学問空間

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遊女と「公共性」

2010-06-29 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 6月29日(火)01時21分20秒

先の投稿で引用した部分は、著者が「この書物のハイライト」(p19)と言われる「明治における江湖の浮上」の「1 《江湖》新聞の誕生」の冒頭に置かれた次の記述を受けたものです。

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 遊女と言論人─この一見かけ離れた<渡世>を懸け橋することから、議論を始めたい。
 網野善彦以来、中世「公界(くがい)」論は多彩な議論を呼ぶことになったが、その限界は「公界」を実体化した形でしか捉えられなかったところにあった。しかしながら、のちには不特定多数と《交会 Verkehr》する遊女の渡世がもっぱらそう呼ばれたように、「公界」はむしろ、近世に入ってから関係概念としての可能性を見せ始めるのである。言うなれば、実体としての中世自治組織の”敗北”こそが、「公界」の関係概念化をもたらしたのだと言えよう。誤解を恐れず敢えて指摘すれば、共同体の「老若」よりも近世遊女の渡世の方が、その他者(ヘテロ)との関係性においては、はるかに《公共的》と言わねばなるまい。ただ《交通 Verkehr》とは、本質的に痛みを伴うものである。遊女の「公界」の痛みが、やがて「苦界」の語に置き換えられていくとき、「公界」の語そのものは地中に潜行し、別なる脱皮の日を待つことになったのである。
----------

網野善彦氏はやたら遊女が好きで、遊女に変な思い入れがあった人でしたが、東島氏も負けず劣らず遊女好きのようですね。
東島氏の場合、「公共性」概念は「万人に共通のもの」では駄目で、「万人に開かれた領域」でなければいかん、ということをしきりに強調されますが、とすると、prostitute は確かに「公共的」なんでしょうね。
東島氏は「万人に開かれた領域」を常に肯定的に捉えていますが、私はなぜそれが常に良いものなのかが理解できません。
必ずしも自明とはいえないと思いますが。
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市河寛斎

2010-06-29 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 6月29日(火)00時39分56秒

『公共圏の歴史的創造』には、普通の歴史書にはあまり出てこない人物が意外な場所にひょっこり現れますが、そんな人物の一人が市河寛斎です。
p274に次のように書かれています。

---------
 実は詩歌の世界においては、宋末元初の漢詩集『江湖風月集』(松坡宗憩編)が鎌倉末期から愛好されており、近世には俳諧の世界で『江湖』の名を冠する句集が作られるなど、「江湖」世界の伝統があったと見られる。なかでも注目されるのは、近世後期の儒学者で、漢詩革新運動の旗手となった市河寛斎である。天明七年(一七八七)、「昌平啓事」たることを辞職した市河は、七言律詩「矢倉新居作」の第三句で、
  江湖結社詩偏逸
と宣言して、「江湖詩社」を結社している。漢詩結社の呼称として「江湖」が用いられたのは、あるいは『江湖風月集』を参考にしたものと見ることもできよう。だが、市河が前年に発表した『北里歌』をはじめとして、詩社同人たちの間で詠じられたテーマについて、既往の研究が次のように位置づけていることは見逃せない。
  江湖詩社の若き詩人たちにとって遊里詞を詠ずることは、詩風革新における
  実作上の一つの試金石であったかのように思われる。
 この指摘に学ぶならば、ここに設定された「江湖」の眼差しが、遊女の交情の世界、すなわち「公界」渡世へと向けられていることは、「江湖」の《公共的》性格を示すものと言うべきであろう。
---------

私は近世の漢詩の世界など全くわかりませんが、それでも市河寛斎の名前を知っていたのは、この人が群馬県と縁があるからです。
「郷土の偉人」として、次のような感じで紹介されていますね。

--------
市河家は、南牧村大塩沢の出身であり、その生家は今も残っています。市河寛斎は、江戸へ出て昌平廣に入学し、学頭(今で言えば東大総長)までになっています。寛斎は、「寛斎摘草」、「全唐詩逸」三巻などの漢詩文を発行し、高い評価を受けています。

http://www.pref.gunma.jp/cts/PortalServlet;jsessionid=DEAAC8E178C4181E33C59C97A2768883?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=33047

もう少し詳しい記述をネットで探すと、立命館大学のサイト内の「唐詩と日本」に、次のように書かれています。

---------
中国における『全唐詩』の補訂は上述の如く、清末・民国の学者、劉師培の論文がその最初とされ、二〇世紀になって始めて論じられるようになった。清朝の統治が厳しかった時代には、勅編書に疑義を呈することが敬遠されたのであろう。こうした事情もあって『全唐詩』の補遺は、中国よりも我が国の学者が先んじた。江戸時代の学者、市河寛斎(延二年一七四九~文政三年一八二〇)がその人である。

寛斎は上州の人、本名を世寧、字を子静といい、中国人風に河世寧と修姓することがあった。彼は詩に長じ、「江湖詩社」の盟主となって天明から文政に及ぶ漢詩壇に重きをなしたが、また好古の癖を有して考証に秀でた。(中略)

市河斎は安永五年(一七七六)二八歳の時、江戸に出て林家の門人になり、天明三年(一七八三)より七年まで湯島聖堂(昌平黌、後の昌平坂学問所)の学頭に任ぜられたが、寛政二年(一七九〇)異学の禁により教授を辞し、翌年、富山藩儒になった。
---------

ただ、この書き方だと寛斎は28歳まで上州にいたように読めますが、これは変ですね。
確か江戸でずっと生活していて、ちょっとだけ田舎に引っ込み、28歳で再上京したものと記憶しています。
南牧村というのは長野県との県境のとんでもない田舎で、群馬のチベットと言っても過言でない、といったらちょっと過言かな、と思えるような場所です。
そういう大自然豊かなのんびりしたところで28歳まで暮らしたら、さすがに江戸で詩の革新運動の旗手となるのは無理でしょうね。

http://takachi.no-ip.com/cycletouring/2004/tso0411/tso04111.htm
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樋口陽一と廣松渉

2010-06-28 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 6月28日(月)01時05分48秒

『公共圏の歴史的創造』を読み終えました。
東島誠氏が歴史学者として非常に有能な人であることはわかりましたが、発想の基本的なところが私とは全く違うので、どうにも落ち着かない気分ですね。
ま、それはともかく、序章p13には

---------
 これに対して樋口陽一が、あらゆる種類の中間団体を否定してまで力づくで「個人」を析出させたことを強調する、ルソー=ジャコバン型国家とは、いわば国家それ自体を《アソシアシオン》的なものとして仮構するものと言えるだろう。《結社》とは、中間団体というこれを担う実体に本質があるのではなく、個と個の《交通》のかたちを形容する関係概念であることが、ここに明らかになろう。いわゆる国家と自由に関する二つの理念型モデル─<democrate>と<republicain>─は、《結社》の問題に限って言えば、その実体概念を中間団体に措定するか国家に措定するかに決定的な相違があるものの、関係概念として目指すところは必ずしも対立するものではない。
---------

とありますが、樋口陽一氏の名前は何だか懐かしいですね。
私は樋口氏が東北大から東大に移って最初に行った憲法の講義を受講しているのですが、いかにも新進気鋭の学者らしい颯爽たる雰囲気がありました。
当時、私は余り勉強熱心ではなかったので、というか全く不勉強な学生だったので、樋口氏の見解を批判的に検討することはなかったのですが、ずっと時間を置いてから、自分でフランス革命の歴史を少し勉強するようになって以降、「あらゆる種類の中間団体を否定してまで力づくで『個人』を析出させた」ことを肯定的に語る樋口氏に対してはかなりシニカルな見方をしています。

樋口陽一
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8B%E5%8F%A3%E9%99%BD%E4%B8%80
http://www.geocities.jp/stkyjdkt/higuchi.html

また、「第Ⅵ章 明治における江湖の浮上」の冒頭(p259)には、

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 「江湖諸賢」とは何とも古めかしい響きを帯びた語である。それは近代黎明期の文人サロンを髣髴させるものがある。しかるにいまや、「江湖」は死語と言ってよい。だがこの「江湖」は、実は廣松渉が好んで用いた語でもあった。
----------

とありますが、寮で同室だった人が廣松渉の熱烈なファンだったので、これも懐かしい名前です。
新左翼の理論家として一部では有名な人でしたが、東大の教養学部で新入生相手に行っていた哲学史の講義は、ごくオーソドックスな感じでしたね。

廣松渉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%A3%E6%9D%BE%E6%B8%89
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十八世紀学会

2010-06-28 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 6月28日(月)00時12分44秒

今日は土砂降りの雨の中、新潟大学医学部脳研究所で行われた十八世紀学会大会に行ってきました。
私が聴講した発表のタイトルは、

安西信一「趣=味(taste, gout, Geschmack)─味覚と美的判断能力の交錯」
橋本周子「gout 味覚=趣味の問題─ブリヤ=サヴァランを中心に」
堀田誠三「イタリアにおける趣味論の系譜」
松村朋彦「味覚・言葉・愛─近代ドイツ文学と「食」のモティーフ」
奥村彪生「日本料理は俳諧的簡素なる視覚的美味学である」

というもので、私にはなじみのない分野でしたが意外に面白く、最後の討論会まで聞いてしまいました。
こちらは自他共に認めるサロン的な学会だそうで、和気藹々とした雰囲気で進行し、私などもっとバトルがあればいいのにと思いましたが、まあ、こういう世界もあるのだなあ、という感じでした。

十八世紀学会
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsecs/

>職人太郎さん
一つ前のご投稿の「碑伝」ですが、形は確かに板碑と似ているところがありますね。
これも調べはじめると深い世界なんでしょうね。

http://musictown2000.sub.jp/history/hasugehide1.htm
http://blogs.yahoo.co.jp/stjtomo/12733021.html
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『公共圏の歴史的創造』

2010-06-25 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 6月25日(金)01時13分59秒

東島誠氏の『公共圏の歴史的創造』をアマゾンの古書で購入し、少し読んでみました。
実はかなり昔、書店で手に取ったものの、序章の内容がしっくりこなかったので、パスしたことがあります。
今回、『自由にしてケシカラン人々の世紀』を通読してから『公共圏の歴史的創造』を見ると、自説の根拠が明確に書かれているので、一般書である前者よりむしろ後者の方が読みやすいですね。
後で少し感想を書いてみます。

http://www.utp.or.jp/bd/4-13-026602-0.html

>職人太郎さん
>板碑
秩父青石の板碑はスリムですが、越後や東北では分厚い石が「板碑」と呼ばれている例もけっこう多いですね。

http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/42449001.html

>筆綾丸さん
関東地方の板碑の素材についての論文を読んだことがありますが、秩父青石は生産地を中心に相当広く分布しているものの、基本的には埼玉・群馬・東京あたりで、さすがに東北には行っていないと思います。
うろ覚えですが。
福島はおそらく福島の素材なんでしょうね。
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会津の変な五輪塔

2010-06-22 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 6月22日(火)00時12分57秒

下の写真は①松尾真福寺の境内、②長谷川清左衛門墓、③綱沢興国寺「青津家墓所」です。
①の左側の木の陰に②があります。
③は急斜面の興国寺墓地をうろうろ歩き回った挙句、角田論文に「青津家墓所」と出ていた写真とおそらく同じ位置から取った写真なのですが、奇妙なことにこの一画は長谷川家(もちろん②とは全く別)の墓地になっているようで、両者の関係はわかりませんでした。
ま、それはどうでもいいのですが、わざわざ写真を撮ってきたのは、この五輪塔の空輪と風輪が非常に奇妙な形をしているからです。
会津にはこの種の五輪塔が多いですね。
先日、山形旅行の途中で寄った磐梯町の恵日寺にも、こんな五輪塔が山ほどありました。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5502
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「コミューンにおけるアソシアシオンの不在」

2010-06-21 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 6月21日(月)23時43分53秒

東島誠氏は面白いことを言われる方ですね。
『自由にしてケシカラン人々の世紀』p122には、「戦後民主主義の中で育まれた歴史学は<国家からの自由>を論じることはできても、<共同体からの自由>を構想することができなかった」とありますが、「中世自治とソシアビリテ論的展開」(『歴史評論』596号、1999年)を見ると、この点についての説明があります。(p36以下)

----------
 だとすれば日本史家は、ただちに次のような疑問を持つであろう。なぜ筆者は、中世民衆世界の到達点と言われるもの─惣村、町共同体、あるいは惣国一揆等の自治的達成を評価しようとしないのか、と。(中略)

 だが、ここに一つの落とし穴がある。コミューンは地域的な自治組織であるが、アソシアシオン(アソツィアツィオーン)には地域性というものがない。要するに前者は実体概念であり、後者は関係概念として区別されるべきものなのである。このことはすなわち、アソシアシオン関係とコミューンが常に一致するとは限らないことを意味するが、筆者の見るところ、脇田が「コミューン」と呼んだ日本中世の自治組織には、このアソシアシオン的性格が欠けているとしか思えないのである。「一揆」「一味神水」とは、アーレント風に言えば「たった一つの遠近法」を強要することであり、もちろんそれはパブリックではありえない。(中略)

 勝俣鎮夫の「公界としての共同体」論は、このアソシアシオン的性格の欠如という、最も基本的な特質が見えていないという意味で、既往の中世史研究の到達点を示すものとなっている。(中略)

 だが、勝俣「公界」論には、残念ながら更に深刻な論理上の混乱が含まれている。それは、勝俣が「もうひとつの『公』と言う場合の、「もうひとつ」の認識である。勝俣が言うように、たしかにパブリックはオフィシャルとは異質な概念であろう。だが実際に勝俣が「もうひとつ」として見出したものは、異質ではなく、むしろ同質なものなのである。それは単に、オフィシャルな権力に対して<自律性>を有する、「もうひとつの」小さなオフィシャルの形成でしかない。両者の同質性は、江戸幕府の職制に老中や若年寄があり、中世自治組織の老若(年齢階梯制としての「公界」)にも、老中(乙名中)や若衆があるという一事を見ても明らかである。(中略)

既往の中世自治論は、オフィシャルな権力を相対化しようとして、かえって同質の権力形成を賛美してしまっているのである。それはただ「下からの」権力形成であるというナイーヴな理由だけで美化されてしまい、そのことが、あらゆる権力の<かたち>を共同体的に成形している構造(ふつうこれを天皇制と呼んでいる)と共犯関係にあることについては、中世史家の間では疑問すら持たれてこなかったのではあるまいか。
----------

左翼の歴史学者に対しては、非常に痛いところを突いた批判なんでしょうね。
東島誠氏は網野善彦亡き後、弱体化が続く左翼歴史学界を立て直す救世主なのか、それとも歴史に「ないものねだり」をし続ける無邪気な永遠の子供なのか、はたまた戦後民主主義の成果を根絶やしにしようとする現代のロベスピエールなのか。
なかなか興味は尽きないですね。

>大黒屋さん
環境の変化もあって、電子書籍についてはあまり興味を感じなくなりました。
ネットについては多少書きたいこともあるのですが、暫くは地味に歴史の勉強を続けるつもりです。
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綱沢村と松尾村

2010-06-20 | 中世・近世史

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 6月20日(日)03時01分20秒

西会津町の真福寺のことが気になっていたので、再度訪問したところ、先日の疑問はあっさり解決しました。
石段を上がって本堂の左にポツンと普通の墓があり、それが昭和二年造立の長谷川清左衛門の墓でした。
先日もその存在には一応気づいていたのですが、特別な印象を与えるものでもなかったので、しっかり見ていませんでした。
改めて観察すると、その表面には「誠高院殿治徳明賢清大居士」、右側面には「昭和二 丁未 年旧四月八日 営 松尾部落」、左側面には「元和五 己未 年 八月廿一日亡 男 長谷川清左衛門」とありました。
非常に立派な戒名であり、普通だったらよっぽどお布施を出さないと、こんな戒名はつけてもらえないでしょうね。
四月八日、お釈迦様の誕生日にわざわざ造立している点も注意すべきなんでしょうね。
ついで旧綱沢村にも行ってみましたが、こちらは谷川沿いのあまり日当たりが良くなさそうな集落で、鉄火を取った青津次郎右衛門の墓のある興国寺も小さな寺でした。
更に鉄火裁判が行われた野沢本町の諏訪神社にも行きましたが、ここは高い杉の木立の中の落ち着いた良い神社でした。
さて、町内の図書館で清水著『日本神判史』に紹介されていた角田十三男「『新編会津風土記』に見られる西会津に起きた山境争いの鉄火裁判」(『西会津史談』第2号、1999年)を閲覧したところ、

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一、事件の発端
 綱沢村・松尾村(現西会津町)との山野の境は不明確であった。特に綱沢山麓の横沢地区で通称「日影平」は、両村とも自分の村に帰属すると、お互いが長年に渡って利用して来ていた。
 ところが、元和五年(一六一九)一月二三日、綱沢村の村人が「日影平」で木々の伐採をしていたところ、松尾村の村人が来て中止を命じ、無理やり鉈を奪い取った。翌二四日、これを綱沢村に奪い返されたことに端を発し、やがて二月九日松尾村が「大勢の村人が集まって、法螺貝を吹鳴らし、采(さい)を振り回し」ながら山の境界「横沢谷」を踏み越えてきた。これを見た綱沢村は、最初二名の使いを現場に派遣したが帰って来ないので、更に三名を出したところ松尾村は、その使者達をも散々に打擲し、その使者の内、二名は今日・明日にも死亡するかもしれない怪我を負った。
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とあります。
どうも人口が多くて土地も豊かな松尾村の方が、最初、勢を頼んで相当強引なやり方をしたようですね。
綱沢村は会津藩に提訴し、藩では円満な解決を図るため、検使を「日影平」一帯に派遣して調査したものの、裁定を下すことはできず、結局、次のような経過をたどったそうです。

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 このため会津藩は、これが解決策として同年七月に松尾・綱沢両村に対して
①いままで調査したが両村の境目は明らかにならない。この上は、「鉄火之可為勝負」によって理非を決することになり、敗者は「御成敗」を受けることになる。
②然し、双方とも山林に乏しくないのだから、藩としては「山境目令指図候て此通ニ境目相立」と論所の「日影平」を立入禁止区域と決めるからそれに従う方法もある。
という中世的な鉄火裁判と「山境目令指図」とする近世的な調停案の二つを提示した。
 然し、松尾・綱沢両村は、この藩の調停案には納得せず、最終的に「敗者は御成敗」の処分も覚悟の上、神判「鉄火取り」の裁きによって理非を決定する方法を選択したのである。
----------

立入禁止区域云々の部分、解釈が正しいのか良く分かりませんが、とにかく、負けた側が「御成敗」されることについては、両村の代表者は事前に了解していた訳ですね。
まあ、「御成敗」は納得していたとしても、首・胴・足を斬られて、自分の体で境界線の役目を果たすことまで納得していたかどうかははっきりしませんが。
このあたりの、現代人にとってはかなり残酷な感覚は、まだまだ戦国の気風が残っていた、ということなのでしょうか。
ちなみに角田論文に付記された地図によると、首・胴・足塚は鳥屋山(とやさん)の西方、磐越自動車道の鳥屋山トンネルの北側に点在しています。

鳥屋山
http://www.asahi-net.or.jp/~qy5s-sozk/toya/toya.htm

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後醍醐天皇は「変態」ですか?

2010-06-18 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 6月18日(金)23時24分54秒

>筆綾丸さん
地味な論文を読みたい心境だった今日この頃ですが、大黒屋さんのお墨付きもあったので『自由にしてケシカラン人々の世紀』を購入し、パラパラ読み始めてみました。
確かに斬新な本だと思いますが、反面、微妙な違和感を感じる部分も多いですね。
併せて読んでみた「中世自治とソシアビリテ論的展開」(『歴史評論』596号、1999年)で、何となく違和感の原因が掴めてきたので、もう少しいろいろ見てから書こうと思います。
「後醍醐天皇とは変態性欲の持ち主であり、かなりアブノーマルな人物であった」という記述(p39)については、ちょっと賛成できないですね。
ま、網野氏が言っていることを単純化しただけなので、この本の価値にはあまり影響を与えない部分ですが。
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革島ジョアン

2010-06-16 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 6月16日(水)00時28分5秒

『宗教で読む戦国時代』から、興味深い人物について抜書きしておきます。(p164)

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 「革島ジョアン」というキリシタンは「異教徒」と、相手の宗派の欺瞞についてどこでも論争していた。ある時同僚らと連れ立って、参詣者を集め、「異教徒」の崇敬を受ける「西宮」という寺院に参詣した。その際同僚たちから「貴殿はあのような邪悪な信仰に帰依し、神への罰当たりな言動をしているから罰を受けずにはいないだろう」とからかわれ、「死人や、木石にすぎない彫像のどこが恐ろしいものか。悪魔を表わすに過ぎない彫像を崇敬することが如何に馬鹿げたことかを教えるから、予の崇敬の仕方を見るがよい」というとその「偶像」の頭に上って排尿し、人々の憤激を買った(『日本史』第一部第七七章)。
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『フロイス 日本史4』(中央公論社、松田毅一・川崎桃太訳、昭和53)を見ると、革島ジョアンは「数日前」に洗礼を授けられた「若い貴人」であり、三好三人衆のうち「司祭とキリシタンたちに好意を示した唯一の人である(三好)日向殿の甥」で、「当時十八歳くらいの青年で、父親から多額の封禄を相続することを目論んでいた」人物だそうです。
また、事件を起こした場所は「西宮という非常に大きな神社(テンプロ)」とのことです。
同書p74の注(23)には、

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 この表現であると、西宮神社、すなわち西宮市社家町の著名な西宮戎を指すことになるが、以下の記事について『西宮市史』の編者は「この寺院というのは、どの寺院であろうかなどとせんさくするには及ぶまい。こういう事実がまったくなかったとはいいきれないが、最も尊崇された寺院でかようなことがおこなわれたというのは、いささか誇張にすぎるといえよう」(二ノ三、四ページ)と述べている。けだし同感というほかはない。
---------

とありますが、なぜ「誇張」と判断するのか、理由が書いてないですね。
権力者との密接なコネを持つ十八歳の倣岸不遜な若者が、自分の宗教的信念を誇示する場所としては「最も尊崇された寺院」こそふさわしいはずですが、キリシタンのこのような一面をあまり見たくない人は、何とか過少に評価したいと思うようです。

西宮戎
http://www.decca-japan.com/nishinomiya_ebisu/
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「宗教的要求は階級的要求の前近代的表象」

2010-06-15 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 6月15日(火)00時44分7秒

神田千里氏の「宗教一揆としての島原の乱」(『東洋大学文学部紀要』史学科編第30号、2005年)の「はじめに」には次の記述があります。

-----------
 島原の乱においてキリシタン信仰が大きな役割を果たしたことは自明のことと考えられるかも知れない。(中略)
 しかし島原の乱の、宗教一揆の側面については既に幾つかの指摘がなされているものの、その具体像の解明は十分ではないと思われる。島原の乱の性格について、従来の研究では①禁教に抗するキリシタン一揆、②重税に抗する農民一揆、③両者の融合、との見解が提示され、そのうち②が定説的地位を占めてきたために、信仰の検討は副次的な課題とみなされてきた。さらに島原の乱が「宗教的色彩をもとうともつまいと、それが階級矛盾の激化」であり「宗教的要求は階級的要求の前近代的表象」と断ずる見解の影響によって、この傾向は増幅されてきたと考えられる。
-----------

注によると、「宗教的要求は階級的要求の前近代的表象」との見解は深谷克己氏の「『島原の乱』の歴史的意義」(『歴史評論』201、1967年)に出ているそうですが、これは平泉澄氏の「百姓に歴史はありますか。豚に歴史はありますか」に匹敵するハイレベルの断言であり、名文句ですね。
深谷氏のような史的唯物論の理論家の知性のタイプと、宗教に深い理解を持つ思想家の知性のタイプは相当異なるような感じがしますが、黒田俊雄氏はおそらく両者を併せ持った稀有な例なんでしょうね。
それが可能だった一因としては、真宗王国富山に生まれ、特に母親が浄土真宗のお寺さんの娘だったという背景があるように思います。
黒田氏は非常に懐が深い感じがするので、多くの人が親しみを感じて近づいて行くのでしょうが、その中心部で峻厳な革命家の相貌に触れると、ちょっとついて行けないなと感じる人も多いでしょうね。

>大黒屋さん
本名だと私も妙に気を使ってしまうので、どうぞハンドルでお願いします。
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西会津町の松尾山真福寺

2010-06-14 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 6月14日(月)07時29分46秒

『日本神判史』の「はじめに─残酷すぎる伝説─」に次のような記述があります。

---------
 一方、負けた側の松尾村の清左衛門は、その後どうなったのだろうか。近江の事例では負けた角兵衛側の伝承は何ら残されていなかったが、この会津の事例は敗者の側の伝承が強烈である。まず『新編会津風土記』によれば、鉄火裁判に負けて、その場でショック死してしまった清左衛門の遺体はバラバラに切り刻まれ、その遺体は新しく決定した両村の境界線上に首・胴・足を三ヶ所に分けて埋められ、以後、その三つの塚が両村の境界の目印にされたという。何とも信じがたいグロテスクな話である。しかし、この話は現在もこの地域の人々のあいだで語り継がれており、現に綱沢山の山腹にはいまも高いところから順に清左衛門の足塚・首塚・胴塚が点在しており、その順番が通常の首→胴→足の順番になっていないのは、鉄火裁判の敗者への懲らしめとしての意味があったという話も地元ではまことしやかに語り伝えられている(斉藤氏は、この理解には懐疑的である)。また、現在、松尾村の真福寺と綱沢山の三つの塚の上には昭和二年(一九二七)の銘文のある長谷川清左衛門の供養碑が建てられている(写真参照)。これは、大正末年に松尾村で村の肝煎がなぜか若死にする例が相次いだおり、ある村人の夢枕に長谷川清左衛門の霊が現れ「こうなったのは、村のために死んだ私を弔わないからだ」と訴えるということがあり、これをきっかけに清左衛門の供養のために造立されたのだという。
---------

昨日、山形からの帰りにこの記述を思い出して、ちょっと寄ってみようと思い、「真福寺」という寺名の記憶だけを頼りに磐越自動車道の西会津インターを降りて探してみたのですが、私のカーナビには登録されていなくて、探すのにけっこう苦労しました。
そして実際に訪問してみたら、最近無住になったのか、少し荒れていましたね。
墓地など、草茫々でした。
不思議なのは清水著に「長谷川清左衛門の墓(福島県耶麻郡西会津町松尾、真福寺内)」とのキャプションつきで載っていた立派な石造物が見当たらなかったことで、寺の上方の「松尾神社」のあたりまでそれなりに丁寧に歩いてみたのですが、所在場所自体が分かりませんでした。
付近には草に覆われた空き地(休耕田?)がけっこう多かったので、あるいは清水氏訪問時には地元の人が「東京の有名な大学の先生が来るそうなので、草を刈っておこうか」てな感じで綺麗にしたのかな、などと思ってしまいました。


松尾真福寺の寺宝
http://f32.aaa.livedoor.jp/~katumi/hurusatowotazunete/nisiaidumati%203.htm

真福寺には、多くの寺宝とされるものが保存されている、なかでも源頼朝の妻尼将軍(北条政子)の直筆とされる「大般若波羅密多経」や、その制作年を室町時代後期のものと見られる鞍と鐙も保存されている。
それに禅僧良寛の筆になる扁額がある。この扁額は裏山の松尾神社に奉納されたものと思われるもので、「松尾大明神」なる額がそれである。

良寛書「松尾大明神」
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Tachibana/1290/Temari/temari506.html

名倉山酒造-蔵主紹介
http://www.kuramotokai.com/kikou/15/governor
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会津若松にて

2010-06-11 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 6月11日(金)23時34分48秒

仕事ではないのですが、ちょっとした事情で会津若松に来ています。
せっかく来たので、明日は久しぶりに裏磐梯から山形方面を回ってみるつもりです。

Wallerstein氏のブログでは、真面目な議論の中に「黒田農園のチューリップ」といった表現が出てきて、適当な思いつきで書いた私としては少し気恥ずかしいですね。

>筆綾丸さん
そのWallerstein氏がハンドルの由来なんでしょうね。
「世界システム論」については私も勉強不足で、あまり理解していません。

『 The Documents of Iriki 入来文書』は私も一度図書館でざっと見たことがあります。
矢吹晋氏は福島県郡山市の出身で、二本松出身の朝河貫一が日本の歴史学界において正当な評価を得ていないと義憤を感じておられるようですね。

「朝河貫一博士顕彰協会」のウェブサイトには「薩摩仙台「入来」を訪ねる旅」の案内がありますが、少し心が動きますね。

http://www20.big.jp/~asayale/
http://www20.big.jp/~asayale/news-yotei.htm
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黒田農園のチューリップ

2010-06-10 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 6月10日(木)00時19分24秒

「我が九条-麗しの国日本」というブログで、「史的唯物論」に立脚するWallerstein氏が、「権門体制論を理解する鍵は、マルクス主義にある」と強調されてますね。
別に皮肉な意味ではなく、私はWallerstein氏の見解が黒田俊雄氏自身の権門体制論の理解としてはおそらく正しいのだろうと思いますし、今谷明氏批判も正当だろうなと思います。
ただ、Wallerstein氏の見解を前提にすると、困るのは権門体制論の批判者ではなく、むしろマルクス主義に賛同せず、「史的唯物論」に立脚しないにもかかわらず、自分は権門体制論者だと思っている方々でしょうね。
これらの方々は、「権門体制論の亜流、もっと言えば似て非なるもの」となってしまいますね。
しかし、黒田俊雄氏を指導者とする権門農業協同組合の組合員の方々が生産してきた数多くのチューリップは、「史的唯物論」派か否かを問わず、質量とも非常に豊かですね。
「史的唯物論」派でなくとも、美しいチューリップを咲かせることのできた理由は何だったのか。
「史的唯物論」派以外の方に、黒田農園の肥沃な土壌の秘密を教えてもらいたいものです。

http://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/
http://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/20100606
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国家と宗教

2010-06-09 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 6月 9日(水)23時13分39秒

『宗教で読む戦国時代』の「あとがき」で、神田千里氏は、

---------
 学生時代に卒業論文のテーマと決めて以来、一向一揆について自分なりの研究を続け、一〇年ほど前にささやかな成果をまとめていた筆者は、その後ある偶然のきっかけから島原の乱について調べることに夢中になった。四年前の小著執筆はその結果なのであるが、通常は同じように宗教一揆といわれ、等しく宗教や民衆の信仰と密接にかかわる事件と見られている一向一揆と島原の乱とが、ずいぶん違って見えるという感想を懐くようになったのである。(中略)
 ひとしなみに宗教一揆の語で括られてきた一向一揆と島原の乱とを宗教全体の中の適切な配置において考えてみたい、と思ったのが本書の執筆をお引き受けした主な動機であった。
---------

と書かれていますが(p229以下)、神田氏はキリシタンとの比較研究を開始して以降、ずいぶん短い期間の中で、なんだかすごい地点にまで到達されているんですね。
「国家と宗教-むすびにかえて」の「制度的、社会組織的な基礎なしに『みえない国教』が存在しうる」、「国家は、じつは通常考えられているレベルをはるかに超えて、宗教的な現象なのではないか」(p214)といった指摘は、正直あまり理解できていないのですが、きちんと勉強してみたいなあ、という気持ちにさせられます。
暫くの間、神田千里氏の著作をまとめて読んでみるつもりです。

>筆綾丸さん
『中世民衆の世界』、早速購入してみます。

>平等寺薬師堂
これですね。

http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/31965996.html
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