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生存権と『生きづらい明治社会』

2019-01-07 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月 7日(月)10時47分28秒

>キラーカーンさん
今年も宜しくお願いします。

>『三年目の浮気』
『生きづらい明治社会』を昭和歌謡に喩えるとしたら、『昭和枯れすすき』の方がぴったりですかね。

-------
貧しさに負けた~
い~え 世間に負けた~
この街も追われた~ いっそきれいに死のうか~
力の限り 生きたから~ 未練などないわ~
花さえも咲かぬ~ 生きづらい明治時代~


松沢裕作氏は、

-------
 さて、この生活保護法の歴史を遡ってゆくと、一八七四年一二月八日に制定された「恤救規則」という法令にたどりつきます。明治時代に、現在の生活保護法に類似した役割を果たしていたのはこの恤救規則です。
 しかし、恤救規則ができた一八七四年にはまだ憲法は制定されていません。そして、一八八九年に制定された大日本帝国憲法には、現在の日本国憲法第二十五条に相当するような条文はありません。つまり、生活が困難になってしまった人が国家から保護を受ける権利は、アジア・太平洋戦争以前の日本では保障されていなかったのです。【中略】
 このように、恤救規則は、家族や地域が困難に陥っている人を救うことを前提としており、どうしてもしかたのないときだけ国家がお情けで助けてやるという法律です。ここには、「健康で文化的な最低限度の生活」をおくる権利といった発想はまったくありません。
-------

などと明治時代の為政者を非難するのですが(p47以下)、ワイマール憲法すら存在していない時期の日本に「生存権」の発想が存在しないのは当たり前で、ここまで歴史に「ないものねだり」をする歴史学者は珍しいですね。
そもそも憲法25条は理論的にはけっこう難解な条文で、もちろん現在では判例も純粋プログラム規定説ではありませんが、1967年の朝日訴訟大法廷判決、1982年の堀木訴訟大法廷判決を経た後も、憲法25条は直接個々の国民に対して具体的権利を賦与したものではないという意味で、プログラム規定説の根幹は未だに維持されているともいえます。
現在の最高裁判所であってもこの程度の理論的水準であるのに、明治時代に「「健康で文化的な最低限度の生活」をおくる権利といった発想はまったくありません」とか言われても、何言ってるんだか松沢君は、とポカンとするだけですね。
ただ、よく考えたら私も『生きづらい明治社会』の内容について細かい検証はしておらず、印象操作的な悪口ばかり言っているように見えるかもしれないので、「32年テーゼ」について検討する前に、もう一度『生きづらい明治社会』に戻ってみようかなとも思います。

生存権
朝日訴訟
堀木訴訟

なお、ウィキペディアの上記「生存権」「朝日訴訟」の項目にジャーナリスト・神田憲行氏の「 GHQでなく日本人が魂入れた憲法25条・生存権ー「600円では暮らせない」生存権問うた朝日裁判」という日経ビジネスの記事(2016年3月30日)が参照されていますが、何だか妙な感じですね。
当該記事はジャーナリストの著作としては優秀だと思いますが、仮にも百科事典なのだから、法律に関する項目であれば法律家の法律雑誌における記事あたりを参照・引用すべきではないですかね。

※キラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

初駄レス 2019/01/06(日) 01:33:46
>>莫迦言ってんじゃねーよ!」

『三年目の浮気』
を思い浮かべてしまいました。
ということで、今年もよろしくお願いします。
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「日本農民のどえらい貧困化」(by クーシネン)

2018-12-26 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月26日(水)12時12分32秒

12月15日の投稿で書いたクーシネン発言ですが、『現代史資料(14)』(山辺健太郎解説、みすず書房、1964)を見たところ、56番目に、「日本帝国主義と日本××〔革命〕の性質─一九三二年三月二日のコミンテルン執行委員会常任委員会会議における同志クーシネンの報告から」が載っていて(p582以下)、その中に中村政則が引用する「日本の農村は、日本資本主義にとって自国内地における植民地である」という表現が出てきますね。

「クーシネン発言の出典について」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ff6401da35561176f60af2c5a7ae50da

このクーシネン報告は上下二段組みで12ページほどの分量がありますが、最初の方、2ページ目に当該表現が出てきます。
文脈を見るために少し前から紹介すると、

-------
 日本は自国産の棉花をもたない。そしてこのことは、紡績業が最も重要な産業部門であるところの国にとつて特に痛感される。
 化学産業の原料の欠如が特に強く感じられてゐる。
 日本資本主義の弱点は、原料資源が全く不十分なことである。これが、日本資本が領土拡張に努力する動機の一つである。
 だがこのことは、その動機の一つに過ぎない。国内市場の狭隘さが遥かに重要な意義をもつてゐる。国内市場の微弱な受容力は、それとしては、一方において労働者の、他方において農民の異常に高度な搾取に原因する。日本では労働力の信じられないやうな略奪的搾取がおこなはれてゐる。こゝでは労働者の生活水準は植民地におけると同様に低い。若干の労働者層の状態、特に厖大な数の勤労婦人および勤労青年の状態は言葉の完全な意味において奴隷性を想起させる。
 他方において我々は、日本における全く強力な封建制の残存物によつて条件づけられた不断の限界を知らない農民の搾取を見る。日本の農村は、日本資本主義にとつて自国内地における植民地である。
-------

ということで(p583)、「日本の農村は、日本資本主義にとつて自国内地における植民地である」ですから、「つ」と「っ」の違い以外は全く中村と同一の表現です。
ついでにもう少し引用してみると、

-------
この植民地の搾取は二種の方法によつて行はれてゐる。第一に、農民への工業製品販売者として、また農民から農産物の購買者として立ち現はれてゐるところの資本主義トラストによつて実施されてゐる価格政策によつて、第二に高い租税および農村の到る処を支配してゐる最も無慈悲な高利貸によつて。搾取のこの資本主義的方法は、それと前資本主義的搾取形態との結合によつて、より一層強められてゐる。大地主も矢張り、農民を非常に激しく破壊させてゐる。これは小作料の形態で行はれてゐる。小作料は、農民搾取の半封建的形態である。多くの場合小作料は収穫の半分、またそれ以上にさへ達してゐる。小作料は、自分自身は農業に従事しないで全く寄生的存在をなしてゐるところの大地主によつて年々直接農民から取上げられてゐる。日本農民のどえらい貧困化は、このことによるのである。日本の工業が発展しても、それは農民の窮乏化した層を生産過程へ引入れる何等の可能性をも与へてゐない。農民の窮乏化はさらに益々進行してゐる。
-------

といった具合で、「日本農民のどえらい貧困化」という表現は、妙な感じで俗語が紛れ込んでいて、ちょっと笑えますね。
ま、それはともかく、1935年生まれで、『労働者と農民』を執筆した1976年当時、41歳で一橋大学経済学部助教授だった中村にとって、こうしたクーシネンの理解が日本資本主義の本質を「喝破」するものと思われ、中村自身の「まさに日本資本主義は、自国の農村をあたかも植民地のように支配し、搾取し、収奪することによって「高度成長」をとげたのである」という認識の基礎になっていた訳ですね。
なお、クーシネン報告の最後の方で、クーシネンは、

-------
 さて革命の推進力─農民とプロレタリアートについて若干述べよう。
 日本農民の基本的大衆は半封建的搾取と賦役の条件下に生活してをり、かつこゝに支配してゐるところの高利貸群の搾取の対象である。約四万の大地主は完全に、農民に寄生してゐる。だがすでにこゝにもまたはつきりとして分化の第一歩、その最初の萌芽が認められる。しかしこの発展については我々は今の所まだあまりにも貧弱な知識しかもつてゐない。
-------

などと言っていて(p592)、この点については「資料解説」を担当した山辺健太郎も、

-------
 ところが、『政治テーゼ草案』を批判したコミンテルンにも、日本社会のおくれた面だけを強調する傾向のあったことも事実である。たとえば、クーシネンの報告(五六)で「日本農民の基本的大衆は半封建的搾取と賦役の条件下に生活してをり……」といっているが、賦役の条件に生活しているという状態にはなかった。
-------

という具合に(xix)、些か当惑、というか、呆れている感じですね。
さて、クーシネン報告の内容はともかくとして、中村がそれを何で見たのか、という我ながらどーでもいいだろ的な感じがしないでもない疑問についてですが、この点については『現代史資料(14)』月報に出ている犬丸義一「これまでの日本共産党テーゼの資料集と研究の概観」が参考になります。
犬丸によれば、1947年11月7日、日本共産党は創立二五周年記念事業のひとつとして党史資料委員会編「日本問題に関する方針書・決議集」を「非売品」として刊行したそうで、その中にクーシネン報告も含まれていますね。(p4)
そして1954年、

-------
前述の党史資料委員会編「コミンテルン日本問題にかんする方針書・決議集」が改訳、公刊された。(五月書房)内容は、前述のものと同一であったが、商業出版社から市販されたので普及され、版を重ねた。
-------

のだそうで(p6)、おそらく既に革命青年であったはずの中村も五月書房版を入手し、熟読玩味したのでしょうね。
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クーシネン発言の出典について

2018-12-15 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月15日(土)07時39分57秒

前回投稿で紹介したように、中村政則は、

-------
かつてコミンテルンの常任委員クーシネンは、「日本の農村は、日本資本主義にとって自国内地における植民地である」と喝破したが、まさに日本資本主義は、自国の農村をあたかも植民地のように支配し、搾取し、収奪することによって「高度成長」をとげたのである。
-------

と書いていますが(『日本の歴史第29巻 労働者と農民』、小学館、1976、p173)、クーシネンの発言についての出典を明示していません。
その内容と「コミンテルンの常任委員」としてのクーシネンの発言であることから、おそらく「32年テーゼ」に関連するものと思われますが、何か御存じの方はご教示願いたく。

なお、少し検索してみたところ、和田春樹(監修/編訳)『資料集コミンテルンと日本共産党』(岩波書店、2014)に、

-------
資料84 コミンテルン執行委員会幹部会での日本問題討議におけるクーシネンの結語(一九三二年三月二日)
資料97 クーシネン書記局が作成した日本共産党の政策、人事点検に関する報告と提案(一九三六年二月二日)

https://honto.jp/netstore/pd-contents_0626338570.html

という資料があるとのことで(内容未確認)、あるいは前者のことかも知れませんが、中村が何を見たのかを確認したいので、『労働者と農民』が刊行された1976年以前の資料について何か心当たりのある方は教えてください。

参考:加藤哲郎氏「「三二年テーゼ」と山本正美の周辺」より

-------
 つまり、「三二年テーゼ」の発想は、「コミンテルンとプロフィンテルンをはかりにかけたら。これはもう天ビンにかからない」という当時の大衆団体に対する党の優位の構造のもとで、コミンテルン東洋部よりもさらに上級のレベル、すなわちスターリンらソ連共産党政治局とコミンテルン最高幹部であるピアトニツキー、マヌイルスキー、より直接には東洋問題担当の常任幹部会員オットー・クーシネンから出たことを示唆している。

http://netizen.html.xdomain.jp/MASAMI1.html
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「日本の農村は、日本資本主義にとって自国内地における植民地である」(by コミンテルン常任委員クーシネン)

2018-12-13 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月13日(木)11時37分22秒

前回投稿の末尾に書いたように、石原修の「大正二年十月国家医学会例会席上に於ける講演 女工と結核」には、

-------
第三号表は或る一定の時期を限つて、そこで市勢調査みたいなことをやりました、其結果が生糸は事情が違ひまするが、紡績と織物は女工の半分は一年と続いた者がありませぬ、勤続一年未満の其中の半分は、六カ月続いて勤めないものであります、【後略】
-------

とあり(『生活古典叢書第5巻 女工と結核』、光生館、1970、p181)、石原は明確に生糸と紡績・織物を区別していますが、中村は「生糸は事情が違ひまするが」を削除していますね。
実際、『あゝ野麦峠』を通読しただけでも、多くの女工が何年も続けて製糸工場に出ており、一年で止めるのがむしろ例外です。
ま、それはともかく、『労働者と農民』の引用をもう少し続けます。(p172以下)

-------
 ところで、昭和四五年の夏、私は新潟県北魚沼郡堀之内町で出稼ぎ女工の調査をおこなったことがある。最盛期の大正末期、堀之内町からは七〇〇人ちかい娘が県外に働きにでていたのである。この調査先で、当時八〇歳の、もと堀之内町長森山政吉をたずねた。大正五年(一九一六)、かれはこの一〇年後に堀之内町に合併された田川入村の役場の書記となり、大正九年に北魚沼郡中部女工保護組合をつくって女工保護に立ち上がった。

昔はひどいものでした。戸籍を見るたびに、一六歳から二二、三歳の村の娘が結核でつぎつぎと死んでゆくことがわかる。各工場の寄宿舎もみてまわったが、娘たちはみなせんべい布団にくるまって寝ているんです。これでは結核になるのはあたりまえだと思った。それに工場は風紀が悪い。村内には私生児もふえてきた。結核と私生児、このまま放っておいたら村の将来はどうなるか。そう思うと矢も楯もたまらなくなって、女工保護組合の結成にのりだしたのです。

 女工保護組合についてはのちの章で述べることにするが、まさに結核と私生児の発生は、窮乏農村の荒廃ぶりをいっそうはげしくした。かつてコミンテルンの常任委員クーシネンは、「日本の農村は、日本資本主義にとって自国内地における植民地である」と喝破したが、まさに日本資本主義は、自国の農村をあたかも植民地のように支配し、搾取し、収奪することによって「高度成長」をとげたのである。

今から十年前に当つて奉天の戦争(日露戦争)で戦死者七八千負傷者五万人位を出して居ると思ひますが、(中略)工業の為に犠牲になつた所の女工の数は、奉天戦争の死者或は傷者と相当するものではないかと思ひます。謂はゆる矛を執つて敵に向つて戦をして死んだ者は敬意を以て迎へられ、国家から何とか色々の恩典に報いられ、国民より名誉の戦死者とされ、又負傷者となつたものは充分の手当てを受け、名誉の負傷者として報いられ迎へられます。それにかゝはらず、平和の戦争の為に戦死したものは、国民は何を以て之に報いて居るかといふことは、私には分りませぬ。涙深いことを申すやうでございますが、女工の運命は実に悲惨なものでございます。矢張り彼等女工と雖も、我々の大事な同胞の一つであらうと思ひます。

 石原修は、さきの講演の末尾でこのように述べた。工場法の完全実施は、緊急の問題になっていたのである。
-------

とのことですが、再び石原修の講演録を確認すると、中村が引用する部分の直前に、

-------
 それから十八号十九号表(前掲)を御覧願ひます、紡績の結核に密接の関係があるといふことはそれで御分りであらうと思ひますが、どの表でも紡績は結核が多い、連続徹夜業をやつて居るものは紡績に限ります、どの方面から見ましても紡績は生糸織物より余計責任を負はなければならぬと思ひます。先刻申しました五千人といふものは工業の戦争の為に犠牲になりましたが、此衝に当りました五千人の戦死者の外に二万五千人といふ工業をやつた為に余計重病人が出来たといふことを申してよからうと思ひます。さうすると今から十年前に当つて奉天の戦争で………
-------

とあって(『生活古典叢書第5巻 女工と結核』、p196)、石原は「紡績の結核に密接の関係があるといふこと」「どの方面から見ましても紡績は生糸織物より余計責任を負はなければならぬ」という具合に、結核に関しては明確に製糸業と紡績業を区別していますが、中村の引用の仕方ではそれは分かりにくいですね。
煩雑になるので石原の作成した表は紹介しませんが、結核との関係では製糸工場は紡績工場より良好な労働環境であることは数字の上からも明らかです。
ま、製糸工場の場合、石原の強調するように深夜業が一切ない上に工場内に粉塵が舞わないので、この結論は常識にもかなうと思われます。
なお、中村が<かつてコミンテルンの常任委員クーシネンは、「日本の農村は、日本資本主義にとって自国内地における植民地である」と喝破した>とオットー・クーシネンを高く評価している点は、その妻アイノ・クーシネンの自伝 『革命の堕天使たち―回想のスターリン時代』(坂内知子訳、平凡社、1992)を読んだことのある私にとってはなかなか味わい深いものがあります。
コミンテルンで働いていたアイノ・クーシネンは、夫が最高位の共産党幹部であったにも拘らず逮捕・投獄されてしまうのですが、オットー・クーシネンは、妻を救おうとすれば自身がスターリンに粛清される可能性が高かった時期が過ぎても妻を助けようとせず放置した人物で、個人的にはあまり好感を持てません。
ま、「講座派」の人たちにはいろいろ奇妙なところがあるので、別に驚きはしませんが。

オットー・クーシネン(1881-1964)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%8D%E3%83%B3
アイノ・クーシネン(1886-1970)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%8D%E3%83%B3

アイノ・クーシネン『革命の堕天使たち―回想のスターリン時代』(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a9d4ba65a710347e3260c84b339e75b6
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1aeeace325de926d513736394e66b1c5
アイノ・クーシネンの獄中記憶術
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0d161e7de9abcc1a108b306a502c933a
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石原修「大正二年十月国家医学会例会席上に於ける講演 女工と結核」

2018-12-12 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月12日(水)11時31分19秒

山本茂実『あゝ野麦峠』に続いて、中村政則『日本の歴史第29巻 労働者と農民』(小学館、1976)から「女工と結核」と題する部分を紹介します。
中村著は普通の歴史書とは異なり「第〇章第〇節」といった具合に構成されていないのですが、「綿糸とアジア」という大項目の中の「職工事情」という中項目の最後に「女工と結核」という小項目があります。
即ち、

-------
綿糸とアジア
 近代紡績業の基底
  工場の惨劇
  繊維戦争
  詐欺的な女工募集
 職工事情
  はだしの逃亡
  女工の足どめ策
  長幼男女の同一労働
  インド以下的低賃金
  女工と結核
-------

と構成されていて、近代紡績業に関する叙述のうち、既に紹介済みの「インド以下的低賃金」に続いて「女工と結核」が出てきます。

「植民地以下的=印度以下的な労働賃銀」(by 山田盛太郎&中村政則)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/88941dd9a9b165d210f32a95c6800543

山田盛太郎と中村政則のインド好き、二人がインドとの比較にやたらこだわる理由についてはまだ答えを出していなかったのですが、それをやっていると手間と時間がかかるので、とりあえず「女工と結核」に進みます。(p170以下)
なお、石原修の引用部分は中村著では全体を二字分下げています。

-------
 大正二年(一九一三)一〇月、国家医学会例会で青年医学士石原修は、「女工と結核」と題する有名な講演をおこなった。この講演は、紡績資本家による女工食いつぶしがいかにひどいものであるかを事実をもってしめし、人道主義的正義観から資本家をするどく断罪したものであって、工場法の施行を世にうったえたものとしてよく知られている。しかもそれは、かれが内務省嘱託として明治四二年いらい各地の農村を回りあるいて実際にしらべた、帰郷女工にかんする克明なデータにもとづいていただけに、ひじょうな説得力をもっていた。石原はまず、日本の労働者のなかでもっとも多いのは生糸(一九万人)・紡績(八万人)・織物(一三万人)の繊維労働者であることをあきらかにし、そのなかでも紡績業につきものの深夜業が若い娘たちの肉体をすりへらしていることを、具体的な数字をあげて説明する。

七日間連続徹夜業をしたならば、(中略)どの位目方が減るかといへば、一例として紡績甲に於ては一人平均夜業後の減量は百七十匁〔もんめ〕(一匁=約三・七五グラム)である。次の昼業間に恢復するのはどの位かといへば、六十九匁である。回復しない中に直ぐ夜業に掛るといふことになるから、交替期間まで夜業を続けて居れば百一匁は体重を奪はれて仕舞ふのであります。(中略)いつまでも夜業を続けて行つたならば、遂には骨と皮ばかりになる人間が出て来やうと思ひます。是では堪へられませぬから、退職するより外ないといふことになりませう。(中略)言葉は少し乱暴に失するかも知れませぬが、見方に依りましては、此夜業といふものは人間を長い時期に於て息の根を止めつつある行為ではないかと思はれます。息を止めつつある行為は、常に未遂に終はるのであります。それはどいういふ訳かといへば、其被害者が迚〔とて〕も我慢仕切れぬで自由に遁走するのであるから、既遂にならぬで済むのであらうと思ひます。

 高い塀がめぐらされた工場を脱出するのは、容易なことではない。監視人の目も光っていよう。そこで、「紡績と織物は女工の半分は一年と続いた者がありませぬ。勤続一年未満の其中の半分は、六カ月続いて勤めないものであります」ということになる。女工の帰郷原因をみると、次ページの表のように疾病などをふくめ、労働にたえられないという者が全体の二九パーセントで、家事のつごうによる者とおなじ比率をしめしている。結婚を理由に帰郷した者は六パーセントに過ぎない。さきに述べた桑田熊蔵の見解がいかに皮相なものであるかがこれからもわかるであろう。

彼等女工の国に帰る者の状況を申しますると、国に帰りますもの六人又は七人の中一人は、必ず疾病にして重い病気で帰つて来る。先づ八万の中で一万三千余人はありませう。疾病たるの故を以て国に帰ります一万三千人の重い病気の中の四分の一、三千人といふものは、皆結核に罹つて居ります。

と石原は説く。しかも、その「結核は、伝染病の処女地たる農山村と生活条件の低い農家で、工場内における以上の猛威を振るって蔓延し、農山村そのものを破滅させたのであった」(生活古典叢書『女工と結核』籠山京解説)。
-------

長くなったので、途中ですが、いったんここで切ります。
中村は石原修の「紡績と織物は女工の半分は一年と続いた者がありませぬ」という文章を引用しますが、石原の講演録を見ると、この直前に「其結果が生糸は事情が違ひまするが」という表現が存在しています。

石原修(1885-1947)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E4%BF%AE

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酒井シヅ『病が語る日本史』

2018-12-11 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月11日(火)20時28分21秒

製糸工女と結核の関係について参考になるかな、と思って酒井シヅ氏(順天堂大学名誉教授、日本医史学会元理事長、1935生)の『病が語る日本史』(講談社学術文庫、2008)をパラパラと眺めてみたのですが、些か微妙な記述がありました。

-------
古来、日本人はいかに病気と闘ってきたか。 縄文人と寄生虫、糖尿病に苦しんだ道長、ガンと闘った信玄や家康……。糞石や古文書は何を語るのか。〈病〉という視点を軸に日本を通覧する病の文化史・社会史。
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000151477

同書「第3部 変わる病気像」の「2 死病として恐れられた結核」では、

-------
 結核は先史時代から人類を苦しめてきた。二十世紀半ばに抗結核剤が発見されるまで、結核は死病として恐れられてきた。それだけに結核が治る病気になったときの喜びは大きかった。
 結核の恐ろしさは、いつ感染したのか、すぐわからないことにある。症状が現れるまでに時間がかかり、その間に周囲の人に結核菌をばらまいているからだ。これはいまも昔も変わらない。結核の歴史はこの病気との闘いが一筋縄でいかないことを語っている。
--------

と前置きした上で(p259)、次のような節に分けて、結核の歴史が説明されます。

1 「結核の病名」
2 留学生と結核
3 社会と結核
4 『女工哀史』と結核
5 小説『不如帰』と結核

1 では『枕草子』『源氏物語』『好色一代女』などが引用され、2 では、

-------
 ところで、日本で結核が社会問題になったのは明治以降のことである。明治維新後、すぐれた学生が選ばれて、海外留学したが、海外で結核に冒され、留学を中断して帰国したり、留学中に亡くなった者がたくさんいた。
 留学先の欧州では、ちょうど産業革命に続いて、資本主義が展開して、工場がふえていったが、劣悪な衛生環境で暮らしている低所得者や労働者がふえて、彼らの間で結核が蔓延していた。
 そこへまったく無防備で留学生が入っていき、刻苦勉励の暮らしをしていたが、食生活を切りつめる生活を余儀なくされているうちに、結核になったのである。
 東京大学医学部では、初期の卒業生の中から最優秀者三名を選び、将来、東京大学の教授になることを約束して、ドイツに留学させた。第一回卒業生の中から清水郁太郎、梅錦之丞、新藤二郎の三名が選ばれた。清水は産婦人科学、梅は眼科学、新藤は病理学を専攻することになった。
 しかし、新藤は留学中に発病して帰国し、梅と清水は帰国して教授になったあと数年にして、いずれも結核でたおれたのであった。
-------

とあります。(p263以下)
梅錦之丞は珍しい名字なので、民法起草者の一人である梅謙次郎の親戚かなと思ったら、二歳上の兄だそうですね。
大変な秀才兄弟ですが、28歳での死はいかにも惜しい感じがします。

梅錦之丞(1858-86)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E9%8C%A6%E4%B9%8B%E4%B8%9E
梅謙次郎(1860-1910)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E8%AC%99%E6%AC%A1%E9%83%8E

ま、このような新知識を得ることができて、同書はなかなか有益だなと思って読み進めたのですが、肝心の「4 『女工哀史』と結核」を見ると、

-------
 明治五年に設置された官営の富岡製糸場に始まる紡績産業が日本の産業革命の中核になったが、山本茂実の小説『あゝ野麦峠─ある製糸工女哀話』で知られるように、結核が紡績工場の悲劇を生み出していた。
-------

とあって(p267)、酒井シヅ氏には製糸業と紡績業の区別が全くついていないことが分かります。
せっかくなので続きも引用すると、

-------
 農村から集まった女子工員が結核に感染して、彼女らが郷里に結核を持ち帰り、農村地帯に結核を広げ、悲惨な結果をひきおこしていたのである。 しかし、工業国の立国を急いでいた政府は、女子工員の結核を問題にする余裕がなかった。工場労働者の結核がはじめて記録に出てくるのは、明治三十六年(一九〇三)に出た農商務省編の「職工事情」の中であった。だが、その報告が出て、結核対策がただちにとられたのではない。政府が本腰を入れて対策に乗り出したかに見えたのが、明治四十四年に工場法を制定したときであった。
 しかし、この法律も実施されたのは、大正五年(一九一六)になってからであり、そのときまで、女子工員はひどい労働条件のもとで働いていた。
 先述の農商務省の報告が出たのと同じ年に、香川県の技師高畑運太が「香川県における女工の肺結核患者について」という報告書を出している。そこには香川県から他県に出稼ぎに出た紡績女子工員の記録が載るが、高畑がこの報告書をつくった動機は、疾病のために帰郷療養する者がふえてきたことにあった。
 この当時の女子工員の労働時間は長く、深夜労働は当たり前であった。彼女たちは就職すると、まもなく月経が閉止し、次第に虚弱になっていった。胃病、子宮病の名でしばらく治療を受けるが、三ヵ月以上加療しても治らないと、会社がその女子工員を自動的に解雇して、帰郷させたのである。そのとき肺病にかかっていた者はほとんど亡くなったのであった。
 ちなみに『女工哀史』は大正十四年(一九二五)に細井和喜蔵が紡績工場に勤務する妻と自身の体験に基づいた記録文学である。
-----

ということですが、「この当時の女子工員の労働時間は長く、深夜労働は当たり前であった」とあるので、やはり酒井シヅ氏は製糸と紡績の区別がついていないようですね。
繰り返しになりますが、紡績工場では「深夜労働は当たり前」であっても、製糸工場では一切ありませんでした。
それは別に紡績工場の経営者が非人道的で、製糸工場の経営者が人道的であったためではなく、紡績工場では深夜労働(二十四時間操業)が合理的であり利益を生んだのに対し、製糸工場では深夜労働は非合理的で利益を生まなかったからです。

製糸と紡績の違い─「みのもんた」を添えて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/43432c59868d8b781e11d4051f82a91f

酒井シヅ氏は『あゝ野麦峠』を「小説」としているので、この点、何か見識をお持ちなのかなと思いましたが、特にそんなことはなさそうですね。
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「長野県下製糸女工の結核死亡統計は総死亡の七割強が結核という戦慄すべき惨状」(by 山本茂実)

2018-12-10 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月10日(月)11時17分57秒

とりあえずの出発点は、やはり山本茂実『あゝ野麦峠』とします。
山本は「天竜川の哀歌」の章で、最初に「天竜川の肝取り勝太郎」という、川岸村の製糸工女も犠牲者の一人となった不気味な連続殺人事件について長々と書きます。
即ち、六人殺しの犯人・馬場勝太郎、通称「水車場の勝」が「製糸工場〔きかや〕から帰って来て、農家の納屋でじっと死を待っていた肺病病みの娘」(角川文庫版、p148)を救うため、「不治の病いといわれた結核性疾患の特効薬、高貴薬」である人間の肝を取る目的で殺人を重ねた、という「ただの憶測」の話を延々と続けて読者の好奇心を刺激した後、「戦慄すべき工場結核」という小見出しの下、結核に関する悲しいエピソードを三つ続けます。
そして、その後に次のように書きます。(p151以下)

-------
 平野村役場が明治四十一年村内工場を調査した「工女病歴調べ」(巻末資料7参照)に見るとおり、調査工女約一万に対して、結核性の疾患は一九六ということになっている。この数字は同調査中から肋膜、胸膜、腹膜、呼吸器病等々、結核性病患を合計した数字であるが、それでもこの表ではどうも少ない。
 細井和喜蔵の『女工哀史』に引例されている石原博士の「国家医学上より見たる女工の現況」と題した長年にわたる研究発表によると、これがまったく違っている。すなわちわが国の繊維工場に働く工女は、千人のうち毎年十三人の割合で死んでいる。しかもこれは工場内で死ぬ数で、このほかに工場の死亡率には入らないが、病み出してから解雇または退職して帰郷後に死んだ者がさらに十人もいるから、これを加えると工女千人について二十三人という高率の死亡になると書いている。
 この割合でいくと、女工七十二万人(大正中期)の千分の二十三人、すなわち一万六千五百人が毎年死んでいることになる。これは一般同年齢の女子死亡率の三倍、つまり一万人は工場労働によって余分に死んだことになる。このうち結核死亡はその約四割を占め、また帰郷死亡の七割は結核である。ただしこれは一般繊維労働者での話で、長野県下製糸女工の結核死亡統計は総死亡の七割強が結核という戦慄すべき惨状であるという。
 ところが平野村のこの調査にはそういうものはほとんど現れていない。その理由を考えてみると、この調査はおそらく役場のアンケートで工場側の回答という形式をふんだものと推定されること。また当時は平野村役場自体が製糸経営者の掌中にあったことも考え合わせると、その表現には若干の手心が加えられたということも考えられる。例えば前記政井みねのような女工死亡を退職者として削るとか、結核とすべきを腹膜、胸膜、呼吸器病と分離するとか、この分では「感冒」と書かれている「一、〇五八」も相当数を結核初期に入れるべきかもしれない。さらに大事な「病気帰郷者」を削除していることなど、この統計には不備を感ずる。
 この外では「胃病(腸カタル、腸胃カタルを含む)八六一」が注意をひく。貧しさの象徴でもある「飯だけは腹いっぱい何杯でも食べられる生活」、そして食休みもなく働く工場生活の当然の帰結でもあった。
【中略】
 工場内は高温・高湿度で、一日じゅう単衣物〔ひとえ〕で濡れて働き、一歩外に出ればたちまち真冬の風が吹いているという、極端な寒暖の差のある生活では、よほど健康な者でも風邪をひきやすい。ましてや夜業残業の過労がたたって体力はおちている。それはまたとない結核の温床であった。
 しかも当時はこの結核菌に対して、何一つ有効な医学的手段は、世界のどこにも見出せず、まさに結核全盛時代であった。
-------

山本は平野村(現岡谷市)の公的な統計を引用しながら、「この調査はおそらく役場のアンケートで工場側の回答という形式をふんだものと推定され」、「当時は平野村役場自体が製糸経営者の掌中にあった」から「その表現には若干の手心が加えられ」、要するにウソだらけだと非難するのですが、実際にはどうだったのか。
また、山本は諏訪では一月二月の厳寒期には操業していないことを熟知しているはずですが、「工場内は高温・高湿度で、一日じゅう単衣物〔ひとえ〕で濡れて働き、一歩外に出ればたちまち真冬の風が吹いているという、極端な寒暖の差のある生活」という表現は少し変ですね。
もしかして山本は織物業に関するある史料の表現をコピペしているのかな、と私は疑っているのですが、もう少し調べてみるつもりです。

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木谷恭介『野麦峠殺人事件』

2018-12-10 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月10日(月)10時42分22秒

>筆綾丸さん
いえいえ。
私もある程度自信を持って書けるのは明治・大正期の製糸業だけで、紡績業については詳しくなく、まして絹紡糸の世界は全く視野の外でした。
製糸業と紡績業との混同、近代製糸業史の「女工哀史」化は根深くて、山田盛太郎等の「講座派」が理論的基礎を提供し、山本茂実『あゝ野麦峠─ある製糸女工哀史』が民衆の世界から新たな材料を入手して作家ならではの巧みさで補強し、そのエッセンスを山本薩夫監督が抽出して映画『あゝ野麦峠』で「女工哀史」像を完成させたのかな、などと思っていたのですが、『絹と明察』は私にも盲点があったことを自覚させてくれました。
近江絹糸争議は、事実のレベルとして製糸業と紡績業が交わる「女工哀史」的世界が存在していたことを示すものですから、研究者や一般人の認識にも相当な影響を与えているのかもしれないですね。

『絹と明察』のついでに、製糸業と結核の問題にも少し触れておこうと思います。
『絹と明察』では駒沢善次郎の妻・房江が結核で京都宇多野の国立療養所に入院しており、そこに駒沢によって「絹紡工場」に移され、結核に罹患した石戸弘子も入院したとのストーリー展開となっており、結核の存在が物語の全体を暗く彩っていますが、製糸工場でも結核が蔓延していたというイメージは今でもかなり根強く存在していると思われます。
『絹と明察』と比べると些か文学的香気は劣りますが、ネットで「野麦峠」を検索している際に知った推理作家・木谷恭介の『野麦峠殺人事件』を入手して「あとがき」を見たところ、『あゝ野麦峠』を読んで結核の悲惨さに強く印象付けられたと書いてありました。

-------
峠を越えて女は死出の旅へ…?

連上蘭はワイドショーのかけだしリポーター。「未婚の母」告白の会見をした人気女優・仁科奈津子を追いかけることになった。その奈津子が失踪した。娘の紀子は京都で保護されたが、奈津子は野麦峠のふもとの実家で首を吊って死んでいた。所轄署は自殺説だが、蘭は他殺説にこだわって取材をつづけていく。そんな蘭のもとに宮之原警部が訪れ、不可解な死の真相を解明していく……。


私も、製糸工場では大勢が寄宿舎生活をしていたのだから、結核の蔓延はあったのだろうなと思っていたのですが、実態はかなり異なるようなので、少し検討してみたいと思います。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

反省 2018/12/09(日) 17:42:05
小太郎さん
数十年ぶりに三島のレトリックに酔っ払っていて、製糸と紡績の矛盾にも気づかいとは、まあ、ただのバカですね。やれやれ。
三島の作品は、評論も含め、ほとんど読んでるはずですが、「栄光の蛸のやうな死」は記憶にありません。
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製糸と紡績の違い─「みのもんた」を添えて

2018-12-08 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月 8日(土)11時39分24秒

>筆綾丸さん
>「栄光の蛸のやうな死」

カギ括弧に囲まれているので三島の小説のフレーズのような感じがしますが、そうであればネットで何か引っかかりそうなのに、「蛸」でも「絹」でも全くヒットしないですね。
松岡正剛氏以外、この謎を解ける人がいるのかも疑問になってきました。

『絹と明察』は「絹」を強調しながら「製糸」工場ではなく「紡績」工場が舞台なので、どうにも落ち着かないですね。
ウィキペディアからの引用ですが、紡績(spinning)は、

-------
「紡」(紡ぐ/つむ・ぐ)は寄り合わせることを意味し、「績」(績む/う・む)は引き伸ばすことを意味する漢字で[1][2][3]、主に綿や羊毛、麻などの短繊維(最長1.5m程度のもの)の繊維を非常に長い糸にする工程をいう。

のに対し、「長繊維の絹を蚕の繭から繰り出し、ばらばらにならないよう数本まとめて撚る工程は製糸と呼ばれる」(同)のであって、繭から取れる生糸は数百メートルの長繊維ですから、製法が全く違ってきます。
そして、その違いが労働関係にも顕著に反映されます。
即ち、紡績業においては、近代的な紡績工場が設立された当初から工場の主役はヨーロッパ製の巨大で高価な「機械」であり、労働者の仕事は比較的単調です。
従って、高価な機械から効率的に利益を生み出そうとして、二十四時間の連続操業が行なわれ、労働者は深夜労働を余儀なくされます。
他方、製糸業の場合、設備は単純な構造の「器械」であり、個々の女性労働者の技量によって生産量と品質に大きな差が出ます。
製糸工場では長時間労働はあっても、深夜労働などは全くないですね。
それは別に製糸業者が人道的であったからではなく、深夜に働かせても良い糸が取れず、利益は上がらず、全く経済的合理性がないからです。
製糸工場での設備が何とか「器械」からの脱却を始めたのは1904年(明治37)、御法川直三郎という人物が「御法川式多条繰糸機」を発明して以降ですが、様々な事情からその普及はそれほど進まず、本格的に「機械」と呼ぶに相応しい自動繰糸機が登場したのは昭和に入って暫くしてからですね。

「製糸工場を知ろう」(片倉工業株式会社サイト内)

それでは、何故に『絹と明察』の舞台が「紡績」工場かというと、これは元ネタが1954年(昭和29)の「近江絹糸争議」で、彦根の実業家夏川熊次郎らが1917年に設立した近江絹綿(株)(1920年近江絹糸紡績(株)と社名変更)で起きた労働争議だからです。

近江絹糸争議

近江絹糸紡績(株)の社名には「絹」が入っていますが、元々は質の悪い「屑繭」を原料とする絹紡糸の半製品(ペニー)を生産していた会社ですね。
『絹と明察』(講談社、1964)がどこまで「近江絹糸争議」の史実を反映しているのかは知りませんが、次のような描写(p54)は製糸工場ではあり得ません。

-------
 菊乃は一等湖のちかくにある赤煉瓦の絹紡工場だけは、訪ねるのが辛かつた。そこに飛び散る屑繭の埃と異臭は、建物の古さと共に、陰惨の気を湛へ、驕奢な絹の息づまるやうな出生の暗さがそこに澱んでゐた。下端の針が絹紡糸からじゆんじゆんにごみを取除いてゆく鉄の水車みたいな機械に、中腰でのしかかつて、その鉄輪をゆるゆると廻しつづける女子工員は、姿勢からして拷問めき、吐く息もその蒼ざめた顔から著くきこえた。
-------

製糸工場ではそもそも「屑繭」を扱わず、従って「絹紡工場」は存在せず、「陰惨の気を湛へ、驕奢な絹の息づまるやうな出生の暗さ」もないですね。
要するに『絹と明察』は製糸業とは関係のない世界を描いている訳です。
しかし、元ネタの「近江絹糸争議」が紡績工場に取材した細井和喜蔵の『女工哀史』(改造社、1925)を連想させるのはもっともで、従って『絹と明察』も「絹」を扱う工場と『女工哀史』を渾然一体化させるイメージを社会に普及させたのではないかと思います。
そして、1964年の大ベストセラー『絹と明察』が、その四年後に出る山本茂実『あゝ野麦峠』の「女工哀史」イメージを増幅させる下地となったのかな、などとも想像されます。
なお、御法川直三郎の名前は司会者の「みのもんた」氏(本名御法川法男、みのりかわ・のりお)を連想させますが、特に親族関係はないようですね。

御法川直三郎(1856-1930)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ニューマフィルとスライバーとブント 2018/12/07(金) 11:53:40
小太郎さん
「栄光の蛸のやうな死」は意味不明ですが、絹の言い間違えですかね。蛸は三島美学にもっとも反する生き物のような気がします。

http://kotobakan.jp/makoto/makoto-1260
憂きことを 海月に語る 海鼠かな  召波
足を欹てて 聴く壺の蛸       綾丸

https://www.youtube.com/watch?v=UO4_boTtDF0
----------------------
弘子は顔に似合わない赤味がかった岩乗な手で、管糸を引き出して、糸口を探して、トラベラーに引っかけて、撚りがかかっている糸をつないで、ひねりながらニューマフィルの吸い口へそっと差し込む。(『絹と明察』新潮文庫版66頁~)
----------------------
女子工員のこの作業を正確に理解することはできませんが、ニューマフィルは引用の YouTube を見ると、おおよそのことはわかりますね。また、練糸行程にでてくるスライバーも(同書66頁)、YouTube で探すと、大体のイメージが掴めます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%9D%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%A1%94
『硝子の塔』の原題は Sliver なんですね(硝と蛸という字は、似ているような似ていないような)。

追記1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%81%AE%E9%BB%99%E7%A4%BA%E9%8C%B2%E3%81%AE%E5%9B%9B%E9%A8%8E%E5%A3%AB
『絹と明察』の駒沢紡績の社旗(白馬)は、ヨハネの黙示録の四騎士を踏まえているとすれば、勝利(支配)であるから、駒沢善次郎の家父長主義的な支配のメタファーということになりますね。小説の世界では、絹のような肌をした駒(馬)沢善次郎の象徴ですが。

追記2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E5%90%8C%E7%9B%9F
ドイツの放送を見ていると、Bundeskanzlerin だの、Bundesinnenminister だの、Bundesaußenminister だの、色々な Bundes が出てきますが、この Bund と日本的な手垢のついたブントが同じ語だというのは、なんだか奇異な感じがするとともに、ブントの多言語版をウィキでみると、韓国語と中文しかなく、うら淋しい感じがします。
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「一文無しで始めたこのイベントは黒字になりました」(by 伊藤隆)

2018-12-07 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月 7日(金)10時21分9秒

脱線からの脱線になりますが、上山和雄氏の「伊藤先生はどのような立場だったのですか」という質問に高村氏が「よく分からない」と答えている点、実際には詳しく事情を知っているけれどもあまり語りたくない、という感じではないですかね。
伊藤隆氏の『歴史と私─史料と歩んだ歴史家の回想』(中公新書、2015)を見ると、1951年の大学入学以降、共産党のバリバリの活動家となった伊藤氏は、「東大細胞の文学部班のキャップ」(p8)として活躍するも、次第に熱が冷め、六十年安保の頃は「すでに運動から離れていた」(p16)そうです。

-------
六〇年安保の頃

 六〇年安保は、修士課程の二年目でした。
 佐藤君が、「デモだ、デモだ」と言っていましたから、付き合ってデモに行き、「民主主義を守れ」などと叫んでいました。あとで岸信介氏にインタビューして本を出すことを考えるとおかしいのですが、「岸を倒せ!」と言ったかもしれません。
 佐藤君は日共系を離れ、ブントなどの新左翼にかなりシンパシーを感じていたようですが、すでに運動から離れていた私は、彼等の過激な行動を少し斜めに見ていました。
 六月十五日、国会突入デモで樺美智子さんが亡くなった日のことはよく覚えています。
 樺さんは国史研究室の四年生でした。あの日、大学で樺さんに会った時、「卒論の準備は進んでいるか」と聞いたのです。あまり進んでいない様子でした。
「何とかしなきゃな」と、私は言いました。
「でも伊藤さん、今日を最後にしますから、デモに行かせてください」と彼女は答えます。
「じゃあ、とにかくそれが終わったら卒論について話をしよう」
 そう言って、別れました。
-------

「佐藤君」は佐藤誠三郎(東大名誉教授、政治学)のことで、佐藤は既に日比谷高校時代に「民青のキャップ」であり、「私が駒場に四年いたこともあって、彼のほうが追い越して、先に本郷の国史学科に進んでいた」(p9)のだそうです。

佐藤誠三郎(1932-99)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E8%AA%A0%E4%B8%89%E9%83%8E

また、「あとで岸信介氏にインタビューして本を出す」云々は『岸信介の回想』(文藝春秋、1981)のことですね。

「内閣書記官長・星野直樹」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a2bf1221bfa7d693795a7266fc53eb49
「お前みたいな机上の学問をやっている奴とは違うんだ」(by 矢次一夫)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/95f71a948f5f641025ccc78f00fae779

さて、「やっぱりデモが気になって」国会議事堂周辺に行き、南門に「中央大学のブントの勇ましい連中が丸太をぶつけ」「中になだれ込むところまで見て」から家庭教師のアルバイトに行った伊藤氏は、帰宅後、妻から「デモで誰か女の人が死んだ」と聞かされます。(p17)

-------
 ほとんど眠れぬまま朝を迎え、早くに登校して、自分たちが何をなすべきかを、佐藤君など国史研究室の友人たちと相談しました。私が提案したのは、国史研究室が中心となって全学合同慰霊祭を実行しようということでした。全学の統一した行動を第一の目的とし、ジグザグデモもシュプレヒコールもせず、安保反対も岸打倒もスローガンとして掲げず、厳粛な行進を行う、これが慰霊祭のイメージでした。
 提案は了承されました。十九日午前零時には新安保が自然成立してしまいます。実行は十八日と決まりました。あと一日半しかありません。研究室全員で手分けして準備にかかりました。

樺美智子合同慰霊祭

 会場の準備、受付、ビラの作成、立て看板、マイク、ピアノの調達と、やるべきことは山ほどありました。研究室のメンバーは仕事を分担して懸命に努力しました。
 私は共産党と、共産党と反目していたブントに、この慰霊祭を一緒にやろうと説得を試みました。樺さんは共産党からブントに移行していましたから、共産党としては樺さんが自分たちと同じ立場だと思ってはいない。真正面からだけでは駄目と思ったので、生活協同組合の「親分」は当然民青ですから、これをなんとか口説いて、とにかく場合によっては一緒にやってもいいという言質を得ました。ところがブントのほうは、共産党が来るならこれを「粉砕する」と言い出す。
 そこで新左翼の一翼、第四インターの北原敦君、のちに北海道大学の西洋史の先生になりますが、彼に「ここは一緒にやろうじゃないか」と話すと、「やる」と言う。結果として文学部教授団、全大学院生協議会、全学助手集会連絡会、各学部学生自治会、東大職員組合、生活協同組合の六団体の協賛を得ることができました。北原君には、「たぶん人が大勢集まるから、警備隊がいないと困る。君のところでやってくれないか」と頼むとOKしてくれました。北原君は本当によくやってくれて、当日集まった連中からたくさんのカンパも集めてくれました。一文無しで始めたこのイベントは黒字になりました。
 国史研究室の主任教授は宝月圭吾という中世史の先生で、彼に代表者になっていただき、デモの許可をとるために一緒に警察に行きました。【後略】
-------

ということで、ここまで活躍したのであれば、追悼デモの先導車に宝月圭吾と並んで乗るくらいは許されるでしょうね。
私は最初に『歴史と私─史料と歩んだ歴史家の回想』を読んだとき、ここで笑ってはいけないと思いつつ、「一文無しで始めたこのイベントは黒字になりました」で笑ってしまいました。

「これはお金になるから駄目」(by 有馬頼義夫人)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/31eb1e5e437860a9120f43f90dc06189
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「栄光の蛸のやうな死」の謎

2018-12-06 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月 6日(木)23時11分14秒

>筆綾丸さん
『絹と明察』(講談社、1964)を読み始めたのですが、今は頭が完全に経済史、しかもマルクス経済学にもとづく思弁的な経済史ではなく、にわか仕込みとはいえ、数量データを重視するサバサバとした経済史の勉強モードなので、並行して三島由紀夫の華麗な文章を読むのはいささかつらいですね。

ツイッターで「絹と明察」を検索したら、

-------
「意識が高い」という言い回しは最近出来たものだと思っていたら、三島の『絹と明察』(64年)で使われていた。
https://twitter.com/FumitakeKajio/status/985802861559693312

というツイートを見つけたので、以前、丸ちゃんに「意識高い系」とか言われたことを思い出して笑ってしまいました。

丸島和洋氏のご意見
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a13b5bb5ba75b6b580fb6381da91abfb
書評:丸島和洋著『戦国大名の「外交」』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0ac71f315a069919f1402e7c924d889d

「意識が高い」を探してみたところ、p121に、

-------
 駒沢紡績の男子寮には、さすがに女子寮のやうな、手紙の検閲はなかつた。もしそんなことをすれば、「意識の高い」男子工員を、無用に刺戟することになるからである。
-------

とあり、左翼的な思想の持ち主を揶揄する表現だったようですね。
また、「松岡正剛の千夜千冊」の「意表篇1022夜」には、

-------
 三島がこれを書いたのは三九歳のときである。自決するのは昭和四十五年(1970)の四五歳の十一月だから、死の六年前のことになる。その六年間のあひだ、小説としてはずつと『豊饒の海』だけを書きつづけ、その他は、一方では自衛隊に体験入隊して「楯の会」を結成し、随筆スタイルでは『英霊の声』『太陽と鉄』『文化防衛論』などを書いただけだつた。
 あきらかに三島は「栄光の蛸のやうな死」の準備に向かつてゐたのだ。その準備は『絹と明察』の翌年の四十歳から始まつてゐた。四十歳ちやうどのとき三島が何を始めたかといへば、『憂国』を自作自演の映画にし、『英霊の声』を書いたのである。しかし、かうした準備は三島のこれみよがしの誇大な行動報告趣味からして誰の目にもそのリプリゼンテヱションがあきらかであつたにもかかはらず、その姿は滑稽な軍事肉体主義か、ヒステリックな左翼批判か、天皇崇拝の事大主義としか写らなかつた。
https://1000ya.isis.ne.jp/1022.html

とありますが、「栄光の蛸のやうな死」とは何なのか、三島を殆ど読んでいない私には謎の表現です。
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高村直助『歴史研究と人生─我流と幸運の七十七年』(その3)

2018-12-06 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月 6日(木)14時26分5秒

遥か昔の左翼学生運動の話など下らないといえばそれまでなのですが、中村政則氏のような「古老」の文章は、それなりの時代背景を知らないと理解できない部分が多いので、高村直助氏の回想の紹介も全く無駄ではないと思っています。
ということで、続きです。(p35以下)

-------
 事件のすぐ後、六・一八でした。法文一号館の25番教室で追悼集会をやった後、国会に向けてデモが東大から三千人出たのです。先導車には、宝月圭吾先生と伊藤隆さんが乗っていました。あの時責任者になったのでしょう。それで、威勢のいい連中などは、「こんな葬式デモでは駄目だ」などと文句を言っていた。
上山 伊藤先生はどのような立場だったのですか。
高村 よく分からない。その時はもう国史学科全員が、とにかく何か、愛する人を亡くしたような雰囲気になって。助手も含めてね。やはり、あんな真面目な人なのに警察はひどいと思ったのですね。当日の写真も当時の『国史研究室』に出ていますが、オーバードクターを含めほとんど全員が写っています。
 その後何年続いたのか、六月十五日に東大から追悼デモをやった。国史学科主催といっても、せいぜい二、三十人ですけれども。私は二年間、警視庁に許可をもらいに行きました。三年目は三鬼清一郎さんがやってくれた。僕が嬉しかったのは、石母田正さんが来てくれたことでした。弟が共産党から立候補している人で、当時党は「トロツキスト樺美智子」だったですからね。
-------

人情の機微を政治に優先させるところは石母田正氏の懐の深さを示していますね。
「共産党から立候補している」弟は石母田達氏で、政治家である同氏の回想には少し注意しなければならない点があることは以前書きました。

石母田正氏が母に海に突き落とされかけた?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f19bea7aac2b683a3883575c49695278
「石母田五人兄弟」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d21499ad28acdbaaa95fb037546497e
「札幌番外地」(by義江彰夫)
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5f20a8bf7cbd498a77b0b55bab2f3b09
緩募─仙台・江厳寺の石母田家墓地について
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f08b4cad02e087ba2b82da9e3792cf2d

ま、石母田兄弟はともかくとして、「反動」歴史学者の代表格と思われている伊藤隆氏が樺美智子追悼デモの先導車に宝月圭吾と一緒に乗っているというのは、今から見れば奇妙な感じもしますが、伊藤隆氏の『歴史と私─史料と歩んだ歴史家の回想』(中公新書、2015)を見たところ、伊藤氏は追悼デモを纏め上げるのにずいぶん活躍されたようですね。
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高村直助『歴史研究と人生─我流と幸運の七十七年』(その2)

2018-12-05 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月 5日(水)10時18分50秒

前回投稿で「持ち前の要領の良さ、逃げ足の早さを生かして」と書いたのは私の多少悪意を含んだ解釈で、高村氏の表現ではありません。
経済史とは全然関係ありませんが、以前、この掲示板でも樺美智子について少し触れたことがあるので、樺美智子伝説の一資料として、少し高村氏の表現を引用してみます。

「かの学園紛争」
「国史学科」の樺美智子氏

まず、高村氏の安保闘争前の状況ですが、

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【前略】
高村 その頃からだんだん反党的になってきて、あれは五八年の秋ですかね、それには僕は行かなかったけれども、学生党員達が代々木の党本部を占拠してしまった。結局、東大学生細胞が、ほぼ丸ごと分離してしまったのです。
上山 あのブントですか。
高村 残ったのは本当に数人だけ。もちろん幽霊党員はそこで消えたと思いますが。僕は名指しで除名されてはいない。「党章」制定に伴う新たな党員章を交付されなかっただけです。大口さんなどは麗々しく除名宣告が『赤旗』に出た。
 僕はLCではやはり情宣担当で、当時、年に四回でしたが、『マルクス・レーニン全集』という機関誌を出していたのです。薄っぺらいけれども大判の。結構、全学連関係者には読まれていたのですけれども、最後の編集長は私なのです。それは日本共産党の東大学生細胞の機関誌だった。ブントに移行したら、もう出ないわけです。
 ただし僕はブントになってから、実際にはほとんど活動していない。「体調が悪い」などと言ってサボってしまったね。事務所にも行ったことがない。【中略】
 それと、正直言って、社会主義は歴史の必然だから、それを推し進める責務があるというのは本当かという疑問が膨らんできていた。【中略】
 ですからだんだん足が遠のいた。何があったかというと、時々臨時で使われるのです。命令ではないのだけれども、「お前は学籍がないので大学に処分されることはないから、ビラまきをやれ」などと。
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といった具合です。(p32以下)
「ブント(共産主義者同盟)」は今や死語ですが、青木昌彦氏(スタンフォード大学名誉教授、1938-2015)が極めて有能なブントの指導者で、その経歴がアメリカ渡航の障害になった、などという話は経済学に全く縁のない私も耳にしたことがありました。
なお、「上山」は上山和雄氏(国学院大学名誉教授、1946生)ですね。

共産主義者同盟

ま、それはともかくとして、樺美智子(1937-60)の登場する場面に移ります。

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老川 以前、樺美智子さんと一緒にデモに行かれたという話を聞きましたが。
高村 樺さんね、彼女は二年下でしょうが、極めて生真面目な女性で、本当に裏も表もない。逆に言えば、思い込んだら命懸けというようなところがあった。
上山 それは先生が大学院に入られてから。
高村 六・一五事件は一九六〇年でしょう。あの年の四月に僕は大学院に入っています。だから、彼女が特に頑張ったのは、その少し前からだけれども、国史の学生で文学部学友会委員長をやったのが、一年下の栗山君と二年下の道広君で、道広君と樺さんが同期。
 それで、彼女が特にラジカルになったのは、羽田事件で逮捕された後か先か、選挙に落ちてしまったのだ。要するに学科二人の学友会委員に対立候補が出てきて、そちらは、第四インター系の女性なのだけれども、負けてしまったのです。それがかなりショックだったのではないかと思う。
 しかし樺さんは、生きていたら、大学院を受けていたのではないかと思いますけれどもね。最後に、『明治維新史研究講座』の地租改正の部分が机の上に開いてあったというから。その日に大口さんが卒論の相談を受けているのですね。
上山 そうですか。
高村 午前中に授業を受けて卒論の相談をして、午後に国会デモに行くという、そのような人だったのです。その日、僕は見物人で国会の周りをうろうろしていたら、彼女がデモ隊の中にいて、「今日は突入するの」、「もちろんやります」などと言葉を交わした。この日は真夜中までいましたね、現場に。危ういところ、僕の一人後ろまで警官の鞭でやられた。
上山 鞭ですか。
高村 指揮棒の先が鞭のようになっていて、あれでピシッとやった。十二時過ぎたら凶暴に、要するにもう報道陣がいなくなって暗くなってきたから。道路脇に車が停まっていて、僕は小柄だからその隙間から抜け出した。僕らは一〇人ぐらい、知り合いのアパートに逃げ込んで、要するにメーデー事件のことが頭にあったから、山手線の駅に行くのは避けて夜明かしした。
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途中ですが、ここで切ります。
なお、「老川」は老川慶喜氏(立教大学教授、1950生)です。

>筆綾丸さん
『絹と明察』は面白そうですね。
早速、読んでみます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

絹と明察 2018/12/04(火) 17:46:47
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B3%B6%E6%AD%A6%E4%BB%81
https://www.jcer.or.jp/about-jcer/enjyoji
小島武仁氏は、本年度の円城寺次郎記念賞を受賞した優秀な経済学者ですが、数学に挫折して経済学に転じたようです。武仁(ふひと)は、四柱推命ではありませんが、(藤原)不比等を踏まえているのでしょうね。
主な論文はすべて英文ですが、私にはひとつも理解できないだろうな、と思いました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B9%E3%81%A8%E6%98%8E%E5%AF%9F
紡績業を専門とする経済学者は誰も読まないでしょうが、『絹と明察』は三島の小説の中で好きな作品のひとつです。

追記
Fuhito Kojima のツイートを暇潰しに読むと、『昆虫すごいぜ!』の香川照之の書き込み(11月8日)を発見しました。文学部出身らしいパセチックな(?)文章ですね。
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な、なんと…深夜0時撮影終わりで自宅に帰ると、ベランダの壁でハラビロカマキリが産卵しているではないか!
去りゆく秋の物悲しさそのままに、黒く傷付いたその翅の揺らめきは、何としても次の世代の命を残すために、最後の力を振り絞っている執念のようにも思える。
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高村直助『歴史研究と人生─我流と幸運の七十七年』(その1)

2018-12-04 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月 4日(火)10時38分54秒

経済史を研究している学者には経済学部出身と文学部出身の二つのグループがあって、数学が得意そうなのが前者、ダメそうなのが後者という印象があったのですが、中林真幸氏は意外なことに後者(東大文学部国史学科卒)ですね。

中林真幸(1969生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9E%97%E7%9C%9F%E5%B9%B8

近代紡績業研究で有名な高村直助氏(東大名誉教授)も後者ですが、高村氏の『歴史研究と人生─我流と幸運の七十七年』(日本経済評論社、2015)を読んでみたところ、けっこう面白い読みものでした。

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生い立ちから学生時代、大学院・東大社研・横浜国立大学を経て、東大文学部時代、横浜とフェリス女学院時代へと至る軌跡を、多くの出会いなど知られざる話も交えて語る。

目次
一 生い立ちから学生時代まで
二 大学院・東大社研・横浜国大
三 東大文学部時代
四 横浜とフェリス

http://www.nikkeihyo.co.jp/books/view/2396

直助というお名前は学者には些か珍しい感じがしますが、大阪で「和装小物と風呂敷の卸」をしていた父親の「奉公人時代の名前」だそうですね。

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ついでに言っておきますと、私の直助という名前は、父親の奉公人時代の名前なのです。山本有三の『路傍の石』の主人公吾一は、丁稚奉公をした時、最初は吾吉でしょう。親父は本名は武ですが「直」という字をもらって直吉、手代になって直七、番頭としては直助となったのです。だから誰かに跡を継がせたいと思っていたのですが、一方では四柱推命に凝っていて、姓名判断ですね。生年月日との相性が、上の兄三人はみんな合わなくて、私になってようやく合った。だから、跡継ぎを期待していたらしいのです。
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とのことで(p5)、出世魚みたいに名前が変って行くというは商家ならではの面白い習慣ですね。
商売人に学問は要らないというのが常識だった時代、父親には特別な学歴はなかったそうですが、子供の教育には熱心だったようで、一番上の姉は神戸女学院、長男が京大文学部哲学科、三男は京大農学部、本人が東大文学部、そして妹が女子栄養短期大学だそうです。
二男だけ「もともと大学に行く気がなくて、山を見たかったということで信州大学を受けに松本に行って、白紙で答案を出して」(p7)帰ってきて、そのまま商売の道に入ったとか。
また、「三番目の兄は、京大の農学部へ行ったけれども、これは山岳部と言った方がいいほど山に凝って」、「桑原武夫先生についてヒマラヤへ行くなどしていた」のだそうです。
京都大学学士山岳会サイトを見ると、「京大学士山岳会とカラコラム・クラブにより構成された、日本パキスタン合同サルトロ・カンリ遠征隊が1962年7月24日に初登頂に成功した」というサルトロ・カンリ(7,742m)の初登頂者三人の中に高村泰雄という人がいるので、この人でしょうね。

https://www.aack.info/ja/archive/

大阪の裕福な商家に育ったにもかかわらず、直助氏は1956年秋、共産党に入ったそうですが、まあ、当時は「文学部だけで共産党在籍者が一〇〇人以上いる」(p29)時代だった訳ですね。
「東大学生細胞は、文教地区委員会に属している。細胞委員会、リーディングコミッティー(LC)が指導する。十二、三人いて、私もその一人」(p31)だったにも拘らず、持ち前の要領の良さ、逃げ足の早さを生かして警察には一度も逮捕されなかったそうです。
共産党の方は58年、「東大学生細胞が、ほぼ丸ごと分離」してしまったときに、名指しで除名はされなかったものの、「「党章」制定に伴う新たな党員証を交付されなかっただけ」(p32)で、離党したそうですね。
ちなみに「大口さんなどは麗々しく除名宣告が『赤旗』に出た」そうですが、これはお茶の水女子大学名誉教授の大口勇次郎氏ですね。
共産党を離れた後も政治活動は多少やっていて、国史学科の二年下の樺美智子氏と一緒にデモに行ったこともあったそうです。
ま、そんな高村氏が、東大社会科学研究所・横浜国立大学を経て、1971年、東大紛争で荒れ果てた母校に「文学部国史学科助教授」として戻ってきた後は、立場が一転して不良左翼学生を取り締まる側になったので、林健太郎や堀米庸三には「君も、大分大人しくなったらしいね」とからかわれたとか。(p79)
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「植民地以下的=印度以下的な労働賃銀」(by 山田盛太郎&中村政則)

2018-12-03 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月 3日(月)11時20分18秒

「インド以下的低賃金」に関する部分も、その内容の紹介だけ先にしておきます。(p168以下)

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インド以下的低賃金

 心身ともにすりへるような重労働のあげくに女工の得た賃金は、山田盛太郎によって「植民地以下的=印度〔インド〕以下的な労働賃銀」(『日本資本主義分析』)と規定されたようなものであった。ただ、山田のこの規定については、向坂逸郎が実証上の難点があると批判し、この点をめぐって学界ではいくつかの論争がくりひろげられたものである。その後、名和統一の『日本紡績業と原棉問題研究』と高村直助の『日本紡績業史序説』上巻で、日印紡績職工の賃金比較がこころみられ、やはり日本の紡績職工の賃金はインドよりも低いと証明された。
 明治三一年(一八九八)当時、日本の紡績職工の一か月分の平均賃金は、男工が六円八三銭、女工が四円五銭であるのにくらべて、インドは男工が中心であるとはいえ、八円前後から最高九円一八銭であった。この賃金の低さは、欧米先進国やインド綿業資本家から、たえず非難と軽蔑をむけられてきたものであり、とくに、昭和恐慌後の為替ダンピングの波にのって日本綿糸布がアジア市場に殺到したときには、世界的非難の的となったものであった。日本では長時間労働と低賃金が、なにゆえ可能であったのだろうか。この点について、もと農商務省官僚で大日本製糖社長酒匂常明の指摘は、それが資本家の言であるだけに興味深い。

斯〔か〕かる安い労力者は何処〔どこ〕から得られませうか。皆農村から来るものであります。(中略)己〔おの〕れの小作して居る、或〔あるい〕は所有して居る所の田畑を耕作して、尚〔な〕ほ労力余り有ると言ふ所の分子が即ち此の都会、或は製造地に来まして職工労働者となる。(中略)一家の維持、或は両親・兄弟の賄〔まかない〕と言ふものは、農村で既に出来て行くのである。唯〔ただ〕、その家族の一分子が工業の労働に従事するのでありますから、其の人一人生活し得る収入を取れば宜しいのであります。之が即ち労銀の安い所以〔ゆえん〕である。是〔これ〕は実に我国の発展上商工業と言ふ関係に於て、此〔こ〕の農業の非常に必要なる原動力であると言ふことが分る(社会政策学会編『関税問題と社会政策』)

 紡績女工が猫の額ほどのせまい土地を耕作しているにすぎない貧農の娘であったということ、ここに出稼ぎ型賃労働の低賃金の秘密があったことを、酒匂は見ぬいているのである。絶対的貧困の農村は、潜在的過剰労働力の貯水池であった。いくら女工を使いすてても、募集地を拡大しさえすれば、あらたな女工の補給はなんとかなった。農村の慢性的窮乏と、過剰労働力の多量な存在、これこそ紡績資本の好餌にほかならなかった。
 さらに、農村の家父長的家族制度のもとにおける、婦人の社会的地位の低さが、それに加重されていた。三菱経済研究所編『日本の産業と貿易の発展』は、「農村と都会の工業との間に於ける直接の且つ永続的の労力需給関係は我国の家族制度が其の基礎となって始めて円滑に行はれる」と指摘している。家父長を頂点とし、その妻・子女にいたる序列的で家父権のつよい家族関係のもとでは、困窮・借金に苦しむ家長をたすけるためには、ばあいによっては娼婦になってまでも親に孝をつくすことが子女のつとめであり、また、それが美徳とされる価値観が支配していた。優等女工を親孝行とほめそやすには、あまりに悲惨で、あまりに残酷な「美徳」の強制が行なわれていたといわなければならない。
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ということですが、これらは全て紡績業に関する記述ですね。
紡績業の場合、その原料の綿花は全て輸入品なので、農村との関係は製糸業とは決定的に違います。
ま、そのあたりは後で論じたいと思います。
なお、名和統一『日本紡績業と原棉問題研究』は1937年(昭和12)、高村直助『日本紡績業史序説』は1971年(昭和46)、社会政策学会『関税問題と社会政策』は1909年(明治42)、三菱経済研究所編『日本の産業と貿易の発展』は1935年(昭和10)刊行の書籍ですね。
いつの時点の見解かはけっこう重要ですから、中村君も出版年くらい書いてくれればよいのに、不親切だなあ、と感じます。
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