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慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その16)─「37.紀内殿と山田重忠の戦い 3行(☆)」

2023-10-07 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
「37.紀内殿と山田重忠の戦い 3行(☆)」は、

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 紀内〔きない〕殿、打テ出タリ。山田殿カケ出申サレケルハ、「我ヲバ誰トカ御覧ズル。尾張国住人山田小二郎重貞ゾ」トナノリテ、手ノ際〔きは〕戦ケル。敵十五騎討取、我身ノ勢モ多〔おほく〕討レニケレバ、嵯峨般若寺ヘゾ落ニケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e19d58a3e31ad3b612ce848bfe020d1a

というもので、流布本の山田重忠自害の場面と比較すると、ずいぶんあっさりしていますね。

流布本も読んでみる。(その47)─「暫く打払ひ候はん。御自害候へ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed0b1c777b2beb73162b85b9f613f0cc

山田「重貞」と戦った「紀内殿」については、野口実氏が「慈光寺本『承久記』の史料的評価に関する一考察」(『承久の乱の構造と展開 転換する朝廷と幕府の権力』所収、初出は京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』18号、2005)において詳しく考証され、岩波新大系の「山柄行景、行実の男」説を批判し、読み方は「きうち」であり、「千葉氏一族の有力者であった木内胤朝に比定すべき」とされています。(p171)
この「紀内殿」は慈光寺本に二度登場し、最初は北条義時の「軍ノ僉議」において、

-------
 義時ハ軍〔いくさ〕ノ僉議ヲ始ラレケリ。【中略】海道ノ先陣ハ相模守時房。【中略】其勢二万騎ナルベシ。二陣、武蔵守泰時。【中略】其勢可為二万騎。三陣、足利殿。四陣、佐野左衛門政景・二田四郎。五陣、紀内殿・千葉次郎ヲ始トシテ、海道七万騎ニテ上ルベシ。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0158cea1e24a32f59a83f766a2e2bfe3

と出て来ます。
東海道軍の第五陣に「千葉次郎」と並記される訳ですから、野口氏の言われるように「千葉氏一族の有力者」であることは間違いないのでしょうね。
ただ、この論文において、野口氏が慈光寺本の「史料的信憑性」が高いことを示す一例として「紀内殿」を取り上げておられることに私は若干の違和感を覚えます。
下記リンク先の4月20日の投稿で整理しておきましたが、「軍ノ僉議」場面に登場する人名のうち、概ね半数が未詳ないし不明確です。
東海道の先陣・二陣だけ詳しくて、他が極めて雑なことも変であり、慈光寺本作者の情報源とその情報の正確さにはかなり問題がありそうです。
「紀内殿」も正しく「木内殿」と記されていない点で、慈光寺本の「史料的信憑性」を裏づける材料としては弱いように感じます。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その30)─「此上ニ何ノ御不足有テカ、義時御勘気ニ預リ候ラン」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f0771e5f272c883b9d8e016f52826d14

ま、それはともかく、流布本では山田重忠の自害の場面が感情を込めて描かれているのに対し、慈光寺本では、

「6.山田重忠の鎌倉攻撃案 13行(☆)」
「7.山田重忠による鎌倉方斥候の捕縛 21行(☆)」
「33.杭瀬河における山田重忠と児玉党の戦い 22行(☆)」

の合計56行によって、重忠が戦略にも諜報にも戦闘にも比類なき才能を示した天才的武将と絶賛している割には「嵯峨般若寺山ヘゾ落ニケル」という最後はずいぶん冷たいですね。
慈光寺本では一貫して「重貞(定)」と誤記されていることと、この冷たい最期は、慈光寺本作者が本当に描きたかったのは歴史上に実在した山田重忠ではなかったことを示しているように私には思われます。
即ち、作者が本当に描きたかったのは自らが考案した鎌倉攻撃案の素晴らしさであって、重忠はこの素晴らしい鎌倉攻撃案を託すに値する存在として作者によって見出され、無位無官であった実在の山田重忠には相応しくない敬語を用いて理想的な武士として描かれたのではなかろうか、と私は考えます。

再考:宇治川合戦の不在について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a00d0683a645b6c4179e3c7aa56d63f0
森野宗明論文の評価(その5)─山田「重貞(定)」の「不斉性」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b7136c70e1dfe92e99df8f05febb3e3f

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慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その15)─「36.東寺における渡辺翔と新田四郎の戦い 5行」

2023-10-07 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
慈光寺本に宇治河合戦が存在しない理由について、杉山次子氏の「欠落」説以外に誰も特段の見解を述べておられないようですが、宇治河合戦が記されるべき位置に山田重忠の杭瀬河合戦が「埋め草」のように置かれ、その記事には慈光寺本作者の個性が反映されている以上、「欠落」説は成り立たないと私は考えます。

宇治川合戦の「欠落説」は成り立つのか。(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f256eb4356d9f0066f00fcca70f7d92d

また、野口実氏は「序論 承久の乱の概要と評価」(『承久の乱の構造と展開 転換する朝廷と幕府の権力』所収、戎光祥出版、2019、初出は2009)において、慈光寺本では連続・一体化している記事を3頁離して全く別の記事のように記述されており、「匠の技」を感じさせます。
しかし、この操作は「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」しようとする野口氏の試みが破綻していることを示しているように思われます。

「できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成」することの困難さ
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55a3a8abb7d99b1f5cb589a98becbc70

山田重忠は藤原秀澄とともに洲俣(墨俣)に配置されたので、「29.洲俣の藤原秀澄の敗走 1行」の次には「33.杭瀬河における山田重忠と児玉党の戦い 22行(☆)」が来るのが自然ですが、何らかの理由で宇治河合戦を描くのを避けたかった慈光寺本作者は、33を「32.後鳥羽院、叡山御幸 5行」の後に「埋め草」として置いた訳ですね。
そして、山田重忠の戦場における大活躍を22行も使って強調した結果、山田重忠は、

「6.山田重忠の鎌倉攻撃案 13行(☆)」
「7.山田重忠による鎌倉方斥候の捕縛 21行(☆)」
「33.杭瀬河における山田重忠と児玉党の戦い 22行(☆)」

の合計56行によって、偉大な戦略家であり(6)、卓越した諜報の才能を有し(7)、更に十倍もの敵に怯まず奮闘した勇敢な指揮官として(33)描かれることになった訳ですね。
重忠が合戦においても優れた武将であることが強調されたことにより、藤原秀澄に却下された鎌倉攻撃案も、実現可能性が相当あったのではないか、という印象が与えられることになります。
さて、

「34.渡辺翔・山田重忠・三浦胤義による後鳥羽院への敗戦報告 5行(☆)」
「35.三浦胤義の後悔 5行」
「36.東寺における渡辺翔と新田四郎の戦い 5行」

は、岩波新大系では、

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 翔〔かける〕・山田二郎重貞ハ、六月十四日ノ夜半計〔ばかり〕ニ、高陽院殿〔かやのゐんどの〕ヘ参テ、胤義申ケルハ、「君ハ、早〔はや〕、軍〔いくさ〕ニ負サセオハシマシヌ。門ヲ開カセマシマセ。御所ニ祗候シテ、敵待請〔まちうけ〕、手際軍〔てのきはのいくさ〕仕〔つかまつり〕テ、親〔まのあた〕リ君ノ御見参ニ入テ、討死ヲ仕ラン」トゾ奏シタル。院宣ニハ「男共御所ニ籠ラバ、鎌倉ノ武者共打囲〔うちかこみ〕テ、我ヲ攻〔せめ〕ン事ノ口惜〔くちをし〕ケレバ、只今ハトクトク何〔いづ〕クヘモ引退〔ひきしりぞ〕ケ」ト心弱〔こころよわく〕仰下サレケレバ、胤義是ヲ承テ、翔・重定等ニ向〔むかひ〕テ申ケルハ、「口惜〔くちをしく〕マシマシケル君ノ御心哉。カゝリケル君ニカタラハレマイラセテ、謀反ヲ起シケル胤義コソ哀〔あはれ〕ナレ。何〔いづく〕ヘカ退ベキ。コゝニテ自害仕ベケレドモ、兄ノ駿河守ガ淀路〔よどぢ〕ヨリ打テ上ルナルニ、カケ向テ、人手ニカゝランヨリハ、最後ノ対面シテ、思フ事ヲ一詞〔ひとことば〕云ハン。義村ガ手ニカゝリ、命ヲステン」トテ、三人同〔おなじく〕打具シテ、大宮ヲ下〔くだり〕ニ、東寺マデ打〔うち〕、彼寺ニ引籠〔ひきこもり〕テ敵ヲ待〔まつ〕ニ、新田四郎ゾカケ出タル。翔左衛門打向〔うちむかひ〕、「殿原、聞給ヘ。我ヲバ誰トカ御覧ズル。王城ヨリハ西、摂津国十四郡ガ中ニ、渡辺党ハ身ノキハ千騎ガ其中〔そのなか〕ニ、西面衆〔さいめんのしゆう〕愛王左衛門翔トハ、我事ナリ」ト名対面〔なだいめん〕シテ戦ケルガ、十余騎ハ討トラレテ、我勢モ皆落ニケレバ、翔ノ左衛門ニ大江山ヘゾ落ニケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f263e58f5c29509706d6166498b7e1f6

と一つの段落となっているものを内容で三つに分けました。
このうち、34は後鳥羽院への報告者に「愛王左衛門翔」が含まれる点が怪しいですね。

慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その13)─「30.糟屋久季・五条有仲による後鳥羽院への敗戦報告 3行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a2128c32aa47f6609fd7d6a17397c928

後鳥羽院の対応が非常に冷酷なものであったことは明らかなので、35の三浦胤義の述懐は不自然ではないものの、これは慈光寺本だけに見られる記事です。
また、渡辺翔の出自・経歴を丁寧に紹介した36も、その内容自体は不自然ではありませんが、やはり慈光寺本だけに見られる記事です。
となると、34・35・36は「B」(積極的に疑う格別の理由がない)か、「C」(ストーリーの骨格は史実を反映しているが、脚色が多く、信頼性は低い)か判断に迷いますが、脚色、というか渡辺翔への依怙贔屓がありそうなので、結論としては「C」と評価したいと思います。
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