前回投稿で引用した部分に「似絵の名手信実に描かせたという俗体の宸影」とありますが、これは水無瀬神宮所蔵「国宝 紙本著色後鳥羽天皇像」のことですね。
「水無瀬神宮のご案内」(水無瀬神宮公式サイト内)
https://www.minasejingu.jp/info.html
ただ、慈光寺本には、
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サテ、御タブサヲバ七条院ヘゾマイラセ給フ。女院ハ御グシヲ御覧ズルニ、夢ノ心地シテ、御声モ惜マセ給ハズ伏沈〔ふししづみ〕、御涙ヲ流シテ悲ミ給フゾ哀ナル。替リハテヌル御姿、我床シトヤ思召レケン、院ハ信実ヲ召レテ、御形ヲ写サセラル。御覧ズルニ、影鏡〔かげかがみ〕ナラネドモ、口惜ク、衰テ長キ命ナルベシ。今ハ、此御所、世ヲ知食事〔しろしめすこと〕叶フマジケレバ、朝マダキニ、大公〔おほきみ〕モ九条殿ヘ行幸ナル。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e34ea7c0930b816cebfa3c4550738881
とあって、この文章を素直に読む限り、後鳥羽院は法体になった後に藤原信実を召して似絵を書かせたとしか思えません。
この点、流布本でも、
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同八日、六波羅より御出家可有由申入ければ、則〔すなはち〕御戎師を被召テ、御ぐしをろさせ御座〔おはしま〕す。忽〔たちまち〕に花の御姿の替らせ給ひたるを、信実を召て、似せ絵に被写て、七条院へ奉らせ給ければ、御覧じも不敢〔あへず〕、御目も昏〔く〕れ給ふ御心地して、修明(門)院誘引〔いざなひ〕進〔まゐ〕らせて、一御車にて鳥羽殿へ御幸なる。御車を指寄て、事の由を申させ給ければ、御簾〔みす〕を引遣〔やら〕せ御座〔ましまし〕て、龍顔を指出させ給て見へ被参、とく御返有〔かへりあれ〕と御手にてまねかせ給ふ様也。両女院、御目も暮〔くれ〕、絶入せ給も理也。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c4185bb366bd84c3fbf2a65115ae50a3
とあって、やはり法体になった後に藤原信実を召して似絵を書かせたとしか読めません。
となると、慈光寺本が「最古態本」だから一番信頼できるという立場の研究者にとっては、何故に信実作とされて水無瀬神宮に伝わる後鳥羽院像が俗体なのか、相当に深刻な問題になるはずです。
また、「原流布本」(といっても現在の流布本から後鳥羽院・土御門院の諡号を除いた程度のもの)も相当古いと考える私の立場からも、やはり同様の問題が生じます。
慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その4)─「原流布本」の復原
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a7469d9367fe0d16b4f76f98f7d882a1
実は水無瀬神宮には法体の後鳥羽院像も所蔵されているのですが、一般には室町時代作と言われていて、素人目で見てもあまり傑作とも思えない作品です。
ということで、少し調べてみた結果、一応の見通しは立ったのですが、私は絵画史に疎く、絵の真贋の判断となると全くの素人なので、もう少し専門家の見解を集めてから私見を述べたいと思います。
さて、続きです。(p171以下)
-------
七月十三日、隠岐への長い旅がはじまる。院の乗物は「逆輿」である。「さかごし」とは、進行方向と反対向きに乗せることで、罪人を送る作法であった。前後して東方へ連行された近臣「張本」たちの安否を気遣う心のゆとりはあったろうか。ましてや対岸に見える水無瀬の離宮に立ち寄ることなど思いも寄らなかったろう。
難波を過ぎ、明石から先はもう「外国」である。明石の駅は、むかし菅原道真が大宰府へ流される途中で、「駅長驚くなかれ時の変改 一栄一落は是れ春秋」の絶唱を残した名所である。院がそれに触発されたものか、古活字本『承久記』は次の挿話を伝えている。
サテ播磨国明石ニ著セ給テ、「爰ハ何クゾ」ト御尋アリ。「明石ノ浦」ト申ケレバ、
都ヲバクラ闇ニコソ出シカド 月ハ明石ノ浦ニ来ニケリ
又、白拍子ノ亀菊殿、
月影ハサコソ明石ノ浦ナレド 雲居ノ秋ゾ猶モコヒシキ
この挿話は、間もなくはじまる隠岐の配所での日常をもチラリと垣間見せてくれるような気がする。
播磨路から伯耆の山中を通って半月ほどで出雲国の大浜浦(いま美保関町)へ着き、順風を待って船出した。供人は西御方、伊賀局(亀菊)のほかは、万一の場合に備えて随行した聖〔ひじり〕と医師〔くすし〕だけである。道中の不安を慈光寺本は、
道スガラノ御ナヤミサヘ有ケレバ、御心中イカゞ思食ツゞケケン。
と簡潔に語るのみである。道中「御ナヤミ」があったか否かも分からない。まして船酔なども加わったかどうか。少なくとも、
われこそは新島守よ隠岐の海の 荒き波風心して吹け
と昂然とうそぶく王者の風格は、この傷心のどん底ではうかがうよしもない。敗北の「クラ闇」は深かった。
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「その五 敗者の運命」は以上です。
「逆輿」は慈光寺本にしか登場しませんが、その場面は、
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去程ニ、七月十三日ニハ、院ヲバ伊藤左衛門請取〔うけとり〕マイラセテ、四方ノ逆輿〔さかごし〕ニノセマイラセ、医王左衛門入道御供ニテ、鳥羽院ヲコソ出サセ給ヘ。女房ニハ西ノ御方・大夫殿・女官ヤウノ者マイリケリ。又、何所〔いづく〕ニテモ御命尽サセマシマサン料〔れう〕トテ、聖〔ひじり〕ゾ一人召具〔めしぐ〕セラレケル。「今一度、広瀬殿ヲ見バヤ」ト仰下サレケレドモ、見セマイラセズシテ、水無瀬殿ヲバ雲ノヨソニ御覧ジテ、明石ヘコソ著セ給ヘ。【後略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e34ea7c0930b816cebfa3c4550738881
というものです。
「水無瀬神宮のご案内」(水無瀬神宮公式サイト内)
https://www.minasejingu.jp/info.html
ただ、慈光寺本には、
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サテ、御タブサヲバ七条院ヘゾマイラセ給フ。女院ハ御グシヲ御覧ズルニ、夢ノ心地シテ、御声モ惜マセ給ハズ伏沈〔ふししづみ〕、御涙ヲ流シテ悲ミ給フゾ哀ナル。替リハテヌル御姿、我床シトヤ思召レケン、院ハ信実ヲ召レテ、御形ヲ写サセラル。御覧ズルニ、影鏡〔かげかがみ〕ナラネドモ、口惜ク、衰テ長キ命ナルベシ。今ハ、此御所、世ヲ知食事〔しろしめすこと〕叶フマジケレバ、朝マダキニ、大公〔おほきみ〕モ九条殿ヘ行幸ナル。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e34ea7c0930b816cebfa3c4550738881
とあって、この文章を素直に読む限り、後鳥羽院は法体になった後に藤原信実を召して似絵を書かせたとしか思えません。
この点、流布本でも、
-------
同八日、六波羅より御出家可有由申入ければ、則〔すなはち〕御戎師を被召テ、御ぐしをろさせ御座〔おはしま〕す。忽〔たちまち〕に花の御姿の替らせ給ひたるを、信実を召て、似せ絵に被写て、七条院へ奉らせ給ければ、御覧じも不敢〔あへず〕、御目も昏〔く〕れ給ふ御心地して、修明(門)院誘引〔いざなひ〕進〔まゐ〕らせて、一御車にて鳥羽殿へ御幸なる。御車を指寄て、事の由を申させ給ければ、御簾〔みす〕を引遣〔やら〕せ御座〔ましまし〕て、龍顔を指出させ給て見へ被参、とく御返有〔かへりあれ〕と御手にてまねかせ給ふ様也。両女院、御目も暮〔くれ〕、絶入せ給も理也。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c4185bb366bd84c3fbf2a65115ae50a3
とあって、やはり法体になった後に藤原信実を召して似絵を書かせたとしか読めません。
となると、慈光寺本が「最古態本」だから一番信頼できるという立場の研究者にとっては、何故に信実作とされて水無瀬神宮に伝わる後鳥羽院像が俗体なのか、相当に深刻な問題になるはずです。
また、「原流布本」(といっても現在の流布本から後鳥羽院・土御門院の諡号を除いた程度のもの)も相当古いと考える私の立場からも、やはり同様の問題が生じます。
慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その4)─「原流布本」の復原
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a7469d9367fe0d16b4f76f98f7d882a1
実は水無瀬神宮には法体の後鳥羽院像も所蔵されているのですが、一般には室町時代作と言われていて、素人目で見てもあまり傑作とも思えない作品です。
ということで、少し調べてみた結果、一応の見通しは立ったのですが、私は絵画史に疎く、絵の真贋の判断となると全くの素人なので、もう少し専門家の見解を集めてから私見を述べたいと思います。
さて、続きです。(p171以下)
-------
七月十三日、隠岐への長い旅がはじまる。院の乗物は「逆輿」である。「さかごし」とは、進行方向と反対向きに乗せることで、罪人を送る作法であった。前後して東方へ連行された近臣「張本」たちの安否を気遣う心のゆとりはあったろうか。ましてや対岸に見える水無瀬の離宮に立ち寄ることなど思いも寄らなかったろう。
難波を過ぎ、明石から先はもう「外国」である。明石の駅は、むかし菅原道真が大宰府へ流される途中で、「駅長驚くなかれ時の変改 一栄一落は是れ春秋」の絶唱を残した名所である。院がそれに触発されたものか、古活字本『承久記』は次の挿話を伝えている。
サテ播磨国明石ニ著セ給テ、「爰ハ何クゾ」ト御尋アリ。「明石ノ浦」ト申ケレバ、
都ヲバクラ闇ニコソ出シカド 月ハ明石ノ浦ニ来ニケリ
又、白拍子ノ亀菊殿、
月影ハサコソ明石ノ浦ナレド 雲居ノ秋ゾ猶モコヒシキ
この挿話は、間もなくはじまる隠岐の配所での日常をもチラリと垣間見せてくれるような気がする。
播磨路から伯耆の山中を通って半月ほどで出雲国の大浜浦(いま美保関町)へ着き、順風を待って船出した。供人は西御方、伊賀局(亀菊)のほかは、万一の場合に備えて随行した聖〔ひじり〕と医師〔くすし〕だけである。道中の不安を慈光寺本は、
道スガラノ御ナヤミサヘ有ケレバ、御心中イカゞ思食ツゞケケン。
と簡潔に語るのみである。道中「御ナヤミ」があったか否かも分からない。まして船酔なども加わったかどうか。少なくとも、
われこそは新島守よ隠岐の海の 荒き波風心して吹け
と昂然とうそぶく王者の風格は、この傷心のどん底ではうかがうよしもない。敗北の「クラ闇」は深かった。
-------
「その五 敗者の運命」は以上です。
「逆輿」は慈光寺本にしか登場しませんが、その場面は、
-------
去程ニ、七月十三日ニハ、院ヲバ伊藤左衛門請取〔うけとり〕マイラセテ、四方ノ逆輿〔さかごし〕ニノセマイラセ、医王左衛門入道御供ニテ、鳥羽院ヲコソ出サセ給ヘ。女房ニハ西ノ御方・大夫殿・女官ヤウノ者マイリケリ。又、何所〔いづく〕ニテモ御命尽サセマシマサン料〔れう〕トテ、聖〔ひじり〕ゾ一人召具〔めしぐ〕セラレケル。「今一度、広瀬殿ヲ見バヤ」ト仰下サレケレドモ、見セマイラセズシテ、水無瀬殿ヲバ雲ノヨソニ御覧ジテ、明石ヘコソ著セ給ヘ。【後略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e34ea7c0930b816cebfa3c4550738881
というものです。
私はこの「逆輿」に興味を持って慈光寺本を調べ始めたのですが、「逆輿」を史実と明言する歴史研究者にはなかなか出会えなくて、私が鋭意作成中の「慈光寺本妄信研究者交名(仮称)」において大将格に位置づけている坂井孝一氏(創価大学教授)ですら、『承久の乱』(中公新書、2018)では「逆輿」に言及されていません。
また、同じく私が大将格と見ている関幸彦氏(日本大学教授)も、『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』(吉川弘文館、2012)では「逆輿」に言及されていません。
このお二人ですら「逆輿」を積極的に史実と肯定されていない中で、目崎氏が「逆輿」を全く疑っていなさそうなことは興味深いですね。
また、同じく私が大将格と見ている関幸彦氏(日本大学教授)も、『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』(吉川弘文館、2012)では「逆輿」に言及されていません。
このお二人ですら「逆輿」を積極的に史実と肯定されていない中で、目崎氏が「逆輿」を全く疑っていなさそうなことは興味深いですね。
※追記(2023年10月27日)
坂井孝一氏と関幸彦氏のお二人は何の留保もなく「逆輿」に言及されていました。
下記投稿で訂正しました。
「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その22)─坂井氏は何故に慈光寺本の和歌贈答場面を採らないのか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7e455bb083860ca90a24163b0a90dff8
坂井孝一氏と関幸彦氏のお二人は何の留保もなく「逆輿」に言及されていました。
下記投稿で訂正しました。
「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その22)─坂井氏は何故に慈光寺本の和歌贈答場面を採らないのか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7e455bb083860ca90a24163b0a90dff8
「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その27)─関氏も何故か慈光寺本の和歌贈答場面は不採用。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/54dcdb7e8a5d36bd4240ba2c44225ae7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/54dcdb7e8a5d36bd4240ba2c44225ae7
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