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もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その11)─亀菊と長江荘

2023-02-17 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

そして、多くの歴史研究者が「つまみ食い」している亀菊と長江荘の話となります。
ここも既に「長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者たちへのオープンレター」で紹介済みですが、参照の便宜のために再掲します。(p305以下)

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 其〔その〕由来ヲ尋ヌレバ、佐目牛〔さめうし〕西洞院ニ住ケル亀菊ト云〔いふ〕舞女〔ぶぢよ〕ノ故トゾ承ル。彼人〔かのひと〕、寵愛双〔ならび〕ナキ余〔あまり〕、父ヲバ刑部丞〔ぎやうぶのじよう〕ニゾナサレケル。俸禄不余〔あまらず〕思食〔おぼしめし〕テ、摂津国長江庄〔ながえのしやう〕三百余町ヲバ、丸〔まろ〕ガ一期〔いちご〕ノ間ハ亀菊ニ充行〔あておこな〕ハルゝトゾ、院宣下サレケル。刑部丞ハ庁〔ちやう〕ノ御下文〔おんくだしぶみ〕ヲ額〔ひたひ〕ニ宛テ、長江庄ニ馳下〔はせくだり〕、此由〔このよし〕執行シケレ共〔ども〕、坂東地頭、是ヲ事共〔こととも〕セデ申ケルハ、「此所ハ右大将家ヨリ大夫殿〔だいぶどの〕ノ給テマシマス所ナレバ、宣旨ナリトモ、大夫殿ノ御判〔ごはん〕ニテ、去〔さり〕マヒラセヨト仰〔おほせ〕ノナカラン限ハ、努力〔ゆめゆめ〕叶〔かなひ〕候マジ」トテ、刑部丞ヲ追上〔おひのぼ〕スル。仍〔よつて〕、此趣ヲ院ニ愁申〔うれへまうし〕ケレバ、叡慮不安〔やすからず〕カラ思食テ、医王〔ゐわう〕左衛門能茂〔よしもち〕ヲ召テ、「又、長江庄ニ罷下〔まかりくだり〕テ、地頭追出〔おひいだ〕シテ取ラセヨ」ト被仰下〔おほせくだされ〕ケレバ、能茂馳下〔はせくだり〕テ追出ケレドモ、更ニ用ヒズ。能茂帰洛シテ、此由〔このよし〕院奏シケレバ、仰下〔おほせくだ〕サレケルハ、「末々ノ者ダニモ如此〔かくのごとく〕云。増シテ義時ガ院宣ヲ軽忽〔きやうこつ〕スルハ、尤〔もつとも〕理〔ことわり〕也」トテ、義時ガ詞〔ことば〕ヲモ聞召〔きこしめし〕テ、重テ院宣ヲ被下〔くだされ〕ケリ。「余所〔よそ〕ハ百所モ千所モシラバシレ、摂津国長江庄計〔ばかり〕ヲバ去進〔さりまゐら〕スベシ」トゾ書下サレケル。義時、院宣ヲ開〔ひらき〕テ申サレケルハ、「如何ニ、十善ノ君ハ加様〔かやう〕ノ宣旨ヲバ被下〔くだされ〕候ヤラン。於余所者〔よそにおいては〕、百所モ千所モ被召上〔めしあげられ〕候共〔とも〕、長江庄ハ故右大将ヨリモ義時ガ御恩ヲ蒙〔かうぶる〕始ニ給〔たまひ〕テ候所ナレバ、居乍〔ゐながら〕頸ヲ被召〔めさる〕トモ、努力〔ゆめゆめ〕叶候マジ」トテ、院宣ヲ三度マデコソ背〔そむき〕ケレ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da89ffcbbe0058679847c1d1d1fa23da

分量は16行ですね。
私の立場からは「医王左衛門能茂」が登場する点が極めて興味深いのですが、多くの歴史研究者の関心は長江荘に集中しています。
そして、私も若手研究者が自説の典拠として挙げる小山靖憲氏の「椋橋荘と承久の乱」(『市史研究とよなか』第1号、1991)を読んでみましたが、読後感は何とも奇妙なものでした。
小山論文はタイトル通り椋橋荘をテーマとするもので、長江荘はあくまで付随的な扱いでしたが、史料が豊富に存在する椋橋荘とは対照的に、長江荘については鎌倉時代の史料が文字通り「皆無」で、南北朝期以降の史料に類似地名が出て来るだけですね。
この程度の史料しかないのに、長江荘の地頭が北条義時だったという「学説」が、今や通説になろうとしている現状は本当に驚きです。

歴史研究者は何故に慈光寺本『承久記』を信頼するのか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dbce4ae481988ee4658a379aba137edb
「関係史料が皆無に近い」長江荘は本当に実在したのか?(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/af58023942711f54b112cc074308b3ad
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d28bb5de2a337a74f14bad71e5aa96a3

ま、それはともかく、続きです。(p306以下)

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 院ハ此由〔このよし〕聞食〔きこしめし〕、弥〔いよいよ〕不安カラ〔やすからず〕奇怪也ト思食〔おぼしめし〕ケルモ、御理〔おんことわり〕ナルベシ。公卿僉議〔せんぎ〕アルベシトテ催サレケル人々ハ、近衛殿<基通>、九条殿下<道家>、徳大寺左大臣<公継>、坊門新大納言<忠信>、按察中納言<光親>、佐々木野中納言<有雅>、中御門中納言<宗行>、甲斐宰相中将<範茂>、一条宰相中将<信能>、刑部僧正<長厳>、二位法印<尊─>ナドヲゾ召サレケル。「義時ガ再三院宣ヲ背〔そむく〕コソ、奇怪ニ思食〔おぼしめさ〕ルレ。如何アルベキ。能々〔よくよく〕計申〔はからひまうせ〕」ト仰出〔おほせいだ〕サル。近衛殿申サセ給ケルハ、「昔、利仁将軍ハ廿五ニテ東国ニ下〔くだり〕、鬼搦〔から〕メテ、我ニ勝サル将軍有マジトテ、大唐責〔せめ〕ント申ケルニ、調伏セラレ、大元明王〔だいげんみやうわう〕ニ蹴ラレマヒラセテ、将軍塚ヘ入ニケリ。其後〔そののち〕、都ノ武士未聞ヘ〔いまだきこえず〕。只能〔ただよく〕義時ヲスカサセ玉ヘ」トゾ申サレケル。
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分量は9行です。
この後、近衛基通の消極意見に対し、卿二位が簾中から強硬意見を述べるという展開となりますが、それは次の投稿で紹介します。
なお、この公卿僉議と卿二位のエピソードは慈光寺本にだけ存在します。

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