学問空間

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外村展子氏「『沙弥蓮瑜集』の作者と和歌」(その8)

2022-09-30 | 唯善と後深草院二条

続きです。(p39以下)

-------
 北条貞時は、様々の改革を試み、永仁元年(一二九三。八月五日改元)十月、引付を廃止して、新たに執奏の制を定めた。そのうちの一人に、景綱が起用されている。ここにおいて景綱は完全に復活したのである。翌永仁二年十月、執奏が廃止となり、引付が五番制として復活する。景綱は、北条氏一門以外では唯一頭人に任ぜられ、翌永仁三年四月の寄合で新恩を与えられる(永仁三年記・卯月廿七日)など、貞時に重く用いられ、それは、永仁六年に景綱が亡くなるまで変わらなかった。霜月騒動、平頼綱・助宗父子の滅亡、その後の政治改革は、貞時独裁を実現するための一連の動きで、霜月騒動の結果が、どの程度貞時の意に添ったものであったかは別として、ともかく、貞時独裁への御膳立ての役割を充分に果たしたわけである。そしてこういう機会を決して逃さず、北条氏得宗は、必ず有力御家人を滅ぼしてきたのである。にもかかわらず、宇都宮氏が滅ぼされなかったことには、様々な要因が考えられる。その要因の一つとして、宇都宮家が、関東における和歌の家であるという事実が考えられるのではないだろうか。貞時は『とはずがたり』の正応二年(一二八九)の段によると、将軍の御所よりはるかにきらびやかで、金銀や美しい玉をちりばめた、まるで浄土のような屋敷に住んでいたという。
-------

段落の途中ですが、いったん、ここで切ります。
国文学の方が書かれているので、政治史的な分析には甘さを感じますが、そこは批判しません。
ただ、『とはずがたり』の引用はかなり変で、外村氏は北条貞時と平頼綱を混同していますね。
当該場面は、

-------
 何ごとかとてみるに、思ひかけぬことなれども、平入道が御前、御方といふがもとへ東二条院より五つ衣を下し遣されたるが、調ぜられたるままにて縫ひなどもせられぬを、申し合はせんとて、さりがたく申すに、「出家の習ひ苦しからじ。そのうへ誰とも知るまじ。ただ京の人と申したりしばかりなるに」とて、あながちに申されしもむつかしくて、たびたびかなふまじきよしを申ししかども、果ては相模の守の文などいふものさへとり添へて、何かといはれしうヘ、これにては何とも見沙汰する心地にてあるに、安かりぬべきことゆゑ、何かと言はれんもむつかしくて、まかりぬ。
 相模の守の宿所のうちにや、角殿とかやとぞ申しし。御所さまの御しつらひは、常のことなり。これは金銀金玉をちりばめ、光耀鸞鏡を瑩いてとはこれにやとおぼえ、解脱の瓔珞にはあらねども、綾羅錦繍を身にまとひ、几帳の帷子引き物まで、目も輝きあたりも光るさまなり。
 御方とかや出でたり。地は薄青に紫の濃き薄き糸にて、紅葉を大きなる木に織り浮かしたる唐織物の二つ衣に、白き裳を着たり。みめことがら誇りかに、たけ高く大きなり。かくいみじと見ゆるほどに、入道あなたより走りきて、袖短かなる白き直垂姿にて馴れ顔に添ひゐたりしぞ、やつるる心地し侍りし。

http://web.archive.org/web/20150513074937/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-4-hisaakirasinno.htm

というもので、「相模の守の宿所のうち」、北条貞時の屋敷の一画に「角殿」という建物があって、そこに平頼綱とその室(「御方」)が住んでおり、東二条院から平頼綱室に「五つ衣」が贈られてきたものの、その裁ち方が分からないというので二条が呼ばれ、二条が「角殿」を訪ねたところ、派手な衣装を着た大柄な「御方」が登場し、その後に頼綱がチョコマカと走り寄ってきて、袖短かの白い直垂姿で馴れ馴れしそうに「御方」の側に座ったのにはうんざりした、というストーリーです。
豪華な建物の描写はあくまで「角殿」の話であり、もちろん平頼綱の住む「角殿」がそこまで立派なのだから、北条貞時の住む本邸は同様に、あるいは更に立派なのでしょうが、しかしその様子は『とはずがたり』には描かれていません。
さて、続きです。(p39以下)

-------
生活のすべてが貴族志向であったのか、和歌にものめりこみ、家集こそ残していないが、しばしば歌会等を催し、『新後撰集』以下の勅撰集にニ十五首の入集を果たしている。その勅撰集への入集に関して、

  <玉葉>藤範秀<号小串六郎 右衛門尉>
   撰者大納言為兼卿、適処依有関東之免、<一族家人不可入勅集之由、最勝園禅門被誠之云々>
   被書入于玉葉畢、是無先例歟。以平大納言経親執筆云々。(勅撰作者部類・作者異議)

とある記事から、貞時(最勝園禅門)が、かなり重大な事柄であると考えていたことがわかる。
-------

段落の途中ですが、ここで再び切ります。
外村氏が『勅撰作者部類』を引用される意図がちょっと分かりにくいと思いますが、この「作者異議」エピソードについては、井上宗雄氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期 改訂新版』に解説があります。
ただ、井上氏の解説(p198)も快刀乱麻とはいえず、若干分かりにくいところがあるのですが、私なりに整理してみると次の通りです。
まず、問題となった小串範秀(?-1339)は雪村友梅に禅宗を学び、早歌「曹源宗」の作者(雲岩居士)であり、公家に出入りして琵琶の伝授を承けるなど著名な文化人でしたが、北条(常葉)範貞の「家人」であって家格が高いとはいえません。
そこで、北条貞時が「一族家人」は勅撰集には入れてはいけない、と言ったのに対し、範秀の歌をどうしても『玉葉集』に入れたいと考えた為兼があれこれ工作して、結局「関東之免」を得た、という話のようです。
従って、貞時が和歌を好み、勅撰集入集を重視していたという話とはズレがあるので、ここでの引用の仕方は些か不親切なように思われます。

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外村展子氏「『沙弥蓮瑜集』の作者と和歌」(その7)

2022-09-30 | 唯善と後深草院二条

今年の五月から六月にかけて、 小川剛生氏の「京極為兼と公家政権─土佐配流事件を中心に─」(『文学』4巻6号、2003)という論文を素材として、京極為兼について色々考えてみました。

小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その1)~(その22)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/19c179315a06cf09305cda3654717d96
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5a8215de654c4a849ea52c374d9bf658

その過程で善空事件も細かく検討してみて、私は善空事件と浅原事件の関連について、若干の考察を試みました。
もちろん私も数年間ダラダラ続いた善空事件と、騒動自体は正応三年(1290)三月十日の僅か一日で終わった浅原事件との間に何らかの因果関係があるとは考えていません。
ただ、浅原事件は善空事件の奇妙な曖昧さを解明するヒントになるのではないかと思います。
私見では、そもそも平頼綱政権は一枚岩ではなく、反安達泰盛の一点で結びついた北条一門(中心はおそらく連署の大仏宣時)と平頼綱以下の得宗被官の連合体と想定します。
そして平頼綱が露骨に朝廷との接近を図ったため、京都では平頼綱派の影響力が強く、これが善空上人の活動の温床となったと想定します。
更に、正応三年(1290)三月の浅原事件の発生までは、六波羅から鎌倉へ伝わる情報は平頼綱派に偏り、朝廷が鎌倉の意向として受け取った情報も、実際には平頼綱派によって歪められた情報になっていたと想定します。
ところが、浅原事件の結果、真相究明と責任追及のために京都と鎌倉の情報交換が活発化し、その副産物として、従来、鎌倉が得ていた京都情報が必ずしも正確ではなく、平頼綱派により歪められていたことが得宗の北条貞時、そして連署の大仏宣時を中心とする反頼綱派に伝わったと想定します。
他方、朝廷からすれば、従来、善空上人等の意向が鎌倉の意向だと思って我慢していたのに、どうもそうでもないらしい、ということが分かってきたと想定します。
以上、想定を重ねてみましたが、平頼綱政権が一枚岩ではないという最初の想定は、古くは山川智応氏の「武蔵守宣時の人物事蹟位地権力と其の信仰」(『日蓮上人研究』所収、新潮社、1931)、最近では細川重男氏の「飯沼大夫判官資宗─「平頼綱政権」の再検討」(『鎌倉北条氏の神話と歴史』、2007)などでも言われていることであり、まあ、確実だろうと思います。
そして以降の想定も、善空事件の奇妙に曖昧な推移と、平禅門の乱に至る過程をそれなりに合理的に説明できる推論なのではなかろうかと考えます。

善空事件に関する森幸夫説への若干の疑問(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d49541827aac69a5ad6a0deb7587e605
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d614408ec9caa4bb1bba137d93ec590c

このように考えると、浅原事件への対応のために派遣された「東使」二人が果たした役割は、三年後の平禅門の乱につながるもので、歴史的に非常に重要なものだったことになります。
また、浅原事件と平禅門の乱(1293)の間に催された「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」に宇都宮景綱が参加したことは、景綱が浅原事件の対応で北条貞時の信頼を得たことを示しているように思われます。
さて、外村論文に戻って、続きです。(p38以下)

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その後は、正応四年八月十五夜の将軍家(久明親王)和歌御会に参加(沙弥蓮瑜集・275)し、正応五年に催された平貞時朝臣三嶋社十首歌にも加わっている(同・33 79 150 237 385 493)。その翌年、安達一族を滅ぼした平頼綱・助宗父子が、貞時により、あっけなく討たれる。

 合戦以前平左衛門宗綱令参云々。父子違逆意上者、不可蒙御不審之由、種々申之間、以安東
 新左衛門尉重綱問答、其後宇津宮入道預了。(親玄僧正日記・正応六年四月二十二日)

頼綱の嫡子宗綱が、合戦の前に貞時のもとに参じ、逆意のないことを弁明したので、景綱(宇津宮入道)に預けたという(その後佐渡に流された)。この小規模な合戦で平頼綱はじめ百人足らずが死に、頼綱の独裁政治の時代が終り、かわって、二十四歳の青年得宗貞時による独裁政治がはじまるのである。
-------

平禅門の乱で、合戦の前に出頭した平頼綱の長男・宗綱は安東重綱の尋問を受けた後、景綱に預けられますが、これも貞時の景綱に対する信頼の深さを反映しているのではないかと思われます。

平宗綱(生没年未詳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%97%E7%B6%B1

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外村展子氏「『沙弥蓮瑜集』の作者と和歌」(その6)

2022-09-29 | 唯善と後深草院二条

前回投稿では『沙弥蓮瑜集』の42・43番、

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     新黄門<為兼卿>梅の枝につけて申しおくられ侍る
42 君がためまづぞをりつるこゝのへにひらけそめぬる梅のはつ枝
     返し
43 身におはぬ色香なれどもこゝのへの梅にことしは老をかくさむ
-------

について、「この井上説が正しいとすれば、為兼と景綱は正応五年の春に同じ場所にいたことになりますが、それは京都なのか、それとも関東なのか」などと書いてしまいましたが、「こゝのへ」(九重)=宮中ですから京都に決まっていましたね。
ただ、そうすると、この贈答歌が本当に正応五年(1292)のものなのかが疑問になって来るのですが、その点は後で検討したいと思います。
さて、『鎌倉年代記裏書』には浅原事件が正応三年(1290)三月三日とありますが、正確には九日の深夜から翌十日の早暁にかけての出来事です。
また、『鎌倉年代記裏書』は「三条宰相中将実盛朝臣為与党被召渡六波羅、依此事、下野入道蓮瑜、出羽前司行藤為使節、同廿一日上洛」として、三条実盛が六波羅に逮捕された後、三月二十一日に宇都宮景綱と二階堂行藤が上洛したように読めますが、『続史愚抄』には四月二日条に「関東使三人入洛〇歴代編年」とあり、同月八日条に「六波羅武士向三条前宰相中将<実盛>第執宰相及息侍従公久小童等、是依有逆徒源為頼同意聞也<以所伝于三条家鯰尾源為頼令自殺云。〇綸旨抄<前>、増鏡、歴代最要、将軍家譜、保暦間記>」とあります。
今は手元に『続史愚抄』程度の資料しかないので細かい事実関係は追えませんが、とにかく皇居(里内裏)に不逞の輩が乱入し、乱暴狼藉の挙句に自殺して紫宸殿等を汚したという大事件ですから、鎮圧後直ちに「天下蝕穢」とされ、十五日には「依天下穢石清水臨時祭祇園一切経会等延引」、二十八日には「来月広瀬龍田祭依穢延引」等の事態となり、京都は騒然とした状況が続きます。
そして、宇都宮景綱・二階堂行藤は、この事件の調査と責任追及という重大な任務を負って「東使」として京都に派遣された立場である上、景綱は霜月騒動以後の政治的キャリアの沈滞を打破するためのチャンスを与えられた訳ですから、相当に頑張ったものと思われます。
西園寺公衡からは亀山院が使嗾したとの訴えもあったので、純粋な事実関係の解明以外に、慎重な政治的配慮も必要だったはずです。

『増鏡』巻十一「さしぐし」浅原事件
http://web.archive.org/web/20150918041631/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-asaharajiken.htm

そして、景綱が「右兵衛督<為兼卿>」と歌の贈答をした五月五日は、「東使」としてなすべき事件処理が一段落して、当初の緊張が一応沈静化した頃合いではないかと思われます。
とすると、「右兵衛督<為兼卿>」の「為兼卿」は「為世卿」の誤記だとする外村展子説が疑問になってきます。
京極為兼は暗殺の対象となった伏見天皇の寵臣ですから、景綱は頻繁に為兼と連絡を取り、事実関係の調査とともに事件処理の方向性、特に亀山院への対応について相談もしたはずです。
他方、二条為世は浅原事件の教唆犯の疑いをかけられている亀山院に近い立場ですから、事件に直接の関係はないとしても、親戚の景綱とのんびり親睦を深める、といった雰囲気ではなかったはずです。
ここで『沙弥蓮瑜集全釈』(風間書房、1999)から、問題の161・162番とその現代語訳を紹介しておくと、

-------
     正応三年みなつきのなかばのころ、あずまへ下り侍りしに、おいそのもりにてほとゝぎす
     を聞きて
161  あづまぢに時すぎぬとやほとゝぎすこゑもおいその杜になくらん

【通釈】正応三年(一二九〇)の水無月の中旬頃、東国に下りました時に、老蘇森で時鳥の鳴いている
 のを聞いて東路をくだっているうちに、ずい分と月日がたってしまったようだ。時鳥も老いたらしく、
 弱々しい声で老蘇の森で鳴いているのだなあ。

     同年五月五日右兵衛督<為兼卿>のもとより、くすだまにつけて、「まづいそぐ花もあやめも
     君がためふかきこゝろの色そへて見よ」と申しつかはされ侍しかへし
162  色々の花にぞみゆるあやめぐさまづわがゝたに心ひくとも

【通釈】同じ年(正応三年)の五月五日、右兵衛督為兼卿のところから、薬玉につけて、「なにより先
   に贈った花も、この菖蒲草も、あなたのことを思うからです。どうか私の心のうちを察して鑑賞して
   下さい」と言ってお寄こしになった歌への返歌
 いろいろな花に見えて、よく区別が付きません。あやめ草の根を引くように、私の方からあなたの気持
 を引きつけようとしているのですが。
-------

という具合いで(p188)、161番の老蘇森は近江国の歌枕ですね。
162番の贈答歌は、「右兵衛督<為兼卿>」の歌に「こゝろ」、景綱の返歌にも「心」という表現が含まれていますが、「心」は京極派の特異表現であり、為兼なら自然でも、為世が用いるとは考えにくいものです。
また、『沙弥蓮瑜集』は最晩年の景綱による自撰歌集であり、小さい字で書かれた「為兼卿」も、原本を写した人が自己の考証の結果を付加したものではなく、景綱自身が原本に書いていたものと思われます。
その場合、贈答の相手の肩書より、その人物の名前の方が記憶に残っているはずですから、「為兼卿」が正しくて、「右兵衛督」は記憶違いとなりそうです。
仮に為世だけが「右兵衛督」であって、為兼が「右兵衛督」でなかったなら重大な誤解となりますが、正応三年六月八日に為世が権中納言に任ぜられて「右兵衛督」を辞し、同日、為兼が「右兵衛督」となった訳ですから(『公卿補任』)、僅か一か月違いの話です。
161番の「みなつきのなかばのころ」、鎌倉への帰途に景綱が近江国の老蘇森に通りかかった時点では、為兼は紛うことなく「右兵衛督」ですね。
とすれば、最晩年の景綱が正応三年五月五日の記憶を振り返って、あの頃、為兼卿は「右兵衛督」だったな、と勘違いすることは十分あり得ますね。

※「「心」は京極派の特異表現であり、為兼なら自然でも、為世が用いるとは考えにくいものです」と書いてしまいましたが、この点は(その11)で再考しています。

(その11)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8c749761fbcc1f980cb18e9670f8e623

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外村展子氏「『沙弥蓮瑜集』の作者と和歌」(その5)

2022-09-28 | 唯善と後深草院二条

宇都宮景綱(1235-98)が弘安八年(1285)十一月、霜月騒動で失脚したのは五十一歳の時ですが、外村氏が紹介されているように(p30)、『鎌倉年代記裏書』には、

-------
今年<正応三>(中略)三月三日、朝原八郎為頼入内裏<富小路殿>南庭、上紫宸殿自害、子息、若党同自害、三条宰相中将実盛朝臣為与党被召渡六波羅、依此事、下野入道蓮瑜、出羽前司行藤為使節、同廿一日上洛。(裏書)
-------

とあります。
即ち、正応三年(1290)三月、景綱は浅原事件(伏見天皇暗殺未遂事件)への対応のために二階堂行藤とともに「東使」として京都に派遣されているので、この時点で完全に復権していますね。

『増鏡』巻十一「さしぐし」浅原事件
http://web.archive.org/web/20150918041631/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-asaharajiken.htm

『沙弥蓮瑜集』にも、この「東使」としての活動に関連した歌があるので、外村氏の説明を引用しますが、実はこの文章の中で一箇所奇妙な点があります。(p38)

-------
 この失脚の期間は何年に及んだのであろうか。前に掲げた『鎌倉年代記裏書』正応三年(一二九〇)の記事によると、同年三月までには、何らかの形で復帰していたようである。この『鎌倉年代記裏書』の記事はもちろん信憑性があり、『沙弥蓮瑜集』(夏)に、次のようにある。

   正応三年みなづきのなかばのころ、あずまへ下侍しに、おいそのもりにて
   ほととぎすを聞きて
 あづまぢに時すぎぬとやほとゝぎすこゑもおいその杜になくらん
   同年五月五日右兵衛督<為兼卿>のもとより、くすだまにつけて、「まづいそぐ
   花もあやめも君がためふかきこゝろの色そへて見よ」と申しつかはされ侍しかへし
 色々の花にぞみゆるあやめぐさまづわがゝたに心ひくとも(161・162)

正応三年三月二十一日に幕府の使節として上洛し、五月五日には二条為世((三)景綱と和歌注5参照)と贈答歌をかわし、六月の半ばに関東に下ったのである。
-------

段落の途中ですが、いったんここで切ります。
奇妙な点、気付かれたでしょうか。
『沙弥蓮瑜集』には「右兵衛督<為兼卿>」とあるのに、何故に外村氏は「二条為世と贈答歌をかわし」とされるのか。
その秘密を探るため、「(三)景綱と和歌注5」を見ると、

-------
(5)162番の詞書には「同年(正応三年)五月五日右兵衛督<為兼卿>のもとより(略)」とある。しかし、『公卿補任』(正応三年)に、
 参議 従二位 藤為世<四十一>右兵衛督。備後権守。六月八日任権中納言。
    従三位 藤<京極>為兼 正月十三日兼讃岐(権)守。六月八日右兵衛督。十一月
        廿七日転右衛門督。十二月八日叙正三位(石清水賀茂行幸行事賞)
とあり、正応三年六月八日に為世が権中納言に任ぜられたことにより、右兵衛督を辞し、為兼がその官職を継いだのである。従って、五月五日現在右兵衛督であったのは為世であり、「右兵衛督<為兼卿>」は「右兵衛督<為世卿>」の誤写であると考える。
-------

とのことで(p75以下)、これは正しい指摘なのでしょうね。
なお、景綱は為兼とも次のような和歌を贈答しています。(『沙弥蓮瑜集』42・43)

-------
     新黄門<為兼卿>梅の枝につけて申しおくられ侍る
42 君がためまづぞをりつるこゝのへにひらけそめぬる梅のはつ枝
     返し
43 身におはぬ色香なれどもこゝのへの梅にことしは老をかくさむ
-------

年次が明記されている訳ではありませんが、為兼が権中納言になったのは正応四年(1291)七月二十九日なので(『公卿補任』)、井上宗雄氏は「新黄門」為兼と景綱の贈答は翌正応五年の春のこととされています。(『人物叢書 京極為兼』、p63)
この井上説が正しいとすれば、為兼と景綱は正応五年の春に同じ場所にいたことになりますが、それは京都なのか、それとも関東なのか。
『人物叢書 京極為兼』巻末の「略年譜」によれば、正応五年(1292)、三十九歳の為兼は、

-------
正月一日、三本の松樹を呑み込む夢を見る。
〇三月~四月、山門・南都の訴訟事件を折衝
〇この春か、宇都宮蓮愉と和歌贈答
〇六月一四日、聴帯剣
〇七月二八日、叙従二位
〇一一月三日、平野臨時祭(宣命上卿。忘却し遅参)
〇この年、北条貞時勧進三島社十首、内裏当座会に詠
-------

という忙しそうな日々を送っていますが、「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」が春に行われたとすれば、「新黄門」為兼と景綱はその時に共に関東にいて、42・43番の和歌の贈答をした可能性もないわけではなさそうです。
もっとも井上氏は、「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」の為兼の歌は「おそらくは京から詠を送ったのであろう」(p64)とされていますが。

※追記(2022.9.29)
「この井上説が正しいとすれば、為兼と景綱は正応五年の春に同じ場所にいたことになりますが、それは京都なのか、それとも関東なのか」などと書いてしまいましたが、「こゝのへ」(九重)=宮中ですから京都に決まっていました。
ただ、そうすると、この贈答歌が本当に正応五年(1293)のものなのかが疑問になって来るのですが、その点は後でまた論じたいと思います。

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外村展子氏「『沙弥蓮瑜集』の作者と和歌」(その4)

2022-09-27 | 唯善と後深草院二条

続きです。(p16以下)

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  晩景。御所御鞠始。其衆(中略)下野四郎景綱。(同・建長五年<一二五三>三月十八日。

泰綱・景綱父子が蹴鞠をよくしたことは、泰綱が御所で蹴鞠会を催されるよう申し出て、二日後に実際に御所御鞠が行なわれたという次の記事、及び、景綱が旬御鞠奉行の一人に選ばれている(後述)ことからもたしかめられる。和歌と蹴鞠両道に通じていたのである。

  下野前司泰綱於御所可申行御鞠会之由申之。(同・正嘉元年<一二五七>四月七日)申尅、御所御鞠
  也。露払已後、將軍家<御布衣>令立御。下野前司泰綱付燻鞠於雞冠木枝進之。行忠入道付之。但内々被
  解之。内蔵権頭親家置之。源中納言。<布衣。>難波刑部卿<布衣。>上鞠一足。中務権大輔教時。<同。>
  遠江七郎時基。<同。>。内蔵権頭親家。<同。>。出羽前司行義。<同。>下野前司泰綱。(以下略)(同九日)
-------

「源中納言」は宗尊親王に仕えた関東伺候廷臣の中では最上位の土御門顕方、「難波刑部卿」は蹴鞠の家・難波家の難波宗教ですね。
(以下略)とされた部分には「二条三品」飛鳥井教定(1210-66)もいて、これは飛鳥井雅有(1240-1301)の父親です。
さて、この後、『吾妻鏡』に基づき、様々な行事への参加や、将軍御所の「廂番」「格子番」「「昼番」などを勤めたことが記されますが、文応元年(1260)四月になると、

-------
将軍と御息所(宰子。藤原兼経女、ニ十歳)が北条重時亭に入御された時の供奉人となっている。ところが、この後約三年間、景綱の名は、父泰綱(一年半後没)とともに『吾妻鏡』にあらわれない。弘長二年(一二六二)分の『吾妻鏡』は存在しないのだが、弘長三年正月一日、二日、三日の垸飯及び同七日の将軍家鶴岡八幡宮御参の供奉人にも名が見えないので、やはり景綱は長期間鎌倉にいなかったと考えられる。不在の間、かわりに、泰綱の同母弟宗朝(宇都宮石見前司)と、泰綱の異母兄時綱の子泰親(宇都宮五郎左衛門尉。越中五郎左衛門尉とも。のちに時綱の同母弟頼業の子となる)とが出仕している。泰綱・景綱父子は大番役で京都に滞在していたのではないだろうか。【後略】
-------

ということで(p22以下)、『吾妻鏡』からは景綱の動向が窺えなくなります。
この後も景綱は『吾妻鏡』にあまり登場せず、文永三年(1266)の宗尊親王帰洛記事で『吾妻鏡』は終わってしまいます。
ただ、景綱の政治家としての人生は極めて順調で、長く引付衆・評定衆を務めますが、それが暗転したのは弘安八年(1285)の霜月騒動です。(p35)

-------
 景綱の人生は、五十歳頃まで、ほぼ順風満帆であった。三十二歳の時に、将軍宗尊親王が廃される。三十八歳の時に二月騒動が起る。四十歳の時文永の役、四十七歳の時弘安の役、等々鎌倉は相変らず騒々しかったが、宇都宮氏の存亡に関わる事件は起こらなかった。五十歳の時に遭遇した、まだ三十四歳の執権北条時宗の死と、それによる自らの出家も、

    出家し侍し時、歳暮によめる
  いそがれし春はむかしに成はてゝ雪ものどけきとしのくれかな(沙弥蓮瑜集・406)

とあるのを見ると、殊に精神的ショックを受けた様子も、また、仏教に対する痛切な思いも感じられない。この弘安七年(一二八四)の四月四日酉刻(午後六時頃)に時宗が没している。一般に陰暦の四月は夏と捉えられるが、この年の立夏はたまたま四月十四日(壬申)であったため、春の内に出家を遂げようとすると、九日間しか暇がなかった、という歌のようである。
 ところが、弘安八年十一月、五十一歳の時、事件が起こる。安達氏一族が、得宗御内人平頼綱に滅ぼされるという霜月騒動(弘安合戦)である。【後略】
-------

景綱室は安達泰盛の妹ですから、景綱も相当な脅威を覚えたでしょうが、結局、景綱は殺されずに済みます。
そして平禅門の乱(1293)を待たずに復活しますが、先にも述べたように、それは得宗家、極楽寺流北条氏、大仏流北条氏との間に張り巡らされた係累の力かと思われます。
なお、ウィキペディアを見たところ、

-------
弘安8年(1285年)11月、内管領平頼綱によって安達泰盛が滅ぼされた霜月騒動では、景綱は安達氏の縁戚(泰盛と義兄弟の関係)であった事から失脚するが、永仁元年(1293年)に平禅門の乱で頼綱が滅ぼされると幕政に復帰した。永仁6年(1298年)5月1日、64歳で死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E6%99%AF%E7%B6%B1

とありますが、「平禅門の乱で頼綱が滅ぼされると幕政に復帰」は誤りで、景綱は三年前の正応三年(1290)、浅原騒動後の対応のために東使として京都に派遣されており、この時点で完全に復権していますね。

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外村展子氏「『沙弥蓮瑜集』の作者と和歌」(その3)

2022-09-27 | 唯善と後深草院二条

続きです。(p12)

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 景綱の祖父頼綱(蓮生法師)の子、すなわち景綱の伯父頼業の母は、梶原景時の女であるが、その甥に、『沙石集』及び『雑談集』の作者無住(一二二六-一三一二)がいる。無住は、

 十三歳ノ時、鎌倉ノ僧房ニ住シテ、十五歳ノ時下野ノ伯母ガ許ヘ下リ、十六歳ノ時、
 常州ヘ行テ、親キ人ニ被養、十八歳ニテ出家(雑談集・巻三・愚老述懐)

したのであるが、その伯母の夫(頼綱)の弟にあたる塩谷朝業(信生法師)のことも、『沙石集』に書きとめている。
-------

『沙石集』に載っている塩谷朝業が詠んだ浄土信仰の歌・二首は省略しますが、この後も宗教関係の話が続いて、寺田弥吉『親鸞の開宗と稲田山』(昭和三十七年四月・稲田教学研究所出版部)などが紹介されているものの、景綱とは直接の関係はなさそうなので省略します。
なお、宗教関係の話の最後に、

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更についでながら、景綱の祖母、北条時政後室牧の方所生の女は、『尊卑分脈─桓武平氏』によると、泰綱・宗朝・女(為家室)を産んだ後、「天王寺摂政(藤原師家)妾」となったという。美しい女性であったのだろうか。泰綱兄弟は、母親の愛情を身辺に感じることなく成長したことになる。
-------

とありますが(p15)、この女性は頼綱と離婚後、四十七歳で前摂政・松殿師家と再婚したことが『明月記』に記されています。
即ち、星倭文子氏の「鎌倉時代の婚姻と離婚 『明月記』嘉禄年間の記述を中心に」(服藤早苗編『女と子どもの王朝史』、森話社、2007)によれば、

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  2 宇都宮頼綱室・為家室の母の離婚

 藤原定家の息・為家の妻の母は、北条時政と牧の方との娘で、宇都宮頼綱の妻となった女性である。

(21)天福元年(一二三三)五月十八日条
  金吾(定家息・為家)の縁者妻の母天王寺に於いて入道前摂政の妻と為る之由、わざわざ女子並びに
  もとの夫の許に告げ送ると云々。自ら称す之条言語道断の事か。<禅門六十二歳、女四十七歳>

 定家は、為家妻の母が、わざわざ娘の為家妻と元夫頼綱に前摂政藤原師家の妻になることを自ら告げることはいかがなものか、と非難している。しかしこの場合は男性側からの離婚宣言ではなく、女性側が離婚宣言し六十二歳の師家と再婚したと書いている。離婚の原因は不明であるが、鎌倉期の武家女性は婚姻関係の明白な状態を潔としており、田端氏は、実態として妻からの離婚は武家層にあったと考えられると述べているが、これも同様な事例である。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a345048ef491da666beea454dbd19f97

とのことで、松殿師家(1172-1238)は「前摂政」とはいえ、これは遥か昔の寿永二年(1183)、源義仲と結んだ父・基房が僅か十二歳の師家を摂政にしたという強引な人事です。
義仲失脚とともに基房・師家父子も失脚、松殿家は摂政・関白を出せる家柄ではなくなり、師家は半世紀以上、一度も官職に就けない人生を送った人ですが、そういう人物に再嫁したということは、前・宇都宮頼綱室の選択は決して権勢や金目当てではなく、「愛情」に基づくことを示していますね。
なお、『明月記』のこの記事から宇都宮頼綱室は文治三年(1187)生れであることが分かりますが、山本みなみ氏は北条政範が二歳下、文治五年(1189)生まれであることに着目して時政と牧の方の結婚の時期について推論を重ねておられます。
しかし、私は山本氏の推論には賛成できません。

山本みなみ氏「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ef41bcf1a0d10ec33c2c9d187601ddc8

さて、外村論文に戻って続きです。(p15以下)

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 以上のように、関東の一豪族としては、多彩で華麗な縁威関係【ママ】を持つ、宇都宮家の嫡男として成人した景綱は、

 親王自関本宿御出。未一尅、着御固瀬宿。御迎人々参会此所、小時立行列。(中略)
 次随兵<二行>
  下野四郎景綱(他略)(吾妻鏡・建長四年<一二五二>四月一日)

と、宗尊親王が第六代将軍となるべく、鎌倉に下って来た時、固瀬(神奈川県藤沢市片瀬。江ノ島への入口)まで迎えに行った一行の中に名が見える。十八歳の時のことで、これが『吾妻鏡』に景綱が登場する最初の記事である。この一行の中に、笠間時朝も居り、親王の下着を執権北条時頼亭の庭上で待っていた人々の中には、評定衆「下野前司泰綱」がいた。鎌倉幕府における景綱の公的な生活は、十一歳の親王将軍とともに始まったのである。

 将軍家始御参鶴岳之八幡宮。(中略)
 随兵(後陣)
  下野四郎景綱(他略)(同・同年四月十四日)

宗尊親王が初めて鶴岡社に詣でた時のことである。供奉人の中には父泰綱の名も見える。
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外村展子氏「『沙弥蓮瑜集』の作者と和歌」(その2)

2022-09-26 | 唯善と後深草院二条

太宰治はともかくとして、続きです。(p11)

-------
 景綱、すなわち宇都宮氏の縁戚関係は、系図を見てもわかるように、華麗と呼ぶにふさわしいものである。御子左家との関係は周知のことであるので、それ以外の関係を少しく説明すると、景綱の叔母(父の異腹の妹)が、内大臣源通成に嫁して生した子の一人禅助(一二四七-一三二〇)は、後宇多院の尊崇を受けた、真言宗の著名な僧である。三度東寺長者に補せられた大僧正であると同時に、『続拾遺集』以下の勅撰集にニ十首入集する歌人でもある。従兄にあたる景綱との間に次の贈答歌がある。

    母の思ひにて侍りける時、藤原景綱がもとに申しつかはしける
                        前大僧正禅助
  忘るなよははその森はかれぬとも下葉に残る露のゆかりを
    返し                  藤原景綱
  枯れにけるははその杜の露までもゆかりときけば涙落ちけり
  (続後拾遺集・哀傷・一二四六、一二四七、禅助の歌は、続現葉集・哀傷・661にも)
-------

いったん、ここで切ります。
内大臣源(中院)通成は源通親(1149-1202)の孫で、後深草院二条の父・雅忠(1228-72)とは従兄弟の関係です。
そして、通成に嫁した景綱の叔母は禅助だけでなく、嫡子の通頼も生んでいますね。

中院通成(1222-87)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%99%A2%E9%80%9A%E6%88%90
中院通頼(1242-1312)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%99%A2%E9%80%9A%E9%A0%BC

後宇多院は密教に異常に熱心で、自ら「法流一揆」を図った人であり、それを助けた禅助と後宇多院の関係は些か微妙な問題を孕んでいます。
即ち、禅助は御室性仁法親王(後深草院の息)が適当な後継者がない状況で死に臨んだとき、法流が絶えるのを防ぐために本来御室のみに承継されるはずの最秘事を伝授され、また極秘の文書類を暫定的に預かったのですが、その立場を利用して秘事・秘書を勝手に後宇多院に流してしまった人で、まあ、仁和寺から見れば業務上横領の正犯(後宇多院が教唆犯)、獅子身中の虫のような存在ですね。

禅助と宇都宮頼綱の関係
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/084910492979aa33c3e09dd074e1cfad
横内裕人氏「仁和寺と大覚寺─御流の継承と後宇多院─」(『守覚法親王と仁和寺御流の文献学的研究・論文篇』所収、勉誠社、1998)
http://web.archive.org/web/20150821011139/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yokouchi-hiroto-ninnajitodaikakuji01.htm

後宇多院の「法流一揆」については、旧サイト時代に少し調べたことがあり、「遊義門院とその周辺」を関係文献のリンク集としていました。
ここに書いたことは今の時点では全くの間違い、単なる妄想だと思っていますが、リンク集だけは、後宇多院と真言密教についての研究が急速に進展した時期の学説の状況を反映するものとして、それなりに充実しているはずです。

「遊義門院とその周辺」
http://web.archive.org/web/20150821011144/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yugimonin-to-sonoshuhen.htm

さて、外村論文に戻って、続きです。(p11以下)

-------
 一方、北条氏との関わりも深く、景綱の姉が、第四代執権北条経時の室となり(『吾妻鏡』によると、寛元三年九月四日、十五歳にて没)、景綱の弟経綱は、義時の子で六波羅探題・連署などを歴任した北条重時の女(『吾妻鏡』によると、康元元年六月二十七日没)を室とし、生した二人の女の一人が、第十一代執権北条宗宣の室となっている。また、景綱の妻で、嫡男貞綱の母である安達義景の女の妹(潮音院尼)は、第八代執権北条時宗の室となり、第九代執権北条貞時を生んでいる。すなわち、景綱の晩年、五十歳から没する六十四歳までの間の執権貞時と、景綱の長子貞綱とは、従兄弟同士であったわけである。
-------

系図(p8・9)を見ないと訳が分からない話かもしれませんが、とにかく景綱の姻戚関係の華麗さは相当なものですね。
景綱の正室は安達義景の娘、即ち安達泰盛の姉妹だったので、景綱も弘安九年(1285)の霜月騒動により失脚してしまいますが、しかし、殺されはせず、平禅門の乱(1293)を待たずに復権しています。
これは得宗家や極楽寺流北条氏、大仏流北条氏などとの間の縁戚関係に守られたためではないかと思われます。

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外村展子氏「『沙弥蓮瑜集』の作者と和歌」(その1)

2022-09-26 | 唯善と後深草院二条

宇都宮景綱は「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」で最多の六首を詠んでいますが、これらは全て『沙弥蓮瑜集』に出ています。
私が景綱の名を知ったのは本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)で、景綱は京極為兼が見た奇妙な夢の中に登場します。

-------
 ある日、為兼は不思議な夢を伏見天皇に語っている。父為教とは従兄弟にあたる有力御家人宇都宮景綱が夢中に現われ、天皇の意思に従わぬ者は皆追討しよう、と告げたというのである。景綱の母は名越朝時の娘、妻は安達泰盛の姉妹、彼はどちらの縁からも北条得宗家から警戒の目を向けられていたに違いない。こうした景綱のことをわざわざ日記に書き留めていることからすると、伏見天皇と為兼は、後に後醍醐天皇のもとで急速に肥大する幕府への反感を共有していたのではないか。直接には西園寺実兼の讒言があったのだろうが、その感情のなにほどかを幕府に知られたがゆえに、為兼は流罪に処せられたのではないか。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c4400085d2a58cf03402f6462dfc85cd

現在の私は本郷氏の解釈には賛成できないのですが、景綱は興味深い人物なので、一度きちんと整理しておきたいと思っていました。
井上宗雄氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期 改訂新版』における叙述も悪くはないのですが、井上氏は景綱が霜月騒動で一時的に失脚したことすら記さないなど、ストイックなまでに歌壇史での活動に限定されて記述されておられます。
そこで、外村典子氏の「『沙弥蓮瑜集』の作者と和歌」(『沙弥蓮瑜集全釈』所収、風間書房、1999)を素材として、景綱の政治家としての側面を中心に少し検討してみたいと思います。

長崎健・外村展子・中川博夫・小林一彦著『私家集全釈叢書23 沙弥蓮瑜集全釈』
https://www.kazamashobo.co.jp/products/detail.php?product_id=229

七十頁を超えるこの論文は、

(一)書誌
(二)作者
(三)景綱と和歌

と構成されていますが、(二)から適宜抜粋しつつ紹介します。(p7以下)

-------
【前略】
 景綱は、宇都宮泰綱を父、北条(名越)朝時の女を母として、嘉禎元年(一二三五)に生まれている(没年より逆算)。父泰綱(一二〇三~一二六一)は、寛元元年(一二四三)四十歳の時に評定衆に加えられ、弘長元年(一二六一)に没するまでその職にあった、宇都宮家の嫡子で、『関東評定伝』一、弘長元年の項に、次のようにある。
【中略】
 十三名の評定衆のうち、北条朝直、北条(名越)時章、北条(金沢)実時、二階堂行義に次ぐ、第五位であった。同時に、『続後撰集』(1070)はじめ、勅撰集に五首入集する歌人であり、『新和歌集』の次の歌によると、定家から『古今集』を書き与えられている。

    藤原泰綱に古今かきてたびけるおくに、かきつけられける
                       京極入道中納言
  あとをだにありし昔と思ひいでよすゑの世ながきわすれがたみに(雑下・822)

母方の祖父北条(名越)朝時は、北条義時の次男で、幕府において、執権・連署に次ぐ地位にあった。五ヶ国の守護を兼ね、将軍の方違えには朝時の名越亭に渡るのが常例となっていたほどで、まだ北条氏得宗(義時の直系)の権力がそれ程強大ではなかった時代に、得宗が最も恐れた北条一族、名越氏の始祖である。また、朝時には次のような逸話がある。

  相摸次郎朝時主依女事蒙御気色。厳閤又義絶之間。下向駿河国富士郡。彼傾公。去年
  自京都下向佐渡守親康女也。為御台所官女。而朝時耽好色。雖通艶書。依不許容。去
  夜及深更。潜到彼局。誘出之故也云々。(『吾妻鏡』・建暦二年五月七日)

建暦二年(一二一二)、すなわち朝時十九歳の時、女性問題を起こして将軍実朝の勘気を蒙り、父義時に義絶され、駿河国富士郡に下向し蟄居したというのである。この事件を、太宰治は、『右大臣実朝』(昭和十八年九月)で次のように物語っている。
-------

いったん、ここで切ります。
名越朝時(1193-1245)は「姫の前」所生なので、景綱の母方の曾祖母は比企一族の「姫の前」です。
しつこくラブレターを送るまでは父・義時と全く同じパターンですが、その後の行動が問題となった訳ですね。
ちなみに後深草院二条の父・雅忠(1228-72)の後妻は「姫の前」が源具親との再婚後に生んだ源輔通(1204-1249)の娘なので、泰綱室・景綱母とは従姉妹の関係となります。

「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5425af06d5c5ada1a5f9a78627bff26e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/048db55d52b44343bbdddce655973612
「姫前との関係を足がかりに、具親と輔通・輔時父子に「光華」がもたらされた」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c37b5d63c266f8a5d8e3062a5b6a7c1d

さて、上記部分の後、外村氏は太宰治の小説を延々と引用した上で、「この情熱的な好色の血を景綱は受け継いでいるわけである」と纏めますが(p11)、論文では些か奇異な書き方のようにも思えます。

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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その20)

2022-09-25 | 唯善と後深草院二条

井上著は前回投稿で引用した部分の後、「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」の現存十八首の中で最多の六首を詠んでいる宇都宮景綱(1235-98)の解説になります。
そして、宇都宮歌壇の歌人と「大御堂大僧正源恵(頼綱子)」に触れた後、再び為相の話になります。(p70以下)

-------
為相 このような多くの歌人を指導したのが下向公家、就中、師範家出身の公家であった。その中でも鎌倉に腰を据えたのが為相である。
 為相が初めて関東に下ったのは何時頃か。阿仏尼は弘安六年四月に没したが、その場所は京・鎌倉の両説ある。小川寿一氏『阿仏尼と大通寺』・石田吉貞氏『十六夜日記』・玉井幸助氏『十六夜日記評解』は帰洛して没したとし、谷山茂氏「十六夜日記成立年代考」(国語国文・昭和二四3)・『十六夜日記』は鎌倉客死説、福田氏も「十六夜日記に記された細川庄の訴訟について」)客死説である。もし鎌倉で没したとしたら為相も恐らく遺骨を拾いに東下したのではあるまいか。二十一歳であった。間二年をおいた弘安九年六月に細川庄領家職は院宣により為氏の勝訴となったが、為氏は同年九月地頭職についての訴訟の為に関東に下り、そのまま同地で没したらしい(米沢文庫本沙石集による福田氏の推定)。為氏の死によって訴訟は為相と為世との間に交される事になり、まず正応二年には為相は地頭職については勝訴の判決をえたが、為世は直ちに越訴して四年八月為世が勝った。これらは六波羅に訴えて六波羅から関東に送付され、鎌倉で審議されたた為に関係者は関東に滞在することが多かったのであろう。
 為世は現任の公卿であり、京にいる事が多かったのであるが、為相はどうであったか。弘安末頃に鎌倉にいた可能性は極めて高いが、正応頃にも関東にいる事が多かったと思われる。而して奥書に為相の名がみえる本の多い事は注意されよう。
-------

いったん、ここで切ります。
この後、書誌学的には興味深い話が続きますが、「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」の時点で為相が鎌倉に滞在していたのか否か、という観点から見ると、『愚僻抄』に関する次の記述が気になります。(p71以下)

-------
なお愚僻抄は末に「或記云、白帋之時不書詠云々、只名字題許書也、但可書哥所ヲ置之<基金吾也>、是故老説也、極秘事」云々の文があり、「<本云>治承二年五月八日書之」とあって、一本線を引いて消している。次に、

  正應第三暦孟夏上旬之候、以秘本書之、敢不可外見之由誓状了、心中深可謹者也
    愚僻抄
  正應五年三月二日於関東二階堂誂或人書了、寫本冷泉羽林為相朝臣被秘本也、穴賢、不可及外見云々

とある。(正応二つの奥書はやや小字)。
 まず正応五年の奥書を考えると、これを記した某(Bとする)が、羽林為相朝臣(時に為相は従四位下左少将であるからこの記し方は正しい)の秘本(而してそれは「写本」=転写本であったらしい)によって或る人に誂え、二階堂で書写せしめたものである。正応三年奥書は誰が書いたものだか不明であるが、五年の奥書から考えると、某(Aとする)が為相の本を誓状を出して写したのではなかろうか。即ちAは正応三年に為相所持の秘本によって写し、Bがその本(写本)によって五年に書写せしめた、というのではなかろうか。
【中略】
 かくして為相は、相伝の秘本を関東で人々に見せたり、写さしめたりしている事が推察されるのである。
-------

この記述からは「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」が催された正応五年(1292)に為相が鎌倉に滞在していたかどうかは分かりませんが、為相は正応年間(1288-92)には鎌倉にいたことが多そうですね。
この後、正応四年の鎌倉での慶融との交流を示唆する記述もありますが、慶融を紹介するときに引用します。
なお、慶融(生没年未詳)も藤原為家の子で、年は離れていますが、為相(1263-1328)の異母兄です。

藤原為家(1198-1275)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%82%BA%E5%AE%B6

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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その19)

2022-09-24 | 唯善と後深草院二条

早歌の世界における「或女房」(白拍子三条)と、「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」における「昭慶門院二条」は、多くの男性関係者の中にたった一人女性が存在しているという状況だけでもよく似ています。
そこで、「白拍子三条」が後深草院二条の「隠名」であろうと確信している私は、「昭慶門院二条」も後深草院二条の「隠名」の可能性があるのではないかと疑っています。
ただ、「白拍子三条」の場合、早大本に「白拍子三条」の朱注が記された時期は不明ではあるものの、「或女房」は『撰要目録』で「正安三年八月上旬之比録之畢 沙弥明空」と明記された部分に登場します。
これに対し、「昭慶門院二条」は正応五年(1292)の時点で、その名でもって三島社に和歌を奉納した訳ではなく(当該時点では「昭慶門院」自体が存在しない)、三十年後の元亨二年(1322)に成立した『拾遺現藻和歌集』に登場する人物です。
正安三年(1301)と元亨二年(1322)では時期は相当離れていますし、『撰要目録』が鎌倉で書かれているのに対し、『拾遺現藻和歌集』はまず間違いなく京都で書かれている点も違います。
また、仮に「昭慶門院二条」が後深草院二条の「隠名」の場合、「昭慶門院二条」と『拾遺現藻和歌集』の撰者の関係も問題となります。
最もシンプルな結論は、「隠名」を使っている「昭慶門院二条」自身が『拾遺現藻和歌集』の撰者だろうということになりますが、さすがにそこまでストレートに結論を出せる問題ではなくて、二条派の周辺を慎重に探る必要があります。
小川剛生氏は『拾遺現藻和歌集』と『新拾遺和歌集』の重複歌で詞書が類似していることから、『拾遺現藻和歌集』の撰者が二条為藤の息子・為明ではなかろうか、との仮説を提示されているので、その是非も検討する必要があります。
ということで、まだまだ先は長いのですが、暫くは「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」の参加者を丁寧に追って行くことにします。
さて、二条為道については『とはずがたり』や『増鏡』での記述について補足したい点がありますが、それは他の参加者との比較の上で後述することとし、冷泉為相に移ります。
二条為道と違い、阿仏尼の息子である冷泉為相は相当に有名で関連資料も豊富に存在しますが、まずは一番信頼できる井上宗雄氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期 改訂新版』(明治書院、1987)で基礎を固めたいと思います。
同書の「第一編 鎌倉末期の歌壇」「第一章 正応・永仁期の歌壇」は、

-------
1 正応期の宮廷歌壇
2 永仁初期の宮廷歌壇─永仁勅撰の議を中心に
3 「野守鏡」と「源承和歌口伝」
4 永仁後期の宮廷歌壇
5 正安期の宮廷歌壇
6 洛中・洛外の歌人
7 関東歌壇─為相・為顕・武家歌人など
8 歌書の書写・編著
-------

と構成されていますが、「7 関東歌壇─為相・為顕・武家歌人など」の冒頭から少し引用します。(p66以下)

-------
  7 関東歌壇─為相・為顕・武家歌人など

 鎌倉を中心とした武家歌壇の歴史は、石田吉貞氏によると、(一)源氏将軍時代、(二)藤原将軍時代、(三)宗尊親王時代、(四)惟康親王以後、の四期に分けられる(「鎌倉文学圏」国語と国文学・昭和二九10)。而して宗尊親王時代(一二五四~一二六六)というのは鎌倉歌壇が最もはりきった時代で、惟康親王以後(一二六六~一三三三)というのは、和歌が衰えて連歌が盛んになった時代であるという。確かに文永三年(一二六六)宗尊親王の失脚は、その歌道師範であった真観一派をも没落せしめ、一時鎌倉歌壇が沈滞した事は明らかである。しかしながら弘安二年(一二七九)における阿仏尼の下向と、次いで為相の下向は鎌倉に再び有力な歌道専門家が存在した事になり。更に時代の下降に伴って武家一般が文化を欲求する精神はますます熾烈となり、歌人層が量的に拡大された事は確かである。第二、三章で述べるように、嘉元から延慶にかけて次々と私撰集が鎌倉で成立している事を考えても、一概に和歌衰微の時代とはいえないのである。
 正応二年十五歳で将軍となった久明親王(伏見天皇弟)は頗る和歌を好み、正応から永仁にかけてしばしば歌会を催したことが蓮愉集にみえ、続千載一五五九にも永仁六年十三夜会の事が記されており、柳風抄によると久明親王の和歌所というものまで設けられていた。永仁初頭には親王は素寂をして紫明抄を奉らしめている。さすがに伏見天皇の弟で、文化的な親王将軍である。
 北条貞時は時宗が死んだ後を承けて、弘安七年十四歳で執権となった。正応五年三島社十首を人々に勧進したのを初めとして頻々と歌会を催す。なお三島社十首は、蓮愉集や夫木集などによると、為相・為兼・雅有・為道・慶融及び蓮愉らが作者となっている。在関東の歌人を中心としたものであろうが、なお京の歌人にも詠ぜしめたものか。
 北条一族では大仏宣時、赤橋時範などが歌会を催したことが蓮愉集にみえ、永仁六年十三夜将軍家会には北条斉時<初名時高>が詠歌している(続千載一五五九)。
-------

「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」が催された当時の鎌倉の状況はこんな具合で、鎌倉歌壇における阿仏尼と為相の存在は大きいですね。
為相は弘長三年(1363)生まれなので、「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」の時点では三十歳です。


冷泉為相(1263-1328)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B7%E6%B3%89%E7%82%BA%E7%9B%B8
冷泉為相(水垣久氏「やまとうた」サイト内)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tamesuke.html

 

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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その18)

2022-09-23 | 唯善と後深草院二条

井上著に「関東に下り、公朝と歌を贈答したり、歌合をしたりした(続千載八〇二・八〇三、藤葉、新後拾遺八六一)」とあるように(p52)、二条為道は関東に下ったことはありますが、その時期ははっきりしません。
『続千載和歌集』802・803番は、

-------
    藤原為道朝臣あつまに侍ける時、五月五日あやめに添てつかはしける
                          前僧正公朝
802 旅ねには思はさらなむ草枕あやめに今夜結ひかへつゝ

    返し                    為道朝臣
803 かり初の菖蒲にそへて草枕こよひ旅ねの心ちこそせね
-------

とあり、「あつまに侍ける時」ですから、それなりに長い期間滞在したような感じですが、年は分かりません。
なお、「前僧正公朝」は「名越時朝子」(p207)で、『夫木和歌抄』には二百四十首も入っているそうですから、相当な歌好きの僧侶ですね。
また、『新後拾遺和歌集』861番は、

-------
    あつまのかたへ下侍けるに、賀茂のあたりゐせきと云所に住侍ける女の
    もとへ、よみてつかはしける
                          為道朝臣
861 忘すはゐせきの水にかけをみよ思ふ心はそれにこそすめ
-------

というもので、こちらは時期すら分かりません。
為道は最終官位が正四位下なので『公卿補任』に登場せず、その経歴を詳しく追うのは困難ですね。
『実躬卿記』などから各年の五月五日近辺に為道が登場しないかを丹念に見て行けば、あるいは関東下向の年を推定できるのかもしれませんが、今はちょっと時間が取れません。
ちなみに『実躬卿記』永仁二年(1294)三月二十七日条には、蔵人頭を希望した正親町三条実躬のライバルとして為道が登場しています。
井上宗雄氏の『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006)によれば、

-------
 その三月二十五日三条実躬は参内し、蔵人頭に補せられたいと申し入れを行い、二十六、七日後深草院、関白近衛家基ほかにも希望を申し入れた。競望者は二条家の為道であったが、実躬はその日記に、運を天に任せるが、現在では「為兼卿猶執り申す」と記し、さらに諸方に懇願したのだが、二十七日の結果は意外にも二条家の為雄(為道の叔父)であった。実躬はその日記に、
  当時の為雄朝臣又一文不通、有若亡〔ゆうじゃくぼう〕と謂う可し、忠(抽)賞
  何事哉。是併〔しか〕しながら為兼卿の所為歟。当時政道只彼の卿の心中に有り。
  頗る無益〔むやく〕の世上也。
と記している(「有若亡」は役に立たぬ者、の意)。為兼は「執り申す」すなわち天皇に取り次ぐという行為で人事を掌握しており、為雄の蔵人頭も為兼の計らいと見たわけである。四月二日の条には、実躬は面目を失ったので後深草院仙洞の当番などには出仕しないことにしようと思ったが、父に諫められ、恥を忍んで出仕した。「当時の世間、併しながら為兼卿の計い也。而〔しか〕るに禅林寺殿(亀山院)に奉公を致す輩、皆以て停止〔ちょうじ〕の思いを成すと云々」と記している。為兼の権勢がすこぶる大きかったこと、あるいはそう見られていたことが窺われる。【中略】なお実躬は明らかに亀山院方への差別をみとっている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1a818c7b840a40abac8def810b56023c

といった具合で、叔父の為雄と違い、文永元年(1264)生まれの実躬より七歳若い為道は官人としても有能な人だったのでしょうね。
実躬はよほど為道が目障りだったのか、憎々しそうに「下臈」呼ばわりしていますね。

小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その21)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8bde59a2c7674622506b25bb2fc13c6a

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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その17)

2022-09-23 | 唯善と後深草院二条

「名取河恋」、十五の頭注の解答編です。

-------
(1)「いへばえにいはねば胸にさはがれて心ひとつに嘆くころかな」(伊勢 三四、新勅撰 十一 恋 在原業平)
(2)「せきかへし猶もる袖の涙かなしのぶもよその心ならぬに」(続古今 十一 恋 源通具)
(3)「おもふには忍ぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ」(伊勢 六五、新古今 十三 恋 在原業平)
(4)「命やは何ぞは露のあだ物をあふにしかへば惜しからなくに」(古今 十二 恋 紀友則)
(5)「逢ふ事の絶えてしなくば中々に人をも身をも恨みざらまし」(拾遺 十一 恋 藤原朝忠)
(6)「君こふる涙しなくは唐衣むねのあたりはいろ燃えなまし」(古今 十二 恋 紀貫之)
(7)「みちのくの忍もぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに」(伊勢 一、古今 十四 恋 源融)
(8)「竹斑湘浦 雲凝鼓瑟之蹤 鳳去秦台 月老吹簫之地」(和朗 雑 雲 張読)
(9)「我恋は行方もしらずはてもなしあふを限と思ふばかりぞ」(古今 十二 恋 凡河内躬恒)
(10)「夕殿蛍飛思悄然 孤灯挑尽未能眠」(和朗 雑 恋 白居易)
(11)「漢家之三十六宮 澄々粉餝」(和朗 秋 十五夜 公乗億)
(12)「月みればちぢに物こそ悲しけれ我身一つの秋にはあらねど」(古今 四 秋 大江千里)
(13)「形見こそ今はあだなれこれなくは忘るる時もあらましものを」(伊勢 一一九、古今 十四 恋 読人しらず)
(14)「東路の佐野の舟橋かけてのみ思ひ渡るをしる人のなき」(後撰 十 恋 源等)
(15)「名とり川瀬々の埋木顕はればいかにせんとか逢ひみそめけむ」(古今 十三 恋 読人しらず)
-------

出典の重複がある場合は先の方で数えると、

『古今和歌集』5
『伊勢物語』4
『和漢朗詠集』2
『続古今』『拾遺』『後撰』各1

ですね。
次に「暁別」を見ると、

-------
  70 暁別〔あかつきのわかれ〕

逢〔あふ〕に別〔わかれ〕のある世とは しりがほにして しらざりけるこそ
はかなけれ <助音>暁思はで何か其〔その〕 逢〔あひ〕みる夢を憑〔たの〕
みけん (1)病鵲〔へいじやく〕のやもめがらす 稀に逢夜〔あふよ〕を驚かす
情〔なさけ〕もしらぬ狂鶏〔うかれどり〕の まだ明〔あけ〕ぬに別を催す
又いつとだにもなき中の(29睦言〔むつごと〕余波〔なごり〕おほかるに
(3)逢人〔あふひと〕からのつらさなれば 秋の夜みじかく明なんとす (4)程は
雲井にわかるとも 空ゆく月のあふ夜まで 忘るなよ契〔ちぎり〕は(5)在明
〔ありあけ〕の強〔つれな〕く見えし暁 (6)後会〔こうくわい〕其期〔そのご〕
はるかにして 袂〔たもと〕を鴻臚〔こうろ〕の露にぬらし 余波をしたふ涙さへ
とまらぬ今朝の面影 (7)一夜の夢の浮橋 とだふる峯の横雲 それさへ絶々
〔たえだえ〕立別〔たちわかれ〕て (8)鶏籠〔けいろう〕の山ぞ明〔あけ〕ぬめる
 惜からぬ命にかへてだに とめん方なき衣々の 其袖の中にやつもるらむ
もろき涙もなくなく帰る路芝の 露をたぐいにかこちても 又夕暮やたのまほし
-------

という具合いに分量的には「名取河恋」より少し少なくて、頭注も九箇所だけです。
それを見ると、

-------
(1)「可憎ノ病鵲ノヤモメガラス ヨナカヨナカニ人ヲ驚カス 薄媚トナサケナキ狂鶏ノ ウカレトリ マダアケザルニ暁ヲ唱ナフ」(朗詠九十首抄)(新朗 雑 恋 張文成)
(2)「睦言もまだ尽きなくに明けぬめりいづらは秋のながしてふ夜は」(古今 十九 雑体 凡河内躰恒)
(3)「長しとも思ひぞはてぬ昔よりあふ人からの秋の夜なれば」(同 十三 恋 凡河内躬恒)
(4)「忘るなよほどは雲ゐになりぬとも空ゆく月のめぐり逢ふまで」(伊勢一一、拾遺 八 雑 橘忠基)
(5)「有明のつれなく見えし別れより暁ばかりうきものはなし」(古今 十三 恋 壬生忠岑)
(6)「前途程遠 馳思於雁山之暮雲 後会期遥 霑纓於鴻臚之暁涙」(和朗 雑 餞別 大江朝綱)
(7)「春の夜の夢のうきはしとだえして嶺にわかるる横雲の空」(新古今 一 春 藤原定家)
(8)「僕夫待衢 鶏籠之山欲曙」(新朗 雑 酒 紀斉名)
(9)「惜しからぬ命にかへて目の前の別れをしばしとどめてしがな」(源氏 須磨 紫上)
-------

ということで、こちらも典拠が重複する場合は先の方で数えると、

『古今和歌集』3
『新古今和歌集』1
『伊勢物語』『源氏物語』各1
『朗詠九十首抄』『和漢朗詠集』『新撰朗詠集』各1

となります。
二条為道の和歌は「十五歳の折の「風寒き裾野のさとの夕ぐれに月待つ人やころもうつらむ」(新後撰四〇七)以下、短い生涯を通じて一貫して平明沈静な二条詠風」(井上宗雄『中世歌壇史の研究 南北朝期 改訂新版』、p52)ですが、早歌はテンポの速い曲に合わせるためか、華やかな語彙が多いですね。
和歌に比べたら比較的気楽に作っているのでしょうが、それでも田舎の人との教養の差を見せつける意図もあってか、和歌・物語・朗詠から引用した表現が盛りだくさんです。

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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その16)

2022-09-22 | 唯善と後深草院二条

井上著の続きです。(p52以下)

-------
 撰要目録の序に「涼しき泉のこの流れには龍田河・名取河に恋の逢瀬をたどり」とあるが、これは御子左流の、為相流と為氏流とを指すものであろう。為氏が冷泉とも称された事は確かである(新和歌集<目録>・東野州聞書)。恐らく為家・為氏と伝えられた冷泉邸は為世を経て為道が伝領したのであろう。而して宴曲抄の名取河恋は目録に「冷泉羽林作」とあるが、これは三条西家旧蔵本には「為通朝臣」と朱注があり、正しいものと推定され、即ち為通は宴曲の作者でもあった。
-------

『撰要目録』とは早歌の大成者である明空が作った早歌の曲目、作詞・作曲者リストです。
明空や『撰要目録』については今年の三月に少し纏めておき、『撰要目録』序文の現代語訳も試みてみました。
早歌の創始・発展期の約三十年間は作曲・作詞家リストである『撰要目録』の序文が記された正安三年(1301)を境として前期・後期に分かれますが、前期の作者には公家社会の相当上層の人物が含まれており、その中には「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」に参加した冷泉為相と二条為道もいます。

『とはずがたり』の政治的意味(その4)(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/62571330f7620492d7294a7e9c233a16
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1caa3bd11639f0da0b694d7a4cba042d

『撰要目録』序文の後半に初期の代表的作者六人が紹介されていますが、その中の「涼しき泉の二の流れには、龍田河名取河に、恋の逢瀬をたどり」が冷泉為相と二条為道です。

-------
抑彼の洞院家の詠作には、瑞を豊年に顕し、孫康が窓、袁司徒が家の雪、ふりぬる跡を尋ねて、情の色をのこし、花の山の木高き砌、三笠山の言の葉にも、道の道たるす直なる世々、五常の乱らざる道を能くし、南家の三の位、風月の家の風にうそぶきて、春の園に桜をかざし、花を賦する思を述べ、足引の山の名を、うとき国までにとぶらひ、なほなほ年中に行ふ事態、霞みてのどけき日影より、霜雪の積る年の暮まで、あらゆる政につけても、君が御代を祝ふ。涼しき泉の二の流れには、龍田河名取河に、恋の逢瀬をたどり、藻塩草かき集めたる中にも、女のしわざなればとて漏らさむも、古の紫式部が筆の跡、疎かにするにも似たれば、刈萱の打乱れたる様の、をかしく捨てがたくて、なまじひに光源氏の名を汚し、二首の歌を列ぬ。残りは事繁ければ、心皆これに足りぬべし。よりて今勒する所、撰要目録の巻と名づけて、後に猥りがはしからしめじとなり。此外に出で来り、世にもてなし、時に盛りならむ末学の郢作、善悪の弁へ、人のはちに顕れざらめや。

(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/125260a220b20ba675c6445c91c2d24c

序文に登場する六人の順番や記述の分量には若干気になるところがあります。
冷泉為相・二条為道の二人については記述の分量が極端に少ないだけでなく、二人とも二曲作詞しているのに一曲は無視されている点でも共通で、明空からあまり重んじられてはいないですね。
他方、『源氏恋』と『源氏』の作詞・作曲者である「或女房」(白拍子三条)は、曲数に比べて少しバランスを失しているのではないかと思われるほど重視されています。

(その7)~(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/028e215bb464b8966dc4f25d675a5f65
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/75291cea845278e38cb4f20254710df6
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3154a0d9d8f4394be56c3ae20560bf3b

為道には直接関係しないものの、明空とその弟子である比企助員という人物についてもまとめておきました。

外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その1)~(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6b50b1527bad3dab51ee650443f6cc38
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/de91549c00dcb494b7a026fa1b9ed50a

さて、参考までに二条為道が作った早歌二曲の歌詞も紹介しておきます。
引用は外村久江・外村南都子校注『早歌全詞集』(三弥井書店、1993)から行います。
最初は序文で言及された「名取河恋」です。(p129以下)

-------
  69 名取河恋

(1) いへばえにいはねばむねにさはがるる こころの程を(2)せき返し つつむとすれど
(3)思〔おもふ〕には <助音>しのぶることぞ負にける さもあらばあれ惜からず
(4)なにぞは露のあだ物よ かへてもかへて捨ぬべし (5)絶てしなくば中々に 人をも
身をもとばかりに うれふる隙〔ひま〕こそやすからね (6)涙にけてども消〔きえ〕
もせず 胸のあたりに立〔たつ〕けぶり なびきそめにし一かたに (7)みだれはて
ぬればみちのくの しのぶもぢずりいかがせん (8)湘浦〔しやうほ〕に竹斑〔まだら〕
かなり 涙にそめし色ながら 鼓瑟〔こしつ〕の跡〔あと〕露ふかし 秦台〔しんたい〕
に鳳〔ほう〕去ては この翅〔つばさ〕のかへらぬ道なれば 吹簫〔すいしよう〕の
地には月空〔むなし〕 (9)行ゑもしらずはてもなし 逢〔あふ〕をかぎりの恋路なれば
まよふ心のはてぞうき (10)夕殿〔せきてん〕に蛍乱飛〔みだれとぶ〕 思〔おもひ〕の
ほのをもえまさり 空窓〔こうさう〕にともし火のこれども なげく命はかひぞなき
玉殿松花〔しようくわ〕の観〔くわん〕 <あの>時移り事去〔さり〕ぬれども 
(11)三十六宮の秋の月 (12)我身一〔ひとつ〕の袖にのみ 散しままなる涙さへ (13)いまは
あだなる形見哉 (14)佐野の舟橋かけてだに 思はじよしなしとても又 さもあやにくなる
(15)名取川〔なとりがは〕 瀬々の埋木〔むもれぎ〕あらはれば 其〔それ〕も吾身の
心から いかにせんとか恨けむ
-------

頭注の記号は漢数字ですが、見づらいので括弧付きのアラビア数字に変更しました。
注は全部で十五箇所で、それぞれに和歌ないし漢詩(『和漢朗詠集』)の典拠が示されていますが、全部を漏れなく列挙できる人は和歌の専門研究者でも少ないのではなかろうかと思います。

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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その15)

2022-09-21 | 唯善と後深草院二条

小林一彦氏によれば「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」は散佚してしまって、「『風雅集』をはじめ、『夫木抄』や『藤谷集』『沙弥連瑜集』等々の諸集より、この折の作品と判断できる詠歌十八首を拾遺することができる」のみですが、その十八首の作者別内訳は、

-------
宇都宮景綱(沙弥連瑜)6首
冷泉為相 4首
京極為兼 3首
飛鳥井雅有 2首
二条為道 1首
慶融 1首
昭慶門院二条 1首

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a88648025b75f09f7a5d080c42a2b26d

となります。
この中で歌人として一番実力があるのは京極派の総帥・為兼(1254-1332)でしょうが、阿仏尼の息子で、関東で活躍した冷泉為相(1263-1328)や、軽妙な紀行文を書き、蹴鞠の名人でもあった飛鳥井雅有(1241-1301)も相当な実力者です。
また、宇都宮景綱(1235-98)は武家歌人の中では最高クラスの存在であり、為家の息子で為世の叔父にあたる歌僧・慶融(生没年未詳)も二条家一門の重鎮です。
これに対し、二条為道(1271-99)は為世の嫡男でありながら、二十九歳の若さで死去してしまったこともあり、一般的な知名度はさほど高くはないと思われます。
しかし、為道は早歌の作者でもあるため、私は以前から注目していました。
そこで、先ず為道の周辺を見て行きたいと思います。
井上宗雄『中世歌壇史の研究 南北朝期 改訂新版』(明治書院、1987)から少し引用します。(p52)

-------
二条為道の他界
 正安元年五月五日、為世は嫡子為道を先立たせた。享年二十九(尊卑分脈)。諸家伝は二日没とするが(史料綜覧もこれに従う)、尊卑分脈は五日とし、かつ続門葉の公紹の歌にも「五月五日為道朝臣みまかりて後…」とあり、五日としておく。
 為道は為通とも書く。母は賀茂神主氏久女(官女)、為藤の同母兄。弘安八年(十五歳)三月従一位貞子九十賀に詠歌し(新拾遺六八三)、同八月内裏三十首(新後撰四〇七)あたりを歌人としての出発点とし、正応・永仁頃の歌会にしばしば参仕した事は上述した。関東に下り、公朝と歌を贈答したり、歌合をしたりした(続千載八〇二・八〇三、藤葉、新後拾遺八六一)。後宇多院の信認があったらしい(前述)。正応五年三月古今集を書写している(松田武夫氏本・立教大学研究室本奥書)。十五歳の折の「風寒き裾野のさとの夕ぐれに月待つ人やころもうつらむ」(新後撰四〇七)以下、短い生涯を通じて一貫して平明沈静な二条詠風である。従って玉葉に二首しか採られず、風雅には零である。しかし精緻な趣向を凝らしたものも多く、相当に力量のある歌人として将来を嘱された人であったのであろう。
 五月雨の雲吹きすさぶ夕風に露さえかをる軒のたちばな
為世の悲嘆はいうまでもなかった(続現葉<哀傷>)。人々の哀傷歌も多い(続後拾遺一二三〇・一二三一、続門葉<雑上>、新千載二一八三・二一八四・遺塵集)。〔為道の歌集と伝えられるものについては六一頁補注2参照〕
-------

いったん、ここで切ります。
「新拾遺六八三」は、

-------
     弘安八年三月、従一位貞子に九十賀給はせける時読侍ける 
                             為道朝臣
 かそへしるよはひを君かためしにて千世の始の春にも有かな
-------

というものですが、『とはずがたり』巻三の「北山准后九十賀」に関する長大な記事の最後にも、

-------
  まことや、今日の昼は、春宮の御方より、帯刀清景、二藍打上下、松に藤縫ひたり、「うちふるまひ、老懸のかかりもよしあり」など沙汰ありし、内へ御使参らせられしに違ひて、内裏よりは頭の大蔵卿忠世参りたりとぞ聞こえし。この度御贈り物は、内の御方へ御琵琶、春宮へ和琴と聞こえしやらむ。勧賞どもあるべしとて、一院御給、俊定四位正下、春宮、惟輔五位正下、春宮大夫の琵琶の賞は為道に譲りて、四位の従上など、あまた聞こえはべりしかども、さのみは記すに及ばず。
 行啓も還御なりぬれば、大方しめやかになごり多かるに、西園寺の方ざまへ御幸なるとて、たびたび御使あれども、「憂き身はいつも」とおぼえて、さし出でむ空なき心地してはべるも、あはれなる心の中ならむかし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0cc49ddba7972accef2be4004370e047

という具合いに、春宮大夫・西園寺実兼の琵琶の賞が二条為道に譲られ、為道が従四位上に昇進した、などという随分細かい話が出てきます。
『とはずがたり』の巻三はこれで終わってしまい、四年の空白の後、巻四は正応二年(1289)、二条が東国に旅立つ場面から再開されます。
ところで、「北山准后九十賀」での「勧賞」による昇進の話は『宗冬卿記』にも、

-------
今日被行勧賞
正四位下 藤俊定<院御給> 従四上源通時<新院御給> 藤実明<東二条院御給> 同為通
<春宮大夫御比巴師賞譲>
従四下 橘知有<従一位藤原朝臣給>
正五下 藤光定<大宮院御給> 平惟輔<東宮御給>
従五下 藤光能<姈子内親王御給>
従五上 狛近康 豊原政秋
関白殿 兵部卿 花山院中納言<院司> 信輔朝臣<院司> 信経<院司>
多久資<舞人>
 已上逐可被仰
-------

という具合いに詳しく出ていますが、中級貴族の事務官僚にとっては「勧賞」による昇進が一大事だとしても、『とはずがたり』ではこの種の記事は非常に珍しく、ここでの言及が唯一ですね。
そして、その中でも後深草院二条が僅か十五歳の為道に特別に注目しているらしいのは些か奇異な感じがします。

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『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その14)

2022-09-20 | 唯善と後深草院二条

「昭慶門院二条」の四首のうち、私には、

-------
     七夕別といふ事お
                照〔昭〕慶門院二条<有忠卿歟>
146 □□〔あひヵ〕みても猶こそあかね七夕の秋の一夜の袖のわかれち
-------

が特に興味深く思われます。
<有忠卿歟>の <  > は小川著にはなくて、小さい字になっているのを表現するために私が付加した記号ですが、この小さな四字は元々の原本にはなくて、写した人が書き加えた注記でしょうね。
小川論文の「書誌」によれば、田中穣氏旧蔵、国立歴史民俗博物館現蔵本には「山科蔵書」の長方形朱印が押されていて、

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印記は山科忠言(一七六二~一八三三、従一位権大納言、冷泉為村の外孫に当たる)のものである。田中本の内には同じ「山科蔵書」の印記を持つ歌書が他にも何点か含まれている。それらは戦国期の同家当主・権大納言言継(一五〇七~七九)の書写にかかるものが多いが、『拾遺現藻和歌集』の筆跡は言継、あるいはその父言綱・息言経らとも異なっており、今の所、忠言以前の伝来は未詳とせざるを得ない。
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とのことですが(p131以下)、「有忠卿歟」の注記者は『拾遺現藻和歌集』のような珍しい歌集を書写しているのですから入集歌人にも歌壇事情にもそれなりに詳しい人だったはずです。
そして、そのような人ですら「昭慶門院一条」ならともかく「昭慶門院二条」などという歌人は聞いたことがなく、あるいはこれは六条有忠の間違いではなかろうかと思って、小さな字で「有忠卿歟」と注記した訳ですね。
この注記者が何故に六条有忠を連想したのかは分かりませんが、しかし、「昭慶門院二条」が554番の作者であることを疑う理由がないのであれば、六条有忠は146番の作者ではあり得ません。
何故なら六条有忠は弘安四年(1281)生まれで、「平貞時朝臣すゝめ侍ける三嶋社十首哥」が成立した正応五年(1292)には僅か十二歳だからです。
小川氏の「作者略伝・索引」によれば、六条有忠は、

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有忠(前中納言─) 弘安四年(一二八一)~暦応元年(一三三八)十二月廿七日、五十八歳。源。六条有房男。正二位権中納言。後宇多院伝奏。嘉暦元年三月、邦良親王に殉じて関東で出家(増)、法名賢忠。八十番詩歌合、文保百首、亀山殿七百首、石清水社三首歌合等に出詠。玉葉以下に一七首。続現葉、臨永、松花、藤葉作者。11首〔一三八、一四九、二八三、三七一、三七二、四八五、五一六、六七〇、七三五、七四六、七八六〕
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という人物であり(p158)、「嘉暦元年三月、邦良親王に殉じて関東で出家」した様子は、『増鏡』巻十四「春の別れ」に次のように描かれています。

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 有忠の中納言、先坊の御使ひにて東に下りにし、いつしかと思ふさまならん事をのみ待ち聞こえつつ、践祚の御使ひの宮こに参らんと同じやうに上らんとて、いまだかしこにものせられつるに、かくあやなきことの出で来ぬれば、いみじともさらなり。三月つごもりやがて頭おろす。心の内さこそはと悲し。
  大方の春の別れのほかに又我が世つきぬるけふの暮かな
 宮こにも、前の大納言経継、四条三位隆久、山の井の少将敦季、五辻少将長俊、公風の少将、左衛門佐俊顕など、みな頭おろしぬ。女房には、御息所の御方、対の君、帥君、兵衛督、内侍の君など、すべて男・女三十余人、さま変はりてけり。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c56d8d6fa5409d920088d7bfc06b183c

この「大方の春の別れのほかに又我が世つきぬるけふの暮かな」という有忠の歌が『増鏡』巻十四の巻名になっており、『増鏡』作者は六条有忠に相当な注意を払っていますね。
ま、それはともかく、教育と才能に恵まれた人なら十二歳でそれなりの歌を詠むことは可能でしょうが、「平貞時朝臣すゝめ侍ける三嶋社十首哥」は得宗・北条貞時が主導した公式の奉納歌ですから、僅か十二歳の少年が参加できるはずがありません。
従って、「昭慶門院二条」=六条有忠の隠名の可能性はなさそうです。
さて、554番の作者が「昭慶門院二条」であることから最もシンプルに導かれる結論は、『拾遺現藻和歌集』が成立した元亨二年(1322)を遡ること三十年前、正応五年(1292)に「昭慶門院二条」を名乗る女性が実在して、その女性が「昭慶門院二条」の名前で「平貞時朝臣すゝめ侍ける三嶋社十首哥」を詠んだということになります。
しかし、これもあり得ません。
何故なら、「昭慶門院二条」が仕えた昭慶門院に女院号宣下があったのは永仁四年(1296)八月十一日であって、正応四年の時点では問題の人物も「昭慶門院二条」を名乗れるはずはないからです。

昭慶門院(1270-1324)
https://kotobank.jp/word/%E6%98%AD%E6%85%B6%E9%96%80%E9%99%A2-1082159

となると、ひとつの合理的な推論としては、「昭慶門院二条」を名乗る人物は実在したけれども、その人物は正応五年(1292)には別の名前で「平貞時朝臣すゝめ侍ける三嶋社十首哥」に参加した、ということになりそうです。
六条有忠説も存在したことを考慮すると、当該人物を女性と限定することも適切ではないので、仮にX氏とすると、小林一彦氏によれば、

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 正応五年(一二九二)、伊豆国の一の宮である三島社に十首和歌が奉納された。人々に十首を詠むように勧めたのは北条貞時である。【中略】
 貞時は『新後撰集』を初出とし、『新千載集』までの六集に、あわせて二十五首の入集をみる勅撰歌人である。東国屈指の武家歌人であると言ってよいであろう。正応五年の三島社十首は、その貞時の初期の和歌事跡としても注意される。彼の勧めに応じたのは、京極為兼・冷泉為相・二条為道・飛鳥井雅有・慶融ら、当代一流の歌人達であった。正応五年三島社十首は、京洛においても個々の作品が引かれ言及されているところを見ると、おそらく一書として纏められ流布していたのであろう。残念ながら、現在では散佚してしまったらしく、その全容を窺うことは不可能であり、拾遺される詠作も二十首に満たない。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/695f1ab47994ad952f212bf7fb05708b

とのことなので、正応五年の北条貞時はもちろんX氏の名前を知っていて、かつ、北条貞時にとってX氏は「京極為兼・冷泉為相・二条為道・飛鳥井雅有・慶融ら、当代一流の歌人達」と並ぶ力量の歌人であったことになりますね。
また、「正応五年三島社十首は、京洛においても個々の作品が引かれ言及されているところを見ると、おそらく一書として纏められ流布していたのであろう」とのことなので、その断簡が将来発見され、そこにX氏の名前が書かれている可能性も皆無ではないかもしれません。
しかし、そうした微かな可能性に期待する訳にもいかないので、「正応五年北条貞時勧進三島社奉納十首和歌」の参加者の周辺、特にこれらの人物が鎌倉でどのような活動を行っていたかを検討することにより、X氏との交流の片鱗が窺えないかを考えてみたいと思います。

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