学問空間

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『ぐるぐる問答: 森見登美彦氏対談集』

2018-08-31 | 映画・演劇・美術・音楽

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 8月31日(金)10時21分12秒

>筆綾丸さん
>「蛸壺や はかなき夢を 夏の月」

良い句ですね。
芭蕉のこうしたユーモラスな側面は、一般人が持っている芭蕉像からはずれている、というか殆ど知られていないのでしょうね。

少し気持ちの余裕が出来たら、とか言いながら森見登美彦の作品を引き続き読んでいます。
デビュー作の『太陽の塔』(2003)に続く「腐れ大学生」シリーズの『四畳半神話体系』(2005)、ホラー系の『きつねのはなし』(2006)と『夜行』(2016)、たぬきシリーズの『有頂天家族』(2007)と『有頂天家族 二代目の帰朝』(2016)、エッセイ集の『美女と竹林』(2008)・『森見登美彦の京都ぐるぐる案内』(2011)・『太陽と乙女』(2017)、そして『ぐるぐる問答: 森見登美彦氏対談集』(2016)を読み終えたところです。
森見登美彦はファンタジーっぽい作風や京大出身という経歴の点で、筆綾丸さんがお好きな万城目学に似ていますが、『ぐるぐる問答』には二人の対談があり、『太陽と乙女』にも万城目学に触れている箇所が多数ありますね。
年齢は1976年生まれの万城目学が三歳上ですが、万城目学のデビュー作『鴨川ホルモー』が出版されたのは2006年で、森見登美彦のデビュー作『太陽の塔』に三年遅れています。
しかも、万城目学は『鴨川ホルモー』が書けたのは『太陽の塔』のおかげだと言っていますね。
『ぐるぐる問答』から少し引用すると(p17以下)、

-------
万城目 最初に小説を書いたのは、大学三回生のときで、丁度その頃「自分探し」という言葉が世に出始めていて、いち早く敏感にそれを取り入れて、大学生がみんなでうじうじ悩むという……ひどいものを……(声が小さくなる)。
森見 いや、それがあったからこそですよ。
万城目 腐臭を放ってますよ。まあそれを一年くらいかけて書きまして。
森見 長いんですか?
万城目 はい。で、それを友達二人に読ませて。
森見 お!
万城目 その感想が「気持ち悪い」「恥ずかしい」「客観的に読めない」「これ、お前のことやんか」などなど……。
森見 うわ~(我がことのように悶える)。
万城目 それで僕は、自分に近くなってしまって恥ずかしいから二度と大学生は書かないと決めて、時代小説を書くように。奈良時代の仏像彫りの話とか書いていましたね。
森見 なるほど。
万城目 それが『鴨川ホルモー』の一作前からがらっと変わったんです。チャールズ・ブコウスキーっていう、もう飲んでヤッて競馬して、そればっかの人が書いた小説を読んで、自分もこういう乱暴なものを書きたい、今までのは繊細すぎた、と思って。それから次に『鴨川ホルモー』を書いたんですが、あれを書けたのは『太陽の塔』を読んだからなのは間違いないんです。
森見 オッ!
万城目 大学生の話を書けば一番うまくいくことは自分でも分かってるんだけど、またあんな風になってしまうのが怖くて作品に大学生はもう出さずにおいたんですよ。それが『太陽の塔』を読んで、ああ、こういう風に書くと自分のことは全く書かずに、かつ何かを伝えることができるのか! と。
森見 もう、それだけ聞けたら僕は今日はもうこれでいいです。ありがとうございました(笑)。
-------

といった具合です。
「腐れ大学生」シリーズはもちろん事実の記録ではありませんが、森見登美彦が実際に送った学生生活の経験がベースにあることも確かで、しかもそれは1979年生まれの人にしてはずいぶん古風な感じがしますね。
『ぐるぐる問答』での綾辻行人との対談でも、

-------
綾辻 同じ大学の、十八年違いの先輩後輩の関係になるんですね。森見さんが生まれた年に僕が入学した、という勘定。そんなに違うのに、森見さんが描く大学や大学生像は、僕なんかの目にもなんだかとても懐かしく感じられます。この何年間かで特に、京大のキャンパスもずいぶん変わったでしょ。ところが森見作品には一九八〇年代から九〇年代あたりの、僕たちもよく知っている空気感があるんですね。良い感じで止まっている、とでもいうか。これはきっと京都という土地柄も関係してのことなんでしょうけれど。でも、だから今、若い人から僕たちの世代まで、幅広い読者層に受け入れられているんでしょうね。
森見 うちは父親も京大なんです。父親から学生時代のことをいろいろ聞かされていて、昔の学生生活に憧れていたからかもしれません。京大を目指したのも、父親から聞いた話からイメージを膨らませて、行きたいなあ、と。だから、僕自身もあまり若々しくない学生生活を送っていたし、入ったクラブもライフル射撃部という、あまり華やかじゃないクラブなんです。
-------

とあり(p99以下)、たまたま自分と同年の生まれの綾辻行人の感想にうんうんと肯きたくなります。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

シーソー・ゲーム 2018/08/30(木) 11:59:48
小太郎さん
-------------
 当初は、債権者、債務者の二者だけのあいだで繰り広げられていた素朴なシーソー・ゲームに幕府法という第三者が登場し、ゲームの裁定者としての役割を果たしはじめた。ゲームの参加者たちは気づかないうちにあらゆる法の上に立った幕府法に飲み込まれ、その顔色をうかがわなければならなくなってしまっていたのである。
 そして裁定者となった幕府は、幕府内部の独自の論理で債権の法と債務の法とのあいだ(に?)くりひろげられていたシーソー・ゲームを複雑にする新たなルールを導入するようになった。この点を確認するために、次に十五世紀中葉に幕府が導入した、ある奇妙な法について章をあらためて述べていこう。(180頁~)
-------------
前半には、ちゃんと、「債権者、債務者の二者」とあるのに、後半でまた、「債権の法と債務の法のあいだ」となってしまうのですが、これは、法律の理解にたいする正道と邪道のシーソー・ゲームとみるべきなのか、教祖に対する半信半疑のゆらぎとみるべきなのか、よくわからないですね。

-------------
率直に言えば、史料と課題にまっすぐ向き合える、研究という、いわゆる「蛸壺」は、狭さは感じつつあったものの居心地のよい空間であり、そこから出るのは、まだ早いと思っていたのである。(309頁、あとがき)
-------------
芭蕉の「蛸壺や はかなき夢を 夏の月」ではありませんが、教祖と弟子が同じ蛸壺の中で仲良く同じ夢を見ているような感じで、漁師に引き上げられて干し蛸にされなければいいが、と思いました。
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「日本史はなめられている」(by 桜井英治氏、但し伝聞)

2018-08-30 | 井原今朝男「中世善光寺平の災害と開発」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 8月30日(木)09時46分23秒

>筆綾丸さん
昨日は早島大祐氏の『徳政令─なぜ借金は返さなければならないのか』(講談社現代新書)について、読みもしないのに少し否定的なことを書いてしまいましたが、これは以前、早島氏が脇田晴子氏について論じた「商業の発展を物語った人」という文章を読んで、早島氏を私の脳内ファイルの「雑な人」という分類に入れていたためでもあります。

『歴史学研究』969号の「小特集 脇田晴子の歴史学」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fc7a6e01753a5a0a5851c44d0689d233

しかし、検索してみたら早島氏が執筆の経緯を書いている記事があり、同書はそれなりに興味深い内容のようですね。

-------
「歴史の大転換」を論じた『徳政令』執筆にいたるまで
なぜ「大風呂敷」を広げたのか

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57144

今は頭が中世モードになっていないのですが、少し気持ちの余裕が出来たら読んでみたいと思います。
ところで、早島氏は上記記事で、

-------
桜井英治氏が担当編者だった『岩波講座 日本歴史 8』(中世3)で与えられた課題は、本書のテーマそのものずばりの「一揆と徳政」であり、またそのあとに依頼を受けた中林真幸氏が担当編者の『岩波講座 日本経済の歴史 1』では、中世の土地売買の制度的保証や金融業の変遷などをテーマに執筆を求められた。
【中略】
影響は学術的内容だけに止まらない。講座立ち上げの際の全体会合で、桜井氏は、「日本史はなめられている」と強い口調で、歴史学をめぐる状況の厳しさを指摘していた。中林氏も穏やかな口ぶりで「人文学の危機」にいかに向き合うかを会議後の懇親会などでいつも語っており、学問の未来について考えさせられる場でもあった。
--------

と書かれていますが、桜井英治氏の「日本史はなめられている」という発言は、これだけだとちょっと意味が分かりにくいですね。
ま、おそらく、「中世史への招待」(『岩波講座日本歴史第6巻 中世1』)の、

--------
 社会史的傾向の後退ということを別にすれば、歴史学が網野とともに失った最大のものは一般の読者層であろう。それは通史物などの発行部数をみれば一目瞭然だが、とりわけ中世のような、現代には必ずしも直結してこない遠い過去のできごとに、一般読者層の(できれば娯楽的興味以上の)関心を向けさせるのはいまや至難の業となった。一方、これもまたいまにはじまったことでないとはいえ、歴史家の書くものは一般読者層のみならず、いわゆる知識人とよばれる人たちの関心もあまり引かなくなったようにみえる。それは戦後マルクス主義歴史学が傲慢に振る舞いすぎた報いなのか、それとも言語論的転回とよばれる好機に便乗した村八分なのか、いずれにしても歴史学が知の世界への貢献を期待されなくなって久しいのではあるまいか。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a3ee4a793f7e09aa29038a97dcb6629d

といった指摘と共通する危機意識なのだと思いますが。
桜井氏も歴史学界のリーダー格の一人としていろいろ苦労が多いのでしょうが、井原今朝男氏批判の文章などは些か大人気なくて、感心しませんでした。

「すでに鬱然たる大家でありながら」(by 桜井英治氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/38449c940d4d08e23d99c75936d663ed
「小物界の大物」について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/77352a5efd46d194b67509a1a7f7cf1e

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

教祖 2018/08/30(木) 09:01:32
小太郎さん
早島氏が、教祖の不毛で無意味な呪縛から解放されて正気に戻ることを、切に祈りたいと思います。

旅先は、南イタリアとマルタ島です。
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予告された企画倒れの企画

2018-08-29 | 井原今朝男「中世善光寺平の災害と開発」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 8月29日(水)21時07分55秒

>筆綾丸さん
>「債権の法」と「債務の法」

『日本中世債務史の研究』の「序章 日本中世債務史の研究の提起」に、「本書の刊行をすすめてくれたのは、東京大学出版会の高木宏氏であった。二〇〇二年秋、早島大祐氏の日本史研究会大会報告に際して桜井氏と私がコメントをしたときであった」とあるので、早島氏は井原今朝男氏と特別な縁がある人のようですね。

「おかげで債務史という研究分野が産声をあげることができた」(by 井原今朝男氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b4bcbf33cbc78d9efe8af2035d69764c

ご指摘のように早島氏の「債権の法」と「債務の法」という表現は奇妙ですね。
おそらく早島氏は井原今朝男氏の表現を承継しているのでしょうが、井原氏は「債務」のような法律学の基礎概念に、非常に特殊な、余人にはなかなか理解しがたい独自の定義付けをしている方なので、井原ワールドの中ではそれなりの一貫性があるのかもしれません。
井原氏は『歴史評論』773号(2014年9月号)の「総論─債務史研究の課題と展望─」において、慶応大学教授・大屋雄裕氏の批判について、

-------
『中世の借金事情』『ニッポン借金事情』については、大屋雄裕氏の個人WEBサイトで「買ったり読んだりする価値のまったくない本と批判された」(「ウィキペディア」フリー百科事典)とみえる。法学者の神経を刺激したことに驚かされたが、感情的な批判も研究者の依拠する価値観のズレを示すものであろう。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fbe85ff8683cc999e3a8828a47283c8f

と言われていますが、大屋氏の見解が「法学者」を代表するものなのか否かを確認するために、法律に詳しくて井原氏と「価値観のズレ」が少なそうな人たちと学際的研究をやってみたらどうですかね。
例えば『歴史評論』の発行主体である歴史科学協議会とルーツを同じくする民科法律部会と一緒に「債務史」をテーマとする合同シンポジウムを開催するなどしてはどうか。
まあ、準備段階である程度の見通しがはっきりして、実現に至らずに立ち消えになる可能性が高いような感じもしますが。

「松尾尊兌氏に聞く」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/db86ab0fd88c67ec2e9e522705859fb2
民主主義科学者協会(略称、「民科」)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8e93b8f37e3e1ea79068a78908dc9678
水島朝穂氏と「民主主義科学者協会法律部会」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f3ea9eabd264b5f188cd29e4b71612d3

>明後日から、しばらく旅に出ます。

お気をつけて。
北朝鮮はやめてくださいね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「債権の法」と「債務の法」? 2018/08/28(火) 12:15:28
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000313011
早島大祐氏の『徳政令 なぜ借金は返さなければならないのか』を半分ほど読みました。とても面白い本ですが、ちょっと気になる箇所があります。

----------------
・・・近年、井原今朝男氏が明らかにしたように、中世社会では、じつは借りたお金は返さなければならないという法が存在すると同時に、利子を元本相当分支払っていれば、借りたお金は返さくともよいという法も条件付きながら併存していた。(71頁)
----------------
とあって、出典は『日本中世債務史の研究』(2011)なので、大丈夫かな、と思いながら読んでゆくと、次のような記述が出てきます。

---------------
 借りた金は返さなければならないという債権の法と、借りた金は返さなくともよいという債務の法との拮抗の上に、中世の金融と社会が構築されていたことは先に述べた通りである。この点を踏まえると、徳政一揆の蜂起という突発的に起きたように見える事態の前提には、それ以前に、債権の法のほうが優勢になるという特殊な状況が生まれていた、そう考えられるのではないだろうか。シーソー・ゲームのように、その反動が債務の破棄を求める一揆というかたちで噴出した、という見立てである。
 だとすれば、その行きすぎた債権の法の優越とは、一体、どのようにして生じたのだろうか。この点を、債権の法を体現する存在である金融業者の実態から見ておこう。(94頁)
---------------
http://www.moj.go.jp/MINJI/minji06_001070000.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E6%B3%95%E5%85%B8_(%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84)
「債権の法」と「債務の法」が、まるで別個に存在するような表現ですが、貸借契約をすれば債権と債務が同時に発生するのは自明のことで、ここで問題は、債権者と債務者との社会的な力関係なのであって、「債権の法」と「債務の法」の優劣ではないはずです。そもそも、「債権の法」とか、「債務の法」とか、聞き慣れない表現で、井原今朝男氏の変な影響を受けていなければいいが、と思いました。

追記
http://kensatsugawa-movie.jp/
面白い映画でした。検察制度に通じた法律の専門家からすれば、いろいろな欠陥はあるのでしょうが。
副題の英語「 Killing for the prosecution 」は、映画を見終わって、意味がわかりました。

明後日から、しばらく旅に出ます。
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『ペンギン・ハイウェイ』

2018-08-26 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 8月26日(日)11時10分54秒

ずいぶん間が空いてしまいましたが、そろそろ再開します。
先日、原作・森見登美彦、監督・石田祐康の『ペンギン・ハイウェイ』を観ましたが、これは良いアニメ映画でした。
宇多田ヒカルの主題歌「Good Night」も良いですね。

-------
ああ 愉しげに うっふっふっ 埃が舞う
ああ 久しぶりに うっふっふっ 開いたアルバム
Hello 君が 見ていた 世界
謎解きは 終わらない

ぐううぅうぅふーうー ばーい ぐっばーい
ぐううぅうぅふーうー ばーい ぐっばーい
ぐううぅうぅふーうー ばーい ぐっばーい
ぐううぅふーうーう ばーい ぐっばーい
ぐううぅふーふーふーう ばーい ぐっばーい
ぐううぅふぅうーう ばーい ぐっばーい

https://www.youtube.com/watch?v=tVhy2LnbL1A

私は殆ど小説を読まない人間ですが、映画のストーリーに少し疑問があったので原作小説も読んでみました。
映画のストーリーは原作にかなり忠実に進み、セリフには原作の表現が随所に鏤められていましたが、最後の方は映画独自の展開になっていて、それは決して悪くないというか、映像でなければ作れない優れた世界でしたね。
私も少し浮世離れしたところがあるので、『ペンギン・ハイウェイ』の封切りまでは森見登美彦の作品を読んだことがないどころか、この有名小説家の存在自体を知らなかったのですが、『【新釈】走れメロス 他四篇』・『夜は短し歩けよ乙女』と読んでみて、たいした才能だなと思いました。
ついでに出世作だという『太陽の塔』も読んでみたのですが、これはちょっと読後感が苦かったですね。

森見登美彦(1979生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E8%A6%8B%E7%99%BB%E7%BE%8E%E5%BD%A6
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「公定力」盛衰記

2018-08-14 | 天皇生前退位

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 8月14日(火)11時15分26秒

前回投稿で「「公定力」は行政法の基礎中の基礎」と書きましたが、最近の教科書での扱いは、私などが勉強していたころとはずいぶん違っているようですね。
『「法の番人」内閣法制局の矜持─解釈改憲が許されない理由』(大月書店、2014)への疑問から、二年前に某大学図書館で行政法の教科書を読み比べてみたとき、東京大学教授・宇賀克也氏の『行政法概説Ⅰ【第3版】』(有斐閣、2009)の目次には「公定力」がなく、索引にも「公定力」が存在しないことに驚きました。
ただ、同書の本文を読むと、一箇所だけ「公定力」という表現が出てきます。(p314)

-------
第5部 第19章 行政行為
5 行政行為と取消訴訟の排他的管轄
(1)意義

 行政行為に瑕疵があり違法であるとして争う場合、行政事件訴訟法は、原則として、もっぱら取消訴訟のルートで争うべきとしている。これを取消訴訟の排他的管轄(「取消制度の排他性」)という。その結果、行政行為は、権限ある行政庁が職権で取り消すか、行政行為によって自己の権利利益を害された者が取消訴訟を提起して取り消すか、行政上の不服申し立てによって取り消さない限り、有効なものとして取り扱われることになる(このことを、行政行為に公定力があるということもある)。このことの意味をいくつかの具体例で考えることとしよう。
(例1)民間会社に勤務する私人Aが解雇された場合、解雇(雇用契約解除)の取消訴訟を提起するわけではなく、解雇が無効であることを前提として、従業員たる地位の確認を求める訴訟を提起するのが通常である。これに対して、公務員Bが免職処分を受けた場合、当該免職処分に対する取消訴訟を提起してこれを取り消すことなく、直ちに公務員としての地位確認請求をすることは原則としてできない。免職処分は、取消訴訟の排他的管轄に服する行政行為であるからである。したがって、Bはまず、免職処分の取消訴訟を提起して、当該処分の効力を否定しなければならない。【後略】
-------

ということで、「このことを、行政行為に公定力があるということもある」ですから、「公定力」概念ももはや風前の灯のようですね。
個人的な記憶をたどると、1981年だったか、私が聴講した塩野宏氏の講義では、田中二郎先生は実体法上の効力としての公定力について重厚に論じられておられるけれど、これは行政事件訴訟法における取消訴訟の排他的管轄の反映ですし、そもそも行政事件訴訟法を作ったのは田中二郎先生ですからねー、みたいな言い方をしていました。
だから宇賀克也氏の説明も特に斬新という訳ではないのですが、ただ、その時点では塩野氏もきちんとした教科書は書かれていなかったですし、公務員試験向けの通俗参考書などには、行政行為には「公定力」という私人の法律行為とは全く異なる特別な効力があるのじゃ、みたいな権威主義的な叙述が目立っていて、独学で行政法を勉強しようとする人にとっては分りにくいポイントだったようですね。
とまあ、こんな風に書くと、まるで私が勉強熱心な学生だったような感じになりますが、別に謙遜でも何でもなく、そんなことは全然ありませんでした。
塩野宏氏は極めて辛辣な冗談を次々に飛ばす名物教授で、そのマシンガントークを漫談でも聞くようなつもりで楽しんでいただけです。

「芦部さんは、荷造りの名手であった」(by 松尾浩也)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ffcbf67b38914a43e848353a1ce7c8eb
塩野宏(1931生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E9%87%8E%E5%AE%8F

ま、学問的には宇賀氏のような説明が正しいのでしょうが、素人を説得する際には「公定力」のような難しそうな言葉を使って押しまくる方が楽だな、と思ったことがあります。
私もきっと、権威主義的でイヤな奴だな、と思われていたことでせう。

除名決議について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/be1234b96a2892533f99ee68d34b0255

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内閣法制局元長官・阪田雅裕氏と「公定力」

2018-08-11 | 天皇生前退位

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 8月11日(土)22時29分41秒

>筆綾丸さん
>救いようのない宗教ですね。
「イスラム国」こそイスラム教の論理を最も正しく理解し、実践している訳ですからねー。

>>いったん施行された法律は、公定力といいますが、裁判所で無効と判断されない限りは合憲、適法なものとして作用し続けます。(山尾志桜里氏『立憲的改憲』55頁)

阪田氏は自由法曹団の川口創弁護士との共著『「法の番人」内閣法制局の矜持─解釈改憲が許されない理由』(大月書店、2014)と同じ誤りを繰り返していますね。

「公定力があるわけですから」(by 阪田雅裕氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8299a2004a780bb7b3f1ccf78f47325a

私も内閣法制局長官だった人の法律用語の用い方がおかしいというのには勇気が必要だったので、この投稿をするときには十数種類の行政法の教科書を確認してみましたが、「公定力」は行政法の基礎中の基礎であり、自分の理解に間違いはありませんでした。
まあ、どんな人にも思い込みはありますが、阪田氏くらい偉くなってしまうと、周囲は誰も誤りを指摘してくれなくなるのでしょうね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

公定力 2018/08/11(土) 11:12:50
小太郎さん
イスラム教がほんとに飯山氏の言うようなものだとすると、救いようのない宗教ですね。

『スターリンの葬送狂騒曲』に関するウィキの記事(ロシア側の反応)を読むと、映画製作の関係者が不審な死に遭わなければいいが、と思ってしまいます。
また、日本の共産党系の人たちは、この映画にどんな感想を抱くのでしょうね(たぶん、観ないと思いますが)。

http://www.webchikuma.jp/articles/-/1446
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%AE%9A%E5%8A%9B
----------------------
坂田 いったん施行された法律は、公定力といいますが、裁判所で無効と判断されない限りは合憲、適法なものとして作用し続けます。(山尾志桜里氏『立憲的改憲』55頁)
----------------------
阪田は元内閣法制局長官の阪田雅裕氏ですが、公定力とは、法律一般の効力のことではなく、行政行為の効力のひとつにすぎない概念ですよね。記憶が曖昧で恐縮ですが、小太郎さんが、以前、阪田氏の誤りを指摘されていたような気がするのですが。
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「日本の"中東研究業界"なるもの」

2018-08-10 | 栗田禎子と日本中東学会

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 8月10日(金)23時34分14秒

>筆綾丸さん
飯山陽氏の『イスラム教の論理』(新潮新書、2018)を読んでみました。
なかなか強烈ですね。
以前、池内恵氏の著書をまとめて読んでいたので、多少は予備知識がありましたが、

第3章 世界征服はイスラム教徒全員の義務である
第4章 自殺はダメだが自爆テロは推奨する不思議な死生観
第5章 娼婦はいないが女奴隷はいる世界

http://www.shinchosha.co.jp/book/610752/

と続くといささかゲンナリしてしまいます。
飯山陽氏の名前で検索したら池内恵氏との対談があり、そこで飯山氏は、

-------
飯山 私は、池内さんとは全然違う意味で、日本の"中東研究業界"なるものからかなり距離を置いた立場にいる人間なので、何を誰に遠慮することもなく好きなことを言ってもいいのじゃないか、そういう立場の人間がイスラムについて語ってもいいのではないかと考えてきました。そして私は、長いこと中東イスラム世界に住んでいたり、いろいろな人と深くかかわった経験があるので、学生の頃、先生方に「イスラム教とはこういうものです」と教え込まれていたものについて、割と早い時期に「あ、違う」と気づいてしまったということがあるんですね。

https://www.huffingtonpost.jp/foresight/islam-issue_a_23449890/

と言われていますが、私には「日本の"中東研究業界"なるもの」がよく分からないので、『イスラム教の論理』でも具体的に誰の見解を批判しているのか、学者の名前を上げてほしいなと思う箇所がありました。
ま、新書では分量の関係もあるでしょうが。

>>築地本願寺にてスターリン国民追悼集会

検索してみたら「スターリン同志愛好会」というサイトに、

-------
宗教をこえた追悼国民集会
築地本願寺で盛大に挙行
「スターリン全集」通信 編集部
 故スターリンの革命家としての偉大な生涯を追悼するための国民大会が、さる3月28日午後、東京の築地本願寺で行われた。本願寺の熱心な申出により、荘厳な仏式の法要が加えられ、国民救援会委員長布施辰治氏の開会の辞に始まり、日ソ親善協会はじめ在日他民族代表、日本共産党、労組、文化団体、出版社、劇団および一般の会葬者からの弔電それから献花焼香に、さすがの広大な本堂も立すいの余地なき盛大な式典。最後に実行委員長大山郁夫氏から「平和への闘争を強めることこそ、スターリンの死に酬ゆる最大の道である」とのあいさつがあり、厳粛に閉会した。広い庭先には会葬者の署名、スターリンの生涯を偲ぶ珍しい写真展、それから全集をはじめ邦訳本の著作展などくりひろげられた。この日は、空もよく晴れ渡り、会葬者も国民のいろいろの階層の人たちで、2000名をかぞえた。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/7903/stalin/bunsho/tsuitou.htm

とありますね。
布施辰治は自由法曹団(≒共産党)、大山郁夫は1951年に「スターリン国際平和賞」を受賞しているそうなので、まあ理解できますが、「本願寺の熱心な申出により、荘厳な仏式の法要が加えられ」云々は訳が分からないですね。

自由法曹団と布施辰治
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/151ca32dc94cdbdadc90e81dc9685fac
大山郁夫(1880-1955)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E9%83%81%E5%A4%AB

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

スターリンの葬送狂騒曲 2018/08/10(金) 10:59:46
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E8%91%AC%E9%80%81%E7%8B%82%E9%A8%92%E6%9B%B2
昨日、日比谷シャンテで、『スターリンの葬送狂騒曲』(The Death of Stalin)というコメディーを観ましたが、結構、笑えました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%B7%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3
死後の記述に、
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スターリンの死にあたり、築地本願寺にてスターリン国民追悼集会が行われ、本願寺側の熱心な申し出により、荘厳な法要が行われた。
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とありますが、築地本願寺はこんなバカなことをしたんですね。知りませんでした。
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『ベイルートからエルサレムへ─NYタイムス記者の中東報告』

2018-08-09 | 栗田禎子と日本中東学会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 8月 9日(木)09時38分59秒

私はトーマス・フリードマンの著作としては『フラット化する世界(上・下)』(伏見威蕃訳、日本経済新聞社、2006)をパラパラ読んだことがある程度だったのですが、池内氏が、

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 フリードマンは日本ではグローバル化の論客の側面のみが知られるが、ユダヤ系としてイスラエルとの関係を持ちながらレバノンの首都ベイルートの特派員も経験し、イスラエル・アラブの両方に通じた中東専門のジャーナリストとしての名声をまず確保して世に出た人である。出世作は『ベイルートからエルサレムへ』。彼は当然のようにイスラエル報道に強いだけでなく、アラブ諸国の有力者、それも首脳が、自らの意見を国際社会に発信したい時に、フリードマンとニューヨーク・タイムズを使う、ということがしばしば生じる。近年はムハンマド皇太子との「癒着」とすら見えかねない関係の深さが顕著である。
-------

と言われているので(p87)、『ベイルートからエルサレムへ─NYタイムス記者の中東報告』(鈴木敏・鈴木百合子訳、朝日新聞社、1993)を入手してみました。
七百ページ近い分量で、まだほんの少し眺めただけですが、ジャーナリストとしての鋭い感覚が感じられる作品ではありますね。
ユダヤ系とはいっても、ミネソタ州ミネアポリスという地方都市の出身で、

-------
 私の家族は、典型的な中産階級のユダヤ人と言っていいだろう。父はボールベアリングの販売をしている。母は主婦であり、パートで簿記の仕事もしている。小さいころ、私は週に五日、ユダヤ人学校に通わされていたが、一三歳の時にバー・ミツバ〔ユダヤ教で、一三歳になった少年を祝う儀式〕を終えると、シナゴーグ〔ユダヤ教会〕にはほとんど興味を持てなくなった。一年のうち、新年の二日間(ロシュ・ハシャナ)と贖罪の日(ヨム・キプール)の、三日間だけのユダヤ人というところだろう。
-------

とのことで(p16)、特に裕福でも信仰熱心でもない、というか無神論者のようですね。
イスラエルとの縁も、

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 六八年に一番上の姉、シェリーが大学三年生の一年間テルアビブ大学に留学した。第三次中東戦争でイスラエルが劇的な勝利を得た次の年であった。それはまた、イスラエルが若いユダヤ系米国人にとって「トレンディ」な場所だった時期でもある。その年のクリスマス休暇に、両親は私を連れて姉を訪ねた。
-------

程度のことがきっかけだったそうですが、しかし、

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 その旅行は私の人生を変えることになった。当時、私はまだ一五歳で、世界に目を向け始めたばかりだった。エルサレムへの旅で、生まれて初めてウィスコンシン州境から外へ踏み出した。飛行機で旅行するのも初めてのことだった。それがただ単に新しいものを目にした衝撃からなのか、それとも本来見いだされるべき魅力があったからなのか、分からない。しかし、イスラエルと中東には何か、私の身も心も捉えて離さないところがあった。私は中東というその場所、人々、そして争いに、すっかり魅了されてしまった。それからというもの、他のどんなことにも心から興味を持つということができなくなってしまった。
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とのことで、よっぽど中東が水に合ったようですね。


>筆綾丸さん
>飯山陽氏の『イスラム教の論理』

お名前は「あかり」で、女性なんですね。
中東モノもピンからキリまでですが、「池内恵氏絶賛!」とのことなので、早速読んでみます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

イスラム教、米相場、マヨラナ粒子 2018/08/08(水) 12:00:48
小太郎さん
http://www.shinchosha.co.jp/book/610752/
しばらく前に、飯山陽氏の『イスラム教の論理』を読んだのですが、キリスト教とイスラム教の相互憎悪は、どちらかがどちらかを殲滅するまで延々と続くのだな、と暗鬱になりました。

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000312418
高槻泰郎氏の『大坂堂島米市場 江戸幕府vs市場経済』は、「日本銀行前総裁白川方明氏絶賛!!」という文に誘われて買いましたが、想定外の面白さで、米相場から江戸時代を見ると、色々なことがわかりますね。

http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research/research_results/2018/180712_1.html
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000276057
幻の粒子「マヨラナ粒子」の発見、という記事が気になっていたところ、ちょうど、ジョルジョ・アガンベンの『実在とは何か マヨラナの失踪』が出たので、早速、購入しました。量子力学的失踪(?)とでも云うべきマヨラナの失踪を哲学的に論じた内容のようです。
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池内恵『シーア派とスンニ派』

2018-08-08 | 栗田禎子と日本中東学会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 8月 8日(水)10時19分18秒

暫く郷土史に入れ込んでいたリハビリを兼ねて、池内恵氏の『シーア派とスンニ派』(新潮選書、2018)を読んでみました。

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イランとサウジのにらみ合い、シリアやイエメンでの内戦やテロの拡大、進まないイラクの復興など、どの問題の陰にも正統・多数のスンニ派と異端・少数のシーア派の対立がある――この理解は、物事の半面しか見ていないに等しい。シーア派への警戒感は、なぜ高まったのか。宗派対立への誤解を意味ある議論に変える意欲的な試み。

http://www.shinchosha.co.jp/book/603825/

池内氏の分析はいつも通り切れ味鋭く、たいしたものだとは思うのですが、同書本文の最後は、

-------
 このように、中東の紛争や問題について、関与する内外の大国・勢力のそれぞれが、特定の譲れない問題に関する拒否権を持っており、その拒否権を押し通すための手がかりを、現地に確保している。これらの地域大国・周辺大国や域外の超大国は、中東の「まだら状の秩序」の拡大を封じ込め、問題を解決する主体となりうる存在であり、そうならなければならないはずだが、現実には、複数の異なる「拒否権パワー」が併存し、競って介入することで、外部の勢力も中東の問題の一部となり、中東の混乱を永続化させる主体となっている。シリアやイラクやイエメンやリビアの紛争は、終わりが見えない。
-------

となっていて(p140)、明るい展望は全くなく、読後感は爽やかとは言い難いですね。
細かいことですが、ちょっと気になったのは池内氏があるアメリカのジャーナリストを非常に厳しく批判している点です。
池内氏は、

-------
 「一九七九年」がこのように、中東の現在を規定するいくつもの画期が重なって生じた年であることは、中東に関わる人の間では広く知られている。しかし近年に、この「一九七九年」の意味を拡大解釈するような、政治的な印象操作やプロパガンダにつなげるような情報発信が、中東の政治権力者と、そこに連なる米国の有力なメディア関係者によって行われている。
-------

から始めて、6ページに亘ってサウジアラビアのムハンマド皇太子とニューヨークタイムズのコラムニスト、トーマス・フリードマンを論じており、その内容は、

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イラン革命さえなければ、サウジは穏健だった、という説は、ワッハーブ派と深く結びついたサウジの建国の経緯や、サウジが緩みなく世界に広めてきたワッハーブ派を含むスンニ派の厳格な教義や、サウジの資金供与に支えられて遂行された各地のジハードの過程で行われた武装闘争やテロリズムの帰結を考えれば、言葉を失うような無責任さであり、フェイク・ニュースや仮想現実、そして歴史修正主義の謗りを免れないものだ。しかしそこでイランに責任を転嫁することで、テヘラン米大使館占拠人質事件の記憶をなおも引きずる米国の世論の支持を得ようとする、これをフリードマンがあたかも客観的な事実であるかのように無批判にコラムに書き、それをリベラル派の筆頭であるはずのニューヨーク・タイムズが載せるという事実は、現代世界のありようを示していると言えるだろう。報道の倫理とは、中立客観性とは、リベラルな価値規範とは、より強い力の前には、それらを最も強く主張している者たちによって、時に堂々と棚上げされるものなのである。
-------

という具合に極めて辛辣です。
「日本ではグローバル化の論客の側面のみが知られる」(p87)フリードマン、なかなか興味深い人物ですね。

トーマス・フリードマン(1953生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%9E%E3%83%B3
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「このたびは助太郎様御討死、まことにご祝着に存じあげまする」

2018-08-04 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 8月 4日(土)11時45分51秒

松沢裕作氏の『自由民権運動―〈デモクラシー〉の夢と挫折』(岩波新書、2016)から始まったプチ地方史探究、深井英五との接点もある程度分かったので、そろそろ終わりにしたいと思います。
自由民権運動の研究者には左翼的傾向の強い人が多く、秩父事件や群馬事件に関する文献をまとめて読んでいると、現在の価値観で過去を裁く押しつけがましさに、ちょっと鬱陶しい気持ちになることも多いのですが、そんな中で見つけた『復刻 下仁田戦争記』は一服の清涼剤ですね。
前回投稿で少し紹介した水原徳言の「戦記随想」もなかなか味わい深い文章です。
その冒頭は次のようになっています。(p75以下)

-------
 元治元年十一月十六日。
 高崎の郊外、片岡村小祝神社にお詣りする母娘づれがいる。祈願を終った二人が鳥居外に待たせておいた駕篭のところに戻ってくると、小坂山から中山峠に続く道を走ってくる早打ちの駕篭が見えた。
 あるいはと思いながら目をこらすと予想した通り、それは昨夜から今暁にかけて下仁田に攻め入った高崎勢の戦況を知らせる使者だった。駕篭でも二人に気がついて近よると、
「直次郎様はご無事、お引きあげ…」
と叫ぶように言いながら駆け去って行った。母娘はほっとしたように顔を見合わせている。

 この二人は、三番手の軍を率いて今朝この道を下仁田に向った深井八之丞景忠の妻ゆい子と娘のたい子である。浪士追討のため高崎藩で編成した軍は三隊で、一番手は会田孫之進周幸、二番手は浅井隼馬貞幹が率いている。
 一番手には景忠の長男、深井助太郎景命が働武者として加わり、二番手には次男の直次郎景員が大砲方に参加、父子三人、それぞれ三隊に分れて下仁田に向った。三番手の出発を見送ると間もなく、既に浪士軍と激戦があり結果は高崎勢の苦戦、多数の討死者を出したという知らせがきていた。
 一家三人を戦場に送った母娘が、じっと家の中にあって次の知らせを待つことに耐えられなくなり、こうして駕篭を仕立てて小祝神社まで行ったのは、少しでも戦場に近いところへという気持ちがあったのだろう。二人の心にかかっていたのは次男の直次郎で、嘉永二年十月の生れ、満で十五になったばかりの少年である。早駕篭の使者もそれを察して知らせてくれた。
 お詣りの甲斐があったと思って母娘は家に戻ったが、直次郎の無事を喜び、兄の助太郎についての不安は持たなかった。助太郎はすでに一家の中心として期待されるたのもしい青年だったからである。しかしその助太郎は乱戦の中で両足を打たれて動けなくなり、胸にも銃弾を受け、敗走する味方に置き去られて切腹した。こうした犠牲者の氏名がわかったのは夜になってからであった。
 追手の升形から勇んで出て行った部隊が、痛ましい敗軍の姿に変って戻ってきたのは翌、十一月十七日、申の下刻、夕方の五時頃である。血のにじむ姿もあり、すでに戸板の上で死骸となっている者もあった。
-------

まあ、高崎藩も軍備の改革を全く怠っていた訳でもないのですが、財政が厳しいこともあって多分に旧式であったことは否めず、天狗党との戦いでその不備が露呈されてしまった訳ですね。
それにしても、

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 高崎に柩が運ばれてきて、犠牲者の家は悲嘆にくれている。そういう悲しみの家に弔問客が訪れると、門のところで大きな声で、
「ご祝着に存じまする…」
というものだったそうである。それを聞いて家族の者は、涙を拭いて玄関に出る。
「このたびは助太郎様御討死、まことにご祝着に存じあげまする」
 こんな挨拶をしたものだと、これもその頃十一歳だった助太郎の妹たい子の話。
-------

と聞くと(p85)、さすがに驚きますね。
水原も続けて、

-------
 武士という身分は戦いに討死するところに本懐があった筈だから「祝着」なのだろうが、二百五十年も平和が続いた後の幕末に、そんな形式が生きていたところが封建制の恐ろしさだと感じる。
-------

と感想を述べています。
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深井景員『下仁田戦争記』

2018-08-03 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 8月 3日(金)10時36分29秒

ローカルな話が続きますが、深井英五(1871-1945)の兄・景員(かげかず)は元治元年(1864)11月、水戸の天狗党と高崎藩兵が戦った下仁田戦争に十六歳で従軍した人です。
「下仁田戦争について」(下仁田町公式サイト内)によれば、

-------
(3)天狗党の行軍が、一ノ宮(現:富岡市一ノ宮)に入ると、幕命を受けた高崎藩は藩兵3隊320人余りの追撃隊を下仁田に向かわせ、先回りし下仁田の先の下小坂に本陣を構えた。
 元治元年(1864年)11月16日未明、両軍の砲声が山々にこだまし、天狗党920余名と高崎藩の2隊により『下仁田戦争』がはじまった。
 戦いは一進一退であったが、天狗党の三面奇襲が勝敗を分け、高崎藩は敗れ、残兵は中山道で高崎に敗走した。高崎藩本陣付近での激戦は午前4時から6時頃まで続いた。この戦いで高崎藩は36名、天狗党4人の戦死者を出した。深手を負い捕えられた高崎藩士は青岩河原で処刑され、翌日、戦死者と共に遺族に引き取られた。また天狗党の戦死者は村内の寺に厚く葬られ、重傷者の中には信州への峠を越えて絶命した者もあった。

http://www.town.shimonita.lg.jp/kyouiku/m02/m06/02.html

といった状況でした。
景員は晩年に『下仁田戦争記』(文林堂、明治43<1910>)という本を書きましたが、後に景員の孫の水原徳言(みはら・よしゆき)が追加の資料と解説を加えて『復刻 下仁田戦争記』(あさを社、1976)を出しています。
そして同書の水原による「戦記随想」に次のような記述があります。(p77以下)

-------
 こうした当時の思い出を私は「たい女」から聞いた。私の母は直次郎景員の娘で、つまり直次郎は祖父、たい子は母の叔母で伊勢崎に住んでいた。幼い頃からいろいろと下仁田戦争の話しを聞いていたので、たまたま私の家に客となったこの母の叔母の物語りを書き留めておいたのである。昭和二年八月のことで、私はそれを夏休みの宿題の作文とした。深井八之丞の書き残した系図を見ると、「女子 宮部襄義貴妻」となっている。宮部襄は後の自由民権の闘士で知られた人であるが、離別して、酒井藩士中村金吾に嫁した。昭和十四年十一月、八十六歳で没したが記憶のよい人で下仁田戦争のことばかりではなく、この兄弟の末子で後に日本銀行総裁から枢密顧問官になった深井英五の幼年時代のことなども伝えている。十七も齢の違う弟なので母代りのように英五を育てたという。
「たい女」の語ることばは今日では聞くことができなくなった旧藩の女子のもので、
「あちらからもこちらからも、鎧の草摺りの音がひたひたと鳴ってまいりまして、それはもう勇ましいものでございました……。」
というような語り口が耳の底に残っているような気がする。私の母の代になると、東京で過したこともあるからそういう古い語り口は失われて聞けなくなっていた。私はこのたい女の物語りに、目のあたり下仁田の戦争を見るような印象をうけて、それまでにも見ていた関係資料などを注意するようになった。
-------

前回投稿で引用したように、萩原進「勇ましき先駆者─宮部襄と群馬県の民権運動」(見田宗介編『明治の群像5 自由と民権』、三一書房、1968)には、

-------
 明治七年(一八七四)白川県に勤務のとき結婚した。二十八歳であった。その相手の名ははつといい、藩中の名門深井本家の娘であった。襄の妻と、盟友の一人であった深井卓爾の妻は姉妹であったから、宮部と深井は義兄弟であった。
-------

とあり、宮部襄の妻の名は「はつ」ですが、水原は「たい」としており、名前が一致しません。
萩原進は群馬県の近現代史の開拓者で驚異的な数の著書を出した人なのですが、さすがに現時点では粗っぽい部分も目立つので、親族である三原徳言の方が正しいのかな、とも思うのですが、かつての武家では女子の結婚に際して名前を変えることはよくあったとの話も聞くので、名前だけで決める訳にも行きません。
また、三原は深井卓爾との関係には触れていません。
どうなっているのか、ちょっと謎です。
なお、水原徳言(1911-2009)はブルーノ・タウトと親交があった人で、群馬県では有名な人です。

「知の巨人・水原徳言が遺したもの」(高崎新聞サイト内)
http://www.takasakiweb.jp/toshisenryaku/article/2010/01/02.html
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「勇ましき先駆者─宮部襄と群馬県の民権運動」

2018-08-02 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 8月 2日(木)23時52分43秒

少し謙虚さを取り戻して、ミルチャ・エリアーデの『世界宗教史』第一巻(筑摩書房、1991)などをパラパラ眺めているところです。
歴史学については、正直、自分の方が故・なだいなだ氏より本を読んでいるのではないかと思っているのですが、宗教学はそうでもなさそうです。
別に宗教学を本格的に学ぼうと思っている訳ではありませんが、常識的なところは押さえておきたいですね。
また、並行して群馬県の自由民権運動についても少しずつ資料を集めています。
こちらは学問的関心というより、深井英五が育った環境を知っておきたいという個人的な興味からやっていることなのですが、備忘のために少しメモしておきます。
7月23日の投稿で触れましたが、群馬県の自由民権運動のリーダーに宮部襄(みやべ・のぼる)という人物がいます。

深井卓爾と「浦和事件」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b10c2c3ee72b4cc805ba7eb59eaf119f

「宮部襄」で検索してみると、日本経済新聞記者の安藤俊裕氏が書かれた「民権家・宮部襄の挫折の跡(遠みち近みち)」という記事が出てきますが、その冒頭には、

-------
 群馬県高崎市の高崎城跡に隣接する柳川町の西側はかつて高崎藩の上級武士の屋敷町だったところである。この町から明治の有力な民権家・宮部襄(のぼる)、キリスト教思想家の内村鑑三、ジャーナリストから国際金融専門家、第13代日銀総裁になった深井英五らが輩出された。
 宮部襄は1847年(弘化4年)、高崎藩家老の子として生まれた。維新後、群馬県警保課長、学務課長、県師範学校長などを歴任。この間、上州と信州の博徒の出入りを仲裁し、博徒らを心服させた逸話を残している。

http://bemshaswing.tumblr.com/post/4769196923/%E6%B0%91%E6%A8%A9%E5%AE%B6%E5%AE%AE%E9%83%A8%E8%A5%84%E3%81%AE%E6%8C%AB%E6%8A%98%E3%81%AE%E8%B7%A1%E9%81%A0%E3%81%BF%E3%81%A1%E8%BF%91%E3%81%BF%E3%81%A1-%E7%89%B9%E5%88%A5%E7%B7%A8%E9%9B%86%E5%A7%94%E5%93%A1-%E5%AE%89%E8%97%A4%E4%BF%8A%E8%A3%95

とあります。
細かいことですが、清水吉二氏の『幕末維新期 動乱の高崎藩』(上毛新聞社、2005)には、

-------
 さて宮部襄の生年月日は、殆どの書物で弘化四年(一八四七)四月八日となっている。しかし、群馬県立文書館にある本人自筆の履歴書では一年遅い嘉永元年戊申四月生まれと記されているので、ここでは自筆履歴書に従うことにした。また、宮部家を家老職の家柄とする論稿(田村栄太郎「上州遊び人風俗問答」、前掲萩原進「勇ましき先駆者」)もあるが、遠祖はともかく幕末、喜右衛門、兵右衛門と続いて家老職を勤めた宮部家は、親戚の宮部義虎、宮部(伊賀)我何人〔かがんど〕兄弟の方で、襄の家は祖父主馬蔵が用人役、父忍(義比)は上等隊長を勤めていた。
-------

とあります。(p74)
宮部襄は殺人教唆の罪で服役していた人ですから裁判・監獄の公的記録がしっかり残っており、それらでは生年が弘化四年となっているので従来説も根拠薄弱どころか相当信頼できるはずなのですが、自筆履歴書との一年のずれはちょっと事情が分からないですね。
ところで、上記引用に記されている萩原進「勇ましき先駆者─宮部襄と群馬県の民権運動」(見田宗介編『明治の群像5 自由と民権』、三一書房、1968)には、

-------
 明治七年(一八七四)白川県に勤務のとき結婚した。二十八歳であった。その相手の名ははつといい、藩中の名門深井本家の娘であった。襄の妻と、盟友の一人であった深井卓爾の妻は姉妹であったから、宮部と深井は義兄弟であった。
-------

とあります。
また、『群馬県人名大事典』(上毛新聞社、1982)の深井卓爾の項には、

-------
深井卓爾 ふかい・たくじ 民権運動家。1857(安政4)~1903(明治36)年。実父は高崎藩士深井資教、養父は深井資信であり、実兄には、民権運動家の深井寛八がいる。宮部襄とは、夫人どうしが姉妹である。【後略】
-------

とあり、萩原進のいう「藩中の名門深井本家」が深井英五の家であれば宮部襄・深井卓爾は共に深井英五の義兄(姉の夫)となるはずです。
ところが、深井英五の兄・景員が書いた『下仁田戦争記』の復刻版の解説に、以上とは若干整合性の取りにくい記述があります。

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