学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その27)─関氏も何故か慈光寺本の和歌贈答場面は不採用。

2023-10-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
メルクマール(4)の「逆輿」についての関氏の説明を見ることにします。(p132以下)

-------
 十三日、院は隠岐へと出立した。甲冑の武士たちに前後を囲まれての離京だった。『承久記』では院の身柄は、伊東祐時(工藤祐経の舅)に委ねられたとある。逆輿(罪人用の手越)に乗せられた院は、出家した伊王能茂とともに例の亀菊をふくむ数人の女房と供が付き従い、これに僧侶一人が加わった。僧は長い旅路のおり「何処ニテモ御命尽サセマシマサン料トシテ」(どこで終焉を迎えてもいい用意として)とのことだった。これに医師の和気長成がしたがった。
 摂津の水無瀬宮(大阪府三島郡島本町)を遥拝しつつ播磨の明石に入った一行は、ここで海老名季綱が護送の預かりとなり北上、伯耆国で金持兵衛がその身柄を預かったとある。
-------

いったん、ここで切ります。
私は目崎徳衛氏の『史伝 後鳥羽院』(吉川弘文館、2001)を検討した際、何故か9月12日の投稿で、

-------
私はこの「逆輿」に興味を持って慈光寺本を調べ始めたのですが、「逆輿」を史実と明言する歴史研究者にはなかなか出会えなくて、私が鋭意作成中の「慈光寺本妄信研究者交名(仮称)」において大将格に位置づけている坂井孝一氏(創価大学教授)ですら、『承久の乱』(中公新書、2018)では「逆輿」に言及されていません。
また、同じく私が大将格と見ている関幸彦氏(日本大学教授)も、『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』(吉川弘文館、2012)では「逆輿」に言及されていません。
このお二人ですら「逆輿」を積極的に史実と肯定されていない中で、目崎氏が「逆輿」を全く疑っていなさそうなことは興味深いですね。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c261120149a5dfe7eafc5b1590ff81cd

などと書いてしまったのですが、坂井氏に続き、関氏についても私の単なる勘違いでした。
坂井氏については10月23日の投稿でお詫びの上訂正しましたが、関氏についてもお詫びの上、『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』では一切の留保なしに「逆輿」に言及されていると訂正させていただきます。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その22)─坂井氏は何故に慈光寺本の和歌贈答場面を採らないのか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7e455bb083860ca90a24163b0a90dff8

さて、続きです。(p132以下)

-------
 『承久記』では出雲の大浜浦(島根県八束郡美保関町)に到着したのが十四日とあるが、これは誤りで『吾妻鏡』にあるように七月二十七日が妥当だろう。この地から便風を得て隠岐へと向う。多くの武士はここで帰京した。『吾妻鏡』には、院がこの地から母七条院と后修明門院(重子)に献じた歌が見えている。

  たらちめの消えやらでまつ露の身を 風よりさきにいかがとはまし
  しるらめや憂きめをみをの浦千鳥 島々しほる袖のけしきを

 前者の「たらちめ」は母にかかる枕詞「たらちね」であり、都の母七条院の不安な想いを汲み上げ、露命のわが身のことをすみやかに伝えたい焦燥と悲愴の感がにじんでいる。
 後者の修明門院への歌も院自身の憂き身の辛酸を浦千鳥に託し、悲涙にむせぶ想いが伝えられている。いずれも叙景と叙心が巧みに織りなされた作品だ。だが、それにしても、不羈の才に溢れ、昂然と自らを誇ったかつての王者は何処に行ったのか。敗れし者の寂寞たる想いが、後鳥羽をしてかかる心情を紡ぎ出したとしても、である。
-------

関氏は例によって『承久記』とだけ記されていますが、「出雲の大浜浦(島根県八束郡美保関町)に到着したのが十四日」とあるのは慈光寺本で、流布本には特に日付はありません。
そして、慈光寺本の原文を見ると、

-------
 去程ニ、七月十三日ニハ、院ヲバ伊藤左衛門請取〔うけとり〕マイラセテ、四方ノ逆輿〔さかごし〕ニノセマイラセ、医王左衛門入道御供ニテ、鳥羽院ヲコソ出サセ給ヘ。女房ニハ西ノ御方・大夫殿・女官ヤウノ者マイリケリ。又、何所〔いづく〕ニテモ御命尽サセマシマサン料〔れう〕トテ、聖〔ひじり〕ゾ一人召具〔めしぐ〕セラレケル。「今一度、広瀬殿ヲ見バヤ」ト仰下サレケレドモ、見セマイラセズシテ、水無瀬殿ヲバ雲ノヨソニ御覧ジテ、明石ヘコソ著セ給ヘ。其ヨリ播磨国ヘ著セ給フ。其ヨリ又、海老名兵衛請取参セテ、途中マデハ送リ参セケリ。途中ヨリ又、伯耆国金持兵衛請取マイラス。十四(日)許ニゾ出雲国ノ大浜浦ニ著セ給フ。風ヲ待テ隠岐国ヘゾ著マイラスル。道スガラノ御ナヤミサヘ有ケレバ、御心中イカゞ思食ツゞケケン。医師仲成、苔ノ袂ニ成テ御供シケリ。哀〔あはれ〕、都ニテハ、カゝル浪風ハ聞ザリシニ、哀ニ思食レテ、イトゞ御心細ク御袖ヲ絞テ、
  都ヨリ吹クル風モナキモノヲ沖ウツ波ゾ常ニ問ケル
 伊王左衛門、
  スゞ鴨ノ身トモ我コソ成ヌラメ波ノ上ニテ世ヲスゴス哉
 御母七条院ヘ此御歌ドモヲ参セ給ヘバ、女院ノ御返シニハ、
  神風ヤ今一度ハ吹カヘセミモスソ河ノ流タヘズハ

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e34ea7c0930b816cebfa3c4550738881

となっていて、確かに十四(日)許ニゾ出雲国ノ大浜浦ニ著セ給フ」とはありますが、十三日に鳥羽殿を出発して翌十四日に大浜浦に着けるはずはなく、これは出発から大浜浦までの行程が十四日間だったという意味であり、関氏は壮大な勘違いをされていますね。
十三日に十四日を足せばちょうど二十七日となり、『吾妻鏡』とぴったり一致します。
さて、非常に興味深いことに、関氏も坂井孝一氏と同じく、和歌については慈光寺本に拠らず、『吾妻鏡』七月二十七日条の、

-------
上皇着御于出雲国大浜湊。於此所遷坐御船。御共勇士等給暇。大略以帰洛。付彼便風。被献御歌於七条院并修明門院等云々。
 タラチメノ消ヤラテマツ露ノ身ヲ風ヨリサキニイカテトハマシ
 シルラメヤ憂メヲミヲノ浦千鳥嶋々シホル袖ノケシキヲ

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm

を引用されますが、その理由は不明です。
なお、関氏の文章と慈光寺本を読み比べてみると、実は一箇所だけ慈光寺本では説明できない部分があります。
即ち、関氏は「例の亀菊をふくむ数人の女房と供が付き従い」と書かれていますが、亀菊は慈光寺本のこの場面には名前がありません。
慈光寺本では、亀菊は長江庄のエピソードに僅か一回登場するだけで、下巻には全く登場しません。
しかし、流布本では、亀菊は道中で、

-------
 さて播磨国明石に著せ給て、「爰は何〔いづ〕くぞ」と御尋あり。「明石の浦」と申ければ、
  都をばくら闇にこそ出しかど月は明石の浦に来にけり
又、白拍子の亀菊殿、
  月影はさこそ明石の浦なれど雲居〔くもゐ〕の秋ぞ猶もこひしき

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/297b3e7f9e8b3601b2cb5b4207db41c8

と後鳥羽院と歌の贈答を行っています。
呼び方も「亀菊殿」と丁重な流布本と比べると、慈光寺本での亀菊の扱いは冷淡で、私はこれは亀菊と藤原能茂の関係を反映しているのではなかろうかと思っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その26)─関幸彦氏を「大将格」としたのは私の誤解でした。

2023-10-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
メルクマール(2)、慈光寺本の北条義時追討「院宣」を本物と考えるか否か、を見て行きます。(p89以下)

-------
【前略】義時追討の院宣・官宣旨はこうした状況のなかで、諸国の守護・地頭に発せられた。
 その内容はおおよそ以下のようであった。

  近年は関東の成敗と称し、天下の政務を乱している。将軍の名を仮りてはいるが、まだ幼少で義時が
  将軍の命令と称しほしいままに諸国を裁断している。加えて、自分の力を誇示し、朝廷の威をおろそ
  かにしている。まさしく謀反というべきだ。早く諸国に命じ、守護・地頭が院庁に参じるべきである。
  国司や荘園領主はこの令達に従うように。(「官宣旨案」『鎌倉遺文』二七四六号)

 五月十五日付のこの官宣旨案(右弁官下文)は若干文言や表現に難があるものの、義時追討宣旨の原形に近いとされる(文言は多少異なるが、同趣旨のものは『承久記』にも記されている)。
 ここで注目されるのは、後鳥羽側のねらいはあくまで、義時追討にあった点だ。幕府を倒すことではなく、義時の専横を是正することだった。官宣旨の表現をかりれば、「偏ニ言詞ヲ教命ニ仮リ、恣〔ほしいまま〕ニ裁断ヲ都鄙ニ致ス」行為の禁圧にあった。
 そしてもう一つ。官宣旨が「諸国庄園守護人地頭等」に令達されている点である。要は御家人たちに対しての指令なのである。院は武士たちへの敵対勢力を演じたわけではないことに留意すべきだろう。ともすれば幕府の否定と読み換え勝ちなのだが、戦略上で院の意向は、義時排除あるいは北条氏討滅にあった。
-------

ということで、関氏が院宣と官宣旨の両方が出されたという立場であり、また「義時追討説」の立場であることは間違いありません。
しかし、関氏は院宣よりも官宣旨を先に紹介されています。
また、関氏は、少し前の「計画に参加したのは『承久記』などを参照すれば」(p88)の注記で、

-------
* 承久の乱の経過については、『吾妻鏡』のほか、『承久記』『承久軍物語』『承久兵乱記』などに詳しい。ただし、『吾妻鏡』は義時追討宣旨以後の鎌倉での対応と、その後の戦闘状況を知るうえで有効である。京都内部での挙兵状況は、『承久記』以下の軍記物が脚色も多いが詳細である。これらは『承久記』を原形とした同一の系列に属するものとされる。『承久記』の成立年代は議論も多いが、遅くとも鎌倉末期とされている(龍粛「承久軍物語考」『史学雑誌』二九-一二、のち、同著『鎌倉時代の研究』所収、前掲)。現在、その信憑性もかなり認められており、多くの異本のなかでも古態を残す「慈光寺本」が注目されている。本書でも『新日本古典文学大系』(岩波書店)所収のそれに依拠している。『保元物語』『平治物語』『平家物語』と併せて、『承久記』は「四部合戦状」とよばれていた。
 なお、「慈光寺本」には、五月十五日付の後鳥羽上皇院宣も所載されている。宣旨と院宣の双方の関係については、官宣旨が不特定多数の武力動員を企図したのに対し、院宣は特定御家人の直接動員にポイントがあったとの見解も提出されている(この点、長村祥知「承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨」『日本歴史』七四四号、二〇一〇年参照)。
-------

と書かれていて(p91)、関氏は別に流布本の「院宣」(七人宛)より慈光寺本の「院宣」(北条時房を含む八人宛)の方が信頼できるとされている訳ではなく、慈光寺本の院宣に関する長村新説を紹介されているだけですね。
私は以前、『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』を読んだ時、関氏が慈光寺本・流布本の異同を気にせずに『承久記』として慈光寺本を引用されている(ように見えた)こと、また、『承久記』の注記で長村著の内容を肯定している(ように見えた)ことから、関氏を「慈光寺本妄信歴史研究者」と判断したのですが、同書を注意深く読んでみると、関氏は「大将格」どころか、「慈光寺本妄信歴史研究者」ですらないように思えてきました。
史料紹介として慈光寺本を引用したり、学説紹介として長村新説を引用することは「妄信」でも何でもないですからね。
そこで、念のため、メルクマールの残り、

(3)武田信光と小笠原長清の密談エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。
(4)後鳥羽院の「逆輿」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。
(5)宇治・瀬田方面への公卿・殿上人の派遣記事と山田重忠の「杭瀬河合戦」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。

を見て行くと、関氏は武田信光と小笠原長清の密談エピソードには言及されていません。
また、山田重忠については、

-------
 美濃源氏の重忠は、洲俣・杭瀬川合戦で官軍敗走後もここにとどまり奮戦している。河内判官秀澄と戦略上意見が対立したとある。敗走後、勢多に布陣したが、子の重継とともにその後は、嵯峨に退却し自害したという。
-------

とあって(p113)、「勢多に布陣した」とありますから、慈光寺本において宇治河合戦の「埋め草」として奇妙な位置に置かれた杭瀬河合戦の記事を信頼されていないのは明らかです。
なお、「河内判官秀澄と戦略上意見が対立した」は慈光寺本だけに記されているエピソードですが、これも別に山田重忠の鎌倉攻撃案を史実とされている訳ではないので、「妄信」とはいえないですね。
ただ、関氏は(4)の「逆輿」エピソードは素直に引用されています。
この点、次の投稿で少し検討します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする