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歴史研究者は何故に慈光寺本『承久記』を信頼するのか?

2022-12-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

大河ドラマは後鳥羽院が「院宣」を有力御家人八人に送ったとするなど、完全に慈光寺本『承久記』に依拠したストーリーとなっていましたね。
ま、慈光寺本は義時を極悪非道の野心家に造型したり、山田重忠を大戦略家としたり、武田信光を「鎌倉勝たば鎌倉に付きなんず。京方勝たば京方に付きなんず。弓箭取る身の習ぞかし」などと言う日和見の卑怯者とするなど、劇画的な面白さに満ちていますから、脚本家が目いっぱい活用したくなるのは理解できます。
しかし、多くの歴史研究者が、最も古態を伝えるのは慈光寺本だと信じて、やたらと慈光寺本を持ち上げるのはいったい何故なのか。
例えば、後鳥羽院の愛妾・亀菊の所領である長江荘の地頭が北条義時だったと書いているのも慈光寺本『承久記』だけですが、大河ドラマの時代考証をされた長村祥知氏は、『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』(吉川弘文館、2022)において、

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 いま一つの問題は、後鳥羽院領摂津国長江庄・倉橋(椋橋)庄の地頭職である。『吾妻鏡』承久元年三月九日条・承久三年五月十九日条には、後鳥羽が、寵女亀菊の申状を受けて、使者藤原忠綱を関東に遣わし、両庄の地頭職の停止を要求したが、北条義時が拒絶したとある。流布本『承久記』上にも、両庄の地頭が領家亀菊をないがしろにしたので、泣きつかれた後鳥羽が鎌倉に地頭改易を仰せ下したとある。ただし慈光寺本『承久記』上によれば、亀菊が所職を有した長江庄は院領で、長江庄の地頭は北条義時であったらしい。『吾妻鏡』や流布本『承久記』は、義時が執権として鎌倉御家人の権益を保護したように描くが、むしろ義時自身が地頭職を有する所領にかんして、後鳥羽からの要求を拒絶したのが真相のようである。
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とされています。(p108)
呉座勇一氏も『頼朝と義時 武家政権の誕生』(講談社現代新書、2021)において「忠綱は摂津国長江荘・倉橋荘(現在の大阪府豊中市)の地頭を解任するように要求した。両荘は、後鳥羽が寵愛する伊賀局亀菊の荘園であり、地頭は義時だった」と断定されています。(p281)
また、山本みなみ氏も『史伝北条義時 武家政権を確立した権力者の実像』(小学館、2021)において、「側近の藤原忠綱を鎌倉に遣わし、実朝の死を弔うと同時に、寵愛する白拍子亀菊の所領で、義時が地頭である摂津国長江荘・倉橋荘(大阪府豊中市)の地頭を改補するように命じてきた」と断定されていますね。(p225)
更に岩田慎平氏も『北条義時 鎌倉殿を補佐した二代目執権』(中公新書、2021)において、「忠綱が義時と面会する際に、義時自身が地頭職を務めている摂津国長江荘(大阪府豊中市)の地頭職停止を通達した(小山靖憲「椋橋荘と承久の乱」)」と断定されていますが(p164)、小山論文で長江荘の地頭が北条義時であることが解明されているのでしょうか。
私は小山論文は未読ですが、少し検索してみたところ、『Web版 図説尼崎の歴史』の「後鳥羽院政と尼崎地域」に、

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 ところで、この承久の乱の発火点となった長江・椋橋荘のうち長江荘の所在地は、残念ながら未詳ですが、椋橋荘は倉橋荘とも書き、現在の大阪府豊中市庄本〔しょうもと〕町付近に比定されています(注2)。この地域は、神崎川と猪名川の合流点に位置するため、早くから交通や交易活動の要衝〔ようしょう〕として発展し、諸権門によって複雑な支配・領有関係が形成されてきた場所でした。この当時も、亀菊の椋橋荘のほかに、摂関家領の椋橋荘や、二位法印尊長(注3)が領家職を持つ頭陀寺領椋橋荘などもありました。
 これらの荘園は、入り組み関係をとって存在したものと考えられますが、その実態はあきらかではありません。

http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/chronicles/visual/02chuusei/chuusei2-1.html

とあり、筆者が田中文英氏なので信頼できる記述と思われますが、長江荘は関係史料がなくて所在地も未詳とのことですから義時が地頭だったことを示す客観的な証拠はありそうもなく、小山説も結局は慈光寺本に依拠しているようですね。
ま、小山論文を見ないことには確実なことはいえませんが、近時の若手研究者の著作を見る限り、長江荘の地頭が北条義時であったことは既に中世史学界の通説を超え、定説となっているようです。
しかし、何故にこれらの人々は慈光寺本を信じるのか。
長村氏は何故に慈光寺本が「真相」を語っていると思われるのか。
慈光寺本は義時を極悪非道の強烈な野心家として造型していますから、そうした義時像に適合的なように長江庄の地頭は義時だ、義時は私利私欲の塊りだ、と話を盛った可能性は十分にあり、むしろその方が自然ではないかと私は考えます。
正直、私には慈光寺本のような面白すぎる軍記物語を妄信するこれらの研究者は、最も古態を伝えるのは私です、という慈光寺本の「オレオレ詐欺」に引っかかっている気の毒な被害者のように見えます。
ま、慈光寺本の作者と成立年代の検討は来年行い、これらの研究者が気の毒な詐欺被害者なのか、それとも私が猜疑心の強すぎる陰険な人間なのかについて、一応の結論を出したいと思います。

※追記。
2020年6月の私は何故に慈光寺本『承久記』を信頼したのか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f7d97621d88d35d73046714ce3e72e5

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