学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その55)─「シレ者ニカケ合テ、無益ナリ」

2023-06-14 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

渡辺翔は後鳥羽院の寵童から西面の武士となった人で、幼名が「愛王」ですから、私が慈光寺本の作者と考えている藤原能茂、幼名「医王」とよく似た経歴の人ですね。
そして翔は流布本や『吾妻鏡』には登場せず、慈光寺本だけで活躍する人物で、慈光寺本では都合五箇所、その名前が出てきます。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その49)─「愛王左衛門翔トハ我事ナリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a05d022a8a0fcad9bd7aa4921b2de8b0
(その50)─「洲俣河原ニシテ纔ニ戦フトイヘドモ、皆落ヌル」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/abfe3f518960f8febf8b0841fc347508

翔については生駒孝臣氏に「後鳥羽院と承久京方の畿内武士」(野口実編『承久の乱の構造と展開』所収、戎光祥出版、2019)という論文がありますが、生駒氏は、

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 翔は、後鳥羽院による城南寺での仏事の守護を名目に行われた軍勢動員に際して、藤原秀康らの「廻文ニ入輩」とともに召集された、「諸国ニ被召輩」の「摂津国」の武士として関左衛門尉とともに把握されており、六月一日の官軍発向の際には、藤原秀康らと東海道軍の主将の一角を担っている。そして、六月五日の墨俣川の合戦で、幕府軍の猛攻に対して「数ノ敵ヲ討取テ、明ル卯時マデ」持ちこたえる働きをみせるものの、撤退を余儀なくされる。慈光寺本に六月十四日の宇治川合戦は描かれないが、その夜半に、山田重貞と高陽院殿の後鳥羽のもとへ参るも門前払いされたことにより、東寺で新田四郎と戦い、味方が討ち取られる中で大江山へ落ちてゆく。
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と書かれていて(p143)、慈光寺本の内容をそのまま信頼されているようです。
しかし、翔が後鳥羽院に宇治川合戦の敗北を報告に行ったことは事実なのか。
慈光寺本では、

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 翔〔かける〕・山田二郎重貞ハ、六月十四日ノ夜半計〔ばかり〕ニ、高陽院殿〔かやのゐんどの〕ヘ参テ、胤義申ケルハ、「君ハ、早〔はや〕、軍〔いくさ〕ニ負サセオハシマシヌ。門ヲ開カセマシマセ。御所ニ祗候シテ、敵待請〔まちうけ〕、手際軍〔てのきはのいくさ〕仕〔つかまつり〕テ、親〔まのあた〕リ君ノ御見参ニ入テ、討死ヲ仕ラン」トゾ奏シタル。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f263e58f5c29509706d6166498b7e1f6

とあって、翔に同行した三浦胤義は御所で最終決戦をしたいと希望し、その許可を後鳥羽院に求めています。
これも細部まで史実かどうかは分かりませんが、宇治川合戦の敗北を踏まえ、敗軍の将が今後の方針についての判断を後鳥羽院に求めるのは当然のことです。
従って、これは単なる事実の報告ではありませんから、「総大将」クラスの武将が行なうべきであり、藤原秀康・三浦胤義なら相応しいとしても、渡辺翔ではどうなのか。
私としては、後鳥羽院への報告者は『吾妻鏡』と流布本の記載が正しく、渡辺翔は慈光寺本の脚色だと考えます。
では、何故に慈光寺本はそのような脚色をしたのか。
まあ、それは作者が「医王」「愛王」時代からの古い友人の翔に、華やかな場面を御膳立てしてあげたからではなかろうかと思います。
なお、『吾妻鏡』六月十八日条の「六月十四日宇治合戦討敵人々」の最後の方に、

 古郡四郎〔一人。瑠璃王左衛門尉。西面。生取〕

とあります。
古郡四郎が「瑠璃王左衛門尉」を生捕りし、その人物は西面の武士だったとのことですが、

 医王左衛門尉(藤原能茂)
 愛王左衛門尉(渡辺翔)
 瑠璃王左衛門尉

と「〇王左衛門尉トリオ」になっているようなので、非常に気になります。
まだ全然調べていませんが、「瑠璃王左衛門尉」について何か御存知の方は御教示願いたく。
さて、渡辺翔についてはとりあえずこの程度として、先に進みます。(岩波新大系、p350以下)

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 紀内〔きない〕殿、打テ出タリ。山田殿カケ出申サレケルハ、「我ヲバ誰トカ御覧ズル。尾張国住人山田小二郎重貞ゾ」トナノリテ、手ノ際〔きは〕戦ケル。敵十五騎討取、我身ノ勢モ多〔おほく〕討レニケレバ、嵯峨般若寺ヘゾ落ニケル。
 其次ニ、黄村紺〔きむらご〕ノ旗十五流〔ながれ〕ゾ差出タル。平判官申サレケルハ、「是コソ駿河守ガ旗ヨ」トテカケ向フ。「アレハ、駿河殿ノオハスルカ。ソニテマシマサバ、我ヲバ誰カト御覧ズル。平九郎判官胤義ナリ。サテモ鎌倉ニテ世ニモ有ベカリシニ、和殿ノウラメシク当リ給シ口惜〔くちをし〕サニ、都ニ登リ、院ニメサレテ謀反オコシテ候ナリ。和殿ヲ頼ンデ、此度〔このたび〕申合文〔まうしあはせぶみ〕一紙ヲモ下シケル。胤義、オモヘバ口惜ヤ。現在、和殿ハ権太夫ガ方人〔かたうど〕ニテ、和田左衛門ガ媒〔なかだち〕シテ、伯父ヲ失〔うしなふ〕程ノ人ヲ、今唯、人ガマシク、アレニテ自害セント思〔おもひ〕ツレドモ、和殿ニ現参〔げんざん〕セントテ参テ候ナリ」トテ散々ニカケ給ヘバ、駿河守ハ、「シレ者ニカケ合テ、無益〔むやく〕ナリ」ト思ヒ、四墓〔よつづか〕ヘコソ帰ケレ。
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検討は次の投稿で行います。

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