学問空間

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0059 赤江達也『「紙上の教会」と日本近代』(その4)

2024-03-31 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第59回配信です。


一、私と無教会派との関わり(郷土史関係以外)

「東京大学法学部に「過去の克服」はない」(by 今野元氏)(2016年09月07日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/73145d9c8d59fbf0b17fd0e866790535

今野元(1973生、愛知県立大学教授)

「南原繁」で自分のブログを検索してみたら65投稿もあった。
最初は、

史料編纂所の位置づけと職員の身分(その1)(2014年05月31日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d63680ac391f6e7a6d2434f2e3fa2762
南原繁と津田左右吉(2014年06月04日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bee91deefb5a73f43577dfc87ce2a43e
歌人としての南原繁(2014年06月09日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3cabcef3a47943005fc6d46793f9291d

藤林益三による矢内原忠雄の「写経」(2016年05月09日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/755acfb10b1559da51762a2a208af18b

「先生には複雑な心理学はなかった。政治的な指導もなかった。ただ理想主義一筋だった」(by 竹山道雄)(2017年06月28日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed97972995a39f43ede99e8143ac49d1


二、赤江著「はしがき」の続き

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はじめに─キリスト教知識人の時代

日本の復興と宗教の使命
内村鑑三という震源
無教会という対象
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 内村はその著述や青年たちへの感化によって、大正期以降の人格主義的な教養主義文化に大きな影響を及ぼした。政治学者の半澤孝麿が指摘するように、その影響力は「単にキリスト教界内にとどまらない、と言うよりはその外において巨大」であった(半澤1993:288)。日本におけるキリスト教の独特の存在感を考えることは、ある意味では、内村の影響圏を測量することなのである。

無教会という対象

 内村の影響圏を記述する上で最重要かつ特権的な対象となるのが「無教会」である。内村の影響下でクリスチャンとなった人びとは、無教会主義者、あるいは無教会キリスト者と呼ばれる。序章で見るように、その信徒数は一九五〇年代には三万人とも五万人ともいわれる。無教会は、たんに内村の信仰であるだけではなく、それを継承する人びとによって担われた宗教思想運動なのである。
 たが、無教会を語ることには独特のむずかしさがある。これも序章で論じることだが、無教会キリスト教は「信仰の内面性」と「組織や制度の不在」というふたつの特徴において高く評価されてきた。その結果、無教会をめぐる議論はしばしば「個人と国家」というふたつの極に分裂してしまう。【後略】
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0058 赤江達也『「紙上の教会」と日本近代』(その3)

2024-03-30 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第58回配信です。


「はじめに」(ⅸ)

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 南原だけではない。戦後改革の時代には、少なからぬ「キリスト教知識人」が戦後憲法や教育基本法をはじめとする戦後社会の枠組みの形成にかかわっていた。戦後初代の文部大臣となる前田多門、東大教授(アメリカ研究)で貴族院議員の高木八尺、東大教授(法学)であり、貴族院議員・文部大臣・最高裁判所長官を歴任する田中耕太郎、東大教授(植民政策学/国際関係論)にして、戦後二代目の東大総長となる矢内原忠雄、運輸大臣・労働大臣の増田甲子七、いわゆる「大塚史学」によって戦後社会科学を牽引した東大教授(比較経済史)の大塚久雄らである。また皇室の近くには初代宮内庁長官の田島道治、侍従長の三谷隆信らがいた。
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前田多門(1884‐1962、一高・東京帝大 )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%A4%9A%E9%96%80
田島道治(みちじ、1885‐1968、一高・東京帝大 )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%B3%B6%E9%81%93%E6%B2%BB
高木八尺(やさか、1889‐1984、一高・東京帝大)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E5%85%AB%E5%B0%BA
南原繁(1889‐1974、一高・東京帝大)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E7%B9%81
田中耕太郎(1890‐1974、一高・東京帝大)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%80%95%E5%A4%AA%E9%83%8E
三谷隆信(1892‐1985、一高・東京帝大)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%B0%B7%E9%9A%86%E4%BF%A1
矢内原忠雄(1893‐1961、一高・東京帝大)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E5%86%85%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E9%9B%84
増田甲子七(かねしち、1898‐1985、八高・京都帝大)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E7%94%B0%E7%94%B2%E5%AD%90%E4%B8%83
大塚久雄(1907‐96、三高・東京帝大)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E4%B9%85%E9%9B%84

「伊藤君、つまらんですか。教科書に使ったら、どんな傑作でもつまらんですよ」(by 竹山道雄)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5061715ebfbbf987cdccf4bdc73c9d8a
伊藤律(1913‐89)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%BE%8B
「先生には複雑な心理学はなかった。政治的な指導もなかった。ただ理想主義一筋だった」(by 竹山道雄)


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内村鑑三という震源

 ところで、右に挙げたキリスト教知識人にはふたつの共通項がある。ひとつは、一九一〇年代に成立した教養主義の絶頂期にエリート教育を受けていることである。そしてもうひとつは、彼らがいずれも青年期に内村鑑三の門下生であったということである。彼らがクリスチャンとなったのは、内村の影響と感化によるものであった。
【中略】
 だが、本書が注目するのは、内村が提唱した「無教会」と呼ばれるキリスト教である。内村は一九〇〇(明治三三)年、三九歳のときに本格的な伝道活動を開始する。すでにその頃には、評論や講演を通じて青年たちを魅了し、惹きよせはじめていた内村は、自らの下に集まる青年や学生たちに自宅などを開放した。その結果、内村の周囲には教養主義的な私塾、あるいはサロンのような場が形成されていった。その親しい交わりを通して、内村は彼らを教導した。こうした師弟関係は、新渡戸稲造や夏目漱石にも見られるものである。ただ、内村の場合には、師弟関係のひとつの基盤として、キリスト教思想運動が形成されていった点に大きな特徴がある。
 内村の門下には、先に挙げた人びとのほかにも、後に作家となる正宗白鳥、有島武郎、志賀直哉、社会主義者の堺枯川や森戸辰男、岩波書店を創設する岩波茂雄といった錚々たる青年たちが集っていた。なかには、藤井武や塚本虎二のように、東京帝国大学を卒業後に官僚となり、数年後にその職を捨てて伝道者になる者もいた。【後略】
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堺利彦(1871-1933)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%BA%E5%88%A9%E5%BD%A6
有島武郎(1878-1923)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%B3%B6%E6%AD%A6%E9%83%8E
正宗白鳥(1879-1962)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%AE%97%E7%99%BD%E9%B3%A5
岩波茂雄(1881-1946)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E8%8C%82%E9%9B%84
志賀直哉(1883-1971)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E8%B3%80%E7%9B%B4%E5%93%89
森戸辰男(1888-1984、一高・東京帝大)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%88%B8%E8%BE%B0%E7%94%B7
☆藤井武(1888-1930、一高・東京帝大、内務省)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E4%BA%95%E6%AD%A6
☆塚本虎二(1885-1973、一高・東京帝大、農商務省)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%9A%E6%9C%AC%E8%99%8E%E4%BA%8C
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0057 赤江達也『「紙上の教会」と日本近代』(その2)

2024-03-29 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第57回配信です。


一、前回配信の補足

「知の巨人・水原徳言が遺したもの」(高崎新聞サイト内)
http://www.takasakiweb.jp/toshisenryaku/article/2010/01/02.html

深井景員『下仁田戦争記』(2018年08月03日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3dbe83530ca640cdb9f8e72039323885
「このたびは助太郎様御討死、まことにご祝着に存じあげまする」(2018年08月04日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/971ad7b8a5e45460198bcc6a9812e518
「新潟は、日本中で最悪の都会だといってよい」(by ブルーノ・タウト)(2016年12月06日) 


二、赤江達也『「紙上の教会」と日本近代』

0053 赤江達也『「紙上の教会」と日本近代』(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8c5a1dc3e9eeda7ee752eab50b4156e3

赤江達也『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』(2017年06月23日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8e1434fba167e6025a9abb410e85908e

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はじめに―キリスト教知識人の時代

日本の復興と宗教の使命
 日本近代と呼ばれる世俗的な社会において、宗教はどのような社会的地位を占めてきたのか。たとえば、社会が大きな危機に直面したとき、そしてそこから復興しようとするとき、宗教が果たすべき役割が問われることがある。一九四五年の敗戦後に起こったのは、まさしくそのような事態であった。
 敗戦から間もなく東京帝国大学の総長に就任した南原繁は、翌年の二月一一日、戦前に喧伝された建国神話にもとづく紀元節の式典をあえて挙行する。南原はその式典において「新日本文化の創造」と題する講演を行い、日本ファシズムのスローガンである「昭和維新」を次のように読み換えてみせる。

  真の昭和維新の根本課題は、そうした日本精神そのものの革命、新たな国民精神の創造─それに
  よるわが国民の性格転換であり、政治社会制度の変革にもまさって、内的な知的=宗教的なる
  精神革命であると思う(南原著作集7:27)

 南原は「昭和維新」という戦前の語彙を用いながら、そこに「精神革命」という新たな意味を盛り込む。日本の復興にとって重要なのは「政治社会制度の変革」である以上に「内的な知的=宗教的なる精神革命」だというのである。この講演は、直接的には大学の講堂に集う学生たちに向けて語られたものである。だが、その内容はさらに新聞の「社会面を大きくうずめて」報道された。そして、その読者からは「共鳴や激励の手紙」が数多く寄せられたという(丸山・福田編1989:309.311)。
 この「精神革命が、知的であると同時に宗教的なものとされている点に注意しておこう。南原は、戦前期に声高に唱えられた「民族宗教的な日本神学」と「普遍人類的なる世界宗教」を対比させながら、「わが国にはルネッサンスと同時に宗教改革が必至である」という。そして、年頭の「天皇の人間宣言」を日本のルネッサンスと見なしたうえで、さらに「第二の宗教改革」が必要であると主張する。つまり、日本が真に変革を遂げるためには、キリスト教的な宗教改革を通過しなければならないというのである。このような思想を、本書では「キリスト教ナショナリズム」と呼ぶことにしよう。
【中略】
 その主張の内容とともに注目すべきは「キリスト教による日本の変革」という南原の主張が「共鳴と激励」をもって受け入れられたという事実である。周知のとおり、日本ではキリスト教徒は圧倒的な少数者である。明治以降、現在にいたるまで、キリスト教の信徒数は人口の一パーセント前後にとどまっている。にもかかわらず、南原のキリスト教的な主張は、より広い範囲で、肯定的に受け入れられていたようなのである。
 南原だけではない。戦後改革の時代には、少なからぬ「キリスト教知識人」が戦後憲法や教育基本法を始めとする戦後社会の枠組みの形成にかかわっていた。【中略】
 こうしたキリスト教知識人の存在は、日本キリスト教の重要な側面を示している。一般に日本ではキリスト教は受け入れられなかったと考えられやすい。だが、キリスト教は日本の知識層にある種の仕方で「受容」されてきた。それはマルクス主義の受容とも似たところがある。マルクス主義は二〇世紀の日本で多数派となることはなかったが、知識層に圧倒的な知的・政治的な影響力を及ぼしてきた。敗戦後のキリスト教は、そのマルクス主義に匹敵する存在感をもっていたのである。
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0056 「余は上州の地と人とを忘るべけれどもその魚類をば忘れざるべし」(by 内村鑑三)

2024-03-27 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第56回配信です。



久須美酒造
https://www.kamenoo.jp/
「清泉(きよいずみ)・亀の翁/夏子の酒のモデル蔵元・久須美酒造/亀の尾復活の浪漫」
https://www.echigo-bishu.com/kusumi-shuzou.htm

二、内村鑑三と上州

「心の燈台 内村鑑三」(上毛かるた)(2016年05月26日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1f7c3ef2111429c49d9d85d38eb1ddc
「上毛かるた」とキリスト教(2020年05月11日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f1fc5e1c2c085adf1920a5551c53678a

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若松英輔『内村鑑三 悲しみの使徒』(岩波新書、2018)

All for God──神の道と人の道,「不敬事件」と妻の死,義戦と非戦,そして娘の死と,激しいうねりのなかを生きたこのキリスト者は,自らの弱さを知るからこそ,どこまでも敬虔であろうとした.同時代の多くの人を惹きつけ,『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』『代表的日本人』等の著作に今も響きつづける,その霊性を読み解く.

https://www.iwanami.co.jp/book/b341729.html

「序章 回心」

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上州人の自覚
【中略】
 のちに内村は、「過去の夏」(一八九九年)と題する一文で群馬での生活を回顧し、「余は上毛[群馬]の地に何の負うところなし。その人物は余の概ね尊敬を表する能わざるところ」であると書く。しかし、その川に生きている魚は別だった。「彼らは余を造化の霊殿に導けり。彼らを通して余は余の造化の神に詣れり」、という。
 群馬で周囲に接した人には敬意を抱かせる人は少なかった。しかし、そこで出会った魚は、この世が神の「霊殿」であることを教えてくれたといって讃嘆する。 
 さらに先の一節に続けて「余は上州の地と人とを忘るべけれどもその魚類をば忘れざるべし」と書き、この一文を終えている。のちに内村は、札幌農学校で生物学と水産学を学ぶ。彼は二一歳から二三歳まで開拓使(のち札幌県)御用係准判任として採用され、各地の水産現場を視察している。
【中略】
 さらに内村は「上州人」という漢詩も残している。

 上州無知亦無才 上州〔人〕は無知亦た無才にして
 剛毅朴訥易被欺 剛毅朴訥にして欺かれ易し
 唯以正直対万人 唯正直を以て万人に対し
 至誠依神期勝利 至誠神に依って勝利を期す
-------

「内村鑑三の「上州人」という漢詩の解説が読みたい。」
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000176890&page=ref_view
「高崎が生んだ世界的思想家 明治時代のキリスト教指導者」(高崎新聞)
http://www.takasakiweb.jp/takasakigaku/jinbutsu/article/08.php
上毛かるた 「こ」の札(2015年2月号)
https://gunma.coopnet.or.jp/event/look/walk_154.html
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0055 内村美代子『晩年の父内村鑑三』

2024-03-25 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第55回配信です。


内村祐之(1897‐1980)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E6%9D%91%E7%A5%90%E4%B9%8B

尾身茂氏と内村祐之『わが歩みし精神医学の道』(2020年05月13日)

内村美代子(旧姓大舘・久須美、1903‐2003)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E6%9D%91%E7%BE%8E%E4%BB%A3%E5%AD%90
住雲園
「住雲園と久須美家の人々 曽我物語・勘定奉行・越後鉄道」
久須美東馬(1877‐1947)

(p29以下、「関東大震災」)
「私はといえば、そのとき、目白の家(今の川村学園の裏)の二階の八畳にいたが、ドンと突き上げるような衝撃が来た途端、ふすまと障子はパラパラとはずれ、私は室の端から端へと何度もころがされた。第一回目の大揺れがおさまったところで、ようやく階段を下りると、階下は至るところで壁土が落ちて散乱していた。しかしその他には、建具もはずれず、家具も倒れていなかったので、実のところ、私たちはそれほどの大地震とは思わなかったのである。
【中略】私の家から道を隔てて筋向いの二階家にひとり住まいをしておられた田中耕太郎さん(東大教授で、のち最高裁長官、はじめ父のお弟子)などは、その午後のあいだじゅう、ピアノを弾き続けておられた!」

「商法なら日本に帰ってからやれるので、やれないことをやった方がよい」(by 田中耕太郎)(2016年09月08日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/18fd544ff10c3cc3bc785522b8ee984d
牧原出『田中耕太郎―闘う司法の確立者、世界法の探究者』
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2022/11/102726.html

(p77以下、「父と子」)
「(前略)内村鑑三先生の御子息なら、あなたもクリスチャンでしょうねというのは、私が繰り返し受ける質問である。また私の学問的自叙伝に宗教のことが少しも語られていないといって、非難めいた批評をする人もある。この種の話題は、実は私にとってすこぶる苦手のものなのだが、今回はひとつ、このことに触れてみよう。
 私は神羅万象の偉大さと精巧さを知るたびに全能の存在、すなわち神の存在を信ぜざるを得ない。私はまた、教会や寺院の中で、祈りや読経を心を澄まして聞くことが好きである。それゆえ、私は、自分に宗教心が全くないとは絶対に思わない。しかし、自分は罪人のかしらであるといった深刻な罪障意識はどうしても持ち得ないし、また、キリストは人の形をとった神の子であり、人類の罪は、キリストが十字架上で流した血によってあがなわれるという贖罪の信仰が、キリスト教信仰の中心だと言われると、どうも私はクリスチャンを自称することができないのである。同じように、キリスト教の信仰で大切な、来世とか、復活とか、再臨とかいう教えをも私は信ずることができない。但しキリスト教の持つ倫理性、また人類愛の精神といったものを高く評価するには、私はつねにやぶさかではない。
 では、私は鑑三から、どんな宗教教育を受けて成長したのか。それは多くの人が興味を抱く点と思うが、あれほど干渉がましく圧政的であった鑑三の、このことに対する態度は存外に自由だったのである。私は鑑三から、かつて一回も信仰不足をたしなめられたことはなく、また自分の事業を継げと強制されたこともなかった」
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ご連絡

2024-03-23 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
ブログ・YouTubeチャンネルとも十日間ほどストップしていますが、特別な理由はありません。
先日、母親の四十九日の法要を終えた後、花粉症の影響も少しだけあって、何となくパソコンに向かう気力が減少してしまい、ツイッターを少しやる程度の毎日でした。
読書量も減って、この間、内村鑑三に関係する書籍をいくつか斜め読みしたのと、フランシス・フクヤマの『IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治』(朝日新聞出版、2019)を読んだ程度でしたが、明日からまたボチボチとやって行きたいと思います。
フクヤマ著は頭の整理に良い本でした。

『IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治』
https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=21559
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0054 花田卓司氏「足利義氏の三河守護補任をめぐって」

2024-03-13 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第54回配信です。


花田卓司氏「足利義氏の三河守護補任をめぐって」(『日本歴史』910号、2024)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b10050642.html

花田卓司(1981生、帝塚山大学文学部准教授)
https://www.tezukayama-u.ac.jp/teacher/gyoseki/169900.html
https://researchmap.jp/takuji_hanada

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 はじめに
一 守護在職の根拠史料の再検討
二 足利義氏の三河守護補任時期
 おわりに
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 はじめに

 鎌倉期の足利氏が三河守護であったことは広く知られている。鎌倉幕府守護制度研究の基礎を築いた佐藤進一氏は、暦仁元年(一二三八)の将軍藤原頼経上洛・下向時と建長四年(一二五二)の宗尊親王下向時に、足利義氏が三河国矢作宿などの設営にあたった事実を守護在職の徴証とみて、正治年間(一一九九~一二〇一)から暦仁元年までの間に守護職が足利氏に帰し、鎌倉幕府滅亡にいたるまで足利氏が保持し続けたと指摘した。佐藤氏以後の研究の進展を踏まえて各国守護の再比定をおこなった伊藤邦彦氏は、義氏による宿駅経営は国務沙汰の範疇であって守護固有の職権ではないとし、三河国は守護不設置で「国務・検断沙汰人」制が採用されたと論じたうえで、義氏がこの地位に起用された時期については佐藤氏同様に正治年間から暦仁元年の間、守護制度の導入はモンゴル襲来期であるとしている。
 一方、鎌倉期足利氏研究においては、足利義氏が承久の乱後に恩賞として三河守護に任じられたとの見方が古くからある。【後略】
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二 足利義氏の三河守護補任時期

 前章での検討と新出の「国々守護事」から、足利義氏が三河守護に補任された時期は少なくとも嘉禎四年(一二三八)閏二月以降となる。三河守護に補任された時期を絞り込む手がかりとなるのが、義氏の女と四条隆親との婚姻である。
 四条隆親は後鳥羽院の近親であった四条隆衡と坊門信清女との間に生まれ、最終的に正二位大納言まで昇った人物である。承久の乱では後鳥羽院の比叡山御幸に甲冑を着用して供奉したが処罰を免れ、乱後は北白河院(藤原陳子、後堀河院の生母)に接近して後堀河天皇の近親となった。寛喜三年(一二三一)には西園寺実氏・大炊御門家嗣とともに秀仁親王(のちの四条天皇)の乳父に選ばれ、四条天皇即位後も近臣として仕えた。嘉禎四年閏二月に四条天皇の近臣から外されたことで朝廷での活動が一時的に低調となったが、その後、四条天皇の急死によって擁立された後嵯峨天皇の近臣として復権し、後嵯峨院政下で評定衆や後深草院の執事別当を務めた。
 隆親は義氏の女を妻に迎え、嫡男隆顕を儲けている。婚姻時期を明確にできる史料はないが、『公卿補任』記載の年齢から隆顕の生年は寛元元年(一二四三)なので、おそらく一二四〇年代初頭であろう。松島周一氏は、隆親が天福二年(一二三四)以後断続的に三河国の知行国主としてあらわれ、仁治元年(一二四〇)十二月十八日から翌年三月二十六日までの間にも知行国主であったことから、隆親と義氏の女との婚姻はこの時期に成立したと推定し、知行国主と守護が結びついた事例であると述べている。足利・四条両家の接点を三河国に求めたこの見解は首肯できる。さらに憶測を重ねれば、前述のとおり当時四条天皇の近臣から外されていた隆親が、幕府中枢との接近に活路を求め、三河国を通じて接点を得た「准北条一門」というべき存在の義氏と姻戚関係を結んだのではないだろうか。
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四条隆親と隆顕・二条との関係(その1)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/80d08c9a35f13cc002d83aa60b841a2d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e66191c8e32d66910c03c1611506d53e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/191ea5eb6fde00ee3f4943ada1c489e8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3de9dbe3862b7081de0af9fb4df198f3
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b2336059caba4894c63f86b8c4504ab7

守護と知行国主というのは公的な関係であり、それが婚姻のような私的な関係と直接に結びつくという発想自体がおかしいのではないか。
花田氏自身が解明されたように、足利義氏は北条政子に庇護された「准北条一門」。
これだけで義氏が四条家と結びつく理由としては十分すぎるのではないか。
結婚を斡旋する存在としては六波羅探題の北条重時がいる。
また、結婚という私的な関係の形成には女性間のネットワークも重要であり、重時の同母妹(「姫の前」の娘)が土御門定通室となっていることに留意すべき。
こちらのルートの方が、知行国主と守護といった公的関係より遥かに自然。

北条義時の正室だった「姫の前」と歌人・源具親の再婚について、森幸夫氏も奇妙なことを言われている。

「同じ国の国司と守護との間に何らかの接点が生じた」(by 森幸夫氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c1e440c1224dcbf408f9ee3823df979a
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0053 赤江達也『「紙上の教会」と日本近代』(その1)

2024-03-10 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第53回配信です。


赤江達也(1973生、関西学院大学教授)
http://researchers.kwansei.ac.jp/view?l=ja&u=200000872&sm=name&sl=ja&sp=1

『「紙上の教会」と日本近代――無教会キリスト教の歴史社会学』(岩波書店、2013)

■著者からのメッセージ
信仰の内面性,信仰の社会性
 宗教とは,信仰となにか.たとえば,「純粋さ」や「深さ」といった言葉が「信仰」を形容するのにふさわしいと考えられるとき,そこには「信仰の内面性」を中核とする宗教理解が存在しています.
 戦後日本には,こうした宗教理解が広く見られます.それゆえにプロテスタンティズム,なかでも内村鑑三に始まる無教会が注目されてきました.無教会は,教会・組織・制度をもたない「純粋な信仰」だと考えられたわけです.
 それに対して,本書では,雑誌や書物を媒介とする「紙上の教会」という内村の構想に注目しました.矢内原忠雄,南原繁,大塚久雄といった無教会派知識人は,「紙上の教会」という書物と読者のネットワークに支えられていたのです.
 ただ,無教会運動において現実化されていくこの「紙上の教会」という思想は,これまでほとんど注目されてきませんでした.この事実は,「信仰の内面性」を中核とする「宗教」理念が流布していく過程で,「信仰の社会性」が体系的に見落とされてきたことと対応しています.
 現在でも「信仰の内面性」や「宗教の公共性」が盛んに語られるのに対して,「信仰の社会性」という次元が論じられることはあまりありません.なぜ「信仰の社会性」は語られにくいのか.それはどのように語りうるのか.
 本書は,無教会キリスト教の歴史社会学なのですが,同時に「信仰の社会性」に照準する宗教社会学としても読んでいただけたらと願っています.

https://www.iwanami.co.jp/book/b261295.html

『「紙上の教会」と日本近代』(1)メディアとナショナリズムから捉え直した内村鑑三と無教会
https://www.christiantoday.co.jp/articles/17574/20151110/akaetatsuya-1.htm
『「紙上の教会」と日本近代』(2)矢内原忠雄の信仰とナショナリズム 現代に託された内村鑑三の遺言
https://www.christiantoday.co.jp/articles/17575/20151110/akaetatsuya-2.htm
『「紙上の教会」と日本近代』(3)大学と教会から離れ、オルタナティブなメディアを作った内村鑑三
https://www.christiantoday.co.jp/articles/17576/20151110/akaetatsuya-3.htm

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0052 藤原聖子編著『日本人無宗教説』(その3)

2024-03-09 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第52回配信です。


藤原聖子編著『日本人無宗教説─その歴史から見えるもの』(筑摩書房、2023)
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480017734/

「第2章 無宗教だと国力低下?―大正〜昭和初期」の担当は坪井俊樹氏。

天皇のために祈る群衆は宗教的か
日本人無宗教説の"国力"化
無神論的ドイツの敗戦の衝撃
震災後に宗教家は役割を果たしたか
震災一周年追弔式と「無宗教葬」
米国での排日運動と日系人に関する無宗教説
昭和初期の無宗教をめぐる議論
家庭教育で無宗教に対抗
「反宗教運動」の発足
言論界・宗教界からの反論
壊滅する反宗教運動
社会不安の拡大と「宗教復興」
日本人無宗教説の中断
この章のまとめ

東京大学宗教学研究室
https://www.l.u-tokyo.ac.jp/religion/students.html

「第3章 無宗教だと残虐に?―終戦直後〜一九五〇年代」の担当は藤原聖子氏。

宗教は「平和」を作るものに
ということは戦争中の残虐行為は「無宗教」のしわざ
調査では若者は「無宗教」
神頼みする余裕もない人々?
寺院も弱体化
新宗教教団は増えたが……
キリスト教も伸び悩む
マスメディア上の宗教と無宗教
「逆コース」の中での「宗教」の位置づけ
三笠宮と一緒に「日本人の宗教」座談会
「日本人の宗教はとにかくキリスト教と違う」から「キリストはアジア人」へ
一九五〇年代後半の無宗教性
この章のまとめ

キリスト教も伸び悩む(p110以下)
-------
 キリスト教については、戦後一〇年も経たないうちに、当初の見込みに反して信者は増えていないという記事が出るようになる。日本キリスト教団総会議長を務めた小崎道雄による寄稿だが、なぜ日本では教勢が振るわないのかについて原因を三点挙げている。第一に、キリスト教の神のような父なる人格神を信じる伝統が日本にはないこと。第二に、キリスト教の中心にある、「道徳生活と信仰生活の一致」も日本の伝統宗教には存在せず、「罪悪感と贖罪(十字架)信仰が国民の間に不人気」であること。具体的には、

目下国際基督教大学に教授として働いておられるスイスの学者エミル・ブルンナー博士は、筆者に日本の伝道の困難な理由の一つは国民間に罪悪感が少ないためではないかと質問されたが、私は全く同感である。博士は大切なカバンを自動車の窓ガラスを破壊されて盗まれた経験があるが、このようなことはスイスではほとんど絶無の経験である。日本人の国民道義心の低いのは全く天地万有を支配する神を信じないためである。(読売 一九五四・一一・一〇 小崎道雄「日本キリスト教の自己反省」)

 そして第三の原因は、教会や信者の力不足だと言う。「信者が聖書の伝えるような伝道者としての信仰に燃えて他の人々のために犠牲的な生活をなし」「教会は精霊に満たされて国家社会の良心的役割を予言者の如く果たす」ならばキリスト教は日本に普及すると述べている。
-------

小崎道雄(1888‐1973)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B4%8E%E9%81%93%E9%9B%84

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0051 藤原聖子編著『日本人無宗教説』(その2)

2024-03-08 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第51回配信です。


藤原聖子氏による「はじめに」は、その前半を「じんぶん堂」で読める。

「日本人は無宗教だ」と言うのは、誰が、いつから言い出した?――『日本人無宗教説』(藤原聖子編著)より
https://book.asahi.com/jinbun/article/14926214

「第1章 無宗教だと文明化に影響?―幕末〜明治期」の担当は木村悠之介氏


「日本人無宗教説を最初に述べたのは誰か。容易に答えがたい問題だが、現在まで系譜的につながりをたどれるような議論の場を形成していったという点では、幕末~明治期の訪日欧米人たちによる日本人への観察を画期と考えてよい」(p19)

「幕末~明治期の訪日欧米人たちによる日本人への観察」に付された注(1)には渡辺京二『逝きし世の面影』と渡辺浩『東アジアの王権と思想』が挙げられている。

渡辺京二『逝きし世の面影 日本近代素描Ⅰ』(その1)~(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/72b38232ba05b1ba00c035c645781c59
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5d0a0f2da2b028ff1e633554d554cc8d
渡辺京二『逝きし世の面影』の若干の問題点(その1)~(その12)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5bcfd449a5a474885042425d63bfd23c
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ea34f26b6dc10670eb6411ff825e9ec5

「Religion の不在?」(by 渡辺浩)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/52635c996a4905b98584c8fff72f46e8
「戯言の寄せ集めが彼らの宗教、僧侶は詐欺師、寺は見栄があるから行くだけのところ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4374da95a1226e9bc0ea736416ba2c70
『東アジアの王権と思想』再読
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3bd3406a87113eb41b992b55eaa44cdf

※特に注目すべき指摘(p31以下)

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神道は「無宗教」か?

 日本人無宗教説を考えるとき、明治政府による"国家神道"が神社を非宗教だと強弁したことが日本人の無宗教意識を決定づけた、と説明されることが多い。これは、一八八二(明治一五)年以降の政策において、仏教や教派神道(黒住教や大社教などの神道系諸派)、さらに後からキリスト教が「宗教」として扱われたのに対し、神社や皇室祭祀がそれらとは異なる存在として制度的に位置づけられていったことを指す。一九〇〇年に内務省神社局と宗教局が別々に置かれたのはわかりやすい例だ。
 しかし、すでにI・バードや岩倉使節団の事例を引いたように、神道を「宗教」として認めず日本人無宗教説を生み出したのは、キリスト教を強固な基準とする「宗教」理解それ自体だった。神社非宗教という制度は少なくとも当初はこうした線引きを利用しつつ成立したものであり、その日本人無宗教説への影響力を過度に強調すると他の要因や時代的な変化を見えにくくするおそれがある。【後略】
-------
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0050 藤原聖子編著『日本人無宗教説』(その1)

2024-03-07 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第50回配信です。


一、前回配信の補足

黒川知文『日本史におけるキリスト教宣教』
https://shop-kyobunkwan.com/4764203383.html

「序章‐問題提起」(p16以下)

-------
【前略】
 日本のキリスト教徒の人口比率が少ない理由として、これまで、いくつかの論が提示されてきた。)隅谷三喜男は、「日本のキリスト教はいわば『いばらの地に落ちた』種であり、『いばらが伸びて、ふさいで』来た」と論じて、社会にたいする教会の責任が十分でなかったとしている。小野静雄は、日本のキリスト教徒が天皇制国家とのきびしい対決を避けて、妥協してしまったことが、福音の歪曲を結果したと論じている。五野井隆史は、キリスト教が一般大衆に定着せず知識人に限られており、キリスト教徒自身の自負心の強さが、その傾向を強めていると述べている。佐治孝典は、キリスト教会は天皇制と対決しなかったと述べ、「新しい福音の光に照らして日本の風土そのものを見直し、そこで福音の宣教を拒むエトスそのものと向き合うことはほとんどしていない」と論じている。尾山令仁は、キリスト教はインテリ層により受け入れられてしまったと述べている。金井新二は、日本社会はリバイバルを必要としてはなく、むしろキリスト教会がそれを必要としており、それも「静かに進行してゆく信仰覚醒」であるべきだと論じている。池上良正は、キリスト教は日本社会への定着に失敗したと結論づけ、その理由はキリスト教受容者層が、第一次産業従事者や都市の平均的勤労者の間に深く浸透出来なかったことにしている。すでに武田清子はキリスト教土着の五つの型を提示している。埋没型、孤立型、対決型、接木(土着)型、背教型がそれであり、日本の教会の多くは埋没型と孤立型に属し、それが挫折に導いたと論じている。これは上記の論点にも共通する。
 最近では、岸義紘、根田祥一、鈴木崇巨、濱野道雄、廣瀬薫による共同研究が注目される。彼らは、KJ法という情報整理法を用いて日本の福音宣教が失敗した原因を教会内に求め、教会がキリストの心を具体化していない、牧師と指導者が未熟であった、島国的劣等感の束縛から解放されていなかった、の三点を指摘する。これらの原因を踏まえて、聖書的「キリスト教世界観」に立つ教会の刷新を提言している。また、古屋安雄は、日本人の「信仰の平均寿命」は二・八年だとし、社会に五%であった武士階級が明治時代に知的にキリスト教を受け入れたので、信仰が「一つの思想」だと誤解されたことに問題があり、殉教も拒否され、その結果、多くの棄教者が生み出されたと考える。さらに「下層の深海」にいる民衆に福音は届かなかったとして、「民衆の宗教、大衆の宗教とは殆ど無縁であった」と論じている。
 以上の論をまとめると、キリスト教は知識階級中心に受け入れられ、キリスト教とは相いれない天皇制等の価値体系を有する日本社会に対して、教会は効果的に働きかけず、これまで妥協するか孤立するかの選択をしてきた。そのためにキリスト教は民衆の中に受け入れられず、日本社会に定着できなかった、ということになる。
-------

隅谷三喜男(1916‐2003)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%85%E8%B0%B7%E4%B8%89%E5%96%9C%E7%94%B7
五野井隆史(1941生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E9%87%8E%E4%BA%95%E9%9A%86%E5%8F%B2
武田清子(1917‐2018)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E6%B8%85%E5%AD%90
古屋安雄(1926‐2018)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%AE%89%E9%9B%84

二、『日本人無宗教説』

藤原聖子(皇嘉門院、1122‐82)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%81%96%E5%AD%90
藤原聖子(さとこ、東京大学教授、1963生)

藤原聖子編著『日本人無宗教説─その歴史から見えるもの』(筑摩書房、2023)

「日本人は無宗教だ」とする言説は明治初期から、しかもreligionの訳語としての「宗教」という言葉が定着する前から存在していた。「日本人は無宗教だから、大切な○○が欠けている」という“欠落説”が主だったのが、一九六〇年代になると「日本人は実は無宗教ではない」「無宗教だと思っていたものは“日本教”のことだった」「自然と共生する独自の宗教伝統があるのだ」との説が拡大。言説分析の手法により、宗教をめぐる日本人のアイデンティティ意識の変遷を解明する、裏側から見た近現代宗教史。

目次
第1章 無宗教だと文明化に影響?―幕末〜明治期
第2章 無宗教だと国力低下?―大正〜昭和初期
第3章 無宗教だと残虐に?―終戦直後〜一九五〇年代
第4章 実は無宗教ではない?―一九六〇〜七〇年代
第5章 「無宗教じゃないなら何?」から「私、宗教には関係ありません」に―一九八〇〜九〇年代
第6章 「無宗教の方が平和」から「無宗教川柳」まで―二〇〇〇〜二〇二〇年

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480017734/

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