中世史の勉強を始めたばかりの頃、史料編纂所の某氏から、編纂所は昔、東大の中では格が低い存在として差別されていた、と聞いてびっくりしたことがありますが、坂本太郎氏の『古代史の道-考証史学六十年-』には、終戦後の史料編纂所の位置づけの変化と職員の身分の改善についての記述がありますね。(引用は著作集第12巻、p119以下)
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これについては、多くの人の根回しの努力があったと思うが、私の憶えていることは、二十四年の何月か、史料編纂所の処遇を審議する委員会を総長室で行うから、国史学科代表として出席せよという通知を受けたことである。大講堂内の総長室に入ったのは、これが生まれて初めてであるが、行ってみると、高木文学部長、竜所長、森末編纂官、法学部の岡義武教授、進藤事務局長などがいる。編纂所側でどういう理由で付置研究所案を主張したか、肝心なことを忘れたが、ともかく今の文学部の付属施設では、すべての書類は文学部長の手を経なければならず、事務上不便であること、戦後の官制改革ですべての官吏は教官・技官・事務官の三つに分けられ、史料編纂官というような特殊な官名は廃止されたため、一様にみな文部事務官となり、純粋の事務系職員と区別のつかないことが困ることなどを主張したことは確かである。これに対して高木文学部長は、文学部長は一応史料編纂所の書類を見るが、内容はわからぬので盲判を押すだけであり、事務的にいえば編纂所が文学部に付属している意味は全くないという好意的な賛意を示した。岡教授は、史料編纂官に教授・助教授に値するような業績があるのかどうか、事務官を教官に換えることは反対だという強硬な意見を述べた。私はそこで史料編纂官は各専門時代についてのすぐれた碩学であり、立派な業績も発表している。その点において文学部の教官とは何の遜色もない。事務官という名称は不適当であると力説した。総長の意向は初めからきまっていたらしい。史料編纂官を教官とすることには、岡教授のように反対なのである。ただ事務の煩瑣を除くために文学部から話して独立の付置研究所並みとすることには賛成した。竜所長はこの日の結論が心配で前夜は眠れなかった程の緊張ぶりであったというが、結果は研究所には昇格したが、職員は文部事務官に止まるという鵺的な状態に置かれることになった。
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「高木文学部長、竜所長、森末編纂官」とありますが、それぞれ高木貞二(心理学、1893-1975)、龍粛(りょう・すすむ、1890-1964)、森末義彰(1904-77)氏ですね。
他方、12歳上の龍粛史料編纂所長を前にして「史料編纂官に教授・助教授に値するような業績があるのか」、「事務官を教官に換えることは反対だ」と言い放った岡義武(1902-90)は著名な政治学者ですが、「竜所長はこの日の結論が心配で前夜は眠れなかった程の緊張ぶりであった」そうなので、龍粛氏自身はあまり、というか全然反論できなかったのでしょうね。
ここに出てくる「総長」は政治学者の南原繁(1889-1974)で、終戦工作を行ったり、吉田茂から「曲学阿世の徒」と呼ばれたことで有名な人ですね。
法学部の一教授であった岡義武がいかなる資格でこの会議に出席していたのかは分かりませんが、「総長補佐」みたいな立場ですかね。
岡義武
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%BE%A9%E6%AD%A6
南原繁
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E7%B9%81