の事実は、これによって確認されたといえよう。
 その後しばらくこの問題が論議されることがなかったが、昭和六十年になって、峰岸純夫氏が「鎌倉時代東国の真宗門徒」(北西弘先生還暦記念会編『中世仏教と真宗』所収)において、性信とその門下の横曽根門徒は、鎌倉幕府とくに北条氏得宗家と大きくかかわっていることを検証しておられるし、今井雅晴氏もまた「横曽根報恩寺の成立と性信・証智」(『地方史研究』第三七巻二号、一九八七年四月掲載)において、同様な方向で論じておられるが、ともに『教行信証』正応四年開版史料が用いられていて、最近またこの史料の勝がますますふくらんできつつあり、喜びにたえない。
-------

ということで、平松氏の長い研究生活の中でも、高田宝庫での『教行信証』古写本の発見は特別に印象深く、また愉快な出来事だったようですね。
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平松令三氏「高田宝庫より発見せられた新資料の一、二について」(その4)

2022-08-25 | 唯善と後深草院二条
「補記」も興味深いので引用しておきます。(p119以下)

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 この論文で紹介した『教行証』正応四年(一二九一)開版の新史料は、たいへんな反響を呼んだようである。
 まずこの論文を掲載した『高田学報』第四〇輯の発行とほとんど同時の昭和三十二年五月、高田派本山専修寺を会場として開催された真宗連合学会第四回大会の特別宝物展観に、この『教行証』二部を加えていただいたところ、参観の学者方から大きな関心をもって迎えられた。なかでも宮崎圓遵先生は非常に喜ばれ、そのとき「実は甲斐国等々力万福寺旧蔵の親鸞聖人絵伝(六幅)のなかに、稲田禅坊で聖人が経文を読んでいる前で、一人の僧が版木の上へ紙をひろげて、印刷しようとしている場面がある。なんのことやらわからず、疑問のままにしていたのだが、この史料によって、『教行信証』の開版を絵にしたものだろうことがわかる。これで納得ができた。この奥書に記された事実は信頼してよいと思う」という旨を述べられた。この先生のご意見は、昭和三十五年になって『大乗』に掲載され、のちに先生の『続親鸞とその門弟』に収められた。
 また赤松俊秀先生からも、「これは重大な史料だ。文体も正応四年ころのものとしてまちがいないだろう。ここに記されている事実を他の史料でも確認したいものだ」とのご意見が述べられ、大会が終わってからのち、追いかけるようにして、この奥書に現われる「平左金吾禅門法名果円」というのは、『保暦間記』に「平左衛門尉頼綱<不知先祖人 法名 杲円>」と記されている人物であって、この当時の幕府のなかでのとび抜けた大立者であることを教示していただいた。法名の「果円」となっているのは「杲円」の写し誤りであったのである。
-------

いったん、ここで切ります。
「甲斐国等々力万福寺旧蔵の親鸞聖人絵伝」は、現在は西本願寺が所蔵しているようですね。
「稲田禅坊で聖人が経文を読んでいる前で、一人の僧が版木の上へ紙をひろげて、印刷しようとしている場面」を確認したいので、『続親鸞とその門弟』を古書店に注文してみました。

宮崎円遵(1906-83)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E5%86%86%E9%81%B5

赤松俊秀氏は京都大学で平松氏が師事した人ですね。

赤松俊秀(1907-79)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E4%BF%8A%E7%A7%80
「君らは赤松先生の弟子や」(by 黒田俊雄)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c8d2c693994475579755825f793c1bb0

この後、平頼綱の説明が少しありますが、常識的な内容なので省略します。
そして、続きです。(p120以下)

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 その平頼綱の庇護を得て、『教行証』が開版されたのであるが、勧進沙門の性海(この名は、専修寺の二本には本文中に見えるだけだが、そののちに発見した四日市市中山寺本には、この長い跋文の末尾に「勧進沙門性海」との署名が置かれている)は、頼綱が鎌倉で『大般若経』の書写を行ったとき、招かれた七人の僧のなかの一人であったとか、貞時の子供が性海の膝の上に座ろうとしたとか、師の性信が『教行証』の開版の際には平頼綱に連絡せよと言ったとか、の夢の告げをこの跋文のなかでくどくどと述べている。どうやら、これは彼が頼綱に面会して助成を懇願する際に述べた内容らしい。その結果、うまく頼綱を口説き落として、正応四年(一二九一)八月上旬に開板を完成させたのであったが、それからわずか一年八ヵ月後の正応六年四月には、その頼綱が執権貞時によって誅伐されてしまう。頼綱のあまりの専横に耐えかねた貞時が、討手をさしむけて、頼綱とその一族九十余人を殲滅したのである。苛酷な闘争による転変著しい権力交替の姿をそこに見るのであるが、この『教行証』の跋文は、ただ頼綱の「聴許」を得て開板したことを喜んでいるだけであって、頼綱の哀れな末路をまったく知らない。このことは、この跋文が頼綱の全盛期に書かれたにちがいないことを、なによりもよく物語っているといえよう。記された内容が夢物語であって、史料とするにはあまりにも心許ないかのごとくであるが、平頼綱をめぐるこうした事実と思い合わせてみると、この跋文が正応四年に書かれたという「現在性」は、臨場感をもって迫るものがあり、それまでこの資料に若干の不安を抱いていた私は、心から安堵した。
-------

平松氏は性海が「夢の告げをこの跋文のなかでくどくどと述べている」理由について「どうやら、これは彼が頼綱に面会して助成を懇願する際に述べた内容らしい」と推測されていますが、私もそう考えていました。
ただ、「記すところの大半は夢物語であり、空漠としてなにか狐にばかされたような感がないわけではない」(p112)ので「若干の不安を抱いていた私は」、この跋文について最も考え抜いた研究者の一人である平松氏も同様な印象を得ていたことを知り、「心から安堵」しました。

東国の真宗門徒に関する備忘録(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0956216c259b8d6041ca400dd966dfd1
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平松令三氏「高田宝庫より発見せられた新資料の一、二について」(その3)

2022-08-24 | 唯善と後深草院二条
跋文の解釈については、今井雅晴氏の「平頼綱と『教行信証』の出版」(『親鸞と東国門徒』所収、吉川弘文館、1999)も参照していただきたいと思います。

http://web.archive.org/web/20061006213546/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/imai-masaharu-yorituna-03.htm

ということで、続きです。(p112)

-------
 記すところの大半は夢物語であり、空漠としてなにか狐にばかされたような感がないわけではない。しかしこの文章そのものには後世の仮託と疑うべき節は全然見当らず、『沙石集』などに収載された説話の雛型から判断しても、むしろ正応四年という時点にふさわしい話である。のちに記すように、その内容上多少の不安はあるが、この跋文をもつ原本は正応四年に開板されたもの、と考えてよいのであろう。
 この跋文が正応四年のものと認められるとすれば、それは多くの問題を提供する。その第一は早く鎌倉末期に上梓された点であるが、それとともに、この跋文の最初の六行足らず「即往安楽之指南也」までの文章は、言うまでもなく後世江戸時代の刊本の多くに記されているものと一字一句異ならないということである。これまで知られていたところでは、この跋文を有する古写本は越後高田城興寺本がもっとも古く、「恐らく存覚が加えたものに源流するのであろう」(宮崎博士、『真宗書誌学の研究』五一頁)と、言われてきた。まずこの定説が破られることになる。
 しかも前述のごとく、本文記述の体裁も江戸時代刊本など流布本とほとんど一致することを併せて考えるならば、流布本の原型がすでにこの正応四年の開板本にあったことも推測される。『教行信証』のように相当大部で、読解も困難な書籍が、鎌倉末から室町にかけて相当に広く流通してきたについては、深い信仰心によっただけではなく、このような刊本の存在にもよったのであろう。
-------

いったん、ここで切ります。
正応四年(1291)に横曽根門徒性海が制作した刊本の一部が横曽根門徒と格別良好な関係にあった訳でもない高田門徒の手に渡っていることは、平松氏が指摘される諸々の事実も踏まえると、性海が木版で出版した『教行信証』は相当な部数であったことが想像されます。
また、「記すところの大半は夢物語であり、空漠としてなにか狐にばかされたような感がないわけではない」は第一発見者である平松氏の極めて率直な感想ですが、四つの夢の解釈において、あまり深読みをするなよ、という警告のようでもありますね。

-------
 次にこの跋文について興味深いことは、弘安六年二月二日、親鸞自筆本一部六巻を性信より相伝した、との記事がある。言うまでもなく坂東本の化身土巻末に

  弘安陸<癸未>二月二日釈明性譲預之
                    沙門性信(花押)

との墨書があるが、これとまったく同日付であり、「親鸞自筆本一部六巻」というのが、いまの坂東本を指すことは明瞭である。ただ坂東本では明性に譲られた、と記すのに対し、これは開板願主性海に相伝されたごとくになっていて、そこに食い違いがある。
 性海なる僧については、門弟交名牒を検すると、わずかに甲斐万福寺本だけに、万福寺源海の曽孫弟子として現れるだけで、ほかに見えない。この性海とはおそらく別人なのであろう。とすれば、これまでまったく知られていなかった無名の僧となる。
-------

性海が「これまでまったく知られていなかった無名の僧」ではなく、大生郷天満宮の伝承に登場する僧であることは先に触れました。

西岡芳文氏「初期真宗へのタイム・トリップ」(その2)(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/29e46d8973ce32701da28c4d1449a871
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/542bdcd450a6e6486adb537fa083f190

さて、この後、若干細かい議論が続くの省略し、まとめの部分を引用しておきます。(p115)

-------
 これらの疑問は残るとしても、この跋文は後世の偽作であると断ずることはできず、不安定ながら今としては、むしろ信じてよいものと思われる。そうとすればこの二つの古写本は、坂東本が鎌倉末期にも聖人の自筆本として貴重視された事実を示すのみならず、真宗の根本聖典である『教行信証』の版行、というこの時代としてのマスコミュニケーションが真宗教義の流伝を大いに促進したことを思わせ、それが後世『教行信証』流布の基礎となった事実を提示するものとして、きわめて価値が高いといえよう。
 なお、跋文中の「当副将軍相州太守」が、時の執権相模守北条貞時を指すことは容易に知られるが、性海の外護者となった「平左金吾禅門<法名果園>」については、検討する余裕がなかった。しかし北条氏一門であることは、貞時の「乳父」とあることからも明らかである。真宗教団の社会的基盤について多くの関心が集められている今日、鎌倉時代の真宗教団が、北条氏一門というこの時代最大の有力階級のなかに外護者を持った事実は、きわめて注意すべき事情であろう。
-------

これで第一部は終わりです。
1957年の平松氏は平頼綱を知らなかった訳ですが、この点は発表後に直ちに赤松俊秀氏に教示を受けたことが「補記」に記されています。
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平松令三氏「高田宝庫より発見せられた新資料の一、二について」(その2)

2022-08-23 | 唯善と後深草院二条
平松令三氏(1919-2013)は「三重県津市一身田町にて郵便局長であった平松乾三の長男として真宗高田派本山専修寺の門前に生まれ」、京大で赤松俊秀に師事、一身田郵便局長を勤める傍ら「赤松俊秀と第三高等学校での同級生であった高田派本山専修寺法主常盤井堯猷の進めにより、同寺に伝わる親鸞以来の法宝物類の調査を継続的に行」った人で、郵便局長を退職後、龍谷大学教授になったというなかなか珍しい経歴の方ですね。

https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/822851.html

「新法主の御手によって高田宝庫の一部分が整理せられた際」、『教行信証』の二つの古写本が発見された訳ですが、一つは「慶長五年(一六〇〇)高田派第十三世堯真上人の命により、その御子堯秀上人(慶長三年得度)と信楽院慶忍なる者とが書写したもの」、もう一つは「奥書等はないが、筆跡より見て室町時代のもの」です。
両者はほぼ同一内容ですが、前者は後者を写したのではなく、「少なくとも慶長五年まではこの二本のほかに底本が専修寺に伝来しており、二本ともそれから書写された」という関係ですね。
さて、「しかしこの二本の最大の特色は、化身土巻末巻の巻尾に、次の跋文を有することである」の続きです。(p110以下)

-------
 今此教行信証者、親鸞法師選述也、立章
 於六篇、調巻於六軸、皆引経論真文、各備往
 生潤色、誠是真宗紹隆之鴻基、実教流布
 之淵源、末世相応之目足、即往安楽之指
 南也、而去弘安第六暦歳癸未春二月
 二日、彼親鸞自筆本一部六巻、従先師
 性信法師所、令相伝畢、為報仏恩、欲企
 開板於当時伝弘通於遐代之刻、有度々
 夢想之告矣、于時正応第三天歳次庚寅
 冬臘月十八日夜寅剋夢云、当副将軍相州
 太守平朝臣乳父平左金吾禅門<法名果園>
 屈請七口禅侶、被書写大般若経、彼人数
 内被加於性海、而奉書写真文畢、爰白馬
 一疋金銭一裹令布施之覚而夢惺畢、同
 四年正月八日夜夢云、当相州息男年齢
 十二三許童子、来而令正坐於性海之膝上、
 覚而夢惺畢、同廿四日夜夢云、先師性信
 法師化現而云、教行証開板之時者、奉触
 子細於平左金吾禅門、可刻彫也、言已乃
 去覚而夢惺畢、同二月十二日夜夢云、有
 二人僧、而持五葉貞松一本松子一箇、来与
 於性海、覚而夢惺畢、依上来夢想、倩案
 事起、偏浄教感応之先兆、冥衆証誠之
 嘉瑞也、若爾者、機縁時至、弘通成就者歟、仍
 奉触子細於金吾禅門、即既蒙聴許、而所
 令開板也、然此本者、以親鸞自筆御本、令
 校合、令成印板者也、庶幾、後生勿令加減於
 字点矣、

 本云
  于時正応四年五月始之、同八月上句終
  功畢、                    
      (以上反点送仮名を略す。ただし句切点は筆写)
-------

いったん、ここで切ります。
二つの写本が「高田宝庫」から発見された後、三重県四日市市の中山寺でも同種の写本が発見され、重見一行氏が両者の異同を分析されています。
中山寺本の本文は峰岸純夫氏の「鎌倉時代東国の真宗門徒-真仏報恩板碑を中心に-」を紹介する際に引用済みですが、峰岸氏によれば、

-------
(注)高田本山二本によれば(b)次(d)令(e)也がそれそれ脱落している。(a)(c)本山二本各「六」「果」とある。その他本山二本は最後の「于時──」の前に「本云」とあり、「勧進沙門性海」がなく、訓点、傍注に多少の相違がある。これらの多くが、高田本山蔵二本と中山寺本との相違、という形で現れている故、訓点を含めて原祖本にはなかったと考えられる(重見氏注)。

http://web.archive.org/web/20131031003035/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/minegishi-sumio-shinshumonto.htm

とのことで、細かい字句の異同を除くと、一番最後に「勧進沙門性海」があるのが中山寺本、ないのが「高田宝庫」の二本ですね。
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平松令三氏「高田宝庫より発見せられた新資料の一、二について」(その1)

2022-08-23 | 唯善と後深草院二条
「初期真宗へのタイム・トリップ」(『日本の美術』488号、2007)には、まだまだ興味深い記述がありますが、性海の『教行信証』開板事業と離れすぎてしまうので、ひとまずこのあたりで紹介を終えたいと思います。
西岡芳文氏には「阿佐布門徒の輪郭」(『年報三田中世史研究』10号、2003)という論文がありますが、これは素材が「初期真宗へのタイム・トリップ」とかなり重なっていますね。
また、「『諸社寺勧進状写』と甘縄観世音寺・秋田四天王寺」(『説話文学研究』40号、2005)、「佛光寺と初期真宗 初期真宗門流の展開」(『佛光寺の歴史と文化』所収、真宗佛光寺派宗務所、2011)も面白そうなので、現在、国会図書館に遠隔複写を依頼中です。
さて、実は私は性海の『教行信証』開板事業に関する一番の基本文献、平松令三氏の「高田宝庫より発見せられた新資料の一、二について」(『真宗史論攷』所収、同朋舎出版、1988、初出は『高田学報』40輯、1957)を未読のままでした。
しかし、何となく不安を感じたため、先日、『真宗史論攷』を購入してみたところ、やはりきちんと押さえておくべきであった点がいくつかありました。
そこで、少し検討しておきたいと思います。
この論文は、

一、教行信証古写本 二点
二、宗祖加点善導五部九巻

の二部構成ですが、発表後に第一部に大きな反響があったため詳細な「補記」が付加されています。
まずは「一、教行信証古写本 二点」を引用します。(p108以下)

-------
 昨夏、新法主の御手によって高田宝庫の一部分が整理せられた際、二本の教行信証古写本が発見せられた。私はこうした書籍の書誌にははなはだ疎く、その紹介に当るべき柄ではないのだが、多くの誤脱を恐れつつその一斑を記すことにする。
 その一本は信巻の末尾に、

  旹慶長第五龍集<庚子>初春中旬八日
  本寺依 当門跡堯真様尊命不顧
  老筆拙書之汗顔々々信楽院慶忍七十歳

と本文と同筆の奥書があり(証巻末尾にも「林鐘廿八日」付のほぼ同様の奥書がある)、さらに教巻と化身土巻の表紙見返しに

  惣外題と此教巻と化身土巻ハ堯秀上人御筆也

との墨書があり、筆跡からもこれが承認されるので、慶長五年(一六〇〇)高田派第十三世堯真上人の命により、その御子堯秀上人(慶長三年得度)と信楽院慶忍なる者とが書写したものと考えられる。
 縦八寸一分、横五寸八分の袋綴装で、渋色の紙を表紙とし、橙色の題箋を左上部に貼付け、「顕浄土真実教一」というふうに外題が墨書されている。本文は仙花紙風の紙を料紙とし一頁六行(一行十七字)で、罫線はない。
 他の一本は、縦八寸五分、横六寸五分の袋綴で、表紙は蒼黒色地に金切箔を散らした柔らかい紙を用いている。本文は普通の美濃紙に罫線なく一頁六行、一行大体十七字にて書写されている。奥書等はないが、筆跡より見て室町時代のものと考えられる。
 ところでこの二本は、ともに同一の底本より書写せられたものであることは、明らかである。すなわち二本ともまったく同一の体裁であるのみならず、振仮名に多少の異動はあるが本文の各頁は、大部分が共通の文字で始まり、共通の文字で終わっていて、本文に異動が見られない(本文全部を対校したわけではないが)。また、のちに記す正応四年(一二九一)の原本跋文を、ともに書写している。ただ堯秀上人書写本は、教巻の末尾、尾題下に「高田専修寺」と例の黒印を書写したらしい墨書がある。これは底本が専修寺に伝来していたものであることを示すとともに室町時代書写本にこれが見えないところから考えて、堯秀上人が室町本を底本としたのではなく、少なくとも慶長五年まではこの二本のほかに底本が専修寺に伝来しており、二本ともそれから書写されたものと思われる。
 さてこの二本の本文の体裁は、

 一、信巻と化身土巻とが、後世の流布本と同じく本末の二冊に分かたれ、一部八冊に調巻されている。
 二、各巻の標挙は、一様に題後文前にある。
 三、撰号は、各巻共題後の一行にある。(総序も同様に「愚禿親鸞述」と撰号がある)
 四、標列は、教巻の題前の一頁に記されている。
 五、欄外の字註や、本文の四声点はない。
 六、反点はレ印を用い、読点も現今と同じように「三、四」という字を用いている。
 七、聖人が好んで用いられた異体文字は、すべて普通の文字に改められている。
 八、送仮名、左訓も豊富に記されているが坂東本、高田本、西本願寺本と対照してみると、いずれとも多少の
  差異があるのみならず、この二本相互間にも一致しない箇所がある。どちらかというと、堯秀上人のほうに
  送仮名の少ない場合が多い。

などの点を挙げることができる。
 しかしこの二本の最大の特色は、化身土巻末巻の巻尾に、次の跋文を有することである。
-------

いったん、ここで切ります。
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西岡芳文氏「初期真宗へのタイム・トリップ」(その4)

2022-08-22 | 唯善と後深草院二条
続きです。(p92以下)

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 さらに興味深いことに、清浄寺本堂の前には、近くの河岸から移されたという正安三年(一三〇一)銘の「南無(无)仏」板碑(図⑦)が立てられている。篆書のような特異な書体は鎌倉時代に渡来した禅僧・一山一寧の筆といわれ、禅宗型板碑とも分類されるが、津田徹英氏によると、これは聖徳太子信仰によるものかという。近隣の松伏町光厳寺(臨済宗)には「帰依仏」と刻んだ正安銘の類似品もある。こちらが太子信仰の遺品であるとすれば、中世の下河辺庄地域に展開した真宗門徒の編年基準になりうるかもしれない。
-------

「土中出現のオムク様」はこれで終わりです。
「南無(无)仏」板碑は清浄寺サイトで見ることができますが、確かに「篆書のような特異な書体」ですね。

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南無仏板碑(県指定文化財史跡)
紀年 正安三年(1301年)
【寸法】高さ203cm 厚さ7.5cm 上幅49.5cm 下幅50.5cm
書風は宗から渡来した禅宗の僧で、書家としても有名な一山一寧(1247年~1317年)が東北へ旅した際に訪れたものであろうと伝えられています。

https://shojoji.jp/hall/

同じページには「六角形の塔身の上に六角形のかさを乗せるという宝塔としては異例の形式」である「西念法師塔(県指定文化財史跡)」と「親鸞聖人坐像(市指定文化財)」も紹介されていますが、後者については、

-------
親鸞聖人坐像(市指定文化財)
【制作年代】室町時代
【寸法】高さ79.5cm
寄木造、玉眼。肉身部、衣文部ともに黒漆で仕上げられ、胎内背面上部に修理銘と見られる天正十五年(1587年)の墨書銘があり、さらに頭部内側の額裏内刳部に阿弥陀三尊の種子が墨書されています。
-------

と説明されています。
まあ、室町時代ならば「市指定文化財」程度で仕方ないのかもしれませんが、西岡氏によれば、「清浄寺の親鸞像は通常の本願寺形式の像と異なり、壮年期の合掌像で、中戸常敬寺(千葉県野田市<旧関宿町>)に安置される古像(第12・74図)の中世に遡る忠実な摸刻」ですから、仮に常敬寺の像を「延慶年間に唯善が大谷廟堂から持ち去った「常葉〔ときわ〕の御影」そのものではないか」とする津田徹英説が通説になったならば、清浄寺の親鸞聖人座像も「市指定文化財」から県指定、あるいは更に上に格上げされることになるのかもしれません。
ちなみに常敬寺の「木造伝親鸞聖人坐像」は「県指定有形文化財」ですね。

https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p131-048.html

ま、それはともかく、木売(きうり)には中戸常敬寺の「中世にさかのぼる忠実な模刻」である親鸞像を蔵する清浄寺が存在し、同寺には「『親鸞聖人伝絵』に描かれる初期の大谷廟堂六角堂内に安置される笠塔婆や下野高田専修寺の歴代墓碑と共通する」「真宗系の石塔」もあり、更に近くの木売河岸には正安三年(1301)の「南無(无)仏」板碑があったというのですから、この地が初期浄土真宗の拠点の一つで、経済的にも繁栄していた地域であったことは明らかです。
そして、板碑に記された正安三年(1301)の二年後、嘉元元年(1303)には「横曽根門徒木針智信」が唯善に三百貫という大金を提供しているので、「木売」=「木針」であれば、「横曽根門徒木針智信」の富裕も簡単に説明できますね。
他方、峰岸純夫氏が「横曾根門徒木針智信の「木針(こばり)」に比定」されるところの「小針」(現在の伊奈町小針内宿・小針新宿・西小針、桶川市小針領家)には、初期浄土真宗関係の文化財は特になさそうです。
また、中川沿いの「木売」と綾瀬川近くの「小針」は直線距離で30㎞以上離れており、古利根川の流路の変遷があるとはいえ、水上交通の拠点としては「木売」の方が遥かに重要だったように思えます。
「木売」=「木針」ではないか、というのは西岡論文を読んでの思い付きでしたが、まんざら悪くもなさそうなので、もう少し調べてみることにします。
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西岡芳文氏「初期真宗へのタイム・トリップ」(その3)

2022-08-22 | 唯善と後深草院二条
前回投稿で、大生郷天満宮の伝承に性海が登場し、しかも性海が「人の姿を借りた天神様」だというのは吃驚だと書きましたが、内山純子氏の『東国における浄土真宗の展開』(東京堂出版、1997)には、「このうち性海は、飯沼の大生天神の社家で性信に帰依して法名性海となったという伝承をもつ性海かと思われる」(p37)とあって、性海伝承はそれなりに古いものなのでしょうね。
大生郷天満宮の関係者にしてみれば、伝説的な存在であった性海が、平松令三氏の「高田宝庫より発見せられた新資料の一、二について」によって確かに実在した人物であることが判明して吃驚、ということだったのかもしれません。

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親鸞の門弟と初期真宗教団・本願寺の成立・蓮如と本願寺教団・東国の真宗教団など8章に分け,史料にもとづき親鸞とその門弟たちの足跡を克明にたどりながら東国における真宗の展開を追う。

http://www.tokyodoshuppan.com/book/b79966.html

さて、「土中出現のオムク様」の続きです。(p91以下)

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 境内には鎌倉時代の作と推定される総高一mほどの六角形の石塔があり、正面に「西念法師」の文字が刻まれている。親鸞二十四輩のひとり、野田西念の墓塔とされている。形式は『親鸞聖人伝絵』に描かれる初期の大谷廟堂六角堂内に安置される笠塔婆や下野高田専修寺の歴代墓碑と共通するので、真宗系の石塔と見ることができる。野田の西念は親鸞門下の中でも有力な門弟で、遺跡と称する寺院も関東と信越に数か寺残り、それぞれ真宗の古刹として尊重されている。
 ただ古い親鸞門弟交名を見ると、西念には「武蔵国野田(あるいは太田)」と注記されており、その遺跡については異論が多い。千葉県野田市は清浄寺にも近く、有力な候補地であるが、少なくとも近世以降の地理区分では下総国になる。かつてサギ山で名高かった旧浦和市の野田は、確実に武蔵国に属するので申し分はないが、そこには真宗関係の遺跡や遺物が全く残っていない。野田市周辺は、古利根川流域の総武国境地域にあたるので、鎌倉時代の一時期、河道の変流によって武蔵国に属していた可能性を考えてみる必要がありそうだ。
 新義真言宗に属していた西光院は、江戸時代の末に浄土真宗に改宗した。これは恐らくこの親鸞像をあつく信仰し、伽藍を一手に建立した近隣の野田の醤油業を営む富豪たちの後押しがあったためと考えられる。住職のお話によると、戦前までは清浄寺のオムクの木像を木駕籠に乗せ、野田まで巡行するという行事が盛大にとりおこなわれていたといい、今も本堂の天井にその時使用された駕籠が吊り下げられている。
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いったん、ここで切ります。
「西光院」が突如として登場しますが、これは清浄寺の旧名です。
埼玉県吉川市木売に所在する清浄寺の公式サイトで「楠井山清浄寺(なんせいざんしょうじょうじ)縁起」を見ると、創建は弘長元年(1261)で、

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開祖 西念法師
清浄寺の開基西念法師は、源氏八幡太郎義家の流れをくむ信州(長野県)高井郡井上城主井上盛長の子として生を受け、三郎貞親と名づけられました。貞親5歳の時、父盛長が奥州の乱で討ち死にし、また29歳の時に母と別れ世の無常を感じ、当時流刑地越後(新潟県)におられた親鸞聖人を訪ね門弟となられました。
木売川戸の賑わい
親鸞聖人は貞親に西念という法名を授け、西念は常に聖人のそばに仕えておりましたが、やがて聖人は赦免され関東に向けて旅立たれます。西念31歳の時、聖人と供に武蔵国足立郡野田(さいたま市)に坊舎を建立、西念寺と号し教化の第一歩を踏むこととなります。また、聖人の命により当時諸国の船通路で人々が多く集まるところであった二郷半木売川戸(吉川市木売)に西光院(現在の清浄寺)を起立。西光院には親鸞聖人もたびたび足を運ばれ、有縁の人々に説法され、寺の縁起には『参詣市の如く群集せり』と当時の様子が記されております。
おむくさま
現在、清浄寺には西念が親鸞聖人から賜ったとされる親鸞聖人木像が本堂にご安置されており「おむくさま」と呼ばれています。西念亡き後時は移り、西光院第三代西順の時代になると世は乱れ、戦火が相次ぎました。西順は御木像が失われることを恐れ、その御木像を門前に埋め隠しました。やがて世の中は落着きを取り戻しましたが、西順も往生し、埋められたお木像も人々の記憶から忘れ去られてしまったころ、第四代了西の時代になり、御木像を埋めたところがむくむくと動き出したので村人たちがそこを掘ったところ御木像が出現したというのです。御木像がむくむくと現れたので、いつの間にか「おむくさま」と呼ばれ親しまれ、掘り出した跡は池をつくり「おむくの池」として現在も寺の門前に残されています。

https://shojoji.jp/temple/

とあります。
公式サイトを隅から隅まで読んでみましたが、新義真言宗から浄土真宗に改宗したことはどこにも記されていません。
ただ、「年表」を見ると、

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弘化四年(1847)11月
深川木場(江東区)の松屋清兵衛、狩野梅春貞信画の『西光院無垢寿像御絵伝』を表装し奉納
安政二年(1855)10月2日
江戸大地震により本堂は大破、庫裏・門・水屋などが潰れる、その後再建し現在の本堂の姿となる
明治九年(1876)
清浄寺に木売学校が開校
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とのことなので、弘化四年(1247)から明治九年(1876)の間、おそらく安政江戸地震(1855)で本堂が倒壊した後、「近隣の野田の醤油業を営む富豪たちの後押し」で再建された際に、真義真言宗の「西光院」から浄土真宗本願寺派の「清浄寺」になったのでしょうね。
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