坂田孝一氏は慈光寺本に描かれた藤原秀澄像に加え、山田重忠が藤原秀澄に大胆な鎌倉攻撃案を提示し、秀澄がそれを拒絶したことも史実と考えておられるようで、これは相当に珍しい立場ですね。
重忠案の考察は(その16)で引用した部分の直前にありますが、秀澄の立場を理解しておかないと分かりにくいところがあるので、少し前から引用します。(p172以下)
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迎撃する京方
承久三年(一二二一)六月三日、鎌倉方が遠江国府に着いたとの報を受け、公卿僉議が開かれ、北陸・東山・東海山道に藤原秀康を追討使とする軍勢の派遣が決められた。陣容は『吾妻鏡』と「慈光寺本」とで相違もあるが、おおよそ以下の通りと考える。
【中略】
藤原秀康・秀澄兄弟ら院近臣の武士、大内惟信、佐々木広綱、五条有長、小野盛綱、三浦胤義ら有力な在京御家人、源翔のような西面の武士、山田重忠・重継父子、蜂屋、神地、内海、寺本、開田、懸橋、上田といった美濃・尾張の武士で構成された軍勢である。「慈光寺本」はその総数を、鎌倉方の十分の一程度、「一万九千三百廿六騎」とする。
ところが、「海道大将軍」の藤原秀澄は、このうちの「山道・海道一万二千騎」を「十二ノ木戸ヘ散ス」、つまり十二ヵ所の防衛用の柵に分散させる戦術を取ったという。当然、各木戸の兵力はさらに少なくなり、明らかに失策であった。こうした戦術の選択について、「慈光寺本」も「哀レナレ」と批判的に叙述している。
また、後鳥羽は軍事力の増強を図って、武士以外の動員も始めた。宮田敬三氏は、六月になると、追討宣旨を発して官軍を下向させただけでなく、「在京・在国の武士や荘官、寺社、公家の兵力を召集した」とする。ただ、「近国御家人や寺社勢力の参陣拒否」「荘官等の本意ではない参戦」などが相次ぎ、十分な兵力を集めることはできなかった。
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いったん、ここで切ります。
六月三日の公卿僉議云々の話は『吾妻鏡』同日条に、
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関東大将軍著于遠江国府之由。飛脚昨日入洛之間。有公卿僉儀。為防戦。被遣官軍於方々。仍今暁各進発。【後略】
https://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm
重忠案の考察は(その16)で引用した部分の直前にありますが、秀澄の立場を理解しておかないと分かりにくいところがあるので、少し前から引用します。(p172以下)
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迎撃する京方
承久三年(一二二一)六月三日、鎌倉方が遠江国府に着いたとの報を受け、公卿僉議が開かれ、北陸・東山・東海山道に藤原秀康を追討使とする軍勢の派遣が決められた。陣容は『吾妻鏡』と「慈光寺本」とで相違もあるが、おおよそ以下の通りと考える。
【中略】
藤原秀康・秀澄兄弟ら院近臣の武士、大内惟信、佐々木広綱、五条有長、小野盛綱、三浦胤義ら有力な在京御家人、源翔のような西面の武士、山田重忠・重継父子、蜂屋、神地、内海、寺本、開田、懸橋、上田といった美濃・尾張の武士で構成された軍勢である。「慈光寺本」はその総数を、鎌倉方の十分の一程度、「一万九千三百廿六騎」とする。
ところが、「海道大将軍」の藤原秀澄は、このうちの「山道・海道一万二千騎」を「十二ノ木戸ヘ散ス」、つまり十二ヵ所の防衛用の柵に分散させる戦術を取ったという。当然、各木戸の兵力はさらに少なくなり、明らかに失策であった。こうした戦術の選択について、「慈光寺本」も「哀レナレ」と批判的に叙述している。
また、後鳥羽は軍事力の増強を図って、武士以外の動員も始めた。宮田敬三氏は、六月になると、追討宣旨を発して官軍を下向させただけでなく、「在京・在国の武士や荘官、寺社、公家の兵力を召集した」とする。ただ、「近国御家人や寺社勢力の参陣拒否」「荘官等の本意ではない参戦」などが相次ぎ、十分な兵力を集めることはできなかった。
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いったん、ここで切ります。
六月三日の公卿僉議云々の話は『吾妻鏡』同日条に、
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関東大将軍著于遠江国府之由。飛脚昨日入洛之間。有公卿僉儀。為防戦。被遣官軍於方々。仍今暁各進発。【後略】
https://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm
とあるのを受けていますが、慈光寺本にはそのような記述はありません。
慈光寺本では日次不明のまま、後鳥羽院の「宣旨」(ただし、文書ではなく口頭の指示)を受けて「能登守秀康」が「手々ヲ汰テ分ラレケリ」と、秀康による第一次軍勢手分が行なわれます。
そして、やはり日次不明のまま、「海道大将軍河内判官秀澄」が「美濃国垂見郷小ナル野」にて、第二次軍勢手分を行います。
これに対する慈光寺本作者の評価が、「山道・海道一万二千騎ヲ十二ノ木戸ヘ散ス事コソ哀レナレ」です。
なお、実際に数えてみると、十二ではなく十箇所ですね。
慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その3)─「3.藤原秀康の第一次軍勢手分 21行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/43e09e10a4bab75dd2a1b0608e586a02
慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その4)─「4.藤原秀澄の第二次軍勢手分 8行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ac009c41b0fbb326d6d86e08d08b17e1
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ac009c41b0fbb326d6d86e08d08b17e1
さて、続きです。(p174以下)
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積極策と消極策
一方、北条時房は遠江国の橋本の宿に進んだ。ここで「慈光寺本」は、京方に付いた主人小野盛綱に合流しようと抜け出した安房国の筑井高重を遠江国の内田党が打ち、時房が「今度ノ軍ニハヤ打勝タリ」と軍神に鏑矢を奉った鎌倉方のエピソードを叙述する。
重忠の戦術とは、十二ノ木戸に分散させた山道・海道一万二千騎を一つにまとめ、墨俣から長良川・木曽川を渡って尾張国府に攻め寄せ、次いで遠江国橋本の宿にいる北条時房・同泰時を打ち破り、そのまま鎌倉に押し寄せて北条義時を討ち取った上、北陸道へ廻って北条朝時をも討ち果たすという勇猛果敢な積極策であった。ところが、「天性臆病武者」の秀澄は、北陸道軍の朝時や東山道軍の武田・小笠原に挟撃される危険があるとして重忠の策を用いず、墨俣で鎌倉方を迎え撃つ消極策を選択する決断をした。鎌倉方が大江広元・三善康信の策を採用し、迎撃から出撃に戦術を変えたのとは対照的である。確かに重忠の積極策が功を奏するかどうか、この時点で未来の予測はつかない。しかし、結果的に、秀澄の選択・決断によって京方は戦況を打開するチャンスを自ら手放すことになった。
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ということで、「結果的に、秀澄の選択・決断によって京方は戦況を打開するチャンスを自ら手放すことになった」ですから、坂田氏は慈光寺本に描かれた重忠の鎌倉攻撃案の提示と、秀澄によるその拒絶を史実と考えておられる訳ですね。
しかし、私には、そもそも秀澄がどのような資格・権限で、そのような「選択・決断」をしているのかがさっぱり分かりません。
慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その5)─「6.山田重忠の鎌倉攻撃案 13行(☆)」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/11bd548f267504af6f410448505046cb
慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その6)─「7.山田重忠による鎌倉方斥候の捕縛 21行(☆)」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1fd1b7079d0d81e42108817de26ef9d6
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1fd1b7079d0d81e42108817de26ef9d6
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