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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その18)─藤原秀澄による山田重忠案の拒絶を史実とされる坂井孝一氏

2023-10-20 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
坂田孝一氏は慈光寺本に描かれた藤原秀澄像に加え、山田重忠が藤原秀澄に大胆な鎌倉攻撃案を提示し、秀澄がそれを拒絶したことも史実と考えておられるようで、これは相当に珍しい立場ですね。
重忠案の考察は(その16)で引用した部分の直前にありますが、秀澄の立場を理解しておかないと分かりにくいところがあるので、少し前から引用します。(p172以下)

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迎撃する京方
 承久三年(一二二一)六月三日、鎌倉方が遠江国府に着いたとの報を受け、公卿僉議が開かれ、北陸・東山・東海山道に藤原秀康を追討使とする軍勢の派遣が決められた。陣容は『吾妻鏡』と「慈光寺本」とで相違もあるが、おおよそ以下の通りと考える。
【中略】
 藤原秀康・秀澄兄弟ら院近臣の武士、大内惟信、佐々木広綱、五条有長、小野盛綱、三浦胤義ら有力な在京御家人、源翔のような西面の武士、山田重忠・重継父子、蜂屋、神地、内海、寺本、開田、懸橋、上田といった美濃・尾張の武士で構成された軍勢である。「慈光寺本」はその総数を、鎌倉方の十分の一程度、「一万九千三百廿六騎」とする。
 ところが、「海道大将軍」の藤原秀澄は、このうちの「山道・海道一万二千騎」を「十二ノ木戸ヘ散ス」、つまり十二ヵ所の防衛用の柵に分散させる戦術を取ったという。当然、各木戸の兵力はさらに少なくなり、明らかに失策であった。こうした戦術の選択について、「慈光寺本」も「哀レナレ」と批判的に叙述している。
 また、後鳥羽は軍事力の増強を図って、武士以外の動員も始めた。宮田敬三氏は、六月になると、追討宣旨を発して官軍を下向させただけでなく、「在京・在国の武士や荘官、寺社、公家の兵力を召集した」とする。ただ、「近国御家人や寺社勢力の参陣拒否」「荘官等の本意ではない参戦」などが相次ぎ、十分な兵力を集めることはできなかった。
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いったん、ここで切ります。
六月三日の公卿僉議云々の話は『吾妻鏡』同日条に、

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関東大将軍著于遠江国府之由。飛脚昨日入洛之間。有公卿僉儀。為防戦。被遣官軍於方々。仍今暁各進発。【後略】

https://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあるのを受けていますが、慈光寺本にはそのような記述はありません。
慈光寺本では日次不明のまま、後鳥羽院の「宣旨」(ただし、文書ではなく口頭の指示)を受けて「能登守秀康」が「手々ヲ汰テ分ラレケリ」と、秀康による第一次軍勢手分が行なわれます。
そして、やはり日次不明のまま、「海道大将軍河内判官秀澄」が「美濃国垂見郷小ナル野」にて、第二次軍勢手分を行います。
これに対する慈光寺本作者の評価が、「山道・海道一万二千騎ヲ十二ノ木戸ヘ散ス事コソ哀レナレ」です。
なお、実際に数えてみると、十二ではなく十箇所ですね。

慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その3)─「3.藤原秀康の第一次軍勢手分 21行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/43e09e10a4bab75dd2a1b0608e586a02
慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その4)─「4.藤原秀澄の第二次軍勢手分 8行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ac009c41b0fbb326d6d86e08d08b17e1

さて、続きです。(p174以下)

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積極策と消極策
 一方、北条時房は遠江国の橋本の宿に進んだ。ここで「慈光寺本」は、京方に付いた主人小野盛綱に合流しようと抜け出した安房国の筑井高重を遠江国の内田党が打ち、時房が「今度ノ軍ニハヤ打勝タリ」と軍神に鏑矢を奉った鎌倉方のエピソードを叙述する。
 重忠の戦術とは、十二ノ木戸に分散させた山道・海道一万二千騎を一つにまとめ、墨俣から長良川・木曽川を渡って尾張国府に攻め寄せ、次いで遠江国橋本の宿にいる北条時房・同泰時を打ち破り、そのまま鎌倉に押し寄せて北条義時を討ち取った上、北陸道へ廻って北条朝時をも討ち果たすという勇猛果敢な積極策であった。ところが、「天性臆病武者」の秀澄は、北陸道軍の朝時や東山道軍の武田・小笠原に挟撃される危険があるとして重忠の策を用いず、墨俣で鎌倉方を迎え撃つ消極策を選択する決断をした。鎌倉方が大江広元・三善康信の策を採用し、迎撃から出撃に戦術を変えたのとは対照的である。確かに重忠の積極策が功を奏するかどうか、この時点で未来の予測はつかない。しかし、結果的に、秀澄の選択・決断によって京方は戦況を打開するチャンスを自ら手放すことになった。
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ということで、「結果的に、秀澄の選択・決断によって京方は戦況を打開するチャンスを自ら手放すことになった」ですから、坂田氏は慈光寺本に描かれた重忠の鎌倉攻撃案の提示と、秀澄によるその拒絶を史実と考えておられる訳ですね。
しかし、私には、そもそも秀澄がどのような資格・権限で、そのような「選択・決断」をしているのかがさっぱり分かりません。

慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その5)─「6.山田重忠の鎌倉攻撃案 13行(☆)」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/11bd548f267504af6f410448505046cb
慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その6)─「7.山田重忠による鎌倉方斥候の捕縛 21行(☆)」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1fd1b7079d0d81e42108817de26ef9d6
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その17)─坂井孝一説に「リアリティ」はあるのか。

2023-10-20 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
前回引用した部分、前半は、「美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国ヲ奉ラン」が「リアルな恩賞」の提案と評価できるか否かについて若干の疑問は生ずるものの、このエピソードに「文学的な脚色や誇張が含まれている可能性」があると指摘した上で、「武士たちの価値観・行動パターンの一端を示したエピソード」とするに留めておけば、別に歴史研究者の文章として、それほどおかしくもないと思います。
佐藤雄基氏も『御成敗式目 鎌倉武士の法と生活』(中公新書、2023)において、そのような趣旨のことを言われていますね。

慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その8)─「9.武田信光と小笠原長清の密談 4行」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0353816ce8ab1461a133fe452a9d4f93

しかし、坂田氏は、

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 ただ、より注目すべきは、自軍の武将の性格・傾向を把握し、リアルな恩賞を提示して裏切りを阻止した時房の眼力と決断力である。六ヵ国の守護職の保証というのは誇張かもしれないが、武田・小笠原の心に響く何らかの具体的な恩賞を提示したのであろう。後鳥羽が選んだ海道大将軍秀澄と比べると、そこには埋め難い差がある。ひいてはこれは、後鳥羽との差でもある。後鳥羽は追討の院宣で褒美を与える。官宣旨では院庁への参上と上奏を許可するという形で恩賞を示した。しかし、畿内近国はともかく、東国に本拠を置く武士にどれほどのリアリティをもって伝わったか疑わしい。後鳥羽の東国武士に対するリアリティの欠如は、合戦の勝敗をも左右するものだったと考える。
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と書かれているので、「六ヵ国の守護職の保証」は「誇張」かもしれないものの、北条時房が「自軍の武将の性格・傾向を把握し、リアルな恩賞を提示して裏切りを阻止」したのは事実の可能性が高く、時房は「武田・小笠原の心に響く何らかの具体的な恩賞を提示した」と推定されます。
そして、時房の「眼力と決断力」は「後鳥羽が選んだ海道大将軍秀澄と比べると、そこには埋め難い差が」あり、「ひいてはこれは、後鳥羽との差でもある」そうです。
坂田氏は慈光寺本に描かれた「海道大将軍秀澄」関係記事が史実であろうとした上で、後鳥羽院の「東国武士に対するリアリティの欠如」が「合戦の勝敗をも左右」したとされる訳ですね。
うーむ。
「リアルな恩賞」と言われますが、別に戦後、武田信光・小笠原長清が「美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国」の守護となった訳でもなさそうなので、いったいどこが「リアル」なのか。
慈光寺本は、時房に巨大なニンジンを目の前にぶら下げられた武田馬と小笠原馬が、ニンジン目当てに尾張河を渡河したとしますが、約束を守った武田馬・小笠原馬がたいしたニンジンを得られなかったとしたら、時房と武田馬・小笠原馬の間で『吾妻鏡』に載るくらいの大トラブルが発生してもよさそうです。
しかし、『吾妻鏡』その他の史料には、そのような気配を窺わせる記事はありません。
そうした事情を熟知されているであろう坂田氏は、「武田・小笠原の心に響く何らかの具体的な恩賞」という微妙な言い換えをされたのでしょうが、史料的根拠の欠片もない、そのような想像に「リアリティ」はあるのでしょうか。
そもそも私には、何故に「東海道大将軍」の一人にすぎない北条時房(『吾妻鏡』承久三年五月二十五日条、他は泰時・時氏・足利義氏・三浦義村・千葉胤綱)が「東山道大将軍」である武田信光・小笠原長清(他は小山朝長・結城朝光)に大井戸・河合を渡河するように指示ないし依頼し、従ったら「美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国ヲ奉ラン」などと恩賞を約束することができるのかが分かりません。
しかし、仮に何らかの事情で、時房にそのような強大な権限があり、かつ、時房に武田信光・小笠原長清の「裏切り」の可能性を見抜くような「眼力」があったとしたら、時房は義時にアドバイスして、裏切る可能性のある二人を最初から「東山道大将軍」にせず、鎌倉に置いて監視しておけば良いだけのように思われます。
また、行軍の途中で時房が二人の「裏切り」の可能性に気づいたのだとしたら、いったい時房はどのような手段でその事情を知り得たのか。
二人の密談の直後、時房が直ちにその内容を知り、「武田・小笠原の心に響く何らかの具体的な恩賞」を提示できたということは、時房が武田・小笠原に放っていた密偵が二人の密談を立ち聞きしたということなのか。
私には坂井説のどこに「リアリティ」があるのか、さっぱり理解できません。
参考までに流布本で武田・小笠原の「裏切り」の可能性を窺わせる記事を探すと、

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市原に陣を取時に、武田・小笠原両人が許〔もと〕へ、院宣の御使三人迄〔まで〕被下たりけり。京方へ参〔まゐれ〕と也。小笠原次郎、武田が方へ使者を立て、「如何が御計ひ候ぞ。長清、此使切んとこそ存候へ」。「信光も左様存候へ」とて、三人が中二人は切て、一人は「此様を申せ」とて追出けり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6872bfb97130022f99fc08b331d99495

というエピソードがあります。
小笠原長清の許に最初に「院宣の御使」三人が来て、長清はそれを武田信光に連絡し、二人で相談の上、長清は「院宣の御使」三人のうち二人を処刑し、一人は「此様を申せ」と言って京に追い返した、ということだろうと思いますが、長清は何故に一人は生かしたのか。
まあ、面倒な使者を二度と送ってくるな、という意味があったのかも知れませんが、それよりも密使を京に送り返して、長清・信光が「裏切り」をしなかったという証人を確保することが目的だったように思われます。
三人とも殺してしまったら、後で幕府内で小笠原・武田が「裏切り」を疑われたときに、そんなことはしなかったという証人がいなくなってしまいますからね。
小笠原長清が武田信光に「院宣の御使」三人を確保したという「使者を立て」、信光の了解を得て対処したのも、信光に自分が「裏切り」をしなかったという証人になってもらうためでしょうね。
戦場における「リアリティ」とは、「裏切り」は絶対に許さない、ということであり、北条時房を含む幕府首脳部のそうした姿勢は『吾妻鏡』七月二日条などにも明らかですね。

https://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm
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