今月14日の投稿「東国の真宗門徒に関する備忘録(その15)」で、私は、
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ここで、おそらく従来の真宗研究者が誰も問わなかったであろう一つの問題を提示したいと思います。
それは、横曾根門徒・性海の『教行信証』開板事業を覚恵・覚如は知っていたのか、覚恵・覚如は性海からこの事業への協力を求められたことはなかったのか、という問題です。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e6d77addf6d40b9b33ef6001bf1a379d
と書きました。
覚恵・覚如父子は正応三年(1290)の「三月の比」(『最須敬重絵詞』)から同五年(1292)の「陽春なかばの比」(『慕帰絵詞』)まで、丸々二年間も「坂東八箇國、奧州・羽州の遠境にいたるまで、處々の露地を巡見して、聖人の勸化のひろくをよびけることをも、いよいよ隨喜し、面々の後弟に拾謁して、相承の宗致の誤なきむねなどたがひに談話」(『慕帰絵詞』)していますが、『慕帰絵詞』と『最須敬重絵詞』のいずれも性海の事業に一切触れないのはもちろん、横曽根門徒との交流も記しません。
(その16)~(その19)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/54cb8c0c7fc6f801abad7e8b5ce838d7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/262341e664a617edc2511a07fe1533a4
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bf509b00dd4f1d407f0cd9519132e89b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f5922a99c59604b8da30cffe17a628a9
しかし、諸々の事情を踏まえて、私は「東国の真宗門徒に関する備忘録(その20)」において、
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「勧進沙門性海」の『教行信証』開板は、横曽根門徒だけでなく、広く親鸞の教えに従う門徒一般にとって極めて重要な意義を持つ事業であるので、覚恵・覚如も当然に協力を求められたはずです。
あるいは、覚恵・覚如を「勧進」の広告塔として東国に招いたのは横曽根門徒・性海であって、費用も横曽根門徒が負担してくれたのかもしれません。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7750cba0b3f4824cc693315cdc0920b
との暫定的な結論を出しました。
その後、西岡芳文氏の「初期真宗へのタイム・トリップ」や永井晋氏の「下河辺庄と中世真宗」等で横曽根門徒を中心に各門徒の動向を概観し、併せて研究史を遡り、平松令三氏の「高田宝庫より発見せられた新資料の一、二について」や宮崎円遵氏の「教行信証出版の問題」を確認した結果、性海が『教行信証』出版事業を行った時点で、関東の親鸞門弟・門徒の間には当該事業の情報は周知されていたのは間違いないと考えます。
そして、多くの門徒集団の中でも親鸞自筆の『教行信証』を持つ横曽根門徒の威信は極めて高く、また木針智信の唯善に対する資金提供に見られるように、横曽根門徒が財政的にも極めて豊かであったことに鑑みれば、覚恵・覚如が東国巡見において横曽根門徒と交流したのは当然であり、むしろ『教行信証』出版事業への協力を得るため、横曽根門徒が多額の費用を負担して覚恵・覚如を招いたものと考えるのが素直ではないかと思われます。
そして、こう考えると、従来は謎とされていた性海の第四の夢に登場する二人の僧も、自ずと明らかになりそうです。
今井雅晴氏による整理を利用させてもらうと、性海が見た四回の夢の内容は、
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第一回の夢-正応三年十二月十八日の夜の夢
「当副将軍相州太守平朝臣(執権の北条貞時)」の乳人である「平左金吾禅門
法名杲円(平頼綱)」が七人の僧侶を招き、『大般若経』を書写させた時、
性海もその人数に加えてもらって、白馬一匹・金銭一裹を布施として与えら
れた。
第二回の夢-正応四年一月八日の夜の夢
北条貞時の息子で十二、三歳位の童子が性海の膝の上で正坐した。
第三回の夢-正応四年一月二十四日の夜の夢
先師性信法師が現われて、『教行信証』を開板する時はその旨を平頼綱に申
し出、その援助を得てから実施しなさい、とおっしゃった。
第四回の夢-正応四年二月十二日の夜の夢
二人の僧が五葉松一本と松笠一つを持ってきて、性海に与えた。
http://web.archive.org/web/20061006213546/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/imai-masaharu-yorituna-03.htm
というものです。
この内、第三回までの夢の意味は明らかで、政治権力の庇護を受けて事業を行ったことのアピールですね。
平松令三氏は性海が「夢の告げをこの跋文のなかでくどくどと述べている」理由について「どうやら、これは彼が頼綱に面会して助成を懇願する際に述べた内容らしい」と推測されていますが、そうした経緯があった可能性は十分考えられるものの、この跋文の直接の読者として性海が想定したのは真宗の信者であり、特に他の門徒の指導者層であったでしょうから、自分が幕府の最高指導者の庇護を受けてこの事業を行ったのだ、というアピールが目的であったと思われます。
平松令三氏「高田宝庫より発見せられた新資料の一、二について」(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c5fa9c08335ab2434bc74ff66e134343
しかし、第四回の夢は第三回までとは異質で、政治権力との関係は窺えず、宗教的色彩が濃厚です。
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ここで、おそらく従来の真宗研究者が誰も問わなかったであろう一つの問題を提示したいと思います。
それは、横曾根門徒・性海の『教行信証』開板事業を覚恵・覚如は知っていたのか、覚恵・覚如は性海からこの事業への協力を求められたことはなかったのか、という問題です。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e6d77addf6d40b9b33ef6001bf1a379d
と書きました。
覚恵・覚如父子は正応三年(1290)の「三月の比」(『最須敬重絵詞』)から同五年(1292)の「陽春なかばの比」(『慕帰絵詞』)まで、丸々二年間も「坂東八箇國、奧州・羽州の遠境にいたるまで、處々の露地を巡見して、聖人の勸化のひろくをよびけることをも、いよいよ隨喜し、面々の後弟に拾謁して、相承の宗致の誤なきむねなどたがひに談話」(『慕帰絵詞』)していますが、『慕帰絵詞』と『最須敬重絵詞』のいずれも性海の事業に一切触れないのはもちろん、横曽根門徒との交流も記しません。
(その16)~(その19)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/54cb8c0c7fc6f801abad7e8b5ce838d7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/262341e664a617edc2511a07fe1533a4
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bf509b00dd4f1d407f0cd9519132e89b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f5922a99c59604b8da30cffe17a628a9
しかし、諸々の事情を踏まえて、私は「東国の真宗門徒に関する備忘録(その20)」において、
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「勧進沙門性海」の『教行信証』開板は、横曽根門徒だけでなく、広く親鸞の教えに従う門徒一般にとって極めて重要な意義を持つ事業であるので、覚恵・覚如も当然に協力を求められたはずです。
あるいは、覚恵・覚如を「勧進」の広告塔として東国に招いたのは横曽根門徒・性海であって、費用も横曽根門徒が負担してくれたのかもしれません。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7750cba0b3f4824cc693315cdc0920b
との暫定的な結論を出しました。
その後、西岡芳文氏の「初期真宗へのタイム・トリップ」や永井晋氏の「下河辺庄と中世真宗」等で横曽根門徒を中心に各門徒の動向を概観し、併せて研究史を遡り、平松令三氏の「高田宝庫より発見せられた新資料の一、二について」や宮崎円遵氏の「教行信証出版の問題」を確認した結果、性海が『教行信証』出版事業を行った時点で、関東の親鸞門弟・門徒の間には当該事業の情報は周知されていたのは間違いないと考えます。
そして、多くの門徒集団の中でも親鸞自筆の『教行信証』を持つ横曽根門徒の威信は極めて高く、また木針智信の唯善に対する資金提供に見られるように、横曽根門徒が財政的にも極めて豊かであったことに鑑みれば、覚恵・覚如が東国巡見において横曽根門徒と交流したのは当然であり、むしろ『教行信証』出版事業への協力を得るため、横曽根門徒が多額の費用を負担して覚恵・覚如を招いたものと考えるのが素直ではないかと思われます。
そして、こう考えると、従来は謎とされていた性海の第四の夢に登場する二人の僧も、自ずと明らかになりそうです。
今井雅晴氏による整理を利用させてもらうと、性海が見た四回の夢の内容は、
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第一回の夢-正応三年十二月十八日の夜の夢
「当副将軍相州太守平朝臣(執権の北条貞時)」の乳人である「平左金吾禅門
法名杲円(平頼綱)」が七人の僧侶を招き、『大般若経』を書写させた時、
性海もその人数に加えてもらって、白馬一匹・金銭一裹を布施として与えら
れた。
第二回の夢-正応四年一月八日の夜の夢
北条貞時の息子で十二、三歳位の童子が性海の膝の上で正坐した。
第三回の夢-正応四年一月二十四日の夜の夢
先師性信法師が現われて、『教行信証』を開板する時はその旨を平頼綱に申
し出、その援助を得てから実施しなさい、とおっしゃった。
第四回の夢-正応四年二月十二日の夜の夢
二人の僧が五葉松一本と松笠一つを持ってきて、性海に与えた。
http://web.archive.org/web/20061006213546/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/imai-masaharu-yorituna-03.htm
というものです。
この内、第三回までの夢の意味は明らかで、政治権力の庇護を受けて事業を行ったことのアピールですね。
平松令三氏は性海が「夢の告げをこの跋文のなかでくどくどと述べている」理由について「どうやら、これは彼が頼綱に面会して助成を懇願する際に述べた内容らしい」と推測されていますが、そうした経緯があった可能性は十分考えられるものの、この跋文の直接の読者として性海が想定したのは真宗の信者であり、特に他の門徒の指導者層であったでしょうから、自分が幕府の最高指導者の庇護を受けてこの事業を行ったのだ、というアピールが目的であったと思われます。
平松令三氏「高田宝庫より発見せられた新資料の一、二について」(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c5fa9c08335ab2434bc74ff66e134343
しかし、第四回の夢は第三回までとは異質で、政治権力との関係は窺えず、宗教的色彩が濃厚です。