藤原能茂が後鳥羽院の発言の中で、「彼堂別当ガ子伊王左衛門能茂、幼ヨリ召ツケ、不便に思食レツル者ナリ」(岩波新大系、p353)と紹介されている点が改めて気になって、慈光寺本の中で、こうした出自の説明がある人を探してみたところ、歴代天皇や「鎌倉殿」(源氏三代と藤原頼経)を除くと、意外に少ないですね。
上巻では、亀菊の父「刑部丞」の名前が記されますが(p305)、「刑部丞」もそれなりの役割を果たす登場人物なので、亀菊との関係が出て来るのは当然です。
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その11)─亀菊と長江荘
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/631429bc62ffdd914e89bfb7e34289f8
上巻では、亀菊の父「刑部丞」の名前が記されますが(p305)、「刑部丞」もそれなりの役割を果たす登場人物なので、亀菊との関係が出て来るのは当然です。
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その11)─亀菊と長江荘
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/631429bc62ffdd914e89bfb7e34289f8
また、藤原秀康と三浦胤義の密談の中で、胤義の発言として「胤義ハ先祖ノ三浦・鎌倉振捨テ」云々とありますが(p308)、別に先祖が誰々と出て来る訳ではなく、兄・義村との関係が描かれるだけです。
北条義時も、この胤義の発言の中で「遠江守時政」の子であることが触れられていますが、それだけです。
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その13)─三浦胤義の義時追討計画
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1787ddf4512e00a2bb9842534060ed8
伊賀光季の子の「寿王」もそれなりに活躍するので、父子関係が明示されるのは当然であり、こうしたケースを除くと、出自の説明がある最初の場面は下巻の尾張川合戦まで下ります。
即ち、「蜂屋三郎」が、
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「武田六郎ト見奉ルハ僻事〔ひがごと〕カ。我ヲバ誰トカ御覧ズル。六孫王〔ろくそんわう〕ノ末葉〔ばつえふ〕蜂屋入道ガ子息、蜂屋三郎トハ我事也。【後略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6c177738dbf090231fb23c268f79a2a
と言う場面で(p343)、合戦での名乗りです。
続いて三浦胤義について、
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大豆戸ノ渡リ固メタル能登守秀康・平判官胤義カケ出テ戦フタリ。平判官申ケルハ、「我ヲバ誰トカ御覧ズル。駿河守ガ舎弟胤義、平判官トハ我ゾカシ」トテ、向フ敵廿三騎ゾ、射流シケル。待請々々、多ノ敵討取テ、終ニハシラミテ落ニケリ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7021955297ccf088bb416d9d28489e2
とありますが(p345)、ここも「駿河守」(三浦義村)の「舎弟」と言っているだけです。
そして、渡辺翔の場合は、
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上瀬〔かみのせ〕ニオハスル重原・翔〔かける〕左衛門、戦ケリ。翔左衛門申サレケルハ、「坂東方ノ殿原、我ヲバ誰トカ御覧ズル。我コソハ、王城〔わうじやう〕ヨリハ西、摂津国十四郡其中〔そのなか〕ニ、渡辺党、身ハ千騎ト聞〔きこえ〕アル其中ニ、愛王左衛門〔あいわうざゑもん〕翔トハ我事ナリ」トゾ名ノリケル。【後略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a05d022a8a0fcad9bd7aa4921b2de8b0
とあり(p347)、蜂屋三郎・三浦胤義よりかなり長い説明です。
ついで山田重忠(慈光寺本では「重貞(定)」)の場合、杭瀬河合戦において、
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山田殿申サレケルハ、「殿原、聞給ヘ。我ヲバ誰トカ御覧ズル。美濃ト尾張トノ堺ニ、六孫王ノ末葉〔ばつえふ〕、山田次郎重定トハ我事ナリ」トテ、散々ニ切テ出、火出ル程ニ戦レケレバ、小玉党ガ勢百余騎ハ、ヤニハニ討レニケリ。【後略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f89c9389b294c391d513d8879d32434a
とあります。(p348)
「蜂屋三郎」と同じく、「六孫王ノ末葉」が強調されていますね。
さて、渡辺翔の名乗りはもう一度出てきます。
即ち、山田重忠・三浦胤義とともに後鳥羽院への敗戦報告後、
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翔左衛門打向〔うちむかひ〕、「殿原、聞給ヘ。我ヲバ誰トカ御覧ズル。王城ヨリハ西、摂津国十四郡ガ中ニ、渡辺党ハ身ノキハ千騎ガ其中〔そのなか〕ニ、西面衆〔さいめんのしゆう〕愛王左衛門翔トハ、我事ナリ」ト名対面〔なだいめん〕シテ戦ケルガ、十余騎ハ討トラレテ、我勢モ皆落ニケレバ、翔ノ左衛門ニ大江山ヘゾ落ニケル。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bd430ee4bfd4308d15a9a66252b9c682
とあって(p350)、こちらもかなり詳細な上に、「西面衆」という新たな情報が付加されています。
そして、山田重忠にも二度目の名乗りがあり、
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紀内〔きない〕殿、打テ出タリ。山田殿カケ出申サレケルハ、「我ヲバ誰トカ御覧ズル。尾張国住人山田小二郎重貞ゾ」トナノリテ、手ノ際〔きは〕戦ケル。敵十五騎討取、我身ノ勢モ多〔おほく〕討レニケレバ、嵯峨般若寺ヘゾ落ニケル。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e19d58a3e31ad3b612ce848bfe020d1a
とあって(同)、こちらは「美濃ト尾張トノ堺ニ、六孫王ノ末葉」が「尾張国住人」に、「山田次郎重定」が「山田小二郎重貞」となっています。
ま、そうした細かな違いはありますが、合戦での名乗りが二回も出て来るのは渡辺翔と山田重忠の二人だけですね。
名乗りは一回だけの三浦胤義の場合、兄・義村への呼びかけとして、
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「アレハ、駿河殿ノオハスルカ。ソニテマシマサバ、我ヲバ誰カト御覧ズル。平九郎判官胤義ナリ。サテモ鎌倉ニテ世ニモ有ベカリシニ、和殿ノウラメシク当リ給シ口惜〔くちをし〕サニ、都ニ登リ、院ニメサレテ謀反オコシテ候ナリ。和殿ヲ頼ンデ、此度〔このたび〕申合文〔まうしあはせぶみ〕一紙ヲモ下シケル。胤義、オモヘバ口惜ヤ。現在、和殿ハ権太夫ガ方人〔かたうど〕ニテ、和田左衛門ガ媒〔なかだち〕シテ、伯父ヲ失〔うしなふ〕程ノ人ヲ、今唯、人ガマシク、アレニテ自害セント思〔おもひ〕ツレドモ、和殿ニ現参〔げんざん〕セントテ参テ候ナリ」
とあり(p351)、「駿河守ガ舎弟胤義、平判官」よりは相当詳しいものの、やはり兄弟の情報だけですね。
以上、蜂屋三郎・渡辺翔・山田重忠・三浦胤義の例と比較しても、藤原能茂の出自情報は極めて特殊ですね。
四人の場合、合戦での名乗りですから、実際に戦場で行われていた慣習をそのまま記録しただけともいえます。
しかし、藤原能茂の場合、合戦での名乗りでもないのに出自が語られ、しかもそれが後鳥羽院の発言の中に出て来るのは何故なのか。