>>莫迦言ってんじゃねーよ!」
『三年目の浮気』
を思い浮かべてしまいました。
ということで、今年もよろしくお願いします。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月12日(水)11時31分19秒
山本茂実『あゝ野麦峠』に続いて、中村政則『日本の歴史第29巻 労働者と農民』(小学館、1976)から「女工と結核」と題する部分を紹介します。
中村著は普通の歴史書とは異なり「第〇章第〇節」といった具合に構成されていないのですが、「綿糸とアジア」という大項目の中の「職工事情」という中項目の最後に「女工と結核」という小項目があります。
即ち、
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綿糸とアジア
近代紡績業の基底
工場の惨劇
繊維戦争
詐欺的な女工募集
職工事情
はだしの逃亡
女工の足どめ策
長幼男女の同一労働
インド以下的低賃金
女工と結核
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と構成されていて、近代紡績業に関する叙述のうち、既に紹介済みの「インド以下的低賃金」に続いて「女工と結核」が出てきます。
「植民地以下的=印度以下的な労働賃銀」(by 山田盛太郎&中村政則)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/88941dd9a9b165d210f32a95c6800543
山田盛太郎と中村政則のインド好き、二人がインドとの比較にやたらこだわる理由についてはまだ答えを出していなかったのですが、それをやっていると手間と時間がかかるので、とりあえず「女工と結核」に進みます。(p170以下)
なお、石原修の引用部分は中村著では全体を二字分下げています。
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大正二年(一九一三)一〇月、国家医学会例会で青年医学士石原修は、「女工と結核」と題する有名な講演をおこなった。この講演は、紡績資本家による女工食いつぶしがいかにひどいものであるかを事実をもってしめし、人道主義的正義観から資本家をするどく断罪したものであって、工場法の施行を世にうったえたものとしてよく知られている。しかもそれは、かれが内務省嘱託として明治四二年いらい各地の農村を回りあるいて実際にしらべた、帰郷女工にかんする克明なデータにもとづいていただけに、ひじょうな説得力をもっていた。石原はまず、日本の労働者のなかでもっとも多いのは生糸(一九万人)・紡績(八万人)・織物(一三万人)の繊維労働者であることをあきらかにし、そのなかでも紡績業につきものの深夜業が若い娘たちの肉体をすりへらしていることを、具体的な数字をあげて説明する。
七日間連続徹夜業をしたならば、(中略)どの位目方が減るかといへば、一例として紡績甲に於ては一人平均夜業後の減量は百七十匁〔もんめ〕(一匁=約三・七五グラム)である。次の昼業間に恢復するのはどの位かといへば、六十九匁である。回復しない中に直ぐ夜業に掛るといふことになるから、交替期間まで夜業を続けて居れば百一匁は体重を奪はれて仕舞ふのであります。(中略)いつまでも夜業を続けて行つたならば、遂には骨と皮ばかりになる人間が出て来やうと思ひます。是では堪へられませぬから、退職するより外ないといふことになりませう。(中略)言葉は少し乱暴に失するかも知れませぬが、見方に依りましては、此夜業といふものは人間を長い時期に於て息の根を止めつつある行為ではないかと思はれます。息を止めつつある行為は、常に未遂に終はるのであります。それはどいういふ訳かといへば、其被害者が迚〔とて〕も我慢仕切れぬで自由に遁走するのであるから、既遂にならぬで済むのであらうと思ひます。
高い塀がめぐらされた工場を脱出するのは、容易なことではない。監視人の目も光っていよう。そこで、「紡績と織物は女工の半分は一年と続いた者がありませぬ。勤続一年未満の其中の半分は、六カ月続いて勤めないものであります」ということになる。女工の帰郷原因をみると、次ページの表のように疾病などをふくめ、労働にたえられないという者が全体の二九パーセントで、家事のつごうによる者とおなじ比率をしめしている。結婚を理由に帰郷した者は六パーセントに過ぎない。さきに述べた桑田熊蔵の見解がいかに皮相なものであるかがこれからもわかるであろう。
彼等女工の国に帰る者の状況を申しますると、国に帰りますもの六人又は七人の中一人は、必ず疾病にして重い病気で帰つて来る。先づ八万の中で一万三千余人はありませう。疾病たるの故を以て国に帰ります一万三千人の重い病気の中の四分の一、三千人といふものは、皆結核に罹つて居ります。
と石原は説く。しかも、その「結核は、伝染病の処女地たる農山村と生活条件の低い農家で、工場内における以上の猛威を振るって蔓延し、農山村そのものを破滅させたのであった」(生活古典叢書『女工と結核』籠山京解説)。
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長くなったので、途中ですが、いったんここで切ります。
中村は石原修の「紡績と織物は女工の半分は一年と続いた者がありませぬ」という文章を引用しますが、石原の講演録を見ると、この直前に「其結果が生糸は事情が違ひまするが」という表現が存在しています。
石原修(1885-1947)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E4%BF%AE
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月10日(月)11時17分57秒
とりあえずの出発点は、やはり山本茂実『あゝ野麦峠』とします。
山本は「天竜川の哀歌」の章で、最初に「天竜川の肝取り勝太郎」という、川岸村の製糸工女も犠牲者の一人となった不気味な連続殺人事件について長々と書きます。
即ち、六人殺しの犯人・馬場勝太郎、通称「水車場の勝」が「製糸工場〔きかや〕から帰って来て、農家の納屋でじっと死を待っていた肺病病みの娘」(角川文庫版、p148)を救うため、「不治の病いといわれた結核性疾患の特効薬、高貴薬」である人間の肝を取る目的で殺人を重ねた、という「ただの憶測」の話を延々と続けて読者の好奇心を刺激した後、「戦慄すべき工場結核」という小見出しの下、結核に関する悲しいエピソードを三つ続けます。
そして、その後に次のように書きます。(p151以下)
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平野村役場が明治四十一年村内工場を調査した「工女病歴調べ」(巻末資料7参照)に見るとおり、調査工女約一万に対して、結核性の疾患は一九六ということになっている。この数字は同調査中から肋膜、胸膜、腹膜、呼吸器病等々、結核性病患を合計した数字であるが、それでもこの表ではどうも少ない。
細井和喜蔵の『女工哀史』に引例されている石原博士の「国家医学上より見たる女工の現況」と題した長年にわたる研究発表によると、これがまったく違っている。すなわちわが国の繊維工場に働く工女は、千人のうち毎年十三人の割合で死んでいる。しかもこれは工場内で死ぬ数で、このほかに工場の死亡率には入らないが、病み出してから解雇または退職して帰郷後に死んだ者がさらに十人もいるから、これを加えると工女千人について二十三人という高率の死亡になると書いている。
この割合でいくと、女工七十二万人(大正中期)の千分の二十三人、すなわち一万六千五百人が毎年死んでいることになる。これは一般同年齢の女子死亡率の三倍、つまり一万人は工場労働によって余分に死んだことになる。このうち結核死亡はその約四割を占め、また帰郷死亡の七割は結核である。ただしこれは一般繊維労働者での話で、長野県下製糸女工の結核死亡統計は総死亡の七割強が結核という戦慄すべき惨状であるという。
ところが平野村のこの調査にはそういうものはほとんど現れていない。その理由を考えてみると、この調査はおそらく役場のアンケートで工場側の回答という形式をふんだものと推定されること。また当時は平野村役場自体が製糸経営者の掌中にあったことも考え合わせると、その表現には若干の手心が加えられたということも考えられる。例えば前記政井みねのような女工死亡を退職者として削るとか、結核とすべきを腹膜、胸膜、呼吸器病と分離するとか、この分では「感冒」と書かれている「一、〇五八」も相当数を結核初期に入れるべきかもしれない。さらに大事な「病気帰郷者」を削除していることなど、この統計には不備を感ずる。
この外では「胃病(腸カタル、腸胃カタルを含む)八六一」が注意をひく。貧しさの象徴でもある「飯だけは腹いっぱい何杯でも食べられる生活」、そして食休みもなく働く工場生活の当然の帰結でもあった。
【中略】
工場内は高温・高湿度で、一日じゅう単衣物〔ひとえ〕で濡れて働き、一歩外に出ればたちまち真冬の風が吹いているという、極端な寒暖の差のある生活では、よほど健康な者でも風邪をひきやすい。ましてや夜業残業の過労がたたって体力はおちている。それはまたとない結核の温床であった。
しかも当時はこの結核菌に対して、何一つ有効な医学的手段は、世界のどこにも見出せず、まさに結核全盛時代であった。
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山本は平野村(現岡谷市)の公的な統計を引用しながら、「この調査はおそらく役場のアンケートで工場側の回答という形式をふんだものと推定され」、「当時は平野村役場自体が製糸経営者の掌中にあった」から「その表現には若干の手心が加えられ」、要するにウソだらけだと非難するのですが、実際にはどうだったのか。
また、山本は諏訪では一月二月の厳寒期には操業していないことを熟知しているはずですが、「工場内は高温・高湿度で、一日じゅう単衣物〔ひとえ〕で濡れて働き、一歩外に出ればたちまち真冬の風が吹いているという、極端な寒暖の差のある生活」という表現は少し変ですね。
もしかして山本は織物業に関するある史料の表現をコピペしているのかな、と私は疑っているのですが、もう少し調べてみるつもりです。