学問空間

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吉河光貞についてのメモ(その2)

2015-06-30 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 6月30日(火)08時49分32秒

戦前の治安維持法制研究の第一人者、荻野富士夫氏(小樽商科大学教授)の『思想検事』(岩波新書、2000)を見たら、吉河光貞の名前は3箇所に出てきましたが、いずれも最後の章「Ⅴ 公安検察への道」の「思想検察はなぜ断罪されなかったか」「公安検察への継承」という文脈の中での簡単な扱いですね。
吉河の経歴に出てくる「(法務庁)特別審査局」が後に公安調査庁に発展する訳ですが、1949年5月18日、衆議院法務委員会において、特別審査局の局長である吉河光貞の経歴について、共産党の梨木作次郎議員が質問しています。
リンク先の長大な議事録全体を5つに分けると、五番目の最初のあたりですね。

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/005/0488/00505180488022c.html

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○梨木委員 私の調査によれば、今法務総裁のおつしやつたように、吉河氏は学生時代に、その後一時共産党の幹部になつたことのおる田中清玄氏と、帝大の新人会において並び称せられて、学生運動をやつた経驗のある人だということは聞いております。同人の経歴は大正十三年一高に入学して、一高の社会科学研究会の最高指導者であつた、その後帝大――当時の帝大に入りまして、新人会において田中清玄氏と並び称せられて、非常に活発な学生運動をやつておつたということ、それから卒業後評議会関東木材の書記をやつておつたということで、共産党員として活動しておつたこともあるということであります。昭和五年ごろに運動から脱落したということであります。かつてそういう経歴を持つておつたからといつて、左翼運動に同情があるということは言えないのでありまして、かつてそういう経歴を持つておつた人は、その経驗を生かして、非常な辣腕と陰險な方法で左翼運動を彈圧するのであります。
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吉河の経歴と照らし合わせると、1907年生まれの吉河は1924年、17歳で一高に入学して「一高の社会科学研究会の最高指導者」となり、帝大法学部に入学後も「非常に活発な学生運動」をしていたものの、1930年、23歳で卒業した後、間もなく「運動から脱落」するので、旧制高校・大学の6年間が共産主義者としての活動期間ということになりますね。
この後、吉河が思想検事として関わった事件が詳細に列挙され、さすがに共産党の調べ方はぬるくないなと思わせますが、そこに少し微妙な表現があります。

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第三番目には、昭和十六年いわゆるゾルゲ事件において、ゾルゲ、それから尾崎秀実事件の主任として活躍しております。最初主任としてこれに参加したのでありますが、その後同人は、いわゆる学生時代に社会科学研究会へ出入りしておつたということが暴露したために、退陣を余儀なくされたということなのでありますが、この事件の檢挙において抜群の功があつたということで、表彰されておるということをわれわれは聞いております。
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この言い方だと吉河は1931年11月に高等文官試験司法科合格後、思想活動歴を隠して任官し、1941年、ゾルゲ事件を担当して暫く経ってからそれがバレた、ということになりますが、そんなことが有り得るのか、ちょっと不思議な感じがします。
ま、共産党議員からの指摘はあったものの、「國務大臣(法務総裁)殖田俊吉君」は、

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○殖田國務大臣 いろいろ御注意を承りましてありがとうございますが、吉河君はさような経歴が多少あるかもしれませんが、すでに資格審査の嚴重な審査を経ております。ことに法務廳の官吏につきましては、関係方面におきまして特に注意が届いておるのでありまして、他の官廳の官吏のごとく、しかく容易には資格審査が通過しないのであります。從いまして私は吉河君の場合は十分な審査を経て、これにパスした者であろうと考えておるのであります。人の一身上に関することで、実ははなはだお氣の毒なのでありますが、吉河君に関しましては、ただいま梨木さんのお話と逆な、左翼的な色彩が非常に強いというようなことをしきりに言つて参る方面もあるのでありまして、私はそれこれ考え合せまして十分研究いたしまして、私はまだあの人を自分の部下として使つて約六箇月足らずでありますが、今のところまことに公正で誠実であつて、思想的に彈圧を加えるとか、あるいは旧來の思想檢事のような態度は少しも認められないのでありまして、私はごくリベラルな、まじめな官吏であると実は考えておるのであります。
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ということで吉河は特別審査局長の地位を維持し、その後も順調に出世して行く訳ですね。
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吉河光貞についてのメモ(その1)

2015-06-28 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 6月28日(日)07時12分54秒

23日の投稿で吉河光貞について少し触れましたが、ちょっと気になって三国一朗が吉河をインタビューした記事、「国際諜報団『ゾルゲ・尾崎事件』」(『昭和史探訪3』、番町書房、1975、p151以下)を読んでみたところ、それなりに面白かったものの、若干のモヤモヤ感も残りました。
まず、同記事には吉河の写真が2葉出ているのですが、思想検事・公安調査庁長官という経歴から何となく予想した冷徹・酷薄な雰囲気はなく、分厚いレンズのメガネをかけた学究肌の人ですね。
インタビューの時期が盛夏で、ラフな開襟シャツを着ているため、農民運動の指導者みたいな感じにも見えます。
冒頭の人物紹介は以下の通りです。

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吉河光貞(よしかわみつさだ)
一九〇七(明治四〇)年、東京、本郷に生まれる。昭和五年、東京帝国大学法学部卒業。六年一一月高等文官試験司法科合格。東京地裁予備判事、岡山地裁検事、名古屋地裁検事等を経て、一四年九月東京区裁兼刑事地裁検事。二三年一一月、特別審査局長、二四年一月東京高検検事特審局長。二六年アメリカへ出張。二九年、最高検検事。三九年、公安調査庁長官、四十年、欧州、東南アジア、四一年アメリカへ出張。四三年、広島高検検事長。四四年退官。現在、東京都吉祥寺に在住。
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公安調査庁長官で退官かと思ったら、最後は広島高検検事長でしたね。
さすがに戦前の学生運動や共産党入党歴などには触れていません。
本文の冒頭を少し引用すると、

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─ 吉河さんは、ゾルゲ、尾崎という大物に直接お会いになって、取調べという形ではありましたが、やはり人間的な接触もおありになったと思います。ゾルゲ、尾崎の人間像を中心に伺いたいのです。
吉河 とにかく世界的な革命家ですからね。スパイだけが最高目的じゃないんで、世界革命の一環に寄与するということでやっていましたから。当面はソ連の防衛、進んでは世界の革命という、遠大な政治思想を持っている。だから、秘密の設計図を盗むとか、そういうありきたりのスパイとはディメンション(次元)がちがうんです。普通の人が考えるように、ソ連に機密を売ったとか、そういう性質のものじゃない。金は全然関係はない。やはり日本、ソ連、中国の共同体、社会主義共同体の建設が日本国民のみならず、全人類に幸福と平和をもたらす、という信念ですね。そのために情熱を燃やして仕事をし、それを望みながら死んでいったわけですね。
─ いつからこの事件を担当されましたか。
吉河 九月二八日(昭和一六年)に北林トモが、一〇月一〇日(同年)に宮城与徳が検挙された、その直後です。北林トモが捕まると自供があって宮城を押え、宮城も死線を越えて自供した。このように自供が中心になって事件が発展していくわけです。
─ 共産党員の伊藤律が密告者として働いたという説がありますが・・・。
吉河 伊藤律が検挙されたのは、日本共産党再建準備委員会の事件で、これは、前の年のことですね。伊藤の事件は、五〇名ほどの検挙者があって、割合簡単に送検されて、岡嵜格君が主任検事で調べていました、主だった者を。調べが終わったあとで、余談として民間における左翼情勢、ちらばっている残存分子を聞くわけですね。拘置所の僕の調べ室の隣りの調べ室で岡嵜君が伊藤律を調べておった。岡嵜君に「ちょっと吉河さん、来てください」と言われて行ってみると、伊藤律が調べられている。そこで伊藤が北林トモについてしゃべったことをきいたわけです。伊藤は自分の事件についてはすっかり自白して、べらべらときかれもしないこともしゃべっておりました。非常に如才のない、頭の切れる代わりに、インテリの弱さもかなり持っているサロン・マルキストでしたね。(月報参照)
-------

ということで、月報には「岡嵜君」の「伊藤律のこと」というエッセイが載っています。
伊藤律(1913-89)に対する「非常に如才のない、頭の切れる代わりに、インテリの弱さもかなり持っているサロン・マルキスト」という人物評はちょっと面白いですね。
高度なドイツ語・英語能力を買われてゾルゲ担当となった吉河は、外部からは「非常に如才のない、頭の切れる」人物と見られていたでしょうが、同時に「インテリの弱さもかなり持っている」かつての「サロン・マルキスト」と評価されていたかもしれません。
あるいは自己評価というべきか。

砂川事件判決の核心に迫らない批評〔2015-06-23〕
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♪冷蔵庫のなかで凍りかけた憲法を

2015-06-27 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 6月27日(土)10時56分41秒

暖めなおしたいのに♪

竹内まりや「家に帰ろう」

呉座勇一氏のアカウント、貴重な情報源として時々覗いているのですが、昨日は玉井克哉氏(東大先端研教授)のツイートをRTされていましたね。

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全6単位のうち4単位が割り当てられた憲法第一部の講義で、約9割が天皇制と9条で、そのほとんどがアジ演説。人権は1割で社会権以下は最後の補講1コマ。その最後、残り20分となったところで、旧軍隊で腕立て伏せを強制された体験を滔々と開陳。
-------

これを見ただけで小林直樹教授のことだろうなと思いましたが、念のため玉井氏の一連のツイートを確認してみると、やっぱりそうでした。
私はたまたま玉井氏と同学年なのですが、小林教授にここまで悪いイメージは持っていません。
というのは、私は小林教授の講義に2・3回出ただけで、つまらないので止めてしまったからです。
記憶がないので悪感情も持ちようがありません。
わはは。

当時、教養学部文科一類(法学部進学コース)は一学年630人くらいいて、その全員が入れる巨大教室で必修の憲法の講義を受けたのですが、私は講義より登山の方が大事だったので、小林教授など真っ先にパスしました。
しかし、研究者として大学に残ろうとか、大蔵省・自治省などの良い官庁に入ろうと志している人たちは「優」を集める必要があるので、つまらないなと思いながら、きちんと出席していたのでしょうね。
まあ、一種の「奴隷的拘束」(憲法18条)ですね。

小林教授の特殊事情はさておき、憲法学者が世間で軽んじられる理由としては、憲法9条をめぐる欺瞞に加え、憲法業界全体が巨大な「お受験」産業であることも挙げてよいのでしょうね。
木村草太氏によれば、職業として憲法を教えている人は日本全国で六百人ほどいるそうです。
『「学問」はこんなにおもしろい!憲法・経済・商い・ウナギ』(星海社、2014)には、

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公法学会っていう憲法と行政法の先生が参加する学会があって、現役で活動されている会員が確か一〇〇〇人くらいです。6:4ぐらいで憲法のほうが多いので、大学のポストに就いて、憲法を教えている方は六〇〇人ぐらいなのかなと思いますけど。
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とあります。(p26)
行政法学者と比べても実社会に特に役立っているとも思われない憲法学者が六百人もいるのは、ひとえに司法試験や中央・地方の公務員試験のおかげであって、憲法学者がそれなりに権威を誇示できるのも受験生相手だけですね。
そして大抵の人が受験の時期を過ぎると憲法とは縁遠くなってしまいます。
礒崎陽輔議員はその典型で、いったん公務員試験に受かってさえしまえば、自治省→総務省のような法律まみれの役所にいても、別に憲法の最新学説など全く知る必要もなく仕事は進められる訳ですね。
各界の法学部出身者は皆、それぞれの学生時代・受験時代の憲法学を冷凍保存したまま実務に追われる生活を続けるので、何かの都合で解凍を迫られると、ちょっとアタフタしてしまいますね。

「長谷部先生は、世の中の上澄みの部分を見ておられる」(by 南野森)

>筆綾丸さん
変てこな「立憲主義」もけっこう多いですね。
6月24日の投稿で触れた菅原光氏(専修大学法学部教授)の「マジックワードとしての『立憲主義』―脱魔術化と再生の試み」(松田宏一郎、五百旗頭薫編『自由主義の政治家と政治思想』、中央公論新社、2014)を読めば戦前の「立憲主義」事情が分かるのかもしれませんが、近くの図書館にはなくて内容確認は少し先になりそうです。

菅原光

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

平和時代の諸子百家 2015/06/26(金) 14:35:14
小太郎さん
立憲主義の百花繚乱・百家争鳴という感じですね。
樋口氏の「中世立憲主義」という術語には少し驚きましたが、『西本願寺寺法と「立憲主義」』というのもあるのですね。この伝でゆけば、東本願寺、延暦寺、金剛峰寺・・・等々の寺法と立憲主義の関係も論ずることができるのでしょうね。

https://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E6%A8%A9%E6%86%B2%E6%B3%95-64505
五権は行政,立法,司法,考試,監察のようですが、うち、考試は職員の衡平な選抜、監察は会計検査院の如きもの、と云ったところでしょうか。

https://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E4%B9%97-31305
大乗立憲主義、小乗立憲主義、冪乗立憲主義・・・などというのもありそうですが、一乗立憲主義は国法の根本としての立憲主義くらいの意味でしょうか。インド哲学と西洋哲学を融合させ、三権をアンジッヒ、フュールジッヒ、アウフヘーベンの関係と看做す思想・・・ではないでしょうね。
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「立憲主義」の用例と頻度(その4-完)

2015-06-26 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 6月26日(金)13時00分42秒

始めたのを若干後悔しつつ、1996-2000年の5年間69件を見ると、傾向としては1986-1995年の10年間45件と同様で、この時期までは執筆者は憲法学者に限られており、媒体もほぼ法律雑誌に限定されますね。
これが2001年に入って以降は、件数の激増とともに執筆者の範囲が憲法以外の分野の学者・弁護士・ジャーナリスト、更には市民運動家等に広がり、媒体も多様になります。
歴史学では源川真希氏「〔大坂歴史学会〕2002年度大会報告要旨:近代・部会報告 天皇機関説後の立憲主義-黒田覚の国防国家論」(『ヒストリア』180号、2002年)が嚆矢でしょうか。
とても全部は見られないので、今日現在で一番新しいものを紹介すると、『金曜日』1063号(2015年6月19日)の石川健治・星徹著「石川健治・東京大学教授に聞く 戦争法制で日本から立憲主義がなくなる 」ですね。
「徹底追及キャンペーン 悪法国会 特集 こうすれば「戦争法案」は止められる」の一環だそうです。
正直、私は『金曜日』のような雑誌はあまり読まず、またこのような雑誌に執筆している人はそれだけで信用しないようにしているのですが、毒を喰らわば皿までの心境で、この記事だけは読んでみようと思います。

>筆綾丸さん
>錚々たる法学者のトンチンカンな歴史談義
芦部信喜氏が亡くなってしまった以上、もはや誰にも正解は分かりませんが、談義参加者の諸教授が信濃事情に詳しくないのだけは明らかですね。

>北岡伸一氏の『官僚制としての日本陸軍』
北岡伸一氏を愛読するとか言いながら、これは未読でした。
さっそく読んでみます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

官僚制としての日本陸軍 2015/06/25(木) 12:31:59
小太郎さん
樋口陽一氏の著書を数冊通読しましたが、立憲主義という用語はくどいほど出てきますね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A6%E9%83%A8%E4%BF%A1%E5%96%9C
芦部信喜は長野県上伊那郡赤穂村(現駒ヶ根市)生まれなので、小県郡の真田氏とはたぶん何の関係もないはずで、錚々たる法学者のトンチンカンな歴史談義は面白いですね。上伊那郡あたりは小笠原氏の本貫地でしょうか。

https://www.chikumashobo.co.jp/blog/pr_chikuma/entry/787/
北岡伸一氏の『官僚制としての日本陸軍』を眺め、標題からしてヴェーバー的な考察かなと思いましたが、そうでもないようですね。
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「立憲主義」の用例と頻度(その3)

2015-06-26 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 6月26日(金)11時50分29秒

だんだん疲れてきたので、以下は少し手を抜いて著者・タイトルの全紹介はやめます。
さて、1966-1975年の23件を見ると、この時期の最大の出来事は樋口陽一著『近代立憲主義と現代国家』(勁草書房、1973)の登場ですね。
同書は1975年に日本学士院賞を受賞しています。
樋口氏以外の著者としては、栗城寿夫氏1件、中川剛氏5件などが目立ちます。

ついで1976-1985年を見ると、『近代立憲主義と現代国家』を受けて件数が増えるかと思いきや、逆に少し減って20件で、目立つのは佐藤幸治氏の「情報化社会の進展と現代立憲主義-プライバシー権を中心に」(『ジュリスト』707号、1980年)あたりですね。
件数としては平野武氏の6件が最多ですが、内容は『龍谷法学』に載った「西本願寺寺法制定における「立憲主義」-寺法編製会議を中心に」の(1)から(5)までと、竜谷大学社会科学研究所『社会科学研究年報』掲載の「宗教組織と立憲主義--B.Tierny,"Religion,law,and the growth of constitutional thought 1150-1650"をめぐって 」という書評ですから、テーマが若干特殊ですね。
この時期、樋口氏自身の「立憲主義」を付した論文はありません。

ついで1986-1995年の45件を見ると、件数とともに著者の範囲が広がり、そして自衛隊と立憲主義との関係をテーマとするものが登場します。
その嚆矢は小針司氏「立憲主義と軍隊」(菅野喜八郎・藤田宙靖編『憲法と行政法:小嶋和司博士東北大学退職記念』、良書普及会、1987) で、ついで浦田一郎氏「自衛権論が意味するもの-立憲主義とのかかわりにおいて(論争・憲法学-4-) 」(『法律時報』59巻6号、1987)、横田耕一氏「立憲主義が危機に瀕している-PKO協力法の成立にあたって」(『世界』571号、1992)、浦田一郎氏「立憲主義と軍事力の有効性」」(『法と民主主義』280号、日本民主法律家協会、1993)、右崎正博氏「読売「改憲」試案--総論・前文--立憲主義そのものの「簡素」化を図る読売改憲試案」(『法と民主主義』297号、日本民主法律家協会、1995)と続きます。
『世界』のような一般誌への登場もこの時期の特徴ですが、これも明らかに自衛隊との関係によるものですね。
日本民主法律家協会は共産党系の弁護士さんの団体ですが、浦田一郎氏は一橋大学教授(当時。現在は明治大学)、右崎正博氏は都留文科大学教授(当時。現在は獨協大学)で、実務家ではありません。
この時期、樋口氏も「立憲主義」をタイトルに付した論文を4本書かれているほか、『現代立憲主義の展開:芦部信喜先生古稀祝賀』上下の編者となっていますね。
なお、平野武氏は論文2本のほか、『西本願寺寺法と「立憲主義」:近代日本の国家形成と宗教組織 』(法律文化社、1988)という著書をまとめられていて、マイペースで研究されているようですね。
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「立憲主義」の用例と頻度(その2)

2015-06-26 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 6月26日(金)10時41分1秒

もう少し具体的に用例を見てみると、まず戦前の4件は、

森口繁治『立憲主義と議会政治』(大阪毎日新聞ほか、大正13)
塚本堅太郎『一乗立憲主義の概念』(一乗立憲会本部、昭和7)
宮沢俊義・田中二郎『立憲主義と三民主義・五権憲法』(中央大学、1937)
宮沢俊義・田中二郎『立憲主義と三民主義・五権憲法』(中華民国法制研究会、1937)

となっていて、3・4番目は明らかに重複ですね。
最初の『立憲主義と議会政治』の著者・森口繁治は滝川事件で辞職した京都帝大教授で、まあ、これは良いとして、2番目の「一乗立憲主義」は訳が分かりません。
宗教的なものでしょうか。
3・4番目は憲法の大家・宮沢俊義と行政法の大家・田中二郎の若き日の共著で、著者は問題ありませんが、三民主義はともかく「五権憲法」って何なんでしょうか。
ちょっとテーマは特殊な感じですね。

ついで1946-55年の7件を見ると、重複があるので実質5件で、

黒田覚「民主主義と立憲主義」(『新憲法講座』第1巻、政治教育協会、昭和21)
森順次「政治理論としての立憲主義の成立」( 『彦根経専論叢』、前進書房、1948)
石井金一郎「法典論争の一考察--家制論と外見的立憲主義」(『広島女子短期大学研究紀要』、1952)
常盤敏太「経営立憲主義提唱」(『専修大学論集』、1954)
松本三之介「明治立憲主義と政党-1-」(大阪市立大学法学会『法学雑誌』、1954)

といった具合です。
4番目は若干異質ですね。

ついで1956-1965年の15件、重複があるので実質12件を見ると、

森順次「立憲主義憲法の基本問題」(博士論文、立命館大学)
同「立憲主義憲法の再検討-序説」(『公法学の諸問題 : 渡辺宗太郎博士還暦記念』所収、有斐閣)
同「立憲主義とゲルマン思想」(滋賀大学経済学会『彦根論叢』)
同「ジョン・ロックと立憲主義の理論」(滋賀大学経済学会『彦根論叢』)
同「立憲主義の理論とルソー」(滋賀大学経済学会『彦根論叢』)
栗城寿夫「3月前期のバーデンの憲法生活における二元主義--ドイツ初期立憲主義の一側面」(1)-(3)
(大阪市立大学法学会『法学雑誌』)
J.ジーメス「ロエスラーの憲法理論における社会発展と立憲主義の関係」」(1)-(3)(国家学会事務所『国家学会雑誌』)
阿部斉「アメリカ立憲主義の形成--マサチュセッツ邦憲法制定をめぐって」(法政大学法学志林協会『法学林』)
栗城寿夫『ドイツ初期立憲主義の研究 : バーデンにおける憲法生活を中心として』(有斐閣)

といった具合です。
森順次氏と栗城寿夫氏の活躍が目立ちます。

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「立憲主義」の用例と頻度(その1)

2015-06-26 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 6月26日(金)09時47分29秒

2012年5月、自民党の礒崎陽輔参議院議員(1957年生まれ、東大法卒、自治省→総務省、憲法改正推進本部事務局長)が、「立憲主義」なんて言葉は憲法の講義では聞いていない、とツイートしてツイッター界隈ではちょっとした騒動になりましたが、実は私は少しだけ礒崎議員に同情しながら眺めていました。
言葉を知らないというのは問題ですが、政治的に意見の違う人を攻撃する際のスローガンとして「立憲主義」を用いるのはそれほど古い話ではないように思ったからです。

http://togetter.com/li/311536
礒崎陽輔議員・プロフィール(公式サイト)
http://isozaki-office.jp/profile.html

今回、石川健治氏が「(立憲主義が)民主化された戦後日本で再び多用されるようになったのは、七〇年代後半、樋口陽一の登場以降のこと」と書かれているのを受けて、国会図書館の資料検索で「キーワード」を「立憲主義」として書籍・論文を検索してみたら、

1945年以前 4件
1946-1955  7件
1956-1965  15件
1966-1975  23件
1976-1985  20件
1986-1995  45件
1996-2005 228件
2006-2015 385件
合計    689件

という結果になりました。
最後の方をもう少し細かく見ると、

1995-2000  69件
2001-2005 159件
2006-2010 178件
2011-2015 192件

となっているので、用例が極端に増えるのは2001年以降と考えてよさそうですね。
2001年以降が533件ですから、全体689件の約77.4%となります。
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「芦部さんは、荷造りの名手であった」(by 松尾浩也)

2015-06-25 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 6月25日(木)08時28分33秒

石川健治氏の論文を探して『法学教室』(有斐閣)のバックナンバーを繰っていたところ、松尾浩也氏の「芦部信喜先輩の想い出」というエッセイに出会って、ついつい読み耽ってしまいました。(230号、1999年11月)

------
 月刊法学教室がスタートしたのも一九八〇年のことである。芦部さんは、最年長の編集委員として、「憲法講義ノート」の連載を始め、雑誌の充実に多大の貢献をされた。編集会議は、星野英一、田中英夫の両教授が広い視野からの議論で全体をリードし、それに竹内昭夫、塩野宏の両氏が当意即妙の合いの手を入れるような形で進行することが多かったように思うが、ことが憲法論や国家論などの高みに至ると、芦部さんの重厚な一言が決めてになった。
------

芦部信喜氏は1923年生まれで1999年に76歳で亡くなり、この追悼記事の筆者、刑事訴訟法の松尾浩也氏より5歳上ですね。
上記引用部分に登場されている著名教授陣は昭和一桁生まれの世代ですが、英米法の田中英夫氏(1927-92)、商法の竹内昭夫氏(1929-96)は六十代で亡くなられ、民法の星野英一氏(1926-2012)も最近亡くなられて、ご存命は行政法の塩野宏氏と松尾氏だけですね。
星野英一氏はカトリック信者の生真面目な秀才で、かなりの早口なのに声が渋いので聞きやすく、長身の田中英夫氏は落ち着いた語り口の英国風紳士。他方、痩身の竹内昭夫氏はしゃがれ声で時々辛辣な皮肉を飛ばし、マシンガントークの塩野宏氏は法学部教授陣で一番口の悪い人でもあったので、何となく編集会議の雰囲気が想像できます。
ふむふむ、なるほどと宇奈月温泉しながら読み進んだのですが、次の箇所は少し変に思いました。

-------
 四半世紀にわたるおつきあいの間に、意外の感に打たれたこともある。芦部さんは、荷造りの名手であった。その腕前には、人をして瞠目させるものがあったらしい。田中英夫ご夫妻がハーヴァード大学の滞在を終え、イギリスに渡ろうとして引っ越しの準備をしておられたが、思いのほか荷物が多く、ダンボールの箱や大きな袋が十数個にも上ってやや途方に暮れていた際、芦部先輩が登場し、みごとな手つきで荷物を作り直し、個数をほとんど半減して、しかもしっかりと綱をかけて仕上げるという離れ業を披露されたそうである。この才能が何に由来するのか、芦部さんご不在の席で一度話題になったことがあり、そのときの結論は、信州には武勇と機略をもって知られた真田十勇士の言い伝えもあり、真田紐はいまでも有名なので、きっとその流れを汲んでおられるのだろうという、何やら立川文庫風のものだった。直接伺って見たいと思いながら、それを果たすことはとうとう叶わなくなってしまった。
-------

まあ、普通に考えれば芦部氏が荷造り名人になったのは軍隊の経験によるのではないですかね。
芦部氏は学徒出陣で愛知県かどこかの基地に行き、米軍の空襲から練習機を守るため、近くの岡に待避壕を掘る作業の責任者となって数ヶ月かけてそれを完成させたことがあるそうで、その種の経験は荷造りには役立ちそうですね。

松尾浩也氏(日本学士院・会員一覧)
http://www.japan-acad.go.jp/japanese/members/2/matsuo_koya.html
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マジックワードとしての「立憲主義」

2015-06-24 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 6月24日(水)07時34分8秒

石川健治氏の「「京城」の清宮四郎─『外地法序説』への道」(酒井哲哉・松田利彦編『帝国日本と植民地大学』所収、ゆまに書房、2014)という論文を読んでみたところ、「豊かな響きをもつマジックワードとして」の立憲主義という表現を見つけました。(p315)

------
1.松岡修太郎の「京城」
 全く未知の半島の地を初めて踏んだのは、もう二た昔も前の秋であった。澄み渡った碧空と乾き切った赫土、痩せたポプラ並木の点景、そして河床を道として牛を追う白衣の農夫。車窓から眺めた風物が僅か玄界灘一つ渡っただけで少なからず変わっているのに、先ず好奇の眼をみはったのであるが、それにも増して戸惑ったのは、自分がこれから教壇に立って講じようとする憲法・行政法が、ここでは内地とその貌ちをかえていることであった。・・・・・・これは、われわれが内地に在ってそれまでに教科書や講義で殆ど学び得なかったことであった」
 これは、清宮の同僚であった二歳年長の松岡修太郎が、一九二二年の晩秋、憲法・行政法・国際公法の講師嘱託(一ヶ月後には教授)として、京城法学専門学校に赴任した折の心象風景である。彼はまだ、二十二年三月に東京帝大法学部を卒業したばかりの、若者であった。蒸気機関車に引かれて京釜線を北上する急行列車の窓越しに、若きインテリが投げかける好奇と愛情に満ちた視線。大正デモクラシーを謳歌した立憲主義者松岡は、朝鮮人を劣等視する「人種的僻見」を排した良心的な殖民者であった。彼は早速、「立憲政治」の革新としての「国民自治」の漸次的実現への階梯として、朝鮮半島における地方自治制度の早期確立に向けて論陣を張った。内地の憲法史においても、まずは、地方自治レヴェルで、民選地方議会を認める一八七八年の府県会規則(太政官布告第十八号)が先行し、その後に、国政レヴェルでも帝国憲法や帝国議会が成立した、という経緯を視野に入れてのことであった。
【中略】
 とりわけアングロ・サクソンの政治社会にシンパシーを抱いた松岡は、英連邦の自治主義のなかに植民地朝鮮の未来をみた。そして、帝国日本の構築性を強調しがちなドイツ流の国家学説よりは、やわらかな英国ふうの立憲主義言説を好んだ。一口に「立憲主義」といっても、ドイツ流儀によれば、絶対王政と民主制の過渡期の言説としての色彩が強かったため、現在のように豊かな響きをもつマジックワードとして用いられてはいなかった。だが、京城で松岡が植民地インテリ向けに提供した立憲主義の解説は、その意味では全く古さを感じさせない。
-------

最近、何かに取り憑かれたように「立憲主義」を叫ぶ人が増えたので、この言葉の用法の変化に興味を持っているのですが、「現在のように豊かな響きをもつマジックワードとして用いられてはいなかった」に付された注42を見ると、

-------
(42)民主化された戦後日本で再び多用されるようになったのは、七〇年代後半、樋口陽一の登場以降のことである。参照、樋口陽一『近代立憲主義と現代国家』(勁草書房、一九七五年)、同『近代憲法の思想』(日本放送出版協会、一九八〇年)。
-------

とあります。
どうやら「立憲主義」には二つのブームがありそうですね。
検索してみたところ、菅原光氏の「マジックワードとしての『立憲主義』」(北岡伸一監修『歴史のなかの日本政治1 自由主義の政治家と政治思想』所収、中央公論新社、2014)という論文を見つけたので、これは読んでみたいと思います。

『歴史のなかの日本政治1 自由主義の政治家と政治思想』
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/29499451.html
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砂川事件判決の核心に迫らない批評

2015-06-23 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 6月23日(火)08時37分37秒

>筆綾丸さん
>野村佐太男
名古屋高検検事長で退官し、ロッキード事件の丸紅弁護団団長だったそうですね。
「検察官 清原邦一 村上朝一 井本台吉 吉河光貞」も味わい深いメンバーで、清原邦一(1899-1967)は当時の検事総長、村上朝一(1906-87)は後に最高裁判所長官、ゾルゲ事件に関係した井本台吉(1905-95)は後に検事総長、同じくゾルゲ事件に関係した吉河光貞(1907-88)は後に公安調査庁長官ですね。
経歴的に一番変化に富んでいるのは吉河光貞で、東京帝大法学部在学中に新人会に入り、田中清玄と親しく、共産党にも入党。転向後は思想検事になり、戦後は公職追放されることもなく、出世の最後は公安調査庁長官ですからねー。
司法関係者に公職追放の対象者が極めて少ないのはちょっと不思議で、「しんぶん赤旗」によれば、

-------
弾圧に関与した裁判官・検察は戦後どうなったの?
【中略】
 生活綴方(つづりかた)教育の村山俊太郎を弾圧した予審判事・長尾信が松川事件第1審で5人死刑、5人無期懲役という異常な判決をした裁判長になる。京都学連事件以来多くの弾圧にかかわった思想検事・池田克が最高裁判事となり、公務員労働者のストライキ権を問答無用に違法とした「3・15判決」(63年)を下す。ナウカ社社長弾圧などの予審判事の経歴をもつ石田和外最高裁長官が、「燈台社」事件、朝鮮人弾圧事件などに関与した元判事・岸盛一最高裁事務総長や、「満州国」の高等法院判事として多くの中国人民を残虐に弾圧した飯守重任鹿児島地裁所長らとともに、青法協攻撃の先頭に立つ。土方与志の起訴やゾルゲ事件などを担当した思想検事・吉河光貞が戦後、初代公安調査庁長官となり共産党中央委員追放などをおこなう。1938年の労農派学者グループ弾圧事件の担当検事・井本台吉が、最高検検事総長となり、日通事件(68年)では東京地検が捜査中なのに渦中の池田正之輔代議士と会食する。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-02-23/20060223faq12_01_0.html

という具合ですからねー。
ま、個々人の評価については上記記事に全て賛成する訳ではありませんが、全体として奇妙な感じは否めないですね。
ちなみに「飯守重任鹿児島地裁所長」は田中耕太郎の実弟ですね。
飯守重任で検索したら子息の指揮者・飯守泰次郎氏に関する記事がありましたが、飯守重任は戦後11年間、中国・ソ連に抑留されているので、国内で公職追放になるより遥かに苦労した人ではありますね。

産経新聞(2014.7.30)
「指揮者・飯守泰次郎さん 11年間の空白を音楽が埋めた」
http://www.sankei.com/life/news/140730/lif1407300023-n1.html

>「いわんや本件駐留が違憲不法なものでないにおいておや」
「いわんや」なら「をや」で終わらないと落ち着かないですね。

>ポリチカル・クエスチヨン
なまってますね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「お白洲の印籠」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7853

※追記(7月5日)
引用した「しんぶん赤旗」記事に「思想検事・吉河光貞が戦後、初代公安調査庁長官となり共産党中央委員追放などをおこなう」とありますが、1957年に発足した公安調査庁の初代長官は藤井五一郎であって、当該記述は明らかな誤りです。
吉河光貞が公安調査庁長官となったのは1964年で、藤井五一郎・斎藤三郎に次ぐ第三代長官ですね。
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田中耕太郎の改宗

2015-06-22 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 6月22日(月)09時59分31秒

>筆綾丸さん
私も別に黒田俊雄氏に義理立てしなければならない立場ではありませんが、昔はある程度熱心に読んだので、ついついムキになってしまいました。
でもまあ、去年、黒田氏が三十代半ばになるまでウェーバーを読んだことがなかったという事実を知って以降、権門体制論を含め、中世国家論にはちょっと興ざめ状態です。

吉田晶氏「『権門体制論』のころ」〔2014-05-07〕

>田中耕太郎
一昨年、砂川事件の判決前に田中耕太郎がアメリカ大使館の高官と会っていたことが明らかになり、世間一般では「司法の独立を揺るがす重大な問題」みたいな扱いでしたね。

NHK「覆された在日米軍違憲判決」

共産党系の「青年法律家協会弁護士学者合同部会」サイトでは、

------
報道によれば、駐留米軍の憲法9条適合性が争点となった砂川事件について、当時の最高裁田中耕太郎長官がアメリカ側と接触し判決の見通しなどの審理情報をアメリカ側に提供していた事実が法学研究者による情報開示請求により明らかになった。
開示された資料は、マッカーサー駐日大使から米国務長官に送られた秘密書簡であり、1959年7月31日にレンハート駐日主席公使が起草したものである。
同書簡には、当時の最高裁長官であった田中耕太郎が、レンハート駐日主席行使に対して、自らが最高裁大法廷の裁判長を務めている砂川事件上告審の審理の見通し、判決日の予定、判決内容について、共通の友人宅での会話の中で語ったとの報告が記載されている。

などと紹介しています。
二番目の「レンハート駐日主席行使」は「公使」のワープロミスでしょうね。
別に共産党支持者ではない私にとっても、「青年法律家協会弁護士学者合同部会」の<「砂川事件」最高裁元長官のアメリカ側に対する情報漏えい問題について、最高裁、日本政府による徹底調査、真相究明を求める議長声明>はそれなりに納得できるご意見ですが、この後、最高裁の反応はどうだったのか。
完全無視で終わってしまったのですかね。
ま、それはともかく、私は一連の経緯を見て、田中耕太郎の行動パターンは1939年の平賀粛学の際、東大法学部内の激論を強引にまとめあげた時と似ているのではないか、という妙な感想を抱いたのですが、その点は機会があれば後でここにも書きたいと思っています。

田中耕太郎は内村鑑三の弟子であったのに、後にカトリックに改宗した点でも興味深い人物ですが、国会図書館サイトで検索したところ、森川多聞という方が「田中耕太郎の改宗─内村との決別と「他者」」(『日本思想史研究』38号、2006)なる論文を書かれているそうで、これは是非読んでみたいですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

最初の ’89 2015/06/21(日) 14:28:39
小太郎さん
久野収・鶴見俊輔の顕教・密教論は、たしかに、ただの思いつきのような塩梅ですね。

http://www3.nhk.or.jp/nhkworld/english/news/20150620_15.html
こういう事件があると必ず、銃規制の話が出るものの、やがて有耶無耶になりますが、「Many insist gun ownership is the right of Americans and guaranteed by the Constitution.」とあり、国家の最高法規が長年認めてきたものだから銃規制は無理だろう、という気はしますね。
http://kyoto-academeia.sakura.ne.jp/blog/?p=2407
木村草太氏の言われるように、「憲法は、一方では、その国や国民がもつ固有の意思や物語が書き込まれたもの」だから。

https://en.wikipedia.org/wiki/Bill_of_Rights_1689
この権利が Bill of Rights(1689)に由来するというのは、ちょっと驚きでした。

http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~suga/hanrei/96-3.html#okuno-iken
砂川事件判決に関する「裁判官田中耕太郎の補足意見」として、
------------------------
一国が侵略に対して自国を守ることは、同時に他国を守ることになり、他国の防衛に協力することは自国を守る所以でもある。換言すれば、今日はもはや厳格な意味での自衛の観念は存在せず、自衛はすなわち「他衛」、他衛はすなわち自衛という関係があるのみである。従つて自国の防衛にしろ、他国の防衛への協力にしろ、各国はこれについて義務を負担しているものと認められるのである。
-----------------------
とあって、政府はこの「自衛=他衛」論を参考にしている節がありますが、最高裁判決の「補足意見」(意見・反対意見)には、そもそも、どのような法的意味(法的地位?)があるものなのか。主文と理由だけで必要充分であり、補足意見(意見・反対意見)など、あらずもがなの蛇足ではあるまいか、という気がしないでもありません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A4%E6%B1%BA%E7%90%86%E7%94%B1
オビタ・ディクタム(obiter dictum)ですらない、と。

http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1321
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9F%E7%94%A8%E3%82%AC%E3%82%A8%E3%83%AB
文藝春秋9月号『昭和天皇、大正天皇を育てた桑野鋭傅育官の「肉筆日誌」』には興味深い話がたくさんあります。桑野鋭は「東洋自由新聞」で中江兆民の同僚だったのですね。
昭和天皇は摂政宮のとき、桑野の影響か、蛙料理を食べられたそうですが、それはウシガエルではなくトノサマガエルだったのでしょうね。後者の方が美味しそうです。

彬子女王の特別手記『母には三笠宮両殿下にお詫びしてほしい』ですが、なぜこんなつまらぬ話を堂々と公開したのか、よくわかりません。
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ひろゆきや 芦部は遠く なりにけり (その2)

2015-06-21 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 6月21日(日)09時26分55秒

ここ数日、『公法研究』『国家学会雑誌』『ジュリスト』『法律時報』『法学教室』等のバックナンバーを当たって石川健治氏の論文をコピーし、集中的に読んでいるのですが、どれも面白いですね。
哲学用語が頻出する難しい論文も多いのですが、憲法学界における長谷部恭男氏以降の新しい動きも一応把握することができました。
6月15日の投稿、「四番目の89年」で触れた1985年の謎は、石川氏と奥平康弘・高見勝利氏との鼎談「戦後憲法学を語る」(『法学教室』320号、2007)に回答がありました。(p11以下)

-------
(前略)1985年というのは、本誌の巻頭言(2006年5月号)にも書いたことですけれども、やはり憲法学の曲がり角の一つだったと思います。私の学生時代は、芦部先生の憲法訴訟論の圧倒的な支配下にありましたから、よく友人から「芦部先生があれだけおやりになっていて、あと何やることが残っているの」と言われたものです。ところが、いざ大学に残ってみると、まさにそれが曲がり角を迎えていて、次々に憲法訴訟論批判が立ち上がってくるということがありました。
 私にとって特に大きかったのは、少し上の世代の生意気盛りの先輩たち、具体的には棟居快行さん、内野正幸さん、安念潤司さん、長谷部恭男さん、といった4人の存在で、彼等の大胆で鋭利な議論が、我々から芦部先生の呪縛を一気に取り去ってくれました。しかし、そうなると、今後の憲法学をどうするか、というと口幅ったいですが、要するに、我々若手はこれからどういう論文を書くべきか、ということが問題になってきます。一方には、憲法解釈論を、憲法訴訟論のようなアメリカ直輸入の中途半端な議論ではなく、訴訟法学も咀嚼した上で、もっと解釈論としてきちんと立て直すべきである、という考え方がありました。他方で、芦部先生は、アメリカでそうだから、ということはおっしゃったけれども、なぜそうなのかということをおっしゃらなかった。そういうところに、政治哲学や法哲学の活況が伝えられて、やはり憲法学者も法哲学をきちんとやらなければいけない、という見解も強くなってくる。
 対照的な方向性を持つ強力な先輩たちの影響を、これからは解釈論と原理論のいわば両刀遣いができなくてはならない、という形で受け止めたというのが、ちょうど私の年代にとっての憲法学の原イメージだったような気がします。そういう問題意識が、今年の法学教室の「憲法の解釈」という連載企画にも、反映されているといえそうです。その後、どちらかというと、一方の柱だった法哲学、政治哲学に傾斜した議論の方が、より若い世代の憲法学を支配するようになっていった観がありますが。
--------

極めて乱暴に要約すると、1985年以降は憲法の論文に哲学用語が夥しく流入してきた、ということですね。
長谷部恭男・石川健治氏の論文はその典型で、私のように哲学の素養の乏しい人間には極めて難解ですが、全然理解できないということもなくて、いかにもアカデミックな、非常に高尚な雰囲気に浸れる点はありがたいですね。
ただ、現在問題になっている憲法9条の解釈あたりになると、1990年代になって長谷部恭男氏が自衛隊合憲論を論じたのが極めて新しい動きという具合に、他の分野に比べて古色蒼然たる領域に止まっていて、その落差が奇妙ですね。
最近の「立憲主義」を政治的スローガンとして用いる動き、集団的自衛権を認めるのは立憲主義に反するみたいな運動は理屈の上では無理が多くて、現在の騒動が沈静化した後には反省の動きも出てきそうです。
例えば長谷部恭男氏の考える「立憲主義」概念に照らすと、今なお憲法学界の通説である自衛隊違憲論は「立憲主義」に反するという驚愕の事態になるのですが、長谷部フィーバーの中でそういうことを指摘するイヤミな人は少ないでしょうね。

四番目の89年〔2015-06-15〕
ひろゆきや 芦部は遠く なりにけり〔2015-04-07〕

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ラウンド君の教訓

2015-06-20 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 6月20日(土)08時48分56秒

>筆綾丸さん
感じの悪い書き方だと思いますが、黒田俊雄云々の部分は私としても一言言わざるをえない内容でした。
仏教について特に研究したとも思われない久野・鶴見氏に黒田俊雄氏が影響されるようなことは全くありえなかったと思います。
一昨年のラウンド君の一件で、筆綾丸さんと私の考え方を一体的に捉える人が意外に多いのかもしれないと感じましたので、重要な点については違いを明確にしておきたいと思います。

ちなみにラウンド君はツイッターのアカウントを閉鎖したようです。
私も一件後、数ヶ月くらいは観察していたのですが、ラウンド君は時々感情の抑制が効かなくなるようで、つまらないトラブルを何度も起していましたね。

丸島和洋氏のご意見
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a13b5bb5ba75b6b580fb6381da91abfb
職人さんとの対話
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d49c1468f83c47057d6d028924e42f5d
金子堅太郎とホームズ判事
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a93b1209328804c9890f8954e990263b
書評:丸島和洋著『戦国大名の「外交」』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0ac71f315a069919f1402e7c924d889d

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久野収・鶴見俊輔について

2015-06-19 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 6月19日(金)09時33分52秒

>筆綾丸さん
ご引用の「顕教と密教」論は1950年代の市民運動の中では多少の政治的意味があったのかもしれませんが、学問的には洗練されたものではないですね。
論者によれば「顕教とは、天皇を無限の権威と権力を持つ絶対君主とみる解釈のシステム、密教とは、天皇の権威と権力を憲法その他によって限界づけられた制限君主とみる解釈のシステム」とのことですが、密教のごく一般的・初歩的な意味は「秘密の教え」ですので、私にはそもそも後者を「密教」に譬える感覚が理解できません。
「天皇の権威と権力を憲法その他によって限界づけられた制限君主とみる解釈」は明治憲法制定直後からごく普通に流布していますし、天皇機関説も別に特定大学だけで秘伝的に教えられていた訳でも何でもなく、美濃部の教科書は普通に出版されていましたし、易しい通俗講演的な出版物も沢山出ています。
宮沢俊義『天皇機関説事件─史料は語る(下)』所収の検察・警察関係者の座談会記録(出席者:唐沢俊樹・戸沢重雄・白根竹介・中村敬之進・林茂)によれば、天皇機関説事件のとき、当局が憲法を論じている本を四百冊ほど集めたところ、殆ど全てが機関説だったという話もあります。
この掲示板でも天皇機関説事件やその前後の思想弾圧については何度か取り上げましたが、今さら久野収・鶴見俊輔の「顕教と密教」論に何か学ぶべきことがあるのだろうか、というのが私の率直な感想です。
なお、黒田俊雄の「顕密体制論」との関係も特にないと思います。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

鶴久顕密体制論 2015/06/18(木) 15:06:25
https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/41/1/4120410.html
いまさらですが、久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想ーその五つの渦ー』(1956年)における「顕教と密教」の論点が気になり、拾い読みしてみました。

----------------
 しかし天皇の側近や周囲の輔弼機関からみれば、天皇の権威はむしろシンボル的・名目的権威であり、天皇の実質的権力は、機関の担当者がほとんど全面的に分割し、代行するシステムが作りだされた。
 注目すべきは、天皇の権威と権力が、「顕教」と「密教」、通俗的と高等的の二様に解釈され、この二様の解釈の微妙な運営的調和の上に、伊藤の作った明治日本の国家がなりたっていたことである。顕教とは、天皇を無限の権威と権力を持つ絶対君主とみる解釈のシステム、密教とは、天皇の権威と権力を憲法その他によって限界づけられた制限君主とみる解釈のシステムである。はっきりいえば、国民全体には、天皇を絶対君主として信奉させ、この国民のエネルギーを国政に動員した上で、国政を運用する秘訣としては、立憲君主説、すなわち天皇国家最高機関説を採用するという仕方である。
(中略)
 軍部だけは、密教の中で顕教を固守しつづけ、初等教育をあずかる文部省をしたがえ、やがて顕教による密教征伐、すなわち国体明徴運動を開始し、伊藤の作った明治国家のシステムを最後はメチャメチャにしてしまった。昭和の超国家主義が舞台の正面におどり出る機会をつかむまでには、軍部による密教征伐が開始され、顕教によって国民大衆がマスとして目ざまされ[sic]、天皇機関説のインテリくささに反撥し、この征伐に動員される時を待たねばならなかった。
 この連合勢力の攻撃に直面したとき、明治の末年以来、国家公認の申しあわせ事項であった天皇機関説、明治国家の立憲君主的解釈は、天皇自身の意志に反してさえ、一たまりもなく敗北させられたのである。国民大衆から全く切りはなされた密教であるかぎり、この運命はまことにやむをえなかった。密教は、上層の解釈にとどまり、国民大衆をとらえたことは、一回もなかったのである。(131頁~)
----------------

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E5%AF%86%E4%BD%93%E5%88%B6
黒田俊雄の「顕密体制論(1975年)」は「鶴久顕密体制論(1956年)」にヒントを得て構想されたものではあるまいか、と思いました。もっとも、だから、どうしたんだ、というようなことにすぎませんが。(蛇足ながら、鶴久は「かっきゅう」「つるく」ではなく素直に「つるひさ」と読みます)

600年と3日後のこと
http://www.bbc.com/news/blogs-eu-33169050
BBCのワーテルロー200年祭の記事はシニカルですね。
--------------
It is true that Paris is sending only an ambassador to mark the last of Napoleon's battles.
--------------
only an ambassador の only は、大統領とは言わないが、外相くらい出席してもいいのではないか、というようなニュアンスですかね。
Marengo, Austerlitz, Friedland, Wagram はすべてパリ市内の地名に選ばれているのに、Waterloo だけはないですね、当たり前ですが。パリ市内を歩けば、犬が棒にあたるように、ナポレオン・グッズに遭遇する・・・。
BBCとフランスの200祭報道は内容がずいぶん違い、EUの時代とは言いながら、国家意識丸出しなのは、これも当たり前のことですね。
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「マグナ・カルタ神話の創造」(その2)

2015-06-17 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 6月17日(水)07時44分51秒

長大な論文ですが、最後の方に要領良くまとめられている箇所があるので引用してみます。

-------
六 むすびにかえて─クックによるマグナ・カルタ神話の創造

 前節までで我々は、一二一五年に生れたマグナ・カルタが一二二五年の再発行により文言が確定したこと、以後しばらく国王の専制に対する精神的武器としてしばしばその確認という方法で利用され、その時々の現実劇問題は付属文書で解決されてきたこと、その後もこのマグナ・カルタの象徴的意義は失われなかったが、マグナ・カルタが規定していることと現実とが余りにも乖離し出したこともあり、一四世紀にはほとんど専ら象徴としてのみ用いられて、現実への働きかけという側面を失ってきたこと、かくして中世末に近づくにつれこの象徴的意義も薄らぎ、ついに中世末には政治の世界からマグナ・カルタは忘れ去られたこと、テューダー朝の下でもこの傾向は強まりこそすれ弱まることはなかったこと、シェイクスピアの『ジョン王』はかかる精神的風土の下で描かれ、かくしてそこにはマグナ・カルタへの言及すらなかったこと、しかるにこの同じ時代にルネサンスに伴う好古趣味的研究を通じ、マグナ・カルタの成立・確認の歴史とその条文自体が漸次明らかにされ、又印刷術の発明に伴い、それらが広く一般化してきたこと、これらの情況の下で反絶対王政勢力の人々が─しかもその最初の頃はモアに代表されるカトリック側の者が、次いでエリザベス朝に入るとピューリタン・コモン・ロー法律家が─マグナ・カルタを自らの抵抗の法的根拠として用い出してきたこと、この動きはステュアート朝の開始とともに始まる反絶対王政闘争の急激な変化・高まりとともに、運動の論理的基本はそのままでありながらも政治的には大きな変質を遂げ、マグナ・カルタは単なる「負け犬」の法廷闘争での一根拠から漸次現実政治の核心・憲法闘争の根本に位置するまでに高められ、闘争の場も法廷からむしろ議会へ移ってきていること、ついに一六二八年にはマグナ・カルタをモットーにした反絶対王政勢力によりマグナ・カルタの近代版とも呼びうる権利請願が生み出されたこと、そしてこのような変質を生ぜしめた中心的人物こそが我々が先にシェイクスピアと対置したクックであったことなどを見てきた。
-------

小山貞夫氏は「こと」を並べるのが好きらしく、数えたら実に11項目の「事書き」ですね。
この後、改行なしに更に「次に我々はこのように十七世紀に重大な働きをすべく復活させられたマグナ・カルタが、あくまでも神話であって、決して一三世紀のマグナ・カルタそのものではなかったことを確認しておきたい」と続くのですが、さすがに長くなりすぎるので省略します。
30年以上前の論文ですが、小山氏がこれだけ詳しく検討されている以上、この問題についての新たな知見というのも実際上なさそうですね。
ちなみに『イングランド法の形成と近代的変容』の巻頭には「恩師世良晃志郎先生に捧ぐ」とあります。
奥付の著者略歴によると小山貞夫氏は「1936年横浜生れ.1959年東北大学法学部卒業.現在東北大学法学部教授」とのことなので、樋口陽一氏より2歳若く、ほぼ同時期に共に世良晃志郎氏に学んだ方なんですね。
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