学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その25)─「十善ノ君ノ宣旨ノ成様ハ」

2023-04-18 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

それでは慈光寺本も見て行きます。
慈光寺本は3月23日の投稿、「もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その24)」で、

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 去程〔さるほど〕ニ、能登守ハ御所ニ参〔まいり〕、軍〔いくさ〕ノ次第申上ケレバ、十善ノ君モ御尋〔たづね〕有ケリ。秀康奏申ケレバ、「軍ノ為体〔ていたらく〕、詞〔ことば〕モ不及〔およばず〕キブクコソ候ツレ。一千余騎ノ打手ノ御使ト光季ガ卅一騎ノ勢ト、未〔ひつじ〕ノ始ヨリ申〔さる〕ノ終ニ及ブマデニ戦候ツルニ、御方三十五騎被討〔うたれ〕候ヌ。手負〔ておひ〕ハ数モシラズ。アナタニハ恥アル郎等少々被討、或光季父子自害ニテ候」ト奏シケレバ、十善ノ君ノ宣旨ノ成様〔なるやう〕ハ、「然〔しかり〕ト云ヘドモ、哀〔あはれ〕、光季ヲバ御方ニシテ、イケテ置〔おき〕、大将軍ヲサセバヤ」トゾ仰出〔おほせ〕サレケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/638fe2866f581171f1821f3e3a03e7e9

まで紹介していますので、その続きからです。
なお、慈光寺本では、伊賀光季追討の開始に際し、

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 十五日ノ朝ニ成ケレバ、能登守秀康ハ、院宣ニテ、伊賀判官ヲ三度マデコソ召タリケレ。光季ハ心ニサトリ、怪シト思〔おもひ〕テ、左右ナクモ不参〔まゐらず〕【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1b3dc644f79d6ac5103361a8c1fb58aa

とあり、終了に際しても「能登守ハ御所ニ参〔まいり〕、軍〔いくさ〕ノ次第申上ケレバ」とあって、後鳥羽院から直接指示を受け、後鳥羽院に直接報告するのは藤原秀康です。
慈光寺本では、秀康は他の有力武士とは別格の「総大将」的な役割を演じていますね。
私のように藤原能茂が慈光寺本の作者と考えると、能茂を猶子とする秀能は秀康の同母弟ですから、能茂も秀康とは親しかったはずで、その関係で秀康像が美化されている可能性が生じます。
ま、それはともかく、続きです。
流布本では伊賀光季追討記事の前に、後鳥羽による西園寺公経殺害案と、それに対する徳大寺公継の諫言が相当な分量で記述されていました。

流布本も読んでみる。(その5)─徳大寺公継の諫言
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ab28fe2da880962508ac1cc20f951306

しかし、慈光寺本では光季追討記事の後に公経父子の監禁の事実がほんの少し触れられるだけです。(新日本古典文学大系、p323)

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  去程ニ、右大将公経・子息中納言実氏召籠ラセサセ給フ。其謂〔そのいはれ〕ハ、関東ニ心カハス御疑トゾ承ル。朝〔あした〕ニ恩ヲ蒙、夕〔ゆふべ〕ニ死ヲ給ケン唐人ノ様也。
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本当にたったこれだけで、慈光寺本は西園寺家に冷たいですね。
さて、この後、長村祥知氏等の研究者が本物と考える院宣の話になります。

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 サテ、伊賀判官下人、十五日戌刻ニ、鎌倉ヘトテ下ニケリ。平判官モ宿所ニ帰リ、以前ノ詞、少モ違ハズ、文委〔くはし〕ク書テ、同〔おなじき〕戌刻、兄ノ駿河守ノ許ヘゾ下シケル。又十善ノ君ノ宣旨ノ成様〔なるやう〕ハ、「秀康、是ヲ承レ。武田・小笠原・小山左衛門・宇津宮入道・中間五郎・武蔵前司義氏・相模守時房・駿河守義村、此等両三人ガ許ヘハ賺〔すかし〕遣ベシトゾ仰下サル。秀康宣旨ヲ蒙テ、按察中納言光親卿ゾ書下サレケル。

  被院宣称、故右大臣薨去後、家人等偏可仰 聖断之由令申。仍義時朝臣可為奉行仁歟之由、
  思食之処、三代将軍之遺跡、称無人于管領、種々有申旨之間、依被優勲功職、被迭摂政子
  息畢。然而幼齢未識之間、彼朝臣稟性於野心、借権於朝威。論之政道、豈可然乎。仍自今
  以後、停止義時朝臣奉行、併可決 叡襟。若不拘此御定、猶有反逆之企者、早可殞其命。
  於殊功之輩者、可被加褒美也。宜令存此旨者、 院宣如此。悉之。以状。
   承久三年五月十五日          按察使光親<奉>

  【読み下し文、略】

 如此〔かくのごとく〕書テ、院御下部〔ゐんのおんしもべ〕押松ニゾ下給〔くだしたまふ〕。押松ハ十六日ノ寅時ニ、宣旨ヲ帯シテ下リケリ。下〔くだり〕コソ急トモ、上〔のぼ〕リニハ大名・高家ノ手ヨリ引出物得テ上ランズラレバ、宮仕〔みやづかへ〕ノ冥加、此ニ在トゾ思ケル。鎌倉ヘハ、大方〔おほかた〕、廿日路〔みち〕ナルヲ、十六日ノ暁〔あかつき〕、京ヲ出テ、十九日ノ申ノ刻ニ、鎌倉ヘコソ着ニケレ。
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「十善ノ君ノ宣旨」として、「秀康、是ヲ承レ」云々とあるので、ここも藤原秀康が「総大将」的に描かれている箇所ですね。
平岡豊氏が言われる「慈光寺本『承久記』は院宣を与えられる相手として秀康を何度も登場させる」例の五番目です。

平岡豊氏「藤原秀康について」(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ce47efa1716a05ac0bda76c0b98d7a72

院宣の問題は今まで何度も検討してきました。

「第二章 承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨─後鳥羽院宣と伝奏葉室光親─」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5324be4c2f35ba80e91d517552b1fd1
『葉黄記』寛元四年三月十五日条は葉室光親の「院宣」発給の証拠となるのか。(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2fe371163038f874da844371f30c93c8

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