学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

大晦日のご挨拶

2023-12-31 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
ユーチューブチャンネルの準備などをしていたら、諸事まんべんなく滞り、大晦日の今日も書棚の整理をしていました。
これもチャンネル開始を前に、必要な文献をサッと取り出せるような体制作りの一環だったのですが、肝心な論文コピーの整理は全然間に合わず、来年に持ち越しとなりました。
今年は最後の最後でブログの更新を怠ってしまいましたが、その分、来年はスタートから飛ばして行きたいと思っています。
それでは皆様、良いお年をお迎えください。


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ご連絡

2023-12-28 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
今年は承久の乱関係の投稿をほぼ毎日続けていて、休んでも一日だけ、二日以上の休みは殆どなかったのですが、年末になって随分長く休んでしまいました。
これはユーチューブチャンネル開設の準備中、Windows10の古いパソコンに若干の不安を感じてWindows11のものに買い換えてみたところ、もちろん全体としては便利になったのですが、文字の大きさを変更する方法などの細かな点でどうにも親しみづらく、何だか投稿意欲も削がれてしまったのが理由です。
でもまあ、ユーチューブチャンネル開設も一応の見通しが立って、来年の年頭のご挨拶はユーチューブから行いたいと思います。
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「光の君へ」のことなど

2023-12-22 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
ユーチューブチャンネル開設のため、CMでフワちゃんが「消しゴムマジックで消してやるのさ」とか言っていたGoogle Pixelを購入し、最近のスマホの高度な機能にいたく感心しました。
しかし、私の場合、レジュメを映して解説するだけの予定なので、特に高度な機能も高画質も必要ないですね。
また、呉座氏がやっているライブ配信は自分には難しいのかなと思っていたのですが、チャットに一々対応する必要もなく、ライブ配信後はそのまま普通の動画になるそうなので、むしろライブ配信が一番簡単みたいです。
結局、それなりのウェブカメラとマイクがあれば十分のような感じもしてきたので、とりあえずアマゾンで注文してみました。
始めるのは来年に入ってからの予定でしたが、機材が来たら案外直ぐにでも出来るかもしれないですね。
ということで、今はちょっと手持ち無沙汰なので、タレントの松村邦洋氏と「ミスター武士道」氏とのコラボ企画などを見つつ、来年の大河ドラマ「光の君へ」の扱いをどうしようかな、などと考えていました。

「#どうする家康 を1年間見届けた二人が総決算!……のはずが、モノマネ大暴走!?」
https://www.youtube.com/watch?v=fu6UiAa_dvM&t=760s
【戦国BANASHI】最終回「どうする家康」ものまね大予想!【ミスター武士道コラボ】
https://www.youtube.com/watch?v=19RlUWeLj8w&t=43s

正直、私は大河ドラマに特別な関心はなく、「鎌倉殿の13人」や「どうする家康」も時々見る程度でしたが、とにかく熱心なファンの多い番組ですから、何か工夫すれば私のチャンネルにも興味を持ってくれる人が増える可能性はありますね。
考えてみれば、私が今年一年、取り憑かれたように承久の乱を研究していたのも、直接のきっかけは「鎌倉殿の13人」の最終回、後鳥羽院(尾上松也)と文覚(市川猿之助)のコミカルな「逆輿」の場面です。
あれを見ていたときには、まさか猿之助が本物の罪人になってしまうなどとは想像もできませんでした。

後鳥羽院は「逆輿」で隠岐に流されたのか?(その1)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5ec3d9321ac9d301eca3923c022ea649
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/67ff8f511d6b4aedc9e71cb36bc4a6da
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6c216879037a93f3989708b69e538359
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0d80f970b573162ce8be9edfabe51b90
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/063fe98e5d44c4e6a731f7230db7e96c
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その65)─後鳥羽院は「流罪」に処せられたのか
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2c1e4d8f0bf9457827eb230860c538aa
市川猿之助と「逆輿」の場面について(雑感)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b74f73b579012c492ad4ce5cedd7fade
目崎徳衛氏『史伝 後鳥羽院』(その13)─目崎著の評価
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94fa4612d2502729b8708bc170bafc8f

「光の君へ」は完全オリジナルなストーリーらしいので、「鎌倉殿の13人」以上に予測不能ですが、時代は違っても、文学と歴史の中間領域は私にとって得意中の得意の分野ですから、しばらく様子を見て何が出来そうか考えてみたいと思います。
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「男もすなるゆーちゅうぶといふものを、女もしてみむとてするなり」(by 紀貫之氏)

2023-12-20 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
『親子で楽しく学べる人気YouTube動画の作り方』などという本を図書館で借りてきて、動画作成の初歩を鋭意勉強中の私です。
さて、戦国武将に全く興味がない私は「ミスター武士道」氏のチャンネルを見たことがなかったのですが、登録者数が16.9万人だそうですから、たいしたものですね。
コメントを見ると、どんな人たちが何を期待して見ているのか、何となく想像できます。

最終回『神の君へ』解説┃1年間通して見たからこそわかることがある… #どうする家康
https://www.youtube.com/watch?v=lL0UdX5jz6k&t=111s

衣裳が渋く、神田伯山みたいに話し上手なので、その道のプロかと思ったら、講談師ではなくお笑い芸人の修行をされていたそうですね。
また、ユーチューブは知人から出資を受けてビジネスとしてやっているとのことで、「青天を衝け」(2021)のときは再生数が伸びず、厳しかったそうですね。

【ゲスト:ミスター武士道】新春スペシャル&NHK大河ドラマ『どうする家康』放送記念企画「先輩歴史系YouTuberの雄に学ぶ」
https://www.youtube.com/watch?v=ZbVA1O-wb1c

私の場合、基本的にはブログで書いていることと同じ内容の話をするつもりなので、「ミスター武士道」氏の視聴者層とは殆ど重なることがなさそうです。
また、ビジネスとして成り立つはずがないことは最初から分かっており、現在のブログの数倍程度の人が来てくれて、そのうちの一定割合の人が意見や感想を書いてくれれば充分ですね。
ところで、呉座氏のチャンネルでゲストが登場する回を中心に見ていたら、平山優氏はずいぶん話し上手な人ですね。
芸能事務所(ポニーキャニオン)と契約されているそうで、異色の歴史研究者ですね。

【ゲスト:平山優】NHK大河ドラマ『どうする家康』時代考証が語る、家康と信玄
https://www.youtube.com/watch?v=7T1bGQKqdTU&t=465s

また、細川重男氏は大病をされていたようですが、達者な話芸は昔のままですね。

【ゲスト:細川重男】鎌倉武士の実像を語る【第一部・無料ライブ配信】
https://www.youtube.com/watch?v=5Zp41abh88I&t=4066s

それと、呉座氏のチャンネルではありませんが、丸島和洋氏(東京都市大学准教授)の動画もあって、こういう話し方をする人なのかと初めて知りました。

戦国大名とはどのような存在なのか?|丸島和洋
https://www.youtube.com/watch?v=hYiLYPzTN18&t=84s

私は丸島氏とは特別にフレンドリーな関係にあって、ちょうど十年前、若干のやり取りをしたことがあります。

丸島和洋氏のご意見
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a13b5bb5ba75b6b580fb6381da91abfb
職人さんとの対話
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d49c1468f83c47057d6d028924e42f5d
金子堅太郎とホームズ判事
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a93b1209328804c9890f8954e990263b
書評:丸島和洋著『戦国大名の「外交」』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0ac71f315a069919f1402e7c924d889d

ただ、中世国家について考え始めたのは丸島氏とのやり取りがきっかけであり、今では決して冗談ではなく丸島氏に感謝しています。
丸島氏の中世国家論も『戦国大名の「外交」』(講談社選書メチエ、2013)の段階では荒っぽいものでしたが、『列島の戦国史5 東日本の動乱と戦国大名の発展』(吉川弘文館、2021)ではかなり整理されていますね。

あなたの「国家」はどこから?─丸島和洋氏の場合(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cea66659dd786ab72c595cccb0b2c976
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ba92511f4d25dfbe46a7a9afcf796dd

「あなたの「国家」はどこから?」シリーズをやっていた時(2021年10月~11月)は、丸島氏の見解を紹介した後、黒田日出男・石井紫郎・水林彪・勝俣鎮夫・谷口雄太・山田康弘・黒田基樹・平山優氏の見解を概観し、改めて丸島氏の『武田勝頼 試される戦国大名の「器量」』(平凡社、2017)の中世国家論を検討しました。

あなたの「国家」はどこから?─丸島和洋氏の場合(その3)(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d2580199ad8c1af1180827ae2851338
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6be1539b54c9f4ce01cae6e81bacff78

中澤達哉氏の「礫岩国家」論を知ることができたのも丸島氏のおかげです。

あなたの「国家」はどこから?─中澤達哉氏の場合(その1)~(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eceec6a481ef15494282f7165b09948a
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f4bd8d07c95b4472867eb63b0ae2259
ネーミング・センスが駄目すぎる「礫岩国家」な人々
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ec54d90235e40b7655a3480a0c2c20f1
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『徒然草』第五十二段「仁和寺にある法師、年寄るまでゆーちゅうぶをなさざりければ」

2023-12-19 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
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 仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり徒歩よりまうでけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。
 さて、かたへの人にあひて「年ごろ思ひつること果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて山までは見ず」とぞ言ひける。
 すこしのことにも先達はあらまほしき事なり。
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兼好法師も「すこしのことにも先達はあらまほしき事なり」と言われているので、昨日も「春木で呉座います。」を眺めていたところ、呉座氏が史料読解中心にしたのは「ミスター武士道」氏という有名な歴史系ユーチューバーとの差別化を図る意図もあったそうですね。(2:04あたり)

【呉座Solo】大河ドラマ『どうする家康』を歴史学者・呉座勇一が解説・最終回(全篇無料)ーー家康は秀頼を救うつもりだった? 大坂夏の陣の真実
https://www.youtube.com/watch?v=lzJLR4n492I&t=7236s

「戦国BANASHI 日本史・大河ドラマ解説チャンネル」
https://www.youtube.com/@sengokubanashi

「ミスター武士道」氏は紫式部を主人公とする来年の大河ドラマ「光る君へ」に対応するために鋭意勉強中だそうですが、公家社会はなかなか難しいですから、それなりのレベルの解説をするのはけっこう大変でしょうね。
ただまあ、平安時代の場合、戦国時代や明治維新と異なり、史実との異同にこだわる歴史マニアも少ないでしょうから、少しくらい間違っても誤魔化せるかもしれないですね。
かくいう私も平安時代は全然駄目で、正直に告白すると、私は『源氏物語』も全編通して読んだことすらありません。
一応、『とはずがたり』や『増鏡』で引用されていたり、文章が似ていたりする部分を中心に多少は読んでいますが、鎌倉時代に関してエラソーなことを言っているだけに、国文学者から糾弾されるのが怖くて、とても「光る君へ」の解説はできそうもないですね。

「炎上商法であろうと本さえ売れれば万々歳と思っているのだ」(by 呉座勇一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aa5f72007b62f67762f43a3e82fbfb0e

ま、それでも『源氏物語』の受容史に関してなら多少は何か言えるかもしれません。
受容史に関しては、三田村雅子氏(フェリス女学院大学名誉教授)や今西祐一郎氏(国文学研究資料館名誉教授・元館長、九州大学名誉教授)を始めとして、無茶苦茶なことを言っている研究者は多いですね。
十五年も前になりますが、私は高岸輝氏(東京大学教授、美術史)が『室町絵巻の魔力―再生と創造の中世―』(吉川弘文館、2008)において、

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北山は『源氏物語』若紫帖において光源氏が紫の上を見出した地であり、ここに邸宅を構えた西園寺家は閑院流祖藤原公季以来、文雅の家を演出するために『源氏物語』の聖地であることを喧伝し続けたという。(p10)

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d76564e1c0a350c8447e5f1c0936b6f4

などと奇妙なことを言われているのを見て、「源氏の中将わらはやみまじなひ給ひし北山のほとりに」に関する今西氏の「若紫巻の背景-『源氏の中将わらはやみまじなひ給ひし北山』-」(『国語国文』53巻5号、1984)という論文を読んだことがあります。

今西論文その1、『源氏物語』注釈史
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/932e4aff20b0309968010e86fc8f1134
今西論文その2、「北山」の「なにがし寺」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b5ed50e3c6468b7a75650f1f028ab0cb
今西論文その3、仮説の九十九折
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5adb2d33694b17efc9d476cfe69b81f2

また、上記論文から派生して、足利義満と『源氏物語』に関する松岡心平・三田村雅子・小川剛生・桜井英治氏の論文・座談等を読んだことがありますが、今をときめく小川剛生氏や桜井英治氏も、まるで熱病に罹ったようにタワゴトを言われていましたね。

「学問空間」カテゴリー: 高岸輝『室町絵巻の魔力』
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/c/4ca6cde3ed4da52e78a85fd5bdf482ab

ただ、さすがに小川剛生氏だけは後になって少し反省されたようですが。

「自戒を込めて」(by 小川剛生氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9326f9b5affc014f12d12dfc8bf9204c
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ユーチューブを始めようかなと思っています。

2023-12-16 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
昨日は日帰りで宮城県に行っており、今日もあちこちバタバタ動き回っていて、ちょっと疲れたので更新を休みます。
それと、今度ユーチューブを始めようかなと思っていて、その準備もしなければならないので、暫く更新が滞りがちになるかもしれません。
私は難しい話を分かりやすく説明をすることがけっこう得意だと思っているのですが、それでも取り扱う対象の中世史・中世文学は決して易しくはないので、結果的に私のブログもそれなりに難しく、敷居の高いものになり、読者層は実際上相当狭い範囲に限定されてしまっているようです。
また、去年の八月まではteacup掲示板が存在し、感想をもらう機会があったのですが、こちらもたぶん「一見さんお断り」的な雰囲気が濃厚で、たまたま検索で来た人が気軽に感想を書けるような場所でもなかったはずです。
その点、動画でなら今まで以上に分かりやすく説明ができ、また、多くの人から即座に反応をもらえて励みになりそうですね。
そんな訳で暫く前から歴史系のユーチューブチャンネルをチラチラ見ていたのですが、受験生相手のものは参考にならず、戦国武将や幕末・明治維新モノが大好きな歴史マニア対象のチャンネルもあまり参考になりませんでした。
結局、一番参考になったのは「春木で呉座います。」の呉座氏単独のシリーズでしたが、こちらはライブ配信で、内容は史料読解がメインですね。

https://www.youtube.com/@haru-goza

私の場合、ライブ配信は能力的に無理っぽいので、レジュメをつくって、それを映しながら解説していくというスタイルがよいかなと思っています。
ライブ配信ならチャット機能で即座に反応がもらえそうですが、私としてはそこまで急いで反応をもらうよりは、発表全体を聞いた上で感想をもらえた方が嬉しいですね。
ま、とりあえず早めに始めてみて、試行錯誤の中で自分なりのスタイルを見つけようかなと思っています。
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2024年の自分のための備忘録(その1)

2023-12-14 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
年内は承久の乱の検討を続けて、来年に入ったら権門体制論批判を再開しようと思っていたのですが、九日に小川剛生氏の発表を聞いて、当面の運営方針について若干迷いました。
結局、やはり承久の乱に一応の決着をつけてから鎌倉後期の歌壇史・政治史に戻ることにしましたが、来年の自分のための備忘録として少し書いておきます。
私は去年の四月、小川氏の「「謡曲「六浦」の源流 称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(『金沢文庫研究』347号、2021)を読んで、小川氏が検討された金沢貞顕の書状(僅か三歳の恒明親王から金沢北条氏にとって特別なゆかりのある古今集の写本を贈られたことに関する仲介者への礼状)が亀山院と西園寺公衡の関係を解明する手掛かりになるのではないかと思って、恒明親王の周辺をしつこく探ってみました。

小川剛生氏「謡曲「六浦」の源流─称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c114810da4f82a93cdff488a3efd2c68

私が解明したいと思っていた課題は、

(1)最晩年の亀山院は何故に恒明親王を皇嗣とすることに固執したのか。
(2)亀山院と敵対していたはずの西園寺公衡は、何故に恒明親王の庇護者となったのか。

の二点です。
西園寺公衡は正応三年(1290)の浅原事件では亀山院が黒幕だと糾弾しながら、嘉元三年(1305)に亀山院が亡くなると、恒明親王の庇護者となって後宇多院と対立します。
この十五年間の落差があまりに大きいので、私としては京極為兼の第一次配流を画策した「傍輩」が公衡ではないか、為兼を嫌った公衡の思惑と、皇位奪還を図る大覚寺統の亀山院の思惑が一致して二人が急速に接近し、嘉元元年(1303)、公衡の妹の昭訓門院が生んだ恒明親王を亀山院が偏愛するに至って、二人の利害が完全に一致したのではないか、などと想像してみました。
京極為兼の二度の配流に関しては小川氏の「京極為兼と公家政権」(『文学』4巻6号、2003)が最重要論考ですが、第一次配流に関しては、小川氏は今谷明氏の南都争乱原因説を否定されたもの、「傍輩」についての独自の見解は示されていません。

三浦周行「両統問題の一波瀾」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1a9074b3be221a0943c1efa6149f83e9
佐伯智広氏『皇位継承の中世史』(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/83c9b9ab66defa845354140b178df280
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e3847f6428a58345c43d9e1b885719f5

佐伯智広氏は旧来の通説に従って、為兼の第一次配流についても西園寺実兼との対立(「傍輩」=実兼)を想定されていますが、これは井上宗雄氏によって否定されて久しい古い説です。
私は「傍輩」=西園寺公衡の可能性を探ってみて、途中までは何とか行けそうではないか、などと楽観視していました。

「傍輩」=西園寺公衡の可能性(その1)~(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6bf56b0ef3292197797c49a5a6efc042
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3acbe0aa724a9c51020020d2f56c87e6

そして、幕府も一枚岩ではなかろうとの見通しから、鎌倉で為兼の味方になりそうな人物を探ってみました。
為兼の鎌倉人脈で、特に重要なのは宇都宮景綱と長井宗秀です。
『伏見院記』によれば、永仁元年(1293)八月二十七日、為兼は前夜に不思議な夢を見たことを伏見天皇に伝えています。
父為教の従兄弟にあたる有力御家人宇都宮景綱が夢中に現われ、天皇の意思に従わぬ者は皆追討しよう、と告げたという夢なのですが、本郷和人氏『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)でこの夢の話を知ったときは、私は本郷氏の推測に納得していました。
「伏見天皇と為兼は、後に後醍醐天皇のもとで急速に肥大する幕府への反感を共有していたのではないか。直接には西園寺実兼の讒言があったのだろうが、その感情のなにほどかを幕府に知られたがゆえに、為兼は流罪に処せられたのではないか」というのが本郷説で、本郷氏は為兼の第一回流罪も西園寺実兼の讒言によるとの立場です。
この点、井上宗雄氏は、『伏見院記』永仁元年八月二十七日条において伏見天皇が最も重視しているのは永仁勅撰の議であり、この夢も永仁勅撰の議に関連したものだろう、とされましたが、私も現在は井上説に賛成で、「叡慮に従わぬ不忠の輩をみな追罰」といっても、別に討幕とかではなく、伏見天皇の撰集方針に従わず、妨害するものは景綱が許さないぞ、程度の話ではないかと考えています。

京極為兼が見た不思議な夢(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c4400085d2a58cf03402f6462dfc85cd
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f5f166069c3293a62feb4fa6891d4d09

また、宇都宮景綱は嘉禎元年(1235)生まれですから、建長六年(1254)生まれの為兼より十九歳も年上です。
そして、景綱は宗尊親王に近侍し、鎌倉歌壇の最盛期を経験していた人なので、為兼と出会う前に既に自分の歌風を確立しており、京極派の影響は特に見られません。
これに対し、長井宗秀は文永二年(1265)生まれで、為兼より十一歳下であり、歌風も為兼の影響を極めて強く受けており、鎌倉での京極派の代表的存在です。

京極為兼と長井宗秀・貞秀父子の関係(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7189df37b63ed5d3821a7689d7bf839
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/886594037a40d49eab659a2a02cd9998
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5697e3ed6a90b97f784f8323bb11fdb3

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順教房寂恵(安倍範元)について(その3)

2023-12-13 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
『吾妻鏡』弘長三年(1263)二月十日条、本当に面白いですね。
赤澤春彦氏のオーソドックスな現代語訳も紹介しておくと、

-------
十日、庚申。朝、雨が降った。千首の合点が行われた後、(北条政村の)常盤の御邸宅でまた披講された。今夜は合点の数で席次が定められた。第一座は弁入道(真観、藤原光俊)、第二は(安倍)範元、第三は亭主(北条政村)、第四は証悟であった。政村は範元の下座になるため、向かい合って着座すると言われたところ、大丞禅門(真観、藤原光俊)が言った。「合点の数によってその座次とすることは、以前に決めていたことです。そうしたところに一列の座としないのは、たいそう残念なことではないでしょうか」。その言葉が終わらないうちに、政村は座を立って、範元の下座に着かれようとした。この時に範元もまた座を立って去ろうとしたところ、(政村は)すぐに人に命じて範元を引き留められた。また合点の数に従って懸物を分けた。真観の分は虎の皮の上に置かれ、範元は熊の皮に、亭主は色皮に(置かれ)、以下これに準じた。合点が無かった者は、その座を縁に設けた。膳が出されたが、箸を付けなかったため、箸なしで食べた。満座で笑わない者はいなかった。範元は、去る正月、上洛のために暇を申していたが、この御会のために内々に引き留められていた。懸物のうち、旅行の用具はすべて(範元が)拝領した。
-------

といった具合ですが(『現代語訳吾妻鏡16 将軍追放』、p18)、ここは『吾妻鏡』には珍しい秀逸なコメディなので、もう少しくだけた感じの方が良いのではないかと思います。
ところで、北条政村は元久二年(1205)生まれで、父は北条義時、母は伊賀の方です。
貞応三年(1224)、義時が急死すると「伊賀氏の変」が起きて、政村も人生最大のピンチを迎えますが、何とか乗り切り、評定衆・引付頭人を経て、建長八年(1256)に五十二歳で連署となります。

北条政村(1205-73)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%94%BF%E6%9D%91

弘長三年(1263)二月の時点で、北条政村は連署となって七年目、五十九歳であり、翌文永元年(1264)には執権となりますから、本当に幕府の最上層、重鎮中の重鎮ですね。
それだけに政村が安倍範元の下座に着いたというのは大変なことであり、政村の洒脱な人柄を窺わせます。
また、範元は当時二十代半ばくらいのようですが、和歌が得意である上、たった一人で披講を担当したとのことなので、非常に社交性に富み、頭の回転が速く、弁舌爽やかで、運動神経も良さそうです。
現代であれば、羽鳥慎一や安住紳一郎、あるいは往年の久米宏といった優れたニュースキャスターにもなれそうなタイプのようです。
ただ、このエピソードは、範元個人にとっては人生最良の思い出の一つでしょうが、あくまで政村の私的な会合であって政治的重要性は全然ありません。
となると、『吾妻鏡』編者は何故にこんなエピソードを採用したのか。
また、情報源は誰なのか。
『吾妻鏡』が編纂されたのは1300年前後と言われており、編纂者の中には金沢貞顕に近い人もいたようですから、嘉元三年(1305)の時点で貞顕と親しく交わっている安倍範元(寂恵)が、自分の人生最良の思い出を『吾妻鏡』に入れるように画策した可能性もありそうですね。
さて、寂恵についての検討は小川氏の論文が発表されるのを待って行いたいと思いますが、とりあえず準備作業として井上宗雄氏の見解を紹介しておきます。(『中世歌壇史の研究 南北朝期 改訂新版』、明治書院、1987、p88以下)

-------
 次に順教房寂恵であるが、寂恵は俗名安倍範元、陰陽師として弘長・文永の頃、幕府に仕え、歌壇においても甚だ活躍していた。真観の弟子であったらしい。久保田淳氏の「順教房寂恵について」に詳しいが、次いで文永の中頃出家し、寂恵と称し、八年為顕(明覚)に伴われて為家を訪れ、その門に入った。弘安元年続拾遺撰集の時、寂恵上洛して三月末草稿本を見、十か条程の意見を開陳した処、骨子となる集の形態についての事などは採用されず、その他六、七か条は採られたが、多分謙遜してであろうが、自詠と宗尊との贈答歌の入集辞退は認められて、彼は入集しなかった。寂恵が為氏に対して大きな憤懣をもったのはいうまでもない。
 寂恵が為家の晩年に入門したとはいえ、当初は御子左家の仇敵真観の門人であり、しかも為家への入門は、為氏と必ずしも親しくなかった為顕の手引きによるものである。為氏としては初めから寂恵にあまり好感はもっていなかったのではなかろうか。
 弘安二~五年の間、阿仏尼は鎌倉にいたが、その間、寂恵と対面し、自己の蔵する和歌文書の中に定家の未来記五十首があるといってそれを披見せしめたらしい。某が正応二年六月に未来記の奥書として記しているのである。これは冷泉為臣『藤原定家全歌集』に初めて紹介されたもので、後花園院筆花山院家蔵のものを明和五年に冷泉為村が透写せしめたものである。これによって未来記は定家の真作なる事を故冷泉氏は立証しようとしたのである。所が石田吉貞氏は『藤原定家の研究』で、詳細な論を展開し、むしろ未来記は続拾遺に対して激しい憤懣を抱いていた阿仏そのものの偽作ではないか、という説を提出した。既に久保田氏によって明らかにされたように、寂恵が為氏に対して深い憤りを抱いていたのであるが、阿仏尼が未来記を寂恵に見せたのも故なしとしない。而して寂恵もそれを人に書き送ったりしているのである(なお寂恵に門弟のいた事は寂恵本古今の末に、英倫に古今を授けた、とあるのによって知られる)。
 更に寂恵が永仁元年前述の如く為相と関係あるらしい詞花集を写した事は注意されるが、また山岸徳平氏蔵寂恵本拾遺集<書写年次不明>には冷泉家相伝の定家筆本によって異同を示した所があって、寂恵は冷泉家より説を受けたらしいのである(北野克氏『北野本拾遺和歌集解説』)。かくして寂恵はかなり冷泉家と親しかったのである。
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順教房寂恵(安倍範元)について(その2)

2023-12-11 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
出家前の寂恵は『吾妻鏡』弘長三年(1263)二月、北条政村邸で催された和歌会の場面に登場しますが、これはなかなか面白い記事ですね。
小川氏は北条本より吉川史料館本の方が良いとされ、レジュメに両者の異同も記されています。
ただ、北条本でも大幅に文意が損なわれることはなさそうなので、いつものように「歴散加藤塾」サイトの「吾妻鏡入門」を利用させてもらうと、まず、八日条に、

-------
【前略】今日於相州常盤御亭有和歌会。一日千首探題。被置懸物。亭主〔八十首〕。右大弁入道真観〔百八首〕。前皇后宮大進俊嗣〔光俊朝臣息。五十首〕。掃部助範元〔百首〕。証悟法師。良心法師以下作者十七人。辰刻始之。秉燭以前終篇。則披講。範元一人勤其役。


とあります。
『現代語訳吾妻鏡16 将軍追放』(吉川弘文館、2015)の赤澤春彦氏の訳では、

-------
今日、相州(北条政村)の常盤の御邸宅で和歌会が行なわれた。一日千首の探題で、懸物が用意された。亭主(政村)〔八十首〕・右大弁入道真観(藤原光俊)〔百八首〕・前皇后宮大進(藤原)俊嗣〔光俊朝臣の子息。五十首〕・掃部助(安倍)範元〔百首〕・証悟法師・良心法師以下、作者は十七人。辰の刻に始まり、火灯し頃より前に終わった。そこで披講があり、範元一人がその役を勤めた。
-------

とのことです。
北条政村邸で探題(続歌)の和歌会が行なわれて、十七人の作者で、例えば一回百首の続歌を十回繰り返すなどして、合計千首もの歌を一日で詠んだ訳ですね。
歌数の多い方から並べ直すと、

 右大弁入道真観(藤原光俊)〔108首〕
 掃部助(安倍)範元〔100首〕
 亭主(政村)〔80首〕
 前皇后宮大進(藤原)俊嗣〔光俊朝臣の子息。50首〕

ということで、一番多いのは反御子左派の歌僧・真観(藤原光親子息、1203-76)で、安倍範元は二番目です。
上位四人の歌数を合計すると338首で、残りの662首を十三人で詠んだとなると、

 662÷13≒50.9

ですから、残りの人も平均で五十首くらい詠んでいて、真観の子息・藤原俊嗣は四番目に挙がっているものの、特に歌が多い訳ではないですね。
披講とは和歌を(節をつけて)詠み上ることであり、範元一人が担当したのだそうです。
さて、翌九日条には、

-------
昨日千首和歌為合点。被送大掾禅門云云。
-------

とあり、千首の歌を、歌会の指導者である「大掾禅門」(真観)の許へ「合点」のために送ります。
そして、十日条に、

-------
被千首合点之後。於常盤御亭更被披講。今夜以合点数員数被定座次第。一座弁入道。第二範元。第三亭主。第四証悟也。亭主以範元下座之儀。可着対座之由。被称之処。大掾禅門云。以合点員数。可守其座次之由。治定先訖。而非一行座者。頗可為無念歟云云。其詞未終。亭主起座。欲被着于範元之座下。于時範元又起座逐電之処。即令人抑留之給。又任点数分懸物。大掾禅門分被置虎皮上。範元熊皮。亭主色革。以下准之。無点之輩儲其座於縁。雖羞膳。撤箸之間。無箸而食之。満座莫不解頤。掃部助範元者。去正月為上洛雖申暇。依此御会。内々被留之。懸物之中。於旅具者悉以拝領之。
-------

とあります。
この部分、赤澤春彦氏の現代語訳も悪くはないのですが、いささか生真面目過ぎて、陽気な莫迦騒ぎの雰囲気が感じられないので、赤澤訳を参照しつつ、私訳を試みると、

----
千首の合点が行なわれた後、(北条政村の)常盤の御邸宅でまた披講となった。今夜は合点の数で席次が定められた。第一座は弁入道(真観、藤原光俊)、第二は(安倍)範元、第三は亭主(北条政村)、第四は証悟であった。亭主は範元の下座になるのはさすがにまずいと思われ、対座にしようと言われたが、真観は、「合点の数によって座次とすると決めたばかりではございませんか。それなのに一列の座としないのは何とも残念なことでございますなあ」と言った。その言葉を聞くやいなや、亭主は座を立って範元の下座に着かれようとしたが、範元も慌てて立ち上がって、あまりに恐れ多いと逃げ出してしまった。そこで亭主は、範元をつかまえろ、と周囲の者に命じて、範元を元の席に連れ戻した。また、合点の数に従って懸物を分けた。真観の分は虎の皮の上に置かれ、範元のは熊の皮に、亭主のは色皮に置かれ、以下、これにならった。合点が無かった者は、その座が縁に設けられた。膳は出されたものの、罰として箸が付けられなかったので、箸なしで食べることになってしまった。満座の人々は顎が外れるほど大笑いした。範元は、去る正月、上洛のために暇を申していたが、この御会のために内々に引き留められていた。懸物のうち、旅行用具はすべて範元が拝領した。
-------

となります。
政村邸で行われた和歌会は、決して堅苦しいものではなく、むしろ通常の身分秩序を逆転させることすら許される遊興の場であったことが分かります。
そして、範元は代々の陰陽師として幕府に仕えていただけでなく、政村の被官のような存在でもあったようです。
なお、続歌については、ネットでは別府節子氏の「続歌と短冊」(『出光美術館研究紀要』18号、2013)という論文が参考になりますね。

https://idemitsu-museum.or.jp/research/pdf/07.idemitsu-No18_2013.pdf
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順教房寂恵(安倍範元)について(その1)

2023-12-10 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
昨日は早稲田大学戸山キャンパスで行われた歴史学研究会日本中世史部会の12月例会に行ってきました。

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【日 時】2023年12月9日(土)15時~18時(予定)
【会 場】早稲田大学戸山キャンパス33号館132教室
【報告者】小川剛生氏
【題 目】勅撰和歌集と武家政権—撰歌への干渉をめぐって
☆参考文献
井上宗雄『中世歌壇史の研究 南北朝期』(明治書院、1965年〔改訂新版1987年〕)
久保田淳「順教房寂恵」(『中世和歌史の研究』明治書院、1993年、初出1958年)
福田秀一「中世勅撰和歌集の成立過程—主として十三代集について」(『中世和歌史の研究 続篇』岩波出版サービスセンター、2007年、初出1967年)

http://rekiken.jp/seminar/japan_medieval/

私も研究会の類にはすっかり縁のない生活を続けていて、歴史学研究会の例会も、遥か昔、秋山哲雄氏(国士舘大学教授)や清水亮氏(埼玉大学准教授)等が中心となって運営されていた頃に何度か行って以来ですから、数えてみると二十年振りくらいで、殆ど浦島太郎の心境でした。
そんな私が珍しく例会に参加しようと思い立ったのは、小川剛生氏の「謡曲「六浦」の源流 称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(『金沢文庫研究』347号、2021)を読んで順教房寂恵という人物に興味を抱いたからです。
寂恵は『和歌文学大辞典』(小林大輔氏執筆)によれば、

-------
俗名は安倍範元。順教房と号す。生年未詳。正和三1314年以後没(寂恵法師歌語)。従四位下陰陽允資宣の男(系図纂要)。従五位上掃部助。父祖以来鎌倉幕府に陰陽師として出仕。文永二1265年から同八年の間に出家し、松陰の別所に住む。宗尊親王の和歌近習の一人として関東歌壇で活躍し、晩年の為家とも交渉を持った。『続拾遺集』撰進に際して為氏に助力するも不入集となり、それに対する不満を述べた奏状風の歌論書『寂恵法師文』を著す。『新後撰集』以下の勅撰集に九首入集。『人家和歌集』『拾遺風体和歌集』『柳風和歌抄』にも入る。歌論書『寂恵法師歌語』があり、私撰集『滝山集』を撰したという(散佚)。『古今集』『拾遺集』の寂恵書写本が現存する。
-------

という人物ですが、この人の名前が、小川氏が前掲論文において検討された金沢貞顕の、

-------
 いま宮殿よりの古今
 たまはり候ぬ、民部卿入道の
 後家手にて故殿
 御時さたなと候ける
 御ほんにて候なれは、」
 [   ]□ろ□ひ入候、
 順教か申候し者
 [   ]これにて
 さふらひける、いま宮殿への
 御ふみもまいらせ候、
 おほしめしよりて候
 御こゝろさし猶々
 申つくしかたくよろこひ<○以下欠>
-------

という書状に出てきます。
私は、この書状が亀山院と西園寺公衡の関係を解明する手掛かりになるのではないかと思って、去年、あれこれ考えてみたのですが、結局、当初の目論見が外れてしまって、何となく尻切れトンボで終わってしまいました。

小川剛生氏「謡曲「六浦」の源流─称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c114810da4f82a93cdff488a3efd2c68
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b529b1034f9df20d6339295cb6f4f83
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0ad54e8c0bebb8b858876e5d68615b37
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f7efa41e35a18cbef1bb5a4ab3a3f5e
三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(その1)~(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e235763b3aded0df6b114f6ce205a2a
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b7d42f4671ac8180f4c986faac56b1d1

私は「いま宮殿」が恒明親王だという小川氏の見解に従って、それを前提にあれこれ考えていたので、今回の発表の中で小川氏が、「いま宮殿」を恒明親王に比定して良いか「一抹の不安」がある、と言われたのを聞いてドキッとしました。
そこで、質疑応答の中でどのような意味かをお聞きしてみたのですが、それは寂恵とは関係なく、恒明親王が僅か三歳という、一番基本的な部分への「一抹の不安」とのことでした。
ただ、そうかといって「いま宮殿」に該当するような人物は恒明親王以外になかなか思い浮かびませんし、恒明親王であれば、実際には西園寺公衡が全てを取り仕切っている訳で、特に問題はないように感じました。
発表内容の詳細については、間もなく小川氏がきちんと論文にまとめられるでしょうから、私が断片的に紹介するのは控えますが、いろんな面で勉強になりました。
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宥勝寺の「荘小太郎頼家供養塔」と「廣松渉之墓」

2023-12-08 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
私の陰気な趣味のひとつに掃苔、といっても中世人の墓参りがあるのですが、今年の二月、「笑う埴輪」の展示で有名な「本庄早稲田の杜ミュージアム」に行ったとき、そういえば近くの宥勝寺に児玉党の「荘小太郎頼家供養塔」があったなと思って寄ってみました。

「本庄早稲田の杜ミュージアム」
https://www.hwmm.jp/
「荘小太郎頼家供養塔」(『四季・めぐりめぐりて』ブログ内)
https://blog.goo.ne.jp/ihcirot/e/baa46949282171fb870a79c2260ed8a0

この供養塔の前に置かれた説明板には、

-------
  荘小太郎頼家の墓
         所在地 本庄市栗崎一五五
 荘小太郎頼家は、児玉党の祖遠峰惟行より五代宗家を継ぎ、平家物語によると一ノ谷の合戦(一一八四)で源氏に従い平重衡を生捕った家長の嗣子である。
 家長は軍功を立てたが、頼家は戦死してしまった。夫人妙清禅尼は、夫の冥福を祈るため建仁二年(一二〇二)宥勝寺を建立したと伝えられる。墓は五輪塔で、本堂西北の墓地内にある。
 児玉郡内に多く分布する児玉党支族の真下、四方田、蛭川、今井、富田その他の各氏等は九郷用水水系に住んでいたという。
 また、荘小太郎頼家の墓は、昭和三十八年県指定の文化財となっている。
         昭和六十一年三月
                 埼玉県
                 本庄市
-------

とありましたが、雉岡論文の末尾の「児玉党略系図と三人の「庄四郎」」を見ると、「(庄太郎)家長」の父「(庄権守)弘高」と「(庄四郎)家定(左兵衛尉)」の父「庄三郎忠家」が兄弟で、家長と家定は従兄弟の関係ですね。


ま、訪問時にはそこまでの知識もなく、また、供養塔はずいぶん小さくて造形的にも平凡なものに思えたので、無駄足だったなと思って帰りかけたところ、近くに「廣松渉之墓」とだけ書かれて戒名も何もなく、周囲から浮いた感じの墓があることに気づきました。
廣松渉は「新左翼」(という言葉も古語?)の哲学者で、そんな人の墓が埼玉の田舎の真言宗智山派の寺にあるというのも妙な感じなので、同姓同名なのだろうか、と思いましたが、墓石の裏に回ってみると、没年も哲学者の廣松に近いような感じがして、不可解な思いを抱きつつ帰宅しました。
そして、自宅に戻ってあれこれ検索してみたところ、宥勝寺の住職が東大哲学科卒で、廣松と同世代であり、廣松と共著も出していることが分かりました。

廣松渉(1933-94)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%A3%E6%9D%BE%E6%B8%89

最近、宥勝寺のサイトを見たら、「宥勝寺だより」の最新版、「2023秋彼岸号.pdf」に廣松渉のことが出ていました。

-------
 今年は特別に暑い夏で、聞けば十月まで平年より暑い陽気が続くそうで、秋彼岸になっても暑いままなのかと思うと少々げんなりする今日この頃ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
 さて当山宥勝寺は児玉党旗頭、庄小太郎頼家の墓所として開山したことはご存知かと思いますが、ここで一つ当山に墓所がある、とある有名人についてお話をさせて頂こうと思います。
 日本の代表的な哲学者であり、東京大学名誉教授の廣松渉先生。西洋哲学の碩学であり、日本の現代思想の旗手として没後三十年を経ても、その高い評価とともに、多くの著名人に影響を与えた人物です。
 廣松先生は当山住職と東京大学文学部哲学科在学中の学友でございまして、先生は西洋哲学、そして当山住職は印度哲学と分野は違いますが、卒業後も縁があり、昭和五十四年には仏教と西洋哲学という枠組みでの対談本『仏教と事的世界観』を共著で出版しております。
 その後長らくお付き合いが続きましたが、残念なことに平成六年に行年六十一歳にてご逝去されてしまい、生前のご縁から当山に墓地を取り今では新墓地と旧墓地の南端に埋葬されております。
 今年になり生誕九十年を記念して、生前の著作が復刻される流れとなり、住職との対談本も復刊される運びとなりまして、八月十五日に作品社より出版されました。右QRコードよりアマゾンの購入サイトへアクセスできますので、もし興味のある方は是非お手にとって頂ければ幸甚です。【後略】

https://sites.google.com/view/yushoji

廣松が東大教養学部の助教授だった頃、私は廣松の哲学史の講義を聴講したことがあり、若かりし廣松の颯爽たる姿を記憶しているので、六十一歳で逝去というのはずいぶん早いなあ、などと改めて多少の感懐を覚えました。
自分のブログで「廣松渉」を検索してみたら、東島誠や斎藤幸平の話題の際に何度か名前を挙げていましたね。

樋口陽一と廣松渉
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cb2d5588014471bf79fe5deb5ef86396
マルクスの青い鳥
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0538ac45b7dc4a14628bb3f552a56496
マルクスの青い鳥(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/528e2c3ee75efff95a402193dc3f04b6
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雉岡恵一氏「児玉党庄氏の承久の乱での立場とその後の在京人・西遷御家人としての政治的活動」(その3)

2023-12-08 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
長村祥知氏の「承久の乱と歴史叙述」(松尾葦江編『軍記物語講座第一巻 武者の世が始まる』所収、花鳥社、2020)によれば、「前田家本は、室町幕府を開創した足利氏の周辺で成立したという理解が有力」で、流布本との関係については、

 A 共通の祖本を想定する兄弟関係・従兄弟関係とする説
 B 一方から他方が成立した親子関係とする説

があり、更に後者には、

 ①前田家本→流布本
 ②流布本→前田家本

という説があって、以前は長村氏もBの②、即ち流布本が先行し、前田家本は流布本を改変したとの立場であったものの、近年、原田敦史氏(東京女子大学教授、1978生)がB説を批判し、「共通祖本から枝分かれした兄弟関係」説を主張され、長村氏も「原田氏の論は説得力が高く、基本的には妥当な見解」(p216)と考えるようになったのだそうです。

https://www.twcu.ac.jp/main/academics/sas/teacherlist/harada.html

原田氏の『承久記』に関する論文のうち、「前田家本『承久記』論」(『日本文学』119号、2023)は国会図書館サイトからのリンクでPDFで読めるので、私もざっと読んでみましたが、慈光寺本が「最古態本」との前提の下、西島三千代説の延長での議論なので、私はあまり感心しませんでした。

「前田家本『承久記』論」
https://iss.ndl.go.jp/books/R000000025-I008765572-00

ただ、「かつて前田家本は流布本を改作したものだといわれたことがあったが、それが成り立たないことは論理的にも実例の上からも明白」(p20)であることを論証されたらしい原田氏の論文は未読なので、それを見てから、必要に応じて検討したいと思います。
私には、「木造の人丸」ひとつとっても「前田家本は流布本を改作したもの」であることは自明に思われるので、原田氏の「論理的にも」云々は非常に奇妙な議論のように感じます。
ま、それはともかく、原田氏のような立場もあるので、流布本と前田家本で内容的に重複する記事に関し、論点に応じていずれを選んでも良いのかもしれませんが、しかし、雉岡氏が「庄四郎」については流布本、「藤四郎入道」については前田家本と使い分けるのは一貫性を欠く態度のように思われます。
前田家本にも流布本の「庄四郎」に対応する記事はありますが、それは、

-------
一院仰けるは、「義時が為命をすつる者東国にいかほどか有なんずか。朝敵と成て後何ほどの事有へき」ととはせ給ひけれは、庭上ニなみ居たる兵ども推量候ニ幾クか候べきと申上る中に、城四郎兵衛なにがしと云者進み出て申けるは、「色代申させ給ふ人々かな。あやしの者うたれ候だにも命すつるもの五十人百人は有ならひにて候。まして代々将軍の後見日本国副将軍にて候時政義時父子二代の間、おほやけ様の御恩と申、私の志をあたふることいく千万か候らん。就中、元久畠山をうたれ建保ニ三浦を滅しゝより以来、義時が権威いよ/\重してなびかぬ草木もなし。此人々の為ニ命を捨ル者ニ三万は候はんずらむ。家定も東国にだに候はゝ義時が恩を見たる者にて候へば死なんずるにこそ」と申せば御気色あしかりけれ共、後ニハ色代なき兵也と思召合られけり。
-------

というものです。(日下力・田中尚子・羽原彩編『前田家本承久記』、汲古書院、2004、p232以下。ただし、原文は読みづらいので、私意で句読点と括弧を付加)
これと流布本を比較すると、

(1)登場人物は「兒玉の庄四郎兵衛尉」ではなく「城四郎兵衛なにがし」。ただし、「家定」は共通。
(2)三浦胤義の「朝敵となり候ては、誰かは一人も相随可候。推量仕候に、千人計には過候はじ」という具体的は発言が消えている。
(3)「平家追討以来、権大夫の重恩」が「代々将軍の後見日本国副将軍にて候時政義時父子二代の間おほやけ様の御恩」と大袈裟な表現となっており、更に「私の志をあたふることいく千万か候らん」も付加。
(4)「就中、元久畠山をうたれ建保ニ三浦を滅しゝより以来、義時が権威いよ/\重してなびかぬ草木もなし」が付加されている。
(5)「如何なる事も有ば、奉公を仕ばやと思者社多候へ。只千人候べきか。如何に少しと申共、万人には、よも劣り候はじ」が「此人々の為ニ命を捨ル者ニ三万は候はんずらむ」と増加。

という具合に、全体的に詳しく、というか少々くどい表現になっていますね。
ただ、前田家本では「城四郎兵衛なにがし」が三浦胤義を直接批判する形にはなっていないので、「庄四郎」(ないしその縁者)と「藤四郎入道」を同一人物に比定する雉岡氏の立場にとっては前田家本の方が都合が良さそうです。
しかし、何といっても登場人物が「城四郎兵衛なにがし」ですから、「庄」と「城」で音は通じるものの、前田家本の引用は躊躇されたのでしょうね。
以上、前田家本との関係で細かなことを言ってしまいましたが、私は雉岡論文の「三 承久の乱直後の備前国の動向と庄氏」以降は非常に高く評価できるものと考えます。
雉岡氏が紹介された史料で、承久の乱後に「庄四郎」が実在することが明らかになりましたが、これは流布本に描かれた「兒玉の庄四郎兵衛尉」と同一人物と考えてよさそうです。
従って、私は「彼は無駄死を恐れ、幕府方に逃亡したのではないだろうか」(p3)との雉岡氏の見解に賛成します。

https://www.city.honjo.lg.jp/material/files/group/28/2-kijioka.pdf
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雉岡恵一氏「児玉党庄氏の承久の乱での立場とその後の在京人・西遷御家人としての政治的活動」(その2)

2023-12-07 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
私は前田家本にはあまり言及していませんが、前田家本は足利氏に関する記述が多く、室町幕府の成立後、流布本を改変したものであることが明らかです。
慈光寺本が「最古態本」だとする通説的見解に対し、私は「原流布本」が慈光寺本に先行すると考えていますが、いずれにせよ前田家本は相対的に新しい本なので、流布本と重複する記事については前田家本を参照する意味はあまりないと考えます。
さて、雉岡氏が、

-------
 そこで、この藤四郎入道(三浦胤義の昔の郎等)を前述した庄四郎(家定)、あるいはその縁者(ちなみに家定の叔父の高家は七党系図によれば承久二年十月十七日に出家している)に比定したい。


とされる理由を見て行きます。(p4)

-------
 その理由として、一つは、すでに平安時代末に児玉経行の娘で、秩父重綱の妻となった女性が、永治元年(一一四一)に三浦義明の娘を母に生まれた源義平の乳母となって鎌倉に出仕し、「乳母御前」と呼ばれていた。つまり、十二世紀前半には児玉党や秩父氏が相模国の三浦氏と連繋していたのである。もう一つは、弘安六年(一二八三)から同八年にかけて、備中庄氏は同国小坂庄の地頭として「庄藤四郎入道行信」と名のっている。つまり、庄氏は藤原姓にもとづく藤四郎入道を名のっていた可能性がある。
-------

うーむ。
ここに挙げられた二つが何故に、

 「藤四郎入道」=庄四郎(家定)or 縁者

の理由となるのか、私には理解できません。
児玉党庄氏の本姓が藤原だとしても、それは庄四郎(家定)と「藤四郎入道」がともに藤原姓だというだけの話です。
ここで流布本で、「藤四郎入道(頼信)」の登場場面を確認してみると、先ず、

-------
 さて胤義、太秦にある幼稚の者共、今一度見んとて、父子二人と人丸三人、下簾懸たる女車に乗具して、太秦へ行けるが、子の嶋と云ふ社の前を過けるに、敵充満たりと云ければ、日を暮さんとて、社の中に父子隠れ居たり。人丸をば車に乗て置ぬ。去程に古へ判官の郎従なりし藤四郎頼信とて有しが、事の縁有て家を出、高野に有けるが、都に軍有と聞て、判官被討てか御座す覧、尸をも取て孝養せんとて、京へ出て、東山を尋けるに、太秦の方へと聞て尋行程に、子の嶋の社を過けるに、「あれ如何に」と云声を聞けば、我主也。是は如何にと思て、入て見れば、判官父子居給へり。「如何に」と申せば、「軍破れて落行が、太秦にある幼稚の者共を、今一度見るかと思て行程に、敵充満たる由聞ゆる間、日の暮を待ぞ」と云へば、藤四郎頼信入道、「日暮て、よも叶ひ候はじ、天野左衛門が手の者満々て候へば」と申ければ、太郎兵衛、「今は角ぞ、自害可仕也。頼信入道よ、(汝うづまさに参て)母に申んずる様は、『今一度見進らせ候はんとて参候が、(敵、路次に満て)叶間敷候程に、御供に先立、自害仕候。次郎兵衛胤連は高井太郎時義に被懸隔て、東山の方へ落行候つるが、被討て候哉覧、自害仕て候哉らん、行衛も不知候。去年春の除目に、兄弟一度に兵衛尉に成て候へしかば、世に嬉し気に被思召て、哀命存へて是等が受領・検非違使にも成たらんを、見ばやと仰候しに、今一度悦ばせ進らせ候はで、先立進らせ候こそ口惜く覚候へ』と申せ」とて、念仏申、腹掻切て臥ぬ。未足の動らきければ、父判官、是を押へて静に終らせて、「首をば太秦の人に今一度見せて、後には駿河守殿に奉り、云はん様は、『一家を皆失ふて、一人世に御座こそ目出度候へ』と申」とて、西に向十念唱へ、腹掻切て臥ぬ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dabce5398462e9aa0f6732cf70330845

ということで、「古へ判官の郎従なりし藤四郎頼信」は、「事の縁有て家を出、高野に」いたそうですが、「都に軍有と聞て、判官被討てか御座す覧、尸をも取て孝養せんとて」都に出ます。
そして、「判官父子」に出会った「藤四郎頼信入道」は、周辺には「天野左衛門が手の者満々て」いて、太秦まで行くのは困難であることを伝えます。
すると、「太郎兵衛」は自害を決意し、太秦の「母」への伝言を「頼信入道」に託して自害、ついで「父判官」も「首をば太秦の人に今一度見せて、後には駿河守殿に奉り、云はん様は、『一家を皆失ふて、一人世に御座こそ目出度候へ』と申」と「頼信入道」に命じてから自害します。
流布本では「判官父子」は自発的に自害しており、前田家本のように「藤四郎入道」が自害を説得する場面はありません。
さて、この場面から明らかなように「藤四郎頼信入道」は相当以前に出家して高野に滞在しており、承久の乱が勃発してから「宮方の中心人物である後鳥羽院や三浦胤義とも対等に話ができた」(p3)はずがありません。
特に、「古へ判官の郎従なりし藤四郎頼信」が、後鳥羽院の面前で胤義を批判するはずがありません。
従って、

 「藤四郎入道」=庄四郎(家定)

の可能性は皆無ですね。
では、

 「藤四郎入道」=庄四郎(家定)の縁者(特に「承久二年十月十七日に出家している」「家定の叔父の高家」)

の可能性はどうか。
まあ、こちらは「家定の叔父の高家」を含め、家定の周辺に、三浦胤義に長く仕えたか、あるいは出家後に高野にいたような人物がいた証拠があればともかく、普通に考えれば無理筋ですね。
流布本の「兒玉の庄四郎兵衛尉(家定)」と「藤四郎頼信入道」はいずれも非常に強い印象を与える人物であり、私も以前から、もしかしたら流布本作者はこの二人から直接に話を聞いているのではなかろうか、などと思っているのですが、二人が同一人物ないし縁者との可能性は考えたこともありませんでした。
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雉岡恵一氏「児玉党庄氏の承久の乱での立場とその後の在京人・西遷御家人としての政治的活動」(その1)

2023-12-06 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
流布本の「兒玉の庄四郎兵衛尉(家定)」のエピソードは以前から気になっていたのですが、あまり参考になりそうな文献を見つけることができずにいたところ、今日、雉岡恵一氏の「児玉党庄氏の承久の乱での立場とその後の在京人・西遷御家人としての政治的活動-執権政治の確立期における北武蔵御家人の在京活動と関連させて-」(『本庄早稲田の杜ミュージアム 調査研究報告』第2号、2023)という論文がネットで読めることに気づきました。

https://www.hwmm.jp/publications/kenkyu_houkoku_vol2/

雉岡氏は「本庄市文化財保護審議会委員」で、「付記」には「本稿は令和元年度、放送大学大学院に提出した修士論文の一部に加筆し、補訂を加えたものである。作成にあたっては、放送大学教授近藤成一先生から懇切な御指導を賜った」とありますね。
この論文の全体の構成は、

-------
はじめに
一 承久の乱以前の児玉党及び庄氏の在京活動
二 承久の乱における庄四郎と児玉党
三 承久の乱直後の備前国の動向と庄氏
四 執権北条泰時の権力確立と児玉党四方田氏・庄氏
五 北条泰時と在京人庄四郎
おわりに
-------

となっていますが、第二節に、

-------
【前略】それでは、まず京方(後鳥羽院側)に属していた庄四郎家定の特異な動きについて述べよう。彼の出自は『七党系図』によれば、庄三郎忠家の四男で左兵衛尉家定とされ、一ノ谷の戦いの平重衡生け捕りの勲功や藤原友実の殺害事件の当事者であった庄四郎高家とは別人とされる。
-------

とあって(p3)、この後、流布本のエピソードが紹介されています。
そして、

-------
ここで注目しておきたいのは庄四郎は、地方出身の一武士にすぎないが長い在京経験により、宮方の中心人物である後鳥羽院や三浦胤義とも対等に話ができたことである。しかし、その後の庄四郎の記録は見あたらない。彼は無駄死を恐れ、幕府方に逃亡したのではないだろうか。
-------

とあります。
ま、正確には「後鳥羽院や三浦胤義とも対等に話ができた」と流布本に描かれているだけですが、戦時には身分秩序の混乱は生じるでしょうから、流布本のような場面が実際にあったとしても不思議ではないですね。
それはともかく、続きを見ると、

-------
 次に幕府方の児玉党と宮方の尾張国住人山田重忠との戦いについて記そう。それは『承久記、慈光寺本、下』の記事である。要約すれば、同年六月八日、宮方の主力山田次郎重忠(重定)と小玉党三千騎が戦い、山田軍を退けたという。その児玉党の中心人物は児玉與一であった。このことを裏付ける史料として室町時代の公家中原師守の日記『師守記』貞治三年(一三六四)七月五日の条に「(児玉党)真下(氏)が尾張国山田庄に在国した」ことが記されている。
-------

とのことですが、雉岡氏はそもそも慈光寺本の「小玉党三千騎」エピソードを史実だと考えておられるのでしょうか。
私には宇治河合戦の「埋め草」として置かれている「小玉党三千騎」エピソードが史実とは思えないのですが、仮に史実だとしても、それを「裏付ける史料として」「『師守記』貞治三年(一三六四)七月五日の条」が出て来る理由が分かりません。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その52)─「小玉党三千騎ニテ寄タリケリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/707b870911ddacde83650b8458368cb6
宇治川合戦の「欠落説」は成り立つのか。(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a1a09b7880933a681cfc1707a0aa140
盛り付け上手な青山幹哉氏(その2)~(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ddb79082206b07a41b9c10cae3a4954d
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d2f8221aa36d7a0cc50a54c22b941c7d

さて、続いて雉岡氏は、

-------
 一方、宮方の中心武将で敗者となった三浦胤義と山田重忠は壮絶な最期をとげた。そこで特に注目したいのは三浦胤義の最後の場面である。宮方敗戦の中で『承久記 前田家本』に藤四郎入道という興味深い人物が登場する。その内容について、松林靖明氏は的確な解説をしておられる。要約すると、敗軍の将となった三浦胤義は、後鳥羽院に門前払いを受け、東寺に籠り戦うが敗れ、さらに東山から妻子のいる太秦へ向かう。しかし、敵が多く、木島神社の境内に「車の傍に立て、女のよしにて木造の人丸を」載せて隠れた。そこへ胤義の昔の郎等、藤四郎入道が通りかかり、敵が充満していることや汚名を残すべきでないことを説いて自害を勧めた。具体的には、藤四郎入道は、「高野にこもりたるが、軍をも見、主の行衛をみんと」上京し、偶然胤義父子に出会う。西山にいる妻子に一目会いたという胤義に、「妻子のことを心にかけて、女車にて落行を、車より引出されて討たれたるといはれ給はんこそ、口おしく候へ。昔より三浦一門に疵やは候。入道知識申べし。此社にて御自害候へかし」と説得し、胤義もこれに従ったという。
 そこで、この藤四郎入道(三浦胤義の昔の郎等)を前述した庄四郎(家定)、あるいはその縁者(ちなみに家定の叔父の高家は七党系図によれば承久二年十月十七日に出家している)に比定したい。
-------

と書かれますが、ここは飛躍がありすぎるように感じます。
まず、雉岡氏は何故に前田家本を用いられるのか。
流布本にほぼ同じエピソードがあるにもかかわらず、わざわざ流布本に遅れる前田家本を使う理由が私には分かりません。
また、雉岡氏は「木造の人丸」を変に思われなかったのか。
流布本では、

--------
 平九郎判官、(所々にて)散々戦程に、郎等・乗違或は落、或は被討て、子息太郎と父子二騎に成て、(今はかなはじとて)東山なる所、故畠山六郎最後に、人丸と云者の許へ行て、馬より下て入たり。疲れて見へければ、干飯を洗はせ、酒取出て進めたり。暫く爰に休息して、判官、鬢の髪切て九に裹分て、「一をば屋部の尼上に奉る。一をば太秦の女房に伝へ給へ。六をば六人の子共に一宛取すべし。今一をばわ御前をきて、見ん度に念仏申て訪ひ給へ」とて取すれば、人丸泣々是を取、心の中こそ哀なれ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dabce5398462e9aa0f6732cf70330845

と「人丸」は「故畠山六郎」ゆかりの女性であって、事実かどうかはさておき、ストーリーに不自然さはありません。
しかし、前田家本では、

-------
胤義は東山にて自害せんと思ひつるが便宜あしかりければ太秦に小児あり其をかくし置ける所へ落行かさきには又大勢入乱るゝと申ければ是ニ隠れ居て日をくらし太秦に向はんと此島と云社の内ニかくれゐて車の傍に立て女車のよしにて木造の人丸をぞのせたりける【後略】
-------

とあって(日下力・田中尚子・羽原彩編『前田家本承久記』、汲古書院、2004、p274)、「木造の人丸」は意味不明です。
前田家本は流布本を簡略化している部分が多いのですが、ここは圧縮しすぎて訳が分からない文章になってしまっていますね。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その72)─「たとえ多くの恩賞を受けずとも、この相論に関しては承服できません」(by 芝田兼義)

2023-12-05 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
幕府側で参戦した人々は、いったい何のために戦ったのか。
考え方としては、参戦者の幕府における地位を区分し、類型的に検討する方が良さそうです。
例えば、

(1)最前線で戦う一般御家人
(2)大将軍から戦場での采配を任された指揮官クラス
(3)大将軍
(4)幕府中枢

と四段階に区分した場合、(1)の最前線で戦う一般御家人には、長村祥知氏が言われるように「所領獲得の論理」で動いている人もけっこういると思います。
よっしゃ、千載一遇のチャンスだ、ここで頑張って実入りの良い荘園の地頭になるぞ、という人々ですね。
市河六郎宛ての承久三年六月六日「北条義時袖判御教書」は、義時も一般御家人が「所領獲得の論理」で動くだろうと考えていることを示しています。
ただ、先に紹介したように、流布本で北条泰時が宇治橋での戦闘を止めさせた場面では、長村氏の言われる「所領獲得の論理」が、「軍功を挙げんと逸る武士の思考」としてではなく、逆に戦闘行為を止めさせようとする大将軍側の論理として登場しています。
宇治橋合戦の発端の場面では、参戦者は北条泰時の代理人である平盛綱から、お前たちは「所領獲得の論理」で戦うべきなのに何をやっているのか、冷静になれ、と諭されて、やっと、そういえばそうだった、冷静になろうと反省した訳ですね。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その69)─「私的利益を追求する個の集合体」(by 長村祥知氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/37a21c707e7a3abf2257dc87644d73ae

では、この場面で参戦者を突き動かしていたのはいったい如何なる「論理」ないし感情だったのか。
私は、生死を懸けた極限状況で武士を突き動かすのは、経済的利益よりもむしろ名誉感情なのではないかと思います。
あいつは凄い奴だ、立派な武士だ、と思われたいという感情ですね。
名誉感情を経済的利益に優先した典型としては、宇治川先陣を佐々木信綱と争った芝田兼義の例を挙げることができます。
『吾妻鏡』承久三年六月十七日条には、

-------
於六波羅。勇士等勲功事。糺明其浅深。而渡河之先登事。信綱与兼義相論之。於両国司前及対決。信綱申云。謂先登詮者入敵陣之時事。打入馬於河之時。芝田雖聊先立。乗馬中矢。着岸之尅。不見来云々。兼義云。佐々木越河事。偏依兼義引導也。景迹為不知案内。争進先登乎者。難决之間。尋春日刑部三郎貞幸。々々以起請述事由。其状云。
【中略】
武州一見此状之後。猶問傍人之処。所報又以符合之間。招兼義誘云。諍論不可然。只以貞幸等口状之融。欲註進関東。然者。於賞者定可為如所存歟者。兼義云。雖不預縱万賞。至此論者。不可承伏云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあり、渡河の先陣について佐々木信綱と芝田兼義が相論し、「両国司」(北条時房・泰時)の前で対決します。
泰時は二人の言い分を聞いた後、春日貞幸に証言を求めます。
そして、

-------
武州(北条泰時)はこの文書を一見した後、さらに側にいた者に尋ねたところ、答えもまた一致していたので、兼義を呼んで勧めて言った。「言い争うのは良くない。ただ貞幸らが申した通りに関東へ注進しようと思っているので、勲功の恩賞については、きっと思い通りになるだろう」。兼義が言った。「たとえ多くの恩賞を受けずとも、この相論に関しては承服できません」。
-------

とのことで(『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』、p123)、先陣争いについては兼義の言い分は認めないが、勲功の恩賞はたっぷり上げるので我慢しろ、と泰時は提案しますが、兼義はこれを断固拒否します。
兼義が何故に「所領獲得の論理」で動かないかというと、それは宇治川先陣は自分なのだ、という名誉感情が優先されているからですね。
この後、芝田兼義は『吾妻鏡』から姿を消し、他の史料からも兼義が承久の乱後にどのような生涯を送ったのかは不明ですが、多大な恩賞を受けていれば所領関係の史料も多少は残ったでしょうから、まあ、意地を貫いた結果、恩賞もたいして得られなかったようですね。
さて、流布本には、一般御家人が参戦した理由について、もう一つ興味深いエピソードがあります。
それは、京都守護・伊賀光季が討たれた後、後鳥羽院が、関東では義時と一緒に死ぬ覚悟のある人間はどれくらいいるのか、と尋ねた場面です。(『新訂承久記』、p69以下)

-------
 抑一院尋ね被下けるは、「当時関東に、義時と一所にて可死者は何程かある」。胤義申けるは、「朝敵となり候ては、誰かは一人も相随可候。推量仕候に、千人計には過候はじ」と申ければ、兒玉の庄四郎兵衛尉、「あはれ判官殿は、僻事を被申候物哉。只千人しも可候歟。平家追討以来、権大夫の重恩を蒙り、如何なる事も有ば、奉公を仕ばやと思者社多候へ。只千人候べきか。如何に少しと申共、万人には、よも劣り候はじ。角申す家定程の者も、関東にだに候はゞ、義時が方に社候はんずれ」と申ければ、一院真に御気色悪げなる体にて、奇怪に申者哉と被思召ける。後にぞ能申たりけると被思召合ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c74e61eb721e04c0363e74362b47319e

後鳥羽院が「関東で義時と一所に死ぬ覚悟がある武士は何人くらいいるのか」と下問すると、三浦胤義は「朝敵となった以上、味方をする者は千人に満たないでしょう」と答えます。
これを聞いた「兒玉の庄四郎兵衛尉(家定)」は、「そんなに少ないはずがない、源平合戦以来、義時(権大夫)の恩顧を蒙り、何事があろうと義時のために奉公すると決意している者は大勢いる、千人どころか、どんなに少なくとも万人はいるだろう、自分だって関東にいれば義時のために戦う」と反論したので、後鳥羽院の機嫌は悪くなったが、敗北後、あの者はよくぞ申したなと感心した、ということですが、このエピソードは一般御家人の義時への感情を反映しているのか。
この点、次の投稿で検討したいと思います。
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