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「巻九 草枕」(その12)─前斎宮と西園寺実兼・二条師忠(後半)

2018-03-31 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月31日(土)14時44分20秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p227以下)

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 大納言はこの宮をさしてかく参り給ひけるに、例ならず男の車よりおるるけしき見えければ、あるやうあらんと思して、「御随身一人そのわたりにさりげなくてをあれ」とて留めて帰り給ひにけり。男君はいと思ひの外に心おこらぬ御旅寝なれど、人の御気色を見給ふも、ありつる大将の車など思しあはせて、「いかにもこの宮にやうあるなめり」と心え給ふに、「いと好き好きしきわざなり。よしなし」と思せば、更かさで出で給ひにけり。
 残し置き給へりし随身、このやうよく見てければ、しかじかと聞えけるに、いと心憂しと思して、「日頃もかかるにこそはありけめ。いとをこがましう、かの大臣の心の中もいかにぞや」とかずかず思し乱れて、かき絶え久しくおとづれ給はぬをも、この宮には、かう残りなく見あらはされけんともしろしめさねば、あやしながら過ぎもて行く程に、ただならぬ御気色にさへ悩み給ふをも、大納言殿は一筋にしも思されねば、いと心やましう思ひ聞え給ひけるぞわりなき。
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【私訳】西園寺大納言は前斎宮の所を目指してこのように参られたのだが、いつもと違って男が車から降りる様子が見えたので、何か事情があるのだろうと思われて、「御随人一人、その辺で何気ない様子で見張っていよ」といって、御随人を置いて帰られた。師忠公は本当に意外な、気の進まない御旅寝ではあるが、前斎宮の御様子をお見受けするにつけても、また先程の大将の車のことなどを思い合わせてみて、「どうも(実兼は)この宮とわけがあるようだ」と合点されると、「(それと知ってこんなことをするのは)本当に好色なしわざだ。つまらないことだ」と思われたので、夜が更けないうちに退出された。
 西園寺大納言が残して置かれた随人は、この様子をよく見て「かくかくしかじかでございます」と言上したので、西園寺大納言は大変情けなく思われて、「日頃もこうであったのだろう。何とも馬鹿な目にあったものだ。あの大臣の心の中もどうであろう」と様々に思い乱れられて、その後は長い間全く訪れがないのをも、この宮の方では、あんなにまですっかり見られてしまったともご存じないので、不思議に思いながら過ぎて行くうちに、宮が懐妊の御様子で悩んでおられるのをも、西園寺大納言は、宮の相手が自分一人とも思われないので、このことを極めて不快なことにお思い申し上げるのも、いたしかたのないことであった。
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ということで、何と感想を言っていいのか分からないシュールな展開です。
二条師忠の役割はこれでお終いで、この後に西園寺実兼のみが登場する若干の後日談があります。

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 さすれどもさすが思しわく事やありけむ、その御程のことども、いとねんごろにとぶらひ聞えさせ給ひけり。こと御腹の姫宮をさへ御子になどし給ふ。御処分もありけるとぞ。幾程無くて弘安七年二月十五日宮かくれさせ給ひにしをも、大納言殿いみじう歎き給ふめるとかや。
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【私訳】しかしやはり(自分の子と)思い当たられることがあったのであろうか、お産のときのことなども、たいそう心をこめてお世話申し上げたのであった。別の御腹に出来た姫君をまでもこの宮の御子になどなされた。財産の御分配もあったということだ。前斎宮はそれから幾らも経たないうちに、弘安七年(一二八四)二月十五日に亡くなられたのを、西園寺大納言はたいそう嘆かれたということである。

ということで、これで前半は『とはずがたり』を圧縮し、後半は『増鏡』独自の全く新しいエピソードを追加した前斎宮をめぐる三角・四角関係の物語は終わりです。
西園寺実兼(1249-1322)はまだしも、二条師忠(1254-1341)は何とも奇妙で滑稽な役回りですが、『増鏡』の作者を師忠の子孫・二条良基(1320-88)とする通説、また丹波忠守作・二条良基監修説の人々は、『増鏡』作者が二条師忠にこのような役回りをさせていることをどのように考えているのか、私はかねてから疑問に思っています。
ただ、『増鏡』と『とはずがたり』の作者が同一人物と考える私の立場からも、「巻九 草枕」では、何故に前斎宮をめぐるこのような長大な、そして全く歴史的意義がないエピソードが延々と綴られるのか、という疑問は残ります。

二条師忠(1254-1341)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%B8%AB%E5%BF%A0
二条良基(1320-88)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E8%89%AF%E5%9F%BA

なお、上記部分の井上宗雄氏による現代語訳はリンク先にあります。

『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6d25d5d082f4bcb4b7482904bece4143

また、井上宗雄氏は「この実兼らとの関係は何によったのかわからない。小説的な話のようでもあるが、照明なども乏しい往時には、こういう悲喜劇も間々あったのであろう」と述べられていますが(『増鏡(中)全訳注』、p233)、問題の本質は照明の有無ではなかろうと私は思います。

「照明なども乏しい往時には、こういう悲喜劇も間々あった」(by 井上宗雄氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d91c005892d36c602ab1c0805bceb914

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「巻九 草枕」(その11)─前斎宮と西園寺実兼・二条師忠(前半)

2018-03-31 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月31日(土)12時17分29秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p226以下)

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 その後も、折々は聞え動かし給へど、さしはへてあるべき御ことならねば、いと間遠にのみなん。「負くるならひ」まではあらずやおはしましけん。
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【私訳】その後も時々はお手紙などをさし上げて、前斎宮のお心を動かされがが、わざわざお会いになるなどは、なかなかできない事なので、たいそう疎遠になっていったのであった。「激しい恋の思いには、人目を忍ぼうとする心も負けるものなのだ、と言われているが、それほどまでの御執心ではなかったのだろう。

ということで、「負くるならひ」は『伊勢物語』(六十五段)の歌、「思ふには忍ぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ」に拠ります。
『とはずがたり』では、後深草院は異母妹の前斎宮を、美人ではあるけど予想に反してつまらない女だったとして、一夜限りの関係で終わらせてしまいますが、その後、二条の助言に従って、年内にもう一度だけ逢う場面が設定されています。

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その11)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c06bf622f776f24eba7e35847774a8da

しかし、『増鏡』では後深草院が二夜続けて関係を持った上で、その後は時々手紙を送っただけで終わったものとしています。
そして、後深草院に代って西園寺実兼が新しい愛人として登場します。

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 あさましとのみ尽きせず思しわたるに、西園寺の大納言、忍びて参り給ひけるを、人がらもきはめてまめしく、いとねんごろに思ひ聞こえ給へれば、御母代の人なども、いかがはせんにて、やうやう頼みかはし給ふに、ある夕つ方、「内よりまかでんついでに、又かならず参り来ん」と頼め聞こえ給へりければ、その心して、誰も待ち給ふ程に、二条の師忠の大臣、いと忍びてありき給ふ道に、彼の大納言、御前などあまたして、いときらきらしげにて行きあひ給ひければ、むつかしと思して、この斎宮の御門あきたりけるに、女宮の御もとなれば、ことごとしかるべき事もなしと思して、しばしかの大将の車やり過してんに出でんよ、と思して、門の下にやり寄せて、大臣、烏帽子直衣のなよよかなるにており給ひぬ。
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【私訳】前斎宮は後深草院と疎遠になったことを何とも情けないとに思い続けておられたところ、西園寺大納言(実兼)が忍んで通って来られるようになった。西園寺大納言は人柄もこのうえなく誠実で、前斎宮をとても大切に思い申されるので、母代りとなっている方も、仕方があるまいということで、次第に深く頼りにしておられた。そして、ある夕方、西園寺大納言が「宮中から退出するついでに、また、必ず伺いましょう」とお約束申し上げて、あてにおさせ申してあったので、前斎宮の方でもそのつもりで誰もがお待ちしていると、たまたま大臣二条師忠公が、全くのお忍びでお歩きになっておられる途中、あの西園寺大納言が御前駆などを多く整えて、とても花やかな様子で来られるのに出会われたので、面倒だと思われて、ちょうどこの前斎宮の邸の御門が開いていたので、女宮のお住まいだから、ちょっと立寄ったところで、そうたいしたことはあるまいとお思いになって、しばらく身を隠して、あの大将(実兼)の車をやり過ごした後で、ここから出ようと思われて、ご自分の車を門の下に引き寄せて、師忠公は烏帽子直衣の柔かい服装でお降りになった。
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ということで、後深草院があっさり離れてしまった後、前斎宮には西園寺実兼という新しい愛人が出来て、それなりにうまく行っていたところに二条師忠が登場します。

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 内には大納言の参り給へると思して、例は忍びたる事なれば、門の内へ車を引き入れて、対のつまよりおりて参り給ふに、門よりおり給ふに、あやしうとは思ひながら、たそがれ時のたどたどしき程、なにのあやめも見えわかで、妻戸はづして人のけしき見ゆれば、なにとなくいぶかしき心地し給ひて、中門の廊にのぼり給へれば、例なれたる事にて、をかしき程の童・女房みいでて、けしきばかりを聞こゆるを、大臣覚えなき物から、をかしと思して、尻につきて入り給ふ程に、宮もなに心なくうち向ひ聞こえ給へるに、大臣もこはいかにとは思せどなにくれとつきづきしう、日頃の心ざしありつるよし聞えなし給ひて、いとあさましう、一方ならぬ御思ひ加はり給ひにけり。
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【私訳】前斎宮の方では西園寺大納言が来られたのだと思われて、いつもは忍んでお出でになることとて、門の内に車を引き入れて対の屋の端のほうから車を降りていらっしゃるのに、今日は門の所でお降りになるのを変だとは思いながら、夕暮時のはっきりしないころで、何の見分けもつかなかった。(師忠公は)妻戸のかけがねを外して自分の来訪を待ち受けている人の気配がするので、何となく不思議なお気持ちになられ、中門の廊へ上られると、いつもの慣れたことなので、可愛らしい童や女房が現われ、形ばかりお迎えの口上を申すのを、大臣は思いがけないことだが興あることに思われて、その後について奥にお入りになった。前斎宮も何心なく対座申されたので、大臣はこれはいったいどうしたことかとは思われたが、何やかやとこうした場合にふさわしく、これまでずっとお慕い申し上げていたなどとうまく申し上げなさって、(そこで前斎宮も間違いに気づき)本当に驚いて、一方ならぬお悩みが加わりなさったのであった。

ということで、何とも奇妙な展開となります。
この話も『とはずがたり』には全く存在せず、『増鏡』が独自に創作した部分です。

なお、上記部分の井上宗雄氏による現代語訳はリンク先にあります。

『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/63e01f197758952dbbce5da971f4a727
『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6984d0e5c497123d2681603d4982983

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「巻九 草枕」(その10)─前斎宮と後深草院(第三日の夜)

2018-03-30 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月30日(金)11時20分44秒

続きです。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p217以下)

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 こたみはまづ斎宮の御前に、院身ずから御銚子を取りて聞こえ給ふに、宮いと苦しう思されて、とみにもえ動き給はねば、女院、「この御かはらけの、いと心もとなくみえ侍るめるに、こゆるぎの磯ならぬ御さかなやあるべからん」とのたまへば、「売炭翁はあはれなり。おのが衣は薄けれど」といふ今様をうたはせ給ふ。御声いとおもしろし。
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【私訳】今度はまず斎宮の御前に、院が御自身で御銚子を取ってお酒をおつぎになると、斎宮はとても心苦しく思われて、直ぐには手をお出しになれないので、大宮院は「このお杯はまことにおぼつかなく見えるようですが、古い歌謡の「こゆるぎの」ではありませんが、食べ物以外に何か良いお肴がありそうなものですが」とおっしゃるので、院は「売炭の翁はあはれなり……(炭を売る翁は哀れだ。自分の衣は薄いけれど)」という今様をお歌いになる。そのお声がとても面白い。

ということで、『とはずがたり』では後深草院の歌った今様は「売炭の翁はあはれなり、おのれが衣は薄けれど、薪をとりて冬を待つこそ悲しけれ」とありますが、『増鏡』では前半だけになっています。

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b7906f955c00e7d249c9992755d6843d

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 宮聞こしめして後、女院御さかづきを取り給ふとて、「天子には父母なしと申すなれど、十善の床をふみ給ふも、いやしき身の宮仕ひなりき。一言報ひ給ふべうや」とのたまへば、「さうなる御事なりや」と人々目をくはせつつ忍びてつきしろふ。「御前の池なる亀岡に、鶴こそ群れゐて遊ぶなれ」とうたひ給ふ。其の後、院聞こし召す。善勝寺、「せれうの里」を出す。人々声加へなどしてらうがはしき程になりぬ。
 かくていたう更けぬれば、女院も我が御方に入らせ給ひぬ。そのままのおましながら、かりそめなるやうにてより臥し給へば、人々も少し退きて、苦しかりつる名残に程なく寝入りぬ。
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【私訳】斎宮がそのお杯を召した後、大宮院がお杯をお取りになって、「天子には父母がないと申すようですが、あなたが天子の御位におつきになったのも、もとはといえば、この賤しい私が後嵯峨院にお仕えしたからです。一言お礼の言葉がおありでも良いのでは」とおっしゃると、人々は「もっともな御事であります」と答えて、互いに目くばせをして、そっと(肩や膝などを)つつきあう。院は「御前の池なる亀岡に……(御前の池の中の亀岡に、鶴が群れて遊んでいる)」と歌われ、その後で杯を召しあがる。善勝寺隆顕は「せれうの里」を歌い出す。人々も声を合わせて歌ったりして座が乱れるほどになった。
 こうしてたいそう夜が更けたので、大宮院も御自分の御寝所に入られた。院はご酒宴のお座席のまま、うたたねのようにお寝みになったので、人々も少し座を退いて、酒宴で苦しかった疲れで、まもなく眠ってしまった。

ということで、『とはずがたり』では大宮院の嫌味っぽい発言に、後深草院が「生を受けてよりこの方、天子の位を踏み、太上天皇の尊号をかうぶるに至るまで、君の御恩ならずといふことなし。いかでか御命をかろくせん」と答えてから長寿の祝意を込めた今様を歌っていますが、『増鏡』では同席の人々が「人々目をくはせつつ忍びてつきしろふ」という反応を示したことになっていて、これは『増鏡』が追加した独自情報です。
また、後深草院の歌った今様は、『とはずがたり』では「御前の池なる亀岡に、鶴こそ群れゐて遊ぶなれ、齢は君がためなれば、天の下こそのどかなれ」とありますが、『増鏡』では「売炭の翁」と同じく、これも前半だけに圧縮されています。

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ae43ba1f371fddaab34e4e8d6ca7f22d

さて、『とはずがたり』では後深草院は前斎宮と一度関係を持った後で、簡単に靡くつまらない女だったと感想を述べ、三日目の夜、二条の予想に反し、「酒を過して気分が悪い。腰をたたいてくれ」などと言って寝てしまいます。
しかし、『増鏡』では後深草院は再び行動を起こします。

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 明日は宮も御帰りと聞ゆれば、今宵ばかりの草枕、なほ結ばまほしき御心のしづめがたくて、いとささやかにおはする人の、御衣など、さる心して、なよらかなるを、まぎらはし過ぐしつつ、忍びやかにふるまひ給へば、驚く人も無し。
 何や彼やとなつかしう語らひ聞こえ給ふに、なびくとはなけれど、ただいみじうおほどかなるに、やはらかなる御様して、思しほれたる御けしきを、よそなりつる程の御心まどひまではなけれど、らうたくいとほしと思ひ聞え給ひけり。長き夜なれど、更けにしかばにや、程なう明けぬる夢の名残は、いとあかぬ心地しながら、後朝になり給ふ程、女宮も心苦しげにぞ見え給ひける。
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【私訳】明日は斎宮もお帰りになるとのことなので、院は一夜だけの草枕を、もっと結びたいものだという御心を抑え難くて、たいそう小柄でいらっしゃる院が、お召物などもそのつもりでしなやかなものを着て、他の物音とまぎらしながら、そっと行動なさるので、目を覚ます人もいない。
 院が斎宮に何やかやと親しくお話しなさると、御心も靡く訳ではないけれども、ただとてもおっとりと柔らかく、放心したようにしておられる御様子を、まだお会いしない以前に、斎宮のことを思って、あれこれと御迷いになったほどではないが、院は可愛らしくいじらしいと思い申しなさった。長い夜だが、夜更けからお会いになったせいか、ほどなく夜が明けてしまって、夢のような契りも名残惜しく、まことに物足らぬ気持はするものの、きぬぎぬの別れをなさるころには、斎宮もお別れがつらそうに見えた。

ということで、ここは『とはずがたり』の引用ではなく、『増鏡』が独自に創作した部分です。

なお、上記部分の井上宗雄氏による現代語訳はリンク先にあります。

『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0efc706949a928b66c77229605401cfa
『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/df0899e23c002603657e1e65c0542a0c

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「巻九 草枕」(その9)─前斎宮と後深草院(第三日)

2018-03-29 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月29日(木)22時08分31秒

続きです。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p217以下)

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 さて御方々、御台など参りて、昼つかた、又御対面どもあり。宮はいと恥しうわりなく思されて、「いかで見え奉らんとすらん」と思しやすらへど、女院などの御気色のいとなつかしきに、聞えかへさひ給ふべきやうもなければ、ただおほどかにておはす。けふは院の御けいめいにて、善勝寺の大納言隆顕、檜破子やうの物、色々にいときよらに調じて参らせたり。三めぐりばかりは各別に参る。
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【私訳】さて、(後深草院・大宮院・前斎宮の)御方々はお食事などを召しあがって、昼ごろまた御対面などがある。斎宮はとても恥かしくつらいことに思われて、「どうして院に対面申せましょう」とためらわれたが、大宮院などの御気持がとてもお優しいので、お断りし続けることもできないので、ただおっとりした態度でいらっしゃった。今日は院のおもてなしで、善勝寺大納言隆顕が、檜破子のような物を、色々とたいそう見事に調進した。お酒は三献ほどは各自めいめい召しあがった。

ということで、『とはずがたり』では後深草院は「日高くなるまで御殿ごもりて、昼といふばかりになりて、おどろかせおはしまして」とうことで、すっかり寝過してしまい、四条隆顕に準備させた宴会は「夕がたになりて」やっと始まるのですが、『増鏡』では「昼つかた」から始まります。
また、細かいことですが、『とはずがたり』では「三献までは御から盃」、即ち形式だけの空杯ですが、『増鏡』では「三めぐりばかりは各別に参る」となっています。

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b7906f955c00e7d249c9992755d6843d

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 そののち「あまりあいなう侍れば、かたじけなけれど、昔ざまに思しなずらへ、許させ給ひてんや」と、御けしきとり給へば、女院の御かはらけを斎宮参る。その後、院聞こしめす。御几帳ばかりを隔てて長押の下へ、西園寺の大納言実兼、善勝寺の大納言隆顕召さる。簀子に、長輔・為方・兼行などさぶらふ。あまたたび流れ下りて、人々そぼれがちなり。
 「故院の御ことの後は、かやうの事もかきたえて侍りつるに、今宵は珍しくなん。心とけてあそばせ給へ」など、うち乱れ聞こえ給へば、女房召して御箏どもかき合はせらる。院の御前に御琵琶、西園寺もひき給ふ。兼行篳篥、神楽うたひなどして、ことごとしからぬしもおもしろし。
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【私訳】その後、院が「このままではあまり興がございませんので、恐れ多いことですが、昔と同様にわけ隔てなくお考えいただいて、お杯をいただけませんでしょうか」と大宮院の御様子を伺われると、大宮院のお杯を斎宮がいただく。その後で院が召しあがる。御几帳だけを隔てて、長押の下に西園寺大納言実兼、善勝寺大納言隆顕を召される。簀子に(持明院)長輔・(中御門)為方・(楊梅)兼行などが伺候する。何度も杯が下座へ流れて、人々は酔って戯れがちである。
 院が「故後嵯峨院が御隠れになった後は、こういうこともまったく絶えていましたのに、今宵は珍しいことです。くつろいで一曲お奏でください」など酔い心地で申しあげなさると、大宮院は女房を召して御箏などを合奏される。院は御琵琶、西園寺実兼もお弾きになる。兼行は篳篥で神楽をうたいなどして、大げさな催しでないのも趣がある。

ということで、『とはずがたり』では大宮院が「あまりに念なく侍るに」と酒を勧めるのに対し、『増鏡』では後深草院が「あまりあいなう侍れば・・・」と酒を要望する形になっています。
また、『とはずがたり』では大宮院が「故院の御事ののちは、珍らしき御遊びなどもなかりつるに、今宵なん御心おちて御遊びあれ」と管弦の遊びを勧めるのに対し、『増鏡』では後深草院が「故院の御ことの後は、かやうの事もかきたえて侍りつるに、今宵は珍しくなん。心とけてあそばせ給へ」と大宮院に要望する形になっています。

まだ宴会の途中ですが、いったんここで切ります。
なお、上記部分の井上宗雄氏による現代語訳はリンク先にあります。

『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fd7cde400fd771b8419e4f6d945796a9

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「巻九 草枕」(その8)─前斎宮と後深草院(第二日の夜)

2018-03-29 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月29日(木)12時30分38秒

続きです。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p209以下)

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 院も我が御方にかへりて、うちやすませ給へれど、まどろまれ給はず。有りつる御面影、心にかかりて覚え給ふぞいとわりなき。「さしはへて聞こえんも、人聞きよろしかるまじ。いかがはせん」と思し乱る。御はらからと言へど、年月よそにて生ひ立ち給へれば、うとうとしくならひ給へるままに、慎ましき御思ひも薄くやありけん、猶ひたぶるにいぶせくてやみなんは、あかず口惜しと思す。けしからぬ御本性なりや。
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【私訳】後深草院も御自分の部屋に帰って横になられたが、まどろまれることもできない。先程の斎宮の御面影が心の中にちらついて、忘れられないのは何としても、いたし方ないことだ。「わざわざ自分の思いを述べた手紙をさし上げるのも人聞きがよくなかろう。どうしようか」と思い乱れておられる。斎宮とは御兄妹とは申しても、長い年月、互いに離れてお育ちになったので、すっかり疎遠になってしまわれておられるので、(妹に恋するのはよくないことだ、という)慎まれるお気持も薄かったのであろうか、ただひたすらに思いもかなわず終ってしまうのは残念に思われる。けしからぬ御性格であることよ。

ということで、『とはずがたり』の「いかがすべき、いかがすべき」が「いかがはせん」になるなど、『とはずがたり』の露骨な描写が『増鏡』では若干優雅な表現に変わっています。
「御はらからと言へど、年月よそにて生ひ立ち給へれば、うとうとしくならひ給へるままに、慎ましき御思ひも薄くやありけん」は『とはずがたり』にはない『増鏡』の独自情報ですね。
また、「けしからぬ御本性なりや」は『増鏡』の語り手である老尼の感想です。

『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6dd0180907906ee5c8b394b59efaa374

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 なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人、彼の斎宮にも、さるべきゆかりありて睦しく参りなるるを、召し寄せて、「馴れ馴れしきまでは思ひよらず。ただ少しけ近き程にて、思ふ心の片端を聞こえん。かく折良き事もいと難かるべし」とせちにまめだちてのたまへば、いかがたばかりけん、夢うつつともなく近づき聞こえさせ給へれば、いと心うしと思せど、あえかに消えまどひなどはし給はず。らうたくなよなよとして、あはれなる御けはひなり。鳥もしばしば驚かすに、心あわたたしう、さすがに人の御名のいとほしければ、夜深くまぎれ出で給ひぬ。
-------

【私訳】某大納言の娘で御身近に召し使う女房が、斎宮にも然るべき縁があって親しく参り慣れていたが、その者を召し寄せて、「斎宮に対して慣れ慣れしく、深い仲になろうとまでは思ってもいない。ただ少し近い所で、私の心の一端を申し上げようと思う。こういう良い機会も容易に得がたいであろう」と熱心に、真面目におっしゃるので、その女房はどのようにうまく取りはからったのであろうか、院は闇の中を夢ともうつつともなく(斎宮に)のおそばに近づかれたところが、斎宮はまことにつらいことと思われたが、弱々しく今にも死にそうに、あわてまどうということはなさらない。可愛らしくなよなよとして、可憐な御様子である。そのうちに、明け方の近いことを知らせる鳥の声も、しきりに聞こえてくるので、心もそわそわとして落ち着かず、名残は惜しまれるものの、やはり斎宮のお名前が評判になってはお気の毒なので、夜深い中を忍んでお出ましになった。

ということで、「なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人、彼の斎宮にも、さるべきゆかりありて睦しく参りなるる」はもちろん後深草院二条のことですね。
このあたりも『とはずがたり』の露骨な描写をかなり和らげ、分量的にも相当圧縮した表現になっています。
後深草院が前斎宮に贈った「知られじな今しも見つる面影のやがて心にかかりけりとは」という歌も省略されています。

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9cfee7d955c2354539d56ed62708a87e

-------
 日たくる程に、大殿籠り起きて、御文奉り給ふ。うはべはただ大方なるやうにて、「ならはぬ御旅寝もいかに」などやうに、すくよかに見せて、中に小さく、
  夢とだにさだかにもなきかりぶしの草の枕に露ぞこぼるる
「いとつれなき御けしきの聞こえん方なさに」ぞなどあめる。悩ましとて御覧じも入れず。強ひて聞こえんもうたてあれば、「なだらかにもてかくしてを、わたらせ給へ」など聞えしらすべし。
-------

【私訳】日が高くなったころ、後深草院はやっとお目覚めになって、お手紙をさし上げる。表面はただ普通の手紙のように「お慣れにならない御旅寝はいかがでしたか」などと真面目に見せて、中に小さい字で、
  夢とだに……(夢でお会いしたほどにもはっきりしなかった昨夜の
  仮寝の床のはかなさを思うにつけて、恋しさで涙にくれています)
「まことによそよそしい御様子で、なんとも申しあげようもございません」と書かれたようである。斎宮は気分が悪いといって御覧にもならない。無理になにやかやと申しあげるのも心もとないことなので、院は「何でもなかったふうに、平気をよそおっておいでなさい」など申し上げられるようだ。

ということで、『とはずがたり』では寝坊した後深草院が手紙を贈ったとはありますが、その具体的内容についての説明はなく、「夢とだにさだかにもなきかりぶしの草の枕に露ぞこぼるる」という歌もありません。
ここは『増鏡』の独自情報ですね。
また、『とはずがたり』では、「御返事にはただ、『夢の面影はさむる方なく』などばかりにてありけるとかや」ということで、斎宮が一応は返事を出したことになっていますが、『増鏡』ではそうした記述はありません。

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9e64eccdd3502800f9d9dbcf3f13e24d

「夢とだにさだかにもなきかりぶしの草の枕に露ぞこぼるる」は巻九のタイトルにもなっている重要な歌ですが、これが『とはずがたり』に存在せず、『増鏡』だけに登場するというのも、ちょっと面白い点です。
『増鏡』作者を二条良基とする通説、また小川剛生氏のように丹波忠守作・二条良基監修説の立場の人は、こうした『増鏡』の独自情報をどのように説明するのでしょうか。
『とはずがたり』以外に別の史料があった、というのがひとつの答えでしょうが、前斎宮と後深草院の密通といった関係者が極めて乏しい出来事について、『とはずがたり』以外の史料がたくさんあったとも思えません。

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「巻九 草枕」(その7)─前斎宮と後深草院(第二日)

2018-03-29 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月29日(木)11時08分1秒

昨日の投稿で書き忘れてしまいましたが、前斎宮と後深草院の場面は『とはずがたり』では巻一の最後に出てきて、巻二との関係から嵯峨殿での出来事は文永十一年(1274)の「十一月〔しもつき〕の十日あまりにや」に起きたものとされています。
他方、『増鏡』では煕仁親王立太子の記事の直後に置かれていて、史実では建治元年(1275)十一月五日の出来事である煕仁親王立太子が『増鏡』では何故か「十月五日」となっているのですが、それに続く前斎宮の記事も十一月ではなく「十月ばかり」の出来事とされています。
つまり『とはずがたり』と『増鏡』では年が一年ずれていて、月も一ヵ月ずれています。

「巻九 草枕」(その5)─煕仁親王立太子
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a215e2fdd16eebd3030158d91937ae8

その点を補足して、続きです。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p208以下)
後深草院が嵯峨殿の大宮院を訪問して第二日目となります。

-------
又の日夕つけて衣笠殿へ御迎へに、忍びたる様にて、殿上人一、二人、御車二つばかり奉らせ給ふ。寝殿の南おもてに御しとねどもひきつくろひて御対面あり。とばかりして院の御方へ御消息聞え給へれば、やがて渡り給ふ。女房に御はかし持たせて、御簾の内に入り給ふ。
-------

【私訳】 翌日夕方になって、衣笠殿へ斎宮をお迎えに、内々の形式で、殿上人一、二人、御車二両ほどを送られた。寝殿の南面におしとね(敷物)などを整えて(大宮院・斎宮の)御対面がある。しばらくして後深草院の方へ(斎宮がいらっしゃった旨を)お伝えすると、後深草院もすぐにお越しになる。女房に御佩刀を持たせて、御簾の中へお入りになる。

ということで、『とはずがたり』では「明けぬれば、今日斎宮へ御迎へに人参るべしとて、女院の御方より、御牛飼・召次、北面の下臈など参る」とあって、「殿上人一、二人、御車二つばかり」というのは『増鏡』独自の追加情報です。
また、『とはずがたり』では二条が「御太刀もて例の御供に参る」とありますが、『増鏡』では二条の名前はなく、単に「女房」とあるだけです。

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ead8f76611f7509f87dece52a15012e6

-------
 女院は香の薄にびの御衣、香染めなど奉れば、斎宮、紅梅の匂ひに葡萄染めの御小袿なり。御髪いとめでたく、盛りにて、廿に一、二や余り給ふらんとみゆ。花といはば、霞の間のかば桜、なほ匂ひ劣りぬべく、いひ知らずあてにうつくしう、あたりも薫る御さまして、珍らかに見えさせ給ふ。
-------

【私訳】大宮院は(後嵯峨院崩御後に出家されているので)香色の薄墨色の御衣に香染めの小袖などをお召しになり、斎宮は紅梅の匂いの重袿に、えび染めの御小袿である。御髪がたいへんみごとで、今を盛りのお年ごろで、二十歳を一つ二つ越しておられるだろうとお見えになる。花に喩えれば、霞の間に咲き匂うかば桜も斎宮に比べると美しさは劣りそうで、何ともいいようもなく高貴で、あたりも薫るような御様子で、世に稀にお見えになる。

ということで、『とはずがたり』には大宮院の衣装が「顕紋紗の薄墨の御ころも、鈍色の御衣ひきかけさせ給ひて」とありますが、『増鏡』では「顕紋紗」は省略されています。
また、『とはずがたり』では「斎宮、紅梅の三つ御衣に青き御単ぞ、なかなかむつかしかりし」とあり、「青き御単」が『増鏡』では「えび染めの御小袿」に変わっており、二条の批判的なコメントも削除されています。
斎宮の容姿への賛美も、『とはずがたり』では「花といはば桜にたとへてもよそめはいかがとあやまたれ、霞の袖を重ぬるひまも、いかにせましと思ひぬべき御有様」となっており、『増鏡』の方が賛美の度合いが強まっていますね。

-------
 院はわれもかう乱れ織りたる枯野の御狩衣、薄色の御衣、紫苑色の御指貫、なつかしき程なるを、いたくたきしめて、えならず薫り満ちて渡り給へり。
 上臈だつ女房、紫の匂五つに、裳ばかりひきかけて、宮の御車に参り給へり。神世の御物語などよき程にて、故院の今はの比の御事など、あはれになつかしく聞え給へば、御いらへも慎ましげなる物から、いとらうたげなり。をかしき様なる酒、御菓物、強飯などにて、今宵は果てぬ。
------

【私訳】後深草院は、われもこうを乱れ織にした枯野色の御狩衣、薄紫色の小袖、紫苑色の御指貫という、心ひかれるような親しみ深い服装で、そこに香を充分にたきしめて、周りになんともいえぬ薫りを漂わせておられる。
 斎宮のお供には、上臈らしい女房が、紫の匂いの五つ衣に裳だけをつけて、車に陪乗して参られる。斎宮の伊勢でのお話などが少しあって、(その後)後深草院が後嵯峨院の御臨終のころの御事をしみじみとなつかしくお話しなさると、斎宮のお返事も控え目ではあるが、とても可愛らしい。趣のあるお酒、お菓子、強飯などのご馳走で、その夜の対面は終った。

ということで、『とはずがたり』では院の服装は「われもかう織りたる枯野の甘の御衣に、りんだう織りたる薄色の御衣、紫苑色の御指貫、いといたうたきしめ給ふ」とあるので、「りんだう織りたる薄色の御衣」が『増鏡』では「薄紫色の小袖」に変わっています。
また、『とはずがたり』では斎宮のお伴の女房について「御傍親とてさぶらひ給ふ女房、紫のにほひ五つにて、物の具などもなし」とありますが、『増鏡』では「上臈だつ女房、紫の匂五つに、裳ばかりひきかけて」と変わっています。
「をかしき様なる酒、御菓物、強飯などにて」は『とはずがたり』には存在しない『増鏡』の追加情報ですね。

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本郷和人氏『日本史のツボ』

2018-03-28 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月28日(水)23時08分48秒

>筆綾丸さん
『日本史のツボ』を購入してみました。
本郷氏は『文藝春秋special』という雑誌に、

「天皇を知れば日本史がわかる」(38号)
「宗教を知れば日本史がわかる」(39号)
「土地を知れば日本史がわかる」(40号)
「軍事を知れば日本史がわかる」(41号)

という記事を寄せており、これらをベースに大幅に加筆して一冊にまとめたのが『日本史のツボ』のようですね。
とりいそぎ「第一回 天皇を知れば日本史がわかる」を通読してみましたが、私は天皇制がなぜ存続したのかについては水林彪氏の『天皇制史論―本質・起源・展開』にけっこう納得しているので、本郷氏の議論にはあまり賛成できません。
ま、全部読んでから感想を書きます。

『天皇制史論─本質・起源・展開』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f54a9a6b71d2a71d719efd5573fc5382
「天皇制の超時代的存続の秘密」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3186f4845f0d08ed1683a49f509cfde9
<支配の正当性>史論
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a2a70643647ae5e286dbf566e472a9be

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

信瑞のこと 2018/03/28(水) 15:44:01
https://kotobank.jp/word/%E4%BF%A1%E7%91%9E-1083113
---------------------
 ところで、鎌倉後期成立とされる『法然上人絵伝』(四十八巻伝)の巻二十六第四段には、『吾妻鏡』と少々異なる時頼往生の場面が描かれている。祢津宗伸氏によれば、この場面は得宗被官諏訪入道蓮仏が、法然の孫弟子にあたる敬西房信瑞に宛てた書状に基づくという。また祢津氏は、時頼が阿弥陀如来の画像を架けその前で合掌して往生したという点は『吾妻鏡』と異なるものの、袈裟をつけ椅子に座して禅僧風の往生をしたということは『法然上人絵伝』でも前提となっており、内容は近似しているという。そして、時頼の信仰の多様性から考えて、禅宗に帰依しつつも往生の際に阿弥陀の画像を掛けても不思議はないとする(『法然上人絵伝』における諏訪入道蓮仏)。
 事実として時頼の往生の姿がどうであったか、確定することはできない。『法然上人絵伝』の絵も、後世の想像図ではある。ただ、すでに見たように、時頼の信仰にも阿弥陀信仰は含まれており、ありえないことではない。(高橋慎一朗氏『北条時頼』218頁~)
---------------------
信瑞ですが、これは、仏教の諸宗派に対し浮気性で無節操な時頼(≒時頼の信仰の多様性)が、『法然上人絵伝』というプロパガンダに上手く取り込まれただけのことではないのか、という気がして、本郷氏のように果たして師と言い切れるのかどうか(師は何人いようが別に構わないのかもしれないが)、ちょっと引っ掛かります。

-------------------
・・・時頼の精神的な師匠ともいうべき人物に、大叔父の極楽寺重時(北条重時)がいます。執権に次ぐ連署というポジションで鎌倉幕府を支えた重時は、熱心な浄土宗信者でした。そして重時、時頼の師だったのが、法然の正統的な孫弟子の信瑞。(本郷和人氏『日本史のツボ』58頁)
-------------------
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「巻九 草枕」(その6)─前斎宮と後深草院(第一日)

2018-03-28 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月28日(水)22時40分18秒

それでは『増鏡』に戻って、『増鏡』が描く前斎宮と後深草院の場面を見てみます。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p207以下)
井上宗雄氏の現代語訳は既に紹介済みですが、私にも若干の意見があるので、私訳を試みます。

『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f8d88dea48f0f0b22372df0e76cea399

------
 まことや、文永のはじめつ方、下り給ひし斎宮は後嵯峨の院の更衣腹の宮ぞかし。院隠れさせ給ひて後、御服にており給へれど、なほ御いとまゆりざりければ、三年まで伊勢におはしまししが、この秋の末つ方、御上りにて、仁和寺に衣笠といふ所に住み給ふ。月花門院の御次には、いとたふたく思ひ聞え給へりし、昔の御心おきてをあはれに思し出でて、大宮院いとねんごろにとぶらひ奉り給ふ。亀山殿におはします。
-------

【私訳】さて、文永の初めごろ、伊勢に下向された斎宮(愷子内親王)は後嵯峨院の更衣の御腹からお生まれになった方である。院が御隠れなさった後、服喪にて斎宮をお降りになられたが、なお正式の辞任が許されなかったので、その後三年まで伊勢にいらっしゃったが、この秋の末頃に上洛されて、仁和寺の近くの衣笠という所にお住まいになる。大宮院は、故院が月花門院の御次にこの姫宮をとても大切に思われていらっしゃったことをしみじみと思い出されて、たいそう懇切にお世話申しあげなさる。女院は亀山殿にいらっしゃる。

ということで、この部分を『とはずがたり』と比較すると、『とはずがたり』には斎宮が「文永のはじめつ方、下り給ひし」という記述はなく、「更衣腹」も『増鏡』独自の表現です。
当時、更衣は存在せず、これは『源氏物語』的な雰囲気を出すための文飾ですね。
また、細かいことですが、『とはずがたり』は「この秋のころには」とあるのに対し、『増鏡』は「この秋の末つ方」と『増鏡』が若干詳しくなっています。
更に後嵯峨院が前斎宮を「月花門院の御次には、いとたふたく思ひ聞え給へりし」こと、そしてその「昔の御心」を大宮院が「あはれに思し出でて」「いとねんごろにとぶらひ奉り給ふ」というのも『増鏡』独自の追加情報です。
他方、二条の父・中院雅忠と前斎宮の関係、及び二条自身との関係を示す部分、即ち「故大納言さるべきゆかりおはしまししほどに、仕うまつりつつ、御裳濯河の御下りをも、ことに取沙汰し参らせなどせしもなつかしく、人めまれなる御住まひも、何となくあはれなるやうに覚えさせおはしまして、つねに参りて、御つれづれも慰め奉りなどせしほどに」という部分はすっぱりと切り捨てられています。

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1676461dba8de5ff30afeac5e7b9326a

なお、月花門院についての『増鏡』の記事は既に紹介済みであり、関連の人物についても若干の検討を行いました。

「巻八 あすか川」(その8)─月花門院薨去
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7fefb8903614166d0eee9c4963c36217
歌人としての月花門院
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/106be0af4fd37b709c42487e4f22ea84
源彦仁と忠房親王(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7360b908d5e5bf597727991c1ceb4cd2
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1768aa3f700fbc2a017bd5f41652d245

-------
 十月ばかり斎宮をも渡し奉り給はんとて、本院をもいらせ給ふべきよし、御消息あれば、めづらしくて、御幸あり。その夜は女院の御前にて、昔今の御物語りなど、のどやかに聞え給ふ。
-------

【私訳】十月ごろ、斎宮を(大宮院のいらっしゃる嵯峨殿に)お迎え申し上げるとのことで、本院(後深草)も来られるようにとお便りがあったので、珍しく思われて御幸があった。その夜は、後深草院が大宮院の御前で、昔話や最近の出来事などを長閑にお話し申し上げた。

ということで、後深草院が大宮院を訪問した初日の記事は、『増鏡』では極めて簡略です。
『とはずがたり』では、「御政務のこと、御立ちのひしめきのころは、女院の御方さまも、うちとけ申さるることもなかりしを」といった、後嵯峨院崩御後の大宮院と後深草院との微妙な関係についての説明がありますが、『増鏡』では省略されています。
また、『とはずがたり』では、東二条院が自身の御所への二条の出入りを差し止めたことを後深草院が大宮院に話し、大宮院が二条に好意的な発言をしてくれたところ、二条が「いつまで草の」と冷ややかに思った、といった話も出てきますが、『増鏡』ではきれいさっぱり削除されています。

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フェイスブックの「友達リクエスト」について

2018-03-27 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月27日(火)21時09分56秒

私も一応フェイスブックのアカウントを持っているのですが、どうにも相性が悪い感じがして、かなり前に非公開とし、今は実質的に休眠状態です。
ただ、古い知り合いと連絡を取る必要が生じるかもしれないので、完全閉鎖にはしていません。
先程、「友達リクエスト」というのをもらったのですが、そういう事情ですので、申し訳ありませんがお断りさせていただきます。
何か個人的に連絡の必要等があってのことでしたら、ツイッターでフォローしていただいた後、「メッセージ」でやりとりしたいと思います。
というような返事をフェイスブックで出来ればよいのですが、その方法も分からないので、こちらに書きました。
宜しくお願いいたします。

鈴木小太郎
https://twitter.com/IichiroJingu
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『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その11)

2018-03-27 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月27日(火)17時14分30秒

続きです。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p244以下)
このシリーズはこれで最後となります。

-------
 まことや、前斎宮は、嵯峨野の夢ののちは御訪れもなければ、御心のうちも御心ぐるしく、わが道芝もかれがれならずなど思ふにと、わびしくて、「さても年をさへ隔て給ふべきか」と申したれば、げにとて文あり。
 「いかなるひまにても思し召し立て」など申されたりしを、御養母と聞えし尼御前、やがて聞かれたりけるとて、参りたれば、いつしか、かこちがほなる袖のしがらみせきあへず、「神よりほかの御よすがなくてと思ひしに、よしなき夢の迷ひより、御物思ひの」いしいしと、くどきかけらるるもわづらはしけれども、「ひましあらばの御使にて参りたる」と答ふれば、「これの御ひまは、いつも何の葦分けかあらん」など聞ゆるよしを伝へ申せば、「端山繁山の中を分けんなどならば、さもあやにくなる心いられもあるべきに、越え過ぎたる心地して」と仰せありて、公卿の車を召されて、十二月の月の頃にや、忍びつつ参らせらる。
 道も程遠ければ、ふけ過ぐるほどに御わたり、京極表の御忍び所も、このころは春宮の御方になりぬれば、大柳殿の渡殿へ、御車を寄せて、昼の御座のそばの四間へ入れ参らせ、例の御屏風へだてて御とぎに侍れば、見し世の夢ののち、かき絶えたる御日数の御うらみなども、ことわりに聞えしほどに、明けゆく鐘にねを添へて、まかり出で給ひし後朝の御袖は、よそも露けくぞ見え給ひし。
-------

【私訳】そうそう、前斎宮は、嵯峨野での夢のような一夜の後は院の御訪れもなくて、御心の内もお気の毒で、私が取り持ったのに、あまりに絶え絶えであっては気がかりなので、「このまま年が改まってしまってよろしいのでしょうか」と院に申し上げると、なるほど、とのことでお手紙を書かれた。
「お時間があれば、是非ともいらっしゃい」などとお書きになっておられたのを、御養母という尼御前が姫宮から直ちに聞かれたとのことで、私が参ってみると、早くも愚痴っぽい涙が袖の柵で堰きかねる有様で、「姫宮には、伊勢の神様よりほかの御縁はないものと思っておりましたのに、とんでもないあの夜の夢の迷いから、御物思いが重なって」などとくどくどと愚痴を言われるのも煩わしいけれども、「お暇がおありだったらとの御使いで参ったのです」とお答えすると、「こちらの御都合はいつだって、何の差し障りがありましょうか」とのことだったので、その旨を院にお伝え申し上げると、院は「端山繁山の障りの中をかき分けて行くなどというのなら、物狂おしい焦燥感も生じようが、もはや恋の情熱も醒め果てた感じがして」などとおっしゃりつつ、公卿の車を召されて、十二月のころだったか、こっそりと斎宮へ迎えを差し上げた。
 斎宮御所からの道のりも遠いので、かなり夜の更けた時分に御渡りになり、京極通りに面したお忍びの場所も、このころは春宮の御所となっていたので、大柳殿の渡殿へ御車を寄せて、昼の御座のそばの四間にお通しし、いつものように御屏風を隔てて宿直(とのい)に侍っていると、夢のような一夜の後、御訪れもすっかり途絶えてしまった日数の御恨みを申し上げるのも、もっともなことと思われるうちに、夜明けの鐘に泣く音(ね)を添えて、御退出なさった後朝のお袖は、傍目からも涙に湿っているようにお見えになりました。

ということで、これで後深草院と前斎宮に関するエピソードは全て終了です。
この長大なエピソードを簡潔にまとめて『増鏡』と対比するのは簡単な作業ですが、あえて長々と引用してきたのは、これほど歴史的重要性のない話を何故に『増鏡』作者が鎌倉時代をトータルに描いた歴史物語に載せたいと思ったのかを、当掲示板の読者にも考えていただきたいからです。
これは小川剛生氏のように、後深草院二条と縁のない丹波忠守や二条良基を『増鏡』の作者・監修者とする研究者にとってはけっこうな難問だと思いますが、私のように『増鏡』と『とはずがたり』の作者を同一人物と考える立場からも、簡単に答えが出る話ではありません。


>筆綾丸さん
>本郷恵子氏
最近、『中世公家政権の研究』(東京大学出版会、1998)を読み直してみたのですが、実に良い本ですね。
本郷恵子氏は非常に緻密な議論をされる方ですが、その本郷氏が何故に『とはずがたり』については一昔前の国文学者並みの感想しか書けないのか。
本郷氏のようなタイプの歴史研究者だったら、国文学者の作る『とはずがたり』関係年表を見ただけで様々な疑問を抱くのが当然のように私には思えるのですが。

本郷恵子教授の退屈な『とはずがたり』論
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c95d41a4c64ccd0941a2948b8151b3b0
「コラム4 『とはずがたり』の世界」(by 本郷恵子氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5673c62698f60bf0423ed3ca9d42503

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

傍例 2018/03/27(火) 14:11:20
小太郎さん
新書版には『文藝春秋』への言及は一切ないので、これが初出だと思って読んでました。

ご指摘のとおり、通りの名前は難しいようですが、本郷氏が根拠を示してくれれば、ありがたいですね。
後深草院二条がなぜ二条で、一条や三条ではないのか、と昔から疑問に思っていました。
『源氏物語』では、光源氏は準太上天皇として「六条院」と呼ばれ優雅な生活をしているので、「六条」の価値が低いとは思えないですね。ただ、晩年は、正妻女三宮と柏木の密通により、「六条院」として「没落」してゆくので、「六条」には貶下的な含意があるのだ、という穿った解釈も成り立つかもしれませんが。

蛇足
本郷和人氏の一般向けの書には、必ずと言っていいほど、本郷恵子氏の名が出て来て、一読者としてはうんざりしていたのですが、『壬申の乱と関ケ原の戦い』にはそれがなく、やっと女房離れができたのか、御同慶の至り、と思っていたところ、『日本史のツボ』は従来通りで、やれやれ、相変わらずだな、とがっかりしました。
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『女房官品』

2018-03-27 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月27日(火)13時06分6秒

>筆綾丸さん
>『日本史のツボ』
本郷氏が『文藝春秋』に連載していたものを纏めた本でしょうか。
連載の方はときどき読んでいたのですが。

>>平安時代の女官で二条、八条といった通りの名前がついている人は身分が高い。

ちょうど「悪妻・東二条院の誹謗中傷に対する後深草院の弁明」という設定の二条の自由作文を検討していたところなので、ご引用の部分、興味を惹かれました。
久保田淳氏は、「祖父が子にて参り候ひぬるうへは、小路名を付くべきにあらず候ふ」の「小路名」について、

-------
京都の小路の名にちなむ女官の呼び名。二条・春日・大宮・高倉などの類。『女房官品』には「小路の名の事。一条・二条・三条・近衛・春日、此等は上の名なり。大宮・京極、此等は中なり。高倉・四条などは小路のうちにも劣りたるなり」という。
-------

と書かれていますが(『新編日本古典文学全集47 建礼門院右京大夫集・とはずがたり』、小学館、1999、p276)、四条が劣るというのは『十六夜日記』の作者、安嘉門院四条にとってはなかなか厳しい指摘ですね。
仮に四条以下が全部劣るものだとすれば本郷氏の見解に抵触しますし、また、天皇の名前に六条院・四条院、女院の名前に八条院・七条院といった四条以下のものがあることとのバランスも気になります。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

続・閑話 2018/03/27(火) 12:04:06
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166611539
本郷和人氏『日本史のツボ』を読みました。
僭越ながら円熟の域に達した文体と内容で、これは皮肉でも何でもないのですが、司馬遼太郎の晩年の作品を読んでいるような印象を受けました。
いくつか、細かいことを書いてみます。

「一一九二年、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた時点では・・・」(27頁)ですが、この直後に、「権門体制論」に拠らない著者の見解が示されているので、著者の従来の説である「一一八〇年」にしないと、前後の論理が合わなくなります。「一一九二年」の幕府開設では、「権門体制論」になってしまうと思います。

https://kotobank.jp/word/%E7%A6%81%E4%B8%AD%E5%B9%B6%E5%85%AC%E5%AE%B6%E4%B8%AD%E8%AB%B8%E6%B3%95%E5%BA%A6-1525613
「江戸時代に入ると、禁中並公家諸法度によって・・・」(36頁)について、橋本政宣氏『近世公家社会の研究』(2002・吉川弘文館)を読んでからは、「禁中並公家中諸法度」の方が正しいのではないか、と思いますが、中中、難しいですね。

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・・・時頼の精神的な師匠ともいうべき人物に、大叔父の極楽寺重時(北条重時)がいます。執権に次ぐ連署というポジションで鎌倉幕府を支えた重時は、熱心な浄土宗信者でした。そして重時、時頼の師だったのが、法然の正統的な孫弟子の信瑞。(58頁)
 ぼくの本職は『大日本史料』、そのうちの第五編という史料集を編纂すること。そのためには来る日も来る日も建長年間(一二四九~一二五六)の史料を読んでいる。だから、建長年間のことであれば、日本で一番詳しい自信は、偉そうですけれど、あります。(221頁)
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信瑞の名は、森幸夫氏『北条重時』や高橋慎一朗氏『北条時頼』にはないと記憶していますが(後で確認してみます)、信瑞が重時と時頼の師であったことを示す史料は何なのか、わかりません。自分で勉強しろと言われれば、それまでですが。

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・・・平安時代の女官で二条、八条といった通りの名前がついている人は身分が高い。また紫式部が仕えていた中宮彰子のように「子」がつくのも相当に身分が高い。(177頁)
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後者の理由はわかるのですが、前者の根拠は何なのでしょうか。

蛇足
最近の藤井君の将棋をずっと見てきましたが、現在、将棋界最強の棋士は文句なく藤井君で、しかも群を抜いています。順位戦最終の三枚堂君との対局などは猫が鼠をいたぶっているような感じで、怪物くん(糸谷)との対局も、バッサリ切って捨ててましたね。藤井君はもうずっと負けないのではないか、という印象すら受けます。詰将棋解答選手権も想像を絶するものがあり、こんな頭脳、いままで見たことがありませんね。
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『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その10)

2018-03-27 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月27日(火)12時25分45秒

続きです。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p236以下)

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 また三つ衣を着候ふこと、いま始めたることならず候。四歳の年、初参のをり、『わが身位あさく候。祖父、久我の太政大臣が子にて参らせ候はん』と申して、五つ緒の車数、衵〔あこめ〕・二重織物許〔ゆ〕り候ひぬ。そのほかまた、大納言の典侍は、北山の入道太政大臣の猶子とて候ひしかば、ついでこれも、准后御猶子の儀にて、袴を着そめ候ひしをり、腰を結はせられ候ひしとき、いづ方につけても、薄衣白き袴などは許すべしといふこと、ふり候ひぬ。車寄などまで許り候ひて、年月になり候ふが、今更かやうに承り侯ふ、心得ず候。
 いふかひなき北面の下臈ふぜいの者などに、ひとつなる振舞などばし候ふ、などいふ事の候ふやらん。さやうにも候はば、こまかに承り候ひて、はからひ沙汰し候ふべく候ふ。さりといふとも、御所を出だし、行方知らずなどは候ふまじければ、女官ふぜいにても、召し使ひ候はんずるに候。
-------

【私訳】また、二条が三つ衣を着ましたことは、最近始めたことではありません。四歳の年、初めて御所に参ったときに、故大納言(雅忠)が、「私の位は浅いので、祖父、久我の太政大臣(通光)の子という扱いで参らせたいと存じます」と申したので、五つ緒の車数・衵・二重織物が許されました。その他に、大納言典侍は北山の入道太政大臣(西園寺公経)の猶子として伺候しており、それに次いで二条も(公経室の)准后の御猶子のということで、袴着の際には准后が腰をお結いになられましたが、その時、どこに出仕するにしても、薄衣や白い袴などは許そうということになってから、もうずいぶん時を経ております。車寄などまで許してから年月が経っており、今更このように承りますことは納得できません。
 言うに足りない北面の下臈のような者などと同様の振る舞いなどをした、といったことがあったのでしょうか。それならば、詳しく承って、相応の処置をいたしましょう。だからといって、御所を追放し、行方もわからないような有様にすることはできませんから、その時は女官風情にでもして召し使おうと思います。

-------
 大納言、二条といふ名をつきて候ひしを、返し参らせ候ひしことは、世隠れなく候ふ。されば、呼ぶ人々さは呼ばせ候はず。『われ位あさく候ふゆゑに、祖父が子にて参り候ひぬるうへは、小路名を付くべきにあらず候ふ』『詮じ候ふところ、ただしばしは、あかこにて候へかし。何さまにも大臣は定まれる位に候へば、そのをり一度に付侯はん』と申し侯ひき。
 太政大臣の女〔むすめ〕にて、薄衣は定まれることに候ふうへ、家々めんめんに、我も我もと申し候へども、花山・閑院ともに淡海公の末より、次々また申すに及ばず候。久我は村上の前帝の御子、冷泉・円融の御弟、第七皇子具平親王より以来、 家久しからず。されば今までも、かの家女子〔をんなご〕は宮仕ひなどは望まぬ事にて候ふを、母奉公のものなりとて、その形見になどねんごろに申して、幼少の昔より召しおきて侍るなり。さだめてそのやうは御心得候ふらんとこそ覚え候ふに、今更なる仰せ言、存の外に候。御出家の事は、宿善内にもよほし、時至ることに候へば、何とよそよりはからひ申すによるまじきことに候」
とばかり、御返事に申さる。そののちは、いとどこと悪しきやうなるもむつかしながら、ただ御一ところの御志、なほざりならずさに慰めてぞ侍る。
-------

【私訳】故大納言は、二条という名がつきましたのを返上いたしましたことは、世に隠れないことです。ですから、そう呼ぶ人があっても、呼ばせません。「私の地位は浅いものの、祖父の子として参りましたからには、小路名をつけるべきではありません」「つまるところ、ただ暫くは、『あかこ』という名でけっこうです。何ぶんにも、私が大臣となるのは定まっていることですから、大臣になった折に改めて名をつけましょう」と申しておりました。
 太政大臣の娘として、薄衣を着ることは決っていることである上、家々の方々はそれぞれに、我も我もと誇りをもって申しておりますが、花山院・閑院はともに淡海公(藤原不比等)の御子孫として連綿と続いている家柄であることは申すまでもありません。それに比べると、久我は村上帝の御子、冷泉・円融院の御弟、第七皇子具平親王以来、皇族を離れてまだそれほど時を経ていない家です。ですから今までも、久我家の女子は宮仕えなどは希望しないことですのに、母が奉公の者だったということで、その形見としてこちらから懇切に依頼して、二条を幼少のころから召し置いているのです。きっとその事情はご理解していだだいているものと思っておりましたのに、今更な仰せ言は意外なことです。御出家のことは、前世での善根が内にきざし、その時期が至ってすることでございますから、何と他人から取り計らい申すによることではありません」
とばかりお返事に申し上げられた。その後、いよいよ何事も具合が悪いようで、煩わしいながらも、ただ院お一人の御志が並々ではないことを慰めにしてお仕えしていた。

ということで、まあ、ここまで一方的に二条に加担し、東二条院への配慮を欠いた手紙を出したら、東二条院は売り言葉に買い言葉で出家し、後深草院と西園寺家の関係が悪化して、非常に難しい事態になったでしょうね。
『とはずがたり』や『増鏡』を離れて、『公衡公記』などの当時の信頼性の高い記録だけを見れば、後深草院は非常に慎重な性格で、こうした対応を取るような人物にはとても思えません。
この場面に関し、久保田淳氏は、

-------
 東二条院の抗議に対する院の返事は、このころの院の作者への愛情が並々ならぬものがあったことを物語る。記憶による叙述とは考えにくいが、草稿などを見せられて、写しておいたものを、ここで院の愛情の証として引くか。
-------

と言われていますが(小学館新編日本古典文学全集、p277)、確かに「記憶による叙述とは考えにくい」ほど詳細です。
しかし、それは「草稿などを見せられて、写しておいたもの」ではなく、『とはずがたり』執筆の時点で、誰に束縛されることもなく、言いたい放題に書きまくったからこそ、ここまで詳しいのでしょうね。
また次田香澄氏は、

-------
 院の返事は、作者が読まされたのを控えておいたものか、委曲を尽くしている。これを通して、久我家の出自・家柄、母と院との関係、宮廷における作者の地位や境遇、二条と命名された事情、亡父と院との約束など、女房としての作者に関することがすべて出てくる。
 作者は院の言葉を利用して、自分からは直接書けない自賛にかかわる事柄を、ここにまとめて書いたことになる。
 女院の短い詞には含まれていない作者の行跡について、院がそれを忖度して述べているのが興味あることである。最後に女院の出家云々に対し、冷たく突っぱねたのを見て、作者も自信を持ったであろう。【後略】
-------

と言われていますが(p243以下)、「作者は院の言葉を利用して、自分からは直接書けない自賛にかかわる事柄を、ここにまとめて書いたことになる」と核心を突く指摘をされていながら、なぜそれが「院の返事は、作者が読まされたのを控えておいたものか」と結びつくのか、非常に不思議です。
『とはずがたり』の世界の虜となってしまった次田氏には、本当に後深草院が「女院の出家云々に対し、冷たく突っぱねた」ならば、後深草院と西園寺家の関係が悪化することを想像すらできないようです。
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『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その9)

2018-03-26 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月26日(月)22時19分33秒

母の大宮院と異母妹である前斎宮の対面の場に呼ばれた後深草院は、異母妹の美しさに心を動かされ、二条に仲介させて関係を持ちますが、予想に反してつまらない女だった、ということで一夜限りの関係であっさり終わらせてしまいます。
その後、二条の助言により、再び後深草院と前斎宮が逢うことになりますが、その場面に至る前に、二条の振る舞いに激怒した東二条院が、後深草院がこのまま二条を甘やかすならば私は面目が立たないので出家します、と後深草院を責めるエピソードが出てきます。
『とはずがたり』の時間の流れの中では、文永十一年(1274)に二条が「雪の曙」との間の秘密の子を産んだものの生き別れとなり、ついで前年二月に生まれた後深草院の皇子が死んで、「前後相違の別れ、愛別離苦の悲しみ、ただ身一つにとどまる」と悲観した十七歳の二条が出家したいと思っていたところに、政治的事情による後深草院の出家騒動が重なります。
しかし、幕府の斡旋で煕仁親王の立太子となったため後深草院は出家を中止し、二条もどさくさに紛れて何となく出家を止めるのですが、二人が出家をやめたとたん、今度は東二条院が出家するという出家騒動の三段重ね的な状況になります。
ということで、続きです。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p236以下)

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 還御の夕方、女院の御方より御使に中納言殿参らる。何事ぞと聞けば、「二条殿が振舞のやう、心得ぬ事のみ侯ふときに、この御方の御伺侯をとどめて侯へば、殊更もてなされて、三つ衣を着て御車に参り候へば、人のみな女院の御同車と申し候ふなり。これせんなく覚え候。よろづ面目なき事のみ候へば、いとまを賜はりて、伏見などにひきこもりて、出家して候はんと思ひ候」といふ御使なり。
-------

【私訳】御帰りになった夕方、東二条院からの(後深草院に対する)お使いとして中納言殿が参られた。何事かと聞くと、
「二条殿の振る舞いは、腑に落ちないことばかりですので、こちらの方では出入りを差し止めておりましたのに、御所様には格別にご待遇なさって、三つ衣を着て、御所様の御車に乗ったりするとのことなので、人はみな私が同車しているものと申しているようです。これは本当に不本意なことと存じます。すべて面目ないことばかりですから、私はお暇を頂戴し、伏見あたりに引きこもって、出家しようと思っております」というお使いであった。

ということで、この後、後深草院の返事となります。

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 御返事には、
「承り候ひぬ。二条がこと、いまさら承るべきやうも候はず。故大納言典侍、あかこのほど夜昼奉公し候へば、人よりすぐれてふびんに覚え候ひしかば、いかほどもと思ひしに、あへなくうせ候ひし形見には、いかにもと申しおき候ひしに、領掌申しき。故大納言、また最後に申す子細候ひき。君の君たるは臣下の志により、臣下の臣たることは、君の恩によることに候ふ。最後終焉に申しおき候ひしを、快く領掌し候ひき。したがひて、後の世のさはりなく思ひおくよしを申して、まかり候ひぬ。再びかへらざるは言の葉に候。さだめて草のかげにても見候ふらん。何ごとの身の咎も候はで、いかが御所をも出だし、行方も知らずも候ふべき。
-------

【私訳】後深草院のお返事には、
「承りました。二条のことは、今更伺う必要もありません。二条の母、故・大納言典侍は、その昔、夜も昼も奉公いたしておりましたが、他の人より不憫に思いましたので、どのようにも手厚く報いようと思っておりましたのに、あっけなく亡くなってしまいました。二条はその忘れ形見として、どのようにも面倒を見ていただきたいと申しておりましたので、承知しました。また、父の故大納言(雅忠)が最期に申した子細がありました。君が君としていられるのは臣下の奉公の志によるものであり、臣下が臣でいられるのは主君の恩寵によることです。私は故大納言が臨終に申し置いたことも、快く承知しました。それによって、故大納言は後世の障りなく安心できたと申して、身まかりました。一度発したならば、二度と取り返しのならないのは言葉であります。故大納言はきっと草葉の陰にても見ていることでありましょう。二条には何の咎もありませんのに、どうして御所から追放し、行方知らずのままとするような無責任なことができましょう。

ということで、この後、まだまだ続きます。
次田氏は「故大納言典侍、あかこのほど夜昼奉公し候へば」とされていますが、この部分は、岩波新体系(三角洋一氏)では「故大納言典侍あり、この程、夜昼奉公し候へば」(p61)、小学館新編日本古典文学全集(久保田淳氏)では「故大納言の典侍あり、そのほど夜昼奉公し候へば」(p274)となっていて、読み取り自体が難しいようです。
次田説では意味が通りにくいので、私は主として久保田氏の訳を参照しました。
感想は最後に纏めますが、まあ、実際に後深草院が東二条院に対してこんな言い方をするとは思えず、二条が後深草院の口を借りて言いたい放題言いまくっている感じですね。
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『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その8)

2018-03-26 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月26日(月)19時01分52秒

続きです。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p230以下)

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 また御所持ちて入らせ給ひたるに、「天子には父母なしとは申せども、十善の床をふみ給ひしも、いやしき身の恩にましまさずや」など御述懐ありて、御肴を申させ給へば、「生を受けてよりこの方、天子の位を踏み、太上天皇の尊号をかうぶるに至るまで、君の御恩ならずといふことなし。いかでか御命〔めい〕をかろくせん」 とて、
  御前の池なる亀岡に、鶴こそ群れゐて遊ぶなれ、
  齢は君がためなれば、天の下こそのどかなれ
といふ今様を、三返ばかり歌はせ給ひて、三度申させ給ひて、「この御盃は賜はるべし」とて御所に参りて、「実兼は傾城の思ひざししつる。うらやましくや」とて、隆顕に賜ふ。そののち、殿上人の方へおろされて、事ども果てぬ。
 今宵はさだめて入らせおはしまさんずらん、と思ふほどに、「九献過ぎていとわびし。御腰打て」とて、御殿ごもりて明けぬ。斎宮も、今日は御帰りあり。この御所の還御、今日は今林殿へなる。准后御かぜの気おはしますとて、今宵はまたこれに御とどまりあり。次の日ぞ京の御所へ入らせおはしましぬる。
-------

【私訳】また院がお銚子を持っていらっしゃると、大宮院は、「天子には父母なしと申しますが、十善の床をお踏みになられたのも、賤しいこの身の恩でいらっしゃらないでしょうか」などと御述懐があって、余興を所望されると、院は「この世に生を受けて以来、天子の位を踏み、太政天皇の尊号を蒙るまで、母君の御恩でないことはございません。どうしてその御命令を軽んじましょうか」とおっしゃって、
  御前の池なる……(御前の池にある亀岡に、鶴が群がって遊んでいます。
  鶴亀の長寿は母君のご長寿をことほぐためですから、天下ものどかです。
という今様を、三度ほどお歌いになって、大宮院に三献お勧めになられて、「この御盃は私がいただきましょう」といわれて、院がお飲みになって後、「実兼は美女の思いざしを受けたから、隆顕はうらやましくはなかったか」と言われて、隆顕に与えられる。その後、殿上人の方に盃をおろされて、酒宴は終った。
 今宵もきっと院は斎宮のお部屋にいらっしゃるだろうと思っていたが、「酒を過ごして、ひどく気分が悪い。腰を打ってくれ」とおっしゃって、お寝みになって、その夜は明けた。斎宮も、今日はお帰りになる。院は今日は今林殿へお出かけになる。准后はお風邪気味とのことで、今宵はまたここにご逗留なさり、翌日に、京の御所にお入りになった。

ということで、先の投稿で紹介した部分にあった「思いざし」という表現が再びここで、「実兼は傾城の思ひざししつる」という形で出てきます。
傾城とは美人のことで、ここではもちろん二条を指します。
とすると「思いざし」とは「心を込めて(愛情を込めて)酒を注ぐ」といった意味だと思いますが、久保田淳氏はこの部分について、

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「実兼は傾城の思ひざししつる」とは、おそらく後深草院が作者と実兼(雪の曙)との仲を疑ってあてこすりを言っているのであろう。
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と言われています。(『新編日本古典文学全集47 建礼門院右京大夫集・とはずがたり』、小学館、1999、p273)
また、次田香澄氏は、

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院がこういうオープンの席で、実兼を作者の愛人としてからかうところで、彼女と曙との関係が公然の秘密であったことがわかる。院のみならず、近臣の間では周知の事実だったのであろう。宮廷社会における二人の関係の在り方が、今後の作者の運命にも影響していく。
-------

と言われています。(p235)
次田氏は完全に『とはずがたり』の世界に囚われてしまっている人で、いささか深読みのしすぎのような感じがしないでもありません。
この部分に限れば、久保田氏あたりの解釈が穏当でしょうか。
ま、それはともかくとして、「雪の曙」の登場の仕方は「有明の月」とは異なっていて、「雪の曙」が登場する場面とは別に西園寺実兼が登場する場面が複数存在します。
そして、ちょうどこの場面のように、「雪の曙」=西園寺実兼でないと意味が取れない箇所があるので、『とはずがたり』において「雪の曙」が西園寺実兼の「隠れ名」であること自体は確定しているのですが、もちろん、それは作者が読者にそう読んでほしいと思って書いているからですね。
なお、「有明の月」の場合は、「有明の月」の登場場面以外に仁和寺御室の法助(九条道家息、1227-84)や性助法親王(後嵯峨院皇子、1247-83)が登場する場面はありません。
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『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その7)

2018-03-25 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月25日(日)22時53分19秒

続きです。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p229以下)

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 「今日は珍らしき御方の御慰めに、何事か」など、女院の御方へ申されたれば、「ことさらなる事も侍らず」と返事あり。隆顕の卿に、九献の式あるべき御気色ある。夕がたになりて、したためたる由申す。女院の御方へ事のよし申して、入れ参らせらる。いづ方にも御入立ちなりとて、御酌に参る。三献までは御から盃、その後、「あまりに念なく侍るに」とて、女院御盃を斎宮へ申されて、御所に参る。御几帳をへだてて長押〔なげし〕のしもへ実兼・隆顕召さる。御所の御盃を賜はりて、実兼に差す。雜掌なるとて、隆顕に譲る。思ひざしは力なしとて、実兼、そののち隆顕。
-------

【私訳】「今日は珍しいお方をお慰めするために何か趣向がございますか」と院から大宮院の方にお聞きになったところ、「格別の用意もありません」との返事だったので、院から隆顕の卿に酒宴の用意をするようにとの仰せがあった。夕方になって、準備が整った旨を申し上げる。大宮院の方へ御案内を申し上げて、お出でを願った。私はお二方(大宮院・斎宮)どちらへも御出入り申し上げている者ということで、御酌に参った。三献までは形式だけの空杯であったが、その後、「これではあまりに残念でございますから」ということで、大宮院がお盃を斎宮にさしあげて、それから院にお勧めになる。御几帳を隔てて、長押の下へ、実兼・隆顕が召される。院の御盃を私が賜って、実兼にさす。実兼は「あなたが今日の御世話役だから」ということで、隆顕に譲るが、隆顕は「(二条の)思いざしだから仕方ないでしょう」と言って、まず実兼が干した後、隆顕が干した。

ということで、最後の「思ひざしは力なしとて」の意味が取りにくいのですが、少し後に再び「思いざし」という表現が出てきます。

-------
 女院の御方、「故院の御事ののちは、珍らしき御遊びなどもなかりつるに、今宵なん御心おちて御遊びあれ」と申さる。女院の女房召して琴弾かせられ、御所へ御琵琶召さる。西園寺も賜はる。兼行、篳篥吹きなどして、ふけゆくままにいとおもしろし。公卿二人して神楽歌ひなどす。また善勝寺、例の芹生の里数へなどす。
-------

【私訳】大宮院は、「故院(後嵯峨)の御隠れになられた後は珍しい管弦の遊びもありませんでしたが、今宵は心ゆくまで遊びましょう」と申される。大宮院の女房を召して琴をお弾かせになり、院には御琵琶をお取り寄せになる。西園寺(実兼)も琵琶を頂いて弾き、兼行は篳篥を吹きなどして、夜が更け行くにつれて、まことに面白い。公卿二人で神楽を歌ったりする。また善勝寺(隆顕)はいつものように「芹生の里」を歌ったりする。

-------
 いかに申せども、斎宮、九献を参らぬよし申すに、御所御酌に参るべしとて、御銚子をとらせおはします折、女院の御方、「御酌を御つとめ候はば、こゆるぎの磯ならぬ御肴の候へかし」と申されしかば、
  売炭の翁はあはれなり、おのれが衣は薄けれど、
  薪をとりて冬を待つこそ悲しけれ
といふ今様を歌はせおはします。いとおもしろく聞ゆるに、「この御盃をわれに賜はるべし」と、女院の御方申させ給ふ。三度参りて、斎宮へ申さる。
-------

【私訳】どのように申し上げても、斎宮はお酒を召されないと私が言うと、院が「私がお酌に参りましょう」と言ってお銚子をお取りになる折、大宮院は、「御酌の役をお勤めになるのでしたら、『こゆるぎの磯』ではありませんが、お肴として余興をなさい」と申されたので、院は、
  売炭の……(炭売りの翁は哀れだなあ。自分の衣は薄いけれど、
  薪を取って、炭の売れる冬の訪れを待つのは悲しいよ)
という今様をお歌いになる。たいそう面白く聞いていると、大宮院が「このお盃を私が頂戴いたしましょう」とおっしゃる。三献おあがりになって、斎宮へお勧めになる。

ということで、酒宴はまだまだ続き、大宮院が後深草院に嫌味を言ったりする展開となります。
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