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史料編纂所の位置づけと職員の身分(その1)

2014-05-31 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月31日(土)20時57分58秒

中世史の勉強を始めたばかりの頃、史料編纂所の某氏から、編纂所は昔、東大の中では格が低い存在として差別されていた、と聞いてびっくりしたことがありますが、坂本太郎氏の『古代史の道-考証史学六十年-』には、終戦後の史料編纂所の位置づけの変化と職員の身分の改善についての記述がありますね。(引用は著作集第12巻、p119以下)

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 これについては、多くの人の根回しの努力があったと思うが、私の憶えていることは、二十四年の何月か、史料編纂所の処遇を審議する委員会を総長室で行うから、国史学科代表として出席せよという通知を受けたことである。大講堂内の総長室に入ったのは、これが生まれて初めてであるが、行ってみると、高木文学部長、竜所長、森末編纂官、法学部の岡義武教授、進藤事務局長などがいる。編纂所側でどういう理由で付置研究所案を主張したか、肝心なことを忘れたが、ともかく今の文学部の付属施設では、すべての書類は文学部長の手を経なければならず、事務上不便であること、戦後の官制改革ですべての官吏は教官・技官・事務官の三つに分けられ、史料編纂官というような特殊な官名は廃止されたため、一様にみな文部事務官となり、純粋の事務系職員と区別のつかないことが困ることなどを主張したことは確かである。これに対して高木文学部長は、文学部長は一応史料編纂所の書類を見るが、内容はわからぬので盲判を押すだけであり、事務的にいえば編纂所が文学部に付属している意味は全くないという好意的な賛意を示した。岡教授は、史料編纂官に教授・助教授に値するような業績があるのかどうか、事務官を教官に換えることは反対だという強硬な意見を述べた。私はそこで史料編纂官は各専門時代についてのすぐれた碩学であり、立派な業績も発表している。その点において文学部の教官とは何の遜色もない。事務官という名称は不適当であると力説した。総長の意向は初めからきまっていたらしい。史料編纂官を教官とすることには、岡教授のように反対なのである。ただ事務の煩瑣を除くために文学部から話して独立の付置研究所並みとすることには賛成した。竜所長はこの日の結論が心配で前夜は眠れなかった程の緊張ぶりであったというが、結果は研究所には昇格したが、職員は文部事務官に止まるという鵺的な状態に置かれることになった。
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「高木文学部長、竜所長、森末編纂官」とありますが、それぞれ高木貞二(心理学、1893-1975)、龍粛(りょう・すすむ、1890-1964)、森末義彰(1904-77)氏ですね。
他方、12歳上の龍粛史料編纂所長を前にして「史料編纂官に教授・助教授に値するような業績があるのか」、「事務官を教官に換えることは反対だ」と言い放った岡義武(1902-90)は著名な政治学者ですが、「竜所長はこの日の結論が心配で前夜は眠れなかった程の緊張ぶりであった」そうなので、龍粛氏自身はあまり、というか全然反論できなかったのでしょうね。
ここに出てくる「総長」は政治学者の南原繁(1889-1974)で、終戦工作を行ったり、吉田茂から「曲学阿世の徒」と呼ばれたことで有名な人ですね。
法学部の一教授であった岡義武がいかなる資格でこの会議に出席していたのかは分かりませんが、「総長補佐」みたいな立場ですかね。

岡義武
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%BE%A9%E6%AD%A6
南原繁
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E7%B9%81

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佐藤雄基氏『日本中世初期の文書と訴訟』

2014-05-30 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月30日(金)08時23分18秒

>筆綾丸さん
佐藤雄基氏の『日本中世初期の文書と訴訟』は未読ですが、ご紹介の「博士論文データベース」を見ると、なかなか興味深い内容ですね。

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第一の課題は、文書の書式分類を軸とする様式論が主流となってきた通説的古文書学に対して、文書機能論の手法を徹底していくというものである。機能論的分析の重要性は佐藤進一氏によって提唱されていたが、「文書の様式は、文書の機能の表現形式である。」という佐藤氏の提言に象徴されるように、従来の古文書学では文書様式に対応させて文書の機能を検討する《様式論的機能論》が考えられていた。これは過去の公権力の発給文書の分析によって、過去の「制度」を復元する伝統的な法制史研究に連関するものであった。だが、日本の中世文書は、行政文書としての性格を強く有する古代文書の様式の系譜を引きつつも、訴訟における当事者主義的な文書利用の結果、しばしば文書の様式と機能にズレを生ずるところに特徴がある。その点を考慮せず、《様式論的機能論》を追求することで、近代的な制度観が投影され、実態とは乖離した制度史像が構築される恐れはなしとしない。
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2011/998.html

佐藤進一氏には種々疑問が生じてきているので、この本を読んでみたい気持ちもあるのですが、このところドイツの歴史をろくに知らないまま、牧野雅彦氏の最近の著作に一応全て目を通して、知識のバランスが極端に悪い状態になっているので、そちらの調整もせねばならない状況です。
佐藤雄基氏の著書は少し先になりそうです。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7388
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井上末子と牧野峰子

2014-05-29 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月29日(木)22時01分54秒

>筆綾丸さん
『平成新修旧華族家系大成』を確認したところ、やはり井上光貞氏は襲爵はされていませんね。
父親がご存命のうちに新憲法で華族制度が廃止された訳ですから、当たり前ですが。

たまたま図書館で見かけた森重和雄・倉持基・松田好史編『大久保家秘蔵写真 大久保利通とその一族』(国書刊行会、2013)に井上勝之助と「英・独・仏の三カ国語を自由にあやつってヨーロッパ外交界に活躍」した末子(すえこ、1864-1934)夫妻の写真が載っていましたが(56p)、末子夫人はいかにも勝気で頭の回転が早そうな顔をしていますね。
また、同書には大久保利通の二男、牧野伸顕の峰子夫人の写真が4枚出ています。
牧野峰子は三島通庸の次女だそうですが、日本人離れした本当に華やかな雰囲気の美人ですね。
明治の日本にこれほど洋装の似合う人がいたのか、とちょっとビックリしました。
ちなみに牧野伸顕は頭が禿げ上がった晩年はそれなりに貫禄がありますが、なまじ頭髪が残っている中年の頃はカワウソみたいな貧相な顔をしていますね。

牧野伸顕
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95

>三ヶ月章氏の『民事訴訟法』
私は三ヶ月章氏の東大での最後の講義を聴講しているのですが、朗々たる「三ヶ月節」で有名な、大変な雄弁家でしたね。
ウィキペディアには「旧制一高時代はホッケーの選手、帝大時代にはヨット部長も務めていた」とありますが、私が見た頃にはかなり太っていて、スポーツマンだった時代の容姿はちょっと想像し難い体型になっていました。
また、ウィキペディアには「1954年、青年法律家協会設立発起人となる」とあり、これまた意外でしたが、確かに青法協サイトには設立発起人として三ヶ月章氏の名前も出ていますね。

三ヶ月章
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%83%B6%E6%9C%88%E7%AB%A0

青年法律家協会
http://www.seihokyo.jp/html/about-seihoukyou.html

まあ、発足時の青法協は幅広く人材を集めた文字通り民主的・進歩的な団体だったのでしょうが、裁判官任官拒否等の問題もあり、今は実質的に共産党系の団体になっています。
これも時代の変化ですね。

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「わが家の家風が西洋趣味」(by 井上光貞氏)

2014-05-28 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月28日(水)10時25分24秒

井上光貞氏の『わたくしの古代史学』(文藝春秋、1982年)を読むと、誰しも、この家系に生まれて何故に国史学科へ、という疑問を抱くと思いますね。
「第2章 戦時下の古代研究」から少し引用してみます。(著作集第11巻p25以下)

-------
(前略)うってつけのようにみえる中世思想史の平泉澄教授は、例の皇国史観で到底ついていけないのであった。そこでわたくしは、国史学科の卒業生でありながら、倫理学教室の主任教授で、日本倫理思想史を講ずる和辻哲郎教授に指導教官をお願いすることに決めた。
(中略)
 和辻先生の教えをうけようとおもったのには、もう一つの理由があった。それはわが家の家風が西洋趣味で、国史学科の少々野暮すぎる日本趣味にそわないことであった。祖父が条約改正の外相として鹿鳴館時代を演出したのは広く知られているが、ながく子に恵まれなかったので、兄の子の勝之助を養子とした。勝之助は、一八七一年イギリスに留学して London School of Political Economy に学び、在英九年、一八七九年に帰国した。勝之助はやがて、井上家の親類の萩の小沢氏の末子をめとったが、末子も馨にかわいがられて育った人で一八七六年、馨に伴われてイギリスにわたり、在英五年、一八八〇年に帰国した。こうしてわたくしたち兄弟が祖父、祖母とよんでいた勝之助夫婦は若くして語学に長じ、西洋の学芸・マナーにも通じた。勝之助は外交官となって、一八九六年から一九一七年にいたる二十年間、つまり、日清戦争から日露戦争を経て第一次世界大戦までの間、夫婦同道でドイツ・イギリスに滞在し、公使や大使をつとめた。馨は勝之助の英国大使時代の末期、一九一五年になくなり、わたくしは一九一七年にうまれたが、勝之助はこの年、大使をやめて帰国し、宗秩寮総裁となった。それからはもっぱら日本生活で枢密顧問官などをつとめ、二九年、つまりわたくしが学習院初等科の六年生のときになくなった。
 わたくしが記憶する祖父の井上勝之助は、風貌からして英国紳士的な教養人であった。しかしもっとえらくみえたのは祖母の末子であった。末子は三四年の八月、わたくしが成蹊高校の理科一年生のときになくなったが、英・独・仏の三カ国語を自由にあやつってヨーロッパ外交界に活躍したという。末子は夫がなくなってからは、かなり広かった井上家邸内の一角に静かに住まっていたが、その書斎は学者の研究室のようで、西洋図書にうずめつくされていた。
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親族関係が若干複雑ですが、井上馨(1836-1915)は甥の勝之助(1861-1929)を養子とし、馨が亡くなると勝之助が襲爵。
勝之助は馨の実子・千代子と結婚した三郎(1887-1959、桂太郎三男)を養子とし、勝之助が亡くなると三郎が襲爵。
養子が二代続いたものの、光貞氏は母・千代子経由で馨の実の孫となる訳ですね。

井上勝之助は確かに「風貌からして英国紳士的な教養人」だなあと思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%8B%9D%E4%B9%8B%E5%8A%A9
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華族の子弟の歴史学者

2014-05-28 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月28日(水)08時36分5秒

>筆綾丸さん
>侯爵
ウィキペディア情報で恐縮ですが、父親の井上三郎侯爵・貴族院議員が1959年までご存命なので、光貞氏は襲爵はしていないと思います。
霞会館発行の『華族家系大成』を見れば正確なことが言えるのですが。
ちなみに家柄の点で井上光貞氏に匹敵する歴史学者には大久保利謙氏(1901-95)がいますが、同氏の『日本近代史学事始め-歴史家の回想』(岩波新書、1996)の「年譜」を見ると、「一九四三年(昭和一八年) 『日本の大学』を出版する。父利武死去にともない大久保家(侯爵)を嗣ぎ、貴族院議員に就任する」とありますね。
他の華族の子弟だと、史料編纂所教授だった近衛通隆氏(1922-2012)氏は近衛文麿の次男で襲爵はせず、史料編纂所員で若くして戦死された坊城俊孝氏(1919-45)も次男で、襲爵はしていないですね。

井上三郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E4%B8%89%E9%83%8E
大久保利謙
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E8%AC%99
近衛通隆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E9%80%9A%E9%9A%86

坊城俊孝氏については「国史学界の今昔」シリーズの平野邦雄氏の回(『日本歴史』第625号、2000年)に、集合写真の中でいかにも貴族的な雰囲気を漂わせる人がいて、誰だろうと思って調べたことがあります。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/kiroku2000-06.htm

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7385
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林健太郎氏「国史学界傍観」

2014-05-27 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
「国史学界の今昔」の第36回(『日本歴史』559号、1994年12月)は林健太郎氏(2013-2004)の「国史学界傍観」で、その最後の方に大学紛争のことが出てますね。
聞き手は伊藤隆氏です。

---------
伊藤 東大紛争の時は、国史はどうだったんですか。
林 あの時の文学部の三大ハト派が、堀米庸三君と井上光貞さんと、それから社会学の福武直さん。ハト派というのは学生の言い分を聞いてやらなければいけないという主張ですが、私は向こうはだいたい無茶なんで、要求を入れたって闘争を止めないから無駄だという考えだった。しかし見解の相違が人間的な対立になることはなかったですね。これは文学部のよいところです。まあ教授会は三分の二くらいがタカ派でした。
伊藤 タカ派の方が多かったですか。
林 それは多かったですね。しかし各学科ともばらばらでね。国史では佐藤進一さんは井上さん以上のハト派。尾藤正英さんは中間派で考え方はややタカ派に近かったかな。東洋史は山本達郎さんと榎一雄君はタカ派で、西嶋定生さんはハト派。護雅夫さんは気が弱い人だから、タカ派にはならないで、どっちかっていうとハト派。西洋史はタカ派は私だけですよ。柴田三千雄君は井上さんと同じ立場、成瀬治君はおとなしい方だから。(笑)
伊藤 やっぱり井上先生は何かちょっと左翼コンプレックスがあるんですね。
林 ちょっとあったですね。あの時は。
伊藤 いや、だいたい一貫してあったんじゃないですか。あの方は。
林 そうですかね。でも始めのうちは和辻哲郎さんの古代史研究を尊敬していて必ずしも津田さん派ではなかった。大体戦前は侯爵だったから、そういうことに対するコンプレックスはあったかもしれませんね。
--------

東大の教員だった伊藤隆氏が何で他人事みたいに聞いているのかと変に思いましたが、伊藤氏自身は紛争終息後の1971年に東大に移っているそうですね。
伊藤氏の井上光貞氏に対する評価には若干の疑問を感じます。

林健太郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%81%A5%E5%A4%AA%E9%83%8E_(%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E8%80%85)
伊藤隆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E9%9A%86_(%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E8%80%85)

私は共産趣味が多少あるものの、根が権力的・反動的体質なので、暴力を肯定する集団に甘い顔を見せても仕方ない、という林健太郎氏のサバサバした判断が一番適切だったように思いますね。
林健太郎氏の『昭和史と私』(文藝春秋、1992年)には戦前の歴史学研究会の動向や羽仁五郎・井上清氏らによる「歴研クーデター」の模様も描かれていて、歴史学研究会の歴史を知るには便利な本です。

>筆綾丸さん
チューリップの球根は多くが有毒で、食用のは特別な品種なんですね。
オードリーがそんなものを食べていたことはもちろん、第二次世界大戦末期にオランダにいたことも知りませんでした。

Audrey Hepburn
http://en.wikipedia.org/wiki/Audrey_Hepburn

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7383
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「国史学界の今昔」

2014-05-25 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月25日(日)08時52分38秒

大口勇次郎氏(お茶の水女子大学名誉教授)・高村直助氏(東京大学名誉教授)を聞き手とする尾藤正英氏(1923-2013)の聞き書き「戦争体験と思想史研究」は今年になって発表されたものですが、インタビュー自体は2008年に行われたそうですね。
(上)の冒頭に次のようにあります。

------
掲載にあたって

 尾藤正英先生におかれましては、昨年五月四日にご逝去されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 この聞き書きは、標記の通り、平成二十年(二〇〇八)十一月二十一日に行われましたが、尾藤先生は原稿の修正を期しておられましたものの、未完の状態となっておりました。そのため、掲載にあたっては、不明な箇所や読者が理解し難い部分について、聞き手の判断で加筆修正を行いました。なお十全でない部分があるやも知れませんが、右の事情をご賢察下されば幸いです。
(後略)
------

聞き手の大口勇次郎氏は1935年生まれ、高村直助氏は1936年生まれだそうですから、2008年の時点で尾藤正英氏85歳、大口勇次郎氏73歳、高村直助氏72歳という何だかすごい高齢者対談ですね。
もちろん尾藤氏は85歳でも極めて頭脳明晰な方ですが、やはり最終校正前に逝去されるという事態も十分起こり得る年齢であった訳で、また、失礼ながら聞き手の方だってポックリ逝きかねない年齢ではありますね。
あくまで一般論ですが。
やっぱりこの種の対談というのはご本人が七十代、聞き手は三十・四十代の准教授と五十・六十代の教授クラスくらいの組み合わせが一番良いのではないですかね。

『日本歴史』の最近のバックナンバーをめくっても「国史学界の今昔」シリーズが出てこないので、国会図書館サイトで検索してみたら、第52・53回の磯貝正義氏は2008年、50・51回の直木孝次郎氏は2003年なんですね。
48・49回が欠けているのでどうしたのかと思ったら、これは「国史学会の今昔」と誤入力されているためで、平野邦雄氏、2000年でした。
もともと「国史学界の今昔」シリーズは三上参次が昭和11年に行った談話を紹介する形で1980年に始まったそうで、全55回のうちの実に19回分、約36%が「三上参次先生談旧会速記録」で占められていますね。
1982年、第25回で「三上参次先生談旧会速記録」が終了した時点では、三上以外に登場したのは長沼賢海・和田軍一・中村栄孝・坂本太郎・大久保利謙の五氏のみです。
この後、9年間のブランクがあって、1991年に入ると児玉幸多・玉村竹二・竹内理三・小葉田淳・小西四郎・箭内健次・林健太郎・末松保和・古島敏雄・村田正志・林屋辰三郎・田中健夫・斉藤忠・市子貞次という具合に順調に回を重ねます。
西洋史の林健太郎氏の回は「国史学界傍観」という変なタイトルですが、これはこれで読んでみたいですね。
2000年代になると平野邦雄氏以降、ずいぶん間隔が空いてしまっていて、企画自体に若干の息切れ感が漂いますね。

https://ndlopac.ndl.go.jp/F/NCLN7SV7FI7MIBRGFIIPFNCY8M3T9UUCQ27PD5D1HXDF5DM6T1-07157?func=short-jump&jump=000001
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「国史学科」の樺美智子氏

2014-05-24 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月24日(土)22時33分49秒

戦争中から東大紛争あたりまでの東大文学部・史料編纂所の動向を知りたくて坂本太郎・井上光貞・山口啓二の三氏の回想録とそれぞれの著作集の月報をまとめて読んでいるのですが、三者三様で面白いですね。
官学アカデミズムの保守本流を体現する坂本太郎氏(1901-87)、井上馨・桂太郎の孫として「西洋趣味」の名門に生まれ、マルクス主義に一応の理解を示しつつウェーバーに親しんだ井上光貞氏(1917-83)、そして社会派弁護士を父に持ち、闘志溢れる「運動家」として歴研・歴科協をリードした山口啓二氏(1920-2013)。
この三者の視点を押さえておけば、東大のみならず、戦後歴史学の動向の基本部分は一応押さえることができそうです。

今谷氏の文章に「六〇年安保闘争に於て教え子である樺美智子氏を犠牲にされた著者」とありますが、樺美智子氏は1937年生まれなので、佐藤進一氏より21歳下、存命であれば77歳くらいの人ですね。
1942年生まれの今谷明氏よりは5歳上です。
二年くらい前だったか、知り合いの若手歴史研究者で、政治的なツイートをするのが好きな人が樺美智子氏について書いていましたが、その人は樺美智子氏が国史学科に在籍していたことを知らなかったそうで、私はその点にちょっとびっくりしました。
まあ、樺美智子氏は日本共産党とは対立する党派にいたので、おそらく歴研・歴科協の中ではジャンヌダルク扱いはされておらず、知らない人は全然知らないのでしょうね。
山口啓二氏も樺美智子氏については軽く触れているだけですね。
また、坂本太郎氏は政治的立場とは全く別の教育指導上の経緯から、樺美智子氏に対して非常に冷淡な書き方をされていますね。

樺美智子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%BA%E7%BE%8E%E6%99%BA%E5%AD%90

>筆綾丸さん
グローバルホークは翼長が約40メートルだそうですから、けっこうでかいですね。
記事はこちらみたいですね。

http://www3.nhk.or.jp/nhkworld/english/news/20140524_10.html

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7380
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「かの学園紛争」

2014-05-24 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月24日(土)09時11分37秒

佐藤進一氏が東大を辞めた理由ですが、井上光貞氏の『わたくしの古代史学』(文藝春秋社、1982年)や「聞き書き-山口啓二の人と学問」(『山口啓二著作集』第5巻、校倉書房、2009年)を見たら、背景事情は何となく理解できました。
また、今谷明氏の「書評/佐藤進一著『室町幕府守護制度の研究』」、『歴史評論』471号、1989年)には次の記述がありました。

-------
(前略)本書は上・下二巻から成り、上巻はすでに一九六七年秋に出版されており、下巻はそれより二〇年を経た昨年一一月、漸くにして上梓された。(中略)
 さて本書上巻の出版当時、下巻分の素稿も大半は完成していたと伝えられるのに、下巻の刊行が遅延したことは学界にとっては惜しまれる事態であった。その著者自身は「懶惰に時をすごした」と遜辞され(本書あとがき)多くを語られないが、一時は本書下巻刊行さえ断念されるに至った最大の契機は、上巻出版の翌年勃発した東大文学部の闘争であろう。著者の自歴譜(『中央史学』十号)によると上巻発行の翌年一一月には東大に「訣別の意をほぼ固める」と記されている。また別の場で著者は一時は歴史学の研究自体を廃する決意さえ固められた旨を示唆されている。六〇年安保闘争に於て教え子である樺美智子氏を犠牲にされた著者にとって、かの学園紛争で学生らが提起した問題を回避することは許されなかった。安保闘争に係った多くの知識人がその後転向・変説した中にあって、著者の、他者に対しては寛容だが自己の良心に厳しく妥協を許さない誠実、真摯さは際立っている。著者の権力に関する強烈な問題意識と理論こそ、右のような氏の生きざま、人生観から発していることは疑いえないであろう。
---------

「変説」とありますが、変節の誤植ですかね。
まあ、私も純情な青少年だった頃はこの種の文章に感動したかもしれませんが、だいぶすれっからしになってしまったので、今谷は何を訳のわかんねーことを言っておるのだ、と思うだけですね。
「かの学園紛争」なんて莫迦の集団が棒を振っていただけで、「学生らが提起した問題」に何か重要なものがあったとは思えません。
「自歴譜」を見れば更に詳しい事情を知ることができそうですが、よく考えたら私は特に佐藤進一氏の思想に興味はないので、このあたりでやめることにします。

20日の投稿に対してFBでメールを頂きましたが、何故かうまく返信できないので、こちらでお礼を述べさせていただきます。
なお、メールで教えてもらった内容を外部に出すことはありません。

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清潔感溢れる『中世武家官位の研究』

2014-05-22 | 歴史学研究会と歴史科学協議会

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月22日(木)10時30分30秒

今週末は駒澤大学で歴研大会ですが、中世史部会の発表者は下村周太郎氏(「鎌倉幕府の歴史意識・自己認識と政治社会動向」)と木下聡氏(「室町幕府の秩序編成と武家社会」)だそうですね。

http://rekiken.jp/annual_meetings/

中世史部会の「主旨説明」には、

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中世社会は身分秩序や礼的秩序などさまざまな秩序によって規定され、その構造のもとに、諸階層が直接的・間接的に中央政権・国家に連なるとされる。故実や先例によって形成される秩序が、統合のたがとして現実的な効力を持っていたことは、これまでの身分秩序や儀礼等の研究によって明らかにされつつある。多様な社会と中央政権・国家を結ぶのはこれらの秩序であり、権力による秩序形成の問題と、社会における秩序の受容と再生産の問題は、権力と社会のあり方を考える上で、不可欠であるといえる。
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とあり、「礼的秩序」から石母田正氏を連想したので、参考文献に紹介されている木下聡氏の『中世武家官位の研究』(吉川弘文館、2011年)を眺めてみたのですが、意外なことに石母田正氏への特別な言及はありませんでした。
図書館で『歴史学研究』のバックナンバーをあたってみたら、904号(2013年4月)で山田貴司氏が同書の書評を書かれていて、その中で、

---------
(前略)加えて、「礼の秩序」の一端を解明することを目的とする」(2頁)と明言しながら、「礼の秩序」について説明や著者自身の見解がまったく提示されない点は物足りない。「礼の秩序」について述べた石母田正「解説」(『中世政治社会思想 上』岩波書店、1972年)が参考文献として注記されているのも、第二部第二章のみである。それゆえに、しばしば登場する「礼的秩序の対抗」といった表現の意図にも、いささかわかりにくさが感じられた。
---------

と言われていますね。
ただ、まあ、2月上旬に少し検討したように、『中世政治社会思想 上』の「礼の秩序」論は量的にも内容的にも貧弱なものであり、正直、私は石母田氏の勇み足程度に思っているので、木下氏が格別言及する必要を認めなかったとしても、それ自体は不思議ではありません。

定義をしない石母田氏
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/79f5086171277a65985537b635aa696b
これが石母田氏の「国家」の定義?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dc0d4a90a52fa3a0b66c3af7a4fb3b3c
石母田氏の「礼の秩序」論
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0141c707a7d365c7ca717ee2ea455dfe

歴史学者の人物誌を探求している関係で、このところ生硬なイデオロギー用語が飛び交った一昔前の論文を読む機会も多いのですが、キューティー・羽仁五郎や安良城・BENI・盛昭の論文あたりを見た後で『中世武家官位の研究』を読むと、まるで除菌されているのではないかと思えるくらい清潔感が溢れていて、すこし戸惑いを覚えます。
表を作るのが好きらしい木下氏には「思想」の匂いが全くなく、こういうタイプの人が歴研大会で発表するようになったのだなあ、と少し感心しました。

>筆綾丸さん
>あんなふう
私も全然分からないのですが、同時代の人のエッセイなどを当たってみるつもりです。

>ベケットとジョイス
日本で言ったら護衛艦「川端康成」とか潜水艦「大江健三郎」みたいなもので、妙な命名ですね。
弱い上に命令に従わなさそう。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7377

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尾藤正英氏「戦争体験と思想史研究」

2014-05-20 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月20日(火)22時32分19秒

今日は尾藤正英氏の「国史学会の今昔 戦争体験と思想史研究(上)(下)」(『日本歴史』第790・791号)を読んでみましたが、次の部分、理解できませんでした。(第791号、p44)

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尾藤 (前略)
 昭和二十九年(一九五四)四月に教養学部の助手になった。本郷の助手はそれまで安田元久さんがやっていましたが、この時に青木和夫君(一九二六~二〇〇九、お茶の水女子大教授)に代わりました。
高村 その前の昭和二十八年にご結婚されていると思うんですが、佐藤進一先生(名古屋大学)が媒酌だったという。
尾藤 さき子が佐藤先生の弟子です。佐藤さんはその頃、皆から好かれていましたね。ところが、どうして、あんなふうになったか分からないなぁ。
高村 紛争がらみでしょうか。
尾藤 紛争の時は何とか両方に納得がいくような形でおさめようと考えてましたけれどもね。
 安田さんにはいろいろな意味で世話になりましたが、あの大学紛争の時に「自分の立場だけ守っていればいいんだよ」とおっしゃられて、「教授なら教授の立場で物を言っていれば向こうも付け入りがたいのだから、大学がどうとか余計なことを口に出すな」と忠告を受けました。
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「何とか両方に納得がいくような形で」とありますが、そもそも「両方」とは佐藤進一氏と誰なのか。
また、その後の安田さん云々の話とつながりがあるのか。

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軍艦サミュエル・ベケットを待ちながら

2014-05-20 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月20日(火)20時53分22秒

ツイッターで仕入れた情報ですが、アイルランド海軍の新型外洋警備艦はサミュエル・ベケットと命名されたそうですね。
ノーベル文学賞受賞者のベケットはアイルランドの国民的栄誉を担う人物ではあるのでしょうけど、それにしても不条理劇の作者が軍艦の名前というのは、ちょっとびっくりです。
また、2番艦はジェイムズ・ジョイスとなるとか。

信頼できる軍事評論家がツイートしていたので別に疑った訳ではありませんが、念のためアイルランド海軍の公式サイトを覗いてみたら、確かにその旨のニュースが出ていました。

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Commissioning Ceremonies for the new Naval Service vessel L.É. Samuel Beckett..

On Saturday the 16th of May at Sir John Rodgerson's Quay, Dublin, The Taoiseach and Minister for Defence, Mr. Enda Kenny, T.D., will host the naming and Commissioning Ceremonies for the new Naval Service vessel L.É. Samuel Beckett.
This ceremony will take place at 10 am on the South side of the Liffey, near the East Link Bridge. It is open to members of the public, who will be given the opportunity to get an exclusive look at the new vessel. To ensure a good view we ask people to be there early and to be mindful of safety near the Quay walls and to traffic.
Ms. Caroline Murphy, niece of the Nobel Prize winning writer and former Saoi of Aosdána Mr. Samuel Beckett (RIP), will perform the naming ceremony. The Taoiseach will then present the Commissioning Warrant to the ship’s Captain, Commander Ken Minehane.'

http://www.military.ie/en/press-office/news-and-events/single-view/article/commissioning-ceremonies-for-the-new-naval-service-vessel-le-samuel-beckett/?cHash=22c06030a15eda9267299aa86c182670

Saoi of Aosdána というのが分からなかったのでウィキペディアを見ると、Aosdána は250人限定のアイルランドを代表する芸術家の集まりで、Saoi はその会員の中でも最も権威のある地位だそうですね。
その授与式には大統領も臨席するとか。

Aosdána
http://en.wikipedia.org/wiki/Aosd%C3%A1na

>筆綾丸さん
>「官僚的に答弁しなさい」
近藤成一氏の説明は私が引用した部分だけの短いものなので、永原氏の意図がどこにあったのか、多少分かりにくい話ではありますね。
私としては、発表者としての役割をきちんと自覚して、弱点を突かれても冷静に戦え、というようなことかなと受け取ったのですが。

>笹井氏
私は見ていませんが、ツイッターでも、あれはすごかった、という評判が高かったですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7374

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「学者は読むもので見るものではない」(by 「先人」&義江彰夫氏)

2014-05-19 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月19日(月)10時35分16秒

ウェーバーの「古代農業事情」は『国家科学辞典』の一項目として執筆されたと聞いていたので、まあ、せいぜい数十ページなのだろうと予想していたら、渡辺金一・弓削達氏訳の『古代社会経済史-古代農業事情』(東洋経済新報社、1959)は解説・索引等を入れると六百ページ近い大著でした。
ちょっとびっくりですね。
原タイトルを変更して「古代社会経済史」としたのは、

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 本論文「古代農業事情」 Agrarverhältnisse im Altertum は『国家科学辞典』 Handwörterbuch der Staatswiaaenschaft (第3版、1909)のために書かれた。本論文の題目の選定はこの大辞典の区分法によって決定されたものであるが、その内容ははるかに題目以上のものを含む。つまり古代社会経済史なのである。 (マリアンネ・ウェーバーの注)
-------

という事情によるそうです。
「古代農業事情」 だけでこれほどの分量なら『国家科学辞典』全体はどんな分量になるのか、想像もつかないですね。
ドイツ人の知的なタフさには恐れ入ります。

『古代社会経済史-古代農業事情』
http://store.toyokeizai.net/books/9784492370018/
原文
http://www.zeno.org/Soziologie/M/Weber,+Max/Schriften+zur+Sozial-+und+Wirtschaftsgeschichte/Agrarverh%C3%A4ltnisse+im+Altertum

ま、それでも読み始めてみたら、早くも「序説」段階で少しくたびれたので、骨休めに『永原慶二の歴史学』をパラパラめくってみました。
義江彰夫氏のエッセイは面白いですね。(p243以下)

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永原慶二先生と私

(前略)歴史学研究会大会で発言される先生のお姿に接し、論文で描いていたシャープかつスマートでバランスの良いイメージそのままであることに、大いに驚いた。「学者は読むもので見るものではない」と先人にいわれ、自分の経験でもおおむね、なるほどと思っていたからである。
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これは実に至言ですね。
私も一度、あるシンポジウムで義江氏をお見かけしたことがあるのですが、音楽に造詣の深い教養人として勝手に丸山真男のような風貌を想像していたところ、実際の義江氏の外見は意外に貧相で、あまりシャープでもスマートそうでもなく、ちょっとがっかりした経験があります。
ま、それはともかく、義江氏は続けて、

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 以来、先生から教えを受けたことは限りないが、私にとって忘れられないのは、一九八〇年代末から始まった『講座前近代の天皇』前五巻(青木書店、一九九二~九五年刊)の編集作業である。構想の検討から、巻立て・章立て・執筆者の選定にいたるまで、各編集委員が原案を持ち寄って組み立てる方針で臨んだ。しかし、どの案も一長一短で調整が取れずに難航した。編集委員が喧々諤々と意見を交し合っている間、先生は黙って目を閉じて聞いておられた。ところが、議論が収拾付かなくなったところで、やおら眼を開かれ、万年筆を取って一枚の紙にさらさらと書き出された。皆呆然としているうちに、各巻名・巻ごとのコメントと各巻の章名・そのコメントとを一気に書き上げられて、我々に示された。そこに提示された案には、委員がそれまで交し合った対立する意見が、見事に総合されて位置付けられている。先生の緻密で総合的な力量を思い知らされた出来事として、今でも昨日のことのように想い出す。(後略)
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と書かれていますが、これも永原氏の官僚的な有能さを示すエピソードですね。
永原氏が仮に役人の道を選んでいたら、おそらく中央官庁の事務次官クラスになっていたんじゃないですかね。
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一橋大学の「三キン交代」

2014-05-17 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月17日(土)08時49分52秒

「私の中世史研究」は永原慶二氏とウェーバーの関係を確かめるために読み始めたのですが、エピソードが面白いのでついつい脇道に入ってしまいますね。
本道に戻ると、ウェーバーは二箇所で登場します。
最初の出会いは村川堅太郎氏に教えてもらった「古代農業事情」だそうですね。(p9以下)

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一つだけ思い出すと、日本史をやろうかと思ったのにはね、和辻哲郎さんの影響もあったように思います。『日本精神史研究』(岩波書店、一九二六年)などです。和辻さんは倫理学科の先生だったが、大学に入る前は魅力を感じていた。だから、大学に入って講義を聞きに行っていた。だけど「尊皇思想とその伝統」という『岩波講座倫理学』に載った論文と同じ話で、聴いてみると面白くなかった。一番面白かったのは村川堅太郎さんの「古代末期史」。ローマの大土地所有のことなんですけど、一年半ですが熱心に聞いて、はじめて歴史学というものにふれた思いでした。戦後の僕の歴史研究にとって大切な問題となった奴隷から農奴へだとか、コロナトゥス制だとかいうのは、すべてそこで学んだことです。いまもその講義ノート三冊は宝物として大切にもっている。村川さんが三十六歳ごろのでね、エネルギーに満ちていたころです。すべてノートを作ってきて読み上げるんですよ。この点でも僕の戦前と戦後は繋がっているわけです。マックス・ウェーバーの『古代農業事情』というのがあるんだけれど、それも村川さんに教わって、戦後すぐのころ、井上光貞さんや石田雄君と一緒に読書会をやった。ドイツ語で大変だったんだけれど、思い出深いですね。
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「古代農業事情(Agrarverhaltnisse im Altertum)」は渡辺金一・弓削達氏の翻訳で読めますね。
私は未読ですが。

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000065915

一橋大学で永原慶二氏の同僚だった渡辺金一氏は1924年生まれなので、永原氏より2歳下ですね。
検索したら2011年に86歳で亡くなられたとか。
また、リンク先の一橋大学出身の方のブログは面白いですね。

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余談だが、私の在学当時、前期教養課程の歴史学関連の講義(・・講義名は失念)は、年齢順に渡辺金一・山田欣吾・阿部謹也の三人の持ち回りであったが、この三人の名前がいずれもキンで始まるので、学生たちは「三キン交代」とよんでいたものだった。

http://e-satoken.blogspot.jp/2010/01/1967.html
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「本郷館という木造三階建ての大きな下宿屋」

2014-05-16 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月16日(金)21時52分39秒

永原慶二氏の「私の中世史研究」はなかなか面白い読み物ですね。
国史学科での皇国史観派と実証主義派の対立に触れた後、「ただね、われわれの思想的な環境はもう少し複雑でした。それを整理してみますと、三つ四つのものをあげなければならない」として、まず第一にマルクス歴史学系統、羽仁五郎その他の講座派の学者に言及されていますが、まあ、これはお約束ですね。
ついで二番目は保田與重郎・亀井勝一郎等の日本浪漫派で、「保田與重郎にはポリティカルな面が強く、アジア主義的・民族主義的な発言もたくさんある。これは思想運動としてはわれわれに影響力があった」そうです。
三番目は西田哲学で、西田幾多郎・田辺元・高坂正顕・高山岩男・西谷啓治・鈴木成高といった「京都学派の権威はたいへんなものだった」とされていますが、永原氏個人は特に影響は受けなかったような書き振りですね。
意外なのは四番目で、「さらにもう一つ、もっとすごい極右的なものがあった。影山正治など。戦後は歌人として知られているけど、影山は神兵隊事件の黒幕ですね。そういう人たちの動きとか。三田村四郎みたいな左翼からの転向グループもあった。それが論文や書物だけではなくてそれぞれ私塾を持っている。グループを組織してね。東大の正門前を森川町へ入ったところに有名な本郷館という木造三階建ての大きな下宿屋があった。その本郷館はそういうさまざまなグループの集会場で、百鬼夜行というところです。まわりの友達からね、ちょっと今日来ないか、面白い話があると言うんで呼ばれていくと、そういう思想集団の会合なのですね」という具合に、ずいぶん丁寧に書かれていますね。
そして、「そのような不安定な状況の中で、ふりまわされていたのが現実ですが、僕はやはり羽仁さんがいちばんしっくりした」と一番目にもどる訳ですが、四番目の詳細さはいささか奇異な感じもします。

私も学生時代、本郷館の前を何度も通ったことがありますが、妙にでかい木造建築だなと思っただけで、「百鬼夜行」の時代があったとは知りませんでした。
ウィキペディアによれば本郷館は1905年に建築され、実に一世紀以上生き延びて、2011年に解体されたそうですね。

本郷館
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%83%B7%E9%A4%A8

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