学問空間

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『ニコライの見た幕末日本』(その8)

2019-12-31 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年12月31日(火)17時47分4秒

続きです。(p101以下)

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 あるいは、そのような才能の持主が帝〔みかど〕自身であったとしてもよい。そうであったなら、それこそは日本にとって真に天の祝福というべきであろう。そうであったら、神道の大法螺〔ぼら〕も、その他諸々のでっちあげ的工夫も不要になるだろう。そうであったら、そうした工夫をしなくても、侯たちは、ちょうど騒ぎまわっていた子供たちが厳しい教師の前でおとなしくなるように、たちまち素直に静かになることだろう。だが、干乾〔ひから〕びてしまったミイラが再び蘇ることがあるだろうか? 枯れた木が実を結ぶことができるだろうか? 新鮮な血、新鮮な力を注入されて新たに活力を得るということがないまま二十五世紀間も続いた王朝、その王朝が過去一千年間に生み出した者はといえば、半ば白痴か、あるいは箸にも棒にもかからぬ人物ばかりであった。そして現在、その十五歳の代表者を実際に見た外国人たちの証言するところによれば、彼においてもこの古い王朝はいささかも自らの伝統に背いていないのである。

       修道司祭 ニコライ
         在日本ロシア領事館付
         主任司祭
-------

ということで、これで1869年9月にロシアの雑誌『ロシア報知』に発表されたニコライの長い論文は終りです。
1861年に来日したニコライは、以後ずっと函館で過しますが、1869年の初め、将来のキリスト教解禁を睨んで「日本宣教団」を組織するため、横浜からアメリカ経由でロシアに一時帰国します。
そして二年後の1871年2月に函館に戻って来ており、函館戦争の決着(1869年5月18日、五稜郭開城、榎本武揚降伏)はロシアで聞いたことになります。
この時点でのニコライは、まだ函館以外の土地は殆ど知らず、その人脈は旧幕府側に偏っているので、新政府側(「南方勢」)への見方は極めて厳しいですね。
新政府側が押し立てた天皇が優れた指導者としての資質と才能に恵まれた存在ならば、「それこそは日本にとって真に天の祝福というべきで」あり、「そうであったら、神道の大法螺も、その他諸々のでっちあげ的工夫も不要になるだろう」が、実際にはそれほど素晴らしい存在ではないので、「神道の大法螺」「その他諸々のでっちあげ的工夫」が必要なのだ、とニコライは論じます。
天皇という制度はもはや「干乾びてしまったミイラ」であり、「枯れた木」であって、実際には二度と蘇ることはなく、実を結ぶこともないのだ、遥か昔の神武天皇以来、「新鮮な血、新鮮な力を注入されて新たに活力を得るということがないまま二十五世紀間も続いた王朝」が「過去一千年間に生み出した者はといえば、半ば白痴か、あるいは箸にも棒にもかからぬ人物ばかり」であり、「そして現在、その十五歳の代表者を実際に見た外国人たちの証言するところによれば、彼においてもこの古い王朝はいささかも自らの伝統に背いていない」、即ち若き今上天皇も「半ば白痴か、あるいは箸にも棒にもかからぬ人物」なのだ、というのがニコライの冷酷な診断ですね。
ただ、これはあくまで1869年時点のニコライの見解であって、その後、ニコライの天皇に対する評価は、少なくも公的な場所で表明されたものについては相当に変化して行きます。
基本的にロシア正教は統治体制に対して極めて従順なので、日本の体制が安定化するに従い、ニコライの天皇制、そして明治天皇個人に対する姿勢も好意的なものに転じます。
なお、「十五歳の代表者」とありますが、明治天皇は1852年生まれなので、1869年時点では正確には17歳程度ですね。

明治天皇(1852-1912)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87
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『ニコライの見た幕末日本』(その7)

2019-12-31 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年12月31日(火)13時25分59秒

念のために書いておくと、ニコライは浄土真宗だけを特に嫌っていた訳ではなく、仏教各派に万遍なく批判的です。
また、直接のライバルであるプロテスタント諸派、カトリックに対しても万遍なく辛辣ですね。
さて、あまり長く『ニコライの見た幕末日本』の引用を続ける訳にも行かないので、廃仏毀釈関係と、それに関連する巻末の記述だけ、もう少し追加しておきます。
まずは廃仏毀釈についてです。(p84以下)

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明治政府の廃仏毀釈

 昨年の初めに誕生した新政府も、やはり日本人のキリスト教受容を禁じた。この禁止の根本的理由は、それ以前の禁止の動機とは全く別のものであった。
 大君は廃絶された。天皇はこれまで埃〔ほこり〕をかぶって大君たちの前に腰をかがめていたのだが、その埃の中から天皇を立ち上がらせてやらねばならないのである。だが、威厳の失せ果てたこのよぼよぼの老人を、どうやって支えたらよいのか? 手段は手近にあった。古い宗教に輝きを添えてやり、もっと立派に見せてやりさえすればよいのだ。幸いその宗教はまだ息絶えてはいなかった。この宗教が祭るのは天皇の直系の祖先たちである。ということは天皇自身も祭られるものなのだ。この宗教の教義の最も重大かつ厳粛な点は、日本の支配権を、世世永遠に、帝の祖先とその子孫すべてに授与する、という点である。この教えに聴き従うなら、天皇の支配権掌握の正当の権利を疑う者が出てくるはずがあるだろうか?
 かくして、神道の太鼓は力強くとどろき、銅鑼〔どら〕は高らかに響きわたり、神官は、いかにも偉ぶった態度であたりを睥睨して相も変らぬ英雄讃歌を歌い出した。「神々の道」は、このような勝利の時が訪れることを予期していたであろうか、─仏教の打撃を受けてほとんど消え失せかけていた、この「神々の道」は? だが、いまや立場は逆になってきたのである。仏教は外国の宗教であるからということで、蔑まれ貶められることとなった。その蔑みがまた凄まじい! 元来仏教に属していながら長い年月の間に神道の社〔やしろ〕にまぎれ込んだ祭具備品は一切これを抛り出せという勅令が下った。一方、仏教の坊主たちに対しては、神道の神々に祈りを捧げることは罷り成らぬ。神道の神々の図像を寺に所蔵することも相成らぬという命令が出された。そして、無視の仕方もまた凄まじい! 施政方針として帝国全土に送付された新基本法〔「政体書」を指すか〕には、宗務局〔神祇官のことか〕も設けられることが記されているが、それが保護し取扱うべきは専ら神道関係のみであって、仏教については唯の一言も言及が無い!
 日本は上は天皇自身から下は日雇労働者まですべての人が仏教徒なのであり、仏教の寺院は日本中津々浦々にまであり、仏教の坊主は数十万人もいるというのに、つまり、この国に仏教があることに気づかぬなどというのは狂人のみであるというのに、にもかかわらず、そういうことなのである。
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「これまで埃をかぶって大君たちの前に腰をかがめていた」「威厳の失せ果てたこのよぼよぼの老人」は天皇という制度についてのニコライの辛辣な評価であって、1869年当時の天皇がまだ若年であることはニコライももちろん知っています。
そしてニコライは、天皇という制度を支えるものとして、幸いにも「まだ息絶えてはいなかった」神道という「古い宗教に輝きを添えてやり、もっと立派に見せてやりさえすればよいのだ」という方針が立てられ、「神道の太鼓は力強くとどろき、銅鑼は高らかに響きわたり、神官は、いかにも偉ぶった態度であたりを睥睨して相も変らぬ英雄讃歌を歌い出」したと評価します。
以上のようにニコライの視線は、天皇という制度に対しても、それを飾る神道という宗教に対しても極めて冷ややかで辛辣ですね。
このようなニコライの評価は、鳥羽伏見の戦い以降、東北での戦闘と函館戦争の終息を経た後も、まだまだ不安定な情勢が続くだろうという基本的な情勢判断に基づいています。(p101)

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 だが、波瀾はこれでおさまりはしまい。おそらくは、戦火は別の地でまた直ぐ燃え出すだろう。南方勢はこれまで、共通の敵という共通の利害によって結合してきた。共同の事業を行なうために、彼らはそれぞれしばらくの間、自分の利己的野心を天皇主義という体裁のよいマントの下に押し隠して我慢してきた。その共通の敵がいなくなったとなると、彼らはたちまち仲間うちで争いを始めるだろう。彼らが争わないとしても、さらに別の候たちが登場してくるだろう。異国の憲法の切れ端を縫い合わせて作られたばかでかい衣装─それも、国民性や国全体の諸々の要求を全く顧みずに作られた衣装─が、三百人の誇り高い、それぞれに個性的な家来のすべての好みに合うなどと、考えることができるだろうか?
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1969年9月にロシアの雑誌に寄せられたこの論文を執筆した時点では、ニコライは二年後の廃藩置県はおろか同年7月の版籍奉還も知らないので、あくまで三百諸侯の分立を前提とした未来予想を立てている訳ですね。
ニコライは「南方勢」にはまだ本当に指導者と呼ぶべき存在はいないとして、

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 そして、この指導者の不在ということが、いまだに多くの人々の視線を前将軍の方へ向けさせている。彼がこのまま何もせずに滅びてしまうとは信じられないのである。前将軍には深謀があるのだといわれているし、彼が舞台に登場するのが、それも威風堂々栄光につつまれて登場して来るのが待たれている。
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とまで言います。
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『ニコライの見た幕末日本』(その6)

2019-12-29 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年12月29日(日)11時27分41秒

続きです。(p51以下)

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 しかし研究してみると、それは紛れもなく日本固有の教えであり、仏陀の救済の使命という理念を発展させたものにすぎないことがわかる。そして、世界に対する仏陀の愛というこの高度な教えがありながら、その仏陀自身には少しも変化が無い。仏陀は依然として神話的曖昧さに包まれた不確かな人物のままなのである。そのために、佑助という高度の教えを持っていながら門徒宗は、他のどの宗派と比べてもはるかに多くの悪を日本にもたらした。
 この宗派は坊主たちに家庭生活を営むことを認め、それによって彼ら坊主たちにあらゆる物質的関心を持つことを許し、彼らを俗界の人々と全く同一平面の者にしてしまった。このことは一見さほど重要なことではないように見える。この宗派の創始期には、そこにこそこの派の最良の面があるとさえ思われた。なぜなら、そのようにすることによって坊主たちの恥ずべき所業が除かれたからである。
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「坊主たちの恥ずべき所業」とは男色のことでしょうね。
この後、悪人正機説への批判となり、その内容はごく一般的なもので、特にニコライの独自性が窺われる訳ではありませんが、参考までに引用しておきます。(p52以下)

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 だが次のような問を発した者は一人もいなかった。すなわち、もし門徒宗の坊主たちが物質的利益を目指す活動領域へ、それも全くの無信仰の心で、踏み出して行ったら、一体どういうことになるのか? 「如何なる罪を犯そうと、ただ『ナム アミ ダブツ』と唱えさえすれば、すべて赦されるのだ」という言葉がそういう坊主たちの口にかかったら、どんなに恐ろしいものになるか、誰もそのことに気づかなかったのだ。
 そして事実、徳川朝の前の長い紛争の時代には、門徒宗の坊主たちは強大な軍隊を動かすまでになっていた。彼らは自軍の兵士に向かって「一歩前へ進めば極楽ぞ、一歩退けば地獄へ堕ちるぞ」と叫び、凄まじい戦闘をおしすすめ、恐るべき略奪を行ない、荒廃を広げていった。自分たちは何一つ信じていないのだが彼ら坊主たちは、無知な熱狂的信徒の大集団を動かし、あわや国家を覆さんばかりにまでなった。
 ようやくにして信長〔ノブナガ〕が彼らを抑えることに成功した。だが、その圧服の仕方もまた凄まじいものであった! あるとき、門徒宗の軍が敗れて、その兵士たちの耳と鼻を切り落として集めたところ一艘の艀〔はしけ〕に山盛一杯になったという。それを坊主たちの本陣へ送り届けた。そして本陣が陥落したときには、坊主たちとその護衛軍合わせて二万人が一度に焼き殺されたのである。
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ニコライにとって浄土真宗は極めて気になる存在ではあったようで、この後、「荒唐の根拠としての仏典」においても、親鸞が救世観音の前で見た霊夢とか(p56)、玉日姫の話(p57)とかが割と詳しく出てきますが、省略します。
さて、遥か後になりますが、1882年6月2日、関西の教会を歴訪中だったニコライは「一日を無駄に過ごすのも惜しいので」雨の中を京都見物に出かけます。
そして東西本願寺、東寺、北野天満宮、金閣寺等の有名寺社を健脚に任せて見て回るのですが、西本願寺については次のように記しています。(『宣教師ニコライの全日記 第2巻』、教文館、2007、p164)

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二、西本願寺─巨大な寺院で、驚くほどの太さのケヤキの柱。ここでは万事が大規模だ。
 寺院の傍らの学校には驚かされた。真宗学校〔シンシュウガッコオ〕はまったく洋風に建てられており、まばゆいほどの白壁の瀟洒な建物など、まさに偉観と言うべきで、周囲に巡らせたスマートな鉄の柵にいたるまで、あらゆるものが見るからに裕福そうに輝いている。全部で三棟からなり、どれも「ゆったり」と配置されている。ひとことで言えば、このような建物にならば大学が入っていてもおかしくない。しかし、これが門徒宗の学校だと思うと、どうしても、白粉〔おしろい〕や紅〔べに〕を塗りたくって若造りしている年老いた淫売女の面貌が頭をよぎるのである。こんな手段を弄してでも、昔の崇拝者を一部なりとも引き止めておこうというわけだ。
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途中までは西本願寺の威容を素直に賞讃していますが、「これが門徒宗の学校だと思うと、どうしても、白粉や紅を塗りたくって若造りしている年老いた淫売女の面貌が頭をよぎる」ですから、ニコライの浄土真宗嫌いは徹底していますね。
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『ニコライの見た幕末日本』(その5)

2019-12-28 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年12月28日(土)12時04分34秒

幕末の神道を論ずるなら、やはり平田神道への言及が不可欠だと思いますが、ニコライにはその知識はなかったようで、情報源に限界があった、ということかなと思います。
ニコライは神道について、

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 このような形態をとって、神道は現在もなお存続している。すなわちそれは、外から見ればあたかも宗教のごとき外見はしているが、合理主義者たちにとっては、内実は民衆の道徳教育の学校なのである。しかも彼ら合理主義者は、民衆が、宗教に帰依するように神道を信じてくれることを望んでいる。だが、民衆が神道を信じている度合いは、合理主義者たちがそれを信じている度合いと変わらない。加えて民衆は合理主義者たちのように知的に高く跳ね上がってはいないから、神道に道徳教育の学校を見たりしてはいない。前にも引いた「帝〔みかど〕がそう願われたならば、天から火が下って異国人を一人残らず焼き殺してしまうさ」という言葉を日本人が口にするときは、そこには極めて皮肉な意味がこめられているのである。
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とまとめますが(p42)、平田神道は「幽冥」がどーたらこーたらと言いますから「宗教」色はそれなりに濃厚ですね。

平田篤胤(1776-1843)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E7%AF%A4%E8%83%A4

ま、ニコライの認識によれば「民衆が神道を信じている度合いは、合理主義者たちがそれを信じている度合いと変わらない」訳ですから、結局、誰も神道を信じていない、ということになりますね。
「帝がそう願われたならば、天から火が下って異国人を一人残らず焼き殺してしまうさ」というフレーズ、ニコライはよっぽど気に入ったようですが、私には「極めて皮肉な意味」が理解できません。
さて、次いでニコライの仏教に関する認識ですが、総論の「仏教=汎神論的宗教」「日本人にとっての仏教」は省略し、三つだけ挙げている個別宗派をささっと見ておきます。
まず、禅宗については、ニコライはオーソドックスな説明をした上で、

-------
 理論として見るなら、この派はどこを取っても悪くはない。だが、実際にはどうか? 民衆は座禅に専念できるだろうか? そんなことはおよそ考えられない。日本中が一週間座禅に打込んだら、翌週には日本全体が餓死してしまうだろう。少なくとも道場では座禅は厳重に行われているだろうか? 聞くところによれば、一年に数週間あるいはわずか数日間だけを座禅に充てている道場もあるとのことである。
 その座禅の期間、毎日数時間、修行僧たちは一室に集まって、観想に専念する。すると、至福の感覚に圧倒されて修行僧たち、とりわけ若い修行僧の頭は傾きかける。そこで道場の長は棒を持って、それで叩くと肩や剃り上げられている頭は大変痛いわけだが、絶えず僧たちの間を行き来して、観想に耽っている僧たちを現実へ呼び戻すというわけなのである。ところが、この馬鹿馬鹿しい形式主義に禅宗の教義の一切が帰一するというのである! しかもこれが、日本において最も広く行きわたっている宗派の一つなのである!
-------

とまとめます(p50)。
「日本中が一週間座禅に打込んだら、翌週には日本全体が餓死してしまうだろう」といったあたり、ニコライの嘲弄のテクニックはなかなか巧みです。
ついで門徒宗(モントシュー)については、

-------
 もう一つの、これも大変広く行われている派である門徒宗〔テキストでは斜字体〕は、その起源は日本にあり、禅宗とは全く対立するものである。
 門徒宗なる派は仏教の禁欲主義を一切棄て去ってしまって、此の世界に対する仏陀の愛という理念にのみすがったのである。ここには自己滅却など影もかたちも無い。
 坊主たち自身が妻帯しており、肉であれ何であれ好きなものを食べている。〔ニコライは禅宗の僧には「モナーフ(修道士)」という語を使っていたが、「門徒宗」では「ボンズ」と書いている。後の方になると、はっきり門徒宗と言えぬ場合でも「ボンズ」と書いている。これはすべて「坊主」と訳す。〕人間の功業はすべて空しいものだと考えられ、救いのためにはただ仏陀への信仰があればよい。たとい恐るべき悪人であっても、ただ一度「ナム アミダ ブツ(われアミダ仏を拝み奉る)」と唱えさえすれば、その人間は救われるのだ、というのである。
 仏陀の愛の宏大なること、人間が呼びかけるや仏陀は直ちに救いの手を差しのべること、救いに至るには人間の力だけでは不足であること、上からの佑助があること(他力〔タリキ〕)─こうした教えに接すると驚かずにはいられない。寺院に入って長い説教を聴いているうちに、ふと我を忘れてしまい、キリスト教の説教を聴いているような気がしてくることがある。この教えはキリスト教徒から借りてきたのではないか、とさえ思う。
-------

と述べます。(p50以下)
渡辺京二は、訪日外国人が「日本の仏教寺院の雰囲気がいちじるしくカトリック聖堂を思わせること」に気づいていて、「その類似を指摘している例は枚挙にたえぬほど多い」としてオールコックの例を紹介していますが、ニコライは個別宗派の内実に迫って、その教えとキリスト教の類似性を指摘している点で、やはり観察が深いですね。
ただ、ニコライが門徒宗を高く評価しているかというと、そうではありません。
少し長くなったので、その点は次の投稿で紹介します。

渡辺京二『逝きし世の面影』の若干の問題点(その12)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ea34f26b6dc10670eb6411ff825e9ec5

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『ニコライの見た幕末日本』(その4)

2019-12-26 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年12月26日(木)13時16分29秒

『宣教師ニコライの全日記』(教文館、2007)をポツポツと拾い読みしているのですが、百科事典と同じ判型で上下二段組み、全九巻ですから、全部読むのは当分無理ですね。

https://www.kyobunkwan.co.jp/publishing/archives/7123

ただ、適当にどのページを開いても、ニコライとその周辺の人々の行動が、まるで映像を見ているような感じで生き生きと描かれていて、明治の宗教文化を考える上では本当に貴重な基礎資料です。
ニコライは笑いのセンスが良くて、頻繁に出てくる愚痴もけっこうユーモラスな書き方になっているところが多いですね。
ま、それは他人事だから笑って読めるのですが、そういった精神の健康さがないと、五十年間、異教の地で伝道生活を送ることはできなかったでしょうね。
さて、『ニコライの見た幕末日本』に戻って「仏教渡来後の神道」(p38以下)を見ると、正直、私も近世の神道史・思想史に疎く、ニコライの情報源も把握できないので、次のような記述をどう位置付けたらよいのか、よく分かりませんが、表現が面白いので少し引用してみます。(p40以下)

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 仏教においてはその数々の分厚い経典が人を驚かすことがあるが(もっともその内容はといえば、その経典の表題に対する賞賛の辞以外の何者でもないのである)、神道の聖典釈義家にあっては、諸君は、日本の古代史の片々たる記事をめぐる浩瀚な注釈書の山に出会う。その注釈とは、歴史文献の音節の一つ一つ、文字の一字一字までが、巧妙極まる有り得べからざる比諭〔アレゴリヤ〕の種となってゆく態のものなのである。
 しかし、悲しいかな、もともと軽いその荷物を背負って、楽ではあるが当てにならぬ道を進むことによって、神道の釈義家たちは、たちまちのうちに、一切の完全なる否定という地点に達してしまった。彼らの旺盛な探求欲の結果は、誰に目にも明らかな無信仰であった。
「太古から混沌があった。そこに偶然、火花と一滴の水が生じた。この二つの元素の相互反応によって混沌は固まって来て、幾つかの球状のものとなった。火の多い球(太陽)の固まりから最後の水の多い球(地球)までである。その水の多い球がまだ泥の状態にあったとき、様々な生きものが生じた。人間は最も高度な生きものであって、数々あった沼の中で最も良い沼で、すなわち泥のたっぷりある沼でできた。」
 これが日本の唯物論者たちの教説の核心である。あえて言うが彼らは、論理の組み立て方においても論証の仕方においても、ヨーロッパの唯物論者たちに引けを取るものではない。
-------

ここで引用部分に付された注(6)を見ると、

-------
(6)「神道の釈義家」ではないが、三浦梅園の『玄語』に、これに似た考えが見られる。三枝博音氏の『三浦梅園の哲学』、高橋正和氏の「玄語 本宗」の訳・注(『日本の思想』第十八巻)などを参照。
-------

とあります。
私は三浦梅園など全く読んだことがなく、ニコライとどのように結びつくのかも分かりませんが、後日の課題にしておきます。

三浦梅園(1723-89)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%A2%85%E5%9C%92

引用を続けます。(p41)

-------
 神道にとってはこうした親切の押し売りのような理論の奉仕はありがたくはなかったに違いない、と思われるかもしれない。だが実際は少しもそんなことはなかった。他でもない、第一に、神道の信仰内容は完全に否定していながら、にもかかわらず神道を保持して神道に対して凄まじいばかりの讃辞を捧げる釈義家ばかりなのであって、そうでない者にお目にかかることは決してないからである。
 この事実は一見奇妙なことに見える。だが実はきわめて単純かつ自然なことなのである。そうした釈義家たちにあっては神道は宗教ではなくなり、国民的な、純粋に市民生活上の憲章に変わってしまったのである。民衆の意気を盛んにし、市民的道義を高揚せしめ、日本の国威をとこしなえに強化せんがためのこの上なく高い目標が、その憲章の極めて小さな細目にもこめられているとされるようになったのである。このような考え方によって、かくも賢明なる憲章を案出した祖先たちは賞讃を受けて高く持ち上げられることになり、結局のところ、神道は永遠に守り伝えられるべきであるという結果になる。
-------

「そうした釈義家たちにあっては神道は宗教ではなくなり、国民的な、純粋に市民生活上の憲章に変わってしまったのである」云々は、割と多くの人が引用して論じているようですが、私にはどうも論理の展開が理解しにくいですね。
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『ニコライの見た幕末日本』(その3)

2019-12-25 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年12月25日(水)11時38分36秒

ニコライが日本で最初に洗礼を授けた三人の信者の中に坂本龍馬の従兄弟である沢辺琢磨(1834-1913)という人がいます。

沢辺琢磨(1834-1913)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E8%BE%BA%E7%90%A2%E7%A3%A8
「函館に歴史を刻んだ偉人⑤沢辺琢磨(山本数馬)」
https://www.hakobura.jp/deep/2010/08/post-135.html

沢辺は江戸でそれなりに有名な剣客であったのに、つまらないトラブルを起こして函館に逃げてきたところ、剣術の縁で地元神社の宮司・沢辺家の婿養子となり、神主に転職したという変わった経歴の人物ですが、この人がニコライの神道に関する知識の情報源の一つであったことは間違いなさそうですね。
ま、それはともかく、ニコライから見て神道がどのように「貧弱」だったのかを見て行きます。(p23以下)

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神道とはどのようなものか

 まず神道である。これは如何なる宗教であるか? この世界の最初の神々を始めとするあらゆる祖先の霊に対する崇拝である。その神々とは如何なるものであるか? その神々には強大な力、優れた知恵、荘厳な威容などがあるのか? 否、そのような目ざましいものは一つも無い。
 その神々は全くひよわな、死すべき者たちであり、かつて詩人や画家に霊感を与えて何人も模倣し難い古典芸術の傑作を生み出さしめたギリシアの神々のあの感覚的魅力という資格さえも具えていない。日本の神々も時折は創造の業〔わざ〕を為すことはある。しかし、この神々が為す諸々の行為は、その創造の業に全く似つかわしくない驚くべき愚昧ぶりをあらわに示している。
 一番最初の神がこの世界に現われたのは偶然のことで、それも混沌〔ケーオス〕が分かれて天と地を形成した後であった。この神とこれに続く五世代の神々の為したことについては、何一つ知られていない。七代目の神々になってようやく創造が始まる。
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ということで、この後、イザナギ・イザナミ、アマテラスとスサノオ、天岩戸、ヤマタノオロチ等々の話が続きます。
ちょっと面白いのは神武天皇の扱いですね。(p30以下)

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 フキアワセズの息子のジンム、これが帝〔ミカド〕の系譜の最初の者なのだが、このジンムから日本の信憑性のある歴史が始まる。ジンムは九州〔キューシュー〕から日本〔ニッポン〕へ移ってきた。
 当時日本を支配していたのはアイヌであった。ジンムはアイヌたちと戦い、最初は押し返されたが、やがて彼らの領土のかなりの部分を奪い取ることに成功し、日本に確たる基盤を築いた。こうしたことはすべて、普通の死すべき征服者たちのこととしては全くありふれた行動であるわけだが、ジンムは同時に神の息子なのであり、アマテラス、及びそれを介して連なる天の神々の子孫だったのであり、明らかにジンム自身もまた神であるわけなのである。
 そして彼の後に続くその子孫はすべて同じく神々なのであり、それが現在の帝〔ミカド〕にまで続いているということになるのである。現在の帝のことを日本人は、「帝がそう願われたならば、たちまち天から火が下って、異国人を一人残さず焼き殺してしまう」と言っている。
-------

最後の話、出典ははっきりしないようです。
この後、神功皇后の三韓征伐だとか「災厄をなす神々」の例として崇徳上皇の話が出てきます。
そして、ニコライによる総括的な評価は次の通りです。(p37以下)

-------
 以上が神道の本質である。このような宗教は、明らかに文化程度のきわめて低い無知な民族にのみ認められるものである。すなわち、人間に元来存在する宗教的感情に促されて崇拝の対象を求めながらも、その知力はあたりの世界を超えることができず、自分に衝撃を与えるもの、驚嘆を呼び覚ますものなら何に対してもためらわず神としての崇敬を捧げる、その程度の知的発達段階にある民族である。その知的自覚の程度たるやふと目に入った年古りた樅の木とか、変った形をした石とかに直ぐ頭を垂れるほど低くはない、という程度なのである。こういう民族は、別の霊的世界が存在し、その世界が物質世界よりも優れたものであることを本能的に理解している。しかし、霊がこの民族を驚かすのは、単に個別的な身辺の現象としてであり、この民はそうした現象の前に平伏〔ひれふ〕してそれを崇拝し、自分たち自身をも自然の全体をも、それらの現象の下に従属させるのである。
-------

わはは。
ニコライは日本の「民族」が「別の霊的世界が存在し、その世界が物質世界よりも優れたものであることを本能的に理解している」点は一応評価するものの、その知力は「個別的な身辺の現象」を認識するにとどまっており、その宗教には超越的なものが何もなく、「明らかに文化程度のきわめて低い無知な民族にのみ認められる」範囲にとどまっていると評価している訳ですね。

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『ニコライの見た幕末日本』(その2)

2019-12-24 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年12月24日(火)13時17分5秒

「東洋的でない日本」の残りの部分にも興味深い指摘があり、「あらゆる階層にゆきわたっている教育」「外国に対する優越感と恐れ」「すさまじい西欧追随」も同様なのですが、当面の関心事である宗教に絞って、ニコライの見解を見て行きます。(p21以下)

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日本人の無神論は西欧のそれと異なる

 さて、この国民の宗教はどのようなものであるか、そしてこの国民はその宗教に対していかなる態度を取っているか? 中国人と並んで日本人もまた無神論の民である、あるいは、信仰の業〔わざ〕に対して無関心な民であると論難されるが、それは当たっている。ところで、そうした無神論、無関心は教育程度の比較的低い国民には全くふさわしからざるものだと思われるのだが、この場合その原因を成しているものは何か? これは、時折ヨーロッパ社会をも襲って敬神の念を乱し、それによって逆に熱烈な弁神活動を呼び起こす、あの無神論と同じものなのだろうか? 否、あれとは全く別のものである。
 ヨーロッパにおける無神論とは常に、諸科学の進歩を、知的活動のより高度な発達段階への進展を、ある程度示している指標である。その新たな段階に最初に足をかけた人々は、栄えある発見の成功に歓喜し、その自制不可能な喜びに駆られて、人間の知性の勝利、その全能、その権利を、声を限りに宣揚し、他の一切を顧みようとせず、自分の小さな発見を冷静に測って人間の知識の圏内にしかるべき場を与えるとうことを欲しない。群衆は四方からこれら宣揚者たちの周りに馳せ参じ、彼らの言葉を鸚鵡返しに語るのだが、一体それがどういうことなのか全く理解していないこともしばしばある。
 しかし、より冷静な人々もその段階に登って来て、やがて、神の啓示の真理を保持してその真理を解き明かす人々もそこへやって来る。この人たちが事の真相を見極め、新発見を信仰の教えと照らし合わせる。そうすると、群衆は驚くのだが、その発見は信仰と矛盾するものではなかったことが判明し、それのみか、信仰の真理を確認するものであることがわかるのである。
 かくして諸国民はその知識の圏内に科学の成果を採り入れ、魂においてはそれまで以上に緊密に不変の救いの真理に結びつき、そのようにして自らの旅を続け、なおも幾世紀にもわたって歩いて行くことになるのである。こころ弱い者たちはその旅路の途中でいく度となくつまずくことであろうが、しかし、諸国民が神の無限の叡智の海を汲みつくすことはないし、人間の知識は宗教の真理の上に出て優位を誇れはしないし、人間の徳性が宗教の聖なる理想の活力を奪ってしまうことはない。
 しかし、一般に異教の国々ではそうではない。日本においてもまた、そうではない。この国の上層社会の無神論と下層社会の宗教に対する無関心とは、まぎれもなく、宗教の教義の貧弱さから来ている。すなわち、国民が宗教の教義の力をすっかり使い果たして、もはやそれによっては満足が得られない、という所に原因がある。
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ニコライは「ヨーロッパにおける無神論とは常に、諸科学の進歩を、知的活動のより高度な発達段階への進展を、ある程度示している指標」と考えているので、要するにニコライの理解では、西欧における無神論は自然科学の発展の副産物、ということになりそうですね。
しかし、日本の無神論は、自然科学と宗教との激烈な凌ぎ合いとは全く無関係に、文明開化後の自然科学の流入とは全く別個独立に、遅くとも江戸末期には日本国中に遍く存在していたことになります。
従って、例えば西欧において、宗教との関係で最も物議を醸した自然科学の成果といえば、それはもちろんダーウィンの進化論ですが、日本では『種の起源』は特に何の衝撃ももたらさず、深刻な宗教論争を惹起することもなく、ああそうですか、で受け入れられてしまいます。
そして、それを当たり前の前提として、むしろ社会ダーウィニズムの是非に議論が移って行きます。

参考:溝口元「日本におけるダーウィンの受容と影響」(『学術の動向』15巻3号、2010)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits/15/3/15_3_3_48/_pdf/-char/ja

ダーウィンの進化論がロシアにおいてどのように受容されたのかは知りませんが、極端な例だと、神学校の生徒だったスターリンは『種の起源』を読んで神の不在を確信したそうですね(サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『スターリン-青春と革命の時代』、松本幸重訳、白水社、2010、p102)
まあ、スターリンのような存在を生まなかっただけでも「この国の上層社会の無神論と下層社会の宗教に対する無関心」は、それなりに良かったのではなかろうかとも思えてきますが、ニコライは、それが「まぎれもなく、宗教の教義の貧弱さから来ている」として、この後、神道・仏教、特に禅宗「門徒宗」「法華宗」、そして「孔子教」の教義がいかに「貧弱」かを分析して行きます。
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『ニコライの見た幕末日本』(その1)

2019-12-22 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年12月22日(日)12時44分8秒

ここで少し寄り道して、ニコライが来日後八年間をかけて日本文化を研究した成果である『ニコライの見た幕末日本』(講談社学術文庫、1979)、原題「キリスト教宣教団の観点から見た日本」の内容を少しだけ見ておきます。
この論文は1869年9月にロシアの雑誌『ロシア報知』に掲載されたもので、『ロシア報知』はドストエフスキーの『罪と罰』が連載された雑誌でもあるそうです。(p4)

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ニコライ堂で知られるロシア正教の宣教師ニコライは、幕末・維新時代の激動の渦中に日本に渡り、函館を本拠地に布教活動を行った。本書は、そのニコライがつぶさに見た日本の事情を、祖国の雑誌に発表したものである。日本の歴史・宗教・風習を、鋭い分析と深い洞察を駆使して探求し、日本人の精神のありよう、特質を見事に浮き彫りにしている。「日本人とは何か」を考える上に、多くの示唆を与える刮目すべき書である。本邦初訳。

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000150007

「本文中の小見出しは訳者の付したもの」(凡例)とのことですが、全体の構成を見るのに便利なので、小見出しを列挙してみます。

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東洋的でない日本
あらゆる階層にゆきわたっている教育
外国に対する優越感と恐れ
すさまじい西欧追随
日本人の無神論は西欧のそれと異なる
神道とはどのようなものか
仏教渡来後の神道
仏教=汎神論的宗教
日本人にとっての仏教
禅宗
門徒宗
法華宗
荒唐の根拠としての仏典
孔子教とは何か
中国における孔子
日本の孔子教
キリスト教の伝来
キリスト教禁止の理由
島原の乱
開国と幕末のキリスト教
明治政府の廃仏毀釈
明治政府とキリスト教
維新の実態
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それでは、ニコライの文体紹介を兼ねて、まずは冒頭です。(p9以下)

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東洋的でない日本

 領事館付主任司祭として日本へ向かったときから、その任地にあった八年の間〔一八六一~一八六九〕、私は日本の歴史、宗教、日本人の気風を研究すべく力めてきた。それは、福音の宣伝によってこの国を啓蒙せんとする期待がどの程度満たされ得るか、それを知らんがためであった。そして、この国を知ることの深まるにつれ、私は、福音書の言葉がこの国に高らかに響き渡り、この帝国の津々浦々にまで速かに行き渡る日の極めて間近であることをますます強く確信するようになった。
 極東のこの三千五百万の人々の住む帝国にあっては、あらゆることがどことなく玄妙不可思議であり、あらゆることがわが国におけると異なっている。しかし、同時に、あらゆることが東洋的ではないのだ。「東洋」をわれわれはいかなるものと理解しているか? 上からは絶対専制、下はひたすらの盲従、無知、愚鈍、そして同時に泰然たる自己満足と傲り、その結果たる鈍重停滞、─これが、東洋の諸国家についてのわれわれの理解に必ずついてまわる概念である。
 そうであってみれば、これらの性質は当然、日本にも当てはまるはずだ、と思われるであろう。日本はきわめて古い国であり、その成立いらいずっと、ほとんど中国とのみ─その後進性と停滞が諺にまでなっている中国とのみ─交渉を持ってきた国なのであるから。だが、日本において実際にわれわれが目にするものは何か? 確かに日本の天皇朝〔イムペラートルスカヤ・ヂナスチヤ〕は、東洋のほとんどの国においてそうであるように、その祖は神に発するものであると見なされている。しかし日本の天皇は、われわれが常に専制君主〔デスポート〕という言葉にこめるような意味での専制君主であったことはかつてない。
【中略】
 天皇朝がその使命を果していわば疲弊し、無活動、無気力の状態に陥ると、日本は、長く逡巡することなく、自己の新しい統治様式を創り出した。そこに生じたのはあるきわめて独創的なことだった。天皇は、どうやら、依然として天皇であるのだった。さまざまな位階も称号も、言葉の上、文書の上では、そのまま天皇のものなのであった。だが、支配権は、より活力に満ちて強力な活動家たちに、すなわち将軍〔ショーグン〕たちの手に移ったのである。(将軍とは文字通り訳せば「ゲネラール」のこと。)
 この新しい支配者たちの時代になると、日本はいままでのようにいわば静かに行儀よくばかりしていられなくなった。将軍朝は七百年足らずの間に(一一八六年から)六朝もの交替があり、安定した堅固な位置を保持できたのは諸々の国民的要請を満たした将軍のみであった。〔ニコライは将軍家の支配についても「ヂナスチヤ」と書いて天皇支配の場合と並列させているので、敢て将軍「朝」と訳した。〕
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「東洋的でない日本」の途中ですが、いったんここで切ります。
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その4)

2019-12-21 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年12月21日(土)12時43分3秒

渡辺京二が言及する訪日外国人の中でも、自国語の他に英独仏、更にギリシャ・ラテン語を解したニコライは語学力の点で傑出した存在で、ニコライに匹敵するのは東京外国語学校の教師を勤めたレフ・メーチニコフ(1838-88)くらいでしょうね。

渡辺京二『逝きし世の面影 日本近代素描Ⅰ』(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/285547dedba9ec092efcabb2344ed102

さて、ニコライは1860年8月に日本に向けて旅立ちますが、函館に到着したのは翌年7月です。
その間の事情を少し見ておくと(p35以下)、

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 領事館付主任司祭の任を拝命した神学大学生イワン・カサートキンは、ロシア暦一八六〇年六月二三日、剃髪式を受け修道僧となり、ニコライという聖名〔せいな〕を受け、同月三〇日には司祭に叙聖された。そして八月一日、満二四歳の修道司祭ニコライは、日本へ向かう旅に出立した。途中で馬車をもとめ御者を雇い、ときには自ら馬車を御しながらシベリアを東へ横断する旅であった。
 「当時は今日の如く西伯利亜〔シベリア〕鉄道の設〔もうけ〕も無かったので馬車に乗り殆ど昼夜兼行と云ふ有様にて旅途を続け八月の末漸く西伯利亜の首府イルクーツクに到着、バイカル湖を渡りチタに着し、之よりストレンチスク駅に至り黒龍江を船行し九月下旬ニコラエフスク(尼港)に着したが、寒気烈しく加ふるに海路氷結し日本への渡海は杜絶するに至ったので止むを得ず此処に越年する事となった」とニコライから直接聞いたのであろう、日本ハリストス正教会長司祭シメオン三井道郎は書いている(三井道郎訳「故大主教ニコライ師が故モスクワ府主教インノケンティー師に送られし書簡」のまえがき)。
 これは、三〇年後の一八九〇年、サハリンへ向かうチェーホフがたどるコースとほぼ同じである。
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といった具合です。
ニコライはニコラエフスクで越年しただけでなく、翌年に入ってもずいぶん動きは遅く、

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 ニコライは、一八六一(文久元)年七月一四日(露暦七月二日)、ロシア軍艦アムール号で函館に到着した。アムール号はニコラエフスクを四月に航路が開けてすぐ出航したのだが、各地に寄港してまわり、ちょうど美しい季節になって函館へ入港したのである。
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とのことで(p40)、ちょうど一年がかりで来日した訳ですね。
もちろん、当時の日本ではキリスト教は厳禁ですが、ニコライは将来の布教活動に備えて日本語と日本の歴史・文化・宗教についての猛勉強を八年間続けます。
「ニコライの日本語の特徴は、漢学の素養が深く、文章語に抜群の力があったこと」(p46)で、「ニコライは『古事記』『日本書紀』『日本外史』などの史書や法華経などの仏典を原文で読破し、後には日本人の神学生たちにその講義をした」そうですから、その実力は半端ではありません。
これは木村謙斎(1814-83)という儒学者に教えてもらった影響が大きいようですね。

「木村謙斎との出会い」(北鹿ハリストス正教会生神女福音会堂サイト内)
http://www.wp-honest.com/magata/hennsenn-3.html

ところで、函館時代のニコライと交流し、日本語の先生となった人に新島襄がいます。

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 函館で木村謙斎の後を引き継いでニコライの勉強を助けたのは新島七五三太〔しめた〕、すなわち後の同志社の創立者新島襄である。
 謙斎が函館を去った直後、一八六四年の四月、二二歳の新島は航海術を学ぶべく函館の武田斐三郎の塾へやって来た。あいにく武田は江戸へ出ていたが、留守居役の菅沼精一郎は新島の英語学習の希望を聞いて、ロシア領事館のニコライを紹介してくれた。日本語と日本の歴史の猛勉強をしているニコライは、謙斎に代わる教師を探していた。新島の『函館紀行』には次のように書かれている。
「彼〔菅沼〕の答ニは、予魯国の僧官ニコライなる者を知れり、此人英敏ニして博学なり、其故か魯帝の命を受け茲〔ここ〕に来り日本語を学へり。此人近来日本学の師を失ひし故頻〔しきり〕に其師を求めり、汝なんそ魯僧の家ニ至らさる哉、且此人英語ニも通セし故、汝の英学を学ふに少しハ助けとならん。予意を決し其家に至らん事を頼めり」
【中略】新島はさっそくロシア領事館に引っ越した。
「彼予ニ十畳敷き計〔ばか〕りの一と間を預け、のみよけの如き高き床と、大ゐなる読書机を借セり。彼予の英学に志し遠路を嫌わす此地に来るを喜ひしにや、予を遇する事、実ニ至れり尽くセりと云ふへし」
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ということで(p53以下)、新島はニコライと一緒に『古事記』を読んだりしたそうですね。
新島はこの年の6月にアメリカに密出国するので、ニコライとの交流の期間は長くはありませんが、「至れり尽くセり」の厚遇を得た割には十年後に帰国して以降、新島はニコライと会っていないようです。
中村健之介『宣教師ニコライとその時代』(講談社現代新書、2011)によれば、1882年6月、関西地方の教会を巡回していたニコライが同志社と新島の自宅を訪問したにもかかわらず新島とは会えず、新島の方から何の連絡もなかったとのことなので(p23以下)、どうも新島はニコライと会うことを避けていたようです。
これは多くの人が語る新島の複雑な性格の現われかもしれませんが、「忘恩の徒」と言っても過言ではなさそうです。

新島襄(1843-90)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B3%B6%E8%A5%84

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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その3)

2019-12-20 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年12月20日(金)09時55分50秒

渡辺京二は、

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中村健之介によれば、宗教改革もルネサンスも知らず、世俗化の波にさらされることのなかったロシア正教は、前近代的なキリスト教信仰の本質を保持していた。ニコライが日本にもたらそうとしたのはそのような本物の宗教だった。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ea34f26b6dc10670eb6411ff825e9ec5

とまとめますが、「宗教改革もルネサンスも知らず、世俗化の波にさらされることのなかったロシア正教」の実情は、それほど素晴らしいものでもなかったようですね。
『宣教師ニコライと明治日本』から少し引用してみます。(p19以下)

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 イワン・カサートキンの異邦伝道志願の背景、その動機を少しでも明らかにするために、まずニコライの青年時代、すなわち一九世紀中頃のロシア正教会の聖職者についておおよその理解を得ておきたい。
 N・M・ニコリスキー(一八七七-一九五五)の『ロシア教会史』をとおして私たちが知る一九世紀後半、農奴解放後のロシア正教会は、国家の管理下にあってその保護を受けながら、広大な領地を所有し、製粉所などさまざまな収益源をもち、しかも婚儀、埋葬、追善供養などをとおしてたえず国民から「収奪」して莫大な利益をあげる、宗教という衣をまとった国内営利組織である。【中略】
 二〇世紀初めの統計によれば、ロシア正教会を構成していたのは、約一五〇名の、副主教以上の高位聖職者、約九万二千人の修道僧と修道尼、一二万五千人以上の、教区司祭など教区の教会勤務者であった。かれらの家族をあわせれば「五〇万以上」の人々が、国家の補助と七千万の国民からの献金や寄進によって教会を運営し、生活していた。【中略】
 ニコライの青年時代、一九世紀の中頃は、ロシア正教会の大半の聖職者にとって、ロシア正教という宗教は、宗教であるから依るべき尊い教えではあったが、すでに与えられてあるものであり、基本的に、自分を犠牲にしてまで探し求められるべきものでも、他に伝えられるべきものでもなかったようである。この宗教はすでに九百年間も皇帝から農民にいたる全ロシア人を包んでいた大きな衣であった(ユダヤ人でも改宗して正教徒となればロシア帝国臣民であった)。かれら教会人においては、もはや処女地の開墾にでかけるという発想は弱く、世襲の畑からの収穫をいかにしてわがものにするかということこそ主要な課題であった。【中略】
 だから、宗教改革と対抗宗教改革によってとうに近代へ向けての体質改革をなしとげ、互いにいわば市場占有率を競う経験を重ねてきたプロテスタントとカトリックとは違って、ロシア正教会は基本的に自足しており、異邦への進出意欲をかきたてたり自らのあり方を問い糾す能力を強化したりする必要がなかった。ロシアの教会人は教会改革を断行しなくても痛痒を感じなかった。
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「イワン・カサートキン」はニコライの俗名で、正確にはイワン・ドミートリエヴィチ・カサートキンですね。
このように正教会全体としては強大な既得権を確保していた訳ですが、それだけに教会内部での階級対立と利権争いはなかなか壮絶だったそうです。
では、何故にこうした環境の中からニコライのような強固な召命感を持った人物が生れたのか。
それは「大改革」の時代であったことが大きな要因だったようですね。(p30以下)

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 ニコライとその親しい友人たちはペテルブルグ神学大学の華であった。かれらエリート学生たちにとって、極東の島国日本の領事館付き司祭という職は、「しがないポスト」であった。ところがその「しがないポスト」に応募した青年がイワン・カサートキン一人ではなく、「一〇人から一二人」もいた。【中略】
 ニコライは「わたしたちの時代はいまよりはるかに良い時代でした」と言っている。ニコライやブラゴラズーモフたちが競って蝦夷の領事館付司祭の募集に応じたその「わたしたちの時代」とは、一八六〇年代前半である。ニコライ一世の死、クリミヤ戦争の敗北を経て、ロシアがアレクサンドル二世の治世下で生まれ変わろうとした時代、社会に新生の期待がみなぎった時代、ロシア史で言う「大改革」の時代である。一八六一年の農奴解放をはじめとして、司法制度の改革、教育制度の改革、地方自治制度の新設など、次々と進歩的な根本的な内政改革が実行に移された。【中略】
 かれらロシアの首都の神学大学の優れた学生たちは、ロシア正教会というきわめて保守的な世界に所属してはいたが、一般の教区司祭とは違って古典語をふくむ西欧諸語を学び(ニコライはギリシャ、ラテンの他に英独仏語ができた)、相当幅広い高等教育を受け、自国ロシアの後進性についても自覚があった。たしかにかれらはあくまでロシア正教会のエリートであり、近代化されない宗教の守護者であった。カトリック、プロテスタントにも、世俗化された西欧文化にも、またその西欧文化に「かぶれた」ロシアの教養階級にも根深い反発を抱いていた。しかし自分たちはそれら「正教の敵」たちに負けない、負けないで活動したい、という誇りと意欲をもっていた。
 かれらは、高揚した理想主義と社会的実践意欲において際立つ世代の青年たちであり、ロシア文学史のいわゆる「六〇年代人」のいわば神学大学生版であったのである。
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その2)

2019-12-19 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年12月19日(木)10時37分22秒

もともとドストエフスキーの研究者だった中村氏は、ニコライの日記を発見したときも、まず最初にドストエフスキーとの関係を確認しようとしたそうですね。(「まえがき」ⅴ以下)

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 古文書館の閲覧室でニコライ日記を手にしたとき、まず確かめたかったのは、ニコライの日記に一八八〇年六月初めのドストエフスキーの訪問のことが記されているかということだった。それは書かれていた。
 ドストエフスキーの訪問は、ニコライが東京に大聖堂を建てる資金を募るためにロシアへ二度目の帰国をしてモスクワに滞在していたときのことであった。一八八〇年六月初めにモスクワでプーシキン記念祭が開催されることになり、講演を依頼されたドストエフスキーは五月末にスターラヤ・ルーサの自宅からモスクワへ出てきていた。そしてニコライを宿舎に訪ねたのである。
 このときドストエフスキーは五八歳、ニコライは四三歳であった。【中略】
 ニコライは「六月一日、日曜」(露暦)の日記にこう書いている。
「……もどると、アレクセイ師のところに有名な作家フョードル・ドストエフスキーが来ていて、会った。
 ドストエフスキーはニヒリスト〔伝統否定主義者〕たちについてこう断言した。<おそからずあの連中はすっかり生まれ変わって信仰篤い人間になるでしょう。現在すでにかれらは経済学的次元を脱して精神的な地盤に入っています>。
 日本については<あれは黄色人種ですからね。キリスト教を受け入れるにあたって何か格別なことはありませんか>と訊いた。
 やわらかみのない、よくあるタイプの顔、目には傲岸の色、かすれた声、肺病人のような咳をする。
 マリヤ・ヴラヂーミロヴナ・オルロワ=ダヴィドワ伯爵夫人が姪御さんたちを連れて見えた。……
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ということで、「有名な作家」であり、大聖堂建立資金獲得に役立つ見込みもあったでしょうから、ニコライは会うには会ったものの、割と冷ややかな対応ですね。
ドストエフスキーは慌ただしい日程の中、わざわざニコライに会いに来たのだそうで、その事情を中村氏は次のように説明しています。

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【前略】ドストエフスキーはニコライと会った五日後、あの有名な「プーシキン講演」を行なっている。その講演でかれは、世界史におけるロシアの使命を語り、「<正教の大義のために>ということばこそ、われわれの未来のスローガンである」と語り、ロシアの使命の核心はロシア正教の宣教にあると説いた。ドストエフスキーの目には、極東の異教の国日本で伝道に励む「日本のニコライ」は「正教の真理を全世界に向けて顕示せよ」という自分の信念をすでに実践しているロシアの宣教師と見えた。
 ドストエフスキーの若い友人で宗教哲学者のヴラヂーミル・ソロヴィヨーフもロシア正教宣教団員として日本へ行こうと志願したというから(ニコライ日記、一八八七年一月一〇日)、「日本のニコライ」に「正教の大義」の実践者を見たロシア人は少なくなかったのかもしれない。日本の宣教団にロシアから多額の寄付金が送られてきた背景にも、同じ事情が働いていたかもしれない。
 ドストエフスキーは、自分がこれから演壇で話すことのいわば生き証人としてニコライに会っておきたかったのだろう。西欧世界が失った「真のキリスト教」をロシアが保持しているのだと信じる小説家が、そのロシアのキリスト教を異教徒に伝えるべく努力している宣教者を訪ねたのである。「知り合いになれてうれしかった」というドストエフスキーのことばは、その意味でもよくわかる。ドストエフスキーを見るニコライの目は冷静であるが、ニコライも熱い祖国愛のロシア人であったから、ドストエフスキーの訪問を喜んだだろう。
 「一八八〇年六月六日、金曜、プーシキン記念日除幕の日」(露暦)にも、ドストエフスキーとニコライは会っている。ドストエフスキーのプーシキン講演とニコライ訪問とは直結していたのである。
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1880年6月6日にも「ドストエフスキーとニコライは会っている」とありますが、『宣教師ニコライの全日記 第1巻』(教文館、2007)の同日条を確認したところ、上下二段組みで3ページ分の長大な記述の中で、

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 アムヴロシイ座下の部屋へ行った。四〇分後、かれと一緒に貴族集会の晩餐会へ。
 これは各地からプーシキン記念祭に参加した代表者たちのためにモスクワ市が催した晩餐会である。広間で待っている間に、ツルゲーネフを介して作家のグリゴローヴィチに紹介された。(玄関でドストエフスキーとまたばったり会った)。グリゴローヴィチは博物館のためだとかで何かをわたしに頼もうとしたのだが、他の人たちとの話に気がとられてしまった。アレクセイ・アレクセーヴィチ・ガツーク〔出版社経営〕が宣教団に「十字架のカレンダー」その他、自分のところの刊行物を寄付したいと申し出た。送り先だけ知らせてくれればよいとのこと。
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という具合に、「玄関でドストエフスキーとまたばったり会った」とあるだけですね。(p310)
ニコライの方はドストエフスキーには無関心であることが窺われます。
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その1)

2019-12-18 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年12月18日(水)10時44分17秒

三日ほど投稿を休んでしまいましたが、またボチボチと進めて行きます。
この間、中村健之介監修・共訳『宣教師ニコライの全日記』全9巻(教文社、2007)をほんの少しだけ読んでみましたが、大変な労作ですね。
そもそも中村氏のニコライの日記との出会いがなかなかドラマチックです。
『宣教師ニコライと明治日本』(岩波新書、1996)の「まえがき」から少し引用してみます。

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 宣教師ニコライ、といってもいぶかしい顔をなさる方が多い。しかし「神田駿河台のニコライ堂を建てた、ロシアから来たキリスト教の坊さん」と申し上げるとすぐに「ほう、あのニコライ堂の」と、旧知の人の名にふれたかのように興味を示してくださる方が、これも多い。正式の名称は日本ハリストス正教会復活大聖堂、通称ニコライ堂は、あたかもなつかしい思い出と結びついたなつかしい地名のようにいまもかなり年配の方々の記憶に生き続けているようである。
 とはいうものの、その有名なニコライ堂のニコライがどのような人であったのかは、実はほとんど知られていない。教会の外の人たちをも読者とするニコライ伝は書かれたことはなかったし、かれの創建した日本ハリストス正教会についての研究も乏しかった。
 明治三一年(一八九八)年の内務省の調査によれば、当時の日本のキリスト教徒はカトリックが五万三千九二四人で最も多く、次がニコライの正教会で二万五千二三一人、三番目がプロテスタントの組合教会であったが、正教会がどのようにしてそれほどの信者を得ていったのかということも、十分明らかになっていない。また、ニコライがロシアから伝えたそのハリストス正教とは一体どのようなキリスト教であるのか、カトリック、プロテスタントとどのように違うのかということも、私たちはよく知っているわけではない。ハリストス正教はたしかに明治の日本各地の地方都市と農漁村、そしてある程度は大都市にも確実に浸透したのだが、その実態はよくわからなくなってきている。
 ところが、いまから一七年前、一九七九年秋、ニコライと明治の正教会の実態を明らかにするまたとない文書が見つかった。思いがけずもレニングラード(今のサンクト・ペテルブルグ)の国立中央歴史古文書館にニコライ自身のおよそ四〇年間にわたる日記が保管されていることがわかったのである。
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1898年時点で正教会の信徒数がカトリックに次いで二番というのは意外な感じがしますが、「ニコライ自身も、カトリックに復帰した長崎の隠れキリシタンを数えなければ、正教会の方がカトリックより入信者は多いと言っている」(p90)そうですね。
しかも、海老沢有道『日本の聖書』によれば、正教会は外国人宣教師の数が他派に比べて極めて少なかったにもかかわらず「プロテスタントを遥かに凌駕する布教成績を挙げていた」とのことで(同)、その理由の相当部分はニコライの宣教師としての有能さにあるようです。

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 ニコライの日記の存在がどうしてわかったか。それについて語るには私とニコライとの「遭遇」にふれておかなければならない。
 私がニコライに興味をいだくようになったのは一つの質問がきっかけだった。
 ある研究発表会の後で、北海道大学文学部の小山皓一郎氏から「ドストエフスキーとニコライは関係があるというが、どういうことがあるのか」と尋ねられたのである。一九七七年の夏のことである。
 ドストエフスキーはモスクワからスターラヤ・ルーサの自宅の妻アンナに宛てた手紙にこう書いている。
「いまモスクワに来ている日本のニコライにぜひ会いたい。かれは大変わたしの興味をそそる(露暦一八八〇年五月二九日)
「きのう、お昼前、アレクセイ副主教と日本のニコライを訪ねた。この人たちと知り合いになれて、とてもうれしかった。一時間ほどいて、なんとかいう伯爵夫人が訪ねて来て、それでわたしはおいとまして来た。二人ともわたしに対して心を開いて話をしていた。かれらは、わたしが訪ねたのが自分たちにとって大いに名誉でありうれしいことだと言った。わたしの作品を読んでくれていた。ということは、神の側に立つ人たちからは評価されているということだ」(露暦一八八〇年六月二日)
 この手紙の「日本のニコライ」が東京神田の「ニコライ堂」のニコライであることを小山さんにお伝えしたのであるが、ドストエフスキーとニコライの間に直接どういうやりとりがあったのか、そもそもニコライとはどのような人で、日本についてどのような考えをもっていたのか、またなぜドストエフスキーはニコライを訪ねていったのか、そのときは答えることができなかった。私は自分がなんとなく宙ぶらりんの状態でいるような感じが残った。
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ということで、ドストエフスキーの研究者だった中村氏はニコライについて調べ始めるのですが、当時の日本の正教会関係者の間ではニコライが書いた記録は関東大震災で焼けたものと思われていたそうです。
日本ではさしたる成果を得られなかった中村氏は、

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 そこでアメリカの国会図書館の文献目録などを調べてみた。すると、ニコライはロシアの一般読者向けの雑誌や教会関係の雑誌にいくつかの論文を発表していることがわかった。それらの論文のコピーを取り寄せて読むうちに、私はニコライという人間に惹かれるものを感じた。ニコライの日本観、かれの内に生きている宗教にも興味がわいてきた。そしてニコライとともに日本の正教会を育ててきた日本人のことも知りたくなった。
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とのことで、この時期の成果のひとつが『ニコライの見た幕末日本』(講談社学術文庫、1979)ですね。
同書はニコライが1869年9月にロシアの雑誌『ロシア報知』に発表した「キリスト教宣教団の観点から見た日本」の翻訳です。
さて、「ドストエフスキーの研究を続けるかたわら」ニコライ関係の文献を探索していた中村氏は、「一九七九年、ソ連に留学滞在中、いろいろな教会を訪ねて人に訊いたり神学大学の図書館で調べたりしているうちに、レニングラードの古文書館にニコライの日記が保管されていることをつきとめた」のだそうです。

中村健之介(1939生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%81%A5%E4%B9%8B%E4%BB%8B
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渡辺京二『逝きし世の面影』の若干の問題点(その12)

2019-12-14 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年12月14日(土)10時43分12秒

それでは渡辺が引用するところのニコライ(1836-1912)の見解を見て行きます。(p455以下)

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 ロシア正教日本大主教のニコライは、欧米のプロテスタント宣教師とは違って、日本庶民の地蔵や稲荷に寄せる信仰に、キリスト教の真髄に近い真の宗教心を見出していた。田舎を旅行すると彼はいつも着飾って地蔵や稲荷にお詣りする女こどもに出会った。それは「宗教的感情が生き生きしているということだ」と彼は受けとった。お寺の釈迦の誕生祭で、甘茶を仏像に注ぐ人びとの行為に彼は共感した。彼はそういう行為は迷信だとか、たんなる行楽であるとは考えなかった。「純朴な行楽は民衆からとりあげてはならないものだということも知るべきだ。新しい生き生きとした魂が彼らに与えられるものなのだ。ロシアのキリスト教徒にもこれはある」。中村健之介によれば、宗教改革もルネサンスも知らず、世俗化の波にさらされることのなかったロシア正教は、前近代的なキリスト教信仰の本質を保持していた。ニコライが日本にもたらそうとしたのはそのような本物の宗教だった。彼はプロテスタンティズムは合理化された正義と実践道徳を説くだけで、真の信仰を持たないと考えていた。しかもそれは文明の魅力をふり撒くことで、日本人を信仰に誘うという邪道に陥っていた。そういう彼の眼には、日本の知識層は西洋文明に魅かれてプロテスタントとなるのであって、要するにそれは無神論と異ならなかった。ニコライの希望は日本の下層階級にあった。なぜなら、彼らは「魂の消し難い要求を満たすものが宗教だと率直に正直に認めている」からだ。中村は言う。「ロシア正教はキリスト教ではあるが、むしろ明治の日本の庶民のいわば前近代的な宗教心、宗教感情に接合しうる信仰だった。少なくともニコライ自身はそう感じた」。
 ニコライが、プロテスタント系の観察者が宗教とは無縁なものとみなした庶民の俗信を、かえって真の宗教心の発露と解することができたのは、母国ロシアのキリスト教信仰の実態をよく知っていたからであろう。ドストエフスキーと精神的交流があった。しかし話はなにもロシアに限らない。中世に遡るならば、日本庶民の俗信の世界と変らぬ民衆信仰の実態をヨーロッパ全土に見出すことができる。十九世紀の欧米人訪日者は、みなその記憶を失っていたのである。ただ彼らは、日本の仏教寺院の雰囲気がいちじるしくカトリック聖堂を思わせることには気づいていた。その類似を指摘している例は枚挙にたえぬほど多い。一例だけ挙げると、オールコックがこう書いている。「こういった仏教寺院のひとつに入ると、私はカトリックと同じだという確信を抱かざるをえないし、のちに仏教徒がローマ教会から借用したか、あるいはローマ教会が初期に仏教から借用したかのどちらかだという考えが、どうしても浮かんでしまう。……私たちのあとから出入りする人びとが、礼拝の場所に大した敬意も払わずに、ひどい騒音を立てているのも、両者の類似した一特徴といってよいようだ。というのは、私はローマの聖ペテロ寺院で、大切な祭日に、子どもや犬が群衆に交って、寺院にも祀られている神にも全く同様に敬意を示さず、出たり入ったりしているのを見たことがあるからだ」。しかしオールコックの口振りからわかるように、彼らはこういう注目すべき類似から、民衆信仰のありかたについて何の示唆も受けなかったのである。
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渡辺はニコライについて中村健之介の『宣教師ニコライと明治日本』(岩波新書、1996)を参照していて、引用も同書中に紹介されているニコライの日記からなされています。(p462、注45)
ただ、中村は15年後に改めて『宣教師ニコライとその時代』(講談社現代新書、2011)を出していて、中村にとっては前著は、1979年にニコライの膨大な日記を発見した中村が「ニコライの日記を読んだ感動と、ドストエフスキーとニコライの出会いを早く読者に紹介したいという気持ち」(『宣教師ニコライとその時代』「はじめに」)から書いた、あくまで中間的なまとめです。
『宣教師ニコライとその時代』を読んでみると、ニコライとドストエフスキーとの関係などについて、渡辺の説明とは若干異なる印象を受けますね。
そこで、あまり深入りはできませんが、主として『宣教師ニコライとその時代』の方を参照しつつ、少しだけ検討してみたいと思います。

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幕末の文久元年(1861)7月、25歳の若きロシア人司祭が蝦夷地の箱館に到着しました。その名はニコライ。ロシア領事館付き司祭として正教を広めるという遠大な志を抱いて、この極東の島国にやってきたのです。それから約50年にわたって、彼は日本人にロシアのキリスト教を伝えるべく奮闘します。【中略】
高僧ニコライが厖大な日記を残していたことは知られていましたが、すべて関東大震災で消失したと信じられてきました。ところが、日記は震災前にペテルブルグの古文書館に移されており、ずっと眠っていたのです。そのことをつきとめたのが著者中村健之介氏でした。1979年のことです。
中村氏は日記の公刊、および翻訳という大事業に取り組むと同時に、その内容を一般向けに紹介すべく早い段階で『宣教師ニコライと明治日本』(岩波新書)を書きました(ただし、この段階では日記のすべては解明されていません)。その後、2004年に『聖・日本のニコライの日記』五巻(ロシア語原文)を刊行、そして2007年には、氏をふくむ19人の訳者による日本語翻訳版『宣教師ニコライの全日記』九巻(教文館)が、ようやく刊行されたのです。【中略】
本書は全貌が明らかになった日記全体をふまえた上でのニコライ紹介であり、いわば決定版です。今年(2011年)はニコライ来日150 年、来年は没後100年にあたります。この節目の年に本書が刊行されることはまことに意義あることです。ぜひ多くの方々に読んでいただきたく思います。

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000210588
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渡辺京二『逝きし世の面影』の若干の問題点(その11)

2019-12-13 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年12月13日(金)11時25分31秒

ニコライの見解に触れる前に、渡辺が「古き日本人の宗教感情の真髄」として説くものが具体的に何かを見ておきます。(p454以下)

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 古き日本人の宗教感情の真髄は、欧米人や赤松のような改革派日本人から迷信あるいは娯楽にすぎぬものとして、真の宗教の埒外にほうり出されたもののうちにあった。篠田鉱造は「八十八ヶ所のお大師さん参り」の楽しみを語った老女の話を『明治女百話』に採録している。「倅が嫁でも迎えたら、この御参詣〔おまいり〕に加わって、大勢男女打連立て、浮世話や軽口を聞いて、ご信心をしますと、胸がスッキリして、頭がスーッとするんです」というこの老女の「ご信心」とはいったい何だったのだろうか。一日十二里をきまって歩くというこの強行軍の楽しみは、仲間との浮世話や軽口もさることながら、行く先々での人びととの交歓にあったようだ。練馬では「村の衆が沢庵の厚切と、野菜の煮たのを用意して」迎えてくれる。「こっちのお弁当はまた、あっちへ開いてやります。ソレを村の衆は、楽しみにしているんだそうで、お海苔巻やごもくずしといったのを盤台にもらい溜めて、村中大喜びでした」。
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いったん、ここで切ります。
『明治女百話』は正確には『幕末明治女百話』で、今は岩波文庫で読めます。
篠田鉱造(1871-1965)は新聞記者ですね。

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『幕末百話』『明治百話』に続き,聞き取りの対象を女性にしぼって集めた百話.名士の家庭にも易々と入り,巷の風俗や季節の楽しみをこまやかに観察し,男性とはひと味異なる女性ならではの逸話がそろった.旧幕書生の出世物語あり,江戸っ子の意気張りづくで耐えた刺青の体験談あり,江戸趣味のまだ滅びない時代の面影を伝える.(全2冊)
■内容紹介
 女百話は,女の目に心に,女ならでは持たない,深みとねばり,鋭さと敏さとを狙いました.初めは明治時代を描くつもりが,七,八十の老諸姉を叩くと,まだ幕末の昔話が,どっさり蘇っているのに驚き,ついに『幕末明治女百話』を纏め得ました.
 どちらへ訪れても,老女の第一声は「この頃ついぞ昔のお話をしませんものですから,旧幕のお話は忘れてしまいました.ソレに家内のものが,テンデ相手にしませんから,昔話を嘘のように思って,昔はどうのこうのと申しますと,昔なんかと嚼んで吐き出すように申しますから,癪に障って口を緘んでいます」という方,「こんな昔話が――つまらんお話がお役に立ちますかしら,宅の者がいいますには,どんなお話があるんですか,本に残るんですよ,大丈夫ですかと申しますんですよ」という方.
 一方は癪に障って,結構な昔話が,胸底に押込められていた.ソレを聴くと,溌溂たる昔話が刎返って出る.一方は悴娘に念を押されても,この話ならと,自信の下に,すらすらと語られる力強い話,いずれにしても実話そのものは,胸に刻まれた時代の絵模様で,極彩色から淡彩画,後世に伝えて恥ずるところがない.……
(「人知れぬ汗雫」より)
https://www.iwanami.co.jp/book/b246529.html

篠田鉱造(1871-1965)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A0%E7%94%B0%E9%89%B1%E9%80%A0

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 これはたんなる物見遊山ではない。信心の行為であるゆえに村人は一行を歓待したのだし、一行もまた純化された感情のなかで村人の厚意に応えたのだ。その信心とは別に仔細あるものではなかろう。無事に嫁を迎えることのできる歳まで生きながらえたことへの報謝であり、さらに一家の今後の浄福をねがう心であったろう。しかしそれは日常を越える聖なるもの大いなるものの存在を感知する心でもあった。だからこそ胸も頭も晴れやかだったのである。ここには、「巡礼姿の寺社参詣人たちは、俗の世界の往来においても、神仏と結縁した存在と認められ、俗界のもろもろの縁や絆と切れた存在とな」るという中世以来の伝統がまだ強力に働いている。お大師詣りの人びとと村人との交歓はこういう非日常的次元に成り立っていたのだ。
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「巡礼姿の寺社参詣人たちは、俗の世界の往来においても、神仏と結縁した存在と認められ、俗界のもろもろの縁や絆と切れた存在とな」る云々は勝俣鎮夫『戦国時代論』(岩波書店、1996)からの引用です。
網野善彦の「無縁」論ほどではありませんが、勝俣鎮夫の「無縁」論についても、最近は呉座勇一氏などからの批判がありますね。
ま、今は勝俣「無縁」論を論ずる余裕はありませんが、果たして渡辺が言及する「八十八ヶ所のお大師さん参り」の例から「中世以来の伝統がまだ強力に働いている」と言えるかは相当に疑問です。
「これはたんなる物見遊山ではない」としても、やはり娯楽の色彩が濃厚であり、この例から「日常を越える聖なるもの大いなるものの存在を感知する心」とか「中世以来の伝統」とか「非日常的次元に成り立っていた」などと言われると、さすがに大袈裟なのでは、という感じは否めません。
個人的な印象としては、渡辺が言う「古き日本人の宗教感情の真髄」は、少なくとも八割くらいは娯楽から成り立っているのではなかろうか、と思われます。

『一揆の原理』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f697795ddda4f22bad6c05066839d783
勝俣「無縁」論
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a389dfa9ce51c284b7c3e30cfe7d0bb8

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渡辺京二『逝きし世の面影』の若干の問題点(その10)

2019-12-12 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年12月12日(木)12時15分6秒

11月15日に渡辺京二『逝きし世の面影』の紹介を始めてから一ヵ月近く経ってしまいました。
初めて『逝きし世の面影』を読んだ時、私は「第十三章 信仰と祭」の最初の方、即ち日本の武士階級ないし当時の知識層がいかに信仰と縁のない人々であったかを強調する部分にしか注目せず、そのサバサバした無神論の世界の後に渡辺が熱意を込めて描いた、ほのぼの・しみじみとしたエピソードの数々は全く無視していました。
今回、渡辺が個々の出典を正確に引用しているのかを含め、それなりに丁寧に「第十三章 信仰と祭」全体を読んでみましたが、やはり学問的に重要なのは最初の方だけで、残りは読み物としては面白いものの、歴史学にはあまり役に立たない随想に終始していますね。
一番の問題は渡辺の描く「庶民」・「民衆」の信仰なるものが、宗教に関わる様々な事象の中から渡辺の思い描く「真の宗教心」「本物の宗教」に適合するものだけを恣意的に選択した結果になってしまっている点です。
渡辺は最初の六ページほどで欧米観察者から見た日本人の「宗教」について論じ、プロテスタント的な「とほうもない基準を適用されたとき、幕末・明治初期の日本人が非宗教的で信仰なき民とみえたのは致しかたもないことだった」(p445)と暫定的な結論を出した後、「しかし、彼らのうちのある者は、自分たちの宗教概念には収まらぬにせよ、日本人に一種独特の信仰の形態が厳として存在することに気づいていた」(同)として、富士巡礼の例などを検討します。
そして、オールコックの「少なくとも下層の人びとの間にある程度生き生きとした宗教感情が存在する」(同)との発言を引用しますが、ここで「宗教」から「宗教感情」に議論が移って行きます。
ついでロバート・フォーチュンが見た「徳川期において、日蓮宗と並んでもっともよく民衆を組織した真宗寺院の実態」を詳細に引用して「何と明るく楽しげな雰囲気であることだろう」(p447)との感想を挿入し、更にエドウィン・アーノルドの「彼らは熱烈な信仰からは遠い(undevotional)国民である。しかしだからといって非宗教的(irreligions)であるのではない」(p449)という表現が「注目すべき言表」(p450)だと言います。
また、ロバート・フォーチュンが「神奈川宿の近傍」で、地蔵にお参りに来た「かなり立派な身なりで上流階級に属するかと思われる三人の女性」と「しばらくいっしょに煙草を吸って、仲よくお別れした」(p450)という他愛のないエピソードに、「天にまします唯一神に祈れば迷信ではなく、路傍の石仏に願をかければ迷信だという区別が、いったいどうして可能なのかという疑問」(p451)を呈した後、「この女たちが地蔵に線香を供えることで、具体的な現世利益を願ったことは確かだとしても、それと同時に、彼女らがこの世を包含するさらに大いなる神秘の世界と交感したのであることは疑いようのない事実だ」(同)という、まあ、率直に言って頓珍漢な感想を抱きます。
そして「フォーチュンもブラントも、日本人の宗教意識を理解する入口に立っていたのである」(p452)という上から目線の指摘をした後、「結局、日本庶民の信仰の深部にもっとも接近したのは、アリス・ベーコンであったようだ」(同)という、原文の誤読に基づく誤解を述べます。
原文をきちんと読んでみたところ、那須塩原温泉の近くで茶屋を営む老女は「すべての自然が深遠な神秘に包まれている文化のありかたへの共感を、私たちの心に湧きあがらせてくれた」(p453)訳ではないですね。
さて、以上のような様々なエピソードの紹介を踏まえて、渡辺は「日本人の宗教心を仏教や神道の教義のなかに求めたり、またそれら宗教組織の活動にうちにたずねたりするのは無駄な努力というものだった」(p453)とし、赤松連城とイザベラ・バードの対話を紹介した後で、赤松の言辞は「彼の念頭にある宗教理念がまったくキリスト教モデルに従うものであることを示すと同時に、彼が日本民衆の信仰世界にいささかの理解ももたず、それを侮蔑していたことを暴露している」(p454)と非難し、「古き日本人の宗教感情の真髄は、欧米人や赤松のような改革派日本人から迷信あるいは娯楽にすぎぬものとして、真の宗教の埒外にほうり出されたもののうちにあった」(p454)という結論を出します。

渡辺京二『逝きし世の面影 日本近代素描Ⅰ』(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5d0a0f2da2b028ff1e633554d554cc8d

ただ、奇妙なことに、この後で渡辺は、「ロシア正教日本大主教のニコライは、欧米のプロテスタント宣教師とは違って、日本庶民の地蔵や稲荷に寄せる信仰に、キリスト教の真髄に近い真の宗教心を見出していた」(p455)として、ニコライの見解を詳しく紹介します。
数多くの欧米人観察者の最後に登場して「日本庶民」の信仰に「キリスト教の真髄に近い真の宗教心を見出し」たのがニコライということなので、「結局、日本庶民の信仰の深部にもっとも接近したのは、アリス・ベーコンであったようだ」との整合性はどうなるのだろうという疑問が生じますが、その点を含め、次の投稿でニコライの見解を少しだけ検討します。

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