投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 6月29日(日)07時49分40秒
南原繁の歌人としての才能には若干の疑念を感じますが、本職の政治思想史についてはすごいですね。
戦争中の昭和17年に初版が出た南原の主著、『国家と宗教─ヨーロッパ精神史の研究─』(岩波書店)は私の学力では些か難解で、挫折しそうになりつつも少しずつ読んでいるところです。
『聞き書 南原繁回顧録』に出てくる「津田博士の裁判に関する上申書」は、『国家と宗教』と同じく昭和17年に書かれたものですが、興味深い史料なので、参考までに転載しておきます。
原文はカタカナ表記ですが、読みづらいので、ひらがなに換えてみました。
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上申書
文学博士津田左右吉氏図らずも其の学問的著作に関して法に問はる。茲に等しく学界に席を汚し直接間接博士の人格と学風を知れる者等敢て非礼を顧みず一書を捧呈して上司各位の御清鑿を仰がんとす。
博士は早くより支那満州の研究を初めとし日本歴史の研究に従事すること三十有余年、世の名利を求めず、嘗て一般通俗雑誌に執筆したることなく、又長く早稲田大学に教授たりし間にも、最近東京帝国大学法学部に於いて東洋政治思想史に関する数回の特別講義を為したる外、学外殆んど一切の講義講演の依頼にも応ぜず、学者として家に清貧の生活に甘んじつつ只管学問研究に没頭すると共に、学園に子弟の教育及び指導に専心し来り、其の典型的なる学者的生活と謙譲温雅なる人格と真摯なる研究態度とは、少しく博士に接近したる者の等しく畏敬措く能はざるところなり。
其の久しきに亙りて労作したる論著極めて多数に上り、何れも真面目なる学術的研究の成果として高く評価せられ、幾多独創的見解の如きも古今先蹤の学説及び広く内外の資料に基づき歴史家として刻念なる文献学的研究に基礎を置き、加ふるに深き言語学的素養と文化史的達観とによりて批判綜合したるものに外ならず。その間我邦歴史学の研究に貢献する大なるものありて文学博士の学位を授与せられたり。
博士の日本に関する諸研究も、右の意味に於いて特色あるものとして夙に学界に認めらるるところにして、その如何なる学説も、日本歴史をして真に学術的批判に堪へ得しむる強固なる基礎に置かんとする、博士の国家思想と学的良心より出でたること、生等の確信して毫も疑はざるところなり。
このことは其の個々の所説に賛同すると否とを問はず何人も怪しむ者なく、博士の研究と業績は斯学界に大なる刺戟と影響を与へ、多年諸学者によりて夫々の立場より批評し攻究せられ来りしところにして、其の間、未だ嘗て国法上の問題を惹起したること無きは勿論、一般社会上或は政治上の物議を醸しあること無かりき。
然るに最近昭和十四年頃俄に一部人士によりて博士の従来の思想及び学説が問題とせられ、遂に昭和十五年、皇室の尊厳を冒瀆するものとして起訴せらるるや、生等博士の人格と思想を知れる者等は当然予審免訴を信じて疑はざりしに、不幸此の度公判に回付せらるるに及びたるは驚愕且つ憂慮の至りに堪へざると共に、博士の一身に対してのみならず広く学界のため国家のため頗る遺憾とするところなり。
生等飽くまで博士の無辜を信じ、何よりも日本臣民とし又学徒として受けたる最大の汚名より雪がれ、殆んど全生涯を学問報国のために捧げ来りたる我が国の此の尊敬すべき老学者をして其の終を全うせしめんと念願するの余り、敢て所信と衷情を披瀝して上司各位に訴へ、謹んで公正明達なる御審理と御裁断とを冀ふ次第なり。
昭和十七年 月 日
(以下、89名の学者の名前)
南原繁の歌人としての才能には若干の疑念を感じますが、本職の政治思想史についてはすごいですね。
戦争中の昭和17年に初版が出た南原の主著、『国家と宗教─ヨーロッパ精神史の研究─』(岩波書店)は私の学力では些か難解で、挫折しそうになりつつも少しずつ読んでいるところです。
『聞き書 南原繁回顧録』に出てくる「津田博士の裁判に関する上申書」は、『国家と宗教』と同じく昭和17年に書かれたものですが、興味深い史料なので、参考までに転載しておきます。
原文はカタカナ表記ですが、読みづらいので、ひらがなに換えてみました。
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上申書
文学博士津田左右吉氏図らずも其の学問的著作に関して法に問はる。茲に等しく学界に席を汚し直接間接博士の人格と学風を知れる者等敢て非礼を顧みず一書を捧呈して上司各位の御清鑿を仰がんとす。
博士は早くより支那満州の研究を初めとし日本歴史の研究に従事すること三十有余年、世の名利を求めず、嘗て一般通俗雑誌に執筆したることなく、又長く早稲田大学に教授たりし間にも、最近東京帝国大学法学部に於いて東洋政治思想史に関する数回の特別講義を為したる外、学外殆んど一切の講義講演の依頼にも応ぜず、学者として家に清貧の生活に甘んじつつ只管学問研究に没頭すると共に、学園に子弟の教育及び指導に専心し来り、其の典型的なる学者的生活と謙譲温雅なる人格と真摯なる研究態度とは、少しく博士に接近したる者の等しく畏敬措く能はざるところなり。
其の久しきに亙りて労作したる論著極めて多数に上り、何れも真面目なる学術的研究の成果として高く評価せられ、幾多独創的見解の如きも古今先蹤の学説及び広く内外の資料に基づき歴史家として刻念なる文献学的研究に基礎を置き、加ふるに深き言語学的素養と文化史的達観とによりて批判綜合したるものに外ならず。その間我邦歴史学の研究に貢献する大なるものありて文学博士の学位を授与せられたり。
博士の日本に関する諸研究も、右の意味に於いて特色あるものとして夙に学界に認めらるるところにして、その如何なる学説も、日本歴史をして真に学術的批判に堪へ得しむる強固なる基礎に置かんとする、博士の国家思想と学的良心より出でたること、生等の確信して毫も疑はざるところなり。
このことは其の個々の所説に賛同すると否とを問はず何人も怪しむ者なく、博士の研究と業績は斯学界に大なる刺戟と影響を与へ、多年諸学者によりて夫々の立場より批評し攻究せられ来りしところにして、其の間、未だ嘗て国法上の問題を惹起したること無きは勿論、一般社会上或は政治上の物議を醸しあること無かりき。
然るに最近昭和十四年頃俄に一部人士によりて博士の従来の思想及び学説が問題とせられ、遂に昭和十五年、皇室の尊厳を冒瀆するものとして起訴せらるるや、生等博士の人格と思想を知れる者等は当然予審免訴を信じて疑はざりしに、不幸此の度公判に回付せらるるに及びたるは驚愕且つ憂慮の至りに堪へざると共に、博士の一身に対してのみならず広く学界のため国家のため頗る遺憾とするところなり。
生等飽くまで博士の無辜を信じ、何よりも日本臣民とし又学徒として受けたる最大の汚名より雪がれ、殆んど全生涯を学問報国のために捧げ来りたる我が国の此の尊敬すべき老学者をして其の終を全うせしめんと念願するの余り、敢て所信と衷情を披瀝して上司各位に訴へ、謹んで公正明達なる御審理と御裁断とを冀ふ次第なり。
昭和十七年 月 日
(以下、89名の学者の名前)