学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

津田博士の裁判に関する上申書

2014-06-29 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 6月29日(日)07時49分40秒

南原繁の歌人としての才能には若干の疑念を感じますが、本職の政治思想史についてはすごいですね。
戦争中の昭和17年に初版が出た南原の主著、『国家と宗教─ヨーロッパ精神史の研究─』(岩波書店)は私の学力では些か難解で、挫折しそうになりつつも少しずつ読んでいるところです。

『聞き書 南原繁回顧録』に出てくる「津田博士の裁判に関する上申書」は、『国家と宗教』と同じく昭和17年に書かれたものですが、興味深い史料なので、参考までに転載しておきます。
原文はカタカナ表記ですが、読みづらいので、ひらがなに換えてみました。

---------
  上申書

 文学博士津田左右吉氏図らずも其の学問的著作に関して法に問はる。茲に等しく学界に席を汚し直接間接博士の人格と学風を知れる者等敢て非礼を顧みず一書を捧呈して上司各位の御清鑿を仰がんとす。
 博士は早くより支那満州の研究を初めとし日本歴史の研究に従事すること三十有余年、世の名利を求めず、嘗て一般通俗雑誌に執筆したることなく、又長く早稲田大学に教授たりし間にも、最近東京帝国大学法学部に於いて東洋政治思想史に関する数回の特別講義を為したる外、学外殆んど一切の講義講演の依頼にも応ぜず、学者として家に清貧の生活に甘んじつつ只管学問研究に没頭すると共に、学園に子弟の教育及び指導に専心し来り、其の典型的なる学者的生活と謙譲温雅なる人格と真摯なる研究態度とは、少しく博士に接近したる者の等しく畏敬措く能はざるところなり。
 其の久しきに亙りて労作したる論著極めて多数に上り、何れも真面目なる学術的研究の成果として高く評価せられ、幾多独創的見解の如きも古今先蹤の学説及び広く内外の資料に基づき歴史家として刻念なる文献学的研究に基礎を置き、加ふるに深き言語学的素養と文化史的達観とによりて批判綜合したるものに外ならず。その間我邦歴史学の研究に貢献する大なるものありて文学博士の学位を授与せられたり。
 博士の日本に関する諸研究も、右の意味に於いて特色あるものとして夙に学界に認めらるるところにして、その如何なる学説も、日本歴史をして真に学術的批判に堪へ得しむる強固なる基礎に置かんとする、博士の国家思想と学的良心より出でたること、生等の確信して毫も疑はざるところなり。
 このことは其の個々の所説に賛同すると否とを問はず何人も怪しむ者なく、博士の研究と業績は斯学界に大なる刺戟と影響を与へ、多年諸学者によりて夫々の立場より批評し攻究せられ来りしところにして、其の間、未だ嘗て国法上の問題を惹起したること無きは勿論、一般社会上或は政治上の物議を醸しあること無かりき。
 然るに最近昭和十四年頃俄に一部人士によりて博士の従来の思想及び学説が問題とせられ、遂に昭和十五年、皇室の尊厳を冒瀆するものとして起訴せらるるや、生等博士の人格と思想を知れる者等は当然予審免訴を信じて疑はざりしに、不幸此の度公判に回付せらるるに及びたるは驚愕且つ憂慮の至りに堪へざると共に、博士の一身に対してのみならず広く学界のため国家のため頗る遺憾とするところなり。
 生等飽くまで博士の無辜を信じ、何よりも日本臣民とし又学徒として受けたる最大の汚名より雪がれ、殆んど全生涯を学問報国のために捧げ来りたる我が国の此の尊敬すべき老学者をして其の終を全うせしめんと念願するの余り、敢て所信と衷情を披瀝して上司各位に訴へ、謹んで公正明達なる御審理と御裁断とを冀ふ次第なり。
  昭和十七年  月  日
 (以下、89名の学者の名前)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

市河三喜・晴子のことなど

2014-06-27 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 6月27日(金)22時11分4秒

>筆綾丸さん
レスが遅くなってすみません。

>『遊人の抒情 柏木如亭』
2010年7月15日に筆綾丸さんが書かれていますね。


このころ市河寛斎も少し話題に出ましたが、最近、たまたま市河寛斎について改めて調べていました。
きっかけは『聞き書 南原繁回顧録』(東大出版会、1989)p255以下に載っている「津田博士の裁判に関する上申書」で、津田左右吉と岩波茂雄の出版法違反裁判に際して南原繁が原案を作成し、津田を支援する89名の学者が署名して第一審の裁判長に提出したものです。
その署名者の構成が面白いなと思って少しずつ調べていたのですが、署名者の一人に英語学者の市河三喜(さんき、1886-1970)がいて、この人は市河寛斎の子孫ですね。
また、市河三喜の最初の奥さんの晴子(1896-1943)は穂積陳重・(渋沢)歌子夫妻の三女、従って渋沢栄一の孫に当たりますが、頭の回転がすばらしく早くて、実に魅力的な女性ですね。
後でこの二人について少し書いてみたいと思っています。

市河三喜(「歴史が眠る多磨霊園」サイト内)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

『江戸幕府と儒学者』 2014/06/25(水) 13:00:58
小太郎さん
熊谷氏のモノは、ご指摘の通り、論文でも小説でもなく、エッセーですらないかもしれませんね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E5%86%85%E6%B0%8F
悪役の老中松平信祝の系譜を辿ると、話題の理化学研究所の三代目所長大河内正敏や女優河内桃子に行き着きますが、関係者からクレームは出なかったのでしょうかね。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/2014/06/102273.html
揖斐高氏の『遊人の抒情 柏木如亭』は以前面白く読んだので、早速、『江戸幕府と儒学者』を購入して捲ると、ウェーバーからの引用が目にとまりました。
-------------------
マックス・ウェーバーは『社会学の基本概念』において、人間の社会的行為を次の四つの類型に分類して説明した。目的合理的行為、価値合理的行為、感情的行為、伝統的行為の四類型である。目的合理的行為とは、自己の主観的な目的を実現するためにもっとも合理的だと判断して採用する行為をいう。価値合理的行為とは、予想される結果にかかわらず自己の信ずる価値(宗教的・道徳的・学問的など)を実現しようとする行為。感情的行為とは、感情や気分によって直接的に惹き起こされる行為。伝統的行為とは、身についた習慣によって発動される無意識的な行為を指している。
方広寺鐘銘事件における羅山の行為を、マックス・ウェーバーのこの四類型に当てはめてみるとどうなるであろうか。感情的行為と伝統的行為はとりあえず除外して考えてよいであろう。仮に羅山が主君家康の勘気を受けて窮地に陥ることになるかもしれないなどという結果を考慮することなく、漢文の語法にしたがって鐘銘を学問的に適正に解釈したとすれば、その羅山の行為は価値合理的行為だったと言えるであろう。しかし、羅山はそうすることを選択しなかった。主君家康による王道政治の実現という、儒者羅山が主観的に正しいと考える目的実現のために、羅山は合理的手段の一つとして、曲解を厭うことなく鐘銘批判を行ったのである。この羅山の行為はまさに目的合理的行為と言うべきものであった。
羅山の方広寺鐘銘事件における行動は、これまで「曲学阿世」というレッテルを貼られて厳しく断罪されてきた。学問は政治から独立して真実を追求すべきだとする近代的な学問観を羅山の「勘文」に適用すれば、羅山を「曲学阿世」の徒とする非難は故なきものではない。しかし、羅山の行動の根底に、儒教的な王道政治実現のために儒者として何を為すべきかという志があったとすれば、「曲学阿世」というレッテル貼りは、羅山の行動の本質を覆い隠すことになってしまうのではあるまいか。(26頁~)
-------------------

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140623/wlf14062321240026-n1.htm
光秀謀叛の背景に長宗我部氏問題があったとする説は、最近、よく聞きますが、そんなことよりも、この書状の釈文を示してほしいですね。東京の何処かでも展示してほしい。写真を拡大してみると、元親の花押が足利将軍家のいわゆる武家花押を真似たものであることが、よくわかりますね。

※筆綾丸さんの2010年7月15日付投稿。

柏木如亭 2010/07/15(木) 19:17:59
小太郎さん
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/0/0023500.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E6%9C%A8%E5%A6%82%E4%BA%AD
以前、揖斐高氏の『遊人の抒情 柏木如亭』を読み、いたく感銘を受けたものですが、如亭の師匠である寛斎が登場します(24頁~)。

 昌平啓事の名を抛擲して        抛擲昌平啓事名
 煙波近き処 幽情を占む        煙波近処占幽情
 江湖 社を結びて 詩はひとへに逸   江湖結社詩偏逸
 木石 居を成して 趣もまた清し    木石成居趣亦清
 白首 人間 席を争ひ罷め       白首人間争席罷
 青雲 世外 衣を振ひて行く      青雲世外振衣行
 扁舟 月に乗じて誰か相ひ訪はん    扁舟乗月誰相訪
 門は静かに 寒潮 夜夜の声      門静寒潮夜夜声

(中略)
・・・命名の意図を寛斎は次のように説明している。
社名江湖、これを宋人の流派に取る。曰はく、吾輩は朝に坐せず、宴  に与らず。幸に大平の世に生まれ、含鼓の沢に沐浴す。即ち知道の庶  人為るを得ば、即ち足れりと。
中国宋代の末期、民間在野の詩人たちを中心にした江湖派と呼ばれる一派が南宋の詩壇を席捲したという文学史的事実を踏まえ、これからは自分たちも大平の世の庶人として詩壇で活躍するのだという志を込めた命名だったのである。こうして寛斎が主宰し、如亭も参加した江湖詩社の活動が始まることになったが、江湖詩社が結成されたこの天明という時代は、江戸詩壇にとっても大きな転換期に当たっていた。
(中略)
世間では江戸詩壇における詩風の変化は江湖詩社から始まったと云うが、それは自然の運というものがそうさせたのであって、自分の力によるものではないと、いかにも寛斎らしい謙抑な物言いをしている。しかし、江戸詩壇の現実主義的な詩風への転換は、寛斎の率いる江湖詩社が前衛となることによって推進されたと見るのは、衆目の一致するところであった。つまり、如亭はそうした革新的な江湖詩社の活動にもっとも早い時期から参加し、その前衛として革新運動に携わる過程で詩人として自己形成を行ってきたのであった。
詩社の命名にも顕著に現われ、また寛斎が「源温仲先生に与ふ」にいみじくも記したように、彼らの活動の根底には「江湖」「庶人」すなわち市民としての意識がはっきりと存在していた。もはや漢詩は政治を担当する士大夫や人の道を考究する儒者の専有物ではなく、江湖の詩すなわち市民の文学として革新されようとしていた。詩社結成後ほどなくして、天明八年(一七八八)頃には高松藩儒の息子で江戸に遊学中の菊池五山、寛政初年には江戸の開業医の息子で詩人になろうと志した大窪詩仏が、そしてまた同じころ、札差の息子小島梅外が江湖詩社に参加することになった。

如亭の詩は素晴らしいものですが、鴎外や漱石は、江湖詩社について、どう思っていたのでしょうね。

如亭が遊んだ新潟について、同書に、次のような記述があります(124頁)。

信濃川河口も砂嘴の上に発達した新潟は、米をはじめとする越後平野の豊かな産物の積出港として栄え、戸数は約一万戸、古町を中心にして俗に八百八後家と称された多くの娼妓をかかえる、日本海沿岸きっての歓楽都市であった。文政二年に出版された新潟の洒落本『新潟後の月見』の甘泉酔翁の序には、「越後新潟の湊には、其国第一繁栄の地にして、遠近の千船百舟繋船し、奥羽信州はもふすに及ばず、諸国交易の地にして甚盛也。されば当地の名物は八百八後家と世にいゝふらし、他の国までしらざるなし」と記されている。

八百八後家(はっぴゃくやごけ)という含蓄のある言葉、はじめて知りました。この表現は、まだ残っているかのどうか・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金沢貞顕の恐怖の記憶

2014-06-22 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 6月22日(日)22時43分26秒

>筆綾丸さん
桃崎氏の「建武政権論」の場合、その論理・結論・レトリックに賛成・反対・好き嫌いはあるとしても、「論文」であることを否定する人はいないと思いますが、熊谷氏の「モンゴル襲来と鎌倉幕府」については、事実の列挙だけで論理がない、こんなものを「論文」とは認めない、という研究者もいるかもしれませんね。
また、表現についても、例えば前回投稿で引用したp34に「連署金沢貞顕が執権に昇ると、高時の同母弟北条泰家は不服として出家した。北条経時・時頼と阿蘇為時をめぐる惨劇が、頭をよぎる」とありますが、小説家だったら「頭をよぎる」は全くオッケーですけど、研究者としてはどうなのか。
逆に歴史小説だと思えば我慢できるかというと、今度は登場人物の心理分析の点で難点があるように思います。
仮に「北条経時・時頼と阿蘇為時をめぐる惨劇」があったとしても、1278年生まれの金沢貞顕にとってはずいぶん昔の話であり、そんな遠い記憶を辿らなくても、貞顕自身が山ほど恐怖の体験をしていますね。
貞顕にとって最も怖かったであろう瞬間は、おそらく六波羅探題南方として在京中、嘉元の乱(1305)の知らせを聞いた時だろうと思います。
永井普氏の『人物叢書 金沢貞顕』(吉川弘文館、2003)から少し引用してみます。(p39以下)

---------
 嘉元三年(一三〇五)四月二十二日、得宗北条貞時は鎌倉の宿館が焼失したため、執権北条師時の館に遷った。翌二十三日、内管領北条宗方は得宗の仰せと称して連署北条時村を誅殺した。このことを知らせる鎌倉の使者が六波羅北殿に到着したのは、四月二十七日辰刻のことである。(中略)
 この事件で、貞顕は困難な立場に立たされることになった。誅殺された連署北条時村は貞顕の舅にあたる。鎌倉からの第一報が届いた時、六波羅南殿は「上下色を失い、公私声を呑み候」という状況に陥った。貞顕の夕日倉栖兼雄は、宿館に待機させられた時の心境を「恐怖の腸、肝を焼き候き」と吐露する。六波羅探題北方の北条時範が貞顕を時村の与党と見なし、軍勢を集めて攻め寄せてくることは十分に考えられることであった。貞顕にできることは、無為無事の祈祷を陰陽師や宿曜師に依頼するぐらいであった。
 六波羅南殿が不安と緊張に包まれていた頃、鎌倉の情勢は激しく動いていた。五月二日、時村の誅殺が誤りであると発表され、時村討伐に向かった人々が一転して刎首された。この中には、母の妹の嫁ぎ先五大院家の五大院高頼が含まれていた。五月四日になると、時村誅殺が宗方の陰謀であるとして、宗方とその与党が誅殺された。五月四日の騒動の顛末を伝える使者が六波羅に到着したのは、五月七日子刻である。(中略)時村に対する嫌疑が無実であると宣言されたことにより、六波羅南殿はようやく安堵することができたのである。
---------

貞顕周辺が「六波羅探題北方の北条時範が貞顕を時村の与党と見なし、軍勢を集めて攻め寄せてくる」事態を想定したのは、もちろん北条時宗の庶兄・六波羅探題南方の北条時輔が北方の赤橋義宗に襲撃された二月騒動(1272)の記憶があったからですね。
もともと貞顕は豪胆とは程遠い性格の人物ですから、一件落着までは夜も寝られぬほど怯えていたと思います。
嘉元の乱の記憶以外にも、安達泰盛の娘婿であった父・顕時が逼塞する原因となった霜月騒動(1285)の恐ろしさは貞顕周辺で繰り返し語られていたでしょうから、北条泰家の出家を聞いた貞顕にとって、恐怖の将来を予想するために必要な材料は身近に山ほどありますね。
従って、仮に「北条経時・時頼と阿蘇為時をめぐる惨劇」が事実だったとしても、そんな昔話が貞顕の「頭をよぎる」余裕は全くなかったろうと思います。
ということで、熊谷氏の見解は小説としてもダメっぽいと感じます。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

二つの滅亡論 2014/06/20(金) 13:01:53
小太郎さん
「『吾妻鏡』は、信用ならぬ」ので、『吾妻鏡』以外の史料から(?)、熊谷氏は独自に「惨劇」を仕立てたのでしょうね。
日経夕刊連載の火坂雅志『天下ー家康伝』は、数行で段落が変わり余白が多いので老人向けの文字組になっていますが、熊谷氏も歴史学会の長老を意識しているのかもしれないですね。ところどころ眺めただけですが、氏の文体はあまり論文ぽくなく、流行遅れのエッセイのような感じですね。関東と違って、関西ではこういう文体が受けるのかなあ。
-----------------
鎌倉幕府は、なぜ滅びたのか。答えは一にあらざるも、一連の事実をあげる。
(中略)
鎌倉幕府支配は、膨張に膨張を重ね、中心は虚しく、周縁が勢う構造に変化し、しかるのち、破裂する。中央を守株した主流派は多数派たりえず、地方に拡散した非主流派は多数派となり、鎌倉・六波羅・博多をめざす。あっけなく、滅亡したゆえんである。(35頁~)
-----------------
あっけなく滅亡したというよりも、答えの一つがあまりにあっけなく、ズッコケてしまいますね。

桃崎氏の『建武政権論』をもう少し読み進めると、次のような文章があります。
----------------
幕府は承久の乱で天皇と敵対できる免疫を獲得したが、<天皇は他者を誅殺できるが、他者は天皇を害せない>という呪縛を克服できなかった。王を処刑台へ送った共和制ヨーロッパ諸国とは異なり、幕府は王の聖性を蹂躙するに値する政治理念を獲得できず、滅亡したのである。(51頁)
----------------
天皇(四歳の幼児?)と敵対したことが幕府の immunnological memory(免疫学的記憶)となり、後醍醐の隠岐配流に役立ったようですが、たんに先例とか傍例とか言えば済むのに、これは断じて譲れぬ趣味の問題ということなんでしょうね。この immunity は現代の日本にもまだ有効なのであろうか、あるいは、もうすでに消滅して跡形もないのであろうか。
免疫という現象は、あくまでも鎌倉幕府という一個の政体(政権)内で起るもので、全く別個の政体(政権)たとえば室町幕府や徳川幕府や明治政府などには継受されないが、鎌倉幕府と室町幕府等との間に何らかの連続性があれば免疫はなお有効と考えられるから(ジェンナーの種痘の応用問題だね)、この immunity は有効かもしれないし無効かもしれない、つまり、よくわからないんだ、だって、ボクは免疫学の専門家じゃないからね。詳しく知りたかったら、専門家に訊いてよ、五月蠅いな、もう。もっとも、免疫学の専門家に訊いても天皇制のことはわからんないけどね、ふふ。
「王を処刑台へ送った共和制ヨーロッパ諸国」とは、チールズ1世を処刑した清教徒革命やルイ16世を処刑したフランス革命を指しているのでしょうが、14世紀前半の日本を17世紀中葉の英国や18世紀後半の仏国と比較対照して、はたしてどれほどの意味があるものなのか。
「王の聖性を蹂躙するに値する政治理念」というのもなかなか奇抜な表現で、「王の聖性に替りうる政治理念」というくらいの意味かと思われますが、要するに、「王の聖性を蹂躙するに値する政治理念」を獲得して「王を処刑台へ送った共和制ヨーロッパ諸国」のように、天皇(たとえば後醍醐)を処刑台へ送っておけば、幕府は滅亡せずに済んだ、のみならず、ヨーロッパ諸国に先んじて共和制を敷いていたであろう、まことに残念である・・・とでも言いたいのかしら。

http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-14382-8.jsp
ベストセラー『本能寺の変ー431年目の真実』を読み始めたのですが、黒嶋敏氏の論文『「光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚」を読む』(東京大学史料編纂所紀要十四所収、二〇〇四年)の引用があり、面白そうなので読んでみようかと思います。明智氏の本は、我慢して半分ほど読んで、やめました。

原発と大根と「國立」 2014/06/21(土) 18:48:50
http://www.cho-sankin.jp/
『超高速!参勤交代』を観に行き、大勢の観客に驚きましたが、城戸賞受賞の脚本が元なんですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E9%95%B7%E8%B0%B7%E8%97%A9
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E7%A5%9D
恥かしながら、磐城国の湯長谷藩なんて架空の話だろう、と観ていたのですが、15,000石の実在の藩でした。享保20年(1735)、将軍吉宗の時代、第4代藩主内藤政醇が主人公で、老中松平信祝に苛められる弱小藩の話でした。幕府への献上品が美味な沢庵(大根)というのは、原発への風刺なんでしょうね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E8%BC%9D%E8%B2%9E
時の老中首座が松平輝貞というのは、この大名は老中格止まりなので、ありえない話のようですね。

追記
http://www.huffingtonpost.jp/2014/06/20/national-palace-museum_n_5513980.html
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1647
詳しい背景は不明ながら、中国に配慮するあまり、こんなバカなことになったのでしょうね。もっとも基本的な初歩の問題のはずですが、はじめに詰めておかなかったのかな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「北条経時・時頼と阿蘇為時をめぐる惨劇」

2014-06-20 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 6月20日(金)08時14分44秒

熊谷隆之氏の「モンゴル襲来と鎌倉幕府」、ところどころに少し気味の悪い叙述があるのですが、一番気になったのは「北条経時・時頼と阿蘇為時をめぐる惨劇」ですね。
登場順に関係箇所を引用してみます。

-------
 寛元四年三月、危篤の北条経時は、自邸に同母弟北条時頼を招く。経時の長男(隆時・隆政)は六歳。二男(頼助)は二歳。余命いくばくなき経時は、執権を時頼に譲った、と『吾妻鏡』は記す(同月二三日条)。─それが、事実かどうかは、別として。(p12)

 そんなさなかの康元元年(一二五六)一一月、執権北条時頼は出家する。六歳の嫡子正寿丸(北条時宗)が長ずるまでの「眼代」として、執権を赤橋長時に譲った、と『吾妻鏡』は記す(同月二二日条)。
 ところが、ときしも『吾妻鏡』から、忽爾として消える人物がいる。北条時頼の同母弟北条(阿蘇)時定(のち為時)である。時定は、時頼の出家と前後して肥後に流された。時定とともに将軍宗尊親王の近習で、足利頼氏の異母庶兄たる足利(渋川)兼氏も姿を消す。これは、将軍と近習をまきこむ、得宗の地位をめぐる一個の政変にほかならない。(p14)

 弘長三年一一月、北条時頼は三七歳で没した。北条経時から執権を継いだのか、奪ったのかは、ひとまずおく。だが、引き続く謀逆、同母弟の配流、叡尊への吐露は、苦悩と険難に満ちた晩年だったことを、暗に語る。(p16)

 正中二年一一月、得宗北条高時に長男万寿丸(北条邦時)が生まれた。ところが、正中三年三月、二四歳の高時が病で出家する。万寿丸は二歳にすぎない。連署金沢貞顕が執権に昇ると、高時の同母弟北条泰家は不服として出家した。北条経時・時頼と阿蘇為時をめぐる惨劇が、頭をよぎる。貞顕は泰家の襲撃を恐れ、執権を一〇日で辞す。(p34)
-------

ちょっと理解できないのですが、「惨劇」とまで表現する訳ですから、熊谷氏は北条時頼が兄の経時を殺害したと言いたいのでしょうか。
まあ、経時が病気だったことを疑う人はいないでしょうから、それが実は時頼による毒殺だった、というようなミステリアスな展開を想定しているのでしょうか。
北条経時は実際には執権の地位を時頼に譲るとは言わなかった、あるいは一時的に譲るけど経時の子孫に戻せよという条件付だったけれども、時頼はいったん得たその地位を経時の子孫に戻さなかった、ということならあり得るかもしれませんが、それを「惨劇」と呼ぶのは変ですね。
注(14)の「ふたりの為時─得宗専制の陰影」(『日本史研究』611号、2013)を読めば謎が解けるのでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「公家・武家・関東」

2014-06-19 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 6月19日(木)23時18分8秒

>筆綾丸さん
熊谷隆之氏の「モンゴル襲来と鎌倉幕府」はちょっと珍しい、奇妙なスタイルの論文ですね。
全体の構成を一瞥しておくと、

--------
はじめに─承久の乱の衝撃
一 執権政治から得宗政治へ
 1 将軍・執権・評定
 2 公家・武家・関東
 3 経時・時頼・時定
二 モンゴル襲来と列島支配
 1 政村と時宗
 2 モンゴル軍、来たる─鎌倉幕府支配の膨張
 3 霜月騒動と平頼綱
三 得宗専制の企図と敗北
 1 苦悶する貞時
 2 怨嗟と猜疑の鎌倉
 3 諸国蜂起す─鎌倉幕府の滅亡
おわりに─鎌倉幕府研究の可能性
------

となりますが、概ね2行から5行程度の短い段落が、ほぼ時系列に従って最初から最後まで単調に続いており、「はじめに」で提示された「鎌倉幕府は、なぜ滅びたのか。承久の乱から滅亡に至る鎌倉幕府の政治過程をあつかう、本稿に課された難問」が最後に熱く論じられるのかと思ったら、それを扱う「おわりに」は1ページと7行であっさりと済んでしまっていて、いささか拍子抜けですね。
スタートから終点まで、実に淡々としており、桃崎氏の「建武政権論」を油っぽい中華料理に譬えるとしたら、熊谷氏の「モンゴル襲来と鎌倉幕府」は蕎麦、それも小分けした椀子蕎麦みたいなものでしょうか。
ま、料理に譬えるのが不謹慎なら、時系列で淡々と事実を列挙して行く『吾妻鏡』のような論文とでもいうべきですかね。
項目に関しては「公家・武家・関東」の並列が奇妙な感じがしますが、これは六波羅=「武家」という熊谷氏の独特の認識ですね。

-------
 承久の乱後、六波羅は、守護・守護代、在京その他の御家人、探題被官らを編成し、個々を相互補完的に動員する体制を築く。列島国家の「武家」六波羅を介した秩序維持体制の機能が、いかんなく発揮され、延暦寺と双璧をなす寺社権門の雄たる興福寺は屈服した。だが、これは、功を奏した希有な例にすぎない。
 嘉禎四年二月、二一歳の将軍九条頼経は、源頼朝が上洛の際に建て、源実朝の代に焼亡した六波羅御所を再建し、大挙、東国御家人を率いて上洛する。かつて三寅頼経(頼経)は、関東下向に際し、九条家の一条亭から六波羅へ入り、即日、京都を発した。当時、鎌倉を「関東」とよび、六波羅を「武家」と称したゆえんは、六波羅御所こそを征夷大将軍の本邸とみる、都人の認識にある。
 六波羅御所を再建することで、「天下草創」をなした初代将軍源頼朝と、摂家将軍初代のみずからを重ね、京武者を圧倒した東国武者を擁し、都大路を練り進む。九条頼経の上洛と、六波羅御所の再建は、父九条道家の権勢もあって実現した、そんな一大盛典にほかならない。
-------

p9以下から少し引用しましたが、<六波羅御所=征夷大将軍の本邸>は「都人の認識」だという表現は、「六波羅探題考」(『史学雑誌』113-7、2004年)の説明とは微妙に違ってきているような感じがしないでもありません。
<六波羅御所=征夷大将軍の本邸>は関東では評判が極めて悪いように思われますが、関西ではどうなのでしょうか。
野口実氏は高く評価されていましたが、野口氏以外に支持者がいるんですかね。

「承久の乱後の六波羅」

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

戦犯でない天皇? 2014/06/18(水) 20:00:35
小太郎さん
あまり気が進まなかったのですが、『岩波講座日本歴史中世2』の中の桃崎氏の『建武政権論』を、パラパラ眺めてみました。
「・・・幕府にとって、承久の乱の本質は生存闘争であり」(45頁)とありますが、源平の争乱は源氏にとって「生存闘争」であり、元寇は幕府にとって「生存闘争」であり・・・というような具合に、言おうと思えば何にでも言えることであって、つまりは何も言ったことにはならないから、「承久の乱の本質は生存闘争である」などと言うのは、語弊があることながら、ただの間抜けな表現としか思えないですね。また、何の注釈もなく単に「生存闘争」と言えば、普通はダーウィンの「struggle for existence」を踏まえたものと考えますが、ここでダーウィンの進化論など何の関係もないだろ、という気もしますね。
「・・・幕府内政争の都合で皇位を操作し、初めて戦犯でない天皇から位を奪った・・・」(46頁)ですが、「初めて戦犯でない天皇」という表現から逆に想定されている「戦犯の天皇」を仲恭天皇とすれば(承久の乱の時、後鳥羽、土御門、順徳は上皇だから「戦犯の天皇」とは言えないですね)、乱の時に今上は四歳の幼児であって、戦犯も何もないだろ、と思いました。要するに、「初めて戦犯でない天皇」などというのは、非常に奇怪な表現のような気がしますね。また、詳しくは知らぬことながら、戦犯(戦争犯罪)という概念は西欧近代の国際法において発展したもので、日本の中世とは何の関係もないだろ、とも思われますね。
・・・というようなわけで、桃崎氏の『建武政権論』は4頁だけ読んでイヤになり、やめました。

次に、熊谷隆之氏の『モンゴル襲来と鎌倉幕府』を眺めたのですが、著者は老人なのか若者なのか、文体が何ともチグハグなものですね。
「鎌倉幕府は、なぜ滅びたのか。答えは一にあらざるも、一連の事実をあげる」(35頁)などは一昔前の老人のような文体で、「それにしても、『吾妻鏡』は、信用ならぬ。『吾妻鏡』のない後半、史料は乏しい。それでも、鎌倉幕府研究に可能性はあると思う」(36頁)の「それでも」の使い方などは、背伸びした小学生が馬脚をあらわしたような感じがします。
また、「まもなく来たる後高倉皇統の断絶は・・・」(3頁)は、日本語の文法が変じゃないかな。

続けて、高橋秀樹氏の『中世の家と女性』をパラパラ眺めました。
「また、十四世紀の観阿弥は、シテが女性を演じる能の作品を多くつくり、観阿弥の子息世阿弥は、内面的にも女性となりきることから生じる姿に能の「女体」を見出したという。また、世阿弥が足利義満に寵愛されたのは、男とも女とも違う、その稚児性ゆえであるともいう。中世の人びとは、ジェンダーの境界領域に文化的な興を見出していたのであろう」(247頁)
それまで男女の性差らしきものを論じてきて、最後で不意に「稚児性」などに言及したら、何が何だかわからんじゃないか、という感じがしました。「稚児性」は「ジェンダーの境界領域」にあるものなのかなあ。

最後に・・・眺めるのもイヤになりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「寵愛」 or 「旧院御素意」

2014-06-19 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 6月19日(木)06時13分55秒

>筆綾丸さん
桃崎氏の文章はクセがありますから、読者も好き嫌いが分かれるでしょうね。
冒頭、43ページに「中先代(北条高時の遺時行)の乱の鎮定を好機として、足利氏は陰謀・不実の渦巻く朝廷から離反する」という一節がありますが、私は事実の認識と価値判断は明確に分けてほしいと思うので、「陰謀・不実の渦巻く朝廷」といった表現は気になります。
ただ、人それぞれですから、研究者でも気にならない人は全然何とも思わないのでしょうね。
また、45pには、

-------
 しかし、後嵯峨がいったん子の後深草に譲った皇位を、偏愛する亀山(後深草の弟)に与えたため、以後の朝廷は後深草系(持明院統)と亀山系(大覚寺統)が皇位を奪い合う政争=両統迭立を常にかかえこむこととなった。そして亀山が後嵯峨の寵愛を背景に子の後宇多に皇位を譲り皇統の独占を図ったのに対し、後深草は絶対的な皇位決定権を握る幕府を利用し、これに依存するという戦略に踏み切ってしまう。
-------

とありますが、亀山の後宇多への譲位は文永11年(1274)正月で、後嵯峨院はその2年前に亡くなっていますから、「後嵯峨の寵愛を背景に」することは無理ですね。
まあ、これも文永5年(1268年)、後宇多が生後僅か八か月で立太子したことは明らかに後嵯峨院の意思ですから、かつての「後嵯峨の寵愛を背景に」譲位したのだと言って言えなくはないのでしょうけど、その場合でも重要なのは後嵯峨院の個人的な愛情ではなく、治天の君としての意思、当時の言葉では「旧院御素意」ですね。
私は「偏愛」「寵愛」といった小説的な表現は避けた方が良いのではないかと思いますが、まあ、これも人それぞれですね。

龍粛 「後嵯峨院の素意と関東申次」
帝国学士院編纂 『宸翰英華』-伏見天皇-六八 宸筆御事書 一通

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

戦犯でない天皇? 2014/06/18(水) 20:00:35
小太郎さん
あまり気が進まなかったのですが、『岩波講座日本歴史中世2』の中の桃崎氏の『建武政権論』を、パラパラ眺めてみました。
「・・・幕府にとって、承久の乱の本質は生存闘争であり」(45頁)とありますが、源平の争乱は源氏にとって「生存闘争」であり、元寇は幕府にとって「生存闘争」であり・・・というような具合に、言おうと思えば何にでも言えることであって、つまりは何も言ったことにはならないから、「承久の乱の本質は生存闘争である」などと言うのは、語弊があることながら、ただの間抜けな表現としか思えないですね。また、何の注釈もなく単に「生存闘争」と言えば、普通はダーウィンの「struggle for existence」を踏まえたものと考えますが、ここでダーウィンの進化論など何の関係もないだろ、という気もしますね。
「・・・幕府内政争の都合で皇位を操作し、初めて戦犯でない天皇から位を奪った・・・」(46頁)ですが、「初めて戦犯でない天皇」という表現から逆に想定されている「戦犯の天皇」を仲恭天皇とすれば(承久の乱の時、後鳥羽、土御門、順徳は上皇だから「戦犯の天皇」とは言えないですね)、乱の時に今上は四歳の幼児であって、戦犯も何もないだろ、と思いました。要するに、「初めて戦犯でない天皇」などというのは、非常に奇怪な表現のような気がしますね。また、詳しくは知らぬことながら、戦犯(戦争犯罪)という概念は西欧近代の国際法において発展したもので、日本の中世とは何の関係もないだろ、とも思われますね。
・・・というようなわけで、桃崎氏の『建武政権論』は4頁だけ読んでイヤになり、やめました。

次に、熊谷隆之氏の『モンゴル襲来と鎌倉幕府』を眺めたのですが、著者は老人なのか若者なのか、文体が何ともチグハグなものですね。
「鎌倉幕府は、なぜ滅びたのか。答えは一にあらざるも、一連の事実をあげる」(35頁)などは一昔前の老人のような文体で、「それにしても、『吾妻鏡』は、信用ならぬ。『吾妻鏡』のない後半、史料は乏しい。それでも、鎌倉幕府研究に可能性はあると思う」(36頁)の「それでも」の使い方などは、背伸びした小学生が馬脚をあらわしたような感じがします。
また、「まもなく来たる後高倉皇統の断絶は・・・」(3頁)は、日本語の文法が変じゃないかな。

続けて、高橋秀樹氏の『中世の家と女性』をパラパラ眺めました。
「また、十四世紀の観阿弥は、シテが女性を演じる能の作品を多くつくり、観阿弥の子息世阿弥は、内面的にも女性となりきることから生じる姿に能の「女体」を見出したという。また、世阿弥が足利義満に寵愛されたのは、男とも女とも違う、その稚児性ゆえであるともいう。中世の人びとは、ジェンダーの境界領域に文化的な興を見出していたのであろう」(247頁)
それまで男女の性差らしきものを論じてきて、最後で不意に「稚児性」などに言及したら、何が何だかわからんじゃないか、という感じがしました。「稚児性」は「ジェンダーの境界領域」にあるものなのかなあ。

最後に・・・眺めるのもイヤになりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

後宇多・後醍醐は不仲?

2014-06-18 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 6月18日(水)06時51分37秒

本郷和人氏は後宇多・後醍醐が不仲だったと強調されますが(『天皇はなぜ生き残ったか』、新潮新書、2009、p163など)、宗教関係で見て行くと、後宇多の最晩年まで別に両者は不仲だったとも思えないですね。
『後醍醐天皇と密教』p59以下から少し引用します。

--------
仏舎利の奉請と東寺六か条の立願

 その東寺の仏舎利は院や天皇の勅命に基づき東寺長者自らの手によって、実数が確認された。それを「勘計(かんけい)」と言う。東寺の仏舎利は摩訶不思議と増えたり減ったりを繰り返し天下が豊饒の時にはその数が増え、国家の危機の時には数が減少するとされた。もともと八十粒であった仏舎利が、鎌倉時代には千粒を越えるようになった。増加する仏舎利の数と現状を確認するためにも、そこで勅命によって東寺長者が粒数を数える儀式が行われたのであった。(中略)
 一方、数を確認する勘計に対し、実数を確認した仏舎利の一部を個人に分与することを「奉請(ぶじょう)」と言う。その奉請が元亨四年(一三二四)正月十五日に後醍醐天皇によって行われたのであった。立ち会い人として後宇多院も臨み、後醍醐天皇が印加を受けた栄海も同席し、分与されている。その後、後醍醐天皇によって十五回もの奉請が行われたが、これは後宇多院による勘計の数に並ぶ多さである。父子ともに東寺の仏舎利に強い関心を寄せていたのである。三国伝来で王法の象徴なのであるから、熱狂するのも当然かもしれない。(中略)
 さて、後醍醐天皇は後宇多院と同じく東寺の興隆を願い、正中二年(一三二五)正月一日には六か条の立願を行った。それは、①東寺講堂において仁王般若経を修すること、②鎮守神楽を毎年勤めること、③八幡宮理趣三昧を毎月一日に勤めること、④灌頂院護摩堂において日中ずっと護摩を焚くこと、⑤塔婆における行法をすること、⑥西院における不断光明真言を勤めること、などであった。そして後醍醐天皇は最勝光院領やほかの寄進を行い、経済的には援助を行い、この六か条が次々と実行されていったのである。父子ともに東寺を真言密教の中心寺院とすべく考え、行動していたのである。
-------

元亨四年(1324)は第二次後宇多院政が後醍醐親政に代わって三年後で、後宇多院はこの年の6月25日に58歳で崩御する訳ですが、1月15日の奉請への臨席が同時代史料で確実に根拠付けられるのであれば、後宇多・後醍醐が不仲だったとは思えないですね。

なお、後宇多院の生涯の概略を知るため、ずいぶん前に肥後和男編『歴代天皇紀』(秋田書店.昭和47年)から水戸部正男氏が書かれた部分を紹介しましたが、水戸部氏は最後にあっさりと「後宇多院という追号は、遣詔によったが、宇多天皇の追号に後の字を冠したのである」と記されていて、まあ、これは本当に常識なんですね。
別に後宇多の追号の点だけで桃崎有一郎氏の「建武政権論」を全否定するつもりはありませんが、若手の研究者はこんなことも知らないのか、という感じは否めないですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「金剛乗」 or 「金剛性」

2014-06-17 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 6月17日(火)21時54分8秒

>筆綾丸さん
>金剛乗
ご指摘の通り、正しくは「金剛性」ですね。
過去ログを見たら、内田啓一氏の『後醍醐天皇と密教』については、2010年8月17日の筆綾丸さんの投稿以降、ある程度の議論は既に済ませていました。
筆綾丸さんは最初の投稿で小松茂美氏の著書に「金剛性」とあることに言及され、ついで19日の投稿で、内田氏自身が『文観房弘真と美術』では「金剛性」としている旨を指摘されていますね。


私の方も8月30日の投稿で、「洞院」通成は「中院」通成の誤りだ、みたいなことを書いていました。


改めて『後醍醐天皇と密教』を通読してみて、文章がちょっとぬるいのではないかと感じましたが、「あとがき」を見たら、

---------
さてさて、昨今の大学では学力低下が叫ばれている。ゆとり教育の結果ともされ、テレビのニュースでもしばしば報道される。現場にいる大学教員はそれを実感していると思うが、私もその一人である。法蔵館からは「史学科系の大学生に解るように書け」との厳命がくだった。はじめ解りやすいように書いたつもりだったが、最初の原稿には「難しすぎる」とのクレームがついて、書き直しとなった。そこで私のゼミの学生に概略を読んでもらい、理解しがたい語句などに赤字を入れてもらった。(後略)
---------

のだそうで、大学の先生もなかなか大変ですね。
『後醍醐天皇と密教』執筆時には内田氏は「町田市立国際版画美術館学芸員を経て、昭和女子大学歴史文化学科教授」とありますが、今はご出身の早稲田大学に移られたようですね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

変ロ短調と盤渉調 2014/06/17(火) 20:40:36
小太郎さん
小松茂美氏の『天皇の書』(文春新書)に後宇多法皇の施入状があり、「徳治三年六月廿日阿闍梨」の後の梵字は「金剛性」と読まれていて、内田氏の「後宇多院は出家して金剛乗と称した」は誤りなのでしょうね。
-----------------
見られるように、一糸乱れぬ重厚な骨法(書法)、正楷の運筆。王者の風格凛然。歴朝宸翰の遺墨の中において、いや日本書道史上の一群の作品において、楷書の墨痕としては最上品、孤高の君臨と言うに憚らぬ存在である。(同書177頁)
-----------------
小松氏らしい絶賛の方法ですが、あまり密教的な妖しさのない、ごく正統的な書体という感じがします。

https://www.youtube.com/watch?v=twMrnWrnjso
https://www.youtube.com/watch?v=C5oRITmyNVo
豊島岡墓地における桂宮の斂葬の儀では盤渉調の竹林楽が、赤坂東邸での霊車発引の儀ではショパンの葬送が奏されたそうですが、皇族の葬儀にショパンの曲が使われるようになったのは、やはり戦後なんでしょうね(あるいは、鹿鳴館時代以後?)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「親子二代連続でちょっと変な王権」

2014-06-17 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 6月17日(火)09時30分54秒

桃崎有一郎氏が「建武政権論」(『岩波講座日本歴史中世2』、2014)で、後醍醐天皇が父・後宇多院の追号を決定したと書いていたのが気になって、久しぶりに内田啓一氏の『後醍醐天皇と密教』(法蔵館、2010)をパラパラめくってみたのですが、内田氏は特に説明もせずに後宇多院は宇多法皇にならって「後宇多」と定めたと言われていますね。

-------
 禅助(一二四七~一三三〇)は洞院通成の子で、仁和寺真光院の僧となり、永仁元年(一二九三)には大僧正となった高僧である。翌年には東寺長者ともなった。徳治二年(一三〇七)七月二十六日、後宇多院出家の戒師となった僧であることでも知られる。ゆえに真光院国師もしくは禅助国師と称された。国師はいわずもがな後宇多院の戒師や伝法灌頂の阿闍梨となったからである。
 仁和寺は平安時代、仁和二年(八八六)光孝天皇の勅命によって創建された寺院であるが、翌年に天皇は没し、同四年、次の宇多天皇の時に金堂が完成した。天皇は醍醐天皇に譲位すると、昌泰二年(八九九)、仁和寺の僧・益信にしたがい出家し、僧名(法諱)を金剛覚とした。宇多法皇は密教への帰依が極めて深く、延喜元年(九〇一)には御座所を構えた。以来、仁和寺は御室と称されるようになる。「室」は部屋であり、「御室」はその尊称である。これ以降、諸院が建立、整備され、また、皇室関係者が出家し、密教僧として住んだ寺院として知られる。
 宇多天皇の親政は寛平の治と称される評価の高いものであった。後宇多天皇が自らをこう称したのもこの宇多天皇にあやかってである。それに倣うところがあったと思われるが、仁和寺の禅助によって出家する点も宇多上皇と益信の関係をたどったかのようである。この時期の天皇には後嵯峨、後二条など、「後~」と平安時代の天皇になぞらえた名が多いのも特徴である。後宇多院は出家して金剛乗と称したが、これも宇多院が金剛覚と称した名前にちなんだものだろう。徳治三年正月五日に石清水八幡に参詣し、帰りに東寺に参籠した。そして二十六日に後宇多院は東寺灌頂堂にて禅助より伝法灌頂を受けたのである。仁和寺の禅助より東寺の灌頂堂にて伝法灌頂を受けたという点が重要である。
--------

冒頭、「禅助は洞院通成の子」とありますが、これは「中院」の誤りです。
洞院は閑院流藤原氏で西園寺家の庶流、中院は村上源氏で、中院通成は後深草院二条の父・雅忠の従兄弟になりますね。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/keizu01.htm

ま、それはともかく、仏教関係の基礎的な知識があれば「後宇多」の追号は後宇多院自身が決めたことは常識ですので、内田啓一氏は特に説明も注記もせず、「後宇多天皇が自らをこう称したのもこの宇多天皇にあやかってである」と書かれています。
後宇多院の「法流一揆」については複数の学者が議論に参加していますが、一般には馴染みのない難解な話なので、そのあたりを簡明に説明してくれている『後醍醐天皇と密教』は良い本ですね。
ただ、著者がもともと美術史の人のためか、研究者にもあまり読まれていないんですかね。
ま、『後醍醐天皇と密教』を読めば、網野善彦氏が「異形の王権」と呼んだ後醍醐の治世は、少なくとも密教との関係では父の後宇多院が敷いてくれた道を歩いただけ、ということがあっさり分かります。
私は以前、<少なくとも宗教的な観点からは、後醍醐天皇の王権は中世において「普通の王権」だったと思っている>と書きましたが、まあ、密教にずいぶん熱心な点は確かに目立ちますから、「普通の王権」ではなく、「親子二代連続でちょっと変な王権」くらいが適切ですかね。

「普通の王権」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1ae34e02fc228b0b4fbb51799ddf1dd2
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ミナミハラ」 or 「ナンバラ」、そして南原清隆との関係

2014-06-15 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 6月15日(日)10時13分51秒

南原繁の『母』(中央公論社、昭和24)を見たら、楠姓についての少し詳しい説明がありました。
この本は「安政五年から昭和十六年まで、この世に生きた、名もない一人の女性の生涯について、彼女の長子たる著者によって書かれた記録」ですが、もともと「本書の原形」が私家版で発行されたものを、

-------
然るに、昨年春「サンデー毎日」が、著者の横顔を描こうとして、どこで手に入れたか、本書の一部を摘録して、世に紹介するところがあった。爾来、諸方面からの読者の求めと、特に今回、中央公論社山本栄吉氏の熱心な勧めに基づき、その全文を敢えて公にすることにした。「敢えて」というわけは、その内容があまりに家庭の秘話や、人生の秘義に充ちているからである。
-------

という経緯で中央公論社から出したものだそうです。
表紙は白く、小さな、正方形に近い珍しい版型ですが、昭和24年発行にしては紙質も良く、なかなか洒落た本ですね。
複写すると傷みそうだったので、『わが歩みし道 南原繁─ふるさとに語る─』(香川県立三本松高等学校同窓会発行、1996)に転載されていたものを複写してきました。

--------
 ここで母の家系、すなわち私たちの祖先について、母から常々聞いておいたことの概略を書き記そう。母がその名を「きく」と呼ばれ、一人娘として育った楠家というのは、母より数代前、たぶんは甚左衛門の代に、今の香川県大川郡相生村字小井にある楠家から分かれて来、母の父松蔵も祖父駒之助も「組頭」の役を勤めていたということである。組頭は関東で名主と称していたものに該当し、現在の村長のごとき仕事ばかりでなく、ほかに警察・司法の権も持っていたらしく、母は小さい時分に、父松蔵(未だ若かったので顧問役がついていたという)が公事を聞き、その間には「お倉」と称した留置所に収容せられる者もしばしば見かけたということである。
 どういう沿革から楠の姓を名乗っていたかについては、系図がないので正確なことは判然としない。その昔、あるいは河内の国から楠一族の残党かまたはその末裔が、淡路の海を渡って落ち延びて来たということも、地理的関係から可能なことであり、近頃そうした楠一門と讃岐の関係を、郷土史の立場から研究して居る人があるのを聞いている。とにかく、徳川時代にずっと楠の姓を名乗っている事実から考えて、それには何か由緒があったろうと想像される。
--------

きく氏は伝来の家名が変更されてしまったことを悲しみ、「何とかして昔の家名に復すべく、役場に頼み、役場でもいろいろ骨を折ってくれ、終には郡役所にまで伺いを出してくれたが、遂に叶わずにしまった」そうです。
その後の記述はちょっとびっくりですね。

--------
 ついでに「南原」は郷里では「ナンバラ」と呼ぶ人もあったが、「ミナミハラ」で通用していたところ、私が一校に入学するに及んで、いつとなく皆が「ナンバラ」と呼び、私も遂にそれに慣れて、大学時代以後は専らその呼称に拠ることにしたのである。なお後に知ったことであるが、高松の近郷に古くから「南原」と名乗る幾軒かがあり、これは初めから「ナンバラ」と呼んでいるということであるが、私の家とは直接関係のないことも付記しておく。
--------

南原繁が旧制一高に入学したのは1907年(明治40)ですが、この書き方だと正式な戸籍名は「ミナミハラ」みたいですね。
あるいは、当時は戸籍に読み方など書かなくてもよかったのか。
そのあたりの事情はよく分かりませんが、けっこういい加減な話ですね。

ちなみに「ウッチャンナンチャン」の南原清隆(1965生まれ)は、ウィキペディアを見ると高松市出身だそうで、南原繁の「家とは直接関係のない」南原一族の人なんでしょうね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E6%B8%85%E9%9A%86
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『山辺健太郎・回想と遺文』

2014-06-13 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 6月13日(金)11時26分58秒

ツイッターで三笠宮の話題が出たときに、ついつい知ったかぶりで「三笠宮は一部から<赤い皇族>と呼ばれていましたね。実際、山辺健太郎あたりとも仲が良かったそうです」てなことを書いてしまったのですが、何かで読んだ記憶はあるものの、とりあえず私が根拠としたのは「聞き書き-山口啓二の人と学問」(著作集第5巻)の「(60年安保での機動隊との衝突で)肋骨を折られた山辺健太郎という歴研の会員─戦後、牢屋からはじめて出てきたというオールド・コミュニストで、不思議なことに三笠宮と仲良しという面白い人ですが」(p268)という記述でした。
少し気になって遠山茂樹編『山辺健太郎・回想と遺文』(みすず書房、1980)をめくってみましたが、さすがに三笠宮の寄稿がないのはもちろん、誰も三笠宮に言及していないですね。

山辺健太郎(1905-77)は獄中13年くらいの非転向の古参共産党員で、戦後、共産党から除名されて以降は社会運動史・朝鮮史の研究者として有名な人ですが、まあ、奇人ですね。
『山辺健太郎・回想と遺文』に寄稿している人々は歴史研究者の中でも「運動家」タイプが多く、変人、じゃなくて個性的な人が大半ですが、山辺健太郎と比較すると中国に密出国して5年滞在し、帰国後はずっと裁判闘争をしていた犬丸義一氏ですら普通の人に思えてきます。

山辺健太郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%BE%BA%E5%81%A5%E5%A4%AA%E9%83%8E
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「楠家再興がいかなる価値にもまさる悲願」

2014-06-12 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 6月12日(木)21時25分15秒

今日は加藤節氏の『南原繁』(岩波新書、1997)を読んでみましたが、南原家のもともとの姓は「楠」だったそうですね。
同書9ページ以下から少し引用します。

-------
 南原は、幼くして父が離籍したあと、ほとんど母親の手ひとつで育てられた。この事実は、少年南原に決定的ともいえる影響を与えることになる。一八五八(安政五)に生まれた母きくは、もともとの姓を楠といい、讃岐三盆の名で知られる砂糖の製造を代々の家業とするかたわら、組頭、関東でいう名主の役をつとめる地方の名家の出であった。しかし、地元では岸野屋の屋号でよばれていた由緒あるこの家系も、明治にはいると、産業構造の変化に「家族に浪費者が出たこと」がかさなって、「事業は衰微し、産は傾き、遂に没落の一路を辿」る運命にみまわれたのである。
 しかも、これは、たんなる経済的な没落を意味しただけでなく、そこには、組頭の役が、きくの母方の実家にうつるといった社会的地位の低下もともなっていた。こうした経済的、社会的な没落の象徴となったのが、おそらくは明治新政府によって平民に苗字の使用や変更が認められた一八七〇(明治三)年、もともとの楠姓が、動機不明のまま「母方の父の一存」で本家ともども南原(みなみはら、のちに、なんばら)姓に改められたことであった。それは、名をなした旧家のあかしである「伝来の家名」の消滅をしめすものであったからである。
 このような没落家族のひとり娘として育った南原の母きくには、楠家再興がいかなる価値にもまさる悲願となった。(後略)
--------

楠の家名がどこまで遡れるのかは分かりませんが、ちょっと面白い話ですね。

>筆綾丸さん
「熱き涙」は単独で見ると変な感じがしますが、背景事情はいろいろあって、それを知っている人には感動的な歌なのでしょうね。
南原繁の講義のレベルは非常に高く、緊張感に満ちたものだったそうで、聴講できた学生は幸せですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7408
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

斎藤茂吉の南原繁評

2014-06-11 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 6月11日(水)07時21分28秒

>筆綾丸さん
『南原繁回顧録』に登場する歌は変なものを選りすぐっている感じがしますが、歌集『形相』が全部変という訳でもないですね。
斎藤茂吉は次のように評価しています(『日本読書新聞』昭和23年5月12日号)。
なお、引用は丸山真男・福田歓一・氷上英廣監修『南原繁『歌集 形相』資料』(ほるぷ出版、1975)から行いましたが、岩波文庫版『歌集 形相』の巻末にも同文が掲載されているそうです。

--------
「『歌集 形相』によせて」

こころふかく沈潜すれば
 歌はおのづから思想的となる
                     歌人 斎藤茂吉

 「形相」は、東大総長南原繁氏の新歌集であって、集名は「アリストテレス謂ふところの永遠的なるものの形相(エイドス)としての生の現実態に外ならぬ」に基づいて居り、その内容もほぼこの集の名が暗示して居る。
 内容はなかなか広範囲であって、単なる花鳥風月でもなければ、単なるイデオロギーの縮写でもない。作者の生の切実なる表現として読者のまへにあらはれたのである。南原氏は、専門の学者で、大学教授で、現在東大総長であるが、かういふ境界の人が、短歌のような小文字を軽蔑せず、沈潜し、つつましく生表現の拠りどころとせられる、といふそのことが既に自分の如き老歌人にはふかい親しみを感ずるのである。

 一年の講義はきのふ終へたりと思ふばかりに朝寐(あさい)すわれは
 この一年の講義終へけりわれ机にむかひて熱き涙とどまらず

かういふものは、些末主義の歌として軽んずる向もあるが、真率なる講義者としてのこの感慨を人々は軽んずることが出来ぬのである。

 雨ふるに雲の動ける隙(ひま)ありて五月の空のふかく澄む色
 通りの片側は陽の照りをりて向つへは暗く雪ののこれる
 春とおもふ陽はやはらかに指しゐつつ時雨ふり来ぬ小松が上に
 かぎろひの一日むなしくわがありて魂(たましひ)冴ゆる夕べひととき
 よべ一夜ふりたる雨の濁りつつ新堀川を浸して流る

かういふ歌を、花鳥風月と分類するであらうが、的確であって、ここまで行き着くのには、並大抵のことではない。『春とおもふ暁(あかとき)がたに降る雨の音をききつつわれあはあはし』などもまたさうである。『夏あつくからだ清めむ朝な朝なわがよごれたる蹠(あうら)も洗ふ』でもまたさうである。
(中略)

 いのち死すといふはたはやすし現身(うつしみ)は生きつつをりて昼も夜も苦しむ
 さもあらばあれわれ神を信じつつありのままなるいのちを遂げむ
 谷ふかき洞(ほら)なかに火の燃ゆる見ゆさながらわれの生きて来にけり
 むらぎものこころに満ちて一日だにありなれて来(こ)しわが道ならず
 民族は運命共同体といふ学説身にしみてわれら諾(うべな)はむか
 善悪の彼岸に政治はありといふ現代(いま)にあてはめてしかも然るか
 演習(ゼミナール)の学生にむかひ哲学は kontemplativ とわれはいひたり

心ふかく沈潜すれば、歌はおのづから思想的となる。即ち、思想的抒情詩である。この作者の本態が既に思想的であるから、その結果として是等の歌が出来るのは、自然的とも謂へるのであるが、やはり「形相」一巻のなかの特殊相として尊敬すべきである。そして貫くものはヒューマニズムであり、基督教的信念である。
(後略)
--------

「民族は運命共同体といふ学説」はフィヒテですかね。
まあ、人それぞれですが、私はどうにも「思想的抒情詩」は好きになれません。

ちなみに南原繁は昭和42年歌会始の召人にもなっているそうで、その時の歌は

 ふるさとの讃岐の海の巌(いは)かげに魚つり呆(ほ)けし少年の日よ

だそうです。
歌会始で「呆」という字を入れた歌を詠む感覚は、私にはちょっと理解できないですね。
この時の昭和天皇御製は、

 わが船にとびあがりこし飛魚をさきはひとしき海を航(ゆ)きつつ

とのことで、いかにも年初にふさわしい爽やかな歌だと思います。

昭和42年歌会始お題「魚(うお)」
http://www.kunaicho.go.jp/culture/utakai/utakai-s42.html

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7406
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和33年、三笠宮VS「坂本天皇」史学会の戦い

2014-06-09 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 6月 9日(月)09時28分12秒

昨日の桂宮宜仁親王殿下薨去のニュースを聞いて、御両親の三笠宮御夫妻はずいぶんご長命だなと思いましたが、三笠宮は1915年(大正4)生まれなので、数え年なら実に百歳ですね。
最近、近現代の人物を扱うことが多いため、1800年以降に生まれた人物の名前と生没年だけを書いたノートを作って随時書き入れているのですが、それを見ると、1915年生まれには近衛家の嫡男でシベリアに抑留された近衛文隆氏(1956没)や数学者の小平邦彦氏(1997年没)、歴史学者では彌永貞三氏(1983年没)がおられますね。
また、近辺の歴史学者だと、1912年生まれに石母田正・古島敏雄氏、1913年家永三郎・松本新八郎・井上清・太田晶二郎・堀米庸三・林健太郎氏、1914年遠山茂樹・林基氏、1916年佐藤進一氏、1917年井上光貞氏、1918年安田元久氏といった具合です。
坂本太郎氏の『古代史の道』には三笠宮は「史学会」関係で一回だけ登場しますが、なかなかの名場面ですね。(著作集、p155以下)

--------
 大会は公開講演会と日本史、東洋史、西洋史に分かれての研究発表の部会、会員総会と懇親会、史料展覧会とで構成される例である。総会は会務報告、会計報告などを行う全く事務的な会合であるが、昭和三十三年の総会では思いがけぬ事件が突発した。それは会務報告の終わった後、席の後の方にレインコートのまま座って居られた三笠宮が突然起ち上がって、史学会はいま問題となっている建国記念日制定に付き、総会の決議として反対の意思を示し、これを阻止すべきである。これを放任しておくのは役員の怠慢であるという強い発言であった。私はこの問題は政治的な問題であるから、史学会としてさようなことを取上げる意思はない。またここに集まった僅かの会員の意見だけで史学会の総意とみなすことにも難点があると答え、林健太郎氏も理事として同様これを取上げることは反対だという意見を述べた。すると、三笠宮はこんな理事長独裁の史学会の会員たることは自分のいさぎよしとしない所である。今日より史学会を退会すると言われて、席を蹴って退場された。
 実はこの問題には以前からのいわれがあるのである。昭和二十九年二月十八日、三笠宮は突然史料編纂所に私を尋ねて来られて、紀元節復活の徴があるから、紀年問題について啓蒙の意味の講演会を史学会で開いたらどうかという提言があった。私は史学会には全然その意志はないことを申上げた。また宮中で恒例として行われる歴代天皇の式年祭についても否定的なお考えのようであったので、それはどこの家でも祖先の祭祀を行うのだから、宮中でこれを行われるのは当然のことである。学問的根拠云々の問題以前のことであると強くご意見申上げた。恐らくこんないきさつもあるので、理事長独裁の史学会ときめつけたらしいが、独裁どころか全く無力な理事長なのである。ただ史学会を純粋な学術団体として保持し、当時流行した政治問題についての声明を発表することなどは反対で、それはほとんどの理事の抱いた意見であったと思う。
 三笠宮が退会されるならばそれもやむを得まいと、私は気軽にこのことを受け流したが、新聞や週刊誌がこれを取上げて、坂本天皇などといって史学会のことをあれこれと詮索したのには驚いた。また大石慎三郎氏などが大変心配して、三笠宮の怒りをなだめ退会のことは思い止まっていただいたらしいが、総会当時の私どもの態度には何の過ちもなかったと、今も私は思っている。
--------

坂本太郎氏のクールさが際立つ場面ですが、まあ、坂本氏も戦前、せめてこの10分の1程度の厳しさで「革新」派と戦ってくれていたら、あるいは南原繁総長の覚えもめでたく、史料編纂所職員の地位改善は南原総長時代に済んでいたかもしれないですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歌人としての南原繁

2014-06-09 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 6月 9日(月)07時25分51秒

>筆綾丸さん
ご指摘の通り、南原繁氏には歌人としての才能は全くないですね。
南原氏が二・二六事件勃発を受けて詠んだ歌は

 ふきしまく吹雪は一日(ひとひ)荒れゐたり由々しきことの起りてゐたり

というもので(『南原繁回顧録』、p177)、「ゐたり」の連続は評価の分かれるところでしょうが、緊張感の表現として受け入れることは可能です。
ついで経済学部の矢内原忠雄教授が辞職したときの歌は、

 Y君の辞職きまりし朝はあけて葬(はふ)りのごとく集ひゐたりき

というもので(p178)、「Y君の」という出だしは、背景を知っていて特別の思い入れがある人以外にとっては、ずいぶん間の抜けた感じがしますね。
また、荒木貞夫陸軍大将が文部大臣となり、「大学は自治と称して総長を勝手に選び、任期をきめて、動きのとれないような形にして文部省に持ってくる。これは天皇の任命大権の干犯である」と総長選挙に介入しようとした時には、

 大学教授また総長の選挙制は国本(こくほん)をみだると荒木文相いへり

だそうで(p193)、どこで区切って良いのか戸惑います。

 大学教授 また総長の 選挙制は 国本をみだると 荒木文相いへり

ですかね。
全部字余りの上に9+8+7+9+11=44ですから、とても短歌と呼べるような代物ではありません。
そして、この問題の対応に際しては、

 おおやけのことながら人と謀りゐてわがたましひはよろこばずけり

とあり(p194)、「よろこばずけり」は文法的にもずいぶん奇妙な表現です。
更に、「平賀粛学」への対応で法学部教授会が紛糾し、南原氏自身も声を荒げて議論した時は、

 心静かにと思ひて行きし今日の会議に言(こと)にし出でて憤りけり

だそうですが(p204)、内容自体は非常に興味深い法学部教授会の描写を延々と続けた後で、最後のまとめがこの歌なので、読者は「ずっこける」という古語を用いなければ表現できない心境となります。
この歌は昨年の歌会始の選者である篠弘氏の「ゆだぬれば事決まりゆく先見えて次の会議へ席立たむとす」を思い出させますが、まあ、会議のことなんか詠んでいい歌になる訳ないだろ、と思います。

【歌会始】日本文藝家協会理事長・篠弘氏の変てこな歌

この歌も8+7+8+7+7=41と大幅な字余りですが、南原氏は字あまりが非常に好きなようで、読者はいい迷惑ですね。
ということで、最後に何故か偽薩摩弁にて一首。

 才能の ない人のため 形式は あるのでごわす 南原先生


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

2014/06/08(日) 19:51:56
お師匠さんのお歌
小太郎さん
福田歓一氏の「「新しき講座ひらくと講壇に津田左右吉先生を導きのぼる」、昭和十四年十月三十日のお歌ですね」という発言にある「お歌」は、歌会始の某皇族の「お歌」と同じような散文というか、「津田左右吉先生」はえらく字余りで、やや敬意を欠くかもしれないが、「津田先生」くらいに約めたほうが良かったのではないか、という感じがしますね。
詠歌時期とは何の関係もありませんが、少し前の昭和十四年九月一日は、ドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次大戦が勃発した日ですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E6%AD%93%E4%B8%80
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/41/X/4100020.html

福田氏の『近代の政治思想』は、むかし読んだことがありますが、何も覚えていません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする