学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

虎渓山永保寺の「うながっぱ」

2010-10-23 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年10月23日(土)21時17分21秒

暫く仕事で慌しい毎日を過ごしていて投稿もしませんでしたが、昨日今日と気分転換を兼ねてプチ弾丸ツアーに行ってきました。
目的地は岐阜県多治見市の虎渓山永保寺です。
夜7時半に新潟を出発、北陸自動車道の小矢部砺波JCTで東海北陸自動車道に入り、東海環状自動車道経由で土岐市に到着、ビジネスホテルで一泊。
今日は土岐市・多治見市内をぶらぶらした後、虎渓山永保寺を見学して直ちに帰途に就き、中央自動車道経由で戻ってきました。
往復1000キロほどですね。
永保寺は紅葉で有名なお寺さんですが、今年はまだまだでした。
永保寺の公式サイトによると、

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■ うながっぱが目撃される 08月31日(火)11時49分 掲載

かねてより境内で坐禅をしている「うながっぱ」の姿が深夜に目撃されていましたが、8月某日の日中に、坐禅石の上で坐禅をしている姿が撮影されました。
「微風幽松を吹く、近く聴けば声いよいよ好し」と言っていたと目撃者の方が語っていました。


とのことですが、残念ながら私は「うながっぱ」を拝見することはできませんでした。
永保寺の上記サイトの写真では「うながっぱ」のお姿は明瞭ではありませんが、検索したところ、塔頭の保壽院のサイトでは非常に鮮明な写真が載っていました。
解説も詳細で、

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坐禅石の上で「うながっぱ」を見つけました。時々坐禅をしているという噂ですが、どうやら名前を漢字で表現すると「有無喝破」じゃないかと思えます。
 私たちはこころが勝手に描く現象世界で、有るとか無いとかに囚われてしまいます。虎渓山の庭園で坐禅をしている「うながっぱ」は有・無という囚われから抜け出しているのかも知れません。彼岸を過ぎれば40.9(しじゅう苦)度の暑さも単なる囚われだったのかと思えてきます。


とのことです。
臨済禅の世界は深遠ですね。
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日本饅頭史

2010-10-14 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年10月14日(木)00時57分20秒

ちなみに私が龍山徳見に興味を持ったきっかけは決して塩瀬の饅頭ではありませぬ。
でも、こういう話は妙に面白いですね。

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塩瀬の歴史は、650年ほど前に遡ります。貞和5(1349)年、宋で修業を終えた龍山徳見禅師の帰国に際し、俗弟子だった一人の中国人が別れがたく随従して来朝しました。その人物が、塩瀬総本家の始祖・林淨因です。林淨因は暮らしの居を奈良に構え、お饅頭を作って売り出しました。これが、塩瀬の歴史の始まりです。

塩瀬総本家
新城市長・穂積亮次氏のブログ
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龍山徳見

2010-10-13 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年10月13日(水)23時45分11秒

>筆綾丸さん
今日、『僧侶と海商たちの東シナ海』を購入し、「序章 中世日本と東シナ海」の後、「第三章 大陸へ殺到する僧侶たち」を読んでみました。
たまたま私は千葉氏出身の龍山徳見について知りたいと思っていたところ、本書で龍山徳見の詳細な解説がなされていたので本当に有難いですね。
文体も特別なクセがあるとも思えないのですが、全部読んでから感想を書いてみます。

建仁寺両足院

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

此地空しく余す黄鶴楼 2010/10/12(火) 19:23:44
小太郎さん
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4121503678.html
藤本健二氏『北の後継者キム・ジョンウン』を、面白く読みました。

http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2584689
榎本渉氏『僧侶と海商たちの東シナ海』は、文体が肌に合わず、通読できませんでした。
坊主の話とは言え、もう少し面白く書けないものかなあ・・・。

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4166607715.html
イヤな中国ですが、これは興味深い本ですね。
「辛亥革命から百年。中国は再び王朝経済という数千年も続いた元の鞘へ収まろうという
のだろうか。親戚から一人でも官僚を出せば一族が安泰で、金があれば何でもでき、敗れ
去る者には容赦のなかった中国。そんなセピアカラーの写真の中でしか知らない中国が、
再び目の前に現れる日が来るというのだろうか・・・・・・。いずれにせよ、はっきり
しているのは中国が今後どこに向かおうとも、それは必ずしも中国共産党の意思を反映
したものではないかもしれないということだ。中国は間違いなく凄まじい勢いで転がり
続けている。しかしそれは、転がっている中国にさえ終点が見えないほど入り組んだ
意思の集合体なのかもしれないからだ」(同書あとがき)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%B6%B4%E6%A5%BC
賄賂として人気のある黄鶴楼というタバコは、一箱三百元(約三千九百円)。黄鶴楼は、
有名な七律で記憶しましたが、煙草になったのか。こういう感覚は中国ならではのもの
ですね。日本では、かりに賄賂用の高価なタバコを発売しても、金閣寺(五千円)とか
銀閣寺(一万円)などという名はつけないでしょうね(なお、金閣寺が安いのは回禄の
ため)。
 昔人已乗白雲去
 此地空余黄鶴楼
 黄鶴一去不復返
 白雲千載空悠悠
 ・・・・・・・
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主体思想の歌

2010-10-12 | 新潟生活
主体思想の歌 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年10月12日(火)00時42分41秒

♪ ようこそここへ チェッチェ チェッチェ
  わたしの青い鳥
  恋をした心に とまります
  そよ風吹いて チェッチェ チェッチェ
  便りがとどけられ
  誰よりも幸せ 感じます♪

>筆綾丸さん
お帰りなさい。
この時期に北朝鮮というと、筆綾丸さんは実はアントニオ猪木だった、てなことはないでしょうね。

私は先週、京都進出の足慣らしとして湖東の観音正寺・沙々貴神社・太郎坊阿賀神社・五箇荘(近江商人博物館)を回ってきました。
桑実寺も近くまで行きましたが、観音正寺へ向かう石段の昇り降りでくたびれていたこともあって、適当な駐車場がないことを口実に引き返してしまいました。
この三連休は戸隠にちょっと行っただけで、地味に読書して過ごしました。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

松茸と電子辞書 2010/10/09(土) 23:50:09
北朝鮮を旅してきました。
はじめは少し緊張したものの、翌日からは、毎晩、ビールを飲んでました。
五泊六日、平壌を中心に、南は板門店、北は妙高山普賢寺と、あちこち回りました。

板門店では、軍事境界線のすぐ近くまでが水田なので驚きつつも、兵士が携行する銃は
旧ソ連製のAKー47だろうか、などと思い、また、妙高山普賢寺では僧侶の存在に驚き
つつも、夜は、ビールのつまみに松茸を注文して食べました。

中国経由で入国する必要から、北京に滞在して、天安門や紫禁城などを見学しましたが、
随所に掲げている「文明有礼的中国人」なる看板は、「非明非礼的中国原人」と書き換
えたほうがよく、共産主義と拝金主義と儒教思想を混ぜ合わせると、あんな国民性になる
のかもしれん、と思いました。中国は行けば行くほどイヤになる下品な国ですが、北朝鮮
の国民には品を感じました。ガイドの女性に、韓日電子辞書を、北京経由で送る約束を
して、帰ってきました。

成田で買った日本の週刊誌に、北朝鮮の三代目の写真がありましたが、オヤジによく似て
ますね。


大根と人参とデブと 2010/10/10(日) 16:32:09
職人太郎さん
拍子抜けするほど緊張感はなく、二代目と三代目の話も、全くありませんでした。
さきほど、テレビが三代目の映像を報じていましたが、若いくせに太ってますね。北朝鮮
人として、はじめて見るデブです。中国も、行く度に、デブが増えてますが、人間、もっ
とストイックに生きなければいけません(笑)。

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/412102074X.html
平壌で、鈴木健一氏『風流 江戸の蕎麦』を読んでました。

上々新蕎麦面もふらず切て出  信章
  大根の精たちかくれけり  芭蕉

延宝四年(一六七六)の「梅の風俳諧国にさかむなり」で始まる百韻の中の付合。信章
は、素堂で、「目には青葉山ほととぎす初鰹」の句が有名な俳人である。付合の意味は、
この上なくうまい新蕎麦がわき目も振らずに切って出たので、大根の精も退散した、と
いうのである。新蕎麦、大根がそれぞれ擬人化されている。
これには、『徒然草』六十八段の、長年にわたって毎朝大根を食べていたところ、大根の
精が武者となって攻めてきた敵を撃退してくれたという話が踏まえられている。この付合
では、逆に新蕎麦のほうの武者がすばらしい活躍をしているのでさすがの大根の精も逃げ
てしまうという、逆転の笑いなのである。
蕎麦から、薬味としての大根を連想しているわけだが、芭蕉は、蕎麦びいきの付合をして
いると言えよう。大根は蕎麦の薬味なので、所詮は蕎麦に従属するものだということで
ある(同書62頁)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E5%9F%8E
芭蕉の古典の教養と機転は見事なものですが、『徒然草』六十八段は、何度読んでも、
よくわからぬ話ですね。板門店近くの開城市は高麗人参の名産地ですが、大根より人参の
ほうが強そうです。

ウィキに民俗旅館の写真がありますが、ここに泊まりました。床はいわゆるオンドルで、
浴槽はTOTO製でした。平壌市内の中学校で見たピアノはYAMAHA製で、日本製の
車もかなり走ってました。
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「夢窓国師俗姓家譜」

2010-10-01 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年10月 1日(金)07時56分8秒

>筆綾丸さん
ウィキの記事は「父は佐々木朝綱、母は北条政村の娘」と断定してますが、これはまずいですね。
柳田聖山氏の『日本の禅語録七 夢窓』(昭和52年、講談社)を見ると、その説の出典は相国寺に伝わる「夢窓国師俗姓家譜」のようですが、これは江戸初期のもので、父系・母系ともあまり信頼できないようですね。
なお、柳田氏は、

--------
 先にいう俗譜によると、夢窓の母は乾氏、又は平政村の女とされる。後者は第二の母のこととみてよかろう。父の素性が不確かである以上、母についての記述もまたにわかに信じがたいが、二階堂氏は北条幕府の要人を多数出す名門である。北条は平氏である。第二の母は、平政村の直系でなくとも、北条氏につながっている可能性は強い。第一の乾氏も、じつは甲州の乾徳山の名と関係がなくはない。二人とも、ひょっとすると二階堂氏から出ている。(p59)
--------

と書かれていますが、これも「可能性」「なくはない」「ひょっとすると」程度の話にすぎず、結局のところ未詳とする以外ないでしょうね。

>石の数
これは特に規則性は感じませんでした。
泊の「さんまい」は道路一本隔てて海に面していますが、海から100メートルほど離れたところにある「海照院」というお寺さんには普通の墓地があり、そこにも白い石で囲んだお墓がいくつかありました。
墓石も大きめの丸石のものがあって、何か一貫した美意識があるみたいですね。

※写真

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

常磐院覚崇 2010/09/30(木) 10:13:22
小太郎さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A2%E7%AA%93%E7%96%8E%E7%9F%B3
夢窓疎石という名は、高踏的で嫌らしいですね。そう思うと、無別工夫という書も、なに
言ってやがる、嫌味な奴め、と感じてしまいます。日本の宗教家の中で、空海は別とし
て、政治的に最も成功した人なんでしょうね。家康くらいの大物になると、天海など適当
にあしらっている感じがしますが、直義の疎石に対する敬愛の念には、同性愛者の妄執か
と見紛うほどの妖しい雰囲気がありますね。
疎石の祖父は北条政村のようですが、女系ながら、疎石は北条氏の末裔の中で最も成功し
た政治家(?)で、最後の覇者は、得宗でも名越でも極楽寺でも金沢でもなく、政村流と
いうことになりますか。

小浜のストーン・サークルが、夢窓疎石の如くに見えますね。
ひとつの円を構成する石の数は決まっているのでしょうか。7日×3=21日で、三七日
を意味しているようにも見えますが。

今日から、しばらく旅行してきます。
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