学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

きよたま

2008-08-30 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 8月30日(土)23時02分7秒

>筆綾丸さん
と読むのではないのでしょうね、たぶん。
『増補 無縁・公界・楽』では、
-------------
上人といわれた清玉は、「南無阿弥陀仏御坊」ともよばれており、時宗の僧侶だったと思われる。(p56)

なお、本文で清玉を時宗の僧侶ではないかとのべたが、阿弥陀寺は現在、浄土宗鎮西義の寺院、知恩院末寺であり、時宗とは断じがたい。「京都府寺誌稿」によると、清玉は行倒れの女性から生まれた子で、建仁寺に入ったといわれるが、これも一つの諸伝にとどまる。ただ阿弥陀寺は古くからの京都の墓所として知られた蓮台野に近く、山号を蓮台山と称しており、当初から墓所に建てられた寺院であったと思われる。また、横井清氏の御教示によって知りえた「信長公阿弥陀寺由緒之記録」(『改定史籍集覧』第廿五冊、新加別記類)は享保十六年(一七三一)同寺廿世常誉説音の記録であるが、本能寺の変のさい、(後略)。(p264)
--------------
となっていますが、この書き方だと、網野氏は本文執筆時には清玉と信長の関係(伝説?)を知らなかったのですかね。
そもそも本文にあげた材料で時宗の僧侶と言ってしまうのも変な感じです。
清玉は興味深い人に思えるのですが、国会図書館の検索でも武田鏡村 「第六天魔王信長の首級と清玉上人 」(『歴史と旅』、1999.09)1件しか出てきませんね。

蓮台山「総見院」阿弥陀寺
http://www.nobunaga-lab.com/labo/07_ibutu/07-03_iseki/byousyo/amidaji.html
http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1600/47562363.html
http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1600/55606032.html

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「本願人清玉」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4714
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夜河の底は水も燃えけり

2008-08-29 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 8月29日(金)13時09分2秒

>筆綾丸さん
私としては貫之が傑出しているように感じますが、長井宗秀も相当なレベルで、亀山院より上手ですね。
また、為兼の配列も絶妙だと思います。
岩佐美代子氏は光厳院の『風雅集』と比較して『玉葉集』の配列の巧みさを高く評価し、光厳院はやはり素人、為兼はプロと言われてますね。
『玉葉集』をきちんと理解するために岩佐氏の『玉葉和歌集全注釈』全四巻を買いたいのですが、古書でも6万円くらいなので、さすがに迷います。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「上り下り」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4712

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鵜六首

2008-08-28 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 8月28日(木)01時07分34秒

>筆綾丸さん
騒々しい文体に辟易しつつ、『寺社勢力の中世─無縁・有縁・移民』を結局全部読んでしまいました。
伊藤正敏氏は確かに面白い史料を紹介してくれるのですが、その内容を確認するために何を見ればよいのかが全く書いてなくて、いくら新書とはいえ、ずいぶん不親切な作りの本ですね。

遅くなりましたが、『玉葉集』の「くだし過ぎて」の前後の歌、紹介しておきます。
検索したら、「かたつむり行進曲」というサイトに『玉葉集』が掲載されていましたのでコピーさせてもらいましたが、表記は次田香澄氏校訂の岩波文庫版に変更しています。
亀山院御製に「大井河」、西園寺実兼に「かつら人」との表現がありますので、大江宗秀の歌が嵯峨近辺を詠んだものと考えてもおかしくはないですね。

------------------

   延喜六年内の御屏風十二帖の歌、仰せごとによりて奉りける中に、
   鵜河                           貫之
かがり火の影しうつればぬば玉の夜河の底は水も燃えけり

   おなじ心を                         亀山院御製
大井河鵜舟のかがりほの見えてくだすや波のよるぞ知らるる

                                入道前太政大臣
かつら人月の光のささぬ夜ものぼる鵜舟に棹はとるらし

                                右大臣
くれの雨に河瀬の水やまさるらん早くぞ下るかがり火のかげ

   夏河                            大江宗秀
夕やみの鵜川のかがりくだし過ぎてあらぬ蛍ぞまたもえて行く

                                藤原俊言朝臣
鵜飼舟棹さしつづき上るらしあまたみえゆくかがり火の影

-----------------

「かたつむり行進曲」
http://www7a.biglobe.ne.jp/~katatumuri/waka3/gyokuyo/natu20.htm

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「将軍家と絵巻」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4710
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ふぅ~。

2008-08-26 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 8月26日(火)00時57分6秒

いくつか引用したいものがあるのですが、仕事の関係で、なかなか時間がとれません。

>筆綾丸さん
永井・森氏の論拠は別の史料ですね。
古文書のことはあまり分からない私が言うのもなんですが、『鎌倉遺文』は尋常ならざるスピードで出版されたので、翻刻や人名・年代比定等、かなり粗っぽい部分が多く、『鎌倉遺文』だけに依拠して論理を詰めて行くのは危険だと思います。

>伊藤氏
『寺社勢力の中世 ─無縁・有縁・移民』、買ってみましたが、網野善彦氏の無縁論を突き詰めたものだそうで、私には賛成しがたい記述がテンコ盛りでした。
62頁まで行けるかどうか。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「中世(1070/2/20~1588/7/8)? 」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4708
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貞秀の没年

2008-08-25 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 8月25日(月)01時08分30秒

>筆綾丸さん
昨日投稿してから、暫くネットを見られなかったので、レスが遅れてしまいました。
長井貞秀の命日については、先に少し引用した永井晋氏の「長井貞秀の研究」(『金沢文庫研究』第315号、2005年)に詳細な分析があります。
永井氏の現在の結論としては、「筆者は『人物叢書 金沢貞顕』で長井貞秀の卒去を延慶二年三月十二日を貞秀の命日としたが、一年繰り上げて延慶元年三月十二日卒去に訂正したい」とのことです。
他に森幸夫氏が延慶元年六月十二日説を出されているそうで、いずれにせよ没年は延慶元年(1308)で間違いないようですね。
また、長井氏クラスだと鎌倉で複数の屋敷を構えていたはずであり、また宗秀が同時に京都に別邸を持っていたとしても不思議ではないと思いますので、個々の邸宅の存続と宗秀居住地は直接には関係ないのではないか、と思います。
眠いので、続きはまた後で書きます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「洒掃禅門之御悲嘆・・・」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4706
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『中世京都首都論』

2008-08-23 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 8月23日(土)10時25分46秒

>筆綾丸さん
「寮家領」が気になって大村拓生氏の『中世京都首都論』(2006、吉川弘文館)を購入してみましたが、雑誌掲載論文を若干改稿されてはいるものの、「嵯峨亀山殿近辺屋敷指図」については特に新しい指摘はありませんでした。
「寮」で間違いないと思いますが、一応、現物の写真を確認してみたいですね。
「寮」とすると、掃部寮などより、もっと実質的な役割が伴っていた役所の関係で何かないのかなと思うのですが。

大村氏の論文は今までいくつか読んでいましたが、一冊にきちんとまとまったものを読むと、また印象が違いますね。
優れた研究者だなあと思います。

>道雄
『鎌倉政権得宗専制論』基礎表によると、正安3年(1301)8月の貞時出家に従ったものと推定されるとのことです。
宗秀は延慶2年に七番引付頭人を辞してからも、寄合衆には残っていたようですね(永井晋氏『金沢貞顕』p66)。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「サナトリウム嵯峨」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4704
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虫眼鏡

2008-08-21 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 8月21日(木)13時02分13秒

>筆綾丸さん
拡大してみたところ、「武家領」ではなく、「寮家領 長井掃部入道給云々」とありますね。
どういう意味なのか。

『玉葉集』の「くだし過ぎて」の前後の歌を見ましたが、配列が非常に巧みですね。
後で紹介します。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「磁場」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4702
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晩年の宗秀

2008-08-20 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 8月20日(水)13時10分44秒

>筆綾丸さん
長井氏については小泉宜右氏の「御家人長井氏の研究」(『高橋隆三先生喜寿記念論集 古記録の研究 』1970)が非常に詳しいですね。
細川重男氏『鎌倉政権得宗専制論』には、「長井関東評定衆家は六波羅評定衆等を多く出す広元流大江氏の嫡流であり、この家のみが鎌倉末期まで鎌倉政権中枢に地位を保ったのである。中でも泰秀の孫の宗秀は貞時政権期に引付頭人・越訴頭人・執奏等を歴任し寄合衆に至っている」との簡潔な指摘があります。
また、森幸夫氏『六波羅探題の研究』では六波羅評定衆家が近衛家に仕えていて、公家と特別な関係にあったことが示されています。
ただ、三氏とも文学関係への言及はありません。
『鎌倉政権得宗専制論』巻末「基礎表」を見ると、宗秀が延慶2年(1309)に七番引付頭人を辞してから 嘉暦2年(1327)に死去するまでの間の記録はないようですね。
宗秀は和歌に特別熱心だった人ですから、晩年、といっても延慶2年の時点でまだ45歳だった宗秀が63歳で死去するまでの間、京都に居住していたことがあったとしても不思議ではないですね。
武家社会の方の記録は調べつくされているでしょうが、歌壇の関係で何か出てくる可能性はあるのかも。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%95%E5%AE%97%E7%A7%80

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「財界人」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4700
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取り急ぎ

2008-08-19 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 8月19日(火)20時05分31秒

>筆綾丸さん
宗秀は長井氏嫡流の関東評定衆家ですね。
永仁2年(1294)に東使として上洛したことはありますが、ずっと鎌倉に住んでいた人です。
だとすると、何でこの人が嵯峨に屋敷を持っているのかな、という感じはします。
大村氏の論文の注36を見ると、森幸夫氏の教示で長井掃部入道を宗秀と比定したとのことなので、まず間違いはないのでしょうが。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「くだし遣はす」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4698
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岩佐美代子「自著を語る」

2008-08-19 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 8月19日(火)09時19分48秒

昨日、書店で『京極派和歌の研究 改訂増補新装版』(2007)を見たところ、旧稿は特に改訂されておらず、京極派歌人一覧表で長井宗秀らが「持明院統近臣」とされていることもそのままでした。
それにしても岩佐美代子氏の執筆活動の活発さは、ちょっとすごいですね。
80歳を超えた今でも文章は若々しく、お嬢様パワーに溢れていますね。

http://kasamashoin.jp/2008/05/post_485.html
http://kasamashoin.jp/shoten/iwasa_jichokataru.pdf
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長井掃部入道

2008-08-18 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 8月18日(月)13時18分25秒

>筆綾丸さん
長井宗秀は嵯峨の亀山殿近くに結構な広さの屋敷を構えていたようですね。
「嵯峨亀山殿近辺屋敷指図」に彼の名前が出てきて、同図の作成年代確定にも役立っているそうです。
(大村拓生氏「中世嵯峨の都市的発展と大堰川交通」p74.75)
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/UCRC/2006/data/pdf_zasshi03/04omura.pdf

夕やみの鵜川のかがりくだし過ぎてあらぬ蛍ぞまたもえて行く

これなど、もしかしたら嵯峨の風景でしょうか。

>『日本軍と阿片』
私も見ました。
里見甫の映像は初めてだったので興味津々眺めましたが、風貌も話し方も「アヘン王」というおどろおどろしい異名とはマッチしない人ですね。
http://www.asahi.com/national/update/0816/OSK200808160057.html

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「字余り」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4695
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すずしさ高き

2008-08-17 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 8月17日(日)18時27分18秒

>筆綾丸さん
昨日、自宅で雷雨の最中にパソコンを操作していたら、外でピカッと光った瞬間、ネットに接続できなくなってしまいました。
固定電話も使用不能で、工事業者に来てもらわないと復活できそうにありません。
光フレッツに変えなければよかったのかも。
今日はネットカフェからの書き込みです。

小林氏の論文の要約は乱暴すぎて、ご本人が見たら怒るかもしれないですね。
長井宗秀については後できちんと調べてみるつもりです。
宗秀が和歌狂いだったのに対し、息子長秀は和歌には全く興味がなく、漢詩のみだったようです。

岩ねつたふ水のひびきは底にありてすずしさ高き松かぜの山
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/munehide.html

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
Power and Painting in Muromachi Japan
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4693

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世間では

2008-08-15 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 8月15日(金)22時53分19秒

お盆休みだというのに、私は諸事情のためずっと出勤しておりました。
都心は地下鉄ガラガラ。
昼休みに食事に出ても、いつも行く店はどこも休業で、炎天下にあちこち彷徨い歩き、結局、コンビニ弁当を買って帰りました。
むなしー。

>筆綾丸さん
レスが遅れてすみませぬ。
小林一彦氏の論文を引用しようと思ったのですが、整理が悪くて、行方不明になってしまいました。
以下、若干乱暴ではありますが、小林氏の言われることをまとめてみます。
即ち、大江茂重という六波羅評定衆の一員だった武家歌人は語彙・表現からは京極派と分類せざるをえない歌を大量に残しているのに、京極派歌人との交流の跡は伺えない。
この人にとって、京極派・二条派の争いなど実はどうでもよいことであって、要は自分の歌を勅撰集に入れてもらえさえすればよかったのではないか。だから撰者の傾向を分析して、京極派の歌人が撰者のときは、その好みに合いそうな歌を提出し、二条派の歌人が撰者のときは、また二条派好みの歌を提出していただけなのではないか。

ここから先は私の見解ですが、ま、受験勉強の要領で、『玉葉集 傾向と対策』、『京極派頻出語彙100選!-この単語さえ押えておけばキミも今日から勅撰歌人-』てな感じの参考書を使って、お抱えの家庭教師に指導してもらっていた「歌人」が、公武を問わず結構いたのではなかったか、と。
そういう目で見ると、足利尊氏の勅撰集初入集の歌など、妙に年寄りくさくて怪しい感じがします。

>和歌を詠んだ武士がしばしば悲劇的な最期を迎える意味
五味氏の書評を読んでみましたが、この部分、確かによく分からないですね。
和歌を詠んでいない武士だって、しばしば悲劇的な最期を迎えていますからね。

>dichotomy
小川氏の本の該当部分を読んでみましたが、佐藤氏が正確に定義した概念を独自に変換して使っているようで、これもよく分からないですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「ディコトミー」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4691
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鶏足寺

2008-08-13 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 8月13日(水)00時35分40秒

>筆綾丸さん
>もうひとつ
そうですね。
Religion は苦手ですが、勉強しない訳には行きませんね。

>遷宮祭
淡路廃帝とはいったい何のことかと思いましたが、菅浦に淳仁天皇伝説が残されているのですね。
http://www2.odn.ne.jp/cbm54970/25sugaura.html
http://f31.aaa.livedoor.jp/~nnnnn/a...kannon...7.htm

渡岸寺の十一面観音は、もともと鶏足寺にあったものではないか、という説を聞いた覚えがあるのですが、出典を思い出せません。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「淡路の廃帝」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4687

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長井宗秀は京極派歌人か?

2008-08-13 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 8月13日(水)00時25分9秒

今日、永井晋氏の「長井貞秀の研究」(『金沢文庫研究』第315号、2005年)を読んでみたのですが、その冒頭には次の文章がありました。

--------
長井貞秀は、鎌倉幕府の引付頭人長井宗秀の嫡子である。長井宗秀は、鎌倉幕府の中枢で昇進した文官であると同時に、京極派の歌人として活躍した。貞秀の母は北条実時の娘であり、貞秀は母方の実家として金沢家と交流していた。また、大江広元の嫡系とみなされていた長井宗秀は長井洒掃文庫を構えており、長井貞秀の書状をみると、長井家と金沢家が盛んに蔵書の貸借を行ったことがわかる。
--------

論文の主題とは直接関わらない部分ですが、先に小林一彦氏の「京極派歌人とはいかなる人々を指すか─大江茂重の異風─」 (『国語と国文学』平成16年5月号) という論文を読んでいたため、鎌倉幕府の政権中枢にいた長井宗秀を本当に京極派歌人と呼んでよいのだろうかという疑問が生じ、永井氏が注記に引用されている岩佐美代子氏の『京極派歌人の研究』(笠間書院、1974年)を確認してみました。
すると、岩佐氏は次のように書かれていました(p445以下)。

---------
京極派歌人として認定する目安は、
 一、各歌合の出詠者。
 ニ、持明院統皇族(尊円および歌人的活動の乏しい法親王を除く)と京極家歌人。
 三、玉葉風雅への重点的入集者。
 四、権門歌人は、西園寺家の人物(歌人的活躍の乏しい公衡・道意・実衡を除く)
   以外は一時的同調者とみなして同派から省く。
 五、武家歌人は歌壇活動の状況が明確でないので、特に持明院統・為兼と近い大江
  (長井)宗秀一族以外は省く。
 六、冷泉家歌人は、玉葉風雅における限りかなり積極的な同調者と見て一往同派に
   含める。
 七、廷臣・女房・僧侶は持明院統との親近関係の強いものである事を条件に取捨する
  (表面的迎合者をなるべく除くためである)。
 このようにして、表に示す通り合計一〇九歌人を得た。内訳は男子四九・僧侶九・女子五一.玉葉入集者は五六名、風雅日集者は九八名。各集総歌数に占める京極派歌人作品数の百分比は、玉葉集二八〇一首中五八三首で二一%、風雅集二二一一首中九二六首で四二%である。群小歌人についてはなお考慮の余地があり、今後の新資料発見によって当然加除修正される事が期待され、私自身そのために努力を続けて行きたいが、大づかみにしての京極派歌人の範囲は、ほぼこの程度と見てようのではなかろうか。
---------

岩佐氏自身も認めておられるように、京極派歌人の範囲は非常に微妙ですね。
特に「表面的迎合者」とどのように区別するのか。
ま、それはともかく、岩佐氏は、以下の四つの表を作成しています。

第一表 前期京極派歌合作者一覧(34名)
第二表 後期京極派歌合作者一覧(42名)
第三表 京極派歌人の勅撰集入集状況
第四表 階層別及び特異句使用率

そのうちの第四表を、

1.皇族20名
2.歌道家14名
3.西園寺家8名
4.持明院統近臣30名
5.僧侶5名
6.後宮女流32名

と分類して、宗秀・貞広(宗秀弟)・広秀(宗秀孫)・貞懐(同)の四人を、なんと「持明院統近臣30名」の中に含めているんですね。
私は最初に本文を読まないまま、この第四表だけを見て、長井宗秀が「持明院統近臣」なのか、岩佐美代子氏は何かとんでもない勘違いをしているのではないかと驚きました。
(続く)

長井宗秀
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%95%E5%AE%97%E7%A7%80
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