投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 4月29日(金)12時38分20秒
前回投稿で引用した部分の続きは次のようになっています。(p128)
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晩期のカトリック教は、異常なほど聖母マリア崇拝に中心を置いた。エーリッヒ・フロムが、母権制的傾向を持つ宗教と性格付けることができたほどである。これに対して、ルター派プロテスタント教は、父権制的傾向の宗教ということになる。
「カトリック教は数多くの父親中心的要素─父なる神、男性神父の階層序列制、等々─を誇示するが、これについては顕著な母親中心的コンプレックスの役割も否定できない。聖母マリアと教会そのものは、すべての子を懐に抱く太母の心理的表象なのである。……逆にプロテスタント教は、キリスト教徒から母親中心的特徴を効率的に削除した。聖母マリアや教会のような、母親を代行するものは消え去ったのである。神の母親的特徴も同様である。ルターの神学の中心には、愛されている確信をいささかも持つことのない罪人の懐疑ないし絶望が見出される」。
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後半は一段下げて引用であることを示しているのですが、「原注」(p416)によると、
Erich Fromm, The Crisis of Psychoanalysis, Essays on Freud, Marx and Social Psychology,London, Jonathan Cape,1971,p.130-131.
からの引用とのことです。
私はトッドの文脈と若干離れた観点から、こうした指摘に特別な興味を持っていて、それはトッドが日本とドイツを一緒にする傾向が強いことへの反発に由来します。
ナチスを生んだドイツと一緒にされたくはないよなあ、という気持ちがあって、ドイツ、特にプロテスタントのドイツとの差異がありそうな部分に着目してしまうのですが、宗教が母性的か父性的かも、日本とドイツを分けるけっこう大きな違いではないですかね。
エーリッヒ・フロムの上掲書は邦訳されているようなので(『精神分析の危機 フロイト、マルクス、および社会心理学』、岡部慶三訳、東京創元社、1974)、後で確認してみるつもりです。
Erich Seligmann Fromm(1900-80)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%A0
なお、トッドが依拠している日本の宗教に関する文献は少し古く、かつ若干偏っている点については、以前少し書きました。
「日本の仏教が厳密な一神教を目指してきた」への疑問
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5c3ed8485bffce778402ce5c37894a24
直系家族と一神教(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bd364b5483715aaf55b2d17bbd918d34
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c49e7686182ab119ede065ead7f2d5a0
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cf0de49745a20848ad3eb3dfe544547b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9c0da4ff67eb6912504dbb72e452a89d
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 4月29日(金)10時56分8秒
平等主義のはずのフランスで女性の選挙権が認められたのはずいぶん遅いのですが、この点に関連して『不均衡としての病』の「第三章 女性の解放」には、「教育での女性の先行─25歳から34歳の者の中でバカロレアもしくは高等教育の免状を所持する者の男女それぞれのパーセンテージの間の差」を示す地図を掲げた後で、次のような説明があります。(p127以下)
なお、この地図を見ると、高等教育の分野では女性がほぼ全国的に先行していて、男性先行はパリ周辺とベルギー・ドイツとの国境地帯だけですね。
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カトリック教とフェミニズム
これとは反対に、ブルターニュ、ピレネ山地西部、中央山塊の南東部、アルプス地方が、女性の先行の極をなしているのは、カトリック教の仕業である。歴史を通して教会と女性を結びつけて来た絆が、ここで喚起されて然るべきだろう。これらの地では、まずローマ人の妻たち、次いで[ゲルマンの]蛮族諸侯の妃たちが、ヨーロッパのキリスト教の華々しい開花のために決定的な役割を果たした。ブルグンド公女にしてフランク人の女王たる、クローヴィスの妃クロチルドは、フランスの宗教伝説集の中に、夫クローヴィスのキリスト教への改宗の立役者として収まっている。
第三共和制下で、一九〇五年の教会と国家の分離の前にもその後にも、急進社会主義にとって最大の恐れの一つであったのは、女性と教会との間に結ばれた、表に現れることのない保守的な同盟であった。フランスでは女性の投票権は一九四四年になってようやく認められたが、こうした女性の投票に対するフランスの抵抗は、急進社会主義の名士たちの懸念によって大幅に説明がつく。二〇〇八年の女性の先行の地図を見ると、そのプラスの部分にはカトリック教の痕跡が窺われる。それゆえこの地図は、急進社会主義の名士たちの女嫌い的なファンタスムは、社会・文化的現実と全く矛盾していたわけではないということを示唆している、と言えるのである。実際に証明をもたらすわけではないまでも。
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女性に選挙権を認めると保守派に有利になるから急進社会主義者が反対した、ということのようですが、先進諸国の中でフランスの女性普通選挙権が認められたのが極めて遅く、実に日本と殆ど同じというのは、共和国の名誉に照らすと非常に恥ずかしい事態ですね。
普通選挙
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E9%80%9A%E9%81%B8%E6%8C%99
女性参政権
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E6%80%A7%E5%8F%82%E6%94%BF%E6%A8%A9
>筆綾丸さん
>厩戸皇子の十七条憲法への言及はありますか。
私も未読ですが、これはなさそうですね。
あれだけ盛り上がっている togetter のまとめに参加している人も、発端の住友陽文氏(大阪府立大学教授)以外は誰一人読んでいないようです。
ま、私も二千円近く出して購入する気にはなれないのですが、近所の図書館で小路田泰直氏の『国家の語り方─歴史学からの憲法解釈』(勁草書房、2006)という本が借りられそうなので、後で小路田氏の発想を確認してみようと思います。
http://www.keisoshobo.co.jp/book/b208322.html
小太郎さん
トランプはアメリカらしいジョークかと舐めていましたが、大統領になる可能性も出てきましたね。
「科学ミステリーの傑作が誕生」という謳い文句では、インチキ臭い印象を与えてしまいますが、これは真摯な内容です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E6%86%B2%E6%B3%95
『日本憲法史―八百年の伝統と日本国憲法』は未読ですが、大風呂敷ついでに、厩戸皇子の十七条憲法への言及はありますか。そうなれば、「千四百年の伝統と日本国憲法」となって、有難味も倍増するだろうに、と思いました。第五条などには、「立憲主義」らしき文言が散らばっています。51(貞永式目条文)÷3=17(条憲法)でもあるのだから。中世史の研究者はとかく五月蠅いのですが、古代史の研究者ならあまり騒がなかったかもしれないですね。
http://www.asahi.com/articles/DA3S12327113.html
憲法学者・木村草太氏の趣味は将棋と仄聞していましたが、名人戦の観戦記を書いているのですね。
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人の心に残る対局を名局と言うなら、この一局は間違いなく名局だ。まさかの幕切れに、私も未だに心の整理がつかないでいる。
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と冒頭にあるのですが、詰みを見落とした羽生名人には屈辱以外の何物でもなく、挑戦者にはタナボタで、おそらく名局とは言えないと思います。余計なことですが、「心に残る対局」と言っているのだから、すでに「心の整理」はついているのではないか、という気がしますね。
それはともかく、羽生名人がこんな見落としで重要な一局を落とすことはとても珍しく、さすがの不世出の天才にも衰えが見えはじめたということでしょうか。挑戦者の天彦は、いつ名人になってもおかしくない名ではあります。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 4月28日(木)10時55分10秒
諸々の用事に読書の時間が奪われて、なかなか『不均衡という病』を読み進めることができないのですが、ま、あまり焦らずに行きたいと思います。
さて、同書はフランスだけを論じていますが、日本にそのまま適用できそうな叙述も多いですね。
例えば、「第二章 新たな文化的不平等」の次の部分です。(p115以下)
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教育によって決定される社会的階層構造というわれわれのヴィジョンは、社会科学に君臨している「経済中心主義的」雰囲気に従順な読者を驚かすはずである。しかし、一九七三年に、アメリカの社会学者、ダニエル・ベルが脱工業社会の出現を捉えることができたのは、注意を向ける方向を、社会の経済的形状から教育絡みの階層構造へと移したことによってだった。彼は脱工業社会を、高等教育と大学の勢力伸張によって定義したのである。
それ以降、支配的思考は右旋回したわけだが、それは奇妙なことに、アメリカ合衆国でもフランスでも、昔ながらのマルクス主義的物質主義〔唯物論〕の生き残り、というよりは、その逆説的な増殖を許すことになった。ただし、新自由主義的物質主義という、逆転した形での物質主義であるわけだが。この新自由主義的物質主義は、ただ経済の優越というものを、工業の領域から金融の領域へ、生産労働から金銭へと移動させただけの話なのだ。
これに対してわれわれは、何らかの社会において、平等の観念と不平等の観念のいずれが支配的な考え方となるかは、個人や集団の経済的特殊化ではなく、はるかに教育絡みの階層化によって決まる、と考えるものである。
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アメリカの価値観が自由オンリー、平等軽視であることは、最近の大統領予備選挙においても、仮にトランプ大統領時代が到来した場合に全く経済的な向上が期待できないばかりか、むしろ生活がより厳しくなるであろう人々が積極的にトランプを支持するという、いささかマゾヒスティックな展開にも良く現れていますが、アメリカは「不平等の観念」のままに突き進むしかない国なんでしょうね。
それに対して、トッドが描くフランスの将来はというと、
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教育をめぐる言説は、今日巷に溢れている。しかしそれ自体が、経済中心主義に支配されている。教育絡みの不平等は、社会の経済的形状の反映だと考えるのである。左派の人間は、グランド・エコールに入る労働者の子どもたちは、全国的人口比率に対して少数であると嘆く。この憤慨そのものは正当だが、その結果、社会の文化的水準の全般的上昇の自律性と支配力の強さ、ならびにそこから派生する新たな階層構造が、理解できなくなってしまう。ここでもう一度言っておこう。青年の教育は、将来の社会を定義するのだ、と。二〇〇八年における二十五歳から三十四歳の者の教育水準の分布は、単に今日のフランスの姿を浮かび上がらせるだけではない。はるかに的確に、二〇三〇年のフランスの姿を浮かび上がらせるのである。教育絡みの構造は、世代単位の速度で変遷するから、それほど柔軟なものではない。こうした教育絡みの構造に、経済は適応しなくてはならないのである。経済が教育の動きについて行けなくなるなら、生活水準は低下し、社会は危機に突入する。現在は、このような経済の不適応過程の初動段階に他ならない。
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ということですね。
フランスは歴史的な背景を持つ根強い「平等の観念」に対して、高度な教育を受けたエリート層が「不平等の観念」を強化しており、対立が深刻化しそうですが、日本もこのままではおそらくフランスと同じような未来を迎えることになるのでしょうね。
>筆綾丸さん
いえいえ。
私もマイペースで投稿していますので、お気遣いなく。
>中屋敷均の『ウイルスは生きている』
講談社の宣伝文句には「『生物と無生物のあいだ』から9年、新たなる科学ミステリーの傑作が誕生!」とあり、一瞬、『生物と無生物のあいだ』の著者の新作かと思ってしまいましたが、あれは福岡伸一氏でしたね。
福岡著については筆綾丸さんが少し冷ややかな感想を述べられたように記憶していますが、福岡氏も最近は専門分野ではあまり話題作もなく、随筆家みたいな感じになってしまいましたね。
小路田泰直氏の『日本憲法史―八百年の伝統と日本国憲法』という新刊本をめぐってツイッター界にプチ騒動が起きて、私もほんの少し参加したのですが、「立憲主義」の政治化が招いた珍事ですね。
御成敗式目は立憲主義?
http://togetter.com/li/967541#c2679754
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
小太郎さん
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062883597
知人と京都をぶらぶらしていて、間が開いてしまいました。
寝る前に、中屋敷均の『ウイルスは生きている』を拾読みしてましたが、面白い本です。
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他の寄生バチー寄主関係でも、同様に死にかけの寄主が利他的な行動を見せる例は多い。例えば、モンシロチョウの幼虫に寄生するアオムシコマユバチの例では、死にかけの寄主が糸を吐いてコマユバチの繭を作る手伝いをする。また、クモヒメバチに寄生されたギンメッキゴミグモは、寄生バチの蛹のためにクモの網を張って死んでいくのだが、その網は通常クモが作る網の30倍の強度を持った特殊な網であることが分かっている。ずいぶんと手厚いサービスで、まったくもって意味が分からない。(91頁)
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ゾンビ昆虫たちの行動には宗教の世界かと見紛うものがありますね。
「善き羊飼いは羊のために命を棄てる」(ヨハネの福音書10:11)に関して、利他的行動(altuistic behavior)を論ずる人もいますが、ゾンビ昆虫にしてみれば、わざわざ議論すべきテーマかなあ、といったようなものです。
リチャード・ドーキンスの利己的遺伝子論ではどのように説明できるのだろうか。ゾンビ昆虫の selfis gene にとって、この行動の利己性とは何なのか。どのような禅問答を展開できるのか。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 4月26日(火)15時10分38秒
『不均衡という病』はまだ途中ですが、4月8日の「場所の記憶」で触れた問題については、巻末の石崎晴己氏による「著者インタビュー」に非常に分かりやすい説明がありますね。
「場所の記憶」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e6a06ec6bc6f9fbddcb3f22199d54d24
石崎氏は次のように問い掛けます。(p375)
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人類学的基底には、直系家族のような複合的家族システムは、近代化が進行するにつれて解体していく、という問題が付きまといます。そうなると、家族システムに由来する心性も変わってしまうのではないか、ということになる。そこでトッド、あなたが見出した解決法は、家族システムによって培われた当該地域の心性は、学校や職場などの地域社会のさまざまな組織によって維持され、機能し続ける、という説明法でした。
------
これに対し、トッドは、
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その通りです。しかし本書執筆の過程においても、文化の伝承についての私の考え方は変わりました。土地の記憶という概念が出て来たのです。それはエルヴェの着想です。そこで考えたのは、家族システムというのは、世代の継起だけではない。一定の地域で配偶者の交換をするものだ、だから家族システムの概念には、すでに地域という概念が含まれる、家族システムとは、これこれの地域における家族的価値観のことなのだ、ということです。私は討論を通して、また自分自身でも、変遷し続けまして、今では価値観の伝承のメカニズムについて、以前とは考えを変え始めたと思います。初期の著作の中で、家族システムとイデオロギーの照応を観察した時、私が抱いていた価値観モデルはいささかフロイト的、精神分析的なものでした。つまり、子供への価値観の伝承はきわめて強力なプロセスであって、人格形成の深層に刻み込まれるそうした強力な価値観が、イデオロギーに作用を及ぼし、永続していくのだ、というわけです。しかし今はむしろ、実は価値観というのは、地域の中で強力に働き、永続していくが、個人のレベルではそれほど強力ではない、と考えるようになっています。つまり個人個人が価値観を抱く度合は強くないが、個人の数が多いので、システムはなかなか変わらないのだ、個人がこの価値体系から抜け出そうとしても、システム全体には何の影響も及ぼさない、というわけです。
-------
と答えます。
実際、「初期の著作」を読むと「いささかフロイト的、精神分析的な」説明が目立つのですが、ただ、その説明はそれなりに迫力があるものですね。
特にナチスが生まれた事情については、「いささかフロイト的、精神分析的な」説明が今なお充分な説得力を持っている、というか、それなしでは説明できない何かが残りそうです。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 4月25日(月)09時57分30秒
『経済幻想』をやっと読み終えたので、昨日からエマニュエル・トッドとエルヴェ・ル・ブラーズの共著、『不均衡という病─フランスの変容 1980-2010』(藤原書店、2014)に再挑戦しています。
http://www.fujiwara-shoten.co.jp/shop/index.php?main_page=product_info&products_id=1366
こちらは以前パラパラ眺めたものの、フランス事情に詳しくない私には若干難しく、また固有名詞が煩瑣に感じられたので中断していたのですが、トッドの旧著をある程度読んだ今では割とスラスラと読めますね。
エルヴェ・ル・ブラーズは、奥付の略歴によれば「1943生。人口統計学者・歴史学者。ブルターニュ北部(コート・ダルモール県)出身。理工科学校、パリ大学理学部に学ぶ。フランス国立人口統計学研究所(INED)研究主任。理工科学校、パリ政治学院(シャンス・ポ)、EHESS(社会科学高等研究所)、ENA(国立行政学院)などで教鞭をとる」という人物ですね。
巻末の「著者インタビュー」によれば、石崎氏の、
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方法論の問題以上に、お二人はきわめて異なる世界の出身であるというもう一つの相互補完性があります。さきほど高等師範学校出身で、共産党に惹かれた人物の例が挙げられましたが、それはまさにエマニュエル・トッドの祖父、作家のポール・ニザンを思い出させます。一方、ル・ブラーズ、あなたは未来のローマ教皇ヨハネス二十三世の膝に抱かれて遊んだこともあり、お父様はフランス教会の評議員でした。
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という質問(誘い?)に対し、ル・ブラーズは、
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トッドはそのような遺産を継承していますし、私の方は、月に何度も枢機卿や教皇の大使といった教会の高位高官を食卓に招くような人物の遺産を継承しています。私の父(ガブリエル・ル・ブラーズ[一八九一-一九七〇])は、パリ大学法学部の教会法の教授で、学部長もやりました。フランスの宗教社会学の創始者です。外務大臣の宗教関係の顧問で、つまりフランス国内の司教を任命するに当たって諮問を受ける人物でした。ですから私は教会の内部からの見方ができました。トッドは共産党の内部からの見方ができたわけです。
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と答えており(p389)、「外務大臣の宗教関係の顧問で、つまりフランス国内の司教を任命するに当たって諮問を受ける」という立場は今一つ分かりませんが、ま、大変な名門出身の人ですね。
石崎氏は当初、Bras は「ブラ」と発音すると思っていたそうですが、トッドからの指摘を受けて「ブラーズ」に変えた、てなことをどこかで書かれていました。
Hervé Le Bras
https://fr.wikipedia.org/wiki/Herv%C3%A9_Le_Bras
4月18日(月)のワールドニュース(NHK BS)に、France2(国営)の一部放送があり、トッドが触れていたフィンケルクロートが出ていました。
共和国広場における労働法改正反対集会で、ギリシャの元財相バルファキスの演説は大変な喝采を浴びていました。アテナ発のヨーロッパの春だ、とかなんとか言ってました。ひそかに敵情視察(?)に来ていたフィンケルクロートは、すぐ群衆に発見されて、おめえなんぞトットと失せやがれ、とかなんとか、さんざん罵倒されていましたが、大物らしくニヤニヤしながら帰って行きました。ある若者は、ここは誰が議論してもよい場なんだから、彼がいてもよかったよ、と鷹揚にインタビューに答えていました。
なお、大きな集会には共和国広場あるいはバスティーユ広場が使われますが、どういう基準で使い分けられているのか、よくわかりません。
https://en.wikipedia.org/wiki/Alain_Finkielkraut
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He was elected member of the Académie française (Seat 21) on 10 April 2014.
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フィンケルクロートは常時40人のアカデミー・フランセーズの会員で、フランスの文化人として最高の栄誉に輝いているわけですが(日本の文化勲章受章者くらいに相当)、トッドに倣えば zombi académicien と呼ぶべきかもしれないですね。Seat 21 というのは銀座の会員制高級クラブみたいですが、蛇足ながら、末尾の cien は chien(犬)と同じ発音になります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%B9%EF%BC%9D%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%B3
はじめ、なんでデンスケ(DSK)がいるのだろう、と思いましたが、他人の空似でした。
追記
https://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1603/sin_k875.html
近藤成一氏の『鎌倉幕府と朝廷』を所々読んでみましたが、目新しいことは何もないな、と思いました。岩波書店の謳い文句は華々しいのですが。
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誰もが知っている時代ではありますが、研究の進展により、その実像は書き換えられつつあります。鎌倉時代とは、はたしてどんな時代であったのか。幕府と朝廷が並び立つ、日本社会の画期となった時代を描ききる一冊、ぜひご一読ください。
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投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 4月23日(土)11時48分15秒
『経済幻想』の「第10章 紛争への回帰、信念への回帰」には「マルクスの誤り─アングロサクソン世界はフランスではないし、その逆もまた然り」という長すぎる小見出しが登場しますが、この箇所から少し抜き書きしておきます。(p319以下)
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人類学からみたアングロサクソンのシステムは、平等主義的ではないし、強度に構造化された諸集団の存在も信じていない。【中略】
アングロサクソン世界とフランスでは、同じ経済変化が起こっても、社会的帰結は必然的に異なるということを人類学により区別することは、まさに、マルクスの主要な誤りを受け入れないことでもある。彼は、一八四八年の二月革命から一八七一年のパリ・コミューンまでのフランスを忘れがたい筆致で描いているが、そこから、階級闘争という言葉で一つの分析を引き出した。それは、経済的基層と政治紛争を結びつけるものである。つまり、ある党、勢力、政治家は、ある階級を代表するものと考えられた。マルクスは、ある本当らしさをもって、次のように言うことができた。「ルイ・フィリップは金融貴族であり、ルドゥリュ・ロランはプチ・ブルジョワであり、ルイ・ブランはプロレタリアである。」同盟と対立が、この時期のフランスでの階級闘争史に次々と起こった。それは、今日から見れば、新しい青年期の原型であった。社会的緊張が増大している国で、『フランスにおける階級闘争』『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』『フランスの内乱』を読み返すのは、大変よい知的訓練になる。しかし、それは、あくまでフランスにおいてである。
マルクスの時代に対立を出現させたものは、フランス北部の人類学上のネットワークに織り込まれた平等主義的価値観であった。それは、すべての主体の精神的風景を支配していた。それにより、一七八九年のブルジョワは、自分達を貴族と同等なものと考えた。それにより、一八四八年のパリの職人や労働者は、自分達をブルジョワと同等なものと考えた。【中略】しかし、一八五〇年頃、階級闘争盛んなフランスは、ほとんど工場もプロレタリアもなかったのである。
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ここまでがフランスの話で、次にイギリスとの比較が出てきますが、長くなったのでいったん切ります。
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88_%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%97
『カラヴァッジョ展』の帰り、銀座で『スポットライト』をみたのですが(2001年の事件を2015年に映画化)、アメリカ東海岸ではカトリシズムはまだ現役なんだな、と驚きました。
総本山の反応(ウィキ)は、なかなか面白いものですね。神父たちのペドフィリアを暴いたジャーナリストの仕事を、神学的には倒錯的誤用のような気がしますが、ヴァチカンは「召命」と呼ぶのですね。しかも、最も純粋な召命だ、と。こんな召命にいちばん魂消ているのは、おそらく神自身でしょうね、まだ死んでないとしての話ですが。
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Luca Pellegrini on the Vatican Radio website wrote that the Globe reporters "made themselves examples of their most pure vocation, that of finding the facts, verifying sources, and making themselvesーfor the good of the community and of a cityーpaladins of the need for justice."
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補遺
1 ヴァチカンの報道官に惑わされて vocation を召命と訳すのは誤りで、単純に仕事と訳せばいいのかもしれない。ルカ・ペッレグリーニはイタリア語で vocazione と言ったのかどうか。most pure vocation といい、paladins といい、ヴァチカンの真意がどこにあるのか、よくわからない。
2
これを見ると、Baron は男爵とは何の関係もないことがわかりますが、アメリカの観客が誤解してくれれば、それでよいということかもしれません。Baron が Cardinal(Archbishop)に挑むとは、というように。
記者レゼンデスはポルトガル移民、弁護士ギャラベディアンはアルメニア移民、編集局長バロンはユダヤ人という設定ですが、こういう複雑な移民社会は日本人には理解しにくいですね。Baron(男爵)という名のユダヤ人を演じた俳優(Isaac Liev Schreiber)は名前からしてドイツ系ユダヤ人(アシュケナジー?)のようですが、ここにどれだけ重層的な意味が込められているのか、まったくわかりません。日本のようにのっぺりとした単調な世界に生まれ育った者にはなおさら。
付記
レゼンデス役のラファロ(Ruffalo)とギャラベディアン役のトゥッチ(Tucci)は、名前からもわかるようにイタリア系で、こういう配役はヴァチカンを意識したのだろうな、という気はしますが、そのことにどれほどの意味があるのか、わかりません。
http://umikarahajimaru.at.webry.info/201211/article_27.html
この映画の撮影担当「マサノブ・タカヤナギ」(高柳雅暢)は、ウィキによれば、「群馬県富岡市で育つ。東北大学卒業」とありますね。
http://www.sonybuilding.jp/restaurant/cardinal/
映画の枢機卿に興味を惹かれたわけではないのですが、銀座ソニービルの PUB CARDINAL でビールを飲んでから帰りました。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 4月18日(月)12時29分4秒
1998年刊行の L'illusion économique (平野泰朗訳『経済幻想』、藤原書店、1999)は、当面の自分の関心とはあまり関係しないように感じていたので後回しだったのですが、これも読み始めると面白いですね。
『経済幻想』
http://www.fujiwara-shoten.co.jp/shop/index.php?main_page=product_info&products_id=398
「第三章 二つの資本主義」で、トッドは次のように述べます。(p98以下)
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国民という共同的信念の出現は、普遍的現象であり、大衆の識字と宗教的信仰の衰退に結びついている。しかし、国民の形、すなわち個人に期待される参加のタイプは、至るところ同じというわけではない。家族とイデオロギーの間に現存する関係についての簡単な仮説にしたがえば、なぜ国民が至るところで原初的家族の比喩として現れるのかを理解できる。すなわち、家族が核家族で自由主義的・個人主義的生活の基盤であるところでは、出現する国民概念は、原子論的である。イギリス・アメリカ・フランスの国民概念は、こうしたタイプである。大西洋岸の国民の政治理論は、市民の集団の中に個人の自由な連合を見たがる。ハンス・コーンは、『ナショナリズムの概念』の中で、この一八世紀の契約論的ヴィジョンが、より遅れて安定化した中東欧の国民にどの点で適用されなかったかを示した。ゲルマンのフォルクスやロシアのナロードでは、個人は集団に属しているが、帰属が自由意思の表明を必要とするわけではない。家族論的説明は、政治理論と結びつきうる。ドイツの直系家族(あるいはロシアの共同体家族)は、別の比喩を生み出す。個人は、家族に属しているのと同じく国民に属している。これは、文字どおり血統の権利が国民という家族の権利となっていることを示している。この法制度は、国民(あるいは人民、あるいはフォルクス。何が集団の形態を決定しているかが分かれば、用語はもはや重要な意味をもたない)を広大な家族のようなものと定義している。さらに、ドイツで暗黙的にすぎなかったものが、日本では明示的に現れる。
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「ドイツで暗黙的にすぎなかったものが、日本では明示的に現れる」については若干の説明が欲しいところですが、この後には特に解説はありません。
上記文中の「国民」は、原書ではたぶん nation(ナシオン)で、「市民」はcitoyen (シトワイヤン)なんでしょうけど、ナシオンは「国家」と訳すのが適切な場合もありますから、ちょっと確認してみたいですね。
なお、日本語だと「国家」という言葉そのものに「家」が入ってしまっているので、正確な議論をしたいときは面倒だ、てなことを以前書いた覚えがあります。
「国家」の中の「家」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/834490318fddae7b6262e09a6bf78082
『近代法の形成』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ccc5aa64011c55474e4362de41aea7df
『近代法の形成』で村上淳一氏が論じているような国法学・国家学の若干古めかしい議論も、トッドの学説を知った後では、けっこう新鮮に読める部分がありますね。
小太郎さん
仰る通り、なぜかトッドは美を語らないですね。さきごろ亡くなったルネサンス的な知識人ウンベルト・エーコは美についてもずいぶん語っていました。
http://www.sankei.com/life/photos/160306/lif1603060022-p4.html
昨日、カラヴァッジョ展に行ってきました。
作者不詳「カラヴァッジョの肖像」の名をよくみると、
MICHELAGNOLO DA CARAVAGGIOPI
とあって、これでは、
ミケラニョロ・ダ・カラヴァッジョピ
としか読めません。なぜ「ーNGELO」ではなく「ーGNOLO」なのか、なぜ末尾に「-PI」が付いているのか、図録も読んでみましたが、何の説明もありません。前者は単純な誤記と言えなくもありませんが、後者の「-PI」はケアレスミスとは言いがたいものです。
誤記には作者(或いは第三者)の露骨な悪意を感じますが、所蔵先がサン・ルカ国立アカデミーで展覧会主催者が国立西洋美術館と、両国の国立機関が当事者の割には、かなり好い加減なので、驚きました。イタリア人ならば思い当たる節があるのでしょうが、日本人の来場者などにはどうせわからんだろう、と舐めているのかもしれません。あるいは、何か卑猥な意味が秘められているため、あえて言及しなかったのか。あるいは、PIは pittore(画家)の略称か。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%82%BB%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A2
ラファエッロ≪聖チェチリアの法悦≫(『天使とは何か』口絵6)に関連するものでは、オラツィオ・ジェンテレスキ≪スピネットを弾く聖カエキリア Saint Cecilia Playing the Spinet≫ がありましたが、作品名が日英併記であるため、よくわからないものの、カエキリアは所蔵先の表記名 Caecilia に倣ったものか。大半の作品はイタリアから借りてきたのだから、なぜ日伊併記にしないのか。日伊併記であれば、カエキリアという表記の背景がすぐわかる筈です。製作年(1618-21)と所蔵者(ウンブリア国立美術館)から考えれば、CaeciliaではなくCecilia(チェチーリア)だろう、という気がしますね。なぜ日英併記なのか、意味がよくわかりません。ちなみに、イタリアの研究者が図録に寄せた小論文は英語ではなくイタリア語でした。
まだいくつかありますが、展覧会の成功を祈って、やめておきます。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 4月16日(土)11時23分58秒
そして、トッドは次のように続けます。(p199)
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とはいえ、社会の上層階層が自由貿易に執着するのは、単に個人的利益のみから来ることではない。というのも、生活の安楽というのは、所得水準だけに還元されるわけではないからである。【中略】生活の安楽とは、所得の高さもさることながら、富裕者の場合も通常の市民の場合も、均衡ある人的環境の中で生活するということでもある。均衡ある人的環境とは、テロや強盗などに脅かされないような環境、結核などの重い病気に罹っても治療も受けられない社会の底辺の人間と道ですれ違うようなことのない環境、教育が生存競争になっていないような環境である。しかし現実には不平等の世界は、際限なく恐ろしいものであって、体制の恩恵に浴していると自称する者も、とりわけその子供を通して、退行的な社会的変動の影響を被らずにはいない。
そこで富裕者は、自分たちだけの郊外住宅地、自分たちだけの学校や大学に閉じこもることになるが、こうした社会的分離主義は、アメリカ合衆国ではもしかしたら一つの解決策なのかもしれない。しかし、ヨーロッパでは、社会から隔絶するということは、歴史と美がぎっしりと詰まった都市中心部の生活を捨てて逃げ出すということであり、まさに生活の質のグレードを落とすことにほかならないのである。
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長々と引用しましたが、これだけなんですね。
ま、「歴史と美がぎっしりと詰まった都市中心部の生活」だけでトッドが「美」について語っていると言うのは我ながら気が引けるのですが、少なくともここではトッドが「歴史と美がぎっしりと詰まった都市中心部の生活」をこよなく愛している人であることが分かります。
そういう人であるトッドが「美」について積極的に語らないのは、おそらく「私が頂戴したくない唯一の肩書きは、哲学者という奴」と関係していて、大げさな抽象的な概念だけを語りたくない、大文字の人間など語りたくない、あくまでも事実と数字に基づいた人間の類型を語りたいというトッドの禁欲的な姿勢の現れなんでしょうね。
>筆綾丸さん
>「半移民内閣」
私はフランス人の人名の由来に極めて鈍感で、ご指摘の点は全く気付いていませんでしたが、確かにすごいことですね。
アメリカのギャングは肌の色別に固まるけれども、フランスではパリ「郊外」の不良少年の集団すら様々な肌の色の持ち主がごちゃ混ぜになっているという話も連想してしまいます。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E6%AC%A1%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%B9%E5%86%85%E9%96%A3
ヴァルス内閣の閣僚をあらためて見て驚くのは、「半移民内閣」と呼んでも、あまり違和感がないことです。
ヴァルスはスペイン系、ベルカセムとエル=コムリとアズレはモロッコ系、トビラはギニア系(既に辞任)、ポー=ランジュヴァンはグアドループ系、フルール・ペルランは韓国の捨子(既に辞任)、といった具合です。(移民ではないものの、エル=コムリの前任レブサメンはナチ党員の息子)
オランド大統領も名前からして北の方からの流れ者の子孫かもしれず、パリ市長のイダルゴ女史はスペイン系・・・。
トッドは項羽の「時不利兮 騅不逝 騅不逝兮 可奈何」といったような四面楚歌の状態ですが、フランスの最も重要な理念である「エガリテ」を省みないオランドやヴァルスたちへの罵倒は、重要なことですね。また、トッドが侮蔑するル・モンド誌は、思想的には、日本の岩波書店に近いのかな、と私は思っています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%9A
フランスの次期大統領は、年寄りながら、アラン・ジュペではあるまいか、と予想しています。トッドが何と言うか、わかりませんが。
付記
「ハプタ・プネウマトン」(『天使とは何か』17頁)は、ヘプタ・プネウマータ(hepta pneumata)の誤りではないか、と思われました。
邦訳されているトッドの著作の7割程度を読み終えて、ふと気付いたのですが、トッドは宗教を語っても「美」については殆ど語らないですね。
私は宗教と「美」を密接に関係するものと考えていて、極端に個人的な見解ですが、宗教の優劣をどの程度の「美」を生み出す能力があるかで決めているほどです。
私の個人的基準では、どんなに強靭な論理を持っていようと寒々とした造形しか生み出さないプロテスタントはカトリックより圧倒的に劣ることになりますね。
また、日本はトッドの基準に照らせば「宗教的空白」が極めて長期間続いている国ですが、その空白の相当部分は「美」によって埋められていて、それが社会の安定に貢献してきたのではなかろうかと思っています。
トッドの教養から見て、トッドが「美」を語る能力を持たないはずはありませんが、少なくとも私が邦訳で読んだ範囲ではトッドが「美」について積極的に語った文章は見当たりません。
但し、もしかしたら稀有な例外かなと思える記述が、『デモクラシー以後』(藤原書店、2009)の自由貿易を非難する文脈の中でチラッと出てきます。
まず、前提としてトッドは自由貿易について以下のような調子で論じます。(p195以下)
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自由貿易は、もはや知的に興味深い主題ではなくなっている。一〇年ほど前には、自由貿易に賛成・反対の議論は、そのプラスとマイナスの帰結を予測してそれに備えることを目的としていた。それらの帰結はいまや目の前にある。リカードが理論化した比較優位の効用をくどくど繰り返し述べる─経済が分からないENA出身者のいつもの駄弁─のは、最大多数の所得の低下、一%の超富裕層の行き過ぎた富裕化、福祉国家の収縮、不安定、恐れ、といった現実を、分裂病的に否定するだけにすぎない。要するにこれは、ジャック・アタリの報告と構造改革の世界なのだ。・・・
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こんな感じでトッドは「国際経済の教科書」の欠陥を数ページ費やして論難し、ついで、
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一般的特徴として、自由貿易への賛同は個人的利害と一致する。資本は、先進国において比較的潤沢であり、生産の要因となるが、資本の所有者はいかなる場合にも優遇されており、最後の審判の日にも、彼らはおそらく最後まで信仰に忠実なものであるだろう。・・・
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てな具合で自由貿易への賛同者をシニカルに論じます(p198)。
小太郎さん
トッドの「移行期危機」説は、大袈裟に言うと、普遍的な物理法則のようなスケールの大きさがあります。
長男が言ったという「・・・牛肉屋、惣菜屋」は、権威主義的な家庭ではありえない父親への捨て台詞ですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%A2%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%AC%E3%83%BC
サン・ジェルマン・アン・レイは二度ほど行きましたが、とても綺麗な町です。現在のトッドの住居は知りませんが、Saint-Germanois(サン=ジェルマノワ)だったのですね。
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2016/03/102369.html
岡田温司氏の『天使とは何か』には写本細密画への言及が数ヵ所ありますが、天使はなかなか一筋縄ではいかない存在のようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%AB%E3%82%A8%E3%83%AB
ミカエルのヘブライ語の由来をはじめて知りました。先祖に大ラビのいるトッドには、ごく当然の知識なんでしょうが。
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「ミカエル」という名前を直訳すれば「神に似たるものは誰か」(mî疑問詞「誰」 + k?「~のような」 + hā ’ēl「神」)という意味になるが、『タルムード』では「誰が神のようになれようか」という反語と解される。
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小太郎さん
http://blogs.yahoo.co.jp/wsfpq577/20807329.html
大村雑記録はざっと(雑と?)眺めて、「トンデモに呆れかえりながら」や「何故か魔が差して購入してしまっていた」という表現に反応しましたが、よく読むと、なんだ、ちゃんと読んでるじゃないか、と認識を改めました。それはともかくとして、トッドの「移行期危機」説は、私には説得力のある仮説のように思われます。
http://www.tobikan.jp/exhibition/h28_jakuchu.html
http://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2016caravaggio.html
http://www.lemonde.fr/arts/article/2016/04/12/un-caravage-a-t-il-ete-decouvert-dans-un-grenier-en-france_4900222_1655012.html
若冲展とカラヴァッジョ展はぜひ行かねば、思っています。
トゥールーズ近郊の屋根裏部屋で2014年に発見された絵はカラヴァッジョの真筆ではないか、というル・モンドの記事の写真ですが、よくある絵柄とは言え、IS(ダーイシュ)の宣伝に使われはしまいか、というような絵ではありますね。
「L’œuvre montre Judith tranchant le cou d’Holopherne.(ホロフェルネスの首を斬るユディト・・・)は物理的に正確な表現ですが、一時、ニュースでよく使われた decapitation は「cap」に引きずられて頭を叩き割るようなイメージが付き纏います。どうでもいいことながら、フランスのギロチンを断頭(台)と訳したのは誰なのか、知りませんが、確信犯的な誤訳なんでしょうね。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 4月12日(火)10時49分34秒
>筆綾丸さん
大村拓生氏は『シャルリとは誰か?』全体が「トンデモ」だと言われている訳ではなくて、「アジアの社会主義を家族形態から説明するというトンデモ」としているだけですね。
この点は日本の歴史学研究者の大半が同じような反応になるのではないかと思います。
国会図書館の「簡易検索」でトッドの名前を入れると69件ヒットしますが、その半分はトッド自身の著書ないし対談・エッセイ等ですね。
残りは速水融氏を中心とする歴史人口学者、トッドの著作を多数翻訳している石崎晴己氏を中心とする青山学院大学関係者、また石崎氏を含む藤原書店周辺の知識人、そして佐藤優氏や池上彰氏のようなどうでもいい人が執筆していますが、歴史学研究者は見かけません。
トッドの知的関心の対象となる分野が広すぎるので、細かく専門化された普通の歴史学研究者では対応できないのかもしれません。
さて、神仏分離・廃仏毀釈はあまりやる気がなくなってしまったので、暫く中断します。
神仏分離・廃仏毀釈は、トッドの用語を借りれば「移行期危機」が生んだ宗教的現象ですね。
一般に識字化が進むと伝統的価値体系が動揺し、そして識字率がある割合を超えると世代間の断絶が起きて革命的イデオロギーに導かれた暴力の激発が起こる、というのが私なりに要約したトッドの「移行期危機」説ですが、既に近世のおいて宗教の解体が相当進展していた日本の場合は宗教が暴力的対立を煽ることは少なく、神仏分離・廃仏毀釈も一般的なイメージと異なり、殆ど暴力的な要素はなかったことを論じようかと思ったのですが、そのためには先日亡くなった安丸良夫氏への批判をかなりしなければなりません。
学説への批判ですから論者が生きていようが死んでいようが関係ないのですが、まあ、気分的にあまり乗らないのに無理する必要も特にありませんからね。
ということで、暫くはもう少しトッドを読むことにして、昨日から『デモクラシー以後─協調的「保護主義」の提唱』(藤原書店、2009)を読み始めましたが、「第一章 この空虚は宗教的な空虚である」は、どんな肩書きをつけられてもかまわないが哲学者とだけは呼ばれたくない、とどこかで書いていたトッドにしては哲学的な考察が多い異色の内容ですね。
http://www.fujiwara-shoten.co.jp/shop/index.php?main_page=product_info&products_id=1075&cPath=102_213&zenid=7b073dc252991c893975248a56967afa
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
小太郎さん
『アラブ革命はなぜ起きたか』の女性(?)インタビュアーの質問の刺々しさには興味深いものがありますが、原文のフランス語で読むと、もっと戦闘的に感じられるかもしれないですね。大村拓夫氏には、『シャルリとは誰か?』を契機にトッドの他の著作も読んでもらいたいですね。トンデモかどうかの判断は、それからでも遅くありませんが、おそらく読まないだろうな。
https://ja.wikipedia.org/wiki/Je_suis_Charlie
「Je suis Charlie」という風土的流行病をトッドほど冷静に分析しえた人はいないんですけれどね。ベルギーの事件では、国家の言語事情を反映して、JE SUIS BRESSELS(フランス語)とIK BEN BRUSSEL(フラマン語)併記の字幕になっていました。
http://museum.kokugakuin.ac.jp/special_exhibition/detail/2016_komonjo_m.html
昨日、渋谷の文化村ル・シネマに行ったついでに、國學院で中世の古文書を眺めたのですが、北條義時花押の関東下知状(承久3年8月24日付)は、後鳥羽院が隠岐に流された直後のものだけに、いろいろ感慨深いものがありました。
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480068545/
橋爪大三郎・植木雅俊両氏の対談集『ほんとうの法華経』は新書版ながら500頁近いものですが、随所に植木氏の知見が伺われて、興味深い本です。白蓮華(374頁)や常不軽(383頁~)の説明などは、サンスクリット語に通じた氏ならではの深い解釈ですね。
http://www.furugosho.com/accueil.htm
「世善治特網旧殿」の主人は、たしか『華厳経』に深い関心を寄せられていましたが、上記の対談集にも興味を抱かれるのではあるまいか、と思われました。とりわけ、白蓮華と常不軽に関するサンスクリット語などには。