学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

慈光寺本において、その出自の説明がある人々(その1)

2023-10-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
藤原能茂が後鳥羽院の発言の中で、「彼堂別当ガ子伊王左衛門能茂、幼ヨリ召ツケ、不便に思食レツル者ナリ」(岩波新大系、p353)と紹介されている点が改めて気になって、慈光寺本の中で、こうした出自の説明がある人を探してみたところ、歴代天皇や「鎌倉殿」(源氏三代と藤原頼経)を除くと、意外に少ないですね。
上巻では、亀菊の父「刑部丞」の名前が記されますが(p305)、「刑部丞」もそれなりの役割を果たす登場人物なので、亀菊との関係が出て来るのは当然です。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その11)─亀菊と長江荘
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/631429bc62ffdd914e89bfb7e34289f8

また、藤原秀康と三浦胤義の密談の中で、胤義の発言として「胤義ハ先祖ノ三浦・鎌倉振捨テ」云々とありますが(p308)、別に先祖が誰々と出て来る訳ではなく、兄・義村との関係が描かれるだけです。
北条義時も、この胤義の発言の中で「遠江守時政」の子であることが触れられていますが、それだけです。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その13)─三浦胤義の義時追討計画
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1787ddf4512e00a2bb9842534060ed8

伊賀光季の子の「寿王」もそれなりに活躍するので、父子関係が明示されるのは当然であり、こうしたケースを除くと、出自の説明がある最初の場面は下巻の尾張川合戦まで下ります。
即ち、「蜂屋三郎」が、

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「武田六郎ト見奉ルハ僻事〔ひがごと〕カ。我ヲバ誰トカ御覧ズル。六孫王〔ろくそんわう〕ノ末葉〔ばつえふ〕蜂屋入道ガ子息、蜂屋三郎トハ我事也。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6c177738dbf090231fb23c268f79a2a

と言う場面で(p343)、合戦での名乗りです。
続いて三浦胤義について、

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 大豆戸ノ渡リ固メタル能登守秀康・平判官胤義カケ出テ戦フタリ。平判官申ケルハ、「我ヲバ誰トカ御覧ズル。駿河守ガ舎弟胤義、平判官トハ我ゾカシ」トテ、向フ敵廿三騎ゾ、射流シケル。待請々々、多ノ敵討取テ、終ニハシラミテ落ニケリ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7021955297ccf088bb416d9d28489e2

とありますが(p345)、ここも「駿河守」(三浦義村)の「舎弟」と言っているだけです。
そして、渡辺翔の場合は、

-------
 上瀬〔かみのせ〕ニオハスル重原・翔〔かける〕左衛門、戦ケリ。翔左衛門申サレケルハ、「坂東方ノ殿原、我ヲバ誰トカ御覧ズル。我コソハ、王城〔わうじやう〕ヨリハ西、摂津国十四郡其中〔そのなか〕ニ、渡辺党、身ハ千騎ト聞〔きこえ〕アル其中ニ、愛王左衛門〔あいわうざゑもん〕翔トハ我事ナリ」トゾ名ノリケル。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a05d022a8a0fcad9bd7aa4921b2de8b0

とあり(p347)、蜂屋三郎・三浦胤義よりかなり長い説明です。
ついで山田重忠(慈光寺本では「重貞(定)」)の場合、杭瀬河合戦において、

-------
山田殿申サレケルハ、「殿原、聞給ヘ。我ヲバ誰トカ御覧ズル。美濃ト尾張トノ堺ニ、六孫王ノ末葉〔ばつえふ〕、山田次郎重定トハ我事ナリ」トテ、散々ニ切テ出、火出ル程ニ戦レケレバ、小玉党ガ勢百余騎ハ、ヤニハニ討レニケリ。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f89c9389b294c391d513d8879d32434a

とあります。(p348)
「蜂屋三郎」と同じく、「六孫王ノ末葉」が強調されていますね。
さて、渡辺翔の名乗りはもう一度出てきます。
即ち、山田重忠・三浦胤義とともに後鳥羽院への敗戦報告後、

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翔左衛門打向〔うちむかひ〕、「殿原、聞給ヘ。我ヲバ誰トカ御覧ズル。王城ヨリハ西、摂津国十四郡ガ中ニ、渡辺党ハ身ノキハ千騎ガ其中〔そのなか〕ニ、西面衆〔さいめんのしゆう〕愛王左衛門翔トハ、我事ナリ」ト名対面〔なだいめん〕シテ戦ケルガ、十余騎ハ討トラレテ、我勢モ皆落ニケレバ、翔ノ左衛門ニ大江山ヘゾ落ニケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bd430ee4bfd4308d15a9a66252b9c682

とあって(p350)、こちらもかなり詳細な上に、「西面衆」という新たな情報が付加されています。
そして、山田重忠にも二度目の名乗りがあり、


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 紀内〔きない〕殿、打テ出タリ。山田殿カケ出申サレケルハ、「我ヲバ誰トカ御覧ズル。尾張国住人山田小二郎重貞ゾ」トナノリテ、手ノ際〔きは〕戦ケル。敵十五騎討取、我身ノ勢モ多〔おほく〕討レニケレバ、嵯峨般若寺ヘゾ落ニケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e19d58a3e31ad3b612ce848bfe020d1a

とあって(同)、こちらは「美濃ト尾張トノ堺ニ、六孫王ノ末葉」が「尾張国住人」に、「山田次郎重定」が「山田小二郎重貞」となっています。
ま、そうした細かな違いはありますが、合戦での名乗りが二回も出て来るのは渡辺翔と山田重忠の二人だけですね。
名乗りは一回だけの三浦胤義の場合、兄・義村への呼びかけとして、

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「アレハ、駿河殿ノオハスルカ。ソニテマシマサバ、我ヲバ誰カト御覧ズル。平九郎判官胤義ナリ。サテモ鎌倉ニテ世ニモ有ベカリシニ、和殿ノウラメシク当リ給シ口惜〔くちをし〕サニ、都ニ登リ、院ニメサレテ謀反オコシテ候ナリ。和殿ヲ頼ンデ、此度〔このたび〕申合文〔まうしあはせぶみ〕一紙ヲモ下シケル。胤義、オモヘバ口惜ヤ。現在、和殿ハ権太夫ガ方人〔かたうど〕ニテ、和田左衛門ガ媒〔なかだち〕シテ、伯父ヲ失〔うしなふ〕程ノ人ヲ、今唯、人ガマシク、アレニテ自害セント思〔おもひ〕ツレドモ、和殿ニ現参〔げんざん〕セントテ参テ候ナリ」


とあり(p351)、「駿河守ガ舎弟胤義、平判官」よりは相当詳しいものの、やはり兄弟の情報だけですね。
以上、蜂屋三郎・渡辺翔・山田重忠・三浦胤義の例と比較しても、藤原能茂の出自情報は極めて特殊ですね。
四人の場合、合戦での名乗りですから、実際に戦場で行われていた慣習をそのまま記録しただけともいえます。
しかし、藤原能茂の場合、合戦での名乗りでもないのに出自が語られ、しかもそれが後鳥羽院の発言の中に出て来るのは何故なのか。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その23)─「長江・倉橋荘の地頭は北条義時その人であった」(by 坂井孝一氏)

2023-10-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
坂井孝一氏の『鎌倉殿と執権北条氏』(NHK出版新書、2021)を見たところ、

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【前略】三月九日、弔問のため鎌倉に下向した勅使藤原忠綱が政子亭で弔意を述べた後、義時亭に移り、摂津国長江荘・倉橋荘に置かれた地頭を改補せよという後鳥羽の院宣を伝えたのである。長江・倉橋荘は神崎川・猪名川が合流する地にあった荘園で、交通の要衝に置かれた地頭職を放棄するように要求したのである。
 幕府とは、鎌倉殿と御家人が「御恩」と「奉公」によって緊密な主従関係を結んだ組織である。地頭職は御家人たちが鎌倉殿から与えられる「御恩」の根幹であり、よほどの罪・咎を犯さない限り没収されることはない。しかも、長江・倉橋荘の地頭は北条義時その人であった。ひょっとすると、後鳥羽は将軍の暗殺を防げなかった執権の責任を追及しよとしたのかもしれない。ただ、暗殺者は公暁である。義時は地頭職改補に値する罪を犯したわけではない。後鳥羽は責任追及を装いながら、義時や幕府首脳部が自分の要求・命令に従うかどうか試そうとしたのだと考える。
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とありました。(p225)
『承久の乱』(中公新書、2018)には「長江・倉橋荘の地頭は北条義時その人であった」との記述はなかったので、メルクマール(1)について、坂井氏は慎重に判断を留保されているものと考えたのですが、単に書き忘れただけのようですね。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その15)─坂井孝一氏の場合
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bfb270109f0db492610372486aa0b9ae

ということで、坂井氏は私が設定した「慈光寺本妄信歴史研究者交名」の採否のメルクマール、

(1)長江庄の地頭が北条義時だと考えるか否か。
(2)慈光寺本の北条義時追討「院宣」を本物と考えるか否か。
(3)武田信光と小笠原長清の密談エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。
(4)後鳥羽院の「逆輿」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。
(5)宇治・瀬田方面への公卿・殿上人の派遣記事と山田重忠の「杭瀬河合戦」エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。

の全てをクリアーされており、パーフェクトな「慈光寺本妄信歴史研究者」ですね。
更に坂井氏は山田重忠の鎌倉攻撃案を史実と考えておられる点で、「妄信」の度合いも別格です。

(その18)─藤原秀澄による山田重忠案の拒絶を史実とされる坂井孝一氏
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b486fa555337df2f32af0a6ee392d603

ま、それはともかく、『鎌倉殿と執権北条氏』には『増鏡』に関する若干の言及があったので引用しておきます。(p250以下)

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 また、南北朝期成立の歴史物語『増鏡』に興味深いエピソードがある。泰時が、もし「君」が御輿で臨幸した場合はどうすればいいかと尋ねると、義時は「正に君の御輿に向ひて弓を引く事は、いかがあらん。さばかりの時は、兜をぬぎ弓の弦を切りて、ひとへに畏まり申して、身を任せ奉るべし」、つまり「君」の御輿に弓を引いてはいけない、兜を脱いで弓の弦を切り、ひとすら恭順の意を示せと指示したというのである。物語作者の創作ではあろうが、先の『吾妻鏡』の記事と合わせれば、当時のリアルな感覚をうかがうことができる。
 要するに、藤原秀澄のような無能な指揮官に任せるのではなく、どこかの段階で後鳥羽地震が戦場近くに出向いていたら、たとえその姿をみせなくとも、院の臨幸という情報という情報だけで鎌倉方をひるませ、京方を勢いづけたことは確実なのである。しかし、武技を好んだとはいえ、後鳥羽は帝王である。自ら戦場に立つ勇気はなかった。
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先の『吾妻鏡』の記事とは、承久三年六月八日条の、

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同日戌刻。鎌倉雷落于右京兆舘之釜殿。疋夫一人為之被侵畢。亭主頗怖畏。招大官令禅門示合云。武州等上洛者。為爲奉傾朝庭也。而今有此怪。若是運命之可縮端歟者。禅門云。君臣運命。皆天地之所掌也。倩案今度次第。其是非宜仰天道之决断。全非怖畏之限。就中此事。於関東為佳例歟。文治五年。故幕下将軍征藤泰衡之時。於奥州軍陣雷落訖。先規雖明故可有卜筮者。親職。泰貞。宣賢等。最吉之由同心占之云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

というものですが、落雷に怯える義時は、幕府の最高指導者としては些か情けない感じです。
ただ、文治五年(1189)当時、「家子専一」、即ち頼朝の親衛隊長のような存在だった二十七歳の義時はもちろん奥州合戦に参加していますが、四十二歳の広元はずっと鎌倉にいました。
奥州合戦の陣中の出来事については義時は直接に経験した立場ですから、その義時に広元があれこれ教えるというのもずいぶん妙な話で、結局、このエピソードがある程度史実を反映しているとしたら、それは精神的に不安定だった義時を、広元が「まあまあ、落ち着いて下さいな。奥州合戦のときも陣中に落雷があったと聞いていますが、結果的には大勝だったではありませんか」と宥めた程度の話ではないか、と思われます。
また、この記事は五月十九日・二十一日条とともに大江広元の偉大さを顕彰するような趣もあり、『吾妻鏡』を執筆した広元子孫の潤色の可能性もあって、私には「当時のリアルな感覚」を反映したものとは思えません。

上杉和彦著『人物叢書 大江広元』(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c5f1aa30870eb0fb2e92841c6967436a
後鳥羽院の配流を誰が決定したのか。(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/937832affdcc2232ad806f192bc2e150

また、『増鏡』屈指の名場面とされる「かしこくも問へる男かな」エピソードは、

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 かくてうち出でぬる又の日、思ひかけぬ程に、泰時ただ一人鞭をあげて馳せ来たり。父、胸うち騒ぎて、「いかに」と問ふに、「戦のあるべきやう、大かたのおきてなどをば仰せの如くその心をえ侍りぬ。もし道のほとりにも、はからざるに、かたじけなく鳳輦を先立てて御旗をあげられ、臨幸の厳重なることも侍らんに参りあへらば、その時の進退はいかが侍るべからん。この一事を尋ね申さんとて一人馳せ侍りき」といふ。義時とばかりうち案じて、「かしこくも問へるをのこかな。その事なり。まさに君の御輿に向ひて弓を引くことはいかがあらん。さばかりの時は、兜をぬぎ、弓の弦を切りて、ひとへにかしこまりを申して、身をまかせ奉るべし。さはあらで、君は都におはしましながら、軍兵を賜はせば、命を捨てて千人が一人になるまでも戦ふべし」と、いひも果てぬに急ぎ立ちにけり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d4146484cdebdcd9701adc3d2ee5105

というものですが、私にはこれも「当時のリアルな感覚」を反映したものではなく、『増鏡』作者が後鳥羽院の戦争指導者としての精神の虚弱さ、勝利に向けた気迫の欠如を非難しているように思われます。
ただ、貴族社会のお約束として、治天の君をあまりに露骨に非難することはできないので、治天の君は「御心乱れ、思しまどふ」程度にとどめ、それ以外の「かねては猛く見えし人々」を非難しているように、『増鏡』作者は後鳥羽院の不甲斐なさを直接非難するのではなく、「かしこくも問へるをのこかな」のエピソードを創作して間接的に非難しているのではないか、というのが私の解釈です。

「巻二 新島守」(その8)─後鳥羽院
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7aa410720e4d53adc19456000f53ea07

なお、『五代帝王物語』にも別バージョンの「かしこくも問へるをのこかな」エピソードがあります。

『五代帝王物語』の「かしこくも問へるをのこかな」エピソード
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d39efd14686f93a1c2b57e7bb858d4c9

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