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後鳥羽院の配流を誰が決定したのか。(その1)

2021-11-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月24日(水)10時00分39秒

>筆綾丸さん
>後鳥羽院の処刑(護送中の変死を含む)をどのくらい検討したのでしょうね。

これは全くなかったと思います。
そもそも後鳥羽院の配流を実質的に誰が決定したかですが、多くの研究者は義時だと考えているようです。
例えば呉座勇一氏は『頼朝と義時 武家政権の誕生』において、

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 人生で何度も窮地に立たされた後白河法皇でさえ、平清盛や木曽義仲に幽閉されたに留まる。上皇が臣下と戦って敗れて流罪になるなど、未曽有の事態である。治天の君である後鳥羽が実質的に「謀反人」として断罪されたのだ。この断固たる措置は、義時の意向によるものだろう。
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とされています。(p311)
しかし義時が本当にこのような「未曾有」の「断固たる措置」を取れたのか。
『吾妻鏡』には、義時にそうした断固たる指導者としての資質があったのかを疑わせる二つのエピソードがあります。
一つは開戦に際しての義時の逡巡です。
呉座著によれば、

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幕府首脳部の作戦会議
 承久三年五月十九日の夕刻、北条義時の屋敷で幕府首脳部が今後の戦略を協議した。参加者は義時・泰時(義時の長男)・時房(義時の弟)、大江広元、三浦義村、安達景盛らである。
 論点は、積極攻勢策か迎撃策か、どちらを選択するかにあった。東海道の要衝である足柄・箱根の両関所を固めて防衛に専念するという意見が強かった。
 先の政子の演説に見えるように、幕府は後鳥羽上皇に反逆するのではなく、後鳥羽院の「君側の奸」を討つという大義名分を掲げている。とはいえ、京都に向かって攻め上れば、「朝敵」のそしりは免れないだろう。義時らが及び腰になるのも無理はない。
 けれども広元は「時を移せば関東武士の結束が乱れて敗れるだろう。運を天に任せて早く出撃すべきだ」と主張した。【中略】
 会議で結論が出せなかったため、義時は鎌倉殿代行の政子に、積極攻勢策と迎撃策の二案を提示し、決断を求めた。【後略】
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ということで(p297)、義時は積極攻勢策という「断固たる措置」の採用を決断できず、政子に判断を委ねた訳です。
そして、積極攻勢策で行くという政子の判断が下されたにも関わらず、五月二十一日になると「動揺した幕府首脳部は再び迎撃策に傾いた」訳ですが(p298)、十九日の会議参加者のうち、誰が「再び迎撃策」を提案したのかは不明です。
しかし、義時が、既に「断固たる措置」を取るとの政子の裁定が出ているのに何を言っているのだ、と反論しなかったことは明らかです。
他方、

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 これに対して広元は、「上洛を決定しながら、なかなか出陣しないから、迷いが生まれて反対意見が出てしまった。武蔵の武士を待つために時を重ねれば、彼らも心変わりするかもしれない。北条泰時が自身一騎だけでも出陣すれば、東国武士は後に続くだろう」と再び積極策を説いた。
 そこで政子は、年老いて病に倒れていた三善康信にも諮問したところ、康信も「大将軍一人でも早く出撃すべきだ」と答えた。広元と康信の意見が一致したことで義時もついに決断し、泰時に出撃を命じた。【後略】
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ということで、義時は「断固たる措置」を迅速に執行せず、グダグダとした混乱を生んだ張本人ですね。
この点、呉座氏は、

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 それにしても、一連の戦略決定の過程で、義時の影は奇妙なほど薄い。「朝敵」と名指しされた義時にしてみれば、自身の意見を積極的に示しづらかったのだろう。想像をたくましくすれば、当事者である義時の考えを広元や政子が代弁した側面もあるのではないか。
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と言われますが(p299)、私にはわざわざ「想像をたくましく」しなければならない理由がさっぱり分からず、呉座氏の単なる妄想だろうと思います。
さて、義時が「未曾有」の「断固たる措置」を取ったことを疑わせるもう一つのエピソードは六月八日の落雷騒動です。
呉座著にも関連する記述がありますが(p308)、正確を期して『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)の今野慶信氏の訳を参照させてもらうと、

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 同じ日の戌の刻に鎌倉で雷が義時の館の釜殿に落ち、人夫一人がこのために死亡した。亭主(義時)はたいそう恐れて大官令禅門(覚阿、大江広元)を招いて相談した。「泰時らの上洛は朝廷に逆らい奉るためである。そして今この怪異があった。あるいはこれは運命が縮まる兆しであろうか」。広元が言った。「君臣の運命は皆、天地が掌るものです。よくよく今度の経緯を考えますと、その是非は天の決断を仰ぐべきもので、全く恐れるには及びません。とりわけこの事は、関東ではよい先例です。文治五年に故幕下将軍(源頼朝)が藤原泰衡を征討した時に、奥州の陣営に雷が落ちました。先例は明らかですが、念のため占なわせてみて下さい」。(安倍)親職・(安倍)泰貞・(安倍)宣賢らは、最も吉であると一致して占なったという。


といった具合です。(p114)
私自身はこのエピソードを必ずしも事実の正確な記録とは考えず、精神的に不安定だった義時を、広元が「まあまあ、落ち着いて下さいな。奥州合戦のときも陣中に落雷があったと聞いていますが、結果的には大勝だったではありませんか」と宥めた程度の話ではないか、と思いますが、いずれにせよ、ここから窺われる義時像は「未曾有」の「断固たる措置」を取る指導者とは程遠い感じです。
では、いったい誰が後鳥羽配流を断固として主張したのか。
開戦の経緯を鑑みれば、私には答えは自明のように思われます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

姫の前のあとさき 2021/11/23(火) 13:20:52
小太郎さん
福沢諭吉の「恰も一身にして二生を経るが如く,一人にして両身あるが如し」という名言に倣っていえば、姫の前は、義時と別れた後の人生もとても重い、ということになりますね。むしろ、朝時や重時などを産んだのは不本意で、源具親に嫁したのが本懐であった、ということもありえますね。

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(幕府は)天皇や上皇を殺すことはしませんでした。討幕運動を何度も行った後醍醐天皇が配流で済んだのは、承久の乱が前例となったためかもしれません。(121頁)
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と、本郷氏は言われますが、義時や広元たちは、後鳥羽院の処刑(護送中の変死を含む)をどのくらい検討したのでしょうね。昔からの疑問です。
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