メルクマール(4)の「逆輿」についての関氏の説明を見ることにします。(p132以下)
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十三日、院は隠岐へと出立した。甲冑の武士たちに前後を囲まれての離京だった。『承久記』では院の身柄は、伊東祐時(工藤祐経の舅)に委ねられたとある。逆輿(罪人用の手越)に乗せられた院は、出家した伊王能茂とともに例の亀菊をふくむ数人の女房と供が付き従い、これに僧侶一人が加わった。僧は長い旅路のおり「何処ニテモ御命尽サセマシマサン料トシテ」(どこで終焉を迎えてもいい用意として)とのことだった。これに医師の和気長成がしたがった。
摂津の水無瀬宮(大阪府三島郡島本町)を遥拝しつつ播磨の明石に入った一行は、ここで海老名季綱が護送の預かりとなり北上、伯耆国で金持兵衛がその身柄を預かったとある。
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いったん、ここで切ります。
私は目崎徳衛氏の『史伝 後鳥羽院』(吉川弘文館、2001)を検討した際、何故か9月12日の投稿で、
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私はこの「逆輿」に興味を持って慈光寺本を調べ始めたのですが、「逆輿」を史実と明言する歴史研究者にはなかなか出会えなくて、私が鋭意作成中の「慈光寺本妄信研究者交名(仮称)」において大将格に位置づけている坂井孝一氏(創価大学教授)ですら、『承久の乱』(中公新書、2018)では「逆輿」に言及されていません。
また、同じく私が大将格と見ている関幸彦氏(日本大学教授)も、『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』(吉川弘文館、2012)では「逆輿」に言及されていません。
このお二人ですら「逆輿」を積極的に史実と肯定されていない中で、目崎氏が「逆輿」を全く疑っていなさそうなことは興味深いですね。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c261120149a5dfe7eafc5b1590ff81cd
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十三日、院は隠岐へと出立した。甲冑の武士たちに前後を囲まれての離京だった。『承久記』では院の身柄は、伊東祐時(工藤祐経の舅)に委ねられたとある。逆輿(罪人用の手越)に乗せられた院は、出家した伊王能茂とともに例の亀菊をふくむ数人の女房と供が付き従い、これに僧侶一人が加わった。僧は長い旅路のおり「何処ニテモ御命尽サセマシマサン料トシテ」(どこで終焉を迎えてもいい用意として)とのことだった。これに医師の和気長成がしたがった。
摂津の水無瀬宮(大阪府三島郡島本町)を遥拝しつつ播磨の明石に入った一行は、ここで海老名季綱が護送の預かりとなり北上、伯耆国で金持兵衛がその身柄を預かったとある。
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いったん、ここで切ります。
私は目崎徳衛氏の『史伝 後鳥羽院』(吉川弘文館、2001)を検討した際、何故か9月12日の投稿で、
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私はこの「逆輿」に興味を持って慈光寺本を調べ始めたのですが、「逆輿」を史実と明言する歴史研究者にはなかなか出会えなくて、私が鋭意作成中の「慈光寺本妄信研究者交名(仮称)」において大将格に位置づけている坂井孝一氏(創価大学教授)ですら、『承久の乱』(中公新書、2018)では「逆輿」に言及されていません。
また、同じく私が大将格と見ている関幸彦氏(日本大学教授)も、『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』(吉川弘文館、2012)では「逆輿」に言及されていません。
このお二人ですら「逆輿」を積極的に史実と肯定されていない中で、目崎氏が「逆輿」を全く疑っていなさそうなことは興味深いですね。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c261120149a5dfe7eafc5b1590ff81cd
などと書いてしまったのですが、坂井氏に続き、関氏についても私の単なる勘違いでした。
坂井氏については10月23日の投稿でお詫びの上訂正しましたが、関氏についてもお詫びの上、『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』では一切の留保なしに「逆輿」に言及されていると訂正させていただきます。
「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その22)─坂井氏は何故に慈光寺本の和歌贈答場面を採らないのか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7e455bb083860ca90a24163b0a90dff8
さて、続きです。(p132以下)
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『承久記』では出雲の大浜浦(島根県八束郡美保関町)に到着したのが十四日とあるが、これは誤りで『吾妻鏡』にあるように七月二十七日が妥当だろう。この地から便風を得て隠岐へと向う。多くの武士はここで帰京した。『吾妻鏡』には、院がこの地から母七条院と后修明門院(重子)に献じた歌が見えている。
たらちめの消えやらでまつ露の身を 風よりさきにいかがとはまし
しるらめや憂きめをみをの浦千鳥 島々しほる袖のけしきを
前者の「たらちめ」は母にかかる枕詞「たらちね」であり、都の母七条院の不安な想いを汲み上げ、露命のわが身のことをすみやかに伝えたい焦燥と悲愴の感がにじんでいる。
後者の修明門院への歌も院自身の憂き身の辛酸を浦千鳥に託し、悲涙にむせぶ想いが伝えられている。いずれも叙景と叙心が巧みに織りなされた作品だ。だが、それにしても、不羈の才に溢れ、昂然と自らを誇ったかつての王者は何処に行ったのか。敗れし者の寂寞たる想いが、後鳥羽をしてかかる心情を紡ぎ出したとしても、である。
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関氏は例によって『承久記』とだけ記されていますが、「出雲の大浜浦(島根県八束郡美保関町)に到着したのが十四日」とあるのは慈光寺本で、流布本には特に日付はありません。
そして、慈光寺本の原文を見ると、
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去程ニ、七月十三日ニハ、院ヲバ伊藤左衛門請取〔うけとり〕マイラセテ、四方ノ逆輿〔さかごし〕ニノセマイラセ、医王左衛門入道御供ニテ、鳥羽院ヲコソ出サセ給ヘ。女房ニハ西ノ御方・大夫殿・女官ヤウノ者マイリケリ。又、何所〔いづく〕ニテモ御命尽サセマシマサン料〔れう〕トテ、聖〔ひじり〕ゾ一人召具〔めしぐ〕セラレケル。「今一度、広瀬殿ヲ見バヤ」ト仰下サレケレドモ、見セマイラセズシテ、水無瀬殿ヲバ雲ノヨソニ御覧ジテ、明石ヘコソ著セ給ヘ。其ヨリ播磨国ヘ著セ給フ。其ヨリ又、海老名兵衛請取参セテ、途中マデハ送リ参セケリ。途中ヨリ又、伯耆国金持兵衛請取マイラス。十四(日)許ニゾ出雲国ノ大浜浦ニ著セ給フ。風ヲ待テ隠岐国ヘゾ著マイラスル。道スガラノ御ナヤミサヘ有ケレバ、御心中イカゞ思食ツゞケケン。医師仲成、苔ノ袂ニ成テ御供シケリ。哀〔あはれ〕、都ニテハ、カゝル浪風ハ聞ザリシニ、哀ニ思食レテ、イトゞ御心細ク御袖ヲ絞テ、
都ヨリ吹クル風モナキモノヲ沖ウツ波ゾ常ニ問ケル
伊王左衛門、
スゞ鴨ノ身トモ我コソ成ヌラメ波ノ上ニテ世ヲスゴス哉
御母七条院ヘ此御歌ドモヲ参セ給ヘバ、女院ノ御返シニハ、
神風ヤ今一度ハ吹カヘセミモスソ河ノ流タヘズハ
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e34ea7c0930b816cebfa3c4550738881
となっていて、確かに十四(日)許ニゾ出雲国ノ大浜浦ニ著セ給フ」とはありますが、十三日に鳥羽殿を出発して翌十四日に大浜浦に着けるはずはなく、これは出発から大浜浦までの行程が十四日間だったという意味であり、関氏は壮大な勘違いをされていますね。
十三日に十四日を足せばちょうど二十七日となり、『吾妻鏡』とぴったり一致します。
さて、非常に興味深いことに、関氏も坂井孝一氏と同じく、和歌については慈光寺本に拠らず、『吾妻鏡』七月二十七日条の、
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上皇着御于出雲国大浜湊。於此所遷坐御船。御共勇士等給暇。大略以帰洛。付彼便風。被献御歌於七条院并修明門院等云々。
タラチメノ消ヤラテマツ露ノ身ヲ風ヨリサキニイカテトハマシ
シルラメヤ憂メヲミヲノ浦千鳥嶋々シホル袖ノケシキヲ
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm
を引用されますが、その理由は不明です。
なお、関氏の文章と慈光寺本を読み比べてみると、実は一箇所だけ慈光寺本では説明できない部分があります。
即ち、関氏は「例の亀菊をふくむ数人の女房と供が付き従い」と書かれていますが、亀菊は慈光寺本のこの場面には名前がありません。
慈光寺本では、亀菊は長江庄のエピソードに僅か一回登場するだけで、下巻には全く登場しません。
しかし、流布本では、亀菊は道中で、
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さて播磨国明石に著せ給て、「爰は何〔いづ〕くぞ」と御尋あり。「明石の浦」と申ければ、
都をばくら闇にこそ出しかど月は明石の浦に来にけり
又、白拍子の亀菊殿、
月影はさこそ明石の浦なれど雲居〔くもゐ〕の秋ぞ猶もこひしき
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/297b3e7f9e8b3601b2cb5b4207db41c8
と後鳥羽院と歌の贈答を行っています。
呼び方も「亀菊殿」と丁重な流布本と比べると、慈光寺本での亀菊の扱いは冷淡で、私はこれは亀菊と藤原能茂の関係を反映しているのではなかろうかと思っています。