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「くわいそ」は「会所」?

2018-01-30 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月30日(火)21時16分58秒

次田香澄氏が「「くわいそ」は「楽所(がくそ)」(賀のときに舞楽を奏する所)の誤りか。一説に「荒序(くわうそ)」(秘曲の名)とする」と書かれているのを見て、「荒序(くわうそ)」はさすがに無理筋っぽいのでは、と思いましたが、これは玉井幸助・冨倉徳次郎氏の説でした。
冨倉氏の『とはずがたり』(筑摩書房、1969)の「巻二」補注18(p414)には、

-------
底本「しらかわ殿くわいそ」は玉井氏「くわうそ」の誤りと見て「荒序」を当て、「体源抄」の記事を証に引くのに従う。
 「文永四年十一月七日御賀習礼、荒序、舞、兵部卿隆親卿息云々」(体源抄十三)
後嵯峨院の五十歳は実は文永六年に当るが繰り上げて文永五年に企画された。続史愚抄文永五年正月二十四日に、
 「一院御賀<雖御年四十九可有五十賀者>試楽習礼於万里小路殿有之……」
文永四・五年間盛んに試楽が行なわれたが、本賀は蒙古使来朝の情勢のため停止された。ここに見える作者十歳のときとは文永四年の折で、十二月に富小路御所で内々賀の舞が行なわれたが(五代帝王物語)、それではなく、前記、体源抄記載の十一月七日がこれに当るかと思われ、増鏡に五年二月十七日富小路御所での試楽を記しつつ「この試楽よりさきなりしにや、内々白川殿にてこころみありしに」とあるのがそれであろう。
-------

とあり、『増鏡』の記述との関係もきちんと指摘されていますね。
ただ、白河殿の「くわいそ」ですから、これは「会所」と考えるのが自然で、三角洋一校注の『新日本古典文学大系50 とはずがたり・たまきはる』(岩波書店、1994)には、

-------
「会所(くわいしょ)」か。一説に「楽所(がくしょ)」「荒序(くわうじょ)」など。
-------

とあります。(p93)
「会所」で間違いないと思いますが、念のため、後で久保田淳氏の見解を確認してみるつもりです。

>筆綾丸さん
前回投稿の直前に筆綾丸さんが投稿されたのに気づいていませんでした。
失礼しました。

>「近江権守」
ウィキペディアで鷹司兼忠から鷹司兼平(1228-94)、近衛家実(1179-1243)、近衛基通(1160-1233)、近衛基実(1143-66)と遡ってみたところ、

兼平:十一歳で播磨権守
家実:十三歳で備前介、十四歳で美作権守
基通:十二歳で近江介、十六歳で美作権守
基実:九歳で近江介、十一歳で播磨権守

となっていますので、兼忠が異例な訳ではなく、むしろ家の慣例に従っているようですね。
この程度のことでも『公卿補任』で調べたらけっこう手間がかかりそうですが、ウィキペディアは便利ですね。
もちろん信頼性には留保がつきますが、当座の調べものにはありがたいツールです。

鷹司兼平(1228-94)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%85%BC%E5%B9%B3

>さらに退屈な「北山准后九十賀」

「後嵯峨院五十賀試楽」の退屈さに耐えて読み進んだ人の中でも、「巻十 老の波」の「北山准后九十賀」に至って、どうにも我慢できずに通読を断念した人もいたでしょうね。
須磨帰りならぬ北山帰りとでもいうべきでしょうか。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

鼠入 2018/01/30(火) 12:52:54
小太郎さん
詰まらぬ話で恐縮ですが、浅原事件と言うと、四半世紀前の地下鉄サリン事件を思い出しますね。

ウィキの鷹司兼忠に関する記事に、「文永9年7月11日(1272年8月6日) - ? 近江権守」とあって、名門貴族にとって「近江権守」など経歴を汚す以外の何物でもないはずで、絶対有り得ない官職だと思いますが、『公卿補任』の鼠入でしょうか。


六条院四十賀~藤裏葉~ 2018/01/30(火) 16:33:06
小太郎さん
http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined33.3.html#paragraph3.5
「後嵯峨院五十賀試楽」と類似の場面を『源氏物語』に求めれば、六条院(光源氏)の四十賀を述べた第33帖「藤裏葉」の末尾になりますが(引用サイトの3.1.4 ~)、文体も語彙も似ている所が少なく、戸惑いますね。
『源氏物語』では、「藤裏葉」の後に、正編の中で最も優れている「若菜」が続きますが、「若菜」は六条院晩年の没落の序曲であり、直前の「藤裏葉」末尾のさりげなく簡潔な描写が心憎いほど効果的なんですね。
『増鏡』では、「後嵯峨院五十賀試楽」の後に、さらに退屈な「北山准后九十賀」が続きますが、『源氏物語』のようなフィクションとは違うのだ、という作者の意思のようなものを感じます。
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『とはずがたり』に描かれた「後嵯峨院五十賀試楽」と「白河殿くわいそ」

2018-01-30 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月30日(火)13時06分32秒

井上宗雄氏は、実際には文永五年(1268)正月二十四日に、『増鏡』によれば一ヵ月後の閏正月二十四日に行われたとされる「後嵯峨院五十賀試楽」の場面について、

-------
 『増鏡』にしばしば見られる廷臣の服装の精細な記述は、現代の人にとって、ある意味では退屈なものだが、往時の読者は、一読してその色彩を眼中に描きえたのであろう。舞楽の曲名を列挙するのも同様で、読者をしてやはりその演者の姿態を彷彿とせしめたものなのである。その花やかさは、まさに王朝盛時の再現とも見られるのである。
 文永五年の正月、閏正月から二月にかけて、しばしば舞楽が行なわれたので、『増鏡』の記事も日次などは正確でないのだが、ここに記されているように、舞楽御覧・試楽の儀が盛大であったのは確かであろう。鎌倉期貴族はこの程度の豪奢な会を催す力はあったのである。
-------

と書かれていて(『増鏡(中)全訳注』、p122)、碩学・井上宗雄氏ですら、この場面の長大かつ詳細な叙述に些かうんざりされている様子が伺えます。
また、河北騰氏は、この場面について、

-------
 後嵯峨院五十賀の試楽が、実に豪華に、然も絢爛その物の如く行われた。その盛大さを、筆を尽して述べている。舞楽や管弦を演ずる人々の夥ただしい程の人名紹介や、衣装の染織、即ち服飾の説明は、恐ろしい程、詳細を極めているようで、これこそが、正に盛儀であった事の、実際証明だと考えていたのである。
 むしろ、私共には少々退屈な感じの所だが、王朝盛時的な優雅さを、人々に彷彿とさせた文章であったのかと想われる。
-------

と言う具合に(『増鏡全注釈』、p238)、より率直に退屈であることを認めておられます。
『増鏡』を冒頭から読んで行くと、現代人にとってはそれほど興味を惹かれない煩雑な宮中行事の説明が多いのは確かですが、しかし、この「後嵯峨院五十賀試楽」の場面のような異常に詳細な描写は初めてで、現代人のみならず、中世貴族社会の『増鏡』読者にとってすら、何かバランスの悪さを感じさせたのではないかと思います。
私は『増鏡』の著者を『とはずがたり』の著者と同一人物、即ち後深草院二条ではないかと考えているのですが、『とはずがたり』には「後嵯峨院五十賀試楽」に関連する次のような記述があります。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』(講談社学術文庫、1987、p346以下)

-------
 琵琶は七つの年より、雅光の中納言にはじめて楽二三習いて侍りしを、いたく心にも入らでありしを、九つの年より、またしばし御所に教へさせおはしまして、三曲まではなかりしかども、蘇合・万秋楽などはみな弾きて、御賀の折、白河殿くわいそとかやいひしことにも、十にて御琵琶をたどりて、いたいけして弾きたりとて、花梨木の直甲の琵琶の紫檀の転手したるを、赤地の錦の袋に入れて、後嵯峨の院より賜はりなどして……
-------

私は琵琶は七つの年から、叔父の雅光の中納言に初めて二、三曲習ったが、あまり心を入れて稽古しなかったのを、九つの年から、また暫く御所(後深草院)が教えて下さって、三秘曲までには至っていないけれども、蘇合や万秋楽などはみな弾いて、後嵯峨院の御賀の折、「白河殿くわいそ」とかいったときにも、十歳で琵琶をおぼつかないながら御前で弾いて、小さいのに感心によく弾いたというので、花梨木の一枚板で甲を造った琵琶で、紫檀の転手のついたものを、赤地の錦の袋に入れて、後嵯峨院から賜りなどした。

ということで、「白河殿くわいそ」が分かりにくいのですが、次田氏は「未詳。白河殿は白河にあった別業で白河法皇以後院の御所となった所。「くわいそ」は「楽所(がくそ)」(賀のときに舞楽を奏する所)の誤りか。一説に「荒序(くわうそ)」(秘曲の名)とする」とされています。(p350)
私は、「白河殿くわいそ」は『増鏡』の「富小路殿舞御覧」の場面に「この試楽より先なりしにや、内々、白河殿にて試みありしに」と出てくる、白河殿での内々の行事のことではないかと思います。
この場面には、

-------
 万歳楽を吹きて楽人・舞人参る。池のみぎはに桙を立つ。春鴬囀・古鳥蘇・後参・輪台・青海波・落蹲などあり。日ぐらしおもしろくののしりて帰らせ給ふ程に、赤地の錦の袋に御琵琶入れて奉らせ給ふ。刑部卿の君、御簾の中より出だす。右大将取りて院の御前に気色ばみ給ふ。胡飲酒の舞は実俊の中将とかねては聞えしを、父大臣の事にとどまりにしかば、近衛の前の関白殿の御子三位の中将と聞ゆる、未だ童にて舞ひ給ふ。別して、この試楽より先なりしにや、内々、白河殿にて試みありしに父の殿も御簾の内にて見給ふ。若君いとうつくしう舞ひ給へば、院めでさせ給ひて、舞の師忠茂、禄賜はりなどしける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dfa7af54134ac031a3daa1e82e4d01bb

とあって、「赤地の錦の袋に御琵琶入れて奉らせ給ふ」という記述にも『とはずがたり』との類似性を感じます。
「白河殿くわいそ」では鷹司兼平(1228-94)の「若君」「三位の中将」、兼忠(1262-1301)が舞を披露し、後深草院二条(十歳)も琵琶の腕前を披露して、ともに後嵯峨院に褒められ、兼忠の方は師匠が禄を賜り、自分は赤地の錦の袋に入ったとても立派な琵琶を後嵯峨院から賜りました、ということであれば、「後嵯峨院五十賀試楽」が歴史的重要性に乏しい行事であったとしても、また、「白河殿くわいそ」は更に歴史的重要性に乏しい、というか皆無の行事であったとしても、後深草院二条にとっては、それについて詳しく語りたいと望む個人的動機はありそうです。

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『五代帝王物語』に描かれた「富小路殿舞御覧」と「後嵯峨院五十賀試楽」

2018-01-30 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月30日(火)11時47分4秒

それでは『増鏡』の記述と比較するために、『増鏡』著者が参考資料としているのが明らかな『五代帝王物語』の関連部分を見てみます。(『群書類従・第三輯』、p447以下)
『増鏡』には「後嵯峨院五十賀試楽」が文永五年(1268)閏正月二十四日に、「富小路殿舞御覧」が翌二月十七日に行われたと書かれていますが、実際には「富小路殿舞御覧」が文永四年(1267)十二月二十四日に、「後嵯峨院五十賀試楽」が翌文永五年(1268)の閏ではない正月の二十四日に行われており、『五代帝王物語』の記述は史実通りです。

-------
一院はことし<文永五年>四十九にならせおはします。五十の御賀ひきあげて今年あるべしとて、去年より内裏にて楽所始ありて連日に伎楽あり。舞人或は束帯或は衣冠也。去年十月十六日春日社へ御幸有て、宸筆の金泥の唯識論御供養有べきにて有しほどに、前大相国<公相公>俄かに薨ぜらる。所労わづかに両三日也。是によりて御賀の定も延たりしが、十一月十六日南都へ御幸ありて、御願を果させ給ふ。御導師は菩提山大僧正<尊信>なり。
-------

後嵯峨院は今年(文永五年)四十九歳になられる。五十の御賀を一年早く今年行うことになって、去年より内裏にて楽所始があり、連日、伎楽がある。舞人はある者は束帯、ある者は衣冠である。去年十月十六日、春日社への御幸が予定されており、後嵯峨院後宸筆の金泥の唯識論御供養をされることになっていたが、前太政大臣・西園寺公相が僅かに三日ほど病に伏せられたのち、俄かに亡くなられたため、御賀の行事も延期となったが、一ヵ月後に南都御幸があって、後嵯峨院は御願を果たされた。御導師は菩提山大僧正尊信である。

とのことで、西園寺公相はちょっとだけ病んで急死してしまったとありますので、この記述からも『増鏡』の公相死去の場面が創作であることが伺われます。

「巻七 北野の雪」(その12)─「久我大納言雅忠」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/66d3b8d098bb9a94b965e39d20708597

-------
さて十二月には富小路殿にて、内々の御賀の舞、院御覧ありて、人々参りこみてゆゆしき見物也。舞人布衣也。五年正月廿四日、麗はしく院の舞御覧の儀あり。舞人、左には中将実冬朝臣、冬輔朝臣、家長朝臣、少将忠季朝臣、公重、基俊。右には中将経良朝臣、実成朝臣、少将隆良朝臣、実綱等也。童舞には胡飲酒に関白御息<正応関白是也>、陵王に四条大納言隆親卿息<興福寺隆遍法印是也>。
-------

そして十二月には新院(後深草院)御所の富小路殿で「内々の御賀の舞」があり、「院」が御覧になり、人々が大勢集まって大変な見物だったとあります。
この「院」は、そのすぐ後の「五年正月廿四日、麗はしく院の舞御覧の儀あり」という記述から、新院ではなく「一院」、後嵯峨院であることが分かります。
この閏ではない正月二十四日の「院の舞御覧の儀」に登場する舞人は、

左:実冬・冬輔・家長・忠季・公重・基俊
右:経良・「実成」・隆良・「実綱」
童舞:胡飲酒、関白御息<正応関白是也>、陵王、四条大納言隆親卿息<興福寺隆遍法印是也>

とありますので、『増鏡』が閏正月二十四日に行われたとする「後嵯峨院五十賀試楽」の場面と人名及び順番が共通です。
もっとも『増鏡』では「実成」ではなく「実守」ですが、これは両方とも不正確で、人名比定をすると「実盛」が正しいようです。
また、『増鏡』では「実綱」ではなく「実継」ですが、これは『増鏡』が正しいようです。
更に『増鏡』では「陵王の童も、四条大納言の子」とあるのみです。

「巻八 あすか川」(その3)─「陵王の童も、四条の大納言の子」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e774c169862151c1bd9cf00697464171

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もとは楽行事に花山院中納言長雅卿、西園寺中納言実兼卿、胡飲酒に前大相国息<宰相中将実俊是也>と聞し程に、相国薨じて後あらたまりて、楽行事には左衛門督通頼卿、胡飲酒に関白の御息参り給べきになりぬ。楽人、殿上人地下の楽人相交る。舞人楽人みな布衣也。舞人装束、面々に花ををるなど申は猶世のつねの花にあらずことに見ゆ。院の御所冷泉殿にて此儀あり。南庭に座を敷て舞人楽人の座とす。新院東二条院を始まいらせて、御方々あつまらせ給。中務卿宮、僧宮たちも参りあはせ給へり。公卿関白を始て四十三人座につく。座狭によつて透渡殿東西の中門廊迄も着せり。今日胡飲酒の童はまいられず。陵王童<隆遍>ばかり参られけり。何も其曲を施たる有さま、心も詞も及ばず。
-------

もともと「楽行事」には花山院長雅・西園寺実兼が任ぜられ、胡飲酒の舞は前太政大臣公相息の西園寺実俊が舞うと聞いていたが、公相公の死去を受けて「楽行事」には中院通頼がなり、胡飲酒は関白・近衛基平公の御子息が舞われることとなった。【中略】後嵯峨院の御祖、冷泉万里小路殿でこの儀式は行なわれた。

ということで、『増鏡』には「楽行事」についての言及はありませんが、参集した公卿の中には花山院長雅はいても西園寺実兼はおらず、舞人に西園寺実俊(九歳)もいないので、二人が服喪により欠席したことが伺われます。
新院(後深草院)・東二条院・中務卿宗尊親王、後嵯峨院皇子の法親王たちが参集し、大変な盛儀であったらしいことは『増鏡』の描写と同じです。

「巻八 あすか川」(その1)─後嵯峨院五十賀試楽
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/516dab82b9ece210bbbd258cf04d5a02
「巻八 あすか川」(その2)─「二条大納言経輔」の不在
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e4831a8acf5a6dffb71133e2a9281e1c

さて、最後の方、「今日胡飲酒の童はまいられず。陵王童<隆遍>ばかり参られけり」という文章は非常に奇妙です。
「今日」とありますが、この文章は明らかに正月二十四日の「後嵯峨院五十賀試楽」についての記述なので、直前の「胡飲酒に関白の御息参り給べきになりぬ」との関係が分かりません。
この点、『増鏡』においては「後嵯峨院五十賀試楽」に関白息は登場せず、「陵王の童も、四条の大納言の子」とあるだけなので、『増鏡』との整合性は取れています。
しかし、「今日」という表現は、別の日には胡飲酒を「関白の御息」が舞ったが、「今日」は参らず、四条隆親息の「陵王童<隆遍>」だけが参ったということでなければ意味が通じないはずです。
なお、『増鏡』では「後嵯峨院五十賀試楽」の後、二月十七日に行われたとされる「富小路殿舞御覧」において、「胡飲酒の舞は実俊の中将とかねては聞えしを、父大臣の事にとどまりにしかば、近衛の前の関白殿の御子三位の中将と聞ゆる、未だ童にて舞ひ給ふ」とあります。

「巻八 あすか川」(その4)─富小路殿舞御覧
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dfa7af54134ac031a3daa1e82e4d01bb

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「巻八 あすか川」(その4)─富小路殿舞御覧

2018-01-29 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月29日(月)10時58分51秒

「陵王の童も、四条の大納言の子」については、『増鏡』の「富小路殿舞御覧」を見た後で、『五代帝王物語』の記述を参考に改めて検討します。
ということで、続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p123以下)

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 同じ二月十七日に、また新院、富小路殿にて舞御覧、そのあした、大宮の院、まづ忍びて渡らせ給ふ。一院の御幸は日たけてなる。冷泉殿よりただ這ひ渡る程なれば、楽人・舞人、今日の装束にて、上達部などみな歩み続く。庇の御車にて御随身十二人、花を折り、錦をたちかさねて、声々、御さき花やかに追ひののしりて、近くさぶらひつる、二なくおもしろし。
-------

同じ文永五年(1268)二月十七日に、また後深草院が富小路殿にて舞を御覧になった。その朝、大宮院がまずお忍びでおいでになり、後嵯峨院の御幸は日が高くなってからであった。後嵯峨院御所の冷泉殿からは這って行けるほどの近さなので、楽人・舞人は今日舞楽を行なうままの姿で参上し、公卿もみな徒歩で続いた。後嵯峨院は網代庇の車で、御随身は十二人、花を折り、錦を裁ち重ねたような美しい装束で、先払いの声を華やかに立てて、御車の近くに侍しているのはこの上なく面白い。

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 新院は御烏帽子直衣・御袴きはにて、中門にて待ち聞えさせ給へる程、いと艶にめでたし。御車中門に寄せて、関白殿、御佩刀とりて御匣殿に伝へ給ふ。二重織物の萌黄の御几帳のかたびらを出だされて、色々の平文の衣ども、物の具はなくておし出ださる。今日は正親町の院も御堂の隅の間より御覧ぜられる。大臣・上達部、ありしに変はらず。なほ参り加はる人は多けれど、漏れたるはなし。
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後深草院は御烏帽子・直衣、御袴程度の御衣裳で、中門でお待ち申し上げていらっしゃる様子はあでやかで美しい。御車を中門に寄せて、関白・近衛基平公は後嵯峨院の御はかしを取られて御匣殿へお渡しになる。女房たちは、御几帳にかけてある二重織物の萌黄のかたびらを出されて、紋をさまざまに彩って染めた衣などを、屏風などの調度はなくて、御几帳の下から押し出している。今日は正親町院も御堂の隅の間から御覧になる。大臣・公卿は先の試楽の折と変わらない。新たに加わった人は多いが、漏れた人はいない。

ということで、深心院関白・近衛基平(1246-68)は前年十二月に関白になったばかりです。
ただ、この年の十一月に二十三歳の若さで病死してしまいます。

近衛基平(1246-68)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E5%B9%B3

「御匣殿」について、岩波体系は「後嵯峨院の妃、性助法親王の母をさす。御匣殿は宮中の中にあって、御服の裁縫などをつかさどった御匣殿の別当をいい、身分の高い女官がつとめた」(p332)としていますが、井上氏は「ここではだれか不明。太政大臣公房女、御匣殿(性助法親王ら母)かともいわれるが、『葉黄記』によると宝治元年八月十五日に没している」とされています。
正親町院(1213-85)は土御門院皇女、後嵯峨院の姉ですね。

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 実冬、今日は花田うら山吹狩衣、二重うち萌黄裏など、思ひ思ひ心々に、さきみなひきかへて、さまざま尽くしたり。基俊の少将、このたびは桜萌黄の五重の狩衣、紅の匂ひの五衣、打衣は山吹の匂ひ、浮織物の三重ひとへ、紫の綾の指貫、中にすぐれてけうらに見え給へり。この度は多く緑苔の衣を着たり。
-------

滋野井実冬・堀川基俊については試楽の際に説明しました。
衣装については省略します。

-------
 万歳楽を吹きて楽人・舞人参る。池のみぎはに桙を立つ。春鴬囀・古鳥蘇・後参・輪台・青海波・落蹲などあり。日ぐらしおもしろくののしりて帰らせ給ふ程に、赤地の錦の袋に御琵琶入れて奉らせ給ふ。刑部卿の君、御簾の中より出だす。右大将取りて院の御前に気色ばみ給ふ。胡飲酒の舞は実俊の中将とかねては聞えしを、父大臣の事にとどまりにしかば、近衛の前の関白殿の御子三位の中将と聞ゆる、未だ童にて舞ひ給ふ。別して、この試楽より先なりしにや、内々、白河殿にて試みありしに父の殿も御簾の内にて見給ふ。若君いとうつくしう舞ひ給へば、院めでさせ給ひて、舞の師忠茂、禄賜はりなどしける。
-------

一日中面白く遊び騒いで、御帰りの折に、後深草院は赤地の錦の袋に御琵琶を入れて後嵯峨院に献上される。刑部卿の君がこれを御簾の中から出されて、右大将・花山院通雅が受け取って後嵯峨院の御前に奉呈する。胡飲酒の舞は中将・西園寺実俊がされると聞いていたが、父・公相が亡くなったため中止となり、前関白・鷹司兼平公の御子、三位の中将(兼忠)と申す方が、まだ童であったがお舞いになる。この試楽より前であったか、白河殿にて内々の舞の試みがあり、父・兼平公も御簾の中で御覧になった。この度も若君がとても可愛らしく舞われたので、後嵯峨院がお褒めになって、舞の師の忠茂に禄を賜るなどされた。

ということで、「刑部卿の君」については以前検討しましたが、琵琶の名手、「刑部卿孝時女。後嵯峨院後宮。覚助法親王らの母」(p128)ですね。

「刑部卿の君」考
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1142af01bd5c7e08644f57dbf5f2558

鷹司兼平(1228-94)の「若君」「三位の中将」は兼忠(1262-1301)で、文永五年(1268)には僅か七歳です。

鷹司兼忠(1262-1301)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%85%BC%E5%BF%A0

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「巻八 あすか川」(その3)─「陵王の童も、四条の大納言の子」

2018-01-28 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月28日(日)13時07分16秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p115以下)

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 時なりて舞人ども参る。実冬の中将、唐織物の桜の狩衣、紫の濃き薄きにて梅を織れり。赤地の錦の表着、紅の匂ひの三つ衣、同じ単、しじらの薄色の指貫、人よりは少しねびたるしも、あな清げと見えたり。
-------

「実冬の中将」は滋野井実冬(1243-1303)で、滋野井家は閑院流三条家の庶流ですね。
以下、衣装の説明は省略します。

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 大炊御門の中将冬輔と言ひしにや、装束さきのにかはらず。狩衣はひら織物なり。花山院の中将家長<右大将の御子>魚綾の山吹の狩衣、柳桜を縫物にしたり。紅の打衣をかかやくばかりだみかへして、萌黄の匂ひの三つ衣、紅の三重の単、浮織物の紫の指貫に、桜を縫物にしたり。珍しくうつくしく見ゆ。
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大炊御門冬輔(1248-?)は前内大臣・冬忠(1218-68)の次男です。
花山院家長(1253-74)は後に太政大臣となる通雅(1232-76)の長男ですが、五年後に二十一歳で早世しています。

花山院家長(1253-74)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E5%AE%B6%E9%95%B7

-------
 花山院の少将忠季<師継の御子なり>、桜の結び狩衣、白き糸にて水をひまなく結びたる上に、梅柳をそれも結びてつけたる、なまめかしく艶なり。赤地の錦の表着、金の文を置く。紅の二つ衣、同じ単、紫の指貫、是も柳桜を縫物に色々の糸にてしたり。中宮の権亮の少将公重<実藤の大納言の子>、唐織物の桜萌黄の狩衣、紅の打衣、紫の匂ひの三つ衣、紅の単、指貫、例の紫に桜を白く縫ひたり。
-------

花山院忠季は後に内大臣となる師継(1222-81)の息子ですが、『尊卑分脈』に「左中将、早世」とあります。
「中宮の権亮の少将公重」は室町公重(1256-85)で、父は西園寺公経の晩年の子、実藤(1227-98)です。

-------
 堀川の少将基俊、唐織物、裏山吹、三重の狩衣、柳だすきを青く織れる中に、桜を色々に織れり。萌黄の打衣、桜をだみつけにして、輪ちがへを細く金の文にして、色々の玉をつく。匂ひつつじの三つ衣、紅の三重の単、こも箔散らす。
-------

堀川基俊(1261-1319)は後に太政大臣となる堀川基具(1232-97)の息子です。
この年、僅か八歳ですね。
基俊は正応二年(1289)、第八代将軍となった久明親王の随行者筆頭として鎌倉に下向しますが、『増鏡』の「巻十二 浦千鳥」には、「また一条摂政殿の姫君も、当代、堀河の大臣の家に渡らせ給ひし頃、上臈に十六にて参り給ひて、初めつ方は基俊の大納言うとからぬ御中にておはせしかば、彼の大納言東下りの後、院に参り給ひし程に、殊の外にめでたくて、内侍のかみになり給へる、昔おぼえておもしろし」という些か謎めいた記述があります。
この部分については後で詳細に検討します。

-------
 二条の中将経良<良教の大納言の御子也>、これも唐織物の桜萌黄、紅の衣、同じ単なり。皇后宮権亮中将実守、これも同じ色々、樺桜の三つ衣、紅梅の三重の単、右馬頭隆良<隆親の子にや>、緑苔の赤色の狩衣、玉のくくりを入れ、青き魚綾の表着、紅梅の三つ衣、同じ二重の単、うす色の指貫、少将実継、松がさねの狩衣、紅の打衣、紫の二つ衣、是も色々の縫物、置物など、いとこまかになまめかしくしなしたり。
-------

二条経良(1250-90)は先に「二条大納言良教」として登場している近衛家諸流、粟田口良教(1224-87)の子です。
「皇后宮権亮中将実守」は閑院流三条家の三条公泰(1231-?)の子の三条実盛(?-1304)です。
この人は生年がはっきりしませんが、建長五年(1253)に叙爵して当初は順調に出世したものの、間もなく昇進がストップし、弘安九年(1296)にやっと参議、そして正四位下から従三位になった程度ですからそれほどの経歴ではありません。
ただ、正応三年(1290)の浅原事件に際して、三条家に伝わる鯰尾という刀を浅原為頼に渡したのではないかという嫌疑で逮捕されたことで有名な人ですね。

浅原事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E5%8E%9F%E4%BA%8B%E4%BB%B6

「右馬頭隆良」は四条隆親(1203-79)の末子・隆良(?-1296)で、康元元年(1256)叙爵ですが、公卿になれたのは正応元年(1288)とずいぶん遅く、同五年(1292)に参議、永仁三年(1295)に権中納言となっていますが同年中に辞し、翌永仁四年に死去しています。
この人自身はそれほどの経歴の持ち主ではありませんが、鷲尾家の祖であって、子孫はそれなりに繁栄します。
「少将実継」について、井上氏は「三条公親男か。『尊卑分脈』に「右中将 正四位下」とある。早世したのであろう」(p121)と書かれています。
三条公親(1222-92)は公泰の兄なので、実盛と実継は従兄弟の関係になります。

三条公親(1222-92)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%85%AC%E8%A6%AA

-------
 陵王の童も、四条の大納言の子、装束常のままなれど、紫の緑苔の半尻、金の文、赤地の錦の狩衣、青き魚綾の袴、笏木のみなゑり骨、紅の紙にはりて持ちたる用意けしき、いみじくもてつけて、めでたく見え侍りけり。笛茂通・隆康、笙公秋・宗実、篳篥兼行、太鼓教藤、鞨鼓あきなり、三の鼓のりより、左、万歳楽、右、地久、陵王、輪台、青海波、太平楽、入綾、実冬いみじく舞ひすまされたり。右、落蹲、左、春鴬囀、右、古鳥蘇、後参、賀殿の入綾も、実冬舞ひ給ひしにや。
 暮れかかる程、何のあやめも見えずなりにき。御方々、宮達あかれ給ひぬ。
-------

井上氏は「四条の大納言の子」について、「当時、四条家では前大納言が隆親。なお前中納言隆行、権中納言隆顕らもおり、隆行とすると、その子の一人、隆久辺かとも思われるが、『深心院関白記』によると、陵王を舞ったのは隆親の子という。ただし隆親はこの年六十七歳だから、童舞をするような子を持っていたか、疑問が残る」(p121)とされています。
井上氏は何故か『五代帝王物語』を参照されていませんが、これは同書に「陵王に四条大納言隆親卿息<興福寺隆遍法印是也>」とある隆遍ですね。
この点については後述します。
楽人については省略します。

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久我家の相続争い

2018-01-27 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月27日(土)16時52分57秒

>キラーカーンさん
>1 雅忠のすぐ下の弟(中院雅光)の生母が、その西園寺家に庇護を求めた後妻では?との記述もある

これは明らかな誤りですね。
久我家の相続争いについては岡野友彦氏の『中世久我家と久我家領荘園』(続群書類従完成会、2002)が一番詳しいはずですが、今は手元にないので、代わりに國學院大學久我家文書特別展示開催実行委員会編『特別展観 中世の貴族─重要文化財久我家文書修復完成記念』(國學院大學、1996)の小川信「久我家文書と久我家領」から少し引用してみます。(p9以下)

-------
 三 久我家領の成立と展開

 中院流家領目録草案(一六号)は、平安末期の中院右大臣雅定の陸奥から豊前にわたる七一ヶ所に上る家領で、中院流諸家の家領の淵源がわかる。またこれらの家領の多くが皇室を本家と仰ぎ、その領家職や預所職を保ったものであったことから、当時の中院流村上源氏の皇室との経済的結合の在り方がわかる。しかしこの多数の家領は分割相続、さらに他家への譲与や寺社への寄進によって、しだいに分散していった。【中略】
 しかも「久我家根本家領相伝文書案」(一七号<一>~<八>)によって知られるように、鎌倉中期には、久我家に伝領された諸荘をめぐって一族間に相続争いが起こり、結局家領の一部は縁故関係を通じて鎌倉末期に他家の家領となった。すなわち久我通光が遺産のすべてを夫人三条(西蓮)に譲って逝去すると、通光の嫡子通忠はただちに継母三条を相手として後嵯峨上皇に訴え、その結果、久我荘は通忠の領有、その他の荘園は三条の領有などとする院宣が下った。やがて西蓮(三条)は肥後国山本荘・近江国田根荘・伊勢国石榑荘(御厨)の三荘をその娘如月に、その死後は西園寺実兼夫人源顕子(如月の従兄弟中院通成の娘)に譲ることを条件として譲り、如月はやがて母の条件を守って顕子に譲った。
 こうして根本家領のうち久我家嫡流に留まったのは久我荘のみとなり、山本等の三荘は関東申次として鎌倉幕府と結び権勢を誇る西園寺家に帰した。なお田根荘は顕子から嫡子西園寺公衡に譲られ、公衡は同荘を春日社に寄進し、興福寺東北院門跡の管轄とした。この間久我通光の孫中院雅相(中院雅忠の子)は如月を相手取って家領回復の訴訟を起こしたが、西園寺公衡にたいして後宇多上皇の院宣が下り、雅相の主張は退けられた。やがて鎌倉幕府の滅亡などにより西園寺家が権勢を失うと、久我家当主長通は家領回復運動を起こして成功したと推定され、田根荘は康永元年(一三四一)の足利直義裁許状(刊六二号)に「領家久我太政大臣(長通)家とある。
-------

この文章は肝心な部分に誤りがあって、中院雅相は中院雅忠(1228-72)の子ではなく、雅光(1226-67)の子です。
雅忠の子なら後深草院二条の兄弟となるので、最初に見たときはドキッとしましたが、これは同書p43の系図からも明らかなように小川氏のケアレスミスです。
さて、久我通光(1187-1248)は宝治元年(1247)十二月三日付の置文で、「久我をはじめとして庄々・家の宝物・日記・文書にいたるまで、一向女房〔三条〕のさた〔沙汰〕にてあるへし、ただし、子とおもひたるは大納言・三位中将・中将・姫御前、これぞ子と思て候」という具合に、多くの子のなかで大納言(通忠)・三位中将(雅光)・中将(雅忠)・姫御前(如月)だけを自分の子と思うと言いながら、その相続分などは定めず、全財産を三条の管理に委ねてしまいます。
通忠は直ちに訴訟を提起しますが、宝治二年(1248)閏十二月二十九日付の後嵯峨院院宣では、通忠は久我荘だけ、雅光は家記を書き写すことができるだけ、残りは全部三条のものとされます。
雅光の息子・雅相が後になって三条(西蓮)の娘・如月と訴訟したことから明かなように、雅光自身も三条と敵対する立場で、三条の子ではありえないですね。
後嵯峨院の院宣に雅忠の名は出て来ませんが、『とはずがたり』によれば、雅忠と三条の関係は良好だったようです。

>2 ウィキペディアでは通忠の息子で中院を名乗ったのは雅光だけ

通忠ではなく通光の息子の話だと思いますが、これも明らかな誤りで、『公卿補任』を見ると、雅光の家名は一貫して「久我」ですね。

久我通光(1187-1248)

なお、少し検索してみたところ、ネットでも安田徳子氏の「式乾門院御匣について」という論文を読むことができますが、安田氏は式乾門院御匣という阿仏尼とも親しかった女流歌人を「如月」だとされていますね。
この論文は久我家の相続争いに関しても大変参考になります。

安田徳子「式乾門院御匣について」

※キラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

駄レス 2018/01/27(土) 01:40:06
ウィキペディアの久我通光の項には

通光の没後に後妻と先妻の子である嫡男久我通忠との間で家領相論が発生して大きな禍根を残した。
すなわち不利となった後妻側は鎌倉幕府との関係が深い有力公家である西園寺家に久我家領を譲ることを条件に庇護を求めたため
(改行引用者)

とあります。
同じ、久我通忠の項には、
1 雅忠のすぐ下の弟(中院雅光)の生母が、その西園寺家に庇護を求めた後妻では? との記述もある
2 ウィキペディアでは通忠の息子で中院を名乗ったのは雅光だけ
という事で、

>>雅忠は一貫して「中院」であり「久我」ではありません

という事であれば、雅忠が中院を名乗ったのもその後妻(ひいては西園寺家)との関係を通じてという推測も出来ます。
既に専門家によって潰された論点であれば、それで構わないのですが。
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「巻八 あすか川」(その2)─「二条大納言経輔」の不在

2018-01-26 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月26日(金)22時45分13秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p110以下)

※ <>は本文中に少し小さな字で書いていることを示し、〔〕は本文右横に小さく書かれていることを示しています。井上著にはなく、私が用いている記号です。

-------
 御前の簀子に、関白をはじめ、右大臣〔基忠〕・内大臣〔家経〕・兵部卿<隆親>・二条大納言<良教>・源大納言<通成>・花山院大納言<師継>・右大将<通雅>・権大納言<基具>・一条中納言<公藤>・花山院中納言<長雅>・左衛門督<通頼>・中宮権大夫<隆顕>・大炊御門中納言<信嗣>・前源宰相<有資>・衣笠宰相中将<経平>・左大弁宰相<経俊>・新宰相中将<具氏>・別当<公孝>・堀川三位中将<具守>・富小路三位中将<公雄>、みな御階の東につき給ふ。
 西の第二の間より、また前左大臣<実雄>・二条大納言<経輔>・前源大納言<雅家>・中宮大夫<雅忠>・藤大納言<為氏>・皇后宮大夫<定実>・四条大納言<隆行>・帥中納言<経任>、このほかの上達部、西・東の中門の廊、それより下ざま、透渡殿・うち橋などまで、着き余れり。みな直衣に色々の衣かさね給へり。
-------

煩瑣な人名列挙ですが、『公卿補任』に基づき登場順に家名・年齢だけ記しておきます。
まずは御階の東側に着座した人々です。
「左大弁宰相」とある吉田経俊が実際には権中納言であるなど、『公卿補任』と若干の異同がありますが、『公卿補任』に従います。

関白・近衛基平(23)、右大臣・鷹司基忠(22)、内大臣・一条家経(21)、兵部卿(前大納言)四条隆親(67)、大納言・二条良教【粟田口】(45)、大納言・中院通成(47)、権大納言・花山院師継(47)、右大将(権大納言)・花山院通雅(37)、権大納言・堀川基具(37)、中納言・一条公藤【閑院】(34)、中納言・花山院長雅(33)、権中納言(左衛門督)・中院通頼(37)、権中納言(中宮権大夫)・四条隆顕(26)、権中納言・大炊御門信嗣(33)、権中納言・源有資(65)、参議・衣笠経平【近衛】(32)、参議・吉田経俊(51)、参議・中院具氏(37)、参議(検非違使別当)・徳大寺公孝(16)、右中将・堀川具守(20)、権中納言・小倉公雄(不詳)

「富小路三位中将公雄」とある小倉公雄(洞院実雄男)は実際には権中納言正三位で、弟の従三位左中将・公守(20)との混同があるようです。
次いで、御階の西側に着座した人々です。

前左大臣・洞院実雄(52)、「二条大納言経輔」(後述)、前権大納言・北畠雅家(54)、権大納言(中宮大夫)・中院雅忠(41)、前権大納言・二条為氏【御子左】(47)、権大納言(皇后宮大夫)・土御門定実(28)、前権中納言・四条隆行(45)、「帥中納言経任」(後述)

こちらも『公卿補任』との間で若干の異同がありますが、奇妙なのは「二条大納言経輔」という人物が存在しないことで、この時期に「二条大納言」といえば、既に登場済みの「二条大納言良教」、即ち近衛流の粟田口良教(45)か、あるいは権大納言・二条師忠(15)となりそうです。
井上氏も「このころ、経輔という公卿はいず、二条大納言と称せられたのは師忠」と言われています。(p114)
また、「帥中納言経任」とありますが、中御門経任(1233-97)はこの時期、「中納言」どころか公卿にもなっていません。
もっとも中御門経任は翌文永六年(1269)に従四位下で参議になった後に従三位となり、更に文永七年に権中納言に昇進し、文永八年(1271)には大宰権帥を兼ねるという具合に異例の昇進を重ねているので、「帥中納言経任」も僅かな勘違いで済みます。
しかし、「二条大納言経輔」はいかにも不審であり、特に二条良基を『増鏡』作者ないし監修者とする立場からは、このような明らかに摂関家の二条家を連想させる表現に雑な記載がなされている点について、若干の説明が必要になるのではないかと思います。
私は『増鏡』における二条師忠の扱いに作者の師忠への悪意を感じるので、私の立場からは、ここは単純な誤記ではなく、何か意図的なものではないか、という疑いが生じてきます。
ま、意図的といっても、せいぜいちょっとした悪戯程度のものだとは思いますが。
なお、平安中期に藤原経輔(水無瀬大納言)という人物がいますが、暴力沙汰ばかり起こしている奇人ですね。

藤原経輔(1006-81)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B5%8C%E8%BC%94

『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その1)~(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f8d88dea48f0f0b22372df0e76cea399
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6dd0180907906ee5c8b394b59efaa374
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fd7cde400fd771b8419e4f6d945796a9
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0efc706949a928b66c77229605401cfa
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/df0899e23c002603657e1e65c0542a0c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/63e01f197758952dbbce5da971f4a727
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6984d0e5c497123d2681603d4982983
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6d25d5d082f4bcb4b7482904bece4143

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「巻八 あすか川」(その1)─後嵯峨院五十賀試楽

2018-01-26 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月26日(金)18時08分17秒

「巻七 北野の雪」では、もう少し検討しておきたい幾つかの論点がありました。
例えば『増鏡』作者は後嵯峨院政下での最初の勅撰集、即ち藤原定家の息子の為家が単独で撰進し、建長三年(1251)十二月に奏覧となった『続後撰集』を全く無視していながら、当初は為家に撰集が命じられ、その後、御子左家に敵対的な真観らが撰者に追加された『続古今集』については好意的な記述をしていますが、これは『増鏡』の作者を御子左家関係者とする学説との関係で、かなり重要な問題です。

「巻七 北野の雪」(その10)─続古今集
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/95dba62ef98dd9a1836c1161e16bc0f8

ただ、私は歌壇史が苦手で、たいした議論もできそうもないので、まずは『増鏡』全体を読み通すことを優先したいと思います。
ということで、「巻八 あすか川」に入ります。
最初は文永五年(1268)、後嵯峨院五十賀試楽の場面です。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p109以下)

-------
巻八 あすか川

 ひま行く駒の足にまかせて、文永も五年になりぬ。正月廿日本院のおはします富小路殿にて今上の若宮御五十日聞し召す。いみじうきよらを尽さるべし。
 今年正月に閏あり。後の廿日余りの程に、冷泉殿にて舞御覧あり。明けん年、一院五十に満たせ給ふべければ、御賀あるべしとて、今より世の急ぎに聞ゆ。楽所始めの儀式は内裏にてぞありける。試楽、廿三日と聞えしを、雨ふりて明くるつとめて人々参り集ふ。新院はかねてより渡らせ給へり。寝殿の御階の間に一院の御座設けたり。その西によりて、新院の御座。東は大宮院・東二条院、みな白き御袴に二つ御衣奉れり。聖護院の法親王・円満院など参り給ふ。土御門の中務の宮も参り給ふ。上達部・殿上人あまた御供し給へり。仁和寺の御室・梶井の法親王なども、すべて残りなく集ひ給ふ。
-------

月日はたちまち過ぎ去り、文永五年(1268)となった。正月二十日、後嵯峨院のいらっしゃる富小路殿で、今上天皇の若宮が五十日の祝いのお餅を召し上がる。その儀式は大変美々しく行われたであろう。
閏正月二十日余りの頃、冷泉殿にて舞楽を御覧になる。来年は後嵯峨院が五十歳になられるので、そのお祝いの儀式を今から準備申し上げる。楽所始めの儀式は内裏で行われた。試楽は二十三日ということであったが、雨が降ったので翌朝、人々が参集した。後深草院は予めお越しになられていた。寝殿の御階の間に後嵯峨院の御座を設けた。その西に寄って後深草院の御座がある。東側は大宮院・東二条院で、みな白い御袴に同じ色の袿を二枚重ねてお召しになる。聖護院の覚助法親王、円満院の円助法親王などが参上される。土御門殿の中務卿宗尊親王も参られる。上達部・殿上人が大勢お供をされた。仁和寺御室性助法親王、梶井の最助法親王なども、皆残りなく参集される。

ということで、「試楽」(予行練習)という名目でありながら、実際には本格的な儀式が始まることになります。
中務卿宗尊親王は既出ですが、聖護院の覚助法親王(母は藤原孝時女博子、1247-1336)、円満院の円助法親王(1236-82)、仁和寺御室の性助法親王(1247-82)、梶井の最助法親王(1253-93)も全て後嵯峨院皇子です。

-------
 月花門院・花山院准后などは大宮院のおはします御座に、御几帳おしのけて渡らせ給ふ。寝殿の第四の間に、袖口ども心ことにておし出さる。大納言の二位殿、南の御方など、やんごとなき上臈は院のおはします御簾の中にひきさがりてさぶらひ給ふ。いづれも白き袴に二つ衣なり。東の隅の一間は大宮院・月花門院の女房ども参り集ふ。西の二間に新准后さぶらひ給ふ。
-------

月花門院(1247-67)は後深草院の同母妹で、少し後に彼女をめぐる「愛欲エピソード」が出てきます。
花山院准后は西園寺実氏室の四条貞子(1196-1302)で、『増鏡』には邸宅の所在により「常盤井准后」「北山准后」の別名でも登場します。
「大納言の二位殿」について、井上氏は「「内野の雪」に「内の御めのと」とある女性か」(p113)とされていますが、「やんごとなき上臈」とのことなので私もそれで良いと思います。
源通親の娘、親子ですね。

「巻五 内野の雪」(その2)─中宮(姞子)の懐妊
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9326b718a86a34828915d0e7fade3f27

「南の御方」はちょっと分かりません。
文永二年(1265)に後深草院皇子(後の伏見天皇)を生んだ「東の御方」(洞院愔子、1246-1329)ならばこの場にもふさわしいような感じがしますが、井上氏は簡単に「伝不明」とされるだけで(p113)、誤記等の事情もないようです。

「巻七 北野の雪」(その9)─洞院愔子(玄輝門院)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5ee450f471d7375932b72203f9804b9b

「新准后」は宗尊親王の母、平棟子ですね。

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「巻七 北野の雪」(その14)─「たとひ御末まではなくとも、皇子一人」

2018-01-26 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月26日(金)13時13分30秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p104以下)

-------
 上も限りなき御心ざしにそへて、いよいよ思すさまに嬉しと聞しめす。大臣も今ぞ御胸あきて心おちゐ給ひける。新院の若宮もこの殿の御孫ながら、それは東二条院の御心のうちおしはかられ、大方もまた、うけばりやむごとなき方にはあらねば、よろづ聞しめし消つさまなりつれど、この今宮をば、本院も大宮院も、きはことにもてはやし、かしづき奉らせ給ふ。これも中宮の御ため、いとほしからぬにはあらねど、いかでかさのみはあらんと、西園寺ざまにぞ一方ならず思しむすぼほれ、すさまじう聞き給ひける。
-------

亀山天皇も皇后宮を限りなく寵愛されていたが、皇子が生まれていよいよ嬉しいと思われた。実雄公も今こそ胸中晴れ晴れとして心が落ち着かれた。後深草院の若宮(後の伏見天皇)も実雄公の御孫ではあるが、そちらは(皇子のいない)東二条院の御心中も推察され、だいたい、若宮はだれ憚ることのない尊い方という訳でもない方だから、後嵯峨院も大宮院も万事につけて軽く聞き流されておられるが、この新たに生まれた皇子は、後嵯峨院も大宮院も格別に大切になさる。これも中宮(嬉子)のためにはお気の毒でない訳でもないが、どうしてそんなに遠慮ばかりしていられようかと(実雄方は振舞い)、西園寺家の方では非常に不愉快で、興ざめなことだとお聞きになる。

ということで、西園寺家と洞院家の複雑な対立が描かれます。
このあたり、微妙な文章が続きますが、分かりにくいところは井上氏の訳に依拠しました。

さて、この皇子誕生の場面には『増鏡』作者の西園寺家と洞院家に対する態度の違いが明瞭に出ているように思われます。
『増鏡』作者は西園寺家に対しては絶賛を重ねていますが、洞院家には冷淡であるばかりか、積極的な悪意があるように思います。
そもそも「巻七 北野の雪」の最初の方に出てきた洞院公宗が同母妹の佶子を恋慕していたというエピソードは、単に洞院家にとって極めて不愉快であるばかりではなく、いったい佶子が生んだ姫宮・若宮は誰の子なんだ、後宇多天皇の父親は誰なんだ、という不穏な連想を生じさせる話です。
洞院公宗は弘長三年(1263)に二十三歳の若さで死んでいて、文永四年(1267)に生まれた後宇多天皇の父親にはなりえませんが、別に『増鏡』に公宗の死が記されている訳でもなく、普通に『増鏡』を読み進めて行くと妙な連想をする人は決して少なくないはずです。
国文学者の中には洞院公賢(1291-1360)が『増鏡』の作者だという人がいますが、今までに見てきた洞院家の家祖・実雄に関する描写や公宗・佶子のエピソード、そして佶子が書いたという不吉な願文、「たとひ御末まではなくとも、皇子一人」を考慮すれば、洞院公賢作者説は全く成り立ちえないと私は考えます。

「巻七 北野の雪」はこれで終わりです。

洞院公賢(1291-1360)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E9%99%A2%E5%85%AC%E8%B3%A2
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「巻七 北野の雪」(その13)─皇子(後宇多天皇)誕生

2018-01-26 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月26日(金)12時25分55秒

続きです。
洞院佶子(京極院、1245-72)が皇子(後宇多天皇、1267-1324)を産む場面です。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p103以下)

-------
 皇后宮は日にそへて御覚えめでたくなり給ひぬ。姫宮・若宮など出で物し給ひしかど、やがて失せさせ給へるを、御門をはじめ奉りて、たれもたれも思し嘆きつるに、今年又その御気色あれば、いかがと思し騒ぎ、山々寺々に御祈りこちたくののしる。こたみだに、げに又うちはづしては、いかさまにせんと、大臣・母北の方も安き寝も寝給はず、思し惑ふこと限りなし。
-------

皇后宮(佶子)は日増しに御寵愛が深くなって行かれた。姫宮・若宮の御誕生もあったが、まもなく亡くなったのを亀山天皇を始め誰もお嘆きになっていたが、今年また妊娠の御気配があったので、どうなることかと心配なさって、山々寺々で大規模に御祈祷をされる。今度また失敗であったらどうしようと、実雄公や母北の方も安眠できず、御心配なさること限りがない。

ということで、皇子誕生を期待しての大騒ぎが続きます。
佶子の母は、かつて佶子を恋慕し、この時点では既に死んでいる兄の公宗(1241-63)、そして公宗亡き後に嫡子となった公守(1249-1317)と同じく、「法印公審女、従二位栄子」で、法印公審は徳大寺公能孫、実快男ですね。
法印公審は法勝寺執行で裕福だったらしく(『葉黄記』)、また、琵琶の世界でもそれなりの存在だったようで、『文机談』にかなり詳しい記事があります。(岩佐美代子『校注 文机談』、p114以下)

-------
 程近くなり給ひぬとて、土御門殿、承明門院の御跡へ移ろひ給ふ。世の中ひびきて、天下の人高きも下れるも、つかさある程のは参りこみてひしめきたつに、殿の内の人々はまして心も心ならず、あわたたし。大臣、限りなき願どもをたて、賀茂の社にも、かの御調度どもの中に、すぐれて御宝と思さるる御手箱に、后の宮みづから書かせ給へる願文入れて、神殿にこめられけり。
-------

出産の時期が近くなられると、承明門院の御所だった土御門殿に移られた。世間は大騒ぎで、天下の人は身分が高い人も低い人も、官途についているほどの人は皆参って混み合っているほどだが、身内の人はまして気が気でなく、落ち着かない。実雄公はこの上ない祈願などを立て、賀茂社にも、皇后の御調度の中でも特に優れていて立派なお宝と思われる御手箱に、皇后自らがお書きになった願文を入れて、神殿にお納めになった。

ということで、ここまではごく自然に読み進めることができるのですが、この後に不可解な文章があります。

-------
 それには、「たとひ御末まではなくとも、皇子一人」とかや侍りけるとぞ承りし、まことにや侍りけん。かくいふは文永四年十二月一日なり。例の御物のけどもあらはれて、叫びとよむさま、いとおそろし。されども御祈りどものしるしにや、えもいはずめでたき玉の男の子みこ生まれ給ひける。その程の式、いはずともおしはかるべし。
-------

その願文には、「たとえ御子孫まではなくとも、皇子一人だけ(を授けてください)」とかお書きになったと承ったが、それは本当のことだろうか。こういうのは文永四年十二月一日のことである。例の通り御物の怪たちが現われて叫び騒ぐ様子は本当に恐ろしい。けれども御祈祷の効験であろううか、何ともいえず立派な玉のような皇子がお生まれになった。その後の儀式は言わなくても想像できるであろう。

ということで、皇后宮の佶子が自身で書いて賀茂社に納めた願文には「たとひ御末まではなくとも、皇子一人」と書いてあったのだそうです。
井上氏は「たとえ、御子孫までの繁栄はなくとも、皇子一人を授けてください」と訳されていますが(p105)、繁栄云々は井上氏の解釈で、原文は皇子さえ生まれれば、その子孫の存在そのものがなくても良い、という書き方です。
洞院家にしてみればずいぶん不吉な願文であり、また、このとき生まれた後宇多天皇やその子孫が見れば非常に不愉快な話ですが、これは本当のことだったのか。
まあ、ここも例によって「まことにや侍りけん」「その程の式、いはずともおしはかるべし」と語り手の老尼がちょこっと顔を出している場面であることも考慮すると、私は『増鏡』作者の作り話ではなかろうかと思います。
まだ途中なのですが、いったん、ここで切ります。
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「巻七 北野の雪」(その12)─「久我大納言雅忠」

2018-01-25 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月25日(木)18時45分1秒

続きです。
文永四年(1267)、西園寺公相が父・実氏に先だって死ぬ場面です。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p98以下)

-------
 日ごろ、長雨降りて少し晴れ間見ゆるほど、空の気色しめやかなるに、二条富小路殿に、本院・新院ひとつに渡らせ給ふころ、ことごとしからぬ程の御遊びあり。大宮院・東二条院も、御几帳ばかりへだてておはします。御前に太政大臣<公相>・常盤井の入道殿<実氏>・左の大臣<実雄>・久我大納言<雅忠>など、むつましき限りさぶらひ給ひて、御酒参る。
-------

幾日も長雨が続いて少し晴間が見えたころ、空の趣きもしめやかな折、二条富小路殿に本院(後嵯峨院)・新院(後深草院)が御一緒にいらっしゃるとき、それほど大げさではない管弦の遊びがあった。大宮院・東二条院も御几帳だけ隔てていらっしゃる。御前に太政大臣公相公、常盤井入道実氏公、前左大臣実雄公・久我大納言雅忠公など、親しい関係の方々だけが伺候されて、お酒を召しあがる。

ということで、「久我大納言雅忠」が初めて登場します。
この人は『とはずがたり』の作者、後深草院二条の父親ですね。
西園寺実氏(1194-1269)を中心に、その二十五歳下の異母弟・洞院実雄(1219-73)、嫡子の西園寺公相(1223-67)、実氏と正室・四条貞子との間に生まれた大宮院(1225-92)とその夫・後嵯峨院(1220-72)、同じく東二条院(1232-1304)とその夫・後深草院(1243-1304)という西園寺ファミリーの中に、たった一人、村上源氏の中院雅忠(1228-72)がいます。

-------
 あまた下り流れて上下少しうち乱れ給へるに、太政大臣、本院の御さかづき賜はりて、持ちながら、とばかりやすらひて、「公相、官位ともに極め侍りぬ。中宮おはしませば、もし皇子降誕もあらば、家門の栄華いよいよ衰ふべからず。実兼もけしうは侍らぬ男なり。後ろめたくも思ひ侍らぬを、ひとつの憂へ、心の底になん侍る」と申し給へば、人々何事にかとおぼつかなく思ふ。
-------

何度もお流れの杯が上座から廻ってきて、誰もが少しくつろいでいらっしゃるころ、太政大臣公相公が後嵯峨院の杯を賜って、それを持ちながら少しためらって、「私は官位ともに最高となりました。娘の中宮が亀山天皇のお后としておられるので、もし皇子御誕生ということになれば、家門の栄華はいよいよ衰えることを知りません。息子の実兼も出来の悪い子ではありません。何も心配することはないのですが、たった一つ、憂いていることが心の底にございます」と申されたので、人々は何事かと不思議に思った。

ということで、実際には公相の娘、中宮の嬉子は亀山天皇と相性が良くなく、洞院実雄の娘の皇后、佶子に負けているのですが、確かに皇子誕生ともなれば状況は違ってきます。

-------
 左の大臣は、中宮のことかけ給ふを、まだきよりも、と耳とまりてうち思すにも、心のうち安げなし。一院は、「いかなる憂へにか」とのたまふに、「いかにも入道相国に先立ちぬべき心地なんし侍る。恨みの至りて恨めしきは、さかりにて親に先立つ恨み、悲しみの切に悲しきは、老いて子に後るる悲しみには過ぎず、などこそ、澄明に後れたる願文にも書きて侍りしか」など聞えて、うちしをれ給へば、みないとあはれと思さる。入道殿はまいて墨染めの御袖しぼるばかりに見え給ふ。
 さて、その後いく程なく悩み給ふ由聞ゆれど、さしもやはと覚えしに、いとあやなくうせ給ひぬ。冷泉の太政大臣と申し侍りしことなり。入道殿の御心の中、さこそはおはしけめ。中宮も御服にてまかで給ひぬ。
-------

前左大臣実雄公は、公相公が中宮のことを話題にされたのを、まだ生まれてもいないのに何を言っているのか、と耳にとまって思うにも、心穏やかではない。後嵯峨院が「どんな憂いなのか」とお聞きになると、公相公は、「どうにも父入道相国に先だって死ぬような予感がいたします。恨めしいことの中で最も恨めしいのは、盛りの年で親に先だって死ぬことであり、悲しいことの中で最も痛切に悲しいのは老いて子に先立たれる悲しみだと、(大江朝綱が子の)澄明に先立たれた願文にも書いてありました」などと申されるので、皆、たいそう哀れと思われる。父入道はまして涙で濡れた墨染の袖をしぼるほどにもお見えになった。
さて、その後いくらも経たぬうちに御病気とのことであったが、まさかさほどのことではあるまいと思っていたところ、本当にあっけなく亡くなられた。冷泉の太政大臣と申された方のことである。父入道道殿の御心中はさぞかし、と思われる。また、中宮も服喪のために宮中を退出された。

ということで、公相は少々気味の悪い予言の後、実際に死んでしまったのだそうです。
大江朝綱(886-957)は「平安中期の漢学者、詩人。正四位下参議。後江相公」で、この人が子の澄明に先立たれた折の四十九日の願文が『本朝文粋』に載っているそうです。(p102)
ま、あまりに出来すぎなので事実とは考えにくいエピソードですが、この話で私が一番奇妙に思うのは、後嵯峨院・後深草院・大宮院・東二条院・西園寺実氏・西園寺公相・洞院実雄という当時の宮廷社会の最高位に位置する人々の中に「むつましき限り」の一員として「久我大納言雅忠」が存在することです。
上記のように雅忠は西園寺ファミリーの一員ではない上に、その公的地位もさほどのものではありません。
『公卿補任』文永四年(1267)を見ると、

関白・一条実経(十二月上表)、関白・近衛基平、左大臣・近衛基平、右大臣・鷹司基忠、内大臣・大炊御門冬忠(正月上表)、内大臣・一条家経、大納言・二条良教、同・中院通成、権大納言・花山院師継、同・土御門顕良、同・花山院通雅

と、異動による重複を除いて十人が並んだ後、十一番目に中院雅忠が出てきます。
そして権大納言は更に五人いて、堀河基具、一条家経(正月任大臣)、土御門定実、二条師忠、藤原為氏と続きます。
このように見て行くと、中院雅忠(四十歳)が西園寺実氏・西園寺公相・洞院実雄と一緒に「むつましき限り」の一員として登場するのは些か不審です。
なお、西園寺実氏は既に出家しているので『公卿補任』には登場せず、西園寺公相・洞院実雄は前官なので「散位」の方に出ています。
ちなみに中院雅忠の「権」がとれて「大納言」になるのは四年後の文永八年(1271)で、その翌年に雅忠は死んでしまいます。
また、『公卿補任』では雅忠は一貫して「中院」であり「久我」ではありません。

源雅忠(1228-72)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%9B%85%E5%BF%A0
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近衛宰子の「密通」について

2018-01-25 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月25日(木)11時15分28秒

『増鏡』とは少し離れますが、宗尊親王が鎌倉を追放された理由とされる御息所の密通云々は何だか良く分からない話ですね。
最近の概説書では、例えば近藤成一氏は『鎌倉幕府と朝廷』(岩波新書、2016)において次のように書かれています。(p89以下)

-------
 文永三年(一二六六)に将軍宗尊が京に送還されることになったのは、御息所の密通事件がきっかけだった。宗尊の御息所は前摂政近衛兼経の娘宰子であるが、母は九条道家の娘仁子である。仁子は四代将軍頼経と父母を同じくする。宰子は正元二年(一二六〇)関東に下り、時頼の猶子として宗尊と結婚した。婚姻の儀も時頼の最明寺邸において行なわれている。そして文永元年(1264)に若宮惟康が誕生した。宰子の密通の相手とされた松殿僧正良基は松殿基房の孫である。基房は近衛基実・九条兼実の兄弟にあたり、基実の死後、摂政・関白の職を継いだが、木曽義仲と結んだために義仲の没落とともに失脚し、松殿家は摂関家から脱落した。良基は貞応二年(一二二三)にはすでに鎌倉に姿をみせており、その頃から幕府において護持層の役割を務めていたものと思われる。
-------

ここに出てくる人々の生没年を見ると、

松殿基房(1145-1231)
九条道家(1193-1252)
近衛兼経(1210-59)
九条頼経(1218-56)
北条時頼(1227-63)
近衛宰子(1241-?)
宗尊親王(1242-74)

という具合ですが、問題は松殿良基です。
松殿良基が『吾妻鏡』に最初に登場する貞応二年(1223)六月二十六日条では「天晴。於五佛堂所被修之千日御講。今日被結願。導師松殿法印。請僧十二口。二品御參堂云々」とあり、良基は既に法印で、北条政子が出席するような重要な仏事を主導する立場になっています。
良基の父、松殿忠房(1193-1273)の生年を考えると、仮に忠房が二十歳のときの子だとして、建暦二年(1212)生まれですから、鎌倉に登場した時には十二歳ですね。
さすがにその年で「導師」はありえないでしょうから、もう少し上としても、せいぜいプラス五歳くらいでしょうか。

松殿忠房(1193-1273)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%AE%BF%E5%BF%A0%E6%88%BF

そして問題の文永三年(1266)は松殿良基が最初に『吾妻鏡』に登場してから四十三年後であり、五十五歳から六十歳くらいですかね。
まあ、「密通」が無理な年齢ではないにしても、何だか不自然な感じは否めません。
更に奇妙なのは『尊卑分脈』の「延慶元年十二月入」という没年で、延慶元年は1308年ですから建暦二年(1212)生まれとして九十五歳ですね。
プラス五年でちょうど百歳で、まあ、これもあり得ない話ではないといえ、ずいぶん長命な人ですね。
(※没年には異説もあります)

さて、上記引用部分に続けて、近藤氏は、

-------
 文永三年三月六日、宗尊は側近の木工権頭藤原親家を内々の使として上洛させた。六月五日に鎌倉に戻った親家は、後嵯峨上皇の内々の諷詞を伝えたが、御息所に関するものであったという。この後、鎌倉中が騒動となり、宗尊が謀叛の嫌疑により京に送還されることになる。どうしてそういうことになったのかがわかりにくいが、想像するに、宗尊は、御息所を離縁するような強硬な措置をとろうとして父の後嵯峨上皇に相談したのであるが、上皇はそれを好まなかったのではないか。幕府のほうからしても、宗尊の行動は執権・連署との相談なしの独走であり、宗尊は孤立してしまったのではないか。
 宗尊の使を務めた親家が鎌倉に戻った後の六月二十日、時宗邸に執権政村、金沢実時、安達泰盛が集まり秘密の会合を持ったが、この席で、宗尊を京に送還し、三歳になる若宮惟康を次の将軍に戴くことが決められたのであろう。宗尊は七月二十日に入洛したが、翌二十一日、幕府からの使節として二階堂行忠と安達時盛が京に入り、二十二日関東申次西園寺実氏に面会して、惟康を将軍とすることを申し入れた。惟康は二十四日の小除目により征夷大将軍に補せられた。
-------

と書かれており、「御息所を離縁するような強硬な措置」ですから、近藤氏は「密通」自体は事実と考えておられるようですね。
まあ、結局は良く分からない話ですが、「密通」が事実ではないとしても、宗尊の御息所への対応が執権北条政村以下の幕府中枢に不信感を与え、将軍として不適格との判断をもたらしたのでしょうね。
私としては宗尊親王が余りに熱心に和歌に取り組んだため、一方で熱烈な信奉者を生むとともに、他方で文化的な違和感を覚える敵対者を生み、「密通」事件をきっかけに武家社会の在り方を巡る一種の文化闘争・思想闘争が起きて和歌への敵対者が勝利したのかな、などと想像するのですが、これも小説の域に入ってしまいそうですね。
もちろん執権の北条政村自身は勅撰集入集歌も多い歌人ですが、政治家として、幕府内の分裂を招くような事態は避けたい、という判断は十分あり得るものと思います。
一般論として、和歌はその才能のない者にとっては「差別」そのものであり、「差別」された側に執念深い敵意をかきたてるものではないかと思いますが、これで特定の政治的事件を説明するのはさすがに妄想と呼ばれそうなので、このあたりで止めておきます。
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六波羅の「檜皮屋」について

2018-01-24 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月24日(水)20時39分45秒

参考までに『五代帝王物語』における宗尊親王失脚に関する記述を紹介しておきます。(『群書類従・第三輯』、p446以下)

-------
 さるほどに七月廿日中務宮関東より上らせ給。かねて早馬つきて其よし聞えしかば、院中も御騒ぎありしほどに、すこしびびしからぬ御行粧にて御上、先六波羅へつかせ給て、其後承明門院の御旧跡土御門殿へ入せ給ふ。彼御跡は中書王御管領なる故也。日来はゆゆしくて御上洛あるべしと聞えしかば、武士どもも面々に出立、京都も御心もとなく待申されしに、思の外の事出来て御上、浅ましかりし事也。宮も御上洛たびたびのびて、心もとなく思食ければ、夢にぞみつるあう坂の関とは御歌にもあそばしたりけるに、げにも夢の心ちしてぞ御覧ぜられけんと御心のうちもあはれ也。さて将軍には中書王の御息所<岡屋入道殿女>の御腹の宮三歳にてなり給。七月廿四日に宣下せらる。御名は惟康とてやがて従四位下に叙給。宮は御上あるにも院は御義絶の義にて、左右なく御対面もなし。引かへ夷の御すまひ、さこそ宮中もさびしかるらめとをしはかられてあはれなり。此事によりて左少弁経任<中御門大納言>御使にて関東へ下向、別事あるまじきとて武家も物沙汰はじまり、京に八月十六日より院の評定始らる。
-------

「院は御義絶の義にて、左右なく御対面もなし」とあって、『増鏡』よりは厳しい書き方ですね。
さて、『増鏡』は嘉禎四年(1238)に華々しく行われた第四代将軍・九条頼経の上洛について完全に無視していますが、『五代帝王物語』にはそれなりに詳しい記事があります(『群書類従・第三輯』、p430)。
宗尊親王についても何度か上洛の計画が立てられ、その都度延期されていたのですが、追放という形で上洛が実現したのは些か皮肉な感じもします。
それと、細かいことですが、『増鏡』では関東に派遣された中御門経任が京に帰って後嵯峨院の懸念が解消された後、宗尊親王が六波羅の「檜皮屋」から旧承明門院御所の土御門殿に移った、という書き方をしています。
しかし、『五代帝王物語』は六波羅の「檜皮屋」には特に言及せず、また、移動の時期もはっきりさせておらず、割とすぐに移動したようにも読める書き方ですね。
ま、そんなことはどうでもよい些事といえばそれまでですが、六波羅の「檜皮屋」が非常に重要な存在であって、「檜皮屋」即ち六波羅御所こそが征夷大将軍の本邸だと主張する歴史学者がいて、以前その人の見解を少し検討したことがあります。
問題の論文は熊谷隆之氏の「六波羅探題考」(『史学雑誌』113編7号、2004)で、個人的にはそれほど重要な問題とも思えないのですが、これも参考までに当時の投稿にリンクを張っておきます。
もともとのきっかけは上横手雅敬氏と高橋昌明氏の論争で、その中に熊谷氏の「六波羅探題考」が引用されていたので調べ始めました。

「幕府」概念の柔軟化
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/21f66aaffd818fa5e2f024fd13559d28
幕府の水浸し
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8852f32f1e433c6b823ccb57919193d7
「六波羅御所こそ鎌倉将軍家の本邸」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ad13c42052d04ddd7db90f8572957fff

越後入道勝圓の佐介の第
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/901723cd1a63e83e035a45d18dddfa9d
越後の守時盛の佐介の第
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9428f0ea8c0a67f51c4719c7f8c3083a
六波羅御所の歴史
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b41e53be3756e1b81269b776ae59c380
「武家の空間」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5265bfb3421c88fc5ba90951488f2930
檜皮葺
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/521f5034b949e2b0cb0f577984144ac3
「深秘御沙汰」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/275afeb75a664c62e44147f82733a0b5
「一般御家人の板屋葺」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cc575760cf9f52f871cb344f1bbf1c96
板屋の軒のむら時雨
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6826dd30bdb9715c828ce911815ef41d
『容疑者Mの献身』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d4a1f9b005f64433725e626cc367b7f4

なお、野口実氏は熊谷隆之氏の「六波羅探題考」を極めて高く評価されています。

「承久の乱後の六波羅」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2fa822d2d0cba2dccc7167bdd3c48fee

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「巻七 北野の雪」(その11)─宗尊親王失脚

2018-01-24 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月24日(水)15時23分6秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p92以下)

-------
 又の年、東に心よからぬこといできて、中務のみこ都へ上らせ給ふ。何となくあわたたしきやうなり。御後見はなほ時頼の朝臣なれば、例のいと心かしこうしたためなほしてければ、聞えし程の恐ろしきことなどはなければ、宮は御子の惟康の親王に将軍をゆづりて、文永三年七月八日上らせ給ひぬ。
-------

文永三年(1266)、鎌倉で政変があり、第六代将軍・宗尊親王(1242-74)が失脚、追放されます。
「御後見はなほ時頼の朝臣なれば」とありますが、実際には北条時頼(1227-63)は三年前に死んでいて、執権が北条政村(1205-73)、連署が北条時宗(1251-84)の時期ですね。

-------
 御下りの折、六波羅に建てたりし檜皮屋一つあり。そこにぞはじめは渡らせ給ふ。いとしめやかに、ひきかへたる御有様を、年月の習ひに、さうざうしうもの心細う思されけるにや、

  虎とのみ用ゐられしは昔にて今は鼠のあなう世の中
-------

将軍として虎のように恐れられていたのは昔のことで、今は鼠が穴の中に隠れているように世を憚る身となってしまった、という歌はなかなかユーモラスですね。

-------
 院にも、東の聞こえをつつませ給ひて、やがては御対面もなく、いと心苦しく思ひ聞えさせ給ひけり。経任の大納言、いまだ下臈なりし程、御つかひに下されて、何事にか仰せられなどして後ぞ、苦しからぬことになりて、宮も土御門殿承明門院の御あとへ入らせ給ひける。院へも常に御参りなどありて、人々も仕うまつる。御遊びなどもし給ふ。雪のいみじう降りたる朝明けに、右近の馬場のかた御覧じにおはして、御心の内に、

  猶たのむ北野の雪の朝ぼらけあとなきことにうづもるる身も

 世を乱らむなど思ひよりける武士の、この御子の御歌すぐれて詠ませ給ふに、夜昼いとむつましく仕うまつりけるほどに、おのづから同じ心なるものなど多くなりて、宮の御気色あるやうにいひなしけるとかや。さやうのことどもの響きにより、かくおはしますを、思し歎き給ふなるにこそ。
-------

後嵯峨院も最初は関東に遠慮して宗尊親王との対面もなかったが、まだ「下臈」だった中御門経任(1233-97)が関東に派遣されて折衝した結果、それなりに穏やかな関東の意向が示され、宗尊親王も六波羅の「檜皮屋」から承明門院の御所であった土御門殿へ移られて、後嵯峨院との対面も可能となりました、ということで、中御門経任は極めて有能であり、後嵯峨院の信頼も厚かったのでしょうね。
中御門経任は実務官僚でありながら『とはずがたり』にも登場する人で、なかなか興味深い存在です。
なお、『増鏡』では「東の聞こえをつつませ給ひて、やがては御対面もなく」となっていますが、『五代帝王物語』には義絶したとあります。
九条頼経・頼嗣父子が鎌倉を追放されて以降の九条家の運命を考えれば、後嵯峨院が細心の注意を払ったのももっともな話ですね。
この「猶たのむ……」の歌に含まれる「北野の雪」が、巻の名になっています。
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「巻七 北野の雪」(その10)─続古今集

2018-01-24 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月24日(水)14時13分59秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p87以下)

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 まことや、この年頃、前内大臣殿<基家>、為家の大納言入道・侍従二位行家・光俊の弁入道など承りて、撰歌の沙汰ありつる、ただ今日明日広まるべしと聞ゆる、おもしろうめでたし。かの元久の例と、一院みづからみがかせ給へば、心ことに光そひたる玉どもにぞ侍るべき。
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「まことや」は「ほんとに、そうそう。話の途中で思いついたときなどに発することば」(p89)で、ここも語り手の老尼がほんの少し姿を現す場面です。
「前内大臣殿基家」は九条道家の異母弟、九条基家(1203-80)で、『徒然草』第223段に登場する「鶴の大臣殿」でもあります。
第223段は「鶴の大臣殿は、童名、たづ君なり。鶴を飼ひ給ひけるゆゑにと申すは僻事なり」だけという『徒然草』の中でも最短の段ですね。

九条基家(1203-80)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%9F%BA%E5%AE%B6

「為家の大納言入道」は定家の息子の藤原為家(1198-1275)で、「侍従二位行家」は亀山殿歌合の場面で右方の読師として登場済みの「六条藤家」の歌人、九条行家(1223-75)です。
「光俊の弁入道」は承久の乱の責任者の一人として処刑された葉室光親の次男、葉室光俊(1203-76)で、和歌の世界では法名の「真観」の方が有名ですね。
宗尊親王の和歌の師でもあります。
「元久の例」とは後鳥羽院の親撰に近かった『新古今集』のことで、『続古今集』も複数の撰者がいるとはいえ、後嵯峨院の役割が大きかったという訳ですね。

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 年月にそへてはいよいよほかざまに渡る方なく、栄えのみまさらせ給ふ御有様のいみじきに、此の集の序にも、「やまと島根はこれわが世なり、春風に徳を仰がんと願ひ、和歌の浦もまた我が国なり、秋の月に道をあきらめん」とかや書かせ給へる、げにぞめでたきや。
 金葉集ならでは、御子の御名のあらはれぬも侍らねど、この度は、かの東の中務の宮の御名のりぞ書かれ給はざりける、いとやんごとなし。新古今の時ありしかばにや、竟宴といふこと行はせ給ふ、いとおもしろかりき。此の集をば、続古今と申すなり。
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「年月にそへてはいよいよほかざまに渡る方なく、栄えのみまさらせ給ふ」は年月が経るに従って他の皇統に移ることなく、後嵯峨院の皇統だけが栄えているという意味です。
「金葉集ならでは」云々は、『金葉集』以外の勅撰集では親王の名前を出していたのに、『続古今集』では「かの東の中務の宮」を「宗尊親王」ではなく「中務卿親王」と表記したのは立派だ、という意味です。
『続古今集』が撰進されるまでにはなかなか複雑な経緯があったようですが、それは他書に譲ります。

続古今和歌集
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%9A%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86
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