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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その62)─後鳥羽院出家の経緯と能茂の役割

2023-06-17 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

『吾妻鏡』七月六日条にも、

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上皇自四辻仙洞。遷幸鳥羽殿被。大宮中納言〔実氏〕。左宰相中将〔信成〕。左衛門少尉〔能茂〕以上三人。各騎馬供奉御車之後。洛中蓬戸。失主閇扉。離宮芝砌。以兵為墻。君臣共後悔断腸者歟。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm

とあるので、後鳥羽院の鳥羽御幸に能茂が西園寺実氏・藤原信成とともに供奉したことは事実と思われますが、さすがに十日の出来事は『吾妻鏡』には載っていないですね。
一応、拙訳を試みると、

【私訳】 その時、「武蔵太郎」北条時氏は流を涙して、「武蔵守殿」北条泰時に、
「伊王左衛門能茂は、前世において「十善君」後鳥羽院とどのようなお約束をし申し上げていたのでしょうか。「能茂に今一度だけ会いたい」との「院宣」が下され、都において「宣旨」を下されるのは、今はこの事ばかりです。早く「伊王左衛門」を後鳥羽院の御そばに参上させなさるべきと思われます」
というお手紙を書かれたので、北条泰時は、
「時氏の書状を御覧くだされ、殿原。今年で十七歳の若さなのに、これほどの思いやりの心があったのだ。立派なものだ」
とおっしゃり、
「伊王左衛門、入道せよ」
と命じたので、能茂は出家してから参上した。
後鳥羽院は能茂を御覧になって、
「出家したのだな。私も今となっては剃髪しよう」
と決意され、仁和寺の御室(道助法親王、後鳥羽院皇子)を御戒師として御出家なされたので、御室を始めとして、見奉る人々、そのお話を聞いた人々は、身分の高い者も賤しい者も、猛々しい武者に至るまで、涙を流し、袖を絞らぬ者はいなかった。

とのことで、閻魔王の使いのように責め立てていた北条時氏が、「能茂に今一度だけ会いたい」との後鳥羽院の言葉を聞くや、突然涙を流し、父・泰時に手紙を書いて能茂を後鳥羽院に会わせるように提案し、その手紙を見た泰時は、時氏は十七歳の若さなのに、これほど立派な手紙を書きました、と「殿原」に見せびらかします。
そして、泰時は能茂に出家を命じますが、これは出家させることで合戦に参加した能茂を助命し、かつ、後鳥羽院に出家を促すことを意図しているようです。
そして、出家姿の能茂を見た後鳥羽院は、自分も出家を決意し、仁和寺御室を御戒師として出家します。
仁和寺御室を始めとして、後鳥羽院の出家の事情を見たり聞いたりした人々は、身分の高い者も低い者も涙を流しました、とのことですが、あまりに目まぐるしい展開ですね。
いくつか補足すると、時氏は建仁三年(1203)生まれなので、承久三年(1221)には十九歳です。
また、久保田淳氏の脚注によれば、「仁和寺御伝・光台院御室」に「同(承久)三<辛巳>年七月八日庚寅上皇御出家御戒師」とあって、史実では後鳥羽院の出家は七月八日です。
『吾妻鏡』でも、七月八日条に、

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持明院入道親王〔守貞〕可有御治世云々。又止摂政〔道家〕。前関白〔家実〕被蒙摂政詔云々。今日。上皇御落飾。御戒師御室〔道助〕。先之。召信実朝臣。被摸御影。七条院誘警固勇士御幸。雖有御面謁兮。只抑悲涙還御云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm

とあって、この日は一方で守貞親王(後高倉院)を新たな治天の君とし、摂政も九条道家から近衛家実に代えるなど、新しい体制の整備が着々と進められる一方、既に過去の人となった後鳥羽院が出家し、時代の変化が鮮明に現れることとなります。
さて、慈光寺本では能茂が極めて重要な人物で、後鳥羽院が宮々をさしおいて能茂に会いたいと言うや、北条時氏が感動し、泰時も感動し、能茂は泰時の直々の命令で出家して、その出家姿を見た後鳥羽院が出家を決意したとのことで、まるで能茂は後鳥羽院出家の実質的な導師のような扱いですが、果たしてこれを史実と考える歴史研究者はいるのか。
まあ、たぶんいないと思いますが、では、何故このような奇妙なエピソードが慈光寺本には延々と載っているのか。
私は、それは能茂が慈光寺本の作者で、自分がいかに重要な人物であったかをアピールするためだと考えますが、他に何か説得力のある理由付けが可能でしょうか。
今年の二月初めに私はリンク先の記事を書き、その後、藤原能茂とその周辺に関する相当多くの文献を読んでみましたが、当初の私見はそのまま維持できるものと思っています。

慈光寺本『承久記』の作者は藤原能茂ではないか。(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/870b1319bf4c43646f8d868ba2830b4b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/030764e13365064fe1fc33203a47fbc0
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ee67ada9eeeeca23f3d8d5485199ac5b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ae971e493adbe288b43f7a272012f86f

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