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一橋大学名誉教授・中村政則の「カラクリ」第二部

2018-11-30 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月30日(金)13時56分10秒

11月27日の投稿、「設問:一橋大学名誉教授・中村政則の「カラクリ」について」においては、

中村の「カラクリ」の内容と、中村がこのような「カラクリ」を「考案」した理由について考察せよ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e8ee2cf121a12cc91b07e4be9bb165e

と書きましたが、そこに引用した文章だけでは、後者はちょっと分からないですね。
そこで、改めて前回投稿で紹介した部分の続きを引用してみます。(p99以下)
p99には「女工の賃金用途」というタイトルの一覧表があって、「平均額は受給者の平均額。笠原組「工女試験勘定帳」より作成」との説明があります。
この表を全て紹介するのは煩瑣に過ぎるので省略しますが、明治24(1891)、明治41(1908)、明治42(1909)、大正5(1916)、大正8(1919)の各年次と出身地別に「手付金」「前貸金」「内渡」「年内内渡」「盆」「その他」「残額」「賃金総額」が計上されていて、「賃金総額」から「1人平均額」(円)だけを抜き出すと、

明治24(1891) 各県 17.70
明治41(1908) 山梨 50.28
明治42(1909) 各県 43.59
大正5(1916)  岡谷 61.66
        山梨 81.19
大正8(1919) 岡谷 156.65
        山梨 129.44

となっています。
本文でも言及されているように、1919年の数字は突出していますね。
では、本文を紹介します。

-------
賃金と小作料

 では、このような苛酷な賃金制度のもとで、女工は一年間にどの程度の賃金を得、そのうち、女工自身が使える金額はどれほどであっただろうか。笠原製糸場を例にとった上の表では、用途をこまかく七項目にわけてあるが、大別すれば、

(1)手付金・前貸金・内渡〔うちわたし〕・年内内渡─ほとんどは親の手にわたる。
(2)盆・その他─女工の小づかい。
(3)残額─翌年度に支払われるもの。

の三グループに、まとめることができる。(1)の「内渡」は、年の途中で自宅に送金したり、父兄などが出向いたときに支払われるものであり、そのほとんどが、父兄に直接手わたされるものと考えてよい。「手付金」は女工との契約時に手わたすものであり、また「前貸金」あるいは「別貸金」は、貸金というかたちをとっているが、女工獲得の手段に利用された。両方とも賃金の前払いともいうべきもので、これも直接に父兄の手へわたるものである。また、(2)に「盆」とあるのは、女工がお盆のときに使った小づかいであり、「その他」には、牛乳代・薬代・日用品代・観劇料などがふくまれている。いずれにせよ、これも小づかいである。そして、(3)の「残額」は、工場主が製糸賃金の一部をわざと未払いとして翌年度にのこしておく分である。これは俗に「足どめ金」といわれたもので、女工が他工場に移ることを防ぐ手段として利用された。したがって、女工がもし翌年度に就業を継続しないばあいには、その残額を支払わない工場もあった。
 さて、以上(1)・(2)・(3)の比率を計算してみると(1)が圧倒的比重をしめていて、明治二四年の七五・二パーセントを最低に、大正八年の岡谷出身女工分の九一・七パーセントを最高にして、ほぼ八〇~九〇パーセントをしめる。いうまでもなく、これが家計補充分にあたる。(2)の女工の小づかいは、大正五年の岡谷の二パーセントを最低とし、明治二四年の一四・六パーセントを最高としているが、これからみて、女工が自分のためには金銭をほとんど使っていないことがわかる。(3)の「残額」は、明治二四年の一〇・二パーセントを最高に以後しだいに低下し、大正八年の山梨県出身女工分はわずか〇・七パーセントにまで低下している。大正八年は生糸ブームで糸価が高騰し、平均賃金が一〇〇円をこえ、「百円工女、百円工女」といって農家をおどろかせた年でもあった。これらの検討から問題にしたいのは、つぎの点である。
 いまでは古典的地位にある『日本資本主義分析』を著わした山田盛太郎は、戦前日本資本主義の構造的特質は資本主義と半封建的地主制との強固なむすびつきにあるとし、その両者の関係はとりわけ低賃金と高率小作料との相互規定関係としてあらわれると指摘した。「賃銀の補充によって高き小作料が可能とせられ、又逆に補充の意味で賃銀が低められるような関係の成立」という山田の有名な文章は、そのことを簡潔にしめしたものである。この意味するところは、女工の得る賃金によって、はじめて小作農家は地主にたいして高い小作料を払うことができ、また、逆に女工賃金は一家を養うだけの高さを必要とせず、家計の補充になれば足りるということから低賃金でもすむ、ということである。そして、このような内容をもつ高率小作料と低賃金の相互規定=相互制約の関係が、まさに戦前日本資本主義の基礎をささえ、かつ、それの急速な発展を可能にしたと主張されたのである。
 この山田説は、その後、学界の通説となっている。それでは同氏はそのことを具体的に論証したかというと、かならずしもそうとはいえない。というのは、女工の得る賃金が低賃金であること、たとえば紡績女工の賃金がインド以下的水準にあることは証明されたが(一六八ページ以下参照)、それが家計補充的であったことについては、なんの論証もしていないからである。ところが、これまで考察したことからもあきらかなように、製糸女工の基本的出身階層はたしかに小作貧農であり、しかも、その賃金の圧倒的部分は家計補充部分として一家の家計を補充していることが判明した。高率小作料と低賃金の関係は、まぎれもなく存在しており、その意味からしても、製糸女工は戦前日本資本主義の特質を一身に体現する象徴的存在であったのである。
-------

私には中村が、自身の言うような「証明」「論証」をできたとはとうてい思えないのですが、その評価は次の投稿で行ないます。
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「師の永原慶二」と不肖の弟子

2018-11-30 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月30日(金)12時15分19秒

>筆綾丸さん
> titolazione の中にある titolo が「糸目テトロ(繊度)で しめ殺す」のテトロで

1859年の開港から1880年代初頭まで、生糸の主要輸出先はフランスを中心とするヨーロッパ市場だったので、製糸関係の言葉はフランス語・イタリア語が多いですね。
テトロはちょっと気になっていたのですが、イタリア語ですか。
ご教示、ありがとうございます。


>一橋大学の「5」

中村政則氏は『日本の歴史第29巻 労働者と農民』(小学館、1976)の「月報29」で『あゝ野麦峠』の山本茂実、『サンダカン八番娼館』の山崎朋子と「底辺史研究への直言」という鼎談をしているのですが、山本茂実とはずいぶん気が合ったようで、一緒に野麦峠に旅行に行ったりしたそうですね。
その「略歴」には、

-------
一九三五年(昭和一〇年)東京は新宿の生まれ。一橋大学商学部卒業後、六六年(四一年)に同大学院経済学研究科博士課程を修了し、講師を経て、現在は同大学経済学部助教授。師の永原慶二らとの共著に『日本地主制の構成と段階』があるほか、研究論文に「日本資本主義確立期の国家権力」など。
-------

とありますが、「師の永原慶二」氏と比べると、論理的思考力の点で若干の問題がありますね。
先に「仮に中村政則氏が在職していた一橋大学経済学部の全教員を、その知的水準で五段階評価することができ、中村氏が「5」相当だったとして」と書きましたが、思想的な偏りは共通するとはいえ、知的水準では「師の永原慶二」氏が間違いなく「5」相当であるのに対し、論理の整合性に乏しく、文章が情緒的で直ぐに左翼版の勧善懲悪思想に流れてしまう中村氏は、せいぜい「2」か「3」のような感じがします。

「もっと官僚的に答弁しなさい」(by 永原慶二氏)
「学者は読むもので見るものではない」(by 「先人」&義江彰夫氏)
『永原慶二の歴史学』

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

となりのトトロとQMONOS 2018/11/29(木) 14:54:26
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AB
------------------------
絹などの生糸やレーヨン、ナイロンなど合成繊維の太さを表すのに用いられる。単位の名称は、フランス語の貨幣denier(ドゥニエ)に由来する。そもそもは、東洋の絹がローマのデナリウス銀貨の重さで取引されていたことに由来する。
------------------------
イタリア語の関連項目 titolazione の中にある titolo が「糸目テトロ(繊度)で しめ殺す」のテトロで、信州のテトロの方が隣の上州よりも優れていて、工女の賃金もずっと上であった、ということになるのですね。ちょうど、一橋大学の「5」よりも、シカゴ、ハーバード、ケンブリッジ、イェール大学等の「5」の方が格段に上であるように。
何の関係もありませんが、『男はつらいよ』の寅さんの台詞に、信州信濃の新蕎麦よりも、わたしゃあんたの側がいい、というのがあります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html
極楽の蜘蛛の糸がスパイバーのQMONOSであったならば、カンダタ他数名の罪人が助かり、御釈迦様は吃驚仰天して腰を抜かしていたかもしれませんが、
------------------------
しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好よい匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。
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解答編(その2)

2018-11-29 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月29日(木)11時07分21秒

諏訪と他地域との賃金格差が具体的にどの程度あったのかを知るための手がかりは、近代製糸業について研究する者なら誰でも最初に手にする『生糸職工事情』(農商務省商工局工場調査掛、1903)にありますね。
同書p193には長野県の205の工場について、須坂・松代・上諏訪・下諏訪別の男女職工数とその賃金の分布(但し工場負担の食費分は含まれず)、p194には「その他諸県」の29工場の男女職工数とその賃金の分布を示した一覧表が出ていますが、中林真幸氏はこの史料から「各地方における近代製糸業女性労働者の1人1日当たり基礎賃金(1901年)」というタイトルの一覧表を作成しています。(『近代資本主義の組織』p41)
それによると、各地域の女性労働者数(人)は、

下諏訪 6,137
上諏訪 2,217
松代   874
須坂  3,291
長野県内計 12,519
その他諸県  2,909

となっており、平均賃金(銭)は、

下諏訪 20.13
上諏訪 21.55
松代  18.39
須坂  13.89
長野県内計 18.62
その他諸県 13.94

となっています。
ここから計算すると、平野村・川岸村を含む下諏訪(諏訪湖の西側)は松代より約9%、須坂より約45%、その他諸県より約44%高いですね。
また、上諏訪(諏訪湖の東側)は松代より約17%、須坂より約55%、その他諸県より約55%高くなっています。
下諏訪より上諏訪の方が若干高いのは意外で、また松代との差はあまりはっきり出ませんが、大雑把に言って下諏訪・上諏訪は須坂や他の諸県よりは約5割高いですね。
そしてこれは、時期的に少し先行しますが、牛山才治郎『日本之製糸業』(有隣堂、1893)に出ている「他府県の製糸家が十円の給料を与へたるものを彼等〔諏訪郡の製糸家〕は十五金尚ほ且つ惜むに足らず」という記述とも一致します。
この牛山才治郎の記述は面白いので、中林氏の「製糸業における労使関係の形成」(『史学雑誌』108編6号、1999)から孫引きすると、

-------
史料九

工場主にして工女を遇するに厚からざらんか、彼らは忽ち不平を鳴らし蹶然として辞し去らんとす、或は諏訪製糸工場に譜代恩顧の工女少なきを以て製糸家を咎むるもの之れなきにあらずと雖も、是れ実に皮想の見(中略)、工女は恰も野獣の如きものあり、工場主よし之を馴さんとするも彼れ遂に能く馴れざるべければなり(中略)、
伊那、須坂等に於て養成せられたる工女も一たび諏訪製糸家の眼光に触るれば忽ち尾を棹ふて服従せざる可らず、是何の故ぞ、他府県の製糸家が十円の給料を与へたるものを彼等は十五金尚ほ且つ惜むに足らずとなせばなり、彼等の工女傭入に黄金を惜まざること実に驚くべきものあり(中略)、
工女は自由労働者なり、毫も雇主の束縛を受くる者にあらず
-------

といった具合です。(p12)
給料が一・二割程度高いだけだったら、わざわざ故郷を離れて寄宿舎住まいをする人もそれほど出ないかもしれませんが、平均で五割高となれば話は違ってきます。
まして「等級賃金制」の下で優等工女・一等工女と評価されるような人であれば、故郷に製糸工場が仮にあるとして、そこで働くより数倍の給料を得ることができたはずですね。
なお、「工女は恰も野獣の如きものあり」「工女は自由労働者なり、毫も雇主の束縛を受くる者にあらず」はなかなか興味深い表現であり、『あゝ野麦峠』のようなしみじみとした、というかしみったれた物語には出て来ない民衆像がそこにありそうですね。
この点については、更に史料を紹介します。
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解答編(その1)

2018-11-28 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月28日(水)11時24分57秒

中村政則『日本の歴史第29巻 労働者と農民』(小学館、1976)には、先に紹介した部分の続きとして縷々記述がなされているのですが、およそ論理的な説明とは言い難いので省略しました。
でもまあ、山田盛太郎まで遡る古い学説の内容を知るには便利な部分でもあるので、先に解答を示した後で紹介したいと思います。
さて、中村は「この等級賃金制の巧妙な点は、製糸女工全体に支払う賃金総額をあらかじめ固定し、決定してあることである。つまり、すでにあたえられた賃金総額を、女工を相互に競争させることによって取りあいさせるわけである」と述べるのですが、個々の製糸工女が実際に受け取る賃金は、個々の工場における「製糸女工全体に支払う賃金総額」によって決定されます。
全体のパイが小さければ、たとえ個人の相対評価が高くとも実際に貰う賃金は低くなり、全体のパイが大きければその逆となります。
そして、諏訪の製糸業者は他地域の製糸業者の間で、そして同じ諏訪の同業者との間で猛烈な工女争奪戦をしており、そのためにパイの大きさも競い合っている訳ですね。
その概要を知るために中林真幸『近代資本主義の組織』から少し引用すると、

-------
第6章 労働市場における取引の統治

 長野県諏訪郡における近代製糸業の急激な発展は, 労働市場に激しい逼迫をもたらした. その労働需給ギャップは, マクロ的, 長期的には周辺地域からの人口移動によって裁定された. 諏訪郡の高賃金が移動を促したのである. 実際, 1880年代から1900年代の間に, 諏訪郡は人口流出地域から流入地域に, 周辺地域は諏訪郡に対する流出地域へと転換した. 官営鉄道中央東線, 篠ノ井線, 信越線の建設が(第3章第3-1図), そうした動きを加速したと考えられる(序章第3節3). こうした諏訪郡への労働移動を規制しようとする行政の動きもあったが, 第2節に見るように, 諏訪郡の製糸家はそれに抵抗し, 労働者の自由な吸収を続けた. しかし, 1880年代から1900年代にかけて, 諏訪郡の近代製糸業における労働需要は年平均10%以上の増加を示し, 労働市場の逼迫は周辺地域からの労働供給の増加にもかかわらず強まり続けたのである. 労働市場の逼迫は, とりわけ1890年代に入って, 諏訪郡内の製糸家間における女性繰糸労働者の獲得競争を引き起こした.
 こうして, 労働需給の著しい逼迫は, 単に賃金上昇をもたらしただけではなく, 女性繰糸労働者の活発な工場間移動をもたらした. より優れた能力を持つ労働者が, より生産効率の高い, したがってより高い賃金を提示しうる工場に移動することは, 近代製糸業の発展にとって望ましいことである. ひとつには, それが, より効率的な資源の配分を意味するからであり, そして, いまひとつには, 移動が困難である場合, 労働者に対する誘因の効果(第5章第3節)が減殺されるおそれがあるからである. ある製糸家と雇用契約を結び, 働き始めた後に相性が悪いことが判明した場合, その労働者はすみやかに相性の合う工場に移動する方がよい. 相性の悪い企業が与える誘因体系に従って行動することが, その労働者の効用を最大化しないとき, その工場において労働者の労働を最適化することはできないからである.
-------

という具合です。(p289)
そして更に詳しい事情を知るために「諏訪郡の高賃金が移動を促したのである」に付された注(1)を見ると、

-------
(1) 1890年代前半から, 新聞記事には労働者募集の様子が描かれるようになる.

「数多き製糸家に就き其料金の多きに趨〔おもむ〕くは自然の情勢なれば, 苟〔いやしく〕も工女供給の不足なる間は製糸家が競争して之れを傭ひ入れんとするは免かれ得べきに非ず, 是に於てか, 製糸家中他の養成工女に餌〔くわ〕して我工場に釣り込まんとする横着ものあり, 工女に各地の製糸家に傭はれ不正の利を得んとする狡猾ものあり, 啻〔ただ〕に善良なる製糸家の損害を醸〔かも〕すに止まらず, 工女社会の取締を紊〔みだ〕り, 牽〔ひい〕て製造生糸に影響を及ぼすや少からず, 現に県下に於ても東筑摩地方と諏訪上下伊那に於ける, 又上高井の各社に於ける毎年工女の争奪に紛紜〔ふんうん〕を生ぜざること無き」, 『信濃毎日新聞』1892年4月27日,

「諏訪地方各製糸家にては昨今夏挽に取掛る都合なるを以て, 目下非常の競争にて工女を雇入るゝ際なれば, 松本地方は勿論南北両安曇より工女の出稼するもの中々沢山」, 『信濃毎日新聞』1892年6月18日,

「諏訪地方の製糸家は昨今社員を派して工女の捜し出しに奔走するにぞ, 地方製糸家と非常の競争にて互ひに「イクライクラ余分日給を与へるから」とて工女の歓心を買ふので今は工女の得意時」, 『信濃毎日新聞』1892年6月23日.

「東筑摩郡各製糸場工女の払底 同郡各製糸場工女の払底なるを聞くに, 給料少なき上に抱主〔かかえぬし〕が余り粗暴の取扱をなすに依るが如く」, 『信濃毎日新聞』1892年8月13日,

「本年の如き工女が払底にして製糸家が引張り合ふ如き年柄に在りては, 其待遇も自ら厚からざるを得すして, 盆の仕着〔しきせ〕の如き例年ならば真岡〔もうか〕木綿に一円を添ゆる位なりしものも本年は何れも平年に無き待遇を為し, 特に諏訪製糸家の如き優等工女には一人五円位の物品を贈与したり」, 『信濃毎日新聞』1892年8月24日,

「諏訪製糸家が年々雇入るゝ所の工女は地元出身のものもあれど, 多くは松本, 伊那, 飛騨〔岐阜県北部〕等の各地出身にして, 松本地方に於ける各製糸家の養成せし工女は, 恰〔あたか〕も技の長ずるに従つて諏訪に奪はるゝものゝ如し〔中略〕, 諏訪製糸家が今日に於て自ら新子〔しんこ〕を募り養成するものは甚だ少なく, 従つて年々同一の工女を雇入るゝ能はず, 十中の六は年々出替り工女を以て釜を充たせり」, 『信濃毎日新聞』1893年8月31日,

「諏訪の製糸家は例の如く松本地方へ来り利を餌〔く〕はしめて工女を連れ去る有り」, 『信濃毎日新聞』1894年6月6日,

「工女は各製糸場共過半数に至らざるもの多く, 為めに非常の競争にて雇入中にて, 遠きは越中〔富山県〕, 美濃〔岐阜県南部〕, 飛騨等より連れ来るあり, 伊那街道口塩尻口等へは出迎〔でむかえ〕の馬車人車, 群を為し居れり」, 『信濃毎日新聞』1894年6月14日,

「製糸家が盆と祭りとに付て工女へ出す品物は頗る多く, 本年も織物一反より三反位」, 『信濃毎日新聞』1893年8月26日.
-------

ということで(p318)、諏訪の製糸家が提示した賃金が他地域に比べて圧倒的に高いことは明らかですね。

※注(1)は原文では全く改行がありませんが、読みやすくするために記事ごとに改行しました。
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ヒントは「ちょうど、現代の小学校などでおこなわれている五段階相対評価を思いおこせばよい」

2018-11-27 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月27日(火)21時08分25秒

前回投稿の問題、ヒントは「ちょうど、現代の小学校などでおこなわれている五段階相対評価を思いおこせばよい」ですね。
製糸工女が実際に貰う賃金は相対評価ではなく、絶対的な数値で示されます。
「五段階相対評価」の方法は共通だとしても、地域の教育水準によって、個々の生徒の絶対的な学力は変わってきますね。
父兄が高収入で塾や家庭教師を自由に利用できる地域の小学校と、父兄の収入が低い地域であったり、そもそも塾などの施設が存在しない僻地の小学校では、個々の生徒の五段階評価が同じでも学力は違ってくるはずです。
余談になりますが、「日本の教育の将来をまじめに考えている」かはともかくとして、極端に平等主義的な発想が強く、多数の「教員が五段階相対評価に反対している」ような地域の生徒の学力はかなり低くなりそうですね。
また、更に余談になりますが、仮に中村政則氏が在職していた一橋大学経済学部の全教員を、その知的水準で五段階評価することができ、中村氏が「5」相当だったとして、その「5」という評価が、ノーベル経済学賞受賞者を輩出するシカゴ、ハーバード、ケンブリッジ、イェール大学等での五段階評価の「5」と同じかというと、たぶん違うでしょうね。

設問:一橋大学名誉教授・中村政則の「カラクリ」について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e8ee2cf121a12cc91b07e4be9bb165e
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設問:一橋大学名誉教授・中村政則の「カラクリ」について

2018-11-27 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月27日(火)11時24分25秒

次の文章は、松沢裕作『生きづらい明治時代』(岩波新書、2018)が近代製糸業に関して唯一の参考文献として挙げる、中村政則『日本の歴史第29巻 労働者と農民』(小学館、1976)における「等級賃金制」の説明である。
「等級賃金制」を製糸業者が「女工を低賃金で、しかも長時間にわたって働かせることができるような賃金制度」であり、「能率上昇による利益はすべて自分のふところにはいるような、絶妙な」制度と批判する中村は、この制度の「カラクリ」を見破ったと称するのであるが、実はこの文章には、「等級賃金制」を導入した諏訪の製糸業者が女子労働者に支払った賃金は他地方より極めて高額であったことを隠蔽する巧妙な「カラクリ」が隠されている。
中村の「カラクリ」の内容と、中村がこのような「カラクリ」を「考案」した理由について考察せよ。
なお、引用は中村著の96ページ以下から行った。

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 つぎに、製糸業における労働関係の特質を象徴するものとして、女工の製糸賃金がどのようなカラクリをもっていたかを述べておくことにしたい。一般に製糸業の賃金制度は等級賃金制とよばれており、最近、この等級賃金制については大石嘉一郎・石井寛治・岩本由輝らのすぐれた研究があいついで発表されている。
 製糸業の作業機は、機械ではなく、器械と表現されていたように、ひじょうに簡便な構造をもっていた。昭和五年前後に多条繰糸機が導入されるまでは、良質の糸をどれだけたくさん取れるかは、もっぱら女工の手先の熟練度に依存していたといっても過言ではない。そのために製糸家は女工を低賃金で、しかも長時間にわたって働かせることができるような賃金制度を考案し、能率上昇による利益はすべて自分のふところにはいるような、絶妙な等級賃金制なるものを導入した。
 この等級賃金制というのは、繰目〔くりめ〕・糸目・デニール・光沢などについて工場全体の平均を決定し、その平均より上位の者から順に一等、二等というように順位をつけ、その等級の高低にしたがって賃金の多寡をきめる賃金制度である。工場によっては、これを五〇等級にまで細分しているところもあった。いうまでもなく、製糸資本家の最大の関心事は、安い賃金ですくない原料から良質の糸をたくさん引かせることにあった。そこでまず工場主は、一日の繰糸量(繰目)を賃金計算の基準とするが、いくらたくさん糸を引いても原料繭を無駄使いされては困るというので、一定量の繭からどれだけの糸を取ったか(糸目)を重視する。ついで糸の品位が問題とされ、太さが一定しているかどうか、糸に斑〔むら〕があるかないか(デニール=繊度)を検査して、これを賃金決定の重要な基準とした。女工は毎日、引いた糸を右の基準にしたがって検査され、点数をつけられる。検査にはずれれば逆に罰点をつけられて賃金からさしひかれてしまう。女工が罰点をなにより恐れていたのは、そのためである。
 この等級賃金制の巧妙な点は、製糸女工全体に支払う賃金総額をあらかじめ固定し、決定してあることである。つまり、すでにあたえられた賃金総額を、女工を相互に競争させることによって取りあいさせるわけである。一人がいっしょうけんめい働いたとしても、他人もそれにおとらず働けばそれだけ平均点が上昇するから、いっしょうけんめい働いたぶんだけ賃金もあがるというわけにはゆかない。とくになまけたということでなくとも、日々精進しないかぎり、むしろ等級=賃金はさがってしまうことになる。ちょうど、現代の小学校などでおこなわれている五段階相対評価を思いおこせばよい。3をとっていた者が4や5になろうとしても、4や5の比率はきめられているし、他の生徒ががんばれば、そう簡単に上昇できないのとおなじである。余談になるが、日本の教育の将来をまじめに考えている教員が五段階相対評価に反対しているのは、おおいに理由のあることなのである。
 ともあれ、この制度のもとでは、つねに他人以上に働いていないと自己の賃金が低下するという危険に、女工はたえず怯えていなければならない。しかも、資本家は意識的に優秀な女工を優等工女・一等工女としてもてはやした。身体を酷使できる若い娘たちにとって、この賃金制度は残酷なまでに効果的であった。すこしでも高い等級の賃金をもらえれば郷里の親にもよろこばれるし、自慢にもなる。他人に負けたくないという意地もある。こうして、娘たちは長時間の労働もいとわず、なんとかして点数をあげようと必死の努力をする。等級賃金制は、別名「共食い制度」といわれたが、まさにそのとおり、女工たちはおたがいを食いあいながら、身の細るようなはげしい労働を強制されたのであった。
 さらに工場主は賞旗をつくり、毎日または毎月末に各検番の監督下にある女工の成績を評定して、もっともよい成績をあげた検番にこの賞旗をあたえるなど、検番の競争心をあおることによって、女工の競争を奨励したりした。女工にとって検番は、直接の監督者で、もっとも恐れた存在であった。女工はつねに検番によく思われようと気をくばり、検番の歓心をかうために賞旗をもたらそうと必死の努力をする。

 工女ころすにゃ 刃物はいらぬ 糸目テトロ(繊度)で しめ殺す
 鬼の検番 閻魔の帳場 役に立たない 蛹〔さなぎ〕よせ

などとうたわれていたことが、その間の事情を、よく物語っている。「帳場」は事務所、「蛹」は繭のことである。だから、たまに親切な人のよい検番にでもめぐりあおうものなら、

 申しわけない 小巻さん つい引けました 罰糸が
 こんどの帳に 罰糸でたら
 天竜川へと 身を投げて おわびしますよ 小巻さん

と思慕もこめてうたった。これは前述の有賀このが記憶していた歌詞であるが、それほどに「小巻さん」のような検番はめったにいなかったのである。
-------

中村政則(1935-2015)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%94%BF%E5%89%87
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「家に帰っても父親や夫を軽んじ, ささいな諍いにも離婚を要求」(by 中林真幸氏)

2018-11-25 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月25日(日)21時36分1秒

『近代資本主義の組織』の「はしがき」は起承転結の四つに綺麗に分かれますが、これでラストです。(pⅳ以下)

-------
 近代的な経済発展の始まった100年ほど前の日本経済においては, 当然に, 生産性の低い農業と在来産業の構成比が大きく, 1880年代から1900年代までの間, マクロ・レベルにおける実質賃金の上昇は極めて緩慢であった. 石川啄木が,

 はたらけど
 はたらけど猶わが生活〔くらし〕楽にならざり
 ぢつと手を見る               『一握の砂』

と詠んだとき, それは, 日本経済に暮らす多くの人の実感と一致していたはずである. 生産性と実質賃金が上昇しないということは, 努力してもしなくても, 昨日と変わらぬ今日の貧困が続くことにほかならない. さらに, 小農の家に暮らす女性はその家長に隷属していたであろうし, その小農は地域社会を名望家として支配する地主に従属していたであろう. 100年前の日本社会が, 平均的には, 貧しく, 権威主義的で, 停滞した社会であったことに疑いの余地はない. そして, そのなかで暮らした大多数の人々の暮らしを知ることもまた, 重要な営みであろう. しかし, それを観察しても, 資本主義的な経済発展の核心を究明することはできない. それゆえ, 本書は, 平均あるいは全体ではなく, あえて, そうした停滞的な伝統経済を破壊しつつあった, 近代製糸業の勃興に焦点をあててみようと思う.
-------

何度も比較して恐縮ですが、『近代資本主義の組織』に15年遅れて出版された『生きづらい明治社会』は、「平均的には, 貧しく, 権威主義的で, 停滞した社会」のなかで暮らした「大多数の人々の暮らしを知る」試みのひとつですね。
そして、もちろん「それを観察しても, 資本主義的な経済発展の核心を究明することはできない」でしょうし、松沢氏も別にそんなことは目指していないはずです。
そうかといって、では松沢氏は「停滞的な伝統経済」を観察して、いったい何を究明することができたのか。
おそらく松沢氏は人々が「通俗道徳」の「わな」に嵌ったメカニズムを解明できたと主張されるのでしょうが、果たして松沢氏の説明は、中林氏の言葉を借りれば、「誰もが検証しうる, 帰納的な論理によって構築された, 歴史学的な分析」と言えるレベルの論証なのか。
ま、あまり嫌味を言っても仕方ないので、引続き「はしがき」の最後の部分を紹介します。

-------
 第二次世界大戦以前において, 生糸輸出額は日本の輸出総額の3割を占めていた. そして日本産生糸のアメリカ市場における占有率は, 1880年代末に5割, 1910年代に7割, 1920年代には8割を占めた. 近代製糸業の発展は, 特定の輸出産業が圧倒的な競争力を確保して経済発展を先導するという, 近代以降の日本が繰り返すことになる経験の最初のひとつであった. その発展の中心にあった長野県諏訪郡の近代製糸業においては, 画期的な品質管理の方法や賃金決定の仕組みからなる, 効率的な生産組織と労働組織が形成され, それに適した技術が導入された. その結果として, 他の地域とは隔絶した経営発展が見られ, また, 賃金水準にも顕著な上昇が見られた. そればかりではない. 競争的な組織の下に高賃金を得るようになった女性労働者たちは, 家に帰っても父親や夫を軽んじ, ささいな諍いにも離婚を要求するようになったと言われている. その一方, 農村社会にはありえなかった過労自殺も, 報告されるようになる. 資本主義が経済発展を促し, 人間に個人としての自由を与え, 同時に緊張を強いる近代的な世界が, そこには生まれていた.
 近代製糸業の勃興が描く, 資本主義的な経済発展の原風景, そこには, 現代社会のように美しくはないが, 躍動的な世界があったはずである. そこに生じていることは, 現代人である私たちの倫理観には, ときに受け入れがたい. しかし, それは, 近代資本主義の歴史を生きた遠い記憶のなかに, たしかに存在する世界でもある.
 近代的な資本主義経済を知ることは, 私たちの生きる現代社会の基層を知ることなのであり, そして, 現代社会を築いた先人たちが飼い慣らそうと苦闘した, 野性を知ることでもある. 本書がその手がかりになれば幸いに思う.
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近代製糸業の研究史を辿っていて非常に不思議に感じるのは、諏訪において「賃金水準にも顕著な上昇が見られた」ことを素直に認める人が少ないことですね。
普通に史料を読んでいれば誰でも気づくことなのに、「講座派」系の陰気でビンボー臭い研究者たちはもちろん、あまり思想の匂いのしない研究者も、この明白な事実を、少なくとも積極的に強調はしません。
まして、『あゝ野麦峠』を観て感動するような一般人は、製糸工女が実は高賃金を得ていたという事実、諏訪で実際に展開されたのは「女工哀史」どころか「女工バブル史」だったという事実を知ったら驚愕するのではないですかね。
でもまあ、岐阜県内にだって製糸工場があるのに、飛騨の山奥の人々がわざわざ野麦峠を越えて諏訪に行ったのは給料が高いからに決まっています。
次の投稿からは、そのあたりの高賃金の実態をもう少し紹介したいと思います。
また、「家に帰っても父親や夫を軽んじ, ささいな諍いにも離婚を要求するようになった」という事実も、『あゝ野麦峠』のような通俗映画はもちろん、中村政則『日本の歴史第29巻 労働者と農民』や松沢裕作『生きづらい明治社会』のような通俗歴史書には全く登場しない話ですが、このような女性労働者の意識の変化についても少し検討する予定です。
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「近代日本経済史の先端を徹底的に追究する」(by 中林真幸氏)

2018-11-25 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月25日(日)12時49分6秒

『近代資本主義の組織』の「はしがき」の続きです。(pⅲ以下)

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 さいわいに, 経済制度の効率性をマイクロ・レベルにおいて考察しようとする近年の動向は, 資本主義の冷静な分析にとって理想的な雰囲気をつくりつつある. 本書もまた, その恩恵にあずかりつつ, 資本主義的な経済発展のあり方を, 日本経済において最初に成功した近代産業である, 近代製糸業を通じて分析しようと思う. 具体的な実証分析にあたっては, 分析の結果が時とともに色褪せることがないように, 手堅さを心掛けたつもりである. しかし, 資本主義を分析的に考えようとする問題意識は, とりわけ, 今という時代において, 多くの読者と共有できるように思われる.
 しかし, 同時に, 近代における制度と組織の効率性が分析されるにあたっては, 現代社会に生きる私たちには, 若干の違和感を与える基準がとられることを, 付け加えなければならない. 私たちの生きる現代社会は, 安定と平等を大切にする社会である. しかし, それを達成するために機能している法制度の多くは, それほど古い起源を持つものではなく, たとえば, それらのいくつかは, ニューディール期のアメリカにおいて形成された. そして, そこに至る道は, 決して平坦ではなかった. あふれかえる失業者を前に, 政府が安定と平等のためにとった政策は, 契約の自由と財産権の不可侵という, 近代的な市場制度の根幹に対する挑戦を含んでいたことから, 当初は, 連邦裁判所の違憲判決を受けたのである. 1937年にようやく, 市場への介入を認める方向に法廷の姿勢が改められ, ニューディール政策に正統性を与える歴史的な判決が下された. この転換を起点に, やがて, 精神的な自由と経済的な自由とを区別する「二重の基準」に基づいて, 政府による後者の制限を認める現代的な自由社会が形成される. それゆえ, この過程は, しばしば, 憲法革命とさえ呼ばれた. 日本においても事情は変わらない. 本書が分析の対象期とする産業革命期には, そもそも普通選挙が採用されておらず, 安定や平等は現実ではないばかりか, 政策上の課題ですらなかった. 好況期には銀行や企業が数多く設立され, そして景気後退が来れば簡単に破綻したのである. 何を正義と考えるかという, 倫理感覚の基本において, 既に, 私たち現代人は近代人と同一ではない. ルーズベルトを否定した判事たちが特に冷酷であったのではなく, 彼らの認識の方が, 19世紀的な資本主義経済における常識だったのである.
-------

私が『近代資本主義の組織』を読むきっかけとなったのは松沢裕作氏の『生きづらい明治社会』(岩波新書、2018)でしたが、このあたりの中林氏の基本的発想は松沢氏と対照的ですね。
松沢氏は日本国憲法第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」を出発点として、「ぎりぎりのところでその権利を保障する」(p45)ための生活保護法の歴史を辿って1874年に制定された「恤救規則」という法令を見出し、「恤」は「あわれみ、めぐむこと」だから、「救恤規則」は「相当に上から目線」(p48)だと批判します。
そして「救恤規則は、家族や地域が困難に陥っている人を救うことを前提としており、どうしてもしかたのないときだけ国家がお情けで助けてやるという法律です。ここには「健康で文化的な最低限度の生活」をおくる権利といった発想はまったくありません」(p50)と悲憤慷慨されます。
私としては「そもそも普通選挙が採用されておらず, 安定や平等は現実ではないばかりか, 政策上の課題ですらなかった」時代に「生存権」の発想があるはずがないだろうと思いますが、何に悲憤慷慨するかは人それぞれですね。
ま、それはともかく、中林氏は次のように続けます。

-------
 そうであればこそ, 近代における経済発展を分析するときには, 現代人の常識とは異なる視角をとってみることにも, 意味があると思われる. たとえば, 現代社会の政策論議においては, まず, マクロ・レベルの経済成果が重視されるが, 近代における経済発展の分析には, 全体ではなく先端が, すなわち, 生産性の目覚ましい上昇が見られた先進的な産業における, 効率的な生産組織こそが, 重視されてよい. それはいずれは広く普及するからである. 本書もまた, 近代日本経済史の先端を徹底的に追究することになる.
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ということで、「近代における経済発展の分析には, 全体ではなく先端が, すなわち, 生産性の目覚ましい上昇が見られた先進的な産業における, 効率的な生産組織こそが重視」されるべきだ、というのが『近代資本主義の組織』を貫く大方針ですね。
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「マクロ経済を概観するのではなく, 近代的な工場制の発展のみを, とりだして分析する」(by 中林真幸氏)

2018-11-25 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月25日(日)10時50分40秒

『近代資本主義の組織』の「はしがき」の続きです。(pⅱ)

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 それゆえ, 近代資本主義の解明は, 当然に経済史学の主要な課題とされるべきであった.そして, たしかに, 1960年代頃まで, 資本主義的な経済発展の成果に関する研究は数多く蓄積され, 発展の結果についての知識は深まったように見えた. しかし, 資本主義的な経済発展そのものに対する理解は, 依然として不十分であると言わざるをえない. いつ, どのように, 資本主義的な経済発展は始まったのか. 資本主義的な生産や流通の組織は, どのように形成されたのか. それは, どの程度に, あるいは, なぜ, 効率的であったのか. こうした問いに, 経済史学が応えてきたとは言いがたい. その中心にある工場制の効率性さえも, 十分に論証されてはいないのである.
-------

工場制の効率性など自明ではないか、と思いがちですが、「スティーブン・マーグリンに代表されるラディカル派が, 分業制や工場制, 位階制の形成は必ずしも効率性を追求した結果ではなく, 労働者の管理を追求した結果に過ぎず, そして、そうした労働組織においては, 労働者の主体性が減退すると主張した」(p49)といった議論があるそうですね。

-------
 私たちの知る, 資本主義的, あるいは近代的な経済発展においては, 利潤最大化を目的とした生産が, 生産性の持続的な増大をもたらしてきた. そして, 生産性を高めるために, 多くの場合, 熱心に働く労働者が高度に組織されてきた. 彼らが組織された場所が工場であり, 事務所であった. 生産性の持続的な増大は, 実質賃金の持続的な増大をもたらし, したがって, やがては豊かな社会を出現させた. それが, 近代的な経済発展, あるいはより具体的には, 資本主義的な産業の発展がたどってきた道である.
 一方, 資本主義的な産業が発展し始めた時期には, その経済社会全体に大きな構成比を占める在来産業が残存し, しかも, なお拡大を続けていた. それゆえ, 資本主義的な経済発展を知るためには, 在来産業の混在していたがゆえに停滞的に見える, マクロ経済を概観するのではなく, 近代的な工場制の発展のみを, とりだして分析する必要がある.
-------

「在来産業の混在していたがゆえに停滞的に見える, マクロ経済を概観する」立場の代表例が石井寛治氏の『日本蚕糸業史分析』(1972)で、そこに見えてくるのは「低賃銀と低生産力」の世界ですね。

「日本製糸業の国際競争力のひとつの基礎が、農村からの出稼女工の極度の低賃銀」(by 石井寛治氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3473f4fcb3459674b7c795448fd631a5

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 たとえば, ある伝統的な経済社会において, ある産業が, 初めて近代的な工場制工業として発展し, しかも, それが造りだす効率的な生産と流通の仕組みは, 在来産業とは異なる労働生産性と実質賃金の上昇をもたらし, そして, 自由な国際市場において強い競争力を獲得したとしよう. そのような産業発展の経験があるとすれば, 経済史家は迷わず, それを分析すべきであろう. 伝統的な社会に勃興した近代産業であるから, その産業が, 勃興した当初の社会全体を反映しているとは言えない. しかし, そこには, 近代的な経済社会を創りだす, 効率的な制度と組織が形成されていたはずである. 近代製糸業とは, そのような産業であった. 工場制工業としての効率性を生み出した生産組織と労働組織の形成, 製品市場や労働市場, 金融市場における効率的な制度の形成, そして, 農村社会に大きな影響を及ぼした産業組織の再編, その過程は, 資本主義的な経済発展のひとつのあり方を, 象徴的に表していたと思われる.
-------

「近代的な工場制の発展のみを, とりだして分析」した場合、そこに展開されているのは石井寛治氏の見解とは真逆の、「高賃銀と高生産力」の世界ですね。
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「誰もが検証しうる, 帰納的な論理によって構築された, 歴史学的な分析」(by 中林真幸氏)

2018-11-24 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月24日(土)10時34分15秒

私は世界遺産の富岡製糸場が置かれた群馬県西部に生まれ、農家ではなかったものの、子どもの頃は周囲に桑畑が広がっているような環境に育ったので、それなりに養蚕の知識もあり、製糸業に関する断片的な知識も持っていました。
その私にとって、かねてからの疑問は、少なくとも明治初期には養蚕と在来製糸業で全国のトップクラスに位置していた「蚕糸王国」の群馬県が、何故にあっさりとその地位を長野県に奪われ、更にあっという間に引き離されて行ったのか、という問題でした。
ま、私もそれほど郷土愛はないので、別に日夜この問題に頭を悩ませていた訳ではないのですが、松沢裕作氏の『生きづらい明治社会』を読んだ時点でも、なお釈然としないまま残っていたこの疑問を解決してくれたのが中林真幸氏の『近代資本主義の組織』ですね。
要するに近代資本主義の精神を体現した「組織」を構築できたのが長野県、というか諏訪の製糸業者であり、それができず、地元にそれなりの製糸業者も存在しながら、諏訪への原料繭の提供地と製糸工女の供給地になってしまったのが群馬県、という構図です。
それにしても、2003年に同書が出版されて既に15年も経ったのに、その認識が松沢氏のような明治時代を専門に研究している歴史学者にすら共有されず、『生きづらい明治社会』の如き頓珍漢な書物が流布されている状況は非常に悲しむべき事態ですね。
そこで、今まで同書が専門研究者の間でどのように評価されているかは紹介してきましたが、改めて中林氏自身の文章に即して、同書の内容を少し紹介しておきたいと思います。
同書のエッセンスは「はしがき」に凝縮されていますが、まず、その冒頭を紹介すると、

-------
 資本主義とは何か, とりわけ, 近代において産業革命をもたらし, 人間社会の劇的な発展を可能にした, 近代資本主義とは何だったのか. それは長く, 経済学はもとより, 社会科学を学ぶ多くの人々に共有される関心事であった.
 もちろん, 誰もが認める資本主義の定義が存在するわけではない. 人によっては, 宋帝国や, あるいはローマ帝国にさえ, 資本主義の萌芽を認めるであろう. しかしながら, 現代社会に生きる私たちにとって親しみ深い, あるいは切実な問題としての資本主義とは, 19世紀に日本を含む世界を覆い尽くした近代資本主義, もしくは産業資本主義のことである. もっとも, そのように対象を特定しても, 資本主義を定義することは, なお困難である. 私たちがよく馴染んできたはずのこの経済制度を知るためには, その形成過程を, なるべく説得的に, 機能的に記述するほかはない.
 経済史学は, おそらく, その課題に最もふさわしい学問のひとつである. 言うまでもなく, 経済史家もまた, 一定の経済理論を認識の前提としている. たとえば, 多くの経済史家は新古典派の経済理論が想定する完全競争市場により近い市場を, 近代的な市場と考える. 仮説を立てる場合には, 経済理論家と同様に演繹的な推論も行うであろう. にもかかわらず, およそ経済史家である限り, 対象を分析し, 仮説を論証する場合には, 公理からの演繹ではなく, 事実からの帰納という説得の手続きをとる. 歴史的に存在した, ある経済制度から別の経済制度への進化を分析するとき, とりわけ, 近代資本主義という大きな制度の動的な形成を分析するときには, こうした手続きが望ましいように思われる. たとえ, 特定の経済理論に基づく体系によって, 資本主義を演繹的に定義することが可能であるとしても, その当否を判断することは難しいであろう. しかし, 誰もが検証しうる, 帰納的な論理によって構築された, 歴史学的な分析であれば, 細部の検証から分析の当否を推し量ることができるし, そのことを通じて, 誰もが資本主義の分析に加わることができる.
-------

ということで(pⅰ)、その志は極めて格調高く、その方法は極めて堅実ですね。
では、従来の通説を次々に覆した中林氏は、具体的にどのような分析の方針を採ったのか。

中林真幸(東京大学社会科学研究所サイト内)
https://jww.iss.u-tokyo.ac.jp/mystaff/mn.html
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「日本製糸業の国際競争力のひとつの基礎が、農村からの出稼女工の極度の低賃銀」(by 石井寛治氏)

2018-11-22 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月22日(木)22時16分8秒

ダグラス・ノースの邦訳書をいくつか眺めてみたところ、新制度派経済学が極めて魅力的な世界であることは分かったのですが、今の時点で本格的にそちらに進むのはタヌキが時々轢かれている田舎道から高速道路に入り込むようなもので、暫く帰って来れなくなること必定ですから、ま、来年の課題にしようかなと思っています。
ダグラス・ノースはなかなか福々しい顔をされていますね。

Douglass North(1920-2015)

さて、中林真幸氏の『近代資本主義の組織』(2003)に関する書評をいくつか紹介したのは、同書が石井寛治氏の『日本蚕糸業史分析』(1972)に代わって、現時点での近代製糸業研究の水準を示すものであることを理解してもらいたかったからです。
中林著を読んでから石井著を振り返ると、中林著の「第1部 産業組織の再編」と「第3部 循環的な成長と金融制度」に相当する分野は、石井氏自身が山田盛太郎の「理論的」ではあっても実証的とは言い難い研究水準を格段に高めており、特に蚕糸金融の分析は中林氏の研究の直接の基礎になっていますね。
他方、中林著の「第2部 工場制工業の発展」に相当する部分は、これだけ材料を集めながら何でこんな結論になってしまうのかな、という奇妙な感懐を読者に抱かせます。
『日本蚕糸業史分析』の「第三章 製糸女工の存在形態」を少し紹介してみると、

-------
第一節 低賃銀と低生産力

  一 低賃銀の国際的意味

 世界市場において、イタリア・フランス両国ならびに中国の製糸業を圧倒しつつ急速な発展をとげた日本製糸業の国際競争力のひとつの基礎が、農村からの出稼女工の極度の低賃銀であったことは、すでに常識化しているが、この低賃銀の意味を、各国産生糸の「生産費」構成の比較のなかで検討すると、どのようなことになるであろうか。
 第55表(A)(B)は、一九〇〇年前後における比較の試みである。推定の基準が必ずしも明確でなく不十分なものであるけれども、これによって分ることは、生糸一〇〇斤当りの生産費構成中の賃銀部分に関しては、日本は他の国と大差ないばかりか、(A)表においては、「工男女給料」を主とする「製造費」がイタリアよりも高くなっている、という事実である。これは、すぐあとで検討するように、日本製糸業における労働生産性が極度に低いことの結果であり、日本生糸の生産費の低さは、(A)表に明らかなごとく、主として原料繭価格の低さによっているのである。【後略】
-------

といった具合で(p243)、石井氏以外の研究者が山田ワールドの桎梏から抜け出そうと努力していたのを、石井氏が山田ワールドへ強引に引き摺り戻したような感じがしますね。

>筆綾丸さん
天知茂は渋い俳優でしたね。
亡くなってから既に33年も経っているのですね。

天知茂(1931-85)

若尾著に出てくる「言語論的転回」、ひところはずいぶん騒がしかったのですが、最近は触れる人も少なくなりました。
ご引用の部分だけだと、若尾氏はずいぶんナイーブな人だなと感じます。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

戦前ブルース 2018/11/21(水) 13:06:10
小太郎さん
https://www.youtube.com/watch?v=R0F5BmRqcYk
山田盛太郎の顔の左半分は、ニヒルな天地茂を適当に崩したような感じですね。
山田にとって、戦前は、
----------------------
うまれた時が 悪いのか
それとも俺が 悪いのか
何もしないで 生きてゆくなら
それはたやすい ことだけど

見えない鎖が 重いけど
行かなきゃならぬ おれなのさ
だれも探しに 行かないものを
おれは求めて ひとりゆく
おれは求めて ひとりゆく
-------------------
てなところですかね。


二重の表象 2018/11/22(木) 15:14:32
https://www.iwanami.co.jp/book/b378376.html
若尾政希氏『百姓一揆』を拾い読みしましたが、どうも、あんまり面白くありません。
-----------------------------
 それに追い討ちをかけたのが、一九九〇年代末になって、ようやく日本の歴史研究にも及んできた「言語論的転回」のインパクトであった。一九九九年の歴史学研究大会で、二宮宏之が、フランスのロジェ・シャルチエの見解を引きつつ、歴史認識の成立根拠そのものを問題にし、史料も「書き手による表象の所産」であり、「歴史家による記述」も「物語性の領野に属」し、結局「歴史家の営みは、表象としての史料を媒介として、さらにそれを表象するという、二重の表象行為」だと説いた(「戦後歴史学と社会史」)。
 あらゆる史料も、それにもとづく歴史叙述も、表象の所産だと言われ、どうしたらよいうのかわからず、茫然自失してしまったのである。
 これは百姓一揆に関する史料だけに限らないのであるが、ついこのあいだまでは、くずし字で書かれた手書きの古文書が出てくれば、そこに書かれていること、そこから読みとれることは「事実」であるとみなされてきた。ところが、どんな文書にも何らかの意図があって作成されたものであって、「立場性」があるということが明らかになった今、もはや、そのような素朴な実証主義は通用しないのである。(72頁~)
-----------------------------
江戸期の百姓一揆物語が『太平記』等の軍記物を真似てパターン化されている、と若尾氏は説くのですが、まさに「二重の表象」ということになりますね。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/684_18395.html
しかし、その程度のことは、鴎外が百年以上も前に、「歴史其儘と歴史離れ」でさらりと言ってのけたことだと思いますね。
-------------------
なぜさうしたかと云ふと、其動機は簡単である。わたくしは史料を調べて見て、其中に窺はれる「自然」を尊重する念を発した。そしてそれを猥に変更するのが厭になつた。これが一つである。わたくしは又現存の人が自家の生活をありの儘に書くのを見て、現在がありの儘に書いて好いなら、過去も書いて好い筈だと思つた。これが二つである。
(中略)
兎に角わたくしは歴史離れがしたさに山椒大夫を書いたのだが、さて書き上げた所を見れば、なんだか歴史離れがし足りないやうである。これはわたくしの正直な告白である。
-------------------

ロジェ・シャルチエ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%81%E3%82%A8

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『ダグラス・ノース 制度原論』

2018-11-20 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月20日(火)11時24分59秒

近代製糸業の研究史も一応押さえておくか、と思って石井寛治氏の書評に登場する山田盛太郎(1897-1980)の『日本資本主義分析 日本資本主義における再生産過程把握』(岩波書店、1934)をパラパラ眺めてみたのですが、この「講座派」の聖典は晦渋な文体だけで近づきがたく、さすがにここまで手を広げるのは人生の無駄遣いだなと思って止めました。

山田盛太郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E7%9B%9B%E5%A4%AA%E9%83%8E

山田は1930年に「共産党シンパ事件」で東大を追われ、36年の「コム・アカデミー事件」で「講座派」仲間と一緒に検挙されるなど戦前は大変でしたが、戦後は一転、教授として東大に復帰して50年に経済学部長、53年学士院会員となるなど栄華を極めていますね。
それにしても、野呂栄太郎・平野義太郎と並ぶ「講座派三太郎」でありながら、「叙勲二等授瑞宝章」「叙従三位、賜銀杯一組」というのは若干妙な感じもします。
ウィキペディアで山田の顔写真を見ると、眼の形が左右で違っていて、少しブキミな雰囲気ですね。
アル・カポネ配下の殺し屋みたいな風貌、といったらさすがに失礼かもしれませんが、少なくとも治安維持法違反で逮捕される側というよりは逮捕する側の特高刑事みたいな感じです。
「講座派」にはもう一人、山田姓の山田勝次郎(1897-1982)がいますが、こちらは政治学者・蝋山政道(1895-1980)の弟で、地元・高崎の山田家の婿養子となって山田姓になっただけで、山田盛太郎との親族関係はありません。

山田勝次郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E5%8B%9D%E6%AC%A1%E9%83%8E

山田勝次郎は岳父の死去を受けて高崎倉庫(株)の社長となり、戦後も日本共産党の正式な党員でありながら地方経済界の重鎮でもあったというなかなか珍しいタイプの人ですね。
その自宅と蔵書は、現在「山田文庫」という財団法人が管理しています。
写真を見ると、いかにも元京都帝大助教授らしいインテリ顔をしていますね。

http://www.takasakiweb.jp/takasakigaku/jinbutsu/article/16.html

ま、それはともかく、『日本資本主義分析』は遠慮して中林真幸編『日本経済の長い近代化 統治と市場、そして組織1600-1970』(名古屋大学出版会、2013)の中林氏による「序章」を読んでみたところ、経済学的な「所有権」概念についての説明が新鮮でした。
そこで、「新制度派」の経済学者の本を読む必要があるな、とは思ったのですが、全く不案内な分野なので何を読んでいいのか全然分からず、とりあえず瀧澤弘和・中林真幸監訳『ダグラス・ノース 制度原論』(東洋経済新報社、2016)を手に取ってみたところ、私のような経済学に縁のない者でもそれなりに理解できて、けっこう面白いですね。
ということで、「新制度派」の経済学者の著作をまとめて読む必要を感じているので、次の投稿が少し遅くなるかもしれません。

岡崎哲二「(書評)ダグラス・ノース 制度原論」
http://www.canon-igs.org/column/macroeconomics/20160428_3622.html
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石井寛治氏「書評 中林真幸著『近代資本主義の組織』」

2018-11-19 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月19日(月)10時23分17秒

石井寛治氏(東大名誉教授・学士院会員)の書評(『史学雑誌』114編3号、2005)の冒頭部分は既に紹介済みですが、参照の便宜のため、再掲します。

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 製糸業の急速な発展を日本資本主義の構造的特質の一環として把握せんとする試みは、戦前の野呂栄太郎・山田盛太郎以来の多くの研究成果を生んできた。例えば、野呂の『日本資本主義発達史』(一九三〇年)は、製糸業の発達における大経営と小経営の共存を例に取りつつ、広く日本資本主義全体について、その急激な発展は、「最初から大資本と小資本との両極的発展を激化せしめ、中級資本の支配的発達を不可能ならしめた。中級産業資本の支配的、一般的発達のない所に自由競争も、自由主義もあり得ない」と指摘した。【中略】野呂の研究を踏まえた山田の『日本資本主義分析』(一九三四年)においては、世界大恐慌の下での養蚕・製糸業の破綻が農村解体と日本資本主義の一般的危機をもたらすとされ、その仕組みが産業資本確立過程に遡って分析された。そして、この山田の方法の批判的継承と実証の深化が、その後、評者の『日本蚕糸業分析』(一九七二年)を含む諸研究となって現れたと言ってよい。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/003902c1a78eedd67c9c3b4ce64581b3

第一部「産業組織の再編」について、石井氏は内容紹介の後、「何れの章も、新しい史料と分析手法を用いた検討がなされている点、評価できるが」(p88)とされた上で若干の批判をされていますが、細かくなりすぎるので略します。
そして、第二部です。

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 第二部「工場制工業の発展」は、本書の中心であり、もっとも優れた分析がなされている部分のように思われる。第四章「近代製糸業の勃興」では、まず当初生糸の検査を貿易会社に委ねていた諏訪の製糸結社開明社が、一八八四年の共同揚返場の設置以降、検査を内部化することによって品質の高度化を図り、同社の生糸はアメリカ市場で中下級織物用の経糸の原料糸として用いられるようになったが、一八九四年頃からそのままでは力織機の高速化に対応できず、経糸市場をイタリア系や上海系に奪われそうになったため、大規模工場の設立と開明社からの独立により品質の一層の高度化に努めた片倉組や岡谷製糸の生糸が、再び経糸に用いられるようになり、そうした動きを先導した岡谷製糸会社の商標が横浜・ニューヨーク市場で基準商標としての地位を確立すると主張する。ついで第五章「賃金体系による誘因制御」では、諏訪製糸業における事後的な相対評価による賃金額の決定の慣習が法的にも承認されたことを確認した上で、一九〇〇年代初頭の製糸結社の解散による独立工場化を契機に、賃金体系がそれまでの労働生産性のみを制御するものから、原料の生産性、繊度の均一性、生糸の光沢を加えた四次元制御のものへと転換することを、笠原組の賃金簿のデータに即した賃金モデルによって具体的に検証するとともに、そうした制御が実効性をもっていたことを明らかにする。続く第六章「労働市場における取引の統治」では、まず製糸家が労働者の雇用契約不履行に対して行った損害賠償請求訴訟について分析し、それが効率的ではないことを明らかにしつつ、それに代わるものとして雇用労働者の登記に基づく諏訪製糸同盟が設立される経緯を明らかにし、同盟は労働者の移動抑止を目的とするものではなく、製糸家間における労働者使用権の取引に伴う費用を減らすことを目的としていたと主張する。
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ここまでが内容紹介で、ついで評価です。

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 以上見たように、第二部とりわけ第四章の分析は、従来の評者らの研究が、第一次大戦以前の諏訪製糸業の頂点に位置する片倉組や岡谷製糸を正面から扱えなかった限界を、新たな史料発掘を通して突破し、その生産面での発展を仔細に究明することに成功した。また、第五章においては、従来直接の史料を欠くままにあいまいな形で論ぜられてきた賃金決定方式を、賃金簿のデータから見事に復元した点で、著者の力量が遺憾なく発揮されていると言えよう。さらに、第六章において、従来全く検討されなかった司法制度による雇用関係の間接的な統治の実態を明らかにし、諏訪製糸同盟をその限界を乗り越えて取引費用の減少を図るものであると位置づけたことは、公的統治と私的統治の関係を取り上げた注目すべき問題提起と言えよう。
 もっとも、評者らの見解への批判については、俄に納得するわけにはいかない疑問が残る部分が多い。例えば、第四章における「信州上一番」格の生糸の用途をほぼ一貫して中下級織物の経糸だと断じているが、それは片倉組や岡谷製糸会社の生糸について仮に当てはまるとしても(ただし、片倉組の場合、今井五介が明治末期の同組について「自分は緯糸を挽くと云ふやうな心持があった」と述べているのが誤りだという証明が必要となろう)、諏訪製糸一般や広く信州系製糸にまで広げることは無理であろう。また、第六章において、諏訪製糸同盟の目的が移動の抑止になかったとする主張は、実際の同盟が当初移動抑止を目指した試行錯誤を繰り返しながら、やがて「権利貸借」方式を生み出して移動のルール化を図った歴史過程を無視した議論のように思われる。
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ということで、細部への批判はあるにしろ、全体としては極めて高い評価ですね。
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井川克彦氏「書評と紹介 中林真幸『近代資本主義の組織』」(その2)

2018-11-18 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月18日(日)12時10分42秒

続きです。
「第3部 循環的な成長と金融制度」は、

第7章 「荷為替立替金」供給制度の形成
第8章 「原資金」供給制度の形成
第9章 景気循環と金融機構

と分れています。
製糸金融は中村政則『日本の歴史第29巻 労働者と農民』とは関係せず、また、私の能力の範囲を大幅に超えるので、この掲示板では特に検討しませんが、『近代資本主義の組織』の全体像を示すために紹介しておきます。(p125以下)

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 第三部は、製糸金融の重要性を強調する従来の研究を引き継ぎつつ、政策金融は「近代製糸業の発展に望ましい影響を及ぼしたか」「非効率的な経営に政策金融が向けられる可能性」(「情報の非対称ゆえに発生する非効率」=モラル・ハザード)はなかったのか、を問題にしている。
 まず八〇年代前半に「荷為替立替金」供給が普及し、日銀─正金・横浜市銀─売込問屋─地銀の資金供給ルートが形成されるが、その際、各主体が資金供給先を監視しつつ、効率的な制度が生む利益の分け前を享受する制度が形成される。例えば、正金・市銀は資金供与の条件として売込問屋の担保生糸を自行の倉庫に保管・管理したが、いっぽう売込問屋はとりわけ金融逼迫時のリスクを正金・市銀に分散させて優良製糸家の生糸の独占販売権を維持した。このようにして優良製糸経営、地銀、上層売込問屋、市銀の自己執行性が機能し、日銀を頂点とする政策金融の効率性が維持された、という。
 さらに著者は、製糸金融が製糸業に対して果たした長期的総体的な功罪を評価しようとする。八〇年代末以降、原料繭購入資金を無担保で貸出す「原資金」供給が日銀の資金供与に促されつつ定着していき、上層売込問屋に連なる諏訪大製糸家の機動的な原料繭購入を可能にした。政策金融に主導されて拡大した製糸金融は、景気循環の増幅作用を適度に調整する自立的機能を有していた。「原資金」供給は景気上昇期に購繭競争を激化させて生糸製造原価を押し上げ、景気後退期における不良製糸家の経営破綻を増幅するが、優良製糸家は売れ行き不振にもかかわらず横浜に出荷して在庫金融的な「荷為替立替金」を低利で得て、景気回復期まで持ちこたえて損失を回復する。結局、このような製糸金融は、長期的な生糸市場拡大を前提として、選択された優良製糸家の長期的利益を拡大し、製糸業の発展に寄与した、と著者は評価する。そして政策金融が効率的に行い得た条件として、製産者商標による取引が確立していて優良製糸家の選別が容易だったこと、前述のようなモラル・ハザードが回避されていたことを指摘する。以上において著者は、売込問屋と製糸家のそれぞれの階層性が効率的生産に寄与したプラス面を強調している。
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そして、既に紹介した部分と重複しますが、

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 以上、製糸業に関わる具体的論点に即して辿ってみたが、方法論に関わる本書の提起に触れる余裕はない。歴史研究書としての本書の価値に触れて拙文を結びたい。
 従来の日本近代史研究において、製糸業は近代日本の半封建性、前近代性、特殊性を強調する議論の一つの柱をなした。本書は横浜市場・売込問屋の性格、「相対賃金制」の本質、製糸家の購繭行動など、中心的論点のほとんどすべてについて従来の説を覆す仮説と実証を提示し、戦前期の日本製糸業に「近代的」な組織・制度が成立したことを強調した。その実証的素材と、「自己執行的」「情報の対称性」「効率的な均衡」などのキーワードに象徴される理論装置は「近代」の本質を探ろうと欲する人に大きな刺激を与えるであろう。
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と続きます。
以上、まことに横着で恐縮ですが、全文を引用してしまいました。
この後更に、従来の通説的立場であった石井寛治氏が中林著の第二部をどのように評価されているかを紹介します。
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情報ベクトル

2018-11-18 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月18日(日)12時03分40秒

>筆綾丸さん
私の説明では不正確になるので、『近代資本主義の組織』から一例を紹介しておきます。
1879年8月末、片倉兼太郎らの共同再繰結社「開明社」に、売込問屋(貿易商社との仲介をする問屋)から品質上の問題で製品を販売できないとの連絡が入り、開明社側が販売見合わせを決定したにもかかわらず、問屋側が勝手な判断で安く売ってしまった、というトラブルを紹介した後での説明です。(p167以下)

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 しかし,貿易商社が検査を行っている以上,「開明社」製糸の品質ベクトルに対する市場の評価を多次元的に把握しているのは,貿易商社や,商社と直接に取引している売込問屋の方であった.代価や,検査結果を示す等級といった1次元情報から,価格関数によって変換された多次元の品質ベクトルを復元することは困難である.足りないのは繊度の均一性なのか,光沢なのか,そしてそれらはどの程度に足りていなかったのか,といった,実際の品質改善に必要な品質ベクトルの方向が判明しないのである.そして,品質向上の方向が特定されない場合,特定される場合とくらべて,製糸家の品質向上努力のリスクは大きくなる.そのことは,製糸家の品質向上への誘因を減殺する効果を伴った.
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なお、原料繭や労働力などでも売手・買手の「情報の非対称性」が問題となり、諏訪の大製糸家が養蚕農家を収奪していた、無知な貧農層から安価に労働力を得て搾取した、みたいな考え方がかつては通説でした。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「右翼」の戦後史 2018/11/17(土) 13:39:09
小太郎さん
「最新の経済理論と膨大な実証の上に成る五〇〇頁以上の大著であるが、シンプルかつ極太の論理で貫き通すことに多大な努力が払われている。」(井川氏の書評)
最近は、薄い新書程度しか読んでいないので、500頁を超える専門書となると、溜息が出てきます。
極太のペンとか極太の毛糸という使い方はしますが、「極太の論理」はあまり聞いたことがなく、「骨太の論理」の方がいいのではないか、と思いました。

「商品サービスに関する多種多様な情報ヴェクトルは、いったん市場で価格スカラーに集約されたあとでは、もとの多次元世界には還元され得ず、その結果、売手・買手間に情報の非対称性が生まれ、取引費用が増大する」(尾高氏の書評)
「情報ヴェクトル」と「価格スカラー」というような表現を見ると、興味を惹かれますが、難しい経済理論が展開されているようで尻込みしてしまいます。

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784492654859
白川方明氏の『中央銀行』は読んでみようかな、とは思っていますが。

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000210915
安田浩一『「右翼」の戦後史』は、まだ読み始めたばかりですが、意外に面白いですね。
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